2012年9月15日 チェルノブイリ

ロシアからの自立の象徴、GUAM本部のある独立広場に集合

昨日と同様の場所で朝食をとり、7時半に私たちはホテルを出発した。 本日は、ツアーに参加してチェルノブイリ原発跡地を視察する。 そこで、その集合場所である、昨日も訪れた独立広場に公共交通機関を用いて向かう。

ホテル付近のバス停から路線バスに乗り、地下鉄駅リボベジェルナ(Livobejerna)へ向かう。 料金は大人が一律1.5フリブニャ(約15円)と、大変安い。通勤・通学のために駅へ向かう人が多く、車内はかなり混雑していた。 キエフでは地下鉄の路線網が密ではないので、このようなバスが重要なフィーダの機能をはたしている。10分程の乗車のあと、地下鉄駅へたどりついた私たちは、青いジュトンを購入し、地下鉄に乗り込んだ。 地下鉄車内も相当混雑していて、乗車率は100%を超えているように感じられた。 車内にて、東洋人は珍しいのか、周りの人間にジロジロ見られて、居心地が悪かった。

私たちが乗った地下鉄は、私たちが乗り込んだ駅のあたりは高架となっている。 西進してドニエプル河を渡ると、川の段丘崖にぶつかり、そこからトンネルとなって地下深くに入っていく。 これは、キエフの都市の大部分が河の段丘面につくられているためである。 15分ほどで目的地の駅マイダン・ニェザレジュノスチ(Maidan Nezarejnoschi)に到着する。

改めて独立広場の周囲を観察すると、様々なものが新たに発見された。 その一つは、「GUAM」の本部の施設である。GUAMは、旧ソ連を構成していた共和国の一部であるウクライナ、モルドバ、アゼルバイジャン、グルジアからなる共同体で、GUAMはそれぞれの国の頭文字をとったものである。 ロシアはこの共同体から排除されており、旧ソ連におけるロシアの覇権から脱却しようとする志向を示めしている。 このことは、この独立広場という場所が、ウクライナの人々にとって、ウクライナ国民の独立性を示す重要な場になっていることを象徴している。

その他は、フィン銀行といった金融機関や、社会主義時代から存在したと思われるデパート、そしてマクドナルドの出店が観察された。 この場所がただ単に独立を示す場だけでなく、人々が集中することにより商業的優位性を持った都市地区になっていることも確認できた。

独立広場で待っているとどこからともなく人が集まってきた。 今回の原発ツアーに参加する人たちで、総勢20数名である。 参加者はほとんど欧米人であり、話している言語から判断すると、ドイツ人、イギリス人、アメリカ人などが多かったと思われる。 東洋人の参加者は私たちだけであった。

しばらくするとこのツアーの主催者である 「Solo East Travel」の人々がやってきて参加者の受付を始めた。 希望者には10米ドルでガイガーカウンターが貸与される。 また参加記念Tシャツの販売も行っていた。 記念Tシャツの背中には、環境運動団体のグリーンピースのロゴが入っており、グリーンピースが関与していることがわかる。 私たちは、日本からカウンターを持参してきており、これで測ると、キエフの放射線量は0.27〜0.29μSv/hであった。( ちなみに新宿は0.0457μSv/h)

http://monitoring.tokyo-eiken.go.jp/より

私たちは運転手一名、ガイド一名とともにバスに乗車し、9時ごろ独立広場を出発した。

ガイド氏は若い20代くらいの女性で、非常に英語に堪能であり、このツアーが外国からの訪問客に対応していることが窺える。 彼女は、防護服など着用しておらず、記念Tシャツ1枚にジーンズという軽装のいでたちである。

政府公認、多くの外国人の関心を呼ぶチェルノブイリ視察ツアー

チェルノブイリは、一般人の立ち入りが禁じられている。 だが、団体ツアーに参加すれば、原発から半径30km圏内に入り、チェルノブイリ原発の南北それぞれに位置する、廃村となったチェルノブイリ、プリピャチの両村、そしてコンクリートで固められたチェルノブイリ原発4号基とその周辺を訪れて観察することができる。

私たちが参加した原発ツアーは、ウクライナ政府の認可のもと、民間旅行会社が主催している。 ガイド氏によると、このツアーは、チェルノブイリ原発の現状を知ってもらおうというのが目的である。

『朝日新聞』は、このチェルノブイリ行きツアーを紹介して、2011年11月に始まったと書いている。 だが実は、1997年ごろからもうチェルノブイリへのツアー自体は存在していた。 これは、政府公認ではなく、ツアー参加者をジャーナリストや科学者ということで届け出て許可をとり、現地を訪問させていたようだ。 また、ガイド氏によると、テレビゲームなどでチェルノブイリ一帯が取り上げられ、それがもとで興味本位に立ち入り禁止区域に違法に立ち入る人々(stalker)が増加してきた。 そこで政府はこれらを追認・合法化して、ツァーに申しこめば誰でも立ち入れるようにしたのである。 そこには、チェルノブイリの現状を多くの人々に知ってもらえるだけでなく、チェルノブイリ原発に興味を持つ一定の訪問客を呼び込んで手数料も入るという、一石二鳥の意図があったとみられる。

ツアーの主な客層は欧米人だが、2011年の福島の原発事故の影響もあるのか、日本人の客も一週間に数回訪れるとガイド氏は言っていた。 新たなオルタナティブツーリズムの一形態ともいうべきこのチェルノブイリツアーは、これから日本人にもさらに注目を浴びることとなるだろう。

(参考 「チェルノブイリ観光地化 見学ツアー解禁」『朝日新聞』 12月27日)



チェルノブイリへの道

キエフ市街を北上し、高速道路P02に入る。幹線道路付近には、社会主義住宅の間の緑地を埋めるようにニューリッチ向けの高層住宅が建設されている。

キエフ市街を出ると、今までみてきた他の都市と同様、左右に広大な耕地がみられるようになる。 しかし、耕地のところどころには、新築の郊外住宅がかたまって点在している。 郊外に住居を求めるニューリッチによって、スプロール的な都市化がはじまっているように見受けられた。

幹線道路をさらに北上し、いくつかの小さな集落を通過する。 この周囲の集落はオデッサの郊外などでみられた集落と大差はないように見えた。 農産物加工工場もみられ、原料立地型の産業立地が観察された。

車内では、事前知識としてチェルノブイリの原発事故を取り扱ったドキュメンタリー番組が上映された。 爆発したチェルノブイリ原発4号機に、被曝をかえりみず生身同然で、バケツリレーでセメントを運ぶ若者達の姿などの生々しい映像を中心に、事故の悲惨さを取り上げていた。 またこれに併せて日本の広島、長崎の原爆被害についても言及していた。 番組の構成としては、原発当時の作業員の英雄的行動、放射能汚染被害の恐怖に主眼をおいた構成であった。 このドキュメンタリー映像は、英語で放映されている。 ここでも確実に、このツアーが外国人向けであることがみてとれる。

幹線P02を北上すること一時間半、イヴァンキフ(Ivankiv)という町で、車は北東に進路を変えた。 さらに一時間半ほど進むと、私たちは30km圏内であることを示すディチャトキ(Dytyatky)検問所に到着した。

この検問所では、パスポートによる本人確認を行い、ツアー以外の参加者が侵入しないようにしている。 つまり、パスポートを忘れると、絶対にこのツアーには参加できない。 部外者を入れないため、何人もの軍人が警邏していた。またここで私たちは対放射能用のマスクを手渡された。 ただし、放射能防護のためのマスクといっても、普通に日本で見かける風邪用のマスクと大差なく、気休め程度のものに感じられた。 ここでの放射線量は0.31〜0.33μSv/hであった。



視察に伴う健康被害訴訟権を放棄する書類にサイン――チェルノブイリの町

  検問所をこえて、十数分で私たちはチェルノブイリの町へ着いた。 チェルノブイリはチェルノブイリ原子力発電所の事故による放射能汚染でゴーストタウンと化した町の一つである。 ただ、現在も完全に無人というわけではなく、警邏のための警官や軍人や原発解体関係の労働者や事務職員に加え、この町に骨をうずめることを決意した百人近くの住民(主に老人)がこの町にまだ住んでいるそうだ。

チェルノブイリの町の入口には、チェルノブイリの町のイメージを表すモニュメントがあった。 ロゴには原子力のマーク、造船施設が描かれていた。 チェルノブイリの町が原子力発電所の電力に支えられた工業都市であったことを象徴している。 労働者の住居だったと思われる社会主義住宅が、街には多くみられた。 また原子力発電所から発生する熱を住宅地に送るパイプも見られた。 最盛期には10万人の労働者がこの町に居住していたそうだ。

私たちはまず、チェルノブイリ原子力発電所の現状と将来の見通しを紹介する博物館に立ち寄った。 そこでは、ビデオ映像で、後で現地で実物をみることになる、現在進んでいる4号機の解体技術について、CGを用いて丁寧に解説されていた。 コンクリート製の覆いを4号機の上に建設し、完全に4号機を囲んだ後、そのコンクリートのドーム内で4号機を解体するというものである。 このプロジェクトには、EUから多額の支援を受けているそうだ。 作業は2017年に終了する予定である。 その他の展示は、キエフでみたチェルノブイリ博物館と同様で、イメージ中心のものであった。

この施設で私たちは、原発に接近することに対する誓約書を提示され、サインを求められた。 これは、この先原発跡の視察にすすんで、帰宅後健康被害が発生したとしても、主催者や政府を訴えないという権利放棄の書面である。 私たちは、サインとパスポート番号を書類に書かせられた。 サインを拒否すれば、もちろんこの先のツアーには参加させてもらえない。

次に私たちはこの原発事故によって廃村になった村々を記録するモニュメントを観察した。 村の名前が入ったパネルが、まるで墓標のように一本道の通路の両脇に並べられていた。 周りは様々な草花で囲まれており、深い追悼の念が込められていることを混じた。

チェルノブイリの町の出口には、チェルノブイリ原発事故の処理にあたったがれきを取り除くショベルを備えた、戦車とも見間違えるような全長十数メートルほどの重機の実物が数機展示されていた。 これを用いてがれきなどを運搬したのだという。 実物というだけあって、これらの機械にガイガーカウンターを近づけると1.2〜1.3μ?というかなり高い線量を示した。



打ち棄てられた保育園跡で、4μSv/hを体験

チェルノブイリの町を後にした私たちは、いよいよ原発の方面に向かう。 深い森を進み、町をでて20分ほどで、第二のレリフ(Leliv)検問所が現れた。 原発から半径10km以内であることを示す検問所である。 ここから先は一般人の立ち入りが厳重に制限されている。

検問所からほど近い森の中には、かつて存在した保育園の廃墟があり、視察することとなった。 外壁が荒れ果てた建物の中に入ると、骨組みだけの幼児用ベッドやら、絵本のページやらが足の踏み場もなく散乱している。 建物の外には、むかし子供に可愛がられていたであろう人形が、片足がもげて打ち棄てられていた。 この地区は除染が行なわれておらず、建物内では4μSv超える高い線量を示した。 これだけの線量を経験するのは、生まれて初めてのことである。

森が突然姿を消し、巨大な人工物が姿を現し始めた。 まず視界に入ってきたのは、原発のための人工運河、そして事故当時建設途中であったチェルノブイリ原発5号機と6号機である。 事故で建設が中断され、その後放置されている。そのすぐ先に1〜4号機が姿をあらわした。 放射線量は次第に高まっており、バスの中でも0.7μ?という比較的高い値であった。



充実した都市機能をもっていたニュータウン、プリピャチの廃墟

さらに先に進んでいくとプリピャチの町へ入る。 プリピャチはチェルノブイリ原発の北4kmの位置にある、原発で働く作業員のために、1970年、全く新しくソ連が造ったニュータウンである。 ガイド氏によると、ソ連各地から原発労働者が集められ、最大で約5万人の人口がいたという。

当時としては、社会主義経済の根幹であるエネルギー部門を担うエリート労働者の町ということで、充実した都市機能が整備されていた。 町の施設は中央に集約され、ショッピングセンター、映画館、劇場、病院、ホテル等が集中し、周辺部には社会主義住宅地と学校そこに住む家族の憩いの場となるような、遊園地が配置されているという、高福祉な計画都市であった。 教育機能も充実し、2つの小中学校と1つの工科専門学校が設置されていた。

しかし、プリピャチは、完成後わずか16年で、その生命を終えた。 チェルノブイリ原発事故により住民は政府の命令により全員退避、ゴーストタウンとなったのである。 そのため現在では、公共施設の舗装の間から草木が生え出し、元からあった木々も生い茂って、鬱蒼とした森のようになっている場所もある。

プリピャチで私たちを迎えてくれたのは、街の人々ではなく、stalkerが落書きした影法師の落書きであった。 これは、広島・長崎が原爆を受けた時にできた、焼きついた人の影をイメージして、風刺として描いたそうである。 ガイド氏はこのことを面白おかしく語ってくれたが、自分は到底笑う気にはなれなかった。

途中、劇場の廃墟の裏口と思われる場所にはレーニンやゴルバチョフといったかつてのソ連の指導者の肖像画がうち捨てられていた。 かつては劇場に飾っていたものなのだろうか。レーニンの肖像画のほうには、「ウクライナ共産主義青年団」と書かれていた。 プリピャチにある遊園地は、実は稼働する前にチェルノブイリ原発事故が発生してしまい、実際に稼働したことはないのだそうだ。 この遊園地の象徴ともいえる観覧車は、すっかり錆ついてしまっていて、周りから生えてきた樹林に飲み込まれそうな勢いであった。 観覧車の他にも、回転イスのような遊技の廃墟や、デパートの屋上にあるようなゴーカートが走っていたと思しき錆ついた囲いが見られた。

私たちは、この町の一つの学校を訪れることとなった。 この学校は小学校兼中学校で、最大で2000人ほどの児童が通っていたそうだ。 建物は2階建てのコンクリート造りで、奥行きもかなりあり非常に大きかった。 学校のつくりとしては、日本のように、廊下があり、そこに面するかたちで各教室が配置されている。 現在では、建物の窓ガラスは多くが割れ、床に散乱している状態であったが、建物の内部は除染が行なわれており、放射線量は0.2μ?とかなり低い値であった。 しかし窓の外にガイガーカウンターを出して測定するととたんに3.0μ?である。 いかにプリピャチの町の放射能汚染が酷いかがわかるが、同時に、生徒の健康管理のため、校舎内は責任をもって除染を行ったソ連政府の姿勢が読み取れる。

小学生の教室の一つをのぞいてみた。大きさは20m×30mほどで一般的な日本の小学校の教室の大きさと大差はない。 教室内は椅子や机があちこちに打ち捨てられており、かつて使われていたのであろう挿絵がはいった教科書や、避難訓練に使われたというガスマスクが散乱していた。 廊下の壁紙は酷く傷んであちこちが破けており、階段の板は今にも抜けそうなほどボロボロであった。 また廊下の掲示板には壁紙があり、共産主義のスローガンが描かれていた。 こうした遺留物は多くをそのままにしてあるのだそうだが、興味本位にこの地域に上法侵入してくるstalker達に多くの遺留物を持ち去られてしまったという。

私たちはその後、市民プールの跡を見学した。 プールには飛び込み台も設置されており、一部は非常に深いつくりとなっていた。 周りはガラス張りになっており、事件がなければ日光が差し込む明るいつくりのプールとして、いまでも多くの水泳愛好者に親しまれる場であったはずである。 この場所は様々なゲームの場面で取り上げており、おそらくプリピャチの町で最も有名な場所の一つであろう。 その場所を案内してくれるということは、海外のツァー客のニーズをよくわかっているようである。



昼食は、除染された原発作業員の施設で

プリピャチの町の視察を終えた私たちは、昼食をとるために、原発の作業員の事務所へとバスで移動した。 この施設は今でも現役で、解体作業や変電施設で働いている作業員の詰所となっている。 詰所に入る際に、放射能汚染されていないか、測定器で体の線量を計った。 だがその測定器は、私たちが今回の巡検で最初に訪れたドイツのルブミンでの測定器と比べてお粗末なつくりであり、検査自体も粗雑であったように感じられた。 ドイツでの検査機は10秒以上測定していたのに対し、ここではわずか1秒だけである

詰所は、飾り気の無い簡素なインテリアではあるが、清掃が行き届いている。 内部の放射線量は0.17μ?と、きちんと除染がなされて正常な値を示していた。

事務所内の作業員用食堂で、私たちも昼食をとることとなった。 キャフェテリア形式で、棚に並んでいる食物をトレイにとる。 ここの食材は、域外から運び込まれている。 内容はボルシチ、パン二枚、チキンカツレツ、付け合わせの野菜、そしてジュース2杯となかなか豪勢で、美味であった。



チェルノブイリ原発4号機から数百mの場所まで接近

昼食を済ませた私たちは、先ほど通り過ぎたチェルノブイリ原発に再び向かった。 今度はいよいよ、原発4号機のすぐそばまで接近し、4号機、その廃炉作業、周辺のモニュメントなどを視察することになる。

まず私たちが見たのは、4号機の爆発で亡くなった人々を称えるモニュメントである。 爆発により直接に亡くなったのは2人だけであるが、この事故がもとで亡くなったとされる12人についても同時に称えられていた。 モニュメントの様式は、いままでウクライナの各地で見てきた共産主義時代の労働英雄を称えるそれと同様であった。 だが、一人ひとりの名前が今までの物より格段に大きく取り上げられている。 このことを考えると、かつてのソ連政府が彼らの犠牲をいかに尊く称えようと考えているかがわかる気がした 。彼らは自らが被曝する危険にさらされることを承知の上で、事故の拡大を防ぎ、周囲の住民を守るために、決死の覚悟でろくな防護装備も身につけることなくセメントの輸送に従事した、とガイド氏は説明してくれた。 事故の前は無名の労働者であったこの犠牲者たちが、ウクライナ人の心にいまや英雄として刻み込まれているのである。 ソ連だけでなく、福島原発の事件直後、西側の海外メディアは、先頭にたって原発内で作業に取り組んだ無名の労働者たちを、「Fukushima 50」として称えていたことが思い出される。 こうした自己犠牲の英雄精神は、海外では日本以上に強い賞賛の対象となるということであろう。

私たちは、さらに4号機に接近した。 4号機は事故後につくられた石棺コンクリートで固められた姿そのままに無機質な外見を今でも晒し続けていた。 私たちは石棺はすぐ目の前三百メートルくらいの位置にある記念碑の前でいったん専用車から下り、しばしの間4号機のを視察したり写真を撮ったりした。 ここの放射線量は、12Svと非常に高い値であった。

ここでは、進行中の、4号機の解体に向けたプロジェクトの作業現場を視察することとなった。 現在、先ほどチェルノブイリの町の博物館で見た、鉄筋コンクリートの傘を建設中である。 このプロジェクトには先ほどにも述べたようにEU諸国を始めとした全世界から1500万ユーロもの寄付が送られて実行されている。 技術を提供し、作業をになっているのは、看板から判断すると、フランスとアメリカの企業である。 現在世界を見渡して、原発解体・廃炉の技術はこういった国しか持っておらず、日本にその技術はない。 4号機廃炉のプロジェクトを遂行するため、チェルノブイリには国際社会の資金と技術の英知が集中して投下され、責任ある作業が進められていることがわかる。

最後に私たちは、4号機を発って、これに程近い、「赤の森」と呼ばれる灌木の林を訪れた。 ここは4号機の間近に位置しているということもあり、非常に放射能汚染が集中しでいる地帯である。 そのため生えている植物が赤みがかってしまっているのだ。 その数値は、車内で測定してなんと24μ?/h以上。 あまり高すぎて私たちが持ち込んだカウンターは振り切れ、計測不能となってしまった。 東京にいるときのなんと600倍もの放射線を浴びてしまったこととなる。 さすがにこの値を見たときは一刻も早くこの場を立ち去りたかった。

帰路につき、10km地点の検問所で私たちは放射能汚染の有無のチェックをうけた。 ここで用いる機器は、先ほどと同じ簡素なものである。 実はここで教授がひっかかったのだが、すぐに隣の機器に移動させられ、そこではひっかからなかったのでOKということにさせられた。 検査のあまりの適当ぶりには呆れるほかなかったが、今後このツアーがよりポピュラーになり、より多くの人がこの地を訪れるようなれば、このような状況も変わっていくのだろうか?

今回の視察を通して考えたこと

今回のチェルノブイリ原発跡の視察を通して、私たちは、チェルノブイリを日本の福島原発の事故処理の現状と比較して考えざるを得なかった

チェルノブイリ原発は、いまや、アメリカやフランスの力を借りて原子炉の解体にこぎつけようとしている。 事故発生から20年以上の歳月を費やし、かつ世界から多額の援助を受けてやっとの思いであるとはいえ、解体作業は、着実に進んでいるようにみえた。 一方で日本の原発事故後の対応はどうであろうか。 事故の正確な情報が一向に国民には公表されず、またその後、外国が提供しようとした、破壊された原発処理への応援まで断ってしまった。 では日本自身に原発事故の後始末を行うだけの技術があるかというと、事故発生後から今日に至るまでの状況を踏まえれば、皆無に等しいのは明らかだろう。 作業は、ヤクザまで巻き込んで、いきあたりばったりに行なわれ、いつ果てるともしれない。 無駄な時間と資金が永遠につぎ込まれ、途上国と同じような惨めなありさまを晒している。 日本は、先進国といっても、すべての分野で先進技術を保有しているわけではない。 事故原発処理技術など、日本には皆無に等しい部面では、ウクライナのように、むしろ腹をくくって国際的協力を全面的に受け入れ、責任をもってこの問題に取り組み、問題に一日も早く終止符を打つべきだと私たちは考える。

また、ウクライナ政府が、汚染地域の住民を全員移住させ、厳しい立入禁止の措置をとっていることも、住民の健康を守る立場から評価できる。 これに対し日本では、除染を十分に進めないまま、帰還の条件である放射線量1m SV/年 を、健康被害について十分な検討・調査のないまま無定見に緩和して、破壊された原発から20km以内の放射線量が高い地区に人々を戻そうとしている(『読売新聞』2013年3月3日)。

さらに、ウクライナ政府がこのような原発事故地区へのツアーを公認し、だれでもカメラやガイガーカウンターを自由に携行して現場を視察できるシステムをつくって、積極的な情報公開をすすめていることも、高く評価されてよい。 これに対し、福島で日本政府は、原発周辺地区を立ち入り禁止地区に指定するだけで、現実は一般市民の眼から隠蔽され、市民が現状を自分の目で見て問題を考えることをできなくしている。

ただ、私たちに強く気がかりなのは、ツァーガイドとバス運転手の労働条件である。 一回訪れるだけの私たちのようなツアー客ならともかく、ガイドは若い女性で、月に十数回、ツアー客を案内してチェルノブイリ原発を訪れ、そのたびに高線量地区にはいって、かなりの放射線を浴びている。 彼女の健康への被害が、強く懸念される。 そのことについて彼女に尋ねたのだが、彼女自身は、検査も受けているし特に気にしておらず、沃素製剤なども服用していないという。 だが、妊娠を控えた若い女性となると、将来的にこのことは大きな禍いを生む気がしてならない。 ツアー会社が労働者の健康を軽視していることは明らかであり、このツアーをウクライナ政府が公認している以上、そこには政府の責任もみてとれるだろう。 そして、このようなツアーを経営的に成り立たせているのは、私たちも含む主に外国からの訪問者である。 このことを考えると、消費者としての私たちの道義的責任が問われなくても良いのか、複雑な思いがしてくる。



ウクライナ政府の豊かな文化活動への援助――国立オペラ座で「蝶々夫人」を楽しむ

キエフに戻った私たちは、巡検の最終日、昨日訪れたオペラ座で、ウクライナ国立歌劇団が上演するオペラを鑑賞することになった。

ツアー解散後、開演時間が迫っているので、そちらにすぐ向かうことにした。 だが、途中、やや道を間違えて、独立広場からすぐホロデツコ建築家通り(vul. Arkhitektora Horodets'koho)の方に曲がってしまった。 キエフの独立広場周辺地区は、旧ロシア帝国時代に整備された豪壮な建物が並んでいる。 表通りから入ってひっそりしたこの通りでは、グッチやシャネルといった西側の高級ブランド商店や、高級寿司店などが立ち並ぶ高所得者むけの商業地区が形成されていた。

オペラ座に入場すると、私たちの席は、オーケストラボックスのすぐ目の前で、歌手が間近に見える非常に良い席であった。 にもかかわらず、料金は2千円程度と、極めてリーズナブルである。 日本ならば、国内の歌劇団でも5千円、海外の歌劇団の出張公演なら2万円は優に超えること間違いない。

演目は、プッチーニ作曲「蝶々夫人」である。 「蝶々夫人」は、イタリア・オペラではあるが、ウクライナ人の女性歌手が名演を行って有名になった歌劇で、ウクライナでは非常に人気が高い。 また、筋立てが、長崎に出張してきたアメリカ人将校が一時の慰みに、真剣に愛と結婚を決意している日本人女性・蝶々夫人を弄んで自殺に追いやるという、アメリカ人の不道徳さを問題にする内容であることから、嫌米の旧社会主義諸国では、その人気にさらに拍車がかかったのかもしれない。 今回の公演も、ほぼ満員であった。

それにしても、遠い異国の地で日本を舞台にしたオペラを見るのは、なかなか趣深く感じた。 歌はイタリア語で、字幕がウクライナ語ということもあり、なかなか内容は把握しづらかったが、パンフレットに英語のあらすじが併記されているので、なんとか理解することができた。このようなあたりは外国からの訪問客を意識しているのだろう。ウクライナを代表する国立歌劇団が演じているだけはあり、オペラが今回初めてである私たちにも、歌手の演技、歌唱力や、衣装、大道具などの質は非常に高いことが感じ取れた。ソ連以来、政府が力を入れてきた音楽文化の蓄積が、社会主義でなくなった今も十分にうかがえる。 オペラ座の美しい内装と合わせ、非常に美しい音響空間を作り出していた。

オペラは一幕、二幕に分かれており、幕間にはフォーマルウエアに着飾ったセレブな人々がホールに集まって、シャンパンなどお酒を飲みながら歓談していた。 このオペラの幕間の談笑に参加することがキエフのセレブの一種のステータスになっているのかもしれない。 それは、オペラ座に来る前にみた高級ブランド商店街と重ね合わせると、首都キエフにおける、ニューリッチの間での、西欧への憧憬をはらんだ帝政ロシア的な雰囲気の復活のようにも感じられた。 私たちは平服であったが、シャンパンを注文し、少しその雰囲気を味わってみた。

オペラは幕間を含め、およそ3時間半程度であった。 21時30分ごろオペラが終わった後、私たちは地下鉄に乗り込み、昨日と同様のホテルへと向かった。 この時間でも地下鉄は非常に混んでおり、遊びから帰る若者や、仕事帰りのサラリーマンで車内はあふれかえっていた。 この光景は日本と同じようだと感じられた。

遅い夕食をとり、巡検を終えた。



(吉田 洸一)