フランスの様式を示す、革命前の国会議事堂

  朝8時に出発。ビュッフェ形式の朝食をとりホテルを後にした。
 今日の巡検予定は、午前中はテヘラン市内で、モハメド・シャー時代につくられた国会議事堂を視察、その後中国が建設したテヘランの地下鉄に試乗し、駅周辺にあるテヘランの商業活動を視察したのち、シャー時代の弾圧政治を象徴する政治犯収容所跡を訪れて独裁主義〜民主主義への移行を考察する。午後は、鉄道でアフヴァーズに向かい、イラン国内の鉄道による空間統合の歴史について考察するというものである。


 まず私たちが向かったのが、1906年〜1979年のイスラーム革命期以前に開会されていた旧マジュレス議事堂、そして2002年〜現在、マジュレス(下院)が開かれている現マジュレス議事堂である。  ホテルからJomhuri-ye-eslami通りを西進し、バハレスタン(Bahallestan)広場に向かう。ここには、かつての貴族の館が建っていた。このBahallestan広場は、シャー時代に国会が二院制であった時期に上院の議場が建っていた場所である。

 
 広場に着いた私たちは、ガイド氏から見学における注意を受けた。セキュリティが厳しく、写真を撮ることや、施設周辺でメモを取ることさえも許されないとのことだった。また、見学といっても、周囲を散歩しているような形での見学しか許されなかった。アメリカなどと「冷たい戦争」をしているイランの管理社会のありさまを、私たちは思い知った。


 まず私たちは、旧マジュレス議事堂の見学を行った。指摘通り、議事堂周辺には数多くの監視カメラがあり、政府関係施設に対しての、イランの機密意識の強さが感じられる。外部は高い塀に囲われていた。


  塀伝いに歩いていくと門があり、門には鉄の細かい細工が施されており、まるでフランスの役所の門のような、ヨーロッパの雰囲気が感じられるものであった。建物自体も白い柱が並び立つ様式で、ギリシャの神殿を思わせるような建物であり、ヨーロッパを意識した建物であることがわかる。この旧マジュレス議事堂が建てられた当時の二代目シャーは、西洋化を目指していたことが、西洋風の議事堂の様式からもわかる。


 入口付近にはモスクの入口にも描かれている、青を基調とした植物の絵(アラベスク)があり、荘厳な雰囲気が醸し出されていた。またイランの旧国旗にも描かれている獅子のモニュメントが、入口付近に置かれていた。


 旧議事堂を過ぎて通りを少し歩くと、現在マジュレスが開会されている新マジュレス議事堂が建っていた。現在の議事堂は、旧議事堂と比べると開放的な印象で、建物自体もヨーロッパを意識したものではなく、四角錘型の建物が特徴的な現代的、前衛的なデザインであった。西洋化を否定しイスラーム革命を起こしたイランであるから、西洋風の旧議事堂とは異なるデザインにして、変化したということを示したかったのかもしれない。
出典 History of Iran Constitutional Revolution
(http://www.iranchamber.com/history/constitutional_revolution/constitutional_revolution.php)


 この新マジュレス議事堂はもともと上院の議場があったところに新しく建てられたものであり、2004年から移転が承認、開会されている。

中国製のテヘラン地下鉄と、駅周辺に広がる商店街


 旧・現マジュレス議事堂を後にした私たちは、現在のテヘラン市内の主要な公共交通手段の一つであるテヘランの地下鉄を体験するため、バハレスタン駅前でバスを降り、試乗することにした。

・写真 http://norinpop.com/archives/5985
(コラム)  テヘラン地下鉄の歴史
―フランスへの委託と挫折―
 テヘランの地下鉄の歴史は1970年までさかのぼる。シャー当時のテヘラン市政府は、市内の道路渋滞による交通・流通事情悪化をくいとめ、排気ガスによる環境汚染を防ぐため、テヘラン・メトロ建設についての国際入札の実施を発表した。これに応えたのが、地下鉄の建設・運営技術でグローバルに頭角を現していたフランスである。国有パリ交通公団の下部組織であるSOFERETU(フランス都市鉄道研究実用化社)が落札し、1974年「街路・メトロ計画」と呼ばれる最終報告書が提出された。この計画書は市内中心部における環状高速道路、郊外に向けての高速道路2路線、また8つのメトロ路線とこれを補完するバス及びタクシーによる交通網を提言したものである。

 その後1978年にフランスの企業によって建設が開始されたが、翌年のイラン革命、イラン・イラク戦争の勃発で工事を中止せざるを得なくなった。その結果、SOFRETUはイランでの事業を凍結、イラン政府もフランス企業によるテヘラン・メトロ建設運営の停止を正式に発表した。

―テヘラン広域メトロ鉄道会社の発足〜現在―

 だがその後、深刻な交通渋滞や空気汚染の悪化のため、メトロ計画の再開が国民から強く希望され、イラン政府は1985年にメトロ社(テヘラン広域メトロ鉄道会社)を設立、建設・管理が任された。この際の計画書は、フランスに事業を委託した時とほぼ同じものであった。このメトロ社には政府からの多額の支援金のほか、様々な鉱山採掘の利権が譲渡され、潤沢な資金による建設が順調に行われていくかに思われた。しかし、続くイラン・イラク戦争の影響により工事はしばしば中断、完成は遅れていくこととなる。

 その後、メトロ社は中国の中国北方工業公司に建設を委託し、1999年3月7日、テヘラン・メトロの最初の路線となる5号線(Sadeqiyeh〜Karaj間)が開業した。これは、市内線ではなく郊外鉄道で、総距離は31.4km。電化路線で途中駅はVardervarde駅のみという部分開業であった。この路線の終点であるKarajはテヘランの衛星都市であり、この路線をいち早く開業することで、衛星都市と既存のテヘラン市の結びつきを強化することが図られた。

 続く2000年2月21日には、初の市内地下鉄路線となる、市内を東西に走る2号線の西半分(Sadeqiyeh〜Emam-Khomeyni間)が開業、同年8月28日には南北方向の1号線の南側(Daravazeh-Dowlat〜Ali-Abad間)が開業した。これらの路線は都心部から郊外をつなぐものであり、労働者の移動を考慮したものと考えられる。以降、1号線2号線は延伸が続けられ、2008年4月には4号線の都心部分(Azadi〜Darvazeh-Dowlat間)が開業した。

 2012年になると1〜4号線全体で124kmの距離をカバーするようになり、通過駅数は83駅にも上るようになった。また、鉄道利用者数も年々増える傾向にあり、2012年の利用者は2009年から数えて16.5%増の3億7000万人にも上り、いまやテヘラン市民に欠くことのできない足となっている。

 乗車券の種類も、現在では多様な形をとっており、クレジットタイプの年間チケット、一定の金額分乗ることのできるチケット、回数券、一回券などがある。

出展・http://tehran-metro.com/category/construction-technology
・http://www.tbd.com/tag/metro-history/ Tehran Urban & Suburban Railway Co. 2011年9月14日掲載記事。
・Tehran Urban & Suburban Railway Pamphlet
・写真 http://www.irantour.org/Iran/tehranmetro.html


 地下への入口には、地下鉄公社のマークである台形のような形をした黄色い印があった。駅内部の壁は、一枚一枚が大きい面のタイル張りになっており、中国の地下鉄の壁に似たつくりとなっている。

 駅内部には、雑貨を売る商店やATMなどが存在し、また広告も数多く掲げられていた。地下鉄の利用客をターゲットとした商店が多数あることから、商売が成立する程度に、地下鉄利用者は多いのであろう。広告のほかにも駅周辺の施設名を載せた地図や路線図が書いてあるボードがあった。

 私たちは自動改札機横の駅員がいる窓口で行先を告げチケットを買ったが、自動改札機近くには券売機が2〜3台置いてあり、そこでチケットを買うこともできる。一駅分、4500リヤル{2013年現在、0.1米ドル相当の代金、クレジット払いの場合、1200〜1900リヤル 出典http://tehran-metro.com/}のチケットで改札を抜けホームに向かった。

 ホームは対面式で、比較的清潔に保たれていた。駅の中の雰囲気も中国の地下鉄に似た感じで、設計の早い設計段階から、中国がプロジェクトにかかわっていることが窺えた。このホームにも路線図や駅周辺の地図などがあった。点字ブロックが設置されており、安全面に配慮があるが、ホームドアは取り付けられていなかった。電車の乗り口・車両は男女別に分かれており、ここでもイスラームの男女の区別の強さが感じられる。

 電車の動力は第三軌条方式で供給されており、感電防止カバーつきの第三軌条があった。電車が来たので乗り込んだ。車内はかなり込み合っていて、内部にはサラリーマンらしき人など青年〜中年が多く乗っており、メトロの利用者層は中流階級の20〜50代の幅広い人々であると考えられた。車内の端には中国長春の長春軌道客車の銘鈑が設置されてあり、中国製の電車であることがわかった。
 一駅分乗り、メラット(Mellat)駅に着いた私たちは電車を降りた。後から女子ゼミ生に聞いた話によると、女性専用車両では地べたに座り込んでいる人やものを売る人もいたらしい。男性車両は混んでおり、女性車両は比較的すいていたらしいので、すいていれば男性車両でもモノを売る人はいたかもしれない。女性車両で売られていたものはレギンスなどの下着類で、売れ行きは上々であったらしい。


バザールからスピンアウトした、卸売商業の集積


 駅を出た私たちは、駅前の商業活動を視察するため、徒歩で南西に進んだ。下車駅であるメラット駅周辺から次の駅であるエマーム・ホメイニ(Emam-Khomeyni)駅までのEKBATAN通りを歩いていると、車やバイクなどの部品を売っている店が多く集まっている。商店ではルノー(Renault)などのフランス車の部品や、本田やトヨタなどの日本車の部品、現代(Hyundai)などの韓国車の部品も売られており、また中古の単品部品(ミラーやライトなど)が道端で数多く売られていた。このような車に関係する商店が多く存在していることから、車の需要が高いことがうかがわれる。店頭は千客万来という趣ではなかったが、これらの商店にはおそらく卸売り機能があり、固定客がいるため、店先で販売することにあまり重きを置いていないのであろう。また、この通りには粉塵よけのガラスがついたバイクも売られており、テヘランでは大気汚染の影響が深刻なことが伺われる。

 私たちは通りを1kmほど歩き、専用車の待っているエマーム・ホメイニ駅前の、エマーム・ホメイニ広場(Emam-Khomeyni Square)に着いた。この広場は、テヘランの中心部に位置し、地下鉄においても、市内を南北に走る1号線と東西に走る2号線の結節点となっている。広場には中央に丸いロータリーがありフランスの都市を意識させる。この広場、また周辺には、警察署や郵便局、銀行など市民が利用する施設が建っており、その他にもテレビ局やビジネスオフィスらしきビルなどが目についた。ここには外務省や防衛省などの大きめの役所も集まっていた。イランの国章をモチーフにしたモニュメントも置かれており、テヘランという首都の中においても、館長が集積する重要な場所であることがわかる。人通り、車通りが多く、多くのタクシーが客待ちしていたことから、日ごろから人が集まる地域である。

 私たちが専用車に乗り込もうとすると、突然私たちの車に近寄ってきた東アジア系の女性に道を尋ねられてしまい、対応することになった。その女性は台湾出身で、イランを一人で旅しているらしい。イスラーム色の強いイランで女性の一人旅をすることに、私たちは驚嘆した。女性を見送り改めて出発した。

 車内から通りを観察していると、商店の種類が変わっていくことに気づいた。エクバタン(Ekbatan)通りまでは車やバイクの商店が主であったが、ラレザール(Larehzar)通りでは建材、衛生陶器の商店が多くなっていった。また少し過ぎて、Jomhuri-ye-Eslami通りまで行くと家具関連の商店が多くなっていった。

 このように、テヘランの中心部から少し外れた場所に、多様な種類の商業集積が存在している。これらの通りにみられる同業種の商業は、元々バザールで行われているものであったであろう。しかしバザールで確保できる商業スペースには限りがあり、需要増大と共にやがて手狭になる。そこでこれらの商店は、別の場所でこのような商業集積を作っていったのだと考えられる。同業種が商業集積すると、集客率を高めることができる。また、商店間での情報共有を行いやすいという面もあると思われる。

シャー時代の弾圧政治の遺構とその記憶:イランエブラット博物館


 次の目的地は、イランエブラット博物館(Ebrat Museium of Iran)である。シャー時代の秘密警察(Savak)が実際に使用し、政治犯を投獄していた収容所施設を博物館に改装したものである。ここでの私たちの目的は、シャー時代の親米政権の見せかけの民主主義の裏側にある、弾圧政治の遺物とその実態を学ぶことであった。

 目的地周辺に近づいてくると店の数は少なくなり、政府関連施設が多くみられるようになった。


 当時、レザー・シャーの独裁政権からクーデターを成功させ権力を掌握した二代目モハメド・シャーは、アメリカがオブザーバーとして参加するバクダード条約機構に正式加盟してアメリカとの協力体制を築いていた。アメリカとしては、ソ連と国境を接するイランを親米陣営に引き入れておくことが、ソ連封じ込め政策の地政学的戦略として有効であり、イランとの関係維持をとりわけ重視していた。

 アメリカからの経済支援を維持し、経済発展を続けていくためには、トルコが行なったような欧米型政治システム、すなわち世俗化政策への改革が不可欠であった。ここに、西欧化に反対する国内のイスラーム勢力を弾圧する必要が生じた。その弾圧を実際に行っていたのがサヴァク(Savak)である。サヴァクはメンバーが3〜6万人とも推定され、イランの西欧化に反対する宗教勢力を弾圧するため、具体的な活動内容やその目的などが国民に知らされることはなかった。(出典 吉村 光太郎『イラン現代史 従属と抵抗の100年』有志舎)

 この徹底的な秘密組織の活動がどのようなものであったか、そして現在のイスラム原理主義政権が、このイランの過去の時代をどうとらえているか知ることも、私たちの目的の一つである。


 この収容所は、フェルドウスィー(Ferdowsi)通りに面し、エマーム・ホメイニ広場からさほど遠くない場所に位置する。行政施設が多く位置する広場の近くに施設を建てることで、管理をしやすくしたのであろう。建物の外壁は黄土色で、地味な外観にも関わらず威圧感が感じられた。

 私たちが施設内部に入ると、カメラや荷物などを入り口横の守衛所らしきところに預けられるようにと指示された。内部は写真撮影が一切禁止である。イランの重要な歴史の一部であるサヴァクの実態が国外に歪曲して伝えられることを防ぐためか、それとも、中国などにおけるこの種の政治的な博物館において往々にして指摘されるように、博物館の展示が事実よりも誇張され歪曲されていることを指摘されるのを怖れているためなのか、真意は定かではない。

 荷物を預け、施設を囲む高い塀の内側に入ると、まず右手側に収容所に拘禁され、その中で殺された政治運動家(投獄犯)の名前が掲載されたプレートが並ぶ。これらはすべてイスラーム革命以前に政府に対する抗議や体制の批判を行った運動家たちである。5〜10mの幅いっぱいに掲げられたプレートは、当時のイスラーム勢力に対する弾圧がいかに厳しく、また広範であったかを物語っている。

 さらに進むと、サヴァクが実際に使っていた車が展示されていた。車体は黒のベンツ、車内には外部と連絡が取れるように通信機器が設置されており、はためから見てサヴァクの車とはわからない作りになっている。車内には、サヴァクのメンバーを模した人形が乗っていた。この車で、裁判所の令状もなしに、反体制派、イスラーム原理主義派と目される人物を街から略取して、この収容所に次々と放り込んでいったのである。


 その後、施設の紹介のための15〜20分程度の映像をみることになった。その映像の内容は、まず、当時のシャー政権下のイラン国内の様子が写真によって次々に映し出され、その後、サヴァクによってこの収容所に実際に放り込まれた人々が登場し、博物館を訪れ、当時の記憶をインタビュー形式で語り、その後館長が自ら博物館の紹介を行うというものである。映像の中で登場したある一人の女性は、夫を突然サヴァクに略取され、その後二度と戻ってこなかったという。この映像からは、サヴァクの被害にあった方々やその家族の、サヴァクへの恨みと当時の体制への国民の怒りが強く感じられるようになっていた。


 映像を見た後、私たちは博物館の案内役のスタッフとともに、実際に使われていた拷問器具や拷問部屋、囚人部屋などを見学することになった。部屋に向かう途中の通路には囚人を模した人形が置いてあった。血だらけの体が痛々しく表現されている。その人形は、私たちに施設内で行われたであろう非道な行為を想像させた。途中には囚人から没収した荷物をしまうスペースがあり、金属製のケースが並べられていた。

 拷問部屋は質素な泉を中心として、円形に配置されており、その各拷問部屋には、サヴァク内部で高い地位にあり拷問を実際に行ったメンバーの顔写真と経歴が載せてあるプレートがあった。そのメンバーのイスラーム革命後の行動は様々で、自殺をした者、欧州に亡命した者などがある。なかでも、イランを逃れ、イスラエルの秘密警察モサドに再就職した者がいるというのには、驚かされた。イスラエルに、この収容所の拷問のノウハウが引き継がれ、いまもムスリムの人々のに加えられているのであろう。拷問部屋は4〜5室程あり、電気ショックやむち打ち、小規模の檻に閉じ込め強い音を金属の棒で発生させ精神的苦痛を与えるものなどがあった。部屋のそれぞれにビデオがついており、どのように拷問が行われていたかのイメージVTRや、それを実際に体感した人のインタビューが流されていた。途中、一緒に見学をしていたイラン人と思われる中年男性が拷問を実際に行ったとされる人物を模した人形に対して罵声を浴びせるという場面があった。今でもイラン国内の人々の頭には革命前のシャー時代の弾圧政治に対する怒りが残っているのはまちがいない。


 拷問部屋の見学を終えた私たちは、次に、イスラーム運動家であった人たちの顔写真が並ぶ廊下に案内された。廊下の入り口から向かって右側に男性達の写真が、左側に女性たちの写真があった。写真の数は男性の方が多く、女性の2〜3倍近くはあり、顔写真から推定すると、男性、女性ともに年齢層が20代〜60代で、20代、30代の若者が多くいたという印象であった。これらの顔写真には赤い一本の花が写真についているものとそうでないものがあった。博物館のスタッフによると、花がついている人は拘禁中に亡くなった人であるらしい。拘禁されている人数を別にしても、花がついている割合は男性の方が多かった。


 最後に私たちは、囚人部屋の見学をさせてもらうことになった。入り口には、当時のシャーと王妃、皇太子候補の王子の肖像画が設置されていた。シャーの名のもとに拘束しているという大義名分をしめすものだったのであろう。囚人部屋は、独房と複数人が入る部屋と2種類があり、一本の薄暗い通路の両側に部屋が設置されているという様式で、窓は一つもなく、夏は外気温が40度以上になるイランであるのに、換気設備も廊下に扇風機が一つあるだけという劣悪な環境であった。


 私たちは列車の時間が迫っていたため、囚人部屋の見学で最後とせざるを得なかった。案内の途中で私たちが列から外れ出口に向かおうとすると、スタッフが付き添わないと施設内を行動できないとガイド氏に言われ、その場でしばらく待つことになった。やはり、博物館の意図とは違った外部への情報の伝わりを気にしているのだろうか。

 見学を終えた私たちは出口付近にある売店に寄り、施設内で流していたDVDを購入して施設を後にした。

 車に乗った私たちは、テヘラン中央駅に向かう車内から通りを観察した。博物館周辺では比較的大きな施設が多かったが。駅周辺に近づくにつれ、中心部からは外れていき、比較的貧困な地区になったとみえて、小型の建物が目立つようになってきた。通りを歩く人々の服装に目をやると、保守的な服装をしている人が目立つ。貧困な人々は保守的な服装を好む傾向があると考えられる。また、博物館周辺では一般車が多く走っていたのに対し、駅に近づくにつれタクシーやバスの数が増えてきた。道路にはトロリーバスの架線も張られている。

 テヘラン中央駅は交通の結節点ではあるが、テヘランの都市構造においては中心部から外れた位置にあることを示している。

中国によく似たシステムの、テヘラン中央駅


 テヘラン中央駅に着き、私たちは専用車を降りた。駅は市の南部に位置している。駅自体は古典様式の西洋風の建物で、私たちが見学した旧国会議事堂と似た雰囲気の威圧感が感じられた。駅前ロータリーには国旗が掲げられており、入り口にも左右に現大統領などの写真が張られている。

 この中央駅近くにはテヘラン南ターミナルというバスターミナルも併設されていた。市内を循環するバスや客待ちをしているタクシーも多くみられた。イラン国内での移動には、鉄道のほかにバスも多く利用されており、バスターミナルと駅があつまって、インターモーダルな公共交通のハブが計画的に作られている。旅行者などにとっては便利であるだろう。

 ロータリーになっているテヘラン駅前は、たくさんの人が往来し、旅行者らしき大きな荷物を持っている人が多くみられた。イランの各地方から来た人や逆に地方へ行く人など、列車を用いて遠距離移動を行う人が多い。乗客の荷物が多いのは、短期のビジネス客や観光客ではなく、比較的長期の人口移動に列車が利用されていることを示している。

 駅の入口は、男女で異なっていて、分かれて入ることになった。
 駅舎内部に入ると、人混みが一段と増した。内部は比較的きれいで、電光掲示板などが設置されており、近代的な印象を受けた。軽食や新聞を取り扱っている売店やATMなどのほかに、交番も設置されていた。また、冷水器もあり、自由に飲むことができて、暑い外をから来た私たちには有難かった。

 私たち外国人は切符だけでなくパスポートのチェックも必要であるらしく、駅内の交番がチェックした。イラン国内の移動であるにもかかわらず、パスポートの提示を求めるというようなセキュリティの厳しさは、この鉄道が国益に関係している戦略的に重要な施設であり、外国のスパイやジャーナリストなどに情報を渡すことのないよう警戒しているからであるにちがいない。

 ホームへの入口は、地下鉄とは異なり、自動改札機ではなく、駅員が1つずつ切符をチェックしていく方式で、4〜5か所ほど改札口が設置されていた。切符を確認してもらい改札口を抜けたものの、列車が到着するまでホームには降りられないらしく、少しの時間待合室で待つことになった。この方式は中国でも採用されており、セキュリティの観点からこの方式を採用しているのだろう。ただし、中国とは違って、列車ごとに待合場所が決まっているというわけではない。待合所にはイスなどが設置されており、売店も設置されていた。

 しばらく待って列車が到着したらしく、私たちは待合所から出て陸橋を通りホームに降りた。すると、上半分が白で下半分が青の列車がホームに停まっていた。駅内には5〜6本のレールが並行しており、それぞれに車体の色が違った列車が止まっていた。ホームは広いが、そこで長く客が列車を待つことは考慮されていないので、簡素でベンチもなかった。

 列車に乗り込む際には乗り口に駅員がいて、再度その場で切符を確認されてから、私たちはようやく列車に乗り込むことができた。

 全体として、駅の客扱いのシステムは、中国の鉄道にとてもよく似ている。

セルビア製中古客車で編成された民営化急行


 イランの鉄道は国有鉄道であるが、列車の一部は民営化されている。つまり、民間会社が国鉄にレール使用料を払って、動くホテルのようにして長距離急行列車を運行し、利益を得ているのである。欧州ではよく見る鉄道の営業形態であるが、日本でこの方式はほとんどみられない。この辺り、イランは日本以上にネオリベラリズムが進んでいて興味深い。私たちが乗ったのは、この民営化列車であった。

 列車には客車のほかに食堂車が連結されている。客車は、欧州大陸の標準的なタイプで、1つの車両に6人のコンパートメントが9つあるというものであった。トイレは各車両に1つずつあり、ここはイスラーム式であった。私たちは男性陣6人とガイドを含めた女性陣2人組に分かれ、それぞれのコンパートメントへ向かうことになった。私たちが泊まることになった6人のコンパートメントは、昼は向かい合わせの座席であるが、夜になると部屋の両側に、向かい合わせに、2組の三段ベッドが計6つできる方式である。部屋の上の方には荷物をしまうスペースがあり、また、一人ずつ毛布と枕、そして清潔に洗濯済みのシーツ、加えて人数分のペットボトル入りの飲料水も用意されており、十分なサービスがなされている印象を受けた。部屋の出入り口には緑のカーテンがつけられており、内鍵がかけられるなどセキュリティ面も配慮されていた。さらに、冷房設備やきちんと電気が来るコンセントが室内に備え付けられ、比較的旅客の便利を考えた部屋という印象を受けた。だが、難を言えば、広さは男六人で過ごすには少し手狭なように感じられた。女性人二人組についても、部屋の内装自体は変わらないということであった。

 使用している客車の車内を調べたところ、セルビア(旧ユーゴスラビア)製のガラスなどがあった。この客車がセルビアの中古の客車であることがわかった。旧ユーゴスラビアの盟主でロシアと関係の深いかつての社会主義国セルビアは、イランとも良好な関係にあることがわかる。

テヘランからゴムまでの道のり;郊外開発地域から田園風景へ


 テヘラン駅を出発してしばらく、列車はテヘラン市の郊外を走る。工事・建設用と思われる大型のトラックが多く停まっている場所が目に止まった。また、家らしきものを壊している現場も何度か目にした。建設途中の大型の施設も見られた。この付近には集合住宅のようなものも多く存在した。市内に車で行けるというような中流階級の人たちが住んでいるのだろう。郊外では、都市開発が活発にすすんでいる。
 列車はホメイニ空港のすぐ傍を通り、飛行機の尾翼が窓からも望めた。しかし、空港のそばに駅はない。

 これを過ぎると、次第に農業地帯に入っていった。イランというと砂漠というイメージが先行するが、私たちは、農業国としてのイランという意外な側面を車窓から知ることになった。






コラム <イランの土地の特性と農業>
 イランは山脈が国土の大半を占めており、国の中央部分に高い山々が聳え立つ環境のもと、湿った風が山脈にぶつかり雲を作り出し、適度に湿潤な地帯と乾燥な地帯を作り出す。特に西・北西部は湿潤な気候のもと、国内でも比較的肥沃な土壌が存在し、農業に適している。またこの地域で主に作られている作物は米であり、イラン国内で消費されているイラン産の米のほとんどがこの地域で生産される。しかし、イラン産の米は価格が高く、インドやタイなどからの安価な輸入米のほうが一般的である。また、国内では米以外にも野菜や他の穀物等が作られており、南地域では煙草が盛んに栽培されている。また、ヒツジらしき動物を放牧している景観も見られ、農業だけでなく、畜産も複合して行っていることがわかった。このような農業・畜産業はイラン国内で活発であり、食料自給率は約70%を誇る。また、GDPにおける農業の生産量の割合は20%にも上る。(出典http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iran/data.html

 13時過ぎにゴム(Qom)駅に列車は停車した。ゴムはシーア派の聖地のひとつであり、世界各国から留学生が集まるイマーム・ホメイニ国際神学校がある国際宗教都市である。有名な聖地であるからなのか、下車する人も多く、停車している時間も長かった。駅周辺は特に大きな町があるというわけではなく、殺風景な景色が広がっていた。



 イランの鉄道は電化されていないが、欧州と同じ標準軌である。続いていく複線の線路を見たとき、私たちは日本のそれに比べて比較的レールが細いことに気付いた。一本一本の単価を抑えることで、全体の経費を削減しているのだろう。ただし、線路の周りには雑草などは生えておらず、メンテナンスが行き届いていることがうかがえた。





ゴムからアズナへ: 中国製冷凍食品を供する食堂車に原子力発電所

 ゴム駅で停車している間に昼食を済ましてしまおうと考え、私たちは食堂車へと向かった。食堂車へと向かう途中、各車両に小さな売店が設置されていることに気付いた。それぞれの車両には、かつてのソ連国鉄と同じように各客車に車掌がいて、旅客の世話をしているようである。売店では軽食が売られていた。
 食堂車といっても、メニューは一種類しかない。昼ご飯に出たのはチキンとライスのセットにオレンジの炭酸とヨーグルトというものであった。チキンとライスは冷凍保存用のパックらしきものに包まれており、出す前にそれを電子レンジで解凍し温めただけのものである。カバーまでホカホカであった。この冷凍食品は中国で作られたものらしく、Made in Chinaとカバーに記載されていた。ヨーグルトはなにか古そうで、腹をこわすといけないので手を付けなかった。食堂車ではもう少しまともな昼飯にありつけるのではないかと期待していた私たちは、少々残念に思いながら昼飯を済ませ、私たちは部屋に戻った。部屋に戻ると、昼食時ということで小さなバナナのケーキと紙パックの飲物が部屋に人数分届けられていた。乗客全員に対しての、民営化列車ならではのサービスということであろう。


 ゴム駅を出発すると、列車は次第に乾燥地帯に入っていった。途中、貨物列車が停車していた。ガイド氏によると、この鉄道はドイツの技術によって敷設された。第二次世界大戦中、ソビエト連邦への貨物運搬用にも使われた鉄道であるという。いまも国土の幹線鉄道として整備が続けられており、その後、複線化工事を行っている場所に出た。そこには、新しく敷設するためと思われるレールが平積みにされて置かれていた。鉄道の需要はやはり高いことがうかがえる。

 アラク(Arak)周辺に近づいていくにしたがって、乾燥地帯から再び田園風景へと景観が変わっていった。また、小規模の集落のようなものも見られるようになってきた。この集落は土壁の住宅が集まっているものであり、農業と畜産を中心とした伝統的な生活を送っている人たちが集まっていると考えられる。アラクに近づくと、工場などの建物が増えていくようになった。さらに、駅周辺には、集合住宅が多くみられた。こうした近代都市の同心円的な構造を目の当たりにしながら、列車はアラク駅に到着した。駅はホームがしっかりと整備されており、大きな駅である。アラクは工業都市であり、そこに働く者たちも多くいるため発展していると考えられる。


 アラク駅を出発して数分後、私たちは原子力発電所を目にした。このアラクという都市は、イランが重水炉建設を行っている都市である。AFP BB NEWSの2013年6月10日の記事で、イラン政府が中部アラクの重水炉建設計画について「大きく前進した」と発表した、と報道している。同記事によると、2014年3月までには試験稼働させるとの見通しであるらしい。私たちが見たのは、その建設中の重水炉であったのかもしれない。その後ガイド氏にArakで原子力発電所らしき建物を見たことを告げると、苦笑しながら「原子力開発についてはコメントできない」とのことだった。ガイドは、政治的に微妙な問題について、外国人に話さないよう指示をうけているようである。


 次の駅であるシャザンド(Shazand)駅に近づく時には、集合住宅のようなものはあまり見えず、乾燥地帯が広がっていた。ただ、この地域でも農業・畜産が行なわれているらしく、山のふもとの方に焼畑農業の跡や、野菜らしき作物を育てている畑、ヒツジの放牧も見ることができた。この地域は四方を山に囲まれており、山のふもとでは水脈を探し当てやすいため、灌漑がしやすく、農業が発達したものと考えられる。


 シャザンド駅周辺には、比較的大きな市街地が観察できた。
 シャザンド駅を出発し、次の駅であるモーメナバード(Momen Abad)駅に向かうところで、線路はペルシャ湾水系と内陸水系との分水嶺を越えるので、かなりの登り坂になっている。ディーゼル機関車は、エンジンを全開にして黒煙を上げ、喘ぎながらゆっくりと進んでいった。



 ただ、この区間は山岳地帯というわけではなく、地形はなだらかで、アラクからシャザンドの間と同じように、ゆるやかな丘陵の斜面に農業・畜産が営まれいる。しかも、この地域では比較的大規模の農業がおこなわれており、大きな畑が広がっていることが確認できた。作っている作物は、その色から小麦のようなものであると推定できる。途中、18時15分ごろ、線路は、イラン国鉄の最高地点である標高約2217mの峠を越えた。その後、列車は速度を上げて坂を下っていき、Azna駅に近づいていく。やがて、大きな建物が見えるようになってきた。このAznaという都市は大きな集合住宅が目立つ都市であり、人口は47485人を擁する。(出典 http://www.tiptopglobe.com/city?n=Azna&p=47485)この駅で下車する人たちも多くいた。

 次第に外も暗くなってきた。その後、私たちは19時に、食堂車でまたも昼食と同じような、中国製の冷凍食品の夕食をとり、たまたま同じ列車に乗り合わせた自称ミュージシャンの食堂でのライブ演奏を聞いた。そのあと、コンパートメントに戻り、三段ベッドを組み立てて、眠りについた。a