2012年9月8日 リボフ

オーストリアの建てたリボフ駅に到着: 都市リボフの3つの特徴

前夜ウジゴロドを発った私たちは、早朝6時40分、ウクライナ西部の中心都市リボフ(Lviv、ウクライナ語Льв?в)駅に到着した。ホームには、ガラスが入った大きなドーム屋根がかぶされ、線路が四本敷かれた、かなり大きな駅である。この駅は、オーストリアのガリツィア州の首都としてドイツ語でLembergと呼ばれていた1904年に建てられ、ウィーンやブダペストからの列車が発着した。 駅舎の内部は厳かな空間で、長い歴史を感じさせた。駅舎の外に出て外観を見ると、彫刻や装飾物は少なく、新古典主義の建築様式となっている。

駅前広場には、早朝にもかかわらず、旅行者が多くいる。私たちはロータリーにて、迎えにきていたベンツの専用車に乗り、朝食と休憩を取るためジョルジュホテル(George Hotel)へと向かった。

さて、ここで、リボフという都市の、三つのユニークな特徴を指摘しておきたい。 第一に、他の都市に例がなく、6つもの異なった国と民族に順次支配されてきた歴史と、それが年輪のようにつくりだした特殊な都市構造である。 第二は、ウクライナ独立以前から、ウクライナ・ナショナリズムの拠点都市だったことである。 第三は、その多様な歴史の変遷が育んだ、欧州の、そして人類の遺産としての建造環境である。 これら三点は、私たちにとって、今回のリボフ巡検の重要なテーマとなる。


リボフの歴史と都市形成 

まず、リボフの歴史を、それを支配した6つの国の時代ごとに、都市形成に関連づけながら、説明する。

(第一の国: ハールィチ公国)

リボフの歴史は、12世紀半ば、現在のウクライナ西部を中心に成立したハールィチ(ガリチア)公国まで遡る。リボフの都市建設は、1238年にハールィチの王・ダニーロ(Danylo)によって進められた。「リボフ」という都市吊は、ダニーロの子「レーヴ(Lev)」に由来するという 。ダニーロ王は、新たな「防衛拠点」としてこの地に目を付け、丘陵部を利用して城や城壁を築いた。この城は、現在、城跡公園となっている。また、現在のリノック広場周辺地区に街の建設を行ったので、リボフは 文化、経済の中心都市としても発展していく。

ハールィチ公国の支配者は、現在のウクライナ人の祖先ルーシ人であった。このため、リボフはウクライナに固有の都市とみなされ、その後、ウクライナ・ナショナリズムの拠点となった。 しかし、13世紀の後半になると、リボフは早くも東からモンゴルによる度重なる侵略を受け、リボフの防衛機能は脆弱なものとなっていった。


(第二の国: ポーランド)

リボフを含む周辺都市は、1349年、ポーランド王国による侵略を受けて陥落した。以降リボフは4世紀以上もの間、ポーランド王国の支配下にはいる。支配者となったポーランド王・カジミェシュ3世 はリボフの防衛機能強化を図り、タタールなど敵の襲来に備え、ハールィチ公国時代の城の場所にVisoky Zamokを新たに整備し、城壁を強化した 。こうした防衛強化策は成功し、建設以来3世紀以上もの間、タタール、コサック、トルコ、ロシアなどの包囲攻撃を耐え抜き、侵略を許さなかった。

ポーランド時代、リボフは東欧随一の貿易都市として発展を遂げた。東アジアと西欧を結ぶ交通の結節点として、リボフを経由し、東から西に銀、香辛料、果物が、そして西から東へ、衣?、武器などが輸送された 。こうしてリボフには、14、15世紀の間、ドイツ人やアルメニア人、ユダヤ人の商人が多く集まった。城壁の内部に建物が密集して立ち並び、アルメニア人、ユダヤ人などエスニック地区も形成された。

この時代、リボフにウクライナ人はほとんど住んでおらず、その大半は郊外や周辺部の農村を拠点とし、農業を営んで生活していた 。ウクライナ人は、商業・貿易という都市経済には馴染みが薄かったのである。


(第三の国: オーストリア)

ポーランド支配は、ポーランドが分割されて1772年に終わった。ポーランド領のうちリボフを含む南部が、オーストリアに割譲されたのである。首都ウィーンから見れば辺境ながらオーストリア・ハンガリー帝国の一部となったレンベルク/リボフには、ウィーン生まれの最先端の芸術、教育、建築様式が流入した。ザルツブルク生まれの著名な音楽家モーツァルトの末の息子フランツ・クサーヴァーは、20年間ここレンベルク/リボフで音楽教師を勤めながら、作曲家として生活していた。そして、都市形成も、大きな影響をオーストリアから受けた。
大学(1784年)、電話(1883年)、路面電車(1894年)、オペラ座(1900年)、鉄道駅(1904年)、といったインフラ建設や文化施設導入は、ほとんどハプスブルク帝国時代に行われた 。ただし、リボフの都市住民は、政治・経済の支配者を除いては、ドイツ語を話すオーストリア人ではなく、依然として、ポーランド人が主体であった。

リボフの防衛機能を担ってきた「城壁」の解体は1777年以降進められ、壁の外に新たな道路や広場、事務所、住宅などの開発が進み、街は急速に拡大した。
オーストリア領時代に「城壁」の外側を取り囲むように建てられた建築物は、当時西欧で流行した、特徴的な曲線の装飾や彫刻の施されたアールヌーボー、そしてバロック様式のものが多く、現在のリボフでも大きな存在感を示している。こうして、18世紀から19世紀にかけ、リボフは、オーストリアの一都市として発展を遂げ、「東方のウィーン」と呼ばれた 。


(二度目のポーランド時代へ)

第一次世界大戦後、ハプスブルク帝国が崩壊し、1918年11月1日、リボフでウクライナ人による民族自決運動が起きた。ウクライナ人たちが、初めて、リボフを自らの都市とするため立ち上がったのである。一時は独立を獲得したものの、結局ポーランドとの闘争に敗れ、リボフは再びポーランド領に組み込まれる。 (詳細は「独立闘争の歴史を語るリボフ歴史博物館」にて)
この時代のポーランドによるリボフ支配は抑圧的で、ウクライナ人の抵抗や反乱を招いた。ポーランド時代における建築物は、オーストリア領時代のものと比べ、機能主義的で簡素なものであった。

以上のように、リボフの都市形成においてポーランドやオーストリアが果たした役割はきわめて大きい。リボフを訪れるポーランド人やオーストリア人は、かつて自国が東の果てに築いた都市を見て、懐旧の念に浸ると共に自国を誇りに思うのではないだろうか。
リボフはそうした意味で、単なるウクライナの一都市では決してない。リボフが1998年にユネスコの世界文化遺産に登録された理由には、こうした欧州から見たこの都市の歴史的・文化的価値がある。


(第四の国:ドイツ。第五の国:ソ連。そして、第六の国:ウクライナ)

1939年、独ソ間の不可侵条約締結後、その条約の密約でソ連領と定められたリボフを含むガリツィア東部に、ソ連軍は侵攻した。だがほどなく、1941年、独ソ不可侵条約を破ってドイツ軍が侵入し、1944年夏までリボフを支配する。その間に目立った新しい建物はできなかったが、ユダヤ教会の破壊など、深い傷跡をリボフの建造環境に残した。

第二次大戦後のリボフは、独ソ不可侵条約の密約にほぼ従ってソ連ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の一都市となり、ここに戦前住んでいたポーランド人たちは、ほとんど全て、旧ドイツ領シュレジエンの州都ブレスラウなどに強制移住させられた。ソ連支配の下でリボフは、ウクライナ人及びロシア人の都市となり、リボフの保守的な都市の核を労働者の力で包囲するとして、郊外に大規模な画一的社会主義住宅団地群が建設された。

1991年、ウクライナがソ連から独立すると、リボフは6世紀半ぶりに、この都市を創建したウクライナ人の手に戻った。


(支配の変遷が創りだした、独自の同心円的都市空間編成)

このように、リボフは、5つもの国が入れ替わり都市を順次支配し、それによって年輪のようなユニークな同心円的都市空間が生み出された。

現在のリボフは、まず、ガリチア公国時代に形成されたリノック(Rynok)を中心に、第一回ポーランド領時代の中世的な核、それを取り巻くオーストリア領時代の住宅・オフィス・官庁群、それに一部食い込んでいる、第二回ポーランド領時代の高級住宅街、そしてその周囲に、ソ連領時代の社会主義住宅団地、という編成である。

リボフは、支配者の変遷と都市区画の同心円的発展とが直接関連付けられた、他に例の少ない貴重な都市構造を有するのである。

(参考: Taras Palkov, GUIDEBOOK LVIV,2007.
(LVIV.TRAVEL Official City Travel Site)
野村真理「恩讐の彼方」p.35『民族(近代ヨーロッパの探求)』所収,ミネルヴァ書房,2003年)



優雅な雰囲気、オーストリア時代の面影を残すジョルジュホテル

私たちの専用車は、オーストリア領時代にできた新市街のはずれにあるリボフ駅を出て、真っ直ぐに伸びる通りを進んだ。駅前の通りには、中央のスペースにガーデニングが施され、比較的綺麗に整備がなされていた。周辺の建造物は新しく、市場経済化してから建てられたものが多いようである。

ホロドツカ(Horodotska)通りにぶつかったところで左折をすると、周辺の建物の雰囲気ががらりと変わり、オーストリア領時代の建築物が現れた。この通りには、路面電車も走っている。


ホロドツカ通りから、右折して自由大通り(Svobody)に入り、しばらく進んでジョルジュホテルに到着した。 ジョルジュホテルは、ポーランド分割からほどない1793年に創設され、現在の建物は1901年にオーストリアの建築家によって設計された。オーストリア東ガリチア州の首都だった時代には、オーストリアの内外から多くの欧州の人々が訪れた。 経済学者のフリードリッヒ・リストや哲学者のサルトルなど多くの西欧著名人も宿泊している。(参考:Taras Palkov, GUIDEBOOK LVIV,p.68)

ホテルの外観を観察すると、半円型と長方形の形を組み合わせた窓や小さなベランダ、人物の顔を模った彫刻が印象的で、いわゆるアールヌーボー様式となっている。中に入るとまず眼に入るのが、天井から吊り下げられた豪華なシャンデリア、そして二本の大理石の柱である。 その洗練された高級ホテルのたたずまいには、リボフが「東方のウィーン」と呼ばれた面影が残っていた。

私たちは、ガイドのエリーナ氏と合流するまで、このホテルでバイキング形式の朝食をとった。ハム、ベーコン、卵、パンなど西欧料理のオーソドックスな朝食メニューは一通り揃っており、他にそばの実をそぼろのようにした料理、「ブリヌィ」というクレープのような料理などウクライナ料理も見られた。 中でも特に、「ウクライナ風のプリン」は、この後も巡検の朝食で度々登場した。朝食後、集合まで少し時間があったため、各自ホテルでシャワーを浴びるなど、ゆっくりとした時間を過ごした。








残されたポーランド詩人の像、そして新設されたハールィチ公国の王ダニーロの像が併存

8時半、ガイド氏と合流後、リボフの都市や歴史に関する説明をしばらく聞いたのち、私たちはまず、リボフの中世的な都市核の巡検に向かった。

ジョルジュホテル前は、ポーランド人の詩人アダム・ミツケビッチ(Adam Mickiewicz)から吊をとった ミツケビッチ広場になっている。その中心には、ミツケビッチの像が堂々と立っていた。ミツケビッチが天使と言葉を交わし、像の上部には松明が燃えていた。リボフはかつてポーランド支配下にあったという事実を象徴しているようだった。

このミツケビッチ広場とジョルジュホテルの間の道路はかつて城壁があった場所で、ちょうど、オーストリア領時代に拡張された都市の外縁と、ポーランド領時代の中世的な都市核との境界にあたり、環状道路になっている。

ミツケビッチ広場からハーリツク(Halytsk)通りを進む途中、馬の頭をロゴに模った銀行が目に入った。これはライファイゼンバンク(Raiffeisen Bank)というオーストリアの銀行で、旧社会主義諸国の市場経済化をビジネスチャンスに、積極的に東欧や旧ソ連に業務展開している。東欧旧社会主義諸国の金融は、こうした西側資本にいまや支配されている。ただし、日本企業のプレゼンスはほとんどない。

更に足を進めると、ハーリツカ広場に、ダニーロ像が眼に入った。これは、囲み記事「リボフの歴史と都市形成」で触れた、リボフの創始者、ダニーロ王の像である。ガイド氏は、この像は比較的最近作られたと言った。
独立後、リボフがもともとウクライナの土地であったことを示すシンボルであり、同時にウクライナ人のアイデンティティの拠り所である人物の像を、都市中心部に設置したのである。周辺では、大型のクレーンを使いながら、建物に大掛かりな修復工事を行っていた。








リボフの街を防衛した修道士たち、ベルナルディン教会・修道院

ダニーロ像からかつての城壁跡にそってほんの数分歩くと、ベルナルディン教会・修道院(Kostel i Monastr Bernardiniv)に着いた。ここには、ウジゴロドでも見たウクライナ独自のキリスト教宗派であるユニエイトの聖アンドリヤ(Svyatoho Andriya)教会がある。
もともとポーランド人がローマ・カトリック教会として建設したもので、ルネサンス様式になっている。これをユニエイト教会に転用したのである。私たちが訪れた際、一階部分は、修復中なのか青シートが一部張られていた。

教会内部に入ってみると、祭壇、柱、装飾、絵の額縁、シャンデリアなどあらゆるものが金色に統一され、天井には一面にルネサンス調の美しいフレスコ画が描かれていて、その派手で豪華な内装は、地味な色の外観は対照的である。 ポーランド時代のリボフの経済力の大きさ、富裕層による富の蓄積の莫大さ、などを感じずにはいられなかった。イコノスタシスは見られなかったが、装飾が施された額縁に入れられたイコンがいくつか見られた。







一般にユニエイト教会や正教会では、カトリック教会と違って人々は立って祈りを捧げるのだが、この教会には長椅子が用意され、人々は椅子に座って祈りを捧げていた。 カトリック教会として使われていた頃はオルガンで聖歌が伴奏されていたようだが、ユニエイト教会となったいま、聖歌はアカペラである。

教会の裏手から外に出ると、そこはかつての修道院で、城壁と一体の作りになっている。壁は前述の通り、東から襲来する敵から街を守る防衛機能を果たし、頑丈そうな石造りで、高さは10m以上あり、壁の上方には木を組み上げて作られた見張り櫓があった。 それまで歩いてきた床は全て石畳だったが、城壁の門近くの床は木でできており、大勢の人々が門を通っても騒音を生まぬよう工夫されたようだ。







城壁の門を出て、外側から壁を見ると、壁の真ん中より高い位置に横並びに銃眼が付いており、この修道院自体がかつて街の防衛機能を担っていたことが確認できた。

城壁に沿って: 反ソ連政治家の像が前面に立つオーストリア領時代の州庁舎

アンドレウ教会を出ると、9:30ごろになっていた。城壁の外側に沿ったフランコ通り(Franko)をはさんで向かい側には、美しい彫刻や装飾が多く施されたアールヌーボー様式の建物が見られた。


フランコ通りは路面電車が敷かれている。市内を走る電車は、私達が見た限り古い車両も少なくなかったが、リボフの歴史的な建造環境には、かえって似合っているように感じられた。


私たちは、この通りを歩いてリボフ州庁舎に向かった。庁舎のすぐ前の公園には、チョルノヴィル(Viacheslav Chornovil)という人物の像が立つ。
ガイド氏によれば、彼はジャーナリストから政治家になり、ソ連時代は反体制活動家として、ソ連の民主化とウクライナの独立に大きく貢献した。独立後、多くのウクライナ人の支持を集め1999年にクチマと対する有力な大統領候補となったが、選挙前に謎の交通事故に遭って死んだという。ガイド氏は、「事故はクチマ陣営の陰謀に違いない!」と強く主張していた。

道を渡り、州庁舎にたどり着く。州庁舎は、市街地の外縁部に、オーストリア領時代の1870年に建てられた。官庁建築であるので装飾などは必要最低限にとどめられ、全体的にシンプルな中に威厳を示す新古典主義の様式となっていた。最上部には国旗が掲げられている他、ウクライナの国章が彫られていた。

ウクライナの国章は「トルィーズブ」(三つの鉾)で、キエフ・ルーシ王朝の家紋に由来する。国章の形を分解すると、「自由」という意味のキリル文字になることをガイド氏が教えてくれた。ソ連時代には使用が禁止されていたトルィーズブは、現在のウクライナ人にとって、独立と自由を勝ち取った象徴である。








独立派の正教会: ドルメシアン教会・コルニャック塔

かつての城壁にそって、正教会のドルメシアン教会(Uspenska Tserkva)が建っている。

正教会は「一つの国に一つの組織」が一般的だが、ウクライナの正教会は特殊で、三種類ある。一つ目は「キエフ総主教系」つまりウクライナの国の正教会である、二つ目は「モスクワ総主教系」つまりロシアの国の正教会。 そして、三つ目が、どちらにも属さない「独立系」で、ドルメシアン教会は独立系にあたる。
三種類に分れているのは、長い間ウクライナがロシアとソ連の支配を受け、現在もウクライナのロシア系住民がむしろロシアに忠誠を感じていることによる。ガイド氏によれば、この3つのウクライナ正教同士の関係は必ずしも良好でなく、ウクライナの東西対立と絡んで、対立することもあるそうだ。

ドルメシアン教会は、かつてイタリア出身の建築家が招かれ、ルネサンス様式の外観に仕立て上げられた。 16世紀に、三つのドーム型の屋根をした礼拝堂と、同じくドーム型屋根の教会の建物、そして塔が建設された。当時富裕なギリシャ人商人が寄進した、高さが66mあるコルニャック塔(Kornyakt Tower)は、リボフのランドマークで、離れた通りからも目立っていた。

教会内に入ると、所々に、十字架のモニュメントが見られた。よく見るとこの十字架は、普通の十字架に短い棒が一本、下部に斜めの棒が一本加えられている。これが、正教会でよく用いられる「八端十字架」 である。







奥へ進むと、祭壇前には多数の美しいイコンが確認できた。立派な金色の装飾で周りを囲まれている。部屋には椅子が置かれていた。本来、正教会は椅子が無く、立って拝するが、最近は信者を気遣い椅子を用意しているのだという。

ステンドグラスの一つをよく見ると、神父の胸に「トルィーズブ」があった。ソ連時代、幸運にもこの「トルィーズブ」は見つかることは無くここに存在し続け、ウクライナ自立を願う人々の密かなシンボルとなってきたという。







私たちは、教会を裏手から出て、リノック(Rynok)広場へ続くルスカ(Ruska)通りを進んだ。通りに面した建物はオーストリア領時代に建てられたアールヌーボー様式だが、壁面の装飾には、前日ウジゴロドの民族博物館でも見たザカルパチアのフッツ民族特有の模様が見られた。

オーストリア統治下のリボフでは、ウクライナ文化の尊重も図られていたのである。また、ガイド氏は建物上部に刻まれた「АЦЕ」というキリル文字を指し、1905年に建てられたと説明してくれた。Аが1、Цが9、Еが5を表すそうだ。

ルスカ通りを進む途中、私たちは、子供から大人まで大勢の信者がこの通りを行進する様子を見かけた。教会の神父、キリストの描かれた大きな旗を持つ者や、楽器を演奏する者など様々だ。楽隊に合わせて美しい合唱が聞こえ、心が洗われるような感覚にさせてくれた。 ガイド氏によると、ローマ・カトリックの信者たちで、1409年にリボフに司教区ができて600周年を祝うパレードをしているのだそうだ。リボフ大司教区は依然としてワルシャワの大司教区の下にあり、ポーランドの影響力は今もリボフに残っている。


都市の中世的核の中心: 市庁舎とリノック広場、そして民族独立のため闘ったパルチザン

ほどなくリノック広場とリボフ市庁舎に着いた。この広場は、中欧都市に典型的な、中世には市の立った場所であり、市庁舎(ratusha)はもともとリボフの議事堂としてポーランド領時代初期の14世紀末に建てられたが、変遷を経てオーストリア領時代の19世紀に新たに建て直された。 建築様式は、リボフ州庁舎と似て新古典主義である。ハプスブルク帝国は君主制国家だったことから、こうした官庁建築には権威主義的、威圧的な新古典主義を好んで採用した。また、ホールの入り口には、二体のライオン像が鎮座している。ライオンはリボフのシンボルである。

ここで私たちは、リノック広場に面した建物の中でも特別にウクライナ史を象徴するKryivka Cafeを訪れた。ここは、第二次世界大戦期にソ連軍やナチスドイツ軍の支配に対し激しい抵抗運動を繰り広げたUPA(ウクライナ人民蜂起軍)の地下壕を模ったテーマ・レストランである。UPAは、西部のウクライナ人にとって、民族アイデンティティの象徴となっている。

レストランは、外から見ると看板などない。ガイド氏は、店の入り口で「共産党員でないか」確認するため、合言葉を言うように、と“Slava Ukraini !”という合言葉(「ウクライナに栄光を」という意味)を教えてくれた。これを店の入り口で唱えると、中に通してもらうことができる。

店は、地下壕で戦ったUPAのイメージどおり、階段を下った地下にある。店内には、至る所にUPAの写真や、パルチザンが用いた機関銃、地下壕の設計図など、多くの展示物があり、当時の雰囲気を彷彿とさせる。店には、昼前にもかかわらずビールを飲む客など、大勢の人々で賑わっており、地元の多くのウクライナ人に愛されているようだった。

店の裏から階段を上がると屋上に出る。そこには砲台と機関銃が展示されていた。砲台では機関銃の操作を体験できるようになっており、軍隊マニアのゼミ生が意気揚々と楽しんでいた。


この屋上からはリボフの美しい街並みが見られるのでは、と期待していたのだが、通りの表から見た建物の外観の美しさとは対照的に、建物の裏側は修復が施されておらず、塗装がはがれるなど、どれも荒廃していた。修繕費用が足らず、建築物の表側にしか修復工事をすることができなかったのだろう。 世界遺産に登録された街並みではあるが、その文字通り裏面の実情を知って、いささか幻滅した。

時代を超えて建設され続けたカトリック教会、ウクライナ人のアイデンティティを示す像

リノック広場から、私たちは西に向かって歩いた。途中、カテドラル広場(Katedral'na Square)という広場に面して建つローマカトリック教会(ラテン大聖堂)は、リボフの歴史を乗り越え、14世紀、ポーランド支配の初期のゴシック様式から、ルネサンスをへて、やはりカトリック国であるオーストリアに引き継がれ、バロック様式からゼツェッション運動まで、長期にわたる多様な建築様式を受け継いで建設が続けられてきた。 教会の正面に掲げられた、司教区設立600周年に関わる記念行事を案内する幕はポーランド語で、カトリック教会がポーランドの大司教区のもとにあることを示している。

旧市街を通りぬけて、かつて城壁があった自由大通りの公園に来ると、ウクライナ独立直後の1992年に作られた、2人の人物のモニュメントが立つ。イヴァン・ポドコバ(Ivan Pidkova)は、コサックのヘチマン(首領)で、16世紀にタタールとの闘争を繰り広げたウクライナの英雄である。また、タラス・シェフチェンコはウクライナの有吊な詩人である。 これらは言うまでもなく、ウクライナ人のナショナル・アイデンティティを示している。

また、シェフチェンコ像の隣には、スターリンがつくりだしたウクライナ大飢饉を象徴するモニュメントがあった。モニュメントからは、スターリン時代を批判するウクライナの含意が強く感じ取れた。



ハプスブルク帝国の遺産、ウィーンの伝統を受け継いだオペラ座

オーストリア領時代にポーランド人を起用したのは、オーストリア人が、当時リボフ住民の多数派であったポーランド人に対し、オーストリアは地元の文化を否定しない、とアピールすることにより、リボフの統治をスムーズに進めようとしたためであろう。

ただし、オペラ座の建築様式自体は、ウィーンの伝統を正統的に受け継ぎ、コリント式円柱や彫像、装飾物を多く用い、古典様式を受け継いで、荘厳さと繊細な装飾が絶妙なバランスを保つバロック様式となっている。


入り口から伸びる大理石の階段をのぼってオペラ座の中に入ると、宮殿のような内部の様子が眼に入る。客席は円形で三階まで席が配置され、1000人以上の収容が可能である。壁には貝を散りばめた装飾や彫像、ライトが万遍なく配置されている。上段へいくにつれて装飾やライトの数を少しずつ減らすことで美しく見えるよう計算されているそうだ。天井にはシャンデリアの周りを10人の女神の絵が取り囲んでいた。

「ミラーホール」と呼ばれる一階ロビーには、「無限鏡」がある。正面に立つと、何重にも光が反射して奥行きが深いような仮像が現れ、幻想の世界に誘われる。鏡の上に飾られた四つの絵には、アメリカ、アフリカ、アジア、ヨーロッパの四大陸の原住民から天使が土産物を貰っている様子が描かれている。 アメリカ大陸では天使が「金」を、アフリカ大陸では「ダイヤモンド」を、アジア大陸では、「真珠の首飾り」を、ヨーロッパ大陸では、「知恵」をそれぞれ貰っている。金髪の天使がヨーロッパ人だとすれば、日の沈まぬ国と言われたハプスブルク帝国が未開の大陸から産物を集めて支配する、という意味にも解釈できる。

「ミラーホール」には、リボフのオペラ座で活躍した代表的な歌手の彫像が展示されている。その中の一人、ウクライナ人のソロミア・クルシェルニツカ(S.Krushelnytska)は、かつて、ヨーロッパで、難易度の高い演目として上人気だったプッチーニの「蝶々夫人」を完璧に演じたことで一躍有名となり、「蝶々夫人」も改めて評価されることとなったそうだ。 この歌手の吊誉を称え、その吊が現在のオペラ座に冠せられている。またこのためウクライナでは「蝶々夫人」が人気で、巡検最終日、私達がキエフでオペラ鑑賞をした演目は、この「蝶々夫人」であった。



西ウクライナの弱い経済基盤を都市景観に示す、Western Unionの窓口

12時過ぎ、オペラ座を後にした私たちは、その裏を横に走るホロドツカ通り(Horodotska)を歩いた。その途中、「WESTERN UNION」という看板が目に入った。「WESTERN UNION」は、かつてアメリカの電報会社だったが、電報は衰退した。そこでその付随業務だった電信為替に業務をシフトし、国際電信送金サービスに特化して巧みに生き延びた会社である。 外国人の出稼ぎ労働者の多い都市には、きまって「WESTERN UNION」の窓口が見られ、リボフには「WESTERN UNION」の支店が21ある 。
リボフの人口の二倍以上、面積は約三倍のワルシャワでも支店が10しかない から、リボフで国際送金の需要がいかに大きいかわかる。ウクライナ西部は、ソ連時代に多くの重工業が配置された東部と比べて経済基盤が弱い。西ウクライナから多くの人が西欧諸国に出稼ぎに出ていることを如実に示す都市景観である。

(参考URL:
http://www.wu-store.com/western-union-ukraine-lviv-2.php
http://www.mystore411.com/store/list_city/42/Indiana/Warsaw/Western-Union-store-locations)


観光客を意識した土産物などを売るフリーマーケット

ホロドツカ通りのそばの公園では、フリーマーケットが開かれていた。興味を持った私たちは、立ち寄ってみることにした。

店で売られていたのは、民族衣装、マトリョーシカ、油絵その他、観光客むけの土産物であった。民族衣装はウジゴロドでもみたフッツ民族の独特の刺繍が入って素敵だが、洗濯ロープのようなものに無造作に吊るされていた。マトリョーシカはよくあるものとは少し顔が違い、まつ毛が多く描かれている。

コサックの男性をモチーフにしたマトリョーシカも発見できた。マトリョーシカはロシアが発祥であるが、ウクライナ人による独自のローカルなアレンジがなされて、リボフで販売されているのだ。


その他、マグカップ、ウクライナ国旗、トランプなどが並べられていた。2012年6月にウクライナとポーランドで開催されたサッカーの欧州選手権「ユーロ2012」のグッズも見られ、大会開催の余韻を感じることができた。



独立闘争の歴史を語るリボフ歴史博物館

私たちは、歴史博物館を見学するため、再びリノック広場へと戻った。博物館の建物は、広場の東側に、黒塗りで目立っている。1階の受付には、17世紀のポーランド時代の絵、銅像などが展示されていた。

ウクライナ人の女性スタッフの方に三階に案内され、この後、「ウクライナの独立闘争」をテーマに、1時間程度スタッフの方から展示に関する説明を受けた。


」@ 短期間に終わったものの、独立を獲得した第一次世界大戦後のウクライナ》

博物館の展示はかなりの量があり、短時間ですべて見ることは不可能である。スタッフの方は、私たちをまず、1914年第一次世界大戦が始まったときのウクライナ独立運動の部屋に案内した。

当時オーストリア領だった西ウクライナにおいて、独立を目指したウクライナ人による民族運動家は、1914年8月に「全ウクライナ評議会」を結成し、後に「ウクライナ・シーチ射撃隊」と呼ばれる最初のウクライナ軍を組織した。

シーチとは、私たちが後に視察する、ウクライナ発祥の地ザポリージャに本拠を置く、コサックの砦のことである。だが、シーチ射撃隊は、軍事力が脆弱であったため、ウクライナ民族の解放を実現するには他国の軍隊と手を組むことが絶対条件であった。

そこでシーチ射撃隊は、オーストリア軍の軍勢に加わり、帝政ロシア軍と激しい戦いを繰り広げた。シーチ射撃隊がオーストリア軍側についたのは、恐らく、オーストリアの統治がウクライナ人に対し宥和的だったことから、オーストリアが勝利した暁にはウクライナ人の自治権が拡大できる、と見込んだからだろう。

博物館の展示写真から 、ザカルパチア地方をはじめ、西ウクライナでのロシア軍との戦いがいかに過酷なものだったか、想像できた。この頃に民族独立を意識して掲げられた青と黄色の旗も展示されていた。展示にはシーチ射撃隊の人形があり、強力な軍隊であったことを誇らしげに強調しているようだった。

同盟したオーストリアが敗北すると、1918年10月に「ウクライナ国民ラーダ」が結成された。リボフの市庁舎はシーチ射撃隊が占領し、青と黄のウクライナ国旗が掲げられた。11月11日、「西ウクライナ国民共和国」の設立が宣言され、西ウクライナには独立国家がはじめて成立した。
しかし、この独立国のリボフ支配は、わずか一週間程度にすぎなかった。ポーランド人による蜂起軍に敗北し、結局、西ウクライナは二度目のポーランド支配下におかれた。

キエフを含めロシア帝国領だった東ウクライナでも、民族独立の絶好の機会が訪れた。 1917年2月、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)で2月革命が起き、帝政ロシアが崩壊したのだ。そこでキエフでは、ウクライナの自治獲得を目指し、「ウクライナ中央ラーダ」を結成した。
2月革命で権力を獲得したペトログラードの臨時政府は、ウクライナの完全独立だけは阻止しようと、キエフに指導者のケレンスキーを送り込んだ。中央ラーダとの交渉はまとまり、臨時政府の支配下に留まることを条件に、中央ラーダは自治が認められた。
このため、中央ラーダが成立させた「ウクライナ国民共和国」はケレンスキー政府と結びつくこととなり、同年10月にボリシェヴィキ革命が成功すると、反ボリシェヴィキにならざるを得なかった。
ボリシェヴィキが、このような「ウクライナの独立国家」をそのまま放って置くはずはない。1918年、ボリシェヴィキ軍によるキエフ攻撃が始まり、以降、キエフを含む東ウクライナを巡って、ウクライナ民族主義者とボリシェヴィキの間で激しい戦闘が生じた。最終的な勝者は、ボリシェヴィキだった。

1920年10月、ポーランドとソ連によってリガ条約が結ばれ、東ウクライナはソ連領、西ウクライナはポーランド領とはっきりと分かれ、ウクライナ民族独立への望みは潰え去った。


」A 西ウクライナにおけるポーランド支配、ソ連支配》

西ウクライナがポーランドの支配におかれてからも、ウクライナ民族主義者による独立運動は継続した。1920年に「ウクライナ軍事組織(UVO)」が結成され、シーチ射撃隊を率いてきたコノヴァレツ大佐がその指導者となった。

UVOは、西ウクライナで地下活動を行いながら政治テロやサボタージュを行い、ポーランド支配を動揺させることで、西ウクライナの独立を獲得しようとした。 博物館には、1929年に若者を中心にコノヴァレツを指導者として結成され、リボフ警察署長の暗殺などの武力闘争でポーランド支配に抵抗した「ウクライナ民族主義者組織(OUN)」、に属する若者たちの写真が何点か飾られていた。

1939年、独ソ上可侵条約(モロトフ=リベントロップ協定)により独ソ両国はポーランドの折半を互いに約束し、ソ連は9月17日東ポーランド(西ウクライナ)に侵攻して、支配下においた。ガイド氏によると、ポーランド支配下からソ連支配下に変わり、西ウクライナの人々ははじめ喜んだという。
民族自立に抑圧的だったポーランドよりも、ソ連の方がいくぶん寛容だろうと考えたらしい。しかし、過酷なのは、ソ連支配の方だった。民族主義者などが強制収容所に送られ、あらゆる政治活動が制限された。
ガイド氏は、「No person no problem」というスターリンの格言を紹介してくれた。「人がいなければ問題が起こらない」、つまりスターリンは問題を起こす人々をすべて粛清して問題を解決しようとする、という意味だ。

1941年のドイツ軍侵入直前、ソ連は、大量のウクライナ人捕虜をリボフの刑務所内で殺害した。ソ連軍は、捕虜がドイツ軍の手に落ちることを避けたかったが、時間や物理的な制約から全員を運び去ることはできなかった。
館内には、この処刑の様子を示す写真が展示されており、その悲惨さを私たちは痛いほど感じ取った。
こうして、博物館の方とガイド氏による説明は終わった。


博物館の展示とその説明は、いったい何を私たちに一番伝えたかったのだろうか。それは、「ウクライナ人が独立を遂げるまで、長い闘争の歴史を歩んできたこと」、そして、「ウクライナはほんの僅かの期間とはいえ、第一次世界大戦後に独立を勝ち取っていたこと」、という二つの事実に集約されるだろう。 ウクライナ人にとって、力は弱くとも、決してあきらめず独立運動を弛みなく続けてきた事実こそ、自らのアイデンティティや 誇りであり、それが今日のウクライナの尊い独立につながっているという認識なのだ。

別れ際、博物館の方にお礼を言うと、博物館のスタッフは私たちに向かって「ロシアはわれわれの言語を奪おうとしている。実際、ウクライナ東部はロシア語を公式言語として採用しようとしている。 ウクライナ人にとって、言語を奪われるのは、国を奪われることに等しい。」と話してくれた。
ウクライナ東部は西部に比べ、ロシア支持者が圧倒的に多い地域だ。言語を同化させることで、ウクライナを内から再びロシアに同化させよう、と考えているのかもしれない。ウクライナ語はウクライナ人の重要なアイデンティティの一つであり、ロシア語への同化は、ウクライナの民族主義者が容認できるものでは決してない。
独立後も、ウクライナの民族主義者による闘争は続いているのである。


(以上、歴史事実や年号は、黒川祐次『物語ウクライナの歴史』(中公新書)を参照し、確認を行った。)


かつてリボフの経済を支えたアルメニア人の地区に、二回目ポーランド領時代のマンホールの蓋

14時半頃、博物館を出た私たちは、アルメニア人通り(Virmens'ka St)へと向かった。
リボフが貿易の中心地として繁栄したポーランド領時代、商人として活躍したアルメニア人がこの辺りに集住した。アルメニア人はユダヤ人同様、商売のセンスが高く、世界中の商業都市で居住地区を形成している。
リボフのアルメニア人地区は発展し、当時は、ベニスやアムステルダムに次いで大きかったという 。

私達は、アルメニア人通りの突き当りにある「Restaurant Cafe Dzyga」という店に入り、昼食休憩を取った。メニューは、手早く済ますため皆サンドイッチを注文した。 余談だが、筆者は「マッチョスタイル」というボリュームのありそうな名前のサンドイッチを頼んだところ、出てきたのはトーストにビーフジャーキーのような薄い肉が二枚乗せられ、その上にチーズをかけただけの、想像と全く違うものだった。
昼食を終え、私達はアルメニア通りを視察した。

ドルカルスカ(Drukarska)通りを越えた辺りで、私たちは建物の窓から老人が石油ランプを交換しようと顔を覗かせているモニュメントを見つけた。ガイド氏によると、1858年に初めて石油ランプがこの通りの街灯として導入され、これはそのモニュメントなのだという。 オペラ劇場やトラムと同じく、オーストリア領の時代に初めてリボフに導入された都市インフラの一つである。

さらに通りを歩くと、私たちは、「Lwow」とポーランド語地名が書かれたマンホールの蓋を発見した。第一次世界大戦後の二度目のポーランド領時代の都市インフラが、ソ連領だった約半世紀をこえて、一部、現在でも使われているのである。



「聖母」マリアを崇拝する、不思議な単性論のアルメニア教会

アルメニア通りをさらに進み、私たちはアルメニア教会(Virmens’kii Sobor)に到着した。この教会は、アルメニア使徒教会というキリスト教派に属する。


アルメニア人とキリスト教

アルメニア人は301年に世界で初めてキリスト教を国教として定めた 民族である。歴史が非常に古いだけに、この教会の立場は少々複雑である。

現在、カトリック、プロテスタント、ギリシャ正教会など、多くのキリスト教会は「キリストは神・人両性一人格」(両性論)とするカルケドン信条を採用している 。

それに対して、「アルメニア使徒教会」は、506年に「受肉後のキリストの人性は、神性に融合し、人性を失って単一の性となった」と宣言(単性論)し、カルケドン信条を否定した。以来、他のキリスト教会から「異端」と見なされながらも、独自の立場を守り続けてきた 。 単性論は、キリストの肉体を神聖なものと見なさないため、それを生んだマリアを「聖母」として崇拝することはないとされる。

アルメニア教会の建築様式は、12世紀以降、「高いドラムに円錐構造を擁した屋根や十字型の方形の変形設計」など独特の様式を確立し、ビザンツやヨーロッパの建築様式にも大きな影響を与えたとされる 。

アルメニア教会は、このような「独自性」を保ち続けた点で、アルメニア人の「民族性」「アイデンティティ」を語る上で欠かせない存在である。

(参考: 中島偉晴『アルメニア人ジェノサイド』,明石書店,2007年,p82,87
ジャン=ピエール・アレム『アルメニア』,白水社,1986年,p117)



私たちが訪れたアルメニア教会は、ポーランド領時代の1363年にアルメニア人商人によって建立されており、リボフの残存する教会の中では最も歴史が古い 。 だが、度重なる再建のため、箇所によって作られた年代が全く異なっており、南部の回廊建築が15世紀に、鐘楼は16世紀に、教会中央部が17世紀に、一番新しい教会西側は1908年に建てられた。

私達は、南部の回廊や塔屋根(クーポラ)を観察し、まさに塔屋根は「多角形の基石の上に円錐形に」作られていることがわかった。
また、7世紀に建築されたフリプシメ教会など古代のアルメニア教会の外観と非常によく似た特徴を持っている 。(参考:『アルメニア人ジェノサイド』p103)

このアルメニア教会は、17世紀のポーランド領時代、カトリック信者の強制により「カトリック教会」への変更を余儀なくされている。これに伴い、教義や信仰の仕方はもちろん、建築様式も大きく変化した 。

ソ連時代にはアルメニア司教区(カトリック)は廃止され、教会自体も閉鎖されて、建物はイコンなど宗教的芸術品などの「保管倉庫」として使用され、荒廃が進んでしまった 。
アルメニア教会の復元作業は、ソ連崩壊後、リボフへ駆けつけたアルメニア人カトリック教徒などによって進められ、司教区が復活し、2000年になって教会はようやく礼拝の場として蘇ったのである 。

ここには近年、ガイド氏によると、1915年に起きた「アルメニア人虐殺」に関する追悼モニュメントも作られた。オスマントルコによるアルメニア人虐殺問題は、フランス政府などが強く取り上げ、これにトルコが反発している。
この追悼モニュメント建立には、EUと一体となって西ウクライナの人々が虐殺を歴史的事実として国際社会へ訴えようとする意味合いも少なからず考えられる。

教会の入口前まで行くと、石碑や看板などがあり、アルメニア文字を確認できた。中に入ると、ちょうどミサの時間で、教会内は静まりかえっており、祭壇前にいた一人の司祭による聖歌が聞こえてきた。聖歌は司祭の独唱で、オルガンの伴奏はなく、初期のキリスト教の特徴を受け継いでいるといえる。

また、教会内を観察すると、イコノスタシスが無いこと、長椅子が用意されていること、イコンが少ないこと、などの特徴が分かる。こうした点は、ギリシャ正教と明確に異なり、初期のキリスト教の特徴を受け継いだ点として指摘できる。

だが、祭壇をよく見ると、その正面にはなんと「聖母」マリアのイコンが飾られていた。前述のように、単性論のキリスト教派は、人としてのキリストの肉体を生んだマリアを崇拝することはなく、これは明らかな矛盾である。 前述の通り、このアルメニア教会はかつてカトリック教会であり、また独立後の復元にカトリック教徒がかかわったため、カトリックの影響が加わっているのかもしれない。アルメニア使徒教会として復元したものの、カトリック教会の影響が混在し、ある種の複雑性を備えているというのが、この教会の実態のようである。

教会内には、壁画がいくつも描かれている。その一つは、入って左側の下部にある壁画である。これは、ガイド氏の説明によると、「総主教の埋葬」を描いたもので、総主教を担ぐ司祭達の傍に蝋燭を持った白い幽霊が徘徊している。 これは、前代の総主教達が亡くなった総主教を迎え入れている様子だという。司祭のうちの一人が、幽霊の存在に気づき、振り返った様子が印象的に描かれていた。

もう一つは、教会奥の祭壇上部に描かれた壁画である。壁画の中心にはイエスがおり、左右に12人の使徒が描かれている。「最後の晩餐」で見られる構図だ。 イエスの左の六人の使徒はすぐ分かるが、右には最初は五人しか確認できなかった。ガイド氏は、右側の使徒のもう一人はユダで、正面からは見えにくいが、右端の細く黒い影の部分がユダなのだと教えてくれた。ユダの邪悪さを闇や影で表現した、ということなのだろう。

拝観して帰り際、教会の建物に青いシートが張られ、修復工事をしている様子が見られた。建物に張られたシートから、「Ceresit」(建設資材メーカー)、「CAPAROL」(塗料メーカー)というドイツ系外資二社と、「HELIOS」(塗料メーカー)というスロバキア系外資の企業名とロゴが確認できた 。

西ウクライナにおいて、「建設資材」という分野では、EU圏諸国の影響力がやはり強いようである。


ユダヤ人地区: 再建されない、ナチドイツが破壊したシナゴーグ(ユダヤ寺院)

リボフにおいてユダヤ人街区は、旧市外と旧市内にそれぞれ存在する。私達は今回、スタロェブレイスク通り(Staroyevreiska Blvd.)にある、旧市内のユダヤ人地区を訪れた。


リボフでのユダヤ人虐殺

ゼミで私たちは巡検前に、野村真理氏の論文「恩讐の彼方」 を輪読し、1918年11月にリボフ旧市外で起こったユダヤ人虐殺(ロシア語でポグロムpogrom)、および1941年の虐殺について知る機会を得た。以下、この論文を参考に、リボフでのユダヤ人虐殺問題を簡潔に紹介したい

1918年11月のポグロムは、ポーランドとウクライナの激しい独立闘争の最中、リボフ旧市外で起こったポーランド兵による虐殺である。
一方、1941年のポグロムは、リボフに侵攻したナチスドイツ軍によってなわれた。ただし、ドイツ軍侵入直前にウクライナ人によるユダヤ人虐殺もあったようだ。リボフの「ホロコースト犠牲者慰霊碑」は、「この時、リボフで13万6800人のユダヤ人が殺害された」としている 。このように、大戦間期、リボフ居住のユダヤ人は、悲惨な運命を辿った。

(参考:野村真理「恩讐の彼方」p35『民族(近代ヨーロッパの探求)』所収,ミネルヴァ書房,2003年)

私たちが訪れたユダヤ人街区(スタロェブレイスク通り)は、ユダヤ人地区は、都市の中世的な核ではあるが、城壁のすぐに接する街外れにあり、貿易商人として活躍したユダヤ人によって、14世紀末に形成された。
ガイド氏によれば、城壁の内部にユダヤ人地区の形成を許容する国家は、歴史上ヨーロッパにそう多くはなかったようだ。ただし、城壁内といってもこのユダヤ人地区は城壁に接するよう位置しており、ユダヤ人街区自体が防衛拠点となっていたことが想像される。
このことから、ポーランドは政策的に、ユダヤ人を「人間の盾」のように位置づけていたとも考えられる。

スタロェフレイスカ通りで、私たちはユダヤ人地区の建造環境を視察した。フェドロバ通り(Fedorova)に面したユダヤ人街区の西側は現在工事中で、フェドロバ通りは通行止めとなっていた。このあたりの建物は壁に落書きが多い上に、壁面が崩れ、塗装が剥げるなど、荒廃している。

ガイド氏によれば、建物はホテルだったが、何年か前に火事があり、修復がまだされていないのだという。
建物の部屋の窓からはダビデの星のマークが入った蝋燭台も見られ、ユダヤ人がまだこの地区に居住していることがわかる。


スタロェフレイスカ通りを城壁の方向に進むと、かつてのシナゴーグ跡に到達した。シナゴーグとは、ユダヤ教の教会であり、ユダヤ人にとっての公共空間でもある。

ここには、16世紀末に建てられ、「黄金のバラ」(The Golden Rose)と呼ばれた美しいシナゴーグや、「大都シナゴーグ」(The Great City Synagogue)、「学習施設」(Beth Hamidrash)という三つの主要な建築物があった。 だが、第二次世界大戦下、ナチスドイツによって破壊されたまま、いまだに再建がなされていない。
シナゴーグ跡の周囲は、人の気配がなく、静寂で、どこかもの悲しい雰囲気を漂わせていた。まさしく「空虚な空間」と呼ぶのがふさわしい。

私たちはこのシナゴーグ跡で、ユダヤ人地区の歴史と再開発計画に関する興味深い看板を見つけた。 そこには、「ユダヤ人街区の歴史が1381年にさかのぼり、かつてはユダヤ人の信仰空間として閉鎖的な住環境が築かれ、シナゴーグや学校、病院などがあったこと」、そして「この三つの建築物は全てナチスドイツによって破壊されたこと」、などが書かれていた。

再開発計画では、@現在、駐車場などに利用されている「学習施設」跡周辺を緑化して公園化する、A「黄金のバラ」跡には手を加えず、周囲に歩道を作り「黄金のバラ」跡を眺めやすく工夫する、B「大都シナゴーグ」跡は、ホロコーストによりユダヤ人コミュニティが消失した追憶の場とするため、あえて何もないスペースで「空虚さ」を演出し、その床にかつてあった「大都シナゴーグ」の影を表現する、とのことである。 要するに、破壊されたシナゴーグなどの建築物は、再建しないということだ。

この再開発計画には、ドイツ政府(経済協力・発展省など)、リボフ市議会、「東部中欧都市史センター」(Center for Urban History of East Central Europe、リボフの文化財、歴史的建造物の復元計画などを行っているウクライナの非営利組織 )、「欧亜ユダヤ人会議」(Euro-Asian Jewish Congress、世界中のユダヤ人の権利保護を図る議会組織 )などが関わっていることが分かった。 ドイツ政府の援助は、ポグロム(ホロコースト)への歴史的謝罪の意味合いが強いのだろう。 ウクライナ人は、ユダヤ人がかつて中間搾取者として経済を支配していたことから、依然、ユダヤ人への嫌悪感があるとも言われるが、現在のリボフの統治者が関わらないわけにはいかない。
(参考:野村真理「恩讐の彼方」『民族(近代ヨーロッパの探求)』所収,ミネルヴァ書房,2003年)

ここで想い出すのは、私たちが列車で通過したドレスデンの聖母教会である。大戦で米英軍の空爆により全面的に破壊されたこの教会を、旧東独政府は再建せずに追憶公園としていたが、統一後のドイツは、破片を組み合わせ、大変な努力を払って2005年に再建した。公園化より再建のほうが、はるかにコストがかかる。 リボフでドイツがユダヤ教会再建の責任をとらないのは、おそらく新自由主義化が進むドイツ政府の財政上の理由であろう。リボフのユダヤ人コミュニティは人数が激減し、もはや再建を担うだけの政治的、経済的影響力は持っていない。

「東部中欧都市史センター」は、かつてリボフを支配したポーランド人とオーストリア人が主要な役職にあり、各々の国がかつてリボフに都市建造環境として刻んだ歴史を保全しようとしているようである。 リボフの建造環境は、こうして、過去の都市の支配者たちを、現在の葛藤に呼び込んでいる。


旧市街を大きくとりまくソ連時代の住宅地区: 城跡公園からリボフ市街を眺める

15時半をまわった頃、私たちは、中世の都市核を出て、リボフ発祥の地である、北東部の城跡公園へと専用車で向かった。冒頭の「歴史と都市形成」でも触れたとおり、この城はかつて、ハールィチ公国時代ならびにポーランド時代に、タタールなど敵からの防衛機能を担ったが、後にオーストリアによって破壊され、現在は城跡として残るのみである。 ガイド氏の説明によると、実は、城跡の頂上部は元々はなく、1869年ごろ元あった丘陵部の上に盛土して観光パノラマ用に人工的に嵩上げをしたのだそうだ。

専用車が城跡公園の麓に着き、そこから私たちは10分ほどかけて山を登った。頂上に着くと、展望台の中心にウクライナ国旗が高々と掲げられていた。展望台からは360度、リボフの街の全体が観察できる。

北部には、比較的新しい住宅が多く見られた。奥にはソ連時代の社会主義住宅団地が多く広がっている。まさに画一的な箱型建築で、ガイド氏に言わせると“Totally ugly”なものであった。さらにその外側は丘陵部となっており、都市開発はあまり進んでいなかった。

西部から南西部にかけては、私達が訪れたリボフの旧市街が広がり、教会の屋根や塔も確認できた。南西部は、北部と違い、外縁部に社会主義住宅団地があまり見られなかった。

南部は、丘に囲まれて都市の様子はあまり確認できなかったが、南東部から、20世紀以降の新しい住宅街が見え始め、さらに外側に、社会主義住宅団地が確認できた。

東部は、丘陵部となっており、都市形成が進んでいなかったが、北東部からは鉄道の線路が東西に走っているのが確認できた。また、その外縁部にはまたしてもソ連時代の社会主義住宅団地が観察された。

全体を通して城跡からリボフの都市構造を観察することで、今まで視察していたポーランド領時代の中世的な都市核、そしてそれを囲むオーストリア領時代の街区は、リボフ全体のほんの一部でしかないということに気づかされた。

都市圏全体を見ると、ソ連時代の社会主義住宅などが、実は非常に大きな割合を占めていたのである。展望台からリボフの街全体を眺めることで得られた一番の発見だろう。


アールヌーボー様式の建物が並ぶ、旧市街外縁に接するオーストリア領時代の街区

私たちは、その後、専用車でリボフ旧市街の南西部のオーストリア領時代の街区に位置する、旧東ガリチア州議会庁舎へ向かった。かつてオーストリア領時代、リボフ/レンベルクの人口が増大していくにつれて旧市街だけでは住宅や事務所の敷地が上足したので、旧市街に隣接する郊外に市街地を広げていった。
私たちが訪問した南西側の街区は、こうした郊外拡張計画によって開発されたものの一つである。

こうした計画においては、中欧で多く見られるように、方格上の街路がひかれ、まず行政機能を持つ州庁舎、そして付近に公園が整備された。現在は「イヴァン・フランコ公園」と呼ばれる公園が、旧東ガリチア州議会庁舎に隣接している。
その後、州庁舎や公園の周囲に住宅や事務所の開発が進んだのである。

私たちは、旧東ガリチア州庁舎に向かう途中、シチョヴィク(Sichovykh)という通りで、人物の顔を模った多くの彫刻物、半円型と長方形の形を組み合わせた窓、線をぐるぐると巻いて曲線を強調した模様を用いたテラスの鉄柵や扉など、典型的なアールヌーボーやバロック様式の建築物を見た。
オーストリア領時代、ウィーンで流行した建築様式が、同じ国内の都市であるリボフ/レンベルクの建築物に強く反映されている。この都市が、当時のウィーンの最先端の技術、文化を存分に吸収していたことを示す良い証拠である。

17時を過ぎたころ、私達は旧東ガリチア州議会の建物に到着した。現在この建物は、イヴァン・フランコ・リボフ国立大学という大学になっている。 前述の郊外拡張計画の下、1871〜81年に建設を進め、リボフの中心街にあった州議会をこの地に移転させたそうだ。

建物全体を見ると、基本的に、州議会庁舎としての威厳を持たせた新古典主義様式の官庁建築であるが、コリント式円柱が中央部に立つ他、人物の上半身を模った彫像をはじめ建物全体にルネサンス風の動きある彫刻が多く取り付けられており、折衷様式とも言えるだろう。

庁舎建物の、今ではウクライナ国章が刻まれた中央頂部の上には、女神像がある。これは、女神がガリチアの象徴であったことに由来するそうだ。建物正面入口には、左右に彫像が置かれている。左側の彫像は「教育」を表現し、本やペンを持った三人の人物像が確認できる。右側の彫像は「産業と労働」を表現し、三人の人物が収穫した穀物や工具を持っている様子や、背後の歯車が確認できる。オーストリアがガリチアを統治するに当って、「産業と労働」を通じた経済発展、ならびに「教育」を通じた文化レベルの向上を目指そうとしたことを象徴したのだろう。

旧東ガリチア州議会庁舎の近くの広場では、大学の吊前に付けられたイヴァン・フランコ(Ivan Franko)の像が立てられていた。彼は、1856年〜1916年というオーストリア領時代に生き、ウクライナ文化の振興に大きく貢献した人物として、20フリブナ紙幣にも描かれている。 特に、言語学者として、ウクライナ語をロシア語など他言語とは異なるウクライナ民族の固有の言語として保護しようと奮闘した。私たちが見たフランコ像は高さが20メートル近く、人物のモニュメントとしてはかなり大きかった。

旧東ガリチア州議会庁舎の正面にわざわざフランコ像を建てたのは、おそらく意図的なものだろう。オーストリア時代の支配拠点であるこの地にウクライナ民族主義の英雄を対峙させることで、オーストリア支配を否定し、新支配者であるウクライナを浮かび上がらせようとしたのではないか。 旧東ガリチア州議会庁舎に「イヴァン・フランコ大学」という吊称を“上塗り”したのも同様の理由と思われる。

続いて、私たちは、旧東ガリチア州議会庁舎の近くで、かつてのカジノ(現在の「科学者の家」)を視察した。オーストリア領時代の1897年に建てられており、玄関口には曲線を多く用いた装飾や古典ギリシャ建築に見られるような力強い男性像(アトラス像)が見られるなど、新バロック様式の建築物となっている 。 カジノということから、オーストリア領リボフ/レンベルクを訪問する外国人客、あるいは国内の富裕層の娯楽や、議員の接待のため、遊び心のある建築様式を採用したのだろう。


公園を潰して、島のように出来た市街地南部の、二度目のポーランド領時代の街区

次に私たちは、公園に面した二度目のポーランド領時代の街区へと専用車で向かった。ハプスブルク帝国崩壊後、リボフを二度目に統治したポーランド人が、オーストリアの設けた現イヴァン・フランコ公園の一部を潰して、緑を楽しめる高級住宅街を開発した。 そのため、ここだけが孤島のように二度目のポーランド領時代の街区となっているのである。

私たちは公園の西側から南側を専用車で走らせ、街区を視察した。建物を観察すると、オーストリア領時代の街区の建築物と比べ、装飾が少なく、明らかに簡素で機能重視の建築物が多いことが分かる。 アールヌーボー様式は、この時代には、もはや時代遅れだったのだろう。

この街区の終端の広場には、スターリン時代のウクライナ人犠牲者を追悼するモニュメントがある。1939年、独ソ上可侵条約により独ソ両国はポーランドの覇権領域の折半を互いに約束し、ソ連は,9月17日にリボフを含むポーランド東部に侵攻し、占領下においた。侵入したソ連軍は、多数のウクライナ人を刑務所に入れ、虐殺した。 この広場から1ブロックほど離れた場所に、かつての刑務所があった。

1941年にソ連侵攻を開始したナチスドイツ軍が、リボフに侵入した際、この広場からある刑務所で多数のウクライナ人の死体を発見し、この広場に運んで並べた。ソ連による支配の残酷さを“見せしめ”として示すためだったのだろう。 犠牲者追悼モニュメントは、ウクライナ独立後の1997年に立てられた。当然、スターリン時代への批判がそこには大きく込められている。 モニュメントの像は、男性が手足を拘束されている様子を描いており、身体的な苦痛と自由の喪失が強調されている。

追悼モニュメントの設置場所として、なぜこの広場が選ばれたのだろうか。ナチスドイツが刑務所にあった死体を並べた場所を設置場所に選んだことは、リボフのウクライナ人が、「ドイツ寄りの立場」でスターリン支配に批判を表明しているという見方もできる。

もちろん、ナチスドイツへの憎しみを持ったウクライナ人は少なからずいるだろうが、相対的にソ連やスターリンへの憎しみがそれを上回り、結果としてこのようなナチスドイツに対する「寛容な態度」につながっていることは、十分考えられる。

その後私たちは、市街地南部、シェフチェンコ(Shevchenko)通りに面したオーストリア領時代の街区で専用車を降り、周辺の建築物を視察した。この地区は、20世紀初頭、オーストリアの郊外拡張計画の下、開発されたものである。 通りの両側には、旧東ガリチア州議会庁舎の周辺で見られたものと似て、半円型と長方形の形を組み合わせた窓、線をぐるぐると巻いて曲線を強調した模様を用いたテラスの鉄柵や扉などのアールヌーボー様式、そして建物一階部分にはアトラス像などバロック様式の彫像が多く見られ、19世紀末から20世紀初頭のウィーンでの流行を受けた建築物がならんでいた。 シェフチェンコ通りは、通りの中央部が緑地帯の歩道として整備されており、西欧の近代的な雰囲気も感じさせた。



リボフ南部郊外の、ソ連領時代につくられた社会主義住宅団地

この、比較的新しいオーストリア領時代の街区を南に進むと、ソ連領時代の街区につながる。 オーストリア領時代の街区の末端には、路面電車のかつての終点があり、いまでもターミナル風の設備をもっている。 この旧終点より南は、ソ連時代になって初めて開発がなされた。つまり、この路面電車の旧終点付近が、オーストリア領時代の街区とソ連領時代に建設された街区との境界をなしている。

この境界を越えると、それまでの石畳の屈曲した道路から、一気に、アスファルト舗装されたまっすぐで幅の広い道路に変わった。周囲には、四角い箱型の典型的な社会主義住宅が見え始めた。


このリボフ南部のソ連領時代の街区の社会主義住宅団地には、その他の旧社会主義地域で見られるものと同様、大きく分けてスターリン様式、フルシチョフ様式、ブレジネフ様式の建物ないし街区がみられた。

スターリン様式の社会主義住宅は、およそ大戦期から50年代までに建てられた。屋根が斜めで、頑丈な造りであり、部屋が大きく区切られるなどの特徴を持つ。

これに対しフルシチョフ様式の社会主義住宅は、1960年代以降に建てられ、日本の公団住宅のような直方体で、部屋は均等に小さく分けられて、労働者をなるべく多く収容しようとしており、機能主義、効率主義の特徴が強い。

他方、ブレジネフ時代には、より高層な建物で、建物の間により大きな緑地帯をとる住宅団地がつくられた。

社会主義住宅団地建設にあたり、オーストリア領時代に敷設された路面電車は南に延長された。これらの団地には、住宅だけでなく、国営のバス会社・新聞社など、ソ連時代の国営企業の事務所も配置された。 トラムの線路が社会主義住宅群とこうした工場やオフィスを結ぶように走っている。 ソ連時代の都市区画でも路面電車が利用でき、労働者を住宅から会社、工場に輸送する重要な役割を担っていたことが窺えた。 市場経済化された現在、これらの社会主義住宅は民営化の途上にある。その手順はかなり複雑だそうで、私たちのガイド氏の本職は、この住宅民営化をすすめる市の部署の職員なのだと教えてくれた。

団地内には、一部でソ連時代の軍人や労働者を讃えたと思われるモニュメントも確認できたが、あからさまにソ連時代を彷彿とさせるモニュメントは、あまり多くはなかった。 ガイド氏によれば、レーニン像のモニュメントは、ウクライナ独立後も東ウクライナの地域では残されるケースが少なくないが、リボフではその多くが撤去され、今は立っていないという。 同じウクライナ国内でも、東西におけるソ連時代に対する捉え方の差が、こうした建造環境の違いとして現れるのであろう。


もう一つのオーストリア領時代のホテル: 欧州の香り漂うグランドホテルにて夕食

オーストリアが郊外につくった大きな森林公園のそばを通って、専用車は再び旧市街に戻った。自由大通りに専用車を止め、通りに面したグランドホテル(Grand Hotel)で私たちは夕食をいただくことにした。


ちなみに、夕食前、自由大通りの公園には、選挙集会のため多くの人々が詰め掛け、道路は混雑していた。党旗から、選挙集会を行っているのは、全ウクライナ連合「自由」と呼ばれるウクライナの民族主義の政党であった。 リボフなどウクライナ西部では、支持率の高い政党のようである。

ホテルの外観は、これも典型的なアールヌーボー様式で、入口の上部にはアトラスの彫像が二体見られた。内部は、朝食を取ったジョルジュホテルと似て、贅を尽くした欧州の高級ホテルそのものであった。


ガイド氏からのお勧めを受け、私達はウクライナ伝統料理のボルシチと、「ヴァレーニキ」という水餃子に似たものを注文した。ビールやワインも頂きながら、ウィーンの面影を感じさせる上品なホテルの雰囲気の中、巡検の感想などを各自話しながら、優雅なディナーを楽しんだ。

日本であれば、こうした高級ホテルで夕食を楽しむとなると、5,6千円は下らないだろうが、会計は一人当たり2千円ほどであった。グランドホテルにて私達は、これまで一日中大変お世話になったガイド氏にお礼を言って、彼女と別れた。


お洒落な夜の駅、掃除が行き届かず汚い客車

夕暮れ時になって私達は専用車に乗り、来た時と同じルートでリボフ駅へと向かった。リボフ駅に着き運転手にお礼を言って別れ、リボフ駅構内の待合ベンチでしばらく列車を待った。待合ベンチには大きな荷物を携えた客が私達を含め30、40人ほど待機していた。

時間になると、私達は駅のホームに向かった。駅には、私達の乗る列車のほかにも小さな貨物列車などが見られた。暗くなってくると、普通の照明に加え、青色発光ダイオードを使った照明も照らされ、お洒落な雰囲気を醸し出していた。

20時10分、私たちを乗せたオデッサ行き列車はリボフ駅を出発した。前日ウジゴロドから乗ったものと同様、車体には国旗カラーの青と黄色を配している。客車はかなり古く、車内のコンパートメントもなかなかの汚さだった。トイレは清掃されておらず、トイレの外にまで汚物の臭いが及ぶ有り様であった。

部屋内で休んでいると、しばらくして、女性の乗務員がやってきた。ソ連時代と同じで、寝台列車には車両ごとに女性乗務員が一人ずつおり、旅客の世話や客室の掃除などを行っている。乗務員は、色々なやり方で、乗客を相手に「小遣い稼ぎ」をしている。 私達のもとに来た女性乗務員も、ロシア語で「コーヒーか茶は要るか」と聞いてきた。ロシア語を履修したゼミ生が対応し、「茶を二つ」と答えると、なぜか茶が四つ提供され、更にお釣りは返してもらえなかった。今も国営鉄道であるから、社会主義時代の名残りで、このような乗務員による小遣い稼ぎの習慣は未だに残っているのであろう。 また、こうした乗務員への業務監督は十分でないのかもしれない。最低限、トイレ掃除はまめにやって欲しいところだ。

私達は前日までの疲れもあり、明日のオデッサ巡検に備えて、早めの床に着いた。



(野田 将矢)