今年の巡検の集合場所は、テヘラン市内のParasto Hotelであった。ゼミ生は各自ドバイまたはイスタンブール経由で、イランの国際空港であるエマーム・ホメイニー国際空港(Imam Khomeini International Airport, IKIA)に到着した。私はドバイ発のエミレーツ航空の便を利用した。ドバイからの機内に、東アジアの人は見当たらなかった。
エマーム・ホメイニー空港に着陸間際になると、機内で、イラン人、外国人を問わず、女性の人は一斉にスカーフなどを頭の上からかぶり始めた。隣の席のイラン人女性の方に聞くと、イラン入国の前に必ず髪の毛をカバーするよう指示された。つまり、イラン人女性の中にも、外国に出るとイスラームの服装の戒律を守らない人々がいるということである。私は紺色のスカーフをヒジャブの代わりにかぶってから飛行機から降りた。
空港にて他のゼミ生と合流し、両替を行った。イランの法定通貨はイラン・リヤルで、10,000リヤルが約40円である。現地ではリヤルよりもトマン(1トマン=10リヤル)という貨幣単位を大いに使っていて、私たちは会計の度に混乱した。
空港のロビーで、日本で2年ほど働いていて、少し日本語の話せるタクシー運転手に会い、ホテルまで向かうことにした。彼のタクシーと、彼の友人にみえる人の自家用車に分乗して、市内のパラストホテル(Parasto Hotel)まで向かった。エマーム・ホメイニー空港はテヘラン市内から30kmほど離れていて、途中、ホテルまでの道を迷ってしまい、1時間強かけてやっとホテルに着いた。早朝5時半であったためホテルのチェックインはできず、私たちはロビーで待機することにした。朝8時、前日から泊まっていた水岡先生と、シーラーズ(Shiraz、イラン南西部の都市)から来たガイドのNadia Badiee氏と合流し、巡検初日を迎えた。
巡検最初の目的地はテヘラン大学であった。私たちはビジネスカジュアルのような比較的フォーマルな服装に着替え、ホテルに荷物を預けてから、専用車に乗った。ホテルからテヘラン大学まではかなり近い距離であるにも拘らず、市内の渋滞がひどかったため、移動には思った以上に時間がかかった。
移動中にガイド氏は、テヘランについての基本情報を教えてくれた。約200年前(1795年)、ガージャール朝時代に、シーラーズからテヘランに首都が移転された。当時のテヘランは小さい町に過ぎなかったが、20世紀から21世紀にかけて、イラン各地から多数の人口が流入し、今は行政、経済、教育等イランの中心となっている。
テヘランの都市構造は、パフラヴィー朝時代にその基盤が整えられた。レザー・シャーにより東西南北に4つの大通りが整備され、また父王の政策を継いだモハンマド・レザー・パフラヴィーはテヘランと周辺地域の近代化を図った。彼はトルコを訪問した際、ヨーロッパ式、特にフランス式の建築様式を見て感銘を受けたという。テヘランのより現代化のために、都市デザインにフランス式のゴシック建築を大いに採用し、今でもゴシック建築が多数残っている。実際、視察の中で何軒かヨーロッパ風の建築を目にすることができた。(写真はゴシック建築の代表となるフランス、パリのノートルダム大聖堂である。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E5%BB%BA%E7%AF%89から抜粋)
テヘランの都市交通は、中東の諸都市の中では、かなり計画的に整備されている。その一つが、BRTの導入である。私たちは、車窓からバス専用道路を見ることができた。先生から「BRT」であると説明してもらった。BRTとは、バス・ラピッド・トランジット(Bus Rapid Transit)の略である。「バス高速輸送システム」と訳すことができる。レールの無い路面電車のようなもので、バスであるが、道路の真中に一般の車は進入できない「専用車線」を持ち、「利用を容易」にするため、道路中央のバス停にシェルター、ベンチ、切符売り場やバスの時刻表(又は案内モニター)等ユーザーフレンドリーな施設が設置された、新概念の公共交通システムである。地下鉄や路面電車などは設置に莫大なコストがかかるが、BRTの場合は、バス(車両)とバス停、車線を仕切るフェンスの設置だけで済むため、初期費用がかなり節約できるという。中国、南米、アフリカ等、多くの途上国で採用されている。
テヘランは交通渋滞がひどく、時には15km進むに4時間もかかる場合があるという。BRTの場合、重体に巻き込まれずい時速40km程で走ることができ、現在では3路線で、バス停は60ヵ所にあるという。
(コラム)Bus Rapid Transit |
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<日本のBRT>
BRTは日本でも話題になっている。(鉄道フォーラム代表の伊藤博康氏のコラムを参照
2013.09.27アクセス 現在はページが削除されている)
基幹バスは、片側2車線以上の道路にて、中央の1車線を基幹バスレーンとしバスだけを走らせる形式をとっている。このため、道路が渋滞してもバスの定時運行を可能になるというメリットがある。その他にも、名古屋のガイドウェイバスや茨城県の線路敷を利用したBRT、奈良県五條市の、未完成鉄道線をバス専用道に転用した例等がある。 <韓国のBRT> 韓国のソウルを含む首都圏でもBRTが採用されている(交通政策研究部ビン・ミヨン氏の2009年の「交通部門CDM事業の課題と展望―ソウルBRT事業を中心に―」報告書を参照)。BRT事業が始まったのは2004年7月。交通渋滞を解消し、温室効果ガス削減を目指して行われた。バス専用車線とバス停を中央に設け、ソウル市全域内にて左折を禁止した。バス停を整備し、ベンチ、バス時刻の案内モニター、ゴミ箱等を設置した。 (http://www.sejong.go.kr/jsp/SejongLiving/TrafficInfo/PORBRTInfo.sjpセジョン市のBRT利用案内) またバス自体もその機能により4つに分類させた。ソウル市内の主要交通集結点を結ぶ「幹線バス(青色)」、住居地と主要交通集結点を結び、また地下鉄と連結する「支線バス(緑色)」、決まった範囲の域内を巡る「循環バス(黄色)」、首都圏主要都市とソウルを結ぶ「広域バス(赤色)」といった分類である。当初は利用に混乱を招いたが、現在定時性の向上や運行・利用の効率性等が評価されBRT事業を導入する地域が増えつつある。 |
車で20分程走り、テヘラン大学の地理学部棟に着いた。ガイド氏によると、イラン全国には2000校に及ぶ大学、約400万人の大学生・大学院生がいる という。その中でもテヘラン大学は約4万人の学生が在籍する、イラン最大規模であり、最古の高等教育機関である。1934年に開学した当時は近隣諸国から教授を招聘していた。しかし今は多数のイラン人教授によって講義がなされている。校章には二つの羽が描かれていて、それは「自由(Freedom)」を意味するという。
私たちが訪ねた地理学部棟は狭い道路を挟み、左右に二棟が並んでいた。道路の左側の棟では主に研究や会議等が行なわれ、右側の棟では講義が行なわれているという。講義棟の外壁にはテヘランと地球の絵が大きく描かれていた。私たちは研究棟の入口にてミラスラム博士兼准教授
(Dr.Farshad Miraslam)らに会い、5階の会議室まで案内してもらった。正面の壁にはホメイニー(イスラム革命指導者、イスラム共和国初代最高指導者)とハーメネイー(ホメイニーの後継者、第三代大統領、第二代最高指導者)の肖像画が飾られていた。正面には大型スクリーンがあり、馴染のあるPCプロジェクターが設置されていた。地理学科の教授3人と在籍中の地理学院生2人が同席し、マフィンやジュース等を頂きながら、少し緊張を解きほぐし、私たちはミラスラム博士の講義を受講した。
■イランの自然地理
イランは中東に位置する国で、人口は7600万人である。領土の面積は1億6500万ヘクタール(164万8千平方キロメートル)であり、この広さは日本領土の4?強に及ぶ。イランは、東にアフガニスタンとパキスタン、西にはトルコとイラク、北にはアゼルバイジャン、アルメニア、トルクメニスタンの計7ヵ国と国境を面している。また水域は2ヵ所にあり、北のカスピ海と南のペルシャ湾がそれである。自然資源の豊かな国であり、石油や銅等の生産量は世界上位に位置する。
イランは北部と南部でその地理的条件が大きく変わる。北部は日本や韓国と同様、3月から6月の春、7月から9月の夏、10月から11月の秋、12月から翌年の2月の冬と、四季の変化が見られる。年間の降水量は1000mm程度。その反面、砂漠の広がる中央・南部では年間の平均気温は高く、年間降水量は200mmに過ぎず、4〜5ヵ月間は雨が降らないという。広い領土にわたる多様な地理的条件のお蔭で、イランには8000種類もの?生が存在している。冬季には一国内でスキー等冬のレジャーと海水浴等夏のレジャーが同時に行われているという。
イランは31の州で区分されていて、テヘランも一州である。一番大きい州はイランの南東部に位置するスィースターン・バルーチェスターン州で、パキスタンと面している地域である。二番目に大きい州はスィースターン・バルーチェスターンのすぐ隣に位置するケルマーン州である。
■テヘラン大学地理学部 Faculty of Geography
地理学部はテヘラン大学の開学当時から開設され、70年の歴史を持つという。地理学部は、@リモートセンシングとGIS、A人文地理学、B自然地理学、C政治地理学 の4つの学科で構成されており、その下に28のコースをおいている。各学科は個別に研究しているものの、ある一つのパートに偏らないよう、互いに協力・協働しているという。「地政学Geopolitics」とも言える政治地理学科は、最近開設した学科である。
現在在籍している学生は、学部生約450人、修士課程が約280人、博士課程が約90人と、800人を超えるという。また学部のメンバー(教員)は、GIS学科に5人、人文地理学科2人、自然地理学科14人、政治地理学科パートに10人と計31人がいる。現テヘラン市長のモハンマド・バーゲル・ガーリーバーフ Mohammad-Bagher Ghalibafもその一人(政治地理学所属)だという。時には外国から教授を招聘し講義してもらっていて、日本からも東京大学空間情報科学研究センター長の岡部篤行氏を招聘したことがあるという。
1957年には「Institute of Geography」が設立された。地理学部に所属した研究所であり、教育ではなく学術研究にその設立目的があるという。現在3つのカテゴリに分かれており、テヘラン等都会・都市の研究をしているカテゴリが一番大きいそうだ。
本講義で本校の地理学部は地政学の研究もしており、また政治のキーパーソンを輩出していることからイラン政治との深い関わりがあることがわかった。しかし、私たちが核問題や対米問題等政治的に敏感な話題を出すと、顔をこわばらせ、一切答えてもらえなかった。国政に関わる情報を外国人である私たちに漏らさないよう注意を払っていたのかもしれない。
■テヘラン
次に、ジャーンガニ博士からテヘランの地理・経済的現状を伺った。テヘランはアルボルズ山脈(Alborz Mountain)の真南に位置する都市であり、標高は平均して1000メートルを超える乾燥した高原である。人口は800万人、首都圏全体(Tehran Metropolitan Area)を含むと人口は1400万人を超えるという。
テヘランは大きく2つに分けられ、その境界となるのは、東西に走る「Enqelab-e Eslami通り」である(グラフの赤線、「Urban texture typology (2006)」 http://atlas.tehran.ir/Default.aspx?tabid=312参照)。大学のすぐ南に位置するこの通りの吊は、訳すると「イスラム革命」を意味し、テヘラン大学周辺が革命の本拠地であったことを窺わせる。境界を基準に北には金持ちが、南には庶民が住んでいる。大気汚染の深刻なこの都市にて、快適に生活できる北部に高所得の人々が移住し、新市街を形成したという。そのため大きな住宅やお洒落な商店等は北部に密集している。北東部の場合、山が切り立っているため市街はできず、ほとんどが北西部に集中している。しかし政府機関やシティーセンター、宮殿(現在は博物館として利用されている)、大バザール等都市の中心機能を担うのは、旧市街の核をなす中央部・南部である。
(右のグラフは「Car ownership (2006) http://atlas.tehran.ir/Default.aspx?tabid=294参照)
交通では、テヘランには空港が2つ(国際空港と国内空港)あり、市内では、道路の交通渋滞が大変深刻だという。交通渋滞の問題を解決するため、地下鉄やバスなど公共交通の整備が続けられてきたにも拘らず、問題は解決していない。それは、人口増加だけでなく、大多数の家庭が2台以上車を所有していることで、市内を走る車の絶対数が多いからで、車の数は全イランの5割に及ぶという。近年の国際的上況のため車の値段が以前の2、3?になったにも拘らず、車の数の増加傾向は続いている。また所得の高低に関係なく、車は買われる。イラン一般労働者の平均収入は月1000万リヤルであるが、新車はだいたい2億リヤルだという。月収の20?もの値段となる。高額のため多くのイラン人は中古車を購入するが、中古といっても5000万リヤル程であり、実に年収の約半分に相当する。日本や韓国、フランスからの輸入車も売られているが、イランの工場で生産されるプジョー(Peugeot)やフォード(Ford)社の比較的安価なPrideが多く売れるという。政府は車の利用日数・時間などに制限をおいているが、事実上この規律は守られていない。またバイクの利用も多く、運転が乱暴であるため、大変危ないとのことだ。交通渋滞の問題はテヘランだけでなく、シーラーズやイスファハンなど他大都市でも同様であり、他都市の場合は公共交通の未整備がその原因となっている。
講義後、ミラスラム博士からテヘラン大学地理学研究所が出版した『Atlas of Tehran Metropolis』を頂いた。テヘランの気候、人口の構成やその変化、雇用・注力産業、経済面での変化等テヘランに関する全ての地理情報を詳しく研究・言及している厚い主題地図帳である。
記念撮影を行い、私たちは講義棟に移動した。
一階の入口にはテヘランの地図が壁一面に飾られていた。これを見ながら、ガイド氏から、イラン唯一の免税地域であるペルシャ湾のキシ島(Qesh Island)や、後日訪問する港町であるバンダレ・アッバースの説明を聞いた。
建物を出て校門に向かう途中、石像が目に入った。イランで最も有吊で尊敬されている科学者であり、数学者、哲学者であるAbo-Reyhanの像だという。
交流を終えた私たちは、地理学部の方々と別れを告げ、専用車に乗り、次の訪問先のミラードタワー(Milad Tower)に向かった。移動中にテヘラン大学の正門や「Enqelab-e Eslami通り(イスラム革命通り)」を見ることができた。一旦大学の正門の前に下車したものの、セキュリティの問題でキャンパス内に入ることはできなかった。大学のキャンパスは、かつてイスラーム革命の拠点の一つであったが、その空間が今は、イスラーム原理主義政権によって厳しく管理されている。
私たちは、高速道路を20分ほど走り、ミラード・タワーに着いた。
標高の高い北西部に建てられたこのミラード・タワー(Milad Tower)は、その地理的条件を利用することで全テヘランを容易に見渡すことができる。14年前、イスラーム政権がタワー建設に着手し、10年かけて完成され、5年前に展望台を一般公開した。建設は民間企業でなく、すべて政府の出資で行ったという。
タワーは12階に構成され 、その高さは435メートル、展望台としては世界4位の高さである。展望台から見渡せる面積はフットボール競技場の5?にあたる広さ だという。
私たちはチケットを購入し、エスカレーターに乗って入口に向かった。入口の前には聖母マリア像に似た白い像があった。ガイド氏によると、イスラーム教の開祖であるムハンマド・イブン=アブドゥッラーフの母親アーミナ像だという。彼女は母親のシンボルであり、万物の起源だという。まさにイスラーム教の「聖母」であろう。
中に入り、エレベーターの順番を待つことにした。ロビーには大きな動物の装飾があった。階段を上っている動物たちであったが、傲慢なキツネの物語を表現したものだという。またガラス張りの鳥のケージや昔のテヘランの写真を覗ける金色の展示物もあった。ロビーの装飾にかなりお金をかけたようにみえた。エレベーターに乗るには荷物検査を通る必要があり、男性は正面から左、女性は右と別れていた。警備は厳しく、カバンを預けてやっとエレベーターに乗ることができた。エレベーターには従業員が椅子に座っていて、エレベーター運行のコントロールしている。エレベーターのスピードは速く、あっという間に12階の展望台に着いた。
私たちはすぐに屋外に出て、一周することにした。まず先にタワーまで向かう途中通っていた高速道路が目に入った。Bozorgrah-e Shahid Hemmat Highwayである。この高速道路は東西に走り、テヘランの北西部と北東部を繋いでいる。テヘラン郊外のベッドタウン、キャラジーから通勤の際に大いに利用されているという。
その向こうには住宅が密集していた。3階、4階建ての白い邸宅群が建ち並び、高層マンションも見えた。ガイド氏によると、この住宅地は富裕層の住まいとなっており、一戸建ての邸宅は他人と共有するのでなく、一つの家族で所有・使用しているという。しかしこの一帯は無分別に開発されたので、もし地震等が発生した場合すぐに崩れるだろう、とガイド氏は心配していた。
反時計回りに回ると、次にショッピングモールが見えてきた。Azad Islamic大学のすぐ北、邸宅の間に建つ緑色の建物である。ガイド氏によるとMilad-e Noorだという。ブランド品だけを扱うテヘラン最大の高級ショッピングモールである。イランは経済制裁のためアメリカ等からの直輸入は上可能なので、品物は全てドバイ経由の輸入品だという。つまり、ドバイを経由しさえすれば西側の経済制裁は破れるということであり、結局あまり意味のない「制裁」である。また、中東地域でドバイが持っている高い中心性を、私たちは認識した。
さらに進むと、平屋建ての建物が何軒か並ぶモスクが見えた。イランには一地域に必ず一軒以上のモスクがあるという。ガイド氏は、モスクには必ず一人以上のモッラーがいて、モッラーは頭にターバンを巻き、黒いターバンはムハマッドの血族にだけ許されること、モスクは一日5回の礼拝だけでなく、葬式などの儀式の際にも使われる、などのことを説明してくれた。
また水色の独特な建物が目に入った。核を扱う施設だとガイド氏は教えてくれた。しかし詳細については言及しなかった。ミラスラム博士と同様、核はイランで極めて政治的に敏感な話題であり、慎重な注意を払っているようであった。
タワーの南にはギシャー(Gisha)という政府が管理する住宅地があった。タワーのすぐ傍に位置するミラード病院(Milad Hospital)で働く人や、テヘラン大学の学生または従業員が住む、公務員住宅地区である。二つのブロックとなっているギシャーは、西側を大学の人が、東側を病院の人が使っていた。高級住宅ではないが、手頃な値段で十分快適な生活ができるという。
ギシャーの右手にはアザディ国立スタジアム(Azadi National Stadium)があった。約10万人の収容できるという。
屋外での一周を終えた私たちは、屋内に戻った。中には世界のタワーの模型やイランの古代タワーの模型が展示されていた。世界のタワーはその高い順に並んでいたが、先頭には東京のスカイツリーの模型が立っていた。古代のタワーは7個あり、これもまた高い順に並んでいた。古くは900年前から、一番新しいといってもガージャール朝時代に造られたもので、多くが天体観測のために建てられたという。ガイド氏からいくつか簡単に説明をしてもらった。25メートルのMeel-e Karat (Karat Tower)はセルジューク朝(11世紀〜12世紀)時代に建てられ、その外壁にKufi模様 でコーランの一句が刻まれている。40メートルのMenar-e Ayazは800年前に建てられ、当時はお寺 として使われたという。火事により破壊され、その後はお寺の代わりにモスクが建てられた。一番高い60メートルのGobad-e Qabusは11世紀に建てられた。このタワーは三角柱を繋げ円形をつくるGoshe Saziという独特な技法で造られた。
奥に進むとイーゼルが並び、タイルや絵画が展示されていた。私たちが見たタイルは七色のタイルで、多くのモスクの装飾に使われているイラン固有のものだという。七色タイルはジクソーパズルのようにパネルに描かれたあと、組み合わせて完成される。ベースとなる色は青であり、清潔を表す水を意味するという。色を付ける際には溶かした金を塗ってから色を入れるという。金が日光を反射させるため、色褪せることを防ぐのである。
室内の見学も終わり、エレベーターに乗り、下に降りた。エレベーターは1階ではなく、5階に止まった。スナックやお土産の商店があったが、スケジュールに追われていたため寄り道はせず、タワーを後にした。
ミラード・タワーは建設に10年といった年月をかけ、外見・内見の装飾や施設そのものにとても投資したような印象を受けた。テヘラン北西部に建つこのタワーは、公営セクターとしてテヘラン(もしくはイラン)の「威信の象徴」の役割を担っているのではなかろうか。
次に私たちは展望台でガイド氏に説明してもらった、高級ショッピングモールに向かうことにした。
ミラデノーア(Milad-e Noor)はタワーの北西側、テヘランの新市街地にあたるShagrak-e-Qods (Gharb)という町中にある。公式ホームページ によると、Milad-e Noorは1999年にオープンしたイラン最大の商業施設であり、テヘラン最高級のショッピングモールだという。357店舗を有し、従業員は1200人。来客数は、平日約5万人、休日は約8万人である。先にも述べたように経済制裁のため欧米等からの直輸入はできず、このショッピングモールにて販売される品物は全てドバイ経由の輸入品となっている。
ミラデノーアは出入り口が2階にあり、6 Floorが最高階となる8階建てのビルである。ビルは緑の目立つ色で、四角形ではなく五角形で建てられていた。
私たちは2階から入った。入口の手前にはフライドポテト等のスナックの店があった。入口にはPumaの赤い看板がみえていた。その看板の向こうが、店舗のようであった。中に入ると、入口の近くには銀行があった。私たちが入った入口の反対側に4つの他入口があり、入口と入口の間にはエレベーターが設置されていた。エレベーターを除き五角形の4面に沿ってテナントが並び、またビルの中央に三角形でテナントが並ぶ。テナントとテナントの間が廊下のようになっており、容易にフロアーを一周できる配置であった。エスカレーターは建物の一番奥にあり、近くに案内デスクやフロアー案内モニター、お手洗い、礼拝室、給水台等も設置されていた。利用客の移動の便利に、また分かりやすく利用できるよう工夫したようである。
壁と床はタイルとなっており、壁には緑色、床には灰色をベースに紅色の模様が入っていた。ビル全体的に大変綺麗で、お洒落な感じが漂った。
どのような店が入っているか見ると、洋?、生活雑貨、照明、家具等の商品を扱うのはもちろん、銀行、ランドリー等サービスを扱う店舗も多い。フロアーごとに扱う商品が特定の物に決まっているわけではなかったが、しかし大まかに分類はされていた。入口のある地上階にはファストフードや銀行、携帯電話の代理店などサービス中心の店舗が並ぶ。1 階(日本でいう2階。以下、イランの階数表示のままとする)から4 階にはだいたい洋?、化粧品、アクセサリー、生活雑貨を扱っていた。5 階にはパソコンとその周辺機器、家具、寝具、照明等のお店があった。だが、商売の真最中と思われる午後であったにも拘らず、閉まっている店舗や空きテナントが目に入った。ガイド氏によると、ミラデノーアは民間が所有している建物で、テナントは区画を借りて営業している。しかし各テナントの家賃・管理等に関する権利は政府が持っているという。これは、過度な上動産投機を防止するための策であると思われる。テナントの賃貸料が規制されているため、高い家賃を取りたい建物の所有者が、規制家賃が上がるのを待って、いまは賃貸契約をしないで保持しているのかも知れない。
ショッピングセンターを回る途中、警備員から注意を受け写真を撮らないように言われた。お腹を空かせて私たちはレストラン街のある6 階に向かった。6 階はVIP階とされているようで、下の階に比べると遥かに強い高級感が漂っていた。天井にはシャンデリアが飾られ、テナントも高級ブランドのみであった。中には日本のYAMAHAの店もあった。5 階までは壁色が濃い緑であったため全体的に暗い感じであったが、6 階は白い壁に、天井のシャンデリアが光り、明るかった。この明るさがまたフロアー全体に漂う高級感を増幅させるようであった。
レストラン街に着いた私たちはやや広めのTAMASHA レストランというお店に入り、マルゲリータピザとBavariaというオランダの麦酒会社のRegular Malt(ノンアルコールビール)を頼んだ。 アルコール飲料が禁止のイランでは、代わりに、ノンアルコールのビールやモルト飲料という代替品がよく飲まれている。飲食代金は、一人約800円であった。私たちには比較的リスナーブルな値段であったが、イランでは、富裕層のみが来られる価格であろう。私たちが昼食を取ったのは15時過ぎであったためか、レストランはそれほど混んでいなかった。周りの客は食事というよりも、ティータイムという時間を優雅にを楽しんでいるという雰囲気であった。
ミラデノーアに訪れる客は、一目で分かるような高級感があった。アバヤ等で身を覆い隠す女性はおらず、派手な色・柄のヒジャブをスカーフのように被り、髪をさり気なく露出させて、イスラームの戒律にそれとない反発の意をファッションであらわしている女性が多かった。まさに、テヘランの高級層が集まるショッピングセンターに相応しい客に見えた。
視察を終えて、専用車に乗り、北東に向かった。
次の目的地はガージャール王朝の宮殿の一つで、イスラム革命前の最後のパフラヴィー2世が住んでいた、ニヤヴァラン宮殿である。ショッピングモールから、北東におよそ10キロメートル離れた所にあった。
宮殿は入口でのセキュリティは厳しかった。既に公式の開館時間は終わっていたが、私たちは大学生であり、勉強のための見学だという趣旨を伝えてから30分の見学を許された。入場料は15万リヤル、約600円である。
中に入ると、緑豊かな庭が広がっていた。宮殿を囲む壁には、タワーでみたようなイスラーム特有タイルの装飾があった。建物は白をベースとしていて、全体的に贅沢や派手というよりもシンプルで素朴な印象であった。
ニヤヴァラン宮殿は、約200年前、ガージャール王朝がシーラーズからテヘランに首都を移転したときに造られた。テヘランにはガージャール朝時代に造られた宮殿が3つ(Golestan Palace、北部のSa’d Abad Palace、東部Niyavaran Palace)残っている。これらの宮殿はガージャール王朝とパフラヴィ―王朝の中心となり、1979年イスラーム革命が起こる前まで使われた。
主に公式の場として使われたゴレスタン宮殿とは違って、ニヤヴァラン宮殿はレジャーや住居として使われた。
(コラム)ガージャール朝とパフラヴィ朝 |
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<ガージャール朝> サファヴィー朝の崩壊後、上安定であったイラン国内情勢のなか、トルコ系のガージャール族の指導者アーガー・モハンマド・シャーが1796年にガージャール朝を興した。建国以来、フランスやロシア、イギリスからの圧迫がひどく、ロシアとの2回にわたる戦争に負けてしまい、広大な領土をうしなってしまう。レジャー・カーンのクーデターにより、第7代王のアフマド王が廃位され、ガージャール王朝は崩壊する。 (出典:知識百科「パフラヴィ王朝の登場」筆者訳) <パフラヴィ朝> 1921年レジャー・カーン指揮のコサック軍がテヘランに進撃、アフマド・シャー王を制圧した。 1923年に自ら総理となったレジャーは、イギリスの支持のもと、1925年パフラヴィ朝を興す。彼は国の近代化・西欧化を目指し、強力な軍事力で王権を強めた。フランス法とイスラーム法を基礎とした新しい法律を制定、また伝統教育に代わる近代教育も実施した。1935年には国吊をペルシャからイランに変更、西欧の経済システムを導入することで、イランの産業化を成した。1979年イスラーム革命で崩壊し、ペルシャ最後の王朝と記憶される。 (出典:斗山百科「ガージャール王朝」筆者訳) |
私たちはまず宮殿の中心であるSaheb Gharni-E Palaceに入った。
階段の上った所には、天井に派手なシャンデリアがあり、壁3面に大きな絵がかかっていた。ガージャール朝第4代王であるナーセロッディ・シャー王はアート好きで、美術や建築、写真に大変興味を持っていたという。この3つの絵画はナーセロッディが在位した時の作品であった。左右の壁にはAbdullah Khan Naghash Bashi作の「Line of Qajar’s prince at salam ceremony」という絵画があり、18人の王子が三列に並んで描かれていた。いずれも西洋の様式を持つ絵画であり、イランの王朝が、ヨーロッパに深く傾倒していたことを示している。ガイド氏によると上下の位置は父子関係を表しているという。
正面の壁には、Kamal-ol ?molk作のAmir Kabirの肖像画があった。Amir Kabirはナーセロッディ時代の首相で、当時全国民から尊敬されていた人物だという。彼は「Doralfunun」という小規模の学校を作り、人々を教育させ、また新聞を発行した。国民の支持を得、権力を握るようななった彼をナーセロッディ王は恐れ、テヘラン南西部にあるフィンガーデンで彼を殺したという。
すこし廊下を進み、小さな部屋に入った。この部屋には壁いっぱい白黒写真が飾られていた。ガイド氏によるとナーセロッディ王がイラン初めてフランスからカメラを持って来たという。かつてのイランとフランスとの強い結びつきを示す。この写真はそのカメラで撮影した当時の宮殿と人々の写真であった。写真の詳しい説明はなかったが、小部屋二つの壁全体で展示されていた。
ニヤヴァラン宮殿はガージャール朝時代から使われていたが、内部に残っている多数のデザインやデコレーションはパフラヴィ朝のものが多い。次に入った、軍事交渉室(Military Negotiation Room)もパフラヴィ朝時代のものである。ムハンマド・シャーの王妃がフランスで建築を学んだ建築家を雇用、部屋のインテリアを頼んだという。部屋のなかにはエリザベス王妃からのプレゼントやベルギーで作られた銃、椅子くらいのサイズの大きな地球儀等が展示されていた。この地球儀を使って、地政学的な軍事戦略を練ったのかもしれない。
次に着いた部屋は有吊な鏡の間(Mirror Hall)であった。派手なシャンデリアと壁や天井を飾る小さなガラスが光り、部屋中がキラキラとしていた。ガイド氏によると、部屋全体を覆う鏡細工は450年も遡るという。サファヴィー朝時代、ベニスからの商人はイランに訪れる際、王族にプレゼントを渡す習慣があった。当時鏡をプレゼントする場合も多かったが、移動中にすぐ壊れてしまったという。建築家たちは壊れた鏡を拾い、繋げ合わせたのが、鏡細工の始まりであった。鏡の間はガージャール朝ナーセロッディ・シャー時代に始まり、次代のモザッファロッデイ・シャー時代に完成された。主に公式行事の際に使われていた。部屋の真中には大きな絨毯が敷かれており、その奥には緑色の高価なソファとテーブルがあった。その反対側に実際使われていた王のテーブルがある。
部屋に入ってすぐ右には秘書室、左は歯科治療室があった。両方ともパフラヴィ朝ムハンマド・シャー時代に作られた。秘書室はインテリア、家具すべてがフランス式で、歯科治療室の設備はドイツのものだという。歯科治療室は1960年代後半に設置された新しいもので、実際10年ほどしか使われなかった。
鏡の間を真っすぐ進むと、その左には浴室があった。フランスから輸入したタオル、カーペット、全身鏡を置いた贅沢な空間であった。公式の場として使われた部屋のすぐ隣に浴室を用意したことから、王がこのホールで長い時間を過ごしていたことが窺える。浴室の向かい側には、贈り物の部屋(Gift Room)があった。イスファハンからのシルクのカーペットや中国からの螺鈿飾りのテーブル、花瓶などが展示されている。
鏡の間を後にし、廊下にでた。壁には入口と同じく絵画が飾られていた。戦争から敗北し、失望した顔の軍隊の絵や聖母マリアとイエスの絵などがあった。シャーは、イスラームよりも、欧米のキリスト教に親近感を抱いていたのであろうか。階段を下りるとPrivate Conversation RoomとMedal Roomがあった。ここもまたフランスデザイナーであるルイが作った部屋で、全体的にフランスのインテリアそのものだった。インテリア全般はもちろん、装飾品や絵画までヨーロッパ風で、当時王族がヨーロッパ等と親密な関係であったことがわかった。
奥に進むと赤いソファの置いた待合室があった。ガイド氏によると宮殿に訪れた外国の賓客の待合室だという。部屋には当時の賓客たちの顔写真があった。9代パキスタンのブット首相、アメリカのニクソン大統領、日本の昭和天皇の写真もあった。
ニヤヴァラン宮殿はガージャール王朝とパフラヴィ朝のシンボルである。イスラーム革命後にも壊されることはなく、こうして一般の観覧に供している。これは、その美しさもさることながら、かつてのシャーがいかにイスラームを事実上捨てて欧米と一体化し、イランを世俗化させようとしたかという、歴史の反面教師としての価値が重視されているのであろう。
宮殿の建物から出て、庭園を歩いた。庭園にはカフェテリアもあり、お茶をする人も多かった。私たちはカフェテリアのすぐ横にあるAhmadshah’s Summer Houseに移動した。しかし入ることはできなかった。Summer Houseの向かい側にはベージュ色の3階建てのビルがあった。1968年から1979年まで11年間王族のプライベート住宅として使用されたという。壁には城壁のタイルと同じ模様が描かれていた。
ニヤヴァラン宮殿は全体的に素朴でインプルな雰囲気が漂う空間であった。しかしこの宮殿がほぼレジャーや住居といったプライベートだけのために造られ、使われていたのであれば、また解釈が変わってくる。テヘラン市内に何か所にも宮殿を建てていたことを考えると到底素朴とは言えない。むしろ想像通りの贅沢な生活が窺えるのかも知れない。
庭園の奥に進もうとしたが、軍?姿の人に注意され、行くことはできなかった。
宮殿の見学を終えると、出口のところにポスターが張ってあった。アバヤを着けた女性の絵があり、ペルシャ語でなにか書いてある。「イスラーム法に則った規律正しい服装をしよう」という趣旨の政府の啓蒙ポスターかとガイド氏に尋ねると、そうだという。「服装の乱れは心の乱れ」ということであろう。中学校の生活指導を思い出し、興味深いので写真を撮ろうとすると、制止された。イスラームの戒律を市民に強いていることを外国に知られるのはまずいらしい。国際的に人権侵害を追及されるのを怖れているのだろうか。
私たちは次にバザールとモスクのある南に向かった。宮殿のあるあたりは車窓から高級住宅や商店が密集しているのが目に入る。ベージュ色の邸宅や高層アパートが並び、銀行の看板のあるきれいな商業複合施設も見えた。
ダウンタウンに近づくと、建物は次第に茶色の古いものになり、商業地区に変わってゆく。ダウンタウンには、SAMSUNGやLGなど韓国の会社の看板を掲げた家電店舗が大変多くみられた。家電屋のほとんどは、小さい店舗のなかに一種の家電だけを扱っているようにみえた。
バザールまでの道は相変わらず渋滞がひどく、車はなかなか進まなかった。隣の車線に日本語の書いてある工業用車があった。中古のものと思われる。バイクも多かったが、誰一人ヘルメットを被っていなかった。2人乗りも多く、あるバイクには1台に4人家族が乗っていた。大変危険そうな光景で。見ている方がハラハラとした。
1時間ほど車でテヘランの街を南下し、夕方7時過ぎに、バザールのそばに着いた。バザールの前は車や人で大変混雑していたため、停車が難しく、私たちは入口からすこし離れたところで下車した。降りたところには、青果店や雑貨店、照明灯の店、スーパーなどが並んでいた。
バザールはテヘラン南部の旧市街にあり、この町はテヘランの中心とも言える。東京の都心で見られるような高級さは感じられないものの、イラン中から買い物のため、金策のため、人が絶えず訪れている。上でも述べたようにこの町の渋滞は酷く、常にヒトやモノが溢れているのだが、その第一の原因は、大バザールだという
バザールの入口に向かう道は並木道となっていたのだが、上思議なことに木の根元から水が湧いていた。恐らく人工的に水をやることで、木が枯れないようにしたものであろう。バザールに向かって真っすぐ歩いていたら、道路の右側に大きな時計塔が見えた。ガイド氏によると、Shamso Al Emarchだという。約120年前に建てられたもので、イランの初めての5階建ての建物だそうだ。典型的なフランス式建築であり、時計塔の時計はイラン最古の時計の一つだという。
さらに進むと、左側にはベンチなどが並んだスペースがあった。人々は新聞を読んだり、会話を交わしていたりした。その向かい側には大きな門があった。ここが、ガイド氏によるとゴレスタン宮殿(Golestan Palace、テヘランで一番大きい宮殿)の裏門だという。
バザール(Tehran Bazaar) 約1キロメートル四方で、換気のため天井に丸い穴の空いた屋根に覆われており、常設店舗が軒を連ねるアーケード街のようになっている。
中に入ると、人間と商品、そしてゴミが溢れている。迷路のような中の通路には人、バイク、トラックが同じ道を同時に行き来している。無造作に積み重ねられている大量の品と、雑然としたお店のディスプレーが、どうにも落ち着かない空間を作り出している。日が暮れ出した時間であったため、店は閉まりはじめており、開いている所も品物を片付けているように見えた。
バザールといっても、ここで売っているものは、通常の生活雑貨や衣類である。私たちが通った所には時計や洋?、香水の店舗があった。同じ品物を扱う店が隣同士で並んで集積している所が多い。その理由は、特定の品物を求め訪れるお客を配慮したため、もしくは卸売業のような役割を果たすため、そして、商品の取り寄せや比較を容易にするため等と考えられる。
ガイド氏によると、今日、バザールで販売されている品はほぼ中国製だという。実際子供の洋?屋でタグを確認してみたら、見事に「Made in China」と書いてあった。
奥に進もうとすると、そこはすでにすべての商店が閉店していて暗いトンネルのようになっていた。安全ではないので、道路側に戻るため、入口の方に向かった。そこで私たちは、上思議な光景を目撃した。ある店員がお店からゴミ箱を持って来て、堂々と通路にゴミ箱をひっくり返し、ゴミを捨てている。そのすぐ隣で、兄弟に見える二人の少年が小さなプラスチックの箒を持ち、通路の掃除をしていた。ゴミを捨てる大人と、それを拾う子供。大変違和感のある場面であった。ゴミ拾いの少年はゴミを商品として売るか、または掃除することで給料をもらっているのであろう。
ガイド氏によると、バザールの各店舗は、ミラデノーアのテナントと同じく、その管理を政府が担っている。政府は商人に「Sarghofli(鍵という意)」という店舗利用ライセンスを売る。このライセンスは、有効期限はなく、物権のように売り、または貸しができる。その際の値段は政府の決めた正価の±2割で価格設定ができるが、2割を超えてしまうと罰金等の処罰があるという。
19時半頃、バザールから出た私たちは道路に沿って東に数メートル歩いた。今日の最後の目的地は、ガージャール朝時代に建てられたエマームホメイニーモスク(Imam Khomeini Mosque、旧シャーモスクShah Mosque)である。黒い鉄製の門に入り、階段を下りると、中庭らしき所が現れた。2階建ての商業用もしくは住宅用として使われているような建物が周りを囲み、木が?えられており、水を溜められるプールのようなものが三つ並んでいた。私たちは更に奥に進み、イーワン型門に入った。廊下を通り、門からでると、広場のような空間が現れた。イスラーム特有な、色鮮やかなタイルの装飾、ぐっと聳え立ったミナレット、ミナレットが放つ黄緑のライト、エキゾチックな空間に、私たちはとても感動した。
外壁を綺麗に整えるのではなく、そのまま隣接街区につながっていて、むしろ内部をきちんと整備するというイスラム特有の建築空間が目の前にあらわれたのである。
中庭の真中には蛇口付きのプールがあった。ガイド氏によると、ムスリムは礼拝の前に必ず顔と手足を洗わなければならないので、このプールは体を洗うために設けられているという。ちょうどアザーン(Adhan、礼拝)の時間になった。ミナレットから予め録音したような音声が流れ始めた。ガイド氏によると、アザーンは一日5回、日の昇り出す早朝、正午、午後3時頃、日の暮れる夕方、眠る前の深夜に行われるという。一般にモスクには2つの礼拝室があるのだが、ムスリムでない人は中に入ることができないため、私たちは主礼拝室(Main Pray Hall)を外から覗いてみた。礼拝室には数吊のムスリムが真正面(南西側)の壁に向かって礼拝をしていた。
東西南北に大きな門があり、道路に面している北側の門を除いた3門は全て、先程訪問した大バザールに繋がっている。その一つを覗くと、たしかにその先にはバザールの商業アーケードが続いていた。バザールは商人の職場であり、また人々の集まるコミュニティでもあるから、一日5回も礼拝するムスリムにとっては、バザールの近くにモスクがあるのは大変便利である。
東西南北に門を設置したのは、遠回りを防ぎ、接近性を高めるためである。私たちが行った時間では、バザールに繋がる3つの門は閉まっていたためガイド氏に使われていないのではないかと聞いたが、バザールの開いている時間には利用されているという。
モスクの視察を終えた私たちは専用車に乗り、ホテルに戻った。ホテルのレストランにて夕食を取りながら、皆で一日を振り返り、その後解散した。c