本日私たちは、アンマンの市内を巡検し、そののちITゲーム企業を訪れて創業者にインタビューしてヨルダンの新しい産業発展への息吹に触れることになっている。
現在のアンマンは、東部と西部の二つの地区に分けることができる。東部には丘に囲まれた盆地のような地域に旧市街が広がっており、いくつかの丘の斜面には白や茶色の古い住宅が密集して並んでいる。一方、西部には新市街が広がり、高級ホテルやショッピング施設などがこのエリアに多くある。都市の拡大に伴い、アンマン北西部には上流階級の住宅街が発達し、多くの多国籍企業もこの北西部に拠点を置いている。私たちのホテルは新市街の東側に立地する。
朝8時半、私たちは、ヨルダンでのガイドであるジャマールJamal氏とともに専用車に乗り込み、まず最初の目的地であるアブダラー1世国王モスクThe Mosque of the Martyr King Abdullah bin Al-Husseinを訪れることにした。
コラム:ヨルダンとアンマンの歴史と情報 |
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○歴史 |
新市街で、道の両端の建物を観察すると、比較的新しいものが多く、ガラス張りのモダンなデザインのオフィス、バーガーキングなどのファストフード店や、現代風のデザインの家具店なども見られた。また高層ビルが多く、なかには建築中のビルもあり、新市街は発展を続けている様子であった。だが一方、建設途中で放棄された建物もあった。建設用のクレーンや足場も撤去されている。資金が底をつき、建設途中で放棄されてしまったのであろう。
専用車は20分ほど走り、目的地の国立モスクに到着した。モスクは、新市街と旧市街の境の、車通りも多くかなり目立つ位置にある。モスクのすぐ近くには国会があった。横長い白い建物で、正面には噴水があり、周囲には木々が生えていた。周囲は高い鉄の柵で囲まれており、建物の側にはヨルダンの国旗が掲げられていた。国立モスクと国会が並んで立地していることは、ヨルダンの政治におけるイスラームの重要性を示している。
この国立モスクはヨルダンの創設者であるアブドゥラー1世の功績を記念してアブドゥラー2世が建設したものである(モスクのパンフレットの説明)。私たちはモスクの前で車を降り、モスクの見学をすることにした。
私たちはまず、土産物店で入場券を買った。この店は、モスクへの入り口にもなっており、この店の奥にモスクへと続く階段がある。店では観光客向けにキーホルダーやアクセサリー、絵ハガキなどが売られていた。私たちはここで2ディナールの入場券とともにアンマンの地図を購入した。モスクへと向かう通路には、イスラーム博物館も併設されていた。
モスクは白の巨大なミナレットと、水色の大きなドームによって構成されている。階段や床、壁には真っ白の大理石が使われていた。アンマンはギリシア・ローマ時代から現在まで大理石を使う建物が多くあることから、「白い街」と呼ばれることもあるという。このモスクの白く巨大なミナレットも大理石が使われているらしい。また、いくつかの場所には水色や青の細かいタイルや石で作られたモザイクの装飾が施されている壁もあった。ヨルダンがビザンツ帝国の支配下にあったことから、モザイク装飾が有名であり、実際ヨルダンの巡検中、多くの土産店でモザイク装飾の土産を売っている光景を目にした。
私たちは、礼拝室の入り口で靴を脱ぎ、室内へと進んだ。ガイド氏によると、イスラーム教では礼拝室へ入る際は右足から、出る際は左足からと決まっているらしい。入口の扉にはオーク材が使われているそうで、アラベスク風の装飾がされていた。また、同様の木の板が壁に数多く敷き詰められていたが、これらもオーク材が使われているという。
礼拝室はかなり広く、多くのムスリムが礼拝できる空間であった。パンフレットによると、この礼拝室は3000人の礼拝者を収容できるとのことである。天井には水色と金の縦縞のような装飾があって、電灯がつるされ、床には赤色のカーペットが敷かれていた。奥へと進むと壁の一部がくぼんでいるアーチ型の空間がミフラーブとよばれるもので、メッカの方向を指し示している。すべてのモスクにミフラーブはあり、礼拝者はこの方向に向かって礼拝をする。近くには小さな敷物と小さなマイクが床に置かれており、礼拝の指導者であるイマームが礼拝時に使う。近くにあった木製の説教台も同様である。
私たちは女性用の礼拝室も外から見ることができた。前の礼拝堂とほとんど同じ構造であったが、女性用のほうが装飾も少なめで、部屋が小さい。ここは500人の礼拝者を収容できるそうである(モスクのパンフレット)。
モスクは周囲を塀で囲まれているが、礼拝堂の外の庭から、通りを挟んでキリスト教コプト派教会がはっきりと見えた。異なる宗教の教会がモスクのすぐそばにあることはかなり興味深い。私たちは、モスクを出て、キリスト教コプト派教会を見学することにした。
コラム:コプト派(コプト教) |
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原始キリスト教の一派であり、ヨルダンやエチオピアに信者がいる。ローマ帝国の時代、4世紀にキリスト教が公認される以前には、キリスト教徒はローマ人などに弾圧されており、教徒は隠れて信仰するほかなかった。その結果、原始キリスト教は周辺国に伝わり、このヨルダンにも伝播した。4世紀以降キリスト教は勢力を強めた。 ヨルダン政府観光局のHP によると、現在でもヨルダン国民の約6%はキリスト教徒であり、キリスト教徒の大多数がギリシア正教の信者である。カトリック教徒、プロテスタント教徒、シリア正教徒、アルメニア正教徒もいるという。ガイド氏の話ではマダバというヨルダン南部の都市にキリスト教徒が多く住んでいるという。 |
教会は大きな1本の塔と、ドームと円形アーチで装飾がなされた教会堂で主に構成され、いずれも白のシンプルな色で統一されていた。塔とドームの頂点、建物の壁には大きな十字架が飾られており、キリスト教の施設であることを外部にもはっきりと示していた。
建物に入ると、入口から礼拝堂へのドアとの間の空間にたくさんの宗教画が飾られていた。ドアにはステンドグラスがはめ込まれ、いくつかの絵の下にはアラビア語があった。
礼拝堂は、十字架の形の部屋で、正面にはイコノスタシスと呼ばれるイコンで覆われた壁があり、木製の壁に「最後の晩餐」の絵と、その左右に一列に使徒たちの12枚の肖像画が掲げられていた。この壁の向こう側へは戸が締められ行くことができなかったが、仕切りの上からは、キリストと十字架が掲げられていることは確認できた。ガイド氏の説明によると、壁の奥へ入れるのは教会の高い地位の人のみであり、一般の人は入れないという。このあたりの構造は、正教の教会堂とよく似ている。肖像画のある壁に正対して長椅子が3つの通路を挟んで4列に並べられていた。椅子があるところは正教と異なっている。この様式はバシリカ式であるらしく、ビザンツ時代の影響を感じることができた。
私たちは教会を後にして、次の目的地であるアンマン・シタデルへ向かった。
キングフセイン通りの下り坂の道を東へ進むと、旧市街へ入った。道の両側は丘になっており、斜面には密集した住宅街が広がっている。住宅はどれも白やクリーム色で四角い形をしており、多くの家に同じような四角い窓があった。道路沿いには、住宅だけでなく銀行や自動車部品を扱う店などの店が並んでいたが、シャッターが下りている店が多かった。途中には大きな駐車場があり、乗用車やバスがいくつか止まっていた。ガイド氏によると、ここには昔大きなバスターミナルがあり、ここから国内各地へ向かうバスが出ていたそうであるが、現在は各バス会社がそれぞれのバスセンターを持っており、ここは使われていない。またそのバスセンターは特にこのキングフセイン通りには多いとガイド氏は説明した。
専用車はキングフセイン通りからはずれ、上り坂を経てアンマン・シタデルへと到着した。
○アンマン・シタデル
このアンマン・シタデルはジャバル・エル・カラJabal Al-Qala'aと呼ばれる丘の上にあり高台になっている。私たちは入場チケットを買い、中へ入った。ここはアンマンでも有名な観光地でもあるためか、平日の朝であるにもかかわらず多くの人が訪れていた。入り口のすぐそばにはアラビア語と英語で併記された場内の地図が掲示されており、周囲には土産物店もあった。国内外の観光客へそれなりに配慮していることが見受けられた。
ゲートを入ると、私たちはアンマン市街の壮大な景色を楽しむことができた。眼下の丘のふもとには旧市街が広がっており、この後訪れるローマ劇場などの遺跡がある。向いの丘の斜面いっぱいには住宅が密集している。この場所は旧市街やその周辺を360°見渡せる高台に位置することから、アンマンを治めた多くの支配者にとって軍事的・政治的に重要な土地であった。そのため、ここには様々な時代の遺跡が集積している。西側に行くと、アンマンの西側にある新市街が展望でき、高層ビルも見える。北西にはヨルダンの巨大な旗が見られた。ガイド氏によるとこの旗の高さは126mあり、世界でも有数の大きな国旗らしい。
入り口から遺跡群のあるエリアへの通路のはじめには、”Rabbath-Amman”、”Philadelphia”、”Amman”と書いてある石碑があり、それらはアンマンの歴代の名前であり、その名前が使われていた時代とその王朝名がそれぞれの文字の隣に小さく併記されていた。入り口から見て表面は英語で書かれ、裏面はアラビア語であった。
まず、私たちはギリシア時代以前の遺跡を見学した。入り口から少し離れた遺跡群の中央には、洞窟のような家が見られた。階段が下に伸びており、その先には地下に部屋が設けられていた。中はかなり暗く、入口は鉄の柵で閉鎖されていた。遺跡の前の説明書きによると、これは紀元前2250年前の青銅器時代のものであるらしい。
次に私たちは、ローマ時代の遺跡群を視察した。まず、遺跡群の南側にヘラクレス神殿がある。ほとんどは壊れている。しかし2本の大きな石作りの柱が正面に立ち、その柱の上部に水平に石柱が乗っていた。周囲には破損して落下してきたと思われる石柱が散乱し、2本の柱の奥にはそれより短い別の2本の柱が建っていた。遺跡の前にある説明には、2世紀のローマ時代のものと記してある。ガイド氏によると、この柱は大理石が使われ、コリント様式であるという。柱の上部には、たしかに華麗な装飾が見受けられた。この神殿の中には、上流階級である王や聖職者のみが入ることが許されたという。入口は西側に位置していた。ガイド氏は、多くの場合、入口が西側にあるのが神殿、東側にあるのは教会であると説明してくれた。入口近くには、ヘラクレスの像があって、手と膝だけが残り、大部分は壊れてなくなっている。神殿の入口の側にヘラクレスの巨像があったと考えられている。ヘラクレス神殿はこのシタデルで最も有名な遺跡の一つで、多くの観光客が見物していた。中には日本人とみられる人もいた。シタデルだけでなく、この後の巡検の途中でも時折日本人観光客を見かけた。ヨルダンは、比較的日本人にポピュラーな観光地のようである。
次に私たちは、ビザンツ時代の遺跡を見学した。ヘラクレス神殿の北側に、ビザンツ教会の遺跡がある。説明によると、これは6世紀のものだという。ここも大部分は壊れてしまっていたが、遺跡の両端には4、5本の柱がまだ残り、教会の奥のドームのある部分には人の背くらいの高さの半円の壁が残っていた。ガイド氏によると、この半円の壁のエリアは階級の高い聖職者のための空間であるらしい。この半円の壁は教会の東側に位置し、入口は西側に位置していた。両端に並ぶ柱はバシリカ式であった。教会の入口のすぐそばには、棺と墓の遺跡があった。棺は側面に装飾がなされ、墓には十字架のようなものが描かれていた。周囲の白い大理石でできた遺跡とは違い、暗い灰色で、玄武岩でできているとのことである。
○考古学博物館
シタデルの中央には考古学博物館がある。外観は周囲の遺跡の色に合わせたベージュで、アンマンの多くの住宅のように、四角い形で窓も四角であった。この博物館に追加の入場料は必要なかった。
受付の後ろに大きなヨルダンとその周辺地域の地図があり、これらには各地の名前とともに古代の有名な遺跡や建物のイラストが描かれていた。またイスラエルとヨルダンの間には国境らしきものも書かれていなかった。地図の上部には現国王のアブドゥラー2世と、前国王であったフセイン(Hussein)国王の肖像画が掲げられていた。
展示品の多くは各時代の土器や陶器、グラスで、ヨルダン国内で収集されたものが大半のようであった。入口付近にはヘレニズム時代、ローマ時代、ビザンツ時代、入口から離れた部屋の奥には石器時代や青銅器時代などの展示があった。展示品は土器が多く、他に鉄製・銅製の食器やコップや大きな石もいくつか置かれていた。さらに奥の部屋の一角ではペトラ遺跡に関する展示がされていた。ペトラ遺跡に関しては、多くの展示品があり、充実していたが、奥に位置するためか、訪問者は私たちのほかいなかった。
ヘレニズム時代の展示では、華麗な装飾がなされた陶器が多く置かれていた。またローマ時代の展示では色鮮やかなガラスの器や水差しとならんでコインのコレクションも多く、ローマ時代にこの地は既に貨幣経済に取り込まれていたことがわかる。
ビザンツ時代の展示でも同様にコインやグラス、器などが多数展示されていた。特にヘレニズム・ローマ・ビザンツの時代は、展示品の数も多く、ヨルダンが受けたギリシアやローマの影響を如実に示していた。これには、見る客も多かった。一方、イスラーム時代は王朝別ではなく、一つにまとめられ、展示棚の数も少なかった。
博物館の客はヨルダン人やアラブ人が主で、ヨーロッパや日本からと見られる客も見受けられたがそれほど多くはなかった。
○イスラーム時代の遺跡
博物館を出た私たちは、今度はイスラーム時代の遺跡を見学することにした。まず、初めに博物館のすぐ近くにある、8世紀のウマイヤ朝モスクを視察した。モスクは柱の根元と建物の基礎しか残っておらず、当時の外観を知ることはできない。しかし、入口であった場所にはゲートのような形のものが残り、また入り口と正反対の壁には凹面状のへこんだ空間がある。これは、メッカの方向を示すミフラーブらしい。
私たちは、さらに西側に進んだ。このエリアにはウマイヤ朝の政府施設や役人の住居の遺跡があり、多くの建物の基礎や壁が現存していた。石積みで作られた簡素な雨水をためるタンク様のものもあった。遺跡の説明書きでは、この貯水槽の直径は17.5mである。この丘では地下水を得ることはできなかった。そこで雨水をためるタンクを作り、水路を設置して水を利用していたという。ガイド氏によると、水路の中には、ローマ時代に作られた水路を改良したものもあるという。このように、支配者が次々変わるとき、前時代に作られたものを破壊して作り直すのではなく、受け継いで活用し、改善して使うこともあったようである。
少し歩くと、水色のドームを持つ建物があった。これはウマイヤ朝の王に訪問者が謁見するホールであり、モスクと同じく8世紀の物である。外壁の上半分にはアーチを用いた装飾が多くなされ、外壁の上端にはギザギザのサーティーフとよばれる装飾がなされていた。ホールの天井を覆うドームは、後から付け加えられたものであるらしい。建物の内側から確認するとドームは木製であった。内部は正方形のホールと4辺にそれぞれアーチ型の外部に突き出した4つの空間があった。ホールに屋根がなければ半戸外になっていたこの空間は、イーワーンとよばれるものである。
ホールの入口から真正面にある出口を抜けると、王宮と役人の住宅の遺跡があった。ここもほとんど建物の基礎部分しか残っていない。しかし少し離れた場所にはハマムとよばれる浴場の壁やその上のアーチ、浴場内のイスや水路が現存していた。ガイド氏によるとこのハマムはウマイヤ朝期のものであるが、アイデア自体はローマの影響を受けたものらしい。現在でもハマムは、ヨルダン南部の都市アカバなどにある。遺跡の説明書きによると、ハマムはここに住んでいた役人やその家族にとって社交の場であったという。
このようにアンマンのシタデルは、何世紀にも渡り統治の中心であり続けた。その統治者は様々で、イスラーム王朝に限られない。ギリシアやローマ、ビザンツなどの時代には、ヨーロッパの植民地となり、アンマンはその影響も強く受けた都市であることがわかった。
私たちは、シタデルを後にして、次の目的地であるヘジャス鉄道アンマン駅へ向かった。
専用車は旧市街から北西の郊外へ伸びているキング・アブドゥラー1世King Abdullah 1通りを都市中心から離れるように数分走り、丘のふもとの目的地に到着した。この駅はシタデルから東に約2kmの位置にあり、キング・アブドゥラー1世通りに面している。丘の上にはアンマン・マルカ空港Amman Civil Airportという小さな空港がある。空港の前には、飛行機の模型がモニュメントとして飾られていた。
コラム:ヘジャス鉄道 |
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へジャス鉄道アンマン駅は、現在は国立の博物館となっている。しかし観光地としては有名でなく、私たちのガイドすらこの存在を知らなかった。看板には、「へジャスヨルダン鉄道」「アンマン駅」とアラビア語・英語で書かれている。古さを感じさせるベージュ色の石造りのゲートを通過し、私たちは中へ入った。
場内にはヘジャス鉄道の博物館と、当時の蒸気機関車などのための車庫、そしていくつかの線路があり、線路には当時の客車が展示されていた。私たちはまず、かつてのアンマン駅舎を改装した、ヘジャス鉄道博物館へ向かった。
オスマン時代の駅舎は三角形の屋根が特徴的で、ベージュ色の石で建てられている。壁にはヨルダンの歴代の4人の国王の写真が国旗とともに飾られていた。博物館内は全体的に薄暗く、展示物も埃をかぶってしまっている状態で、管理が行き届いていなかった。
博物館の一階の中央には、鉄道模型を展示した大きな台があり、それを囲うように当時鉄道運行に使われていた器具が展示されていた。信号機の灯りには当時、時にろうそくが使われたらしい。列車に合図を送るときに使う緑と赤の旗、当時駅間の通信に使われていた電話交換機も展示されていた。いずれも、当時としては標準的な鉄道技術である。
壁には、当時の列車の走る風景の写真が多く貼ってあり、当時の工事の様子も示されていた。現代のように重機を用いず、たくさんの労働者を使っている。賃金が安いこともあったのだろう。写真の下では、工事に用いられた部品のようなものが展示されていた。
車両関連の展示では、列車の車両の銘板があり、「ベルギー」の名が見いだせた。ヨーロッパの車両が使われていたことがわかった。机にはヘジャス鉄道の駅員の制帽が置かれてあり、実際に着用して写真撮影もすることができた。
2階にあがるとヨルダン国内のヘジャス鉄道の駅と路線図が描かれた地図が壁に掲げてある。その横には蒸気機関車をモチーフとしたアートが展示してあった。また、ここにも壁には歴代国王の写真が飾ってあり、そのうちの一つは前国王であるタラール国王の肖像のモザイク画であった。
入口付近には、訪問者の記帳台があり、見ると日本人の名前をいくつか確認できた。この博物館を訪れる日本人もいくらかいるようである。
私たちは、博物館を出て、駅の線路に留置されている客車を見学した。客車は木製であり、外壁に”Jordan Hejaz Railways”とかかれたプレートが残っていた。この車両は、実際に中に入ったり、客席に座ったりすることもできた。中はコンパートメントになっており、客室には赤を基調としている席もあった。狭軌のため、客室はイランで乗車したものより相当に狭い。ガイド氏によると、この展示してある客車は、トランス=ヨルダンの王となったアブドゥラー1世が、1921年2月、アンマンへ移動する際に利用したものだという。
次に私たちは、場内にある車庫を見学した。ここには機関車や工事車輌が置かれ、整備士の方々が作業をしていた。ここにあった蒸気機関車には、日本車輌製造と表記されたプレートがつけられていた。ヨルダン独立直後、軌間が似ている日本から、かなりの数の蒸気機関車が輸入されたようである。整備士の方たちは「日本の製品に満足している」とおっしゃっていた。他にもアメリカ製やイギリス製の蒸気機関車やディーゼル機関車、工事列車もあった。私たちは、運転席を見学させていただいた。整備士の方たちは、これらの蒸気機関車や工事列車は今も使うことができると説明された。実際にディーゼル機関車は動いていた。観光用や通勤用に、短区間の臨時列車等が運行されることがあるらしい。
視察を終え、私たちは、アンマン駅をあとにした。ガイド氏によると、この駅の近くには、オスマン帝国が建設した学校もあるらしい。この鉄道が、オスマン帝国の影響力をアンマンに持ち込む拠点だったことがわかる。
私たちは、先ほどのキング・アブドゥラー1世通りを戻り、アンマンをローマが支配したことを示す遺跡である、旧市街のローマ劇場を見学することにした。
ローマ劇場は、先ほどのキング・アブドゥラー1世通りと直結し、中心商業地区の入口になっているハーシム(Al Hashem)通りの通り沿いにある。ハーシム通りは2つの丘の間を縫うように走り、朝に訪れたシタデルは北側の丘の上、対して南側の丘の斜面にローマ劇場が広がっていた。西にスークが控えているためか、かなり人通りが多い。周囲には、この遺跡を訪れる観光客向けの土産物を扱った露店もいくつか出ていた。
ローマ劇場の前には広場があり、南側のローマ劇場との間に同時期に建設されたと思われる柱が並んでいる。柱の上には植物の装飾があり、コリント様式と見受けられた。この広場の最も東側には、オデオンと呼ばれる小型の円形劇場がある。私たちは、まずローマ劇場から見学することにした。入場料は1JDであった。先述のヨルダン政府のHPによると、この劇場は2世紀にローマ皇帝アントニウス・ピウスによって建設されたという。当時は、このステージの両端にローマ神話の知恵の神であるミネルヴァの像があったらしい。
劇場内部は約十数段の階段席が3ブロックあり、計50段ほどの席が設けられている。席は北側のステージに向かっており、ガイド氏によると、これによって観客に太陽の光が鑑賞の邪魔にならないように配慮しているらしい。また席の前には、1〜2mほどの高さのステージと、その前に半円上のホールが設けられていた。演劇や演奏はこのステージを使って行われたようだ。かなりの傾斜の階段席はこのステージを囲むように180°設けてある。階段には補修されているところとされていないところがあり、端の方は、補修が行われており歩きやすかった。筆者は一番下の席から最上部の席まで階段を登り見学したが、どの高さからもしっかりとステージを見ることができた。ステージの横に2つの出入口、各ブロックに出入口が設けてあった。ガイド氏によると、この劇場は、どの席でも演劇・演奏を楽しめるように、ステージからの人の声や楽器の音が反響する構造になっているという。ステージの中央に印があり、そこから発声するとエコーが効くようになっていた。私たちも試みに発声し、確かにエコーが効いていることが確認できた。巧みな設計である。
ステージの東側の出入り口横にはヨルダン民衆伝統博物館(Jordan Museum of Popular Traditions)が併設されていた。それほど大きな博物館ではなく、ここには主にヨルダンの伝統的な衣装や装飾品が展示されている。入口付近には、アバヤの黒いベールや、明るいベールやドレスを身にまとったマネキンが飾られていた。また、奥の部屋には銀製のネックレスなどの装飾品が並んでいた。入り口の横には遺跡をそのまま博物館に使っている部屋があり、人物の肖像画から動物・植物までさまざまな題材のモザイク画が置かれていた。ガイド氏によると、これらは主に6世紀のビザンツ時代のものであるらしい。
私たちは、オデオンの見学へと移った。オデオンは小型の半円の劇場で、約10段の階段席が設けてあり、ホールもかなり小さい。約2000年前に建てられ、もともとギリシア時代の建造物であったが、その後ローマ時代に改修が行われ、現在の形になったという。一部は新しい石が使われている部分があったことから、当時のものそのままというわけではなく、相当の補修工事が行われた様子で、ローマ劇場よりもさらに新しい印象があった。
以上で歴史を一通り視察した私たちは、次に中心商業地区の視察へ向かうことにした。
私たちはハーシム通りを西へ進んだ。この通りとその周辺はスークであり、車通りも人通りも多い。ローマ劇場のすぐ隣から道の両端に日用品・生活雑貨を扱った露店や店が多く並んでいる。この道のさらに200メートルほど先にモスクがある。スークには安い衣類を扱う小さな店がいくつか並んでおり、小さな家電などを扱う店もあった。
私たちは、キング・ファイサル通りKing Faisal Street(キング・ファイサル・スクエアとも呼ばれる)へと入った。ここは中心商業地区の核で、人通りが多く、車はかなり渋滞していた。周辺には、商店以外にも、ゲストハウスやレストランなどサービス業も集積している。
そのなかに、2004年10月にイラクで殺害された日本人青年が最後に宿泊したとされるクリフホステル(Cliff Hostel)があった。朝日新聞電子版によると(「香田さんの最後の目撃情報は23日午前11時45分」2004年10月29日付 )、この男性は、殺害の一週間ほど前にここに滞在し、ホテルの人が止めるのを振り切ってイラクへ出発したという。
キング・ファイサル通りの北側は「ゴールドマーケット」と呼ばれるスークになっており、道沿いには金製の装飾品や銀製の食器など多くの高級品を扱う店が集積していた。通り沿いではなくすこし奥まった位置には金の装飾品を扱う小さな店や商人が所狭しと並んでいる。この通りでは、黒いベールを深くかぶった女性を多く見かけた。
また、この通りにはウエスタン・ユニオンが何軒か見受けられた。ウエスタン・ユニオンは海外送金を扱う会社であり、これがあることは、難民や移民などによる海外とのお金のやり取りの需要が比較的高いことを示している。加えて、この通りにはいくつか銀行もあった。
キング・ファイサル通りの南側は生活用品が並ぶスークになっていた。多くはハーシム通りと同じように衣類やバックを扱う店であった。時折、スパイスの店や電化製品店や水タバコの道具を売る店などの日用品店も見受けられた。露店もいくつか出ており、古本やビデオ・DVDを売っていた。道から少し奥にはレストランが何軒もあり、歴史のあるアラビア料理店が多く、高級なお店から安い大衆食堂まで、さまざまであった。
旧市街の視察を終えた私たちは、その一つ、ハーシムレストラン(Hashem Restaurant)で昼食をとることにした。店は現地の方で賑わっていた。壁には、アブドゥラー2世やその家族が来店した写真が貼ってある。出すのは軽食だが、有名な店である。私たちは豆のペーストであるフムスと野菜のサンドイッチを頂いた。1JD(約150円)と安く、おいしかった。
昼食を終えた私たちは、専用車に乗り、新市街を視察しつつ次の目的地であるゲーム産業施設へ向かった。専用車は、旧市街と新市街を結ぶアラールArar通りを西に進んだ。数分で新市街へと入った。通り沿いに、イスティシャーリ病院(Istishari Hospital)という巨大な病院があった。これは私立病院である。ガイド氏は、一般に私立の病院は公立病院に比べて質もサービスもよいが、その分治療費は高いと言った。日本ではまだ、国民皆保険制度で公立でも私立でも差別なく診療を受けられるが、ネオリベラリズムのもと、外国では、所得の高低によって、受けられる医療の質そのものが違うようになっている。このような病院があるということは、周辺の新市街の住民もまた所得の高い人々が住んでいるのであろう。
さらに西へ進むと、専用車はマッカー・アル・ムカラマー(Mukkah al Mukarramah)通りへ入った。この通りには、国の行政機関の一部が置かれている。また、ヨルダン投資銀行(Jordan Investment Bank)などの銀行や、高級レストラン、三菱自動車やフォードといった外国車のショールーム、サムスン社の電化製品店やショッピングモールなどもこの通り沿いにあった。規模の大きい店や新しい建物が多く、古い個人経営の店や露店が並んでいた旧市街の雰囲気とは全く異なっている。
この通りを抜け、専用車はアンマン市街の最西端、ダブーク(Dabouq)地区へと入った。ここは、「ヨルダンのハリウッド」とも呼べる地域であるらしい。キングフセイン公園(King Hussein Park)という広大な公園があり、その近くには、私立の小児病院があった。
さらに北へ進むと、大きな敷地と建物を持つ高級住宅が多く並ぶ地区に出た。ガイド氏は、この住宅街には、石油会社や私企業の社長などの高所得を持つ人々が多く住むという。多くの住宅は欧米風の大きな住宅やマンションであったが、中には、中国の建築様式を模した豪邸や、古代ギリシアの建築様式を取り入れた豪邸などさまざまな個性的な住宅があった。住宅街の近くにはモスクもあり、高所得地域に建つだけあって、外観はとてもきれいで新しい。
住宅街の北には、国王の宮殿が見えた。外装の工事をしてはいたが、白を基調とした美しい外観は確認することができた。しかし、ガイド氏から写真は撮らないようにという注意があった。ヨルダンでは、王宮の写真撮影は厳しく管理されているようだ。テヘランの旧王宮の近くも高級住宅地区だった。王宮の近くには高級な住宅が集まる傾向があるといえる。
私たちは、新市街の視察を終えて、ゲーム産業の会社のあるキング・フサイン工業地区(King Hussain Industrial Park)へ向かった。
キング・フサイン工業団地は、キング・アブドゥラー2世通りKing Abdullah Uと、先ほど専用車の通ったマッカー・アル・ムカラマー通りの交わる場所にあり、広大な敷地を持っていた。高級住宅街のダブーク地区から車で数分の距離にある。工業団地全体を高い塀が囲っており、建物も塀も同じ砂漠のようなベージュ色で統一されていた。専用車が入り口のあるゲートまで進むと、警備員によって止められ、セキュリティチェックが行われた。私たちの運転手は、必要な資料を係員に手渡し、警備員に用件の説明をさせられている様子であった。無事、入構を許可され、「eヴィレッジ」と呼ばれる工業団地内へと進むことができた。
施設内には、Samsung, LG, Microsoft, EricssonなどIT関連企業のオフィスが多くあり、モスクの標識も見られた。建物のデザインはどれも統一されており、全て新しい。道路脇には芝生や植物も植えられ、とても気持ちの良い空間が整えられていた。私たちは、Gaming Labという会社の前で車を降りた。同じ建物の中には、違う階にMuscoという会社があり、同じ階には、App Challenge, Maysalward, Game 2 Playという会社もある。
建物の内部はとても新しく、白を基調として、会社のロゴにも使われている7色の装飾が施されていた。ゲーム機のボタンを連想させる×や○などの記号の装飾が多く用いられ、明るい雰囲気を醸し出している。また社員の服装もスーツではなく、ポロシャツとジーンズの様なカジュアルな格好で、自由な雰囲気が感じられた。
マイザルワードMaysalwardのムハンマドMuhammad氏、ノアNour氏と、ゲーミング・ラボGamingLabのナスNath氏に出迎えていただき、私たちは会議室へと案内された。
○ゲーム産業インタビュー
○ ゲーミング・ラボとは
ムハンマド氏とナス氏が、ゲーミング・ラボとは2010年に国王アブドゥラー2世によって創設された機関である、と言って説明をはじめられた。ゲームの開発を行う学生や大学生、会社の支援を行い、様々な設備やSDK(ソフトウェア開発ツールのセット Software Development Kit)、技術やビジネスの知識を提供している。利用は無料で、資金は全て国王の私費によってまかなわれている。つまり、ゲーミング・ラボは営利団体ではなく、新作アプリ試作品などの設備も全て無料で使える、いわば、ゲーム産業育成のインキュベーターである。ゲーミング・ラボ・プロジェクトの責任者であるナス氏は、この会社の目的が、国のゲーム産業を支えることにあるとおっしゃった。国王はそもそも大のゲーム好きで、加えてヨルダン国内に知識を持った学生たちがたくさんいるにも拘らず、彼らがそれをどう活用するか、どうキャリアをスタートすればいいか、どう生産性を上げるのかなどを正確に理解していない。そこで人材活用を図るためゲーミング・ラボの設立へ至った、とナス氏は説明された。
マイザルワードのノア氏は、ゲーム好きの国王はゲーム産業の育成にも関心があり、App Challengeという14歳~16歳の学生を対象にしたゲーム開発のコンペの決勝ステージには国王自らが出席し、優勝者には賞金とギフトが贈呈される、とおっしゃった。
ナス氏によると、現在は、このアンマンの施設の他にも、ヨルダン北部でシリアとの国境にも近いイルビッド(Irbid)という都市にゲーミング・ラボの施設があり、アンマンのものに比べてさらに大きく、施設も充実しているらしい。
ナス氏によると、ラボでのトレーニングは、初級・中級・上級の3つのレベルに分かれて行われる。初級は、中高校生や大学1年生などの若者を対象に行われ、開発者としてのキャリアを正確に始めるためにゲームの開発の仕方、論理的な考え方、プログラミングの仕方など、基本を主に訓練する。最近ではプレビギナーレベルも試験的に行われ、12歳〜14歳の子供たちを集め、学校の夏休みなど長期休暇を活用してトレーニングを行っている。彼らはトレーニングの最後には自分たちの小さなゲームを作るなど、成功を収めたという。
中級レベルでは大学のプログラムなどを活用し、大学生たちにゲーム産業市場の情報を詳しく教えたり、ヨルダンのゲーム市場の潜在的可能性について情報を与えたりする。また、技術指導も行い、専門家を招いて各自の問題解決に役立ててもらうこともあるという。
上級レベルでは、すでにこの分野で開発者や出版業を行っていた人たちを対象とし、技術支援や、時には財政面での支援も行うこともあるという。
○ マイザルワードとゲーム産業について
次にムハンマド氏が、マイザルワード社について説明してくださった。同社は、モバイル・オンラインゲームの開発と出版、自社ゲームの他地域への輸出、国際ゲームの中東地域へのローカライズなどを行っている民間企業である。2003年に会社はゲーム産業に先駆的に参入し、以来10年間この分野に携わってきた。2005、06年頃になり、他企業もこの産業に参入したが、他社の多くはゲームを輸入し、ローカライズして中東で販売するのみで、開発などはあまり行わない。同社は独自のゲーム開発に積極的で、約90%は自社開発である。
国際ゲームをローカライズする際は、製造元からライセンスを買い、ライセンス料を支払う場合と、ライセンスを買わない場合がある。いずれも、収益をローカライズする地元企業と製造元の国際ゲーム会社で分配する。事前にライセンス料を支払う場合、地元企業と国際企業の分け前は多くの場合7:3になり、地元企業の方が分け前は多くなる。ライセンス料を支払わない場合、比率は地元企業:国際企業で6:4、5:5のようになることが多い。
ムハンマド氏によれば、ゲーム産業の市場規模は、オンラインゲームのみで中東全体で10億ドル程度である。モバイル向けに関しては、正確にはわからないが、オンラインゲームより多くの顧客・ユーザーがいる。中東で、ユーザーが一番多いのはエジプトで、その次がサウジアラビアである。製造では、ヨルダンが一番であるらしいが、総合的に見ると、中東内での大きなマーケットは、一番がサウジアラビア、二番がクウェート、三番がエジプトであるという。当然、マーケットの大きさはその国の人口の多寡にも依存する。しかし、たとえばイランは人口の多い国であるが言語がペルシア語であるため、この会社のビジネスとしては中東地域に含めることはできない。また、中東地域では、ほとんどの国でアラビア語が話されているが、それぞれの国のアラビア語は少しずつ異なっており、中東地域へ商品を売り出す際には、共通の公式のアラビア語を使う必要がある。
また、ムハンマド氏によれば、言語の他にローカライズの際に気を配らなければならないものとして、文化がある。同じ中東地域にも、宗教をより重視するサウジアラビアのような国もあれば、エジプトやヨルダンのように宗教に対してさほど厳格ではない国もある。マイザルワードでは、現在、多くの場合、国ごとにローカライズを行っている。例えば、サウジアラビアの男性は「トーブ」と呼ばれる白い服を着ることが多いので、キャラクターにもトーブを着せる、といったように服装や建物、食べ物、植物、動物などの違いすべてに気を配る。国ごとではなく、複数の国へローカライズする場合は、それぞれの国の要素をミックスする。例えば、キャラクターの一人はサウジアラビアの服装で、別のキャラクターはエジプトの服装を着ている、といった具合だ。また、全ての国際ゲームがローカライズできるわけではないそうだ。宗教上や道徳上の理由、また法律上の理由でカジノのゲームは中東では受け入れられない。他にも、カードゲームのルールが各国で異なるなど、様々な点に注意を払う必要があるとムハンマド氏はおっしゃった。ゲーム産業に限らず、今日の多くの多国籍企業は、それぞれの産業がもつ地域の状況に応じて対応している。グローバルな一般性とローカルな特殊性のバランスが、ローカライズの際には重要な点になるのである。中東において、国際ゲームの中で人気があるのは、ドイツや中国のものだという。
○ ゲーミング・ラボ、マイザルワード 社内見学
次に私たちは、社内を見学した。まず、トレーニングルームへと通された。白を基調とした部屋の前方にプロジェクターとスクリーンが置かれており、後方には赤い椅子がたくさん並んでいる。ムハンマド氏によると、ここは主にNokiaやUnity, Blackberry, Adobeら大手ゲーム会社が新作ゲームを発表した際に、生徒たちにトレーニングを行うときに使われているという。ゲーミング・ラボは生徒たちに最新テクノロジーを知ってもらうために、全てのコストを負担し、トレーニングは常に無料であるという。
その隣には、小さいトレーニングルームがあった。こちらは、机が円形に並び、スクリーンやホワイトボードが壁に設けられている。この部屋は、開発者のグループ会議などに使われるらしい。開発者たちが、この部屋に集まり、問題点や成果を他の開発者にシェアしたりするという。時にはゲーミング・ラボのスタッフも彼らにアドバイスを行うこともあるという。この2つのトレーニングルームには、ゲーミング・ラボの創設者であるアブドゥラー2世の掲示が多くの場所にあり、この施設創設に資金を出した国王の功績を称えていた。
トレーニングルームを出ると、次に研究室へと案内された。円形の机に10〜12台ほどパソコンが並び、何人かの生徒らがゲームの開発を行っていた。パソコンはMacとWindowsがそろっていた。ナス氏によると、生徒はこれらの中から自分で選ぶことが出来るので、iPhoneなどのiOS向けのゲームを開発したり、Windows向けのものを開発したりと1つのタイプに固執せず開発できるメリットがあるという。この部屋では、日常的にトレーニングが行われ、10〜12人の生徒が一緒に一回のトレーニングに参加できるという。また、休日でもこの研究室へきて自分のゲームの開発をしたり、自習をしたりすることが可能であるらしい。そしてこれらにかかる費用も無料だという。多くの生徒が公立の学校から来ているそうだが、彼らの学校にはこのような設備もなく、家庭にあるPCもSDKなどを備えていないため、ゲーム開発に使うのは難しいので、このラボはそのような人々に開発者として活動するきっかけになっているそうである。先日は、ラボでゲーム開発の知識の全くない13歳の生徒たちを集めて10日間のプロジェクトを行ったそうだが、最終的に各自ゲームを作ることができ、プロジェクトは成功に終わったらしい。このような、開発者としてのキャリアをスタートさせたい若い世代の人を養成する企画も行っているようである。
研究室にいた学生がゲーム開発作業をしているところを見せていただいた。彼は、画面の上の鳥を動くように設定している。ナス氏によると、ゲームのつくり方を習う学生は、最初は、背景やキャラクターは、ラボが共有するフォルダーにあるライセンスフリーの既製の画像を使うことができるという。まずゲームつくりの基礎プログラミングを学習し、その後デザインを学ぶ、というステップを踏むのである。
研究室の壁には、SonyやSamsung, Nokia, Unityなどいくつかの会社のロゴが掲示されていた。ナス氏によると、これらはゲーミング・ラボのパートナーで、彼らはSDKやトレーニングを供給している。そのため、開発者たちは最高の環境で開発に取り組むことができる。Sonyはアカデミーを提供している。壁にも表彰の掲示がされていた。
続いて、ミュートルームという部屋へと案内された。ここはとても小さい部屋で、防音がなされている。主にゲーム用音楽などのレコーディングに使用されているそうである。
私たちは次に、同じ階のオフィスへと案内された。ここは小さな部屋にデスクがいくつか並び、スタッフの方たちが作業をしていた。ノア氏によると、ここはGate2Playというオンラインでの支払いのサービスを提供している会社であり、また中東市場へ参入してきた国際ゲーム企業にアドバイスを行うなどのコンサルタントサービスもしているという。コンサルタントサービスでは、世界中の企業が顧客である。多くは国際的なゲーム出版社であり、彼らにこの地域でのビジネスの知識・文化的な知識の提供をしたり、彼らがテレビ局やラジオ局が必要な場合はその手配をしたりするという。ゲーミング・ラボとは廊下を挟んで別の部屋にはあるが、特に別の機関として隔離されているというわけではなく、自由に行き来できるような環境であった。また、廊下には卓球台もあり、社内の自由な雰囲気が感じられた。
私たちは最後に、マイザルワードのオフィスへと案内された。ここは広い一つの部屋で、壁にはゲームに登場するイラストが描かれていたり、壁が黄緑や黄色などの色になっていたりと、明るい雰囲気である。部屋には作業用のPCが円形のデスクに並んでいるほか、自社製品の広告やポスターが飾られていた。また、部屋の端にはボードサッカーも置かれていた。ノア氏によると、こちらのオフィスでは、ゲーム開発、国際ゲームのローカライズなどのマネージメントが行われているという。
私たちが訪問した際、数人の方がデスクで作業を行っていた。ノア氏は、彼らはマイザルワードのスタッフではなく練習生だと言われた。CSRの一環で、設備を貸し出してトレーニングを行ったり、ビジネスの専門知識を与えたりして次世代の育成を行っているらしい。
私たちは実際にゲームがローカライズされている作業現場を見せていただいた。トルコやオーストリアのゲームをローカライズしていた。ノア氏によると、作業は基本的にゲーム内の文章をアラビア語へ翻訳するのみの場合が多いらしいが、時には中東地域でも受け入れられるよう、ストーリーや設定を一部書き換えることもあるらしい。日本のゲーム会社スクエアー・エニックス(Square Enix)社の製品などもローカライズすることはあるが、基本的に英語版ゲームのみが対象であり、日本語版のローカライズは行っていないという。ノア氏によると、日本のゲーム企業は、多くの場合日本語版のみを製造しており、英語版を作る会社は少ないそうである。一方、中国の会社は英語版も持っているため、こちらでもローカライズが行われている。日本のゲーム産業の内向きな姿勢が感じられた。
○ ヨルダンのゲーム産業の現状と課題
マイザルワードはすでに約10年間ゲーム産業に参加しており、そのためにヨルダンのゲーム産業の現状と課題もよく理解しているが、最大の問題は財務だ、とノア氏はいう。
ヨルダンの人々は、ゲームをただの娯楽と考え、文化としてしっかり根付いていない。このため、ゲームへ投資する投資家はほんの一握りである。そのためゲーム会社は投資を獲得することが難しく、ゲーム会社は経営を維持することが簡単ではない。近年、ヨルダンで2つの大手のゲーム会社が倒産し、投資家の間で不安が広がった。その大手会社はアメリカの大手ゲームメーカーとも契約していたため、衝撃は大きかったそうで、この2年間で22あったゲーム会社は5社まで減ってしまった。投資が得られないため、開発者たちが起業するというケースは全くないそうで、失業した開発者はサウジアラビアやカタール、ドバイへと仕事を求めて逃げてしまう。中にはゲーム産業から身を引き、別の分野で仕事に就く人もいる。ヨルダンのゲーム産業の現状はかなり深刻のようである。
マイザルワードは現在ある5社の中では一番大きく、この産業の先駆的企業でもあるため、ゲーム産業においてリーダーの役割を果たしてきた。ゲーミング・ラボができる以前は、国王の支援を受け、人材育成のためにトレーニングを行うなどの活動を行い、ゲーミング・ラボ設立の基盤づくりに貢献したり、近年は倒産してしまった会社の製品を市場で維持するために、自社の製品として市場への供給を維持したりしている。他の企業はサウジアラビアの企業の下請け的な業務を担うなどしているが、マイザルワードでは行っていない。
エジプトは近年の政変で状況が変わってしまったが、過去には世界と中東のゲーム産業を結ぶハブ的な機能を担っていた。レバノンでは多くの銀行がゲーム産業へも積極的に投資を行っているが、ヨルダンの銀行から投資を受けるのはかなり難しい。ヨルダンには国王の資産で運用されるOasis 500という、2022年までに500の会社を起業させる目標をかかげているファンドがあり、IT分野へも多く投資を行っているが、そのOasis 500でさえゲーム産業には投資をしないという。これまで、中東全域で見てもゲーム産業で成功をおさめたといえる企業はなく、投資を得るのは難しい、とノア氏は嘆いておられた。
国外大手企業の誘致については、ノア氏曰く、ヨルダンにも動きはあるという。数年前に日本の経済産業省と日本企業の公式訪問があり、また2012年11月のSonyからゲストを招いた講演会が多くの来場者を集めるなどした。だが、投資にはまだつながっていないという。
ヨルダンは国王自身がゲーミング・ラボの設立など積極的にゲーム産業へ投資するなど、関心が高いが、国王も政府にゲーム産業への助成・支援を促すことはなく、完全に個人の資金で支援を行っている。これに対し、フィンランドは政府がゲーム産業を重要と位置付けている。ヨルダン政府にもそのような政策がとられることをノア氏は期待していた。だが、多くの人々がゲーム産業を過小評価している現状では、政府が支援を開始するのも難しい。人々の考え方もこの問題の一つであるとノア氏は語っておられた。
私たちは、このヨルダンを訪れる前にオマーンを巡検した。ノア氏によると、そのオマーンは10年以上前に国王がPC向け、コンソールゲーム機(プレイステーションなど)向けのゲーム産業の育成のため、このゲーミング・ラボのような機関を設けた。しかし当時オマーン国内で人材を獲得するのは難しく、失敗に終わってしまったという経緯がある。また、近年ではUAEのアブダビがゲーム産業に力を注いでおり、フランスのゲーム会社Ubisoftもアブダビに拠点を置いている。アブダビは、オマーンよりも財政力があり、政府は多くのゲーム会社へ投資して産業を育てようとしているが、アブダビもまた、人材が少なく、海外から人材を集めている。やはり、ゲーム産業にとって人材育成はとても重要なようである。そのような背景からもヨルダンにおけるゲーミング・ラボの活動は重要である。
○ eヴィレッジ内のリンケージと集積の利益
この建物のある工業団地ができたのは2009年で、それ以前は軍の本部がこの土地にあった。現在も軍からこの敷地を借りているそうである。ここでは税が免除され、IT企業を中心におよそ30の企業が集まっている。他にもテレビ局やラジオ局もあり、国王の投資で3000以上のプレイ・ステーションをつなげて作ったスーパーコンピュータもあるという。
このeヴィレッジ内には企業間リンケージがあり、工業団地内に拠点を持つMicrosoftやSamsung, Unityなどの企業がそれぞれのソフトウェア開発キットであるSDKを提供したり、新作の実験を行ったり、練習生へトレーニングを行ったりと、技術支援や設備提供を行っている。ただ単にIT企業が孤立して拠点を置いているのではなく、アメリカのシリコンバレーのように、同じ場所に立地している企業が互いに結合し、ビジネスや技術開発を行っている。共存し、それぞれが集積の利益を得るような環境になっているのである。これらの企業が連関することが、ヨルダンのゲーム産業の競争力強化につながっている。しかし、ゲーム産業は他の分野に比べまだ小さく、他の分野と肩を並べるには時間がかかる、とノア氏は課題を語ってくれた。
○ マイザルワード社の将来の展望
ノア氏によると、マイザルワードにとって現在最も大きい市場は中南米である。彼らは自社で開発したゲームを海外へ輸出するため、商品をローカライズしている。マイザルワードは2007年にメキシコやブラジルの調査を始め、現地にも実際に赴き、現地の人々のニーズや、ゲームのプレーの仕方、色や音楽の好みまで調査し、2010年にビジネスを開始した。トルコの市場に乗り出した時も同様でのやりかたである。ローカライズとはただ文字を翻訳するのではなく、現地の人々の考え方や文化をしっかり理解することが重要だという。
マイザルワードは日本市場にも関心があり、現在、2人のスタッフが日本語を学習中である。今後、日本の食物や音楽に至るまで文化を深く理解したうえで参入したいとおっしゃった。ノア氏はゲームとは文化であり、商業ではないと考えており、アメリカ市場などには参入する気はないとおっしゃっていた。これは、アメリカ市場はビジネス至上で、文化を尊重する姿勢が欠けていることが原因なのだろう。彼の会社は、前述通り約90%という高い独自のゲーム開発の経営資産を生かし、今後は国際的な企業を目指していくとおっしゃった。
伺った現状からすれば、ヨルダン国内でゲームという文化が根付き、企業がより多くの投資を獲得するまで時間がかかることかもしれない。しかし、他国の失敗を学び、人材育成を目的としたゲーミング・ラボの設立という政策はとても画期的なことであったのではないか。人々がゲームの重要性を理解し、政府や金融機関が産業育成の後押しを得られれば、国内IT産業を牽引する産業として、さらに中東地域を超えて世界へゲームを輸出する大きな産業として発展していけるだろう。ナス氏は、ヨルダンの将来には、IT産業がとても重要であり、ゲーム産業がその中核を担うことを期待していると言い切った。eヴィレッジのような産業集積が、このゲーム産業の発展に後押しになることは疑いない。
私たちは、ムハンマド氏、ナス氏、ノア氏をはじめ、スタッフの方々にお礼を述べ、eヴィレッジを後にした。
eヴィレッジから車で数分、高級住宅街のあるダブーク地区のすぐ近くに、City Mallという大型ショッピングモールがある。この日の巡検の最後に、ここを視察することとなった。
ここには、キーテナントとしてフランスのカルフール(Carrefour)が入っている。カルフールは大変大きく、それ以外の一般テナントと2つの部分に分かれている。
私たちはまず、一般テナントの方から視察した。ここは4階建になっており、中央が吹き抜けになっていた。各階はエスカレータで結ばれ、シースルー・エレベーターもあり、かなり豪華なつくりであった。1階の入り口から入ると、まず正面のかなり目立つスペースに、Samsungの特設販売場があり、ギャラクシーモデルなどの携帯電話が売られていた。アンマンでも多くの場所でSamsungの販売店を見かけた。Samsungの人気は高いのであろう。実際、ヨルダンに限らず巡検中は、どこにもSamsungの携帯電話を使う人たちがいた。
このモールの天井はガラス張りになっており、現代的なつくりである。1階には高級アクセサリーの店や子供向け衣類を扱う店が多く見られ、2〜3階はブランドの衣類店が数多くならんでいた。国際的に有名なH&Mや、Timberland, Nike, Levis, Adidas, Zaraなどのブランドも店舗を構え、ほとんどの店の前にはアラビア語に加え、英語も併記されている。また欧米でヒットしている音楽が流されるなど、欧米風の雰囲気が感じられた。また、3階には子供向けゲームセンターがあり、家族連れの顧客に配慮する姿勢が見られた。中にはサンリオなど日本の会社も見受けられた。4階はフードコートとなっており、McDonaldsや Subwayなどのファストフード店やイタリアン、タイ料理、中華料理屋などがあった。日本料理もあり、寿司も売られていたが12.55JD(約1700円)と高額であった。地下には、銀行とATMが多く並び、Standard CharteredやHSBCといった英国植民地系の銀行が目についた。グローバルにリテールビジネスを展開する英系銀行の力の強さが感じられた。
次に私たちは、カルフールへと進んだ。カルフールは、フランスの多国籍量販店である。カルフールは、ブラジルや中国、そしてここヨルダンにも進出したりなど、積極的に海外進出を行っている。日本にも進出したことがあるが、AEONなどの量販店の力が強すぎ、結局撤退した。とはいえ、日本の量販店の進出は、国内と東・東南アジアに限られ、その他の地域の進出に消極的である。中東に、AEONなど日本の量販店を見かけることはなかった。また、外国では、北欧家具のIKEAなど、専門量販店も海外進出に熱心であるが、日本のビッグカメラなどの専門量販店は、国内に特化し、海外進出そのものを考えていない。
カルフールの内部はかなり広く、食料品、衣類、生活雑貨、生活家電など幅広く扱っていた。店へ入る際、警備員に写真撮影は禁止であると告げられた。またカバンのチェックもあり、セキュリティは日本より厳しかった。レジは30以上ならび、大きな規模であった。
私たちはまず生活家電のコーナーから視察した。まず目に留まったのがSamsungのコーナーで、他のSony, Hitachi, LGなどの会社に比べ大きなものであった。家電の価格は製品にもよるが、それほど日本と変わらないか、ヨルダンの方が少し高いものが多かった。例えば、Samsung製の冷蔵庫は900JD(約13万円)であった。次に大きいコーナーはLG社の製品で、日本勢のコーナーはそれよりも小さい。韓国企業の、新興市場に対する極めて積極的な市場開拓戦略が感じられた。
次に、食品売場へと移動した。食品は日本の量販店で売られているものより一パックの量が多かった。コメに日本のものはなく、ほとんどがパキスタンやインド産であった。中東で食べられているのは、主にインディカ米である。欧米の食品多国籍企業であるNestle社のコーヒーや菓子、Mars社のSnickersなども扱われていた。しかし、食品コーナーの一角には、スパイス売場があり、スークなどで見かけるスパイスの山が置かれていた。フランスの会社であるが、このように現地のニーズへも対応しローカライズしていることがわかった。
結局、食品売場で日本製品を見かけることはなかった。富裕者は日本製を好むとドバイの領事館で聞いてきた私たちだが、実際にヨルダンに来てみると、自動車や家電では日本製品を見受けたものの韓国製品におされ、食品に関しては中東への進出がほとんど全く出来ていない。日本経済の停滞もなるべくかな、と感じた。
私たちは、このショッピングモール視察でこの日の巡検を終わり、解散した。t