ウエリントンウエリントンにはニュージーランドの首都が置かれているが、都市圏全体をあわせても人口は40万人ほどと、 先進国の首都としては規模が小さい。 ウエリントンは、オーストラリア・プレートと太平洋プレートの境目に位置し、歴史的に地震が多い。 9世紀にオワリウ断層、13世紀・17世紀にウエリントン断層の活動から大地震があった。 また、特に1855年のワイララパ断層の活動によって起きた大地震はマグニチュード8.1と推定され、被害も大きかった。 縦揺れだけでなく、バスの全長ほどの長さに相当する横揺れがあったという。 この地震によってウエリントンにおいて陸地が隆起し、 波止場に隣接したラントン・キー(Lambton Quay)はこの時1.5メートル盛り上がり現在この通りは海岸線から200メートルも離れている。 1839年にイギリス人による植民地化が開始され、1865年に、ニュージーランドの首都となった。 かつては、「ゆりかごから墓場まで《の福祉政策のもとで、政府機関に多大の雇用があり、郊外には工業も発達していたが、 「小さな政府《を掲げたネオリベラル政策以降、ウエリントンでは政府機関だけでも1500もの雇用が失われ、 また、貿易自由化に伴い自動車組立工場などが閉鎖され、工業が衰退した。 金融業ではもともと、ニュージーランド経済の中心であるオークランドに大きく水をあけられている。 それを補うべく、ウエリントンでは現在、映画産業や観光産業に力を入れて都市間競争で勝負する試みがなされている。 映画産業の中心となっているのはスタジオ、ウェタ(WETA)であり、 観光産業の中核を担うのは博物館テ・パパ(Te Papa)とスタジアムウェストパック・スポーツ&エンターテインメントセンター(Westpac Sports&Entertainment Centre)である。 スタジアムではラグビーなどのスポーツイベントや、ファッションショーが行われている。 これらはいずれも、1990年代以降に建てられている。 |
早朝6時40分、タウポからの夜行バスはウエリントンに到着した。 バスターミナルはウエリントン駅(Wellington Railway Station)やフェリーターミナルと隣接していて、 ここがオークランドのブリットマート駅と同様の交通のハブとなっていることがわかる。 バスターミナルには市内バスのチケットの自動販売機が置かれていて、待合のベンチには屋根が付いている。
バスターミナルから鉄道駅の中が見える。駅のホームには、郊外電車が停まっている。
オークランドの郊外列車はディーゼルであったが、こちらは電化されていた。
駅舎は6階建てほどの高さのあるイギリス風の大きな時計台で、天井が高い。駅舎の前は広いロータリーとなっている。
イギリス植民地時代に首都の主要な駅として作られたものが残っていることがわかる。
また、駅舎の中には93/4番線のプラットホームという表示の看板があり、映画「ハリーポッター《に出てくるロンドンの駅を真似ているようだ。
私たちは、シャトルを見つけてこの日宿泊するホテル、ハーバー・シティ・モーターイン(Houbour City Moter Inn)まで向かった。 ハーバー・シティ・モーターインは、ウィリス通り(Willis Street)を南下していき、ウェブ通り(Webb Street)に曲がったところにあるモーテルである。 ホテルでは本来のチェックインの時間より早かったので部屋を使用するには追加料金が必要だったため、1部屋のみチェックインを行って、そこに荷物を置くことにした。 このモーテルは、アジア系の家族が経営しているようで、必ずしも日本人に愛想はよくなかった。
各自朝食をとった後、ホテルの玄関でこの日ウエリントン巡検を案内してくださるリチャード・ウィリス(Richard Willis)さんと合流した。
ウィリスさんはビクトリア大学地理・環境・地球科学部(School of Geography, Environment and Earth Sciences)の教授を引
退し、
現在は非常勤講師として同大学で教鞭をとられている。
また、今回の私たちのように、ニュージーランドを教育・研修の目的で回りたいという学生団体を積極的に受け入れて、
有料ボランティアのような形で案内を行ってくれている(左の画像をクリックするとそのパンフレットが見られる)。
この日一日私たちを乗せてくれる赤いバンはビクトリア大学地理・環境・地球科学部のものである。
大学が非常勤講師にもバンを貸してくれることに驚いた(画像下)。
私たちはまず、ウエリントン全体が見下ろせるビクトリア山(Mt. Victoria)へと向かった。
ウォーレス通り(Wallace Street)、リディフォード通り(Riddiford Street)を南下していくと、ニュータウン(Newtown)と呼ばれる地区に至る。
ここは、商店街に中国系の地元民向けスーパーらしき店がある。
しかし、コンスタブル通り(Constable Street)に入った所にある児童公園には、顔の形をした太平洋諸島のモニュメントがアスレチックの一部となっていた(写真)。
また、その向かいにも太平洋諸島の模様でかたどられた図書館があった。
このように、景観的に見ると、公共施設は太平洋諸島色が強いが、商業施設は、中国系移民の経営が目立つ。
ウィリスさんによれば、歴史的にこの地区は、太平洋諸島出身者が多い地区であった。しかし最近では、中国人の移民が増えてきているという。
エスニック地域は家賃も比較的安く、都心にも近いので、中国人にとっても適切な都市住区となる。
固着化した公的なエスニシティの表象と、実際のエスニックな人口移動の空間過程とが上一致をきたしている例であろう。
コンスタブル通りからアレクサンドラ通り(Alexandra Street)に入り、車でビクトリア山の展望台に続く坂道を登る。 ビクトリア山といっても都市部からほど近くにあり、標高も低く、丘に近い。 駐車スペースに車を停め、歩いて階段を上ったところに山頂展望台がある。
階段の横には、大砲が置かれていた。
これは、発射して正午を知らせるための大砲として、植民地時代の1877年に都市全体から見えやすいこの場所に設置されたものである。
同様の正午を知らせる大砲は香港にもあり、イギリス植民地特有の監修のようだ。
展望台は円状の石台となっており、ここからウエリントンの都市部が一望できる。
北西から北にかけて、ラントン・ハーバー(Lambton Harbour)を囲む都市の中心部が望める。
海沿いの埋立地には、国立博物館テ・パパ(左写真中央部)やスタジアム、ウェストパック・スポーツ&エンターテインメントセンターが見える。
スタジアムの隣はコンテナターミナルとなっているが、クレーンは1機しかなく規模はとても小さい。
海岸沿いにはビルが立ち並び、湾から少し離れた位置に公園や大学の建物が見られる。都市中心部の西の山間は郊外住宅地になっている(右写真)。
奥の山の尾根には風力発電所の風車が見えるが、景観保護のためか尾根に広い間隔を置いて数本風車が立っているだけで、十分な電力をまかなえるのかは疑問である。
展望台に設置されたパネルによれば、ウエリントンは、オーストラリア・プレートの下には太平洋プレートが潜り込む場所にあたり、 400万年後には北島と南島がつながるだろうという。 このため、度重なる大地震の影響にさらされてきた。 ウエリントン周辺には10以上の活断層が存在し、これらの断層は、南のクック海峡から始まり多くの湾を貫いていて、北方に伸びる高速道路に沿って見られるという
南東側に目をやると、半島と本土をつなぐ地峡が見える。
マオリの伝説に従って「ワタイタイ《とも呼ばれるこの地峡一帯は、1660年に起きた地震によって隆起してできた。
1855年の大地震に伴う津波は地峡を乗り越えたが、幸い当時この場所に人は住んでいなかった。
ウィリスさんによると、1840年当時、イギリス人たちが最初に入植してきたのがこの地峡の地域だという。 しかし1855の大地震と津波で大きな被害を受け、現在の都市部の位置するラントン・ハーバーの方へシフトしていったのだそうだ。
現在、この地峡には、ウエリントン国際空港があり、展望台からその滑走路が望める。 空港の滑走路は1本のみで、首都にある国際空港としては規模が小さい。 現在ある空港は、1950年代に丘を削り150世帯を立ち退かせ、28ヘクタールの埋め立てを行った上で建設された、と紹介されている。
ウェタと新国際分業
次に私たちは、地峡の東側の半島部にあるウェタ・ケイブに向かった。 ウェタ・ケイブはビクトリア山からアレクサンドラ通りの山道を戻り、エヴァンズ湾(Evans Bay)沿いのカバム・ドライブ(Cobham Drive)で地峡を渡り、 パーク路(Park Road)を北上していった先にある。
カバム・ドライブから見られるエヴァンズ・ベイ・マリーナ(Evans Bay Marina)には多くのクルーザーが泊まっているのが見え、
この辺りには富裕層が住んでいることが伺える。
また、海沿いから内側に入り、ウェタ・ケイブに近づくと、自動車修理工場や調理器具などの倉庫が見受けられるようになった。
ウェタウェタ(Weta)は1993年に設立された映画会社である。 現在ウェタ・ワークショップ(WETA WORKSHOP)というスタジオと、ウェタ・ディジタルという映画のCGを扱う企業があり、 ハリウッドになぞらえて「ウェリウッド《と呼ばれている。 ウェタの施設内には、ウェタ・ケイブ(WETA CAVE)と呼ばれるビジターセンターを設置して一般開放している。 「ウェタ《というのは元々ニュージーランド固有の昆虫の名称だそうだ。 ネオリベラル政策以降ウエリントンでは多くの雇用を失った。 政府機関は縮小し、関税撤廃によって自動車組み立て工場も閉鎖された。現在ウェタのスタジオがある地も以前は工場が立っていたという。 政府は失った雇用を取り戻す代替的産業として映画産業を推進し、その中心がウェタとなっている。 現在ウェタのスタジオでは約2000人の技術者が働いており、主にCGなどの特殊技術を担当している。 |
ウェタの入り口に着くと、展示・上映ルーム・売店が一般開放されていることを示す看板が表に出ていた(左写真)。
中に入ると「アバター《、「ロード・オブ・ザ・リング《などの映画に登場するキャラクターの人形が仰々しく飾られている(中央写真)。
端の方の売店では、映画に関連する模型や書籍、Tシャツや帽子といったものに値札が付いて売られていた(右写真)。
あくまでウェタの紹介であり、ユニバーサル・スタジオのような、この施設じたいをエンターテインメントの対象として計画されているわけではない。
上映ルームでは、スタジオでの映画製作に関するビデオが見られた。 ウェタのスタジオで行っている仕事を紹介する20分ほどのビデオであり、撮影に使用する特殊メイク用マスクの作成や、映像のCG加工など技術的な作業過程が、 軽妙なナレーションで紹介されていた。
エンディング・テロップを見ていると、ハリウッドの映画製作会社、20TH CENTURY FOXの名前が見受けられた。 映画スタジオは製作を一手に請け負っているわけではなく、実際にはハリウッドの映画会社が企画を立て、その下流部門で技術面などの制作作業を担っているようだ。 ここには、ハリウッドが映画生産産業を垂直分割し、実際の制作作業を他の国に任せているという、新国際分業的な映画産業のグローバル化が見て取れる。 「ロード・オブ・ザ・リング《などニュージーランドで撮影が行われたという作品も、アメリカでは撮影費用が嵩むことからニュージーランドに供給を求めたのだと考えられ、 ウェタはハリウッドと従属関係にあると言える。 コスト削減を狙うハリウッドと、撮影に使いやすい自然環境があり映画産業での雇用を求めたニュージーランドの思惑が一致したというべきであろう。
ウエリントンにハリウッドの小型版があれば、ビバリーヒルズの小型版もある。
ウェタ・ケイブを後にした私たちは、ダーリントン路(Darlington Road)、シータウン・ハイツ(Seatoun Heights)を通り半島の南部へ下りていった。
海に面したこの地区はガレージの付いた2,3階建ての家が立ち並ぶ、シータウン(Seatoun)と言う20世紀前半に開発された高級住宅地だそうだ。
ウィリスさんによれば、もともと、高級官僚など政府関係者が住んでいる地区だというが、スタジオが近くにあることから、映画俳優も住んでいるらしい。
海沿いに進み国際空港を横切った後エヴァンズ・ベイ・パレード(Evans Bay Plade)を北上する。 地峡を横切るところで、右手に、セント・パトリックス・カレッジ(St Patrick’s College)という学校が見えた。 寄宿舎があるなど、イギリスのパブリックスクールをモデルとした中高一貫の名門男子校である。 ちなみにイギリス英語のCollegeは、大学ではなく、中高一貫校を指す。
私たちはエヴァンズ湾沿いに都市部に戻り、
ジェーボワーズ・キー(Jervois Quay)からラントン・キー(Lambton Quay)を通ってビーハイブ(The Beehive、「蜂の巣《)と呼ばれる、行政府の建物の前に到着した。
イギリスの建築家の斬新な設計で、窓ガラスを細かく仕切った円形の塔のようになっており、その格好から蜂の巣の呼び名がついている。
ビーハイブの隣には、立法機関として議事堂がある。
モールスワース(Molesworth Street)を挟んで向かい側には最高裁判所があるそうで、
この近くに、立法・行政・司法すべての主要な政府機関がコンパクトに密集していることがわかる。
議事堂の前には、リチャード・ジョン・セドン(Richard John Seddon)の銅像がある。
1893年から1906年まで13年間首相を務めた自由党のセドンは、イングランド、ランカシャー生まれで、人道主義者として、
労働条件の改善、中等教育の無償化に努めた。(『ニュージーランド史』、pXXX-XXX)
「ゆりかごから墓場まで《という、イギリスに倣ったニュージーランドの福祉国家の土台を作った人物である。
ネオリベラル政策を導入して、自らが築いた「ゆりかごから墓場まで《が破壊された今日のニュージーランドを、セドンはどうみつめているのだろうか。
ラントン・キーを挟んだ向かいにはビクトリア大学の法科大学院がある。
一見コンクリート製に見えるこの建物は、実は木造であり、現在南半球でもっとも巨大な木造建築なのだそうだ。
これも以前は政府のオフィスだったのだという。
ネオリベラル政策の影響で政府の規模が縮小され、建物があいたのだろう。
ニュージーランドの議会は一院制で、現在議席は121ある。 このうち半数近くの70が小選挙区、残りの51議席が比例代表制から選ばれる。 また、4つのマオリ選挙区が存在し、マオリは常に4議席以上を確保できる。 マオリは通常の選挙区とマオリ選挙区どちらに投票するかを選択できる仕組みになっているそうだ。 最近では従来のマオリ党のほかに、環境保護などに関してより革新的な運動を行う マナ党(MANA) というマオリの政党も登場してきている。
CBDのこの辺りでは「GO《と書かれた黄色いトロリーバスが多く見られる。
ウィリスさんによると、ウエリントンでは、40年前ほどからトロリーバスが市内の移動の手段として主流になっているという。
コストが低いからだそうだ。
また、ネオリベラル政策以降、トロリーバスの運営は民営化され、今はイギリス資本が経営している。
CBDを後にして、私たちは、ウエリントンの伝統的な工業地区である下ハット(Lower Hutt)の方へ向かった。 国道1号線(Wellington Urban Motorway)、国道2号線(Hutt Road)に乗り海沿いに北東に進むと、コロコロ(Korokoro)という地区に差し掛かる。 海に向けて、埠頭が一本突き出している。
ハットは、ウエリントンで初めてイギリス人入植者が来た場所であるが、 元々浅瀬である上に1855年の地震では海底が隆起してしまったので、大型船が着くことが難しかった。 そのため今の都市部に都市機能がシフトしていった。 だが、港が無くなった以後も工業は衰えず、このあたりに、食肉をイギリス本国へ輸出するための冷凍工場が出来たという。 このためこの地域は、ウエリントンでも、労働者階級の居住が卓越する地区となっている。
私たちの立つ海岸から見えるマティウ/サムズ(Matiu/Sames)島では、検疫が行われていたそうだ。 また、ビーチが近いこともあり、現在は労働者階級以外にも中産階級が家を買うようになっているようだ。
続いて国道2号線を降りジ・エスペラネーデ(The Esplanade)からワイオネ・ストリート(Waione Street)に差し掛かったところで左手に「el cheapo cars《と書かれた、
派手な看板の中古車販売店が見えた。
ウィリスさんがこの店を指さし、「良く覚えておくように《と言った。
その後ワイオネ通り、シービュー路(Seaview Road)と進んでいくと、左手に大きな古いレンガ造りの建物が見えた。
ウィリスさんは此の建物をさし、ネオリベラル政策以前、ここにはフォードの自動車組立工場があった、と言った。
現在ここは、プレイスメイカーズ(PlaceMakers)という木材や金物などを扱うホームセンターとなっている。
4階建てほどの横に長い建物と駐車場の他にも、敷地には広い芝生と小さなモニュメントが建てられている。
ネオリベラル政策以前は、完成車に関税障壁があって、車は部品を輸入してニュージーランド国内で組み立てたほうが有利であったため、 ノックダウン生産が行われていた。 しかし、ネオリベラル政策以後は、貿易自由化によって完成車に関税がかからなくなり、 ニュージーランド各都市の自動車組み立て工場はすべて閉鎖された(詳しくは水岡ゼミ巡検ホームページ 8月25日オークランド を参照)。 ウェリントンでも自動車組み立て工場が閉鎖され、海外から中古車を輸入して販売する、先ほどウィリスさんが指さしたような輸入中古車販売店が現れた、ということである。 これによって、このウェリントン地区では、工業労働者の25%の雇用が失われた。
ちなみにニュージーランドに入ってくる中古車は日本車が多い。 これはニュージーランドはイギリスの例に倣い日本と同じく左側通行・右ハンドルであり、日本車がそのまま使いやすいためだそうである。
シービュー路を戻り、下ハット地区の典型的な郊外の住宅地区に入った。
住宅街のところどころには、地元の需要を満たすための商店など、中心機能がある。
私たちは、ウィリスさんのお薦めにしたがい、ランドウィック路(Randwick Road)沿いにある店で昼食のミートパイを買った。
パイは典型的なニュージーランド料理だとウィリスさんはおっしゃっていたが、いうまでもなくイギリスの伝統料理であり、その影響を受けたものである。
パイの値段はNZ$4前後であった。
この商店街の一角、ヨーク通り(York Street)と交わる角にはマオリの長老派協会があり、
このあたりで多くのマオリ族の人々が工業労働者として働いていたことを窺わせる。
ウィリスさんのお子さんの学校にもマオリやアジア系移民が多く、白人は9%ほどしかいないのだそうだ。
マオリの教会は周りは白く十字架が書いてあるが、
入口のある建屋だけは緑に茶色いマオリのモニュメントが施されていて、マオリの集会所と似たつくりにされていた。
私たちは、近くにあるウィリスさんのご自宅にお邪魔して、お茶を御馳走になりながら、先ほど買ったパイを食べることにした。 この家は、トタン屋根で、色は白く、木造建築となっている。 この3つの要素は、典型的なニュージーランドの家の形式だそうだ。 屋根の勾配はやや急で、オークランド郊外で見たカリフォルニア様式と比べると、より、伝統的な様式となっている。 平屋建てで、玄関からまっすぐに伸びる廊下で部屋がつながれており、廊下の突き当たりにキッチンがある。 庭にはブランコが置かれ、日本の桜の木、そしてマオリが食べていたという「キャベツの木《などの樹木が植えられている。 ウィリスさんは、工業労働者としてではなく、この地域に比較的新しくやってきた中産階級に属するのかもしれない。
ウィリスさんの奥さんは芸術家とのことで、トゥアタラ(Tuatara)というニュージーランド固有のトカゲをかたどった彫刻を見せていただいた。
昼食の後、私たちは再びシービュー・ストリートを通り、フランシス・ベル保護地区(Francis Bell Reserve)に向かった。
この地区は政府によって管理されていて、いくつもの散歩コースが設定されている。
この場所もビクトリア山と同様小高い丘になっている。
北側のハット・リバー(Hutt River)沿いに鉄道の修理工場が見られる。
シービュー・ストリート を北に引き返していくと、私たちがタウポで訪問したGNSの施設が山間に見受けられた。
ビクトリア山展望台のパネルに書いてあったような、ウエリントンにある多くの活断層などについて研究しているのだろう。
ランドウィック・ロードからケンブリッジ・テラス(Cambridge Terrace)に差し掛かると、郊外電車の駅にパーク&ライドが見られる。
駐車場は線路に沿って長く、多くの車が停まっている。
ケンブリッジ・テラスと並走する鉄道路線はウエリントン駅までつながっており、郊外からCBDへの通勤に鉄道が使用されている様子がうかがえる。
植民地時代以来の首都であることから、ウエリントンには人口が少ないにもかかわらず、
市内鉄道をディーゼルで運行しているオークランドに比べ、郊外の通勤鉄道が整備されている。
この辺りには2階建ての家や、青や茶色など白以外を基調とした家屋も多く見られる。
ケンブリッジ・テラス、東ハット・ロード(Eastern Hutt Road)をさらに進んでいくと、次第に、
辺りに空き地と、その脇に大破した自動車が捨てられているといった光景が広がってくるようになった。
タイタ(Taita)地区である。
ウィリスさんは、下ハットから上ハット(Upper Hut)に向かうにつれ段々と治安は悪くなっていく、と説明された。
このタイタ地区は、現在ウエリントンにおける犯罪の巣窟のようなスラム地区となっている。
空き地は、公営住宅の跡地である。 元々この地区は、ハット地区の工場に働く労働者の住宅地区として、1930年代以降公営住宅が開発された。 いまでも、オークランドの郊外でもみたのと同じような、テラスハウス型の住宅がならんでいる。 だが、そのなかには、窓を板で覆われた、荒れた家も見られた。
ネオリベラル政策が導入されて以降、自動車組立工場などが閉鎖されてゆき、この労働者地区には失業者が増えた。 失業者には、一定期間にかぎり本来失業手当や家事従事手当といった手当が支払われることになっているが、結局再就職できず、収入の道を絶たれた人々も多くいた。 主にそういった者たちが、使われなくなった公営住宅に住みつき、犯罪に手を染める者も現れて、治安が悪くなった。 公営住宅は荒廃し、その一部が取り壊されていった。 かつて「ゆりかごから墓場まで《というニュージーランドの高福祉の象徴の一つだった公営住宅地区は、 ネオリベラリズムによって、都市のスティグマに変わってしまったことがわかる。
タイタ地区を抜け、鉄道線路をくぐって東ハット・ロードからファーガソン・ドライブ(Fergusson Drive)に入ると、景観は一変した。
そこには、聖パトリックス書院(St. Patrick’s College)という、カトリックのミッション中等学校がある。
カトリックであるので、もともとは、近傍の労働者住宅地区の、比較的富裕なアイルランド出身家庭の子弟を教育していたのかもしれない。
敷地の中は、2階建ての煉瓦造りの建物に木製の門のついた重々しい校舎や、広々とした緑の芝生の校庭がひろがり、
水色のブレザーにきちんとネクタイを締めた制?姿の生徒たちには、格式高い雰囲気が窺える。
生徒たちの一部は寮に住み、一部はおそらく、比較的便利な郊外電車で通学しているのであろう。
聖パトリックス書院を過ぎると、工場地帯となった。
線路沿いに、三菱電機やオーストラリア資本の溶接会社グローバル・ウェルディング・サプライズ(Global Welding Supplies)の施設が見られるが、
一部の施設は、量販店などに機能を変えている。
この辺りの工場は、ネオリベラル政策以前はその多くが自動車組立工場で、20年前までホンダの工場などがあったという。
このように、この地区はかつて、工場を中心に、住宅・教育が機能的にまとまった空間をなしていた。 だが、ネオリベラル政策が導入されてから、都市機能に空間的統一性が失われ、バラバラになってしまったことが見て取れる。
私たちは、ムーンシャイン・ロード(Moonshine Road)から国道2号、1号に沿って都市部へ引き返した。 マーフィー(Murphy)で国道を降り、ジェーボワズ・キーから博物館のテ・パパへと向かった。
私たちは、国立博物館「
テ・パパ
《に到着した。
「Te Papa《とはマオリ語で、英語の「Our Place《を意味する。
茶色い大きな建物にところどころ大きな窓ガラスが付いた、現代的な建築である。
テ・パパは、ラントン湾(Lambton Bay)沿いにある。
以前はより西側の丘の上に博物館があったが、現在の海沿いの都心に移転し、1998年2月に展示内容を一新してオープンした。
向かいには「Museum Hotel《と書かれたホテルがあり、
ネオリベラル政策のもとで観光業に力を入れるウエリントンの新たな観光スポットともなっていることがわかる。
私たちは事前にガイドツアーを頼んでおいたところ、木原しずこさんという日本人の方が来てくださった。 木原さんは日本で生まれ育ち、14年前にニュージーランドにやってきたのだそうだ。 ニュージーランドで永住権を取得し、名札には英語名でスザンヌ(Suzanne)と書かれていた。 日本人ガイドを用意していることから、この博物館には日本人観光客も比較的多いのだとわかるが、 木原さん曰く、東日本大震災の影響からか今年に入ってからは木原さんがガイドを担当する日本人観光客は私たちで2組目と減っているそうだ。 博物館の入場自体は無料であるが、ガイドツアーは1時間で、大人一名NZ$11、子ども一名NZ$5.50となっている。
テ・パパを視察するにあたって、私たちの関心は、展示の具体的内容もさることながら、 これまでに視察した2つの博物館、すなわち大英帝国の色彩が濃いオークランド博物館と開拓史観を前面に押し出したタウポ博物館と比べ、 首都の中心に位置するこの博物館が全体としてどのようなメッセージを来訪者に伝えようと意図しているかにあった。
《1階: 観光土産品も充実した、ミュージアムショップ》
博物館の1階はロビーとミュージアムショップになっている。
ロビーは天井が高く、4階くらいまで吹き抜けになっており、現代的な作りである。
左には大きな錨が吊るされている。
ロビーに置かれたパンフレットには英語のもの以外に日本語、中国語、フランス語、ドイツ語のものがある。
ミュージアムショップには書籍や、キウイの描かれたキーホルダーやTシャツやぬいぐるみといった雑貨、陶器やハチミツなど、雑多なものが売られている。
通常の博物館のショップよりも広く、観光土産品的なものもあるところから、この博物館を観光スポットとして積極的に売りだそうとする積極的姿勢が窺える。
ただし、一般の観光土産物店とはむろん異なり、書籍の量が多い。
書籍はニュージーランドの自然やマオリの芸術に関するものなどがあり、中にはマオリ語で書かれているものもあった。
《2階: 展示入口におかれたマオリの門》
博物館の展示は、ロビー正面から階段・エスカレータを上った2階からはじまる。
2階の入り口左手には、ワハロア(Waharoa)と呼ばれる、マオリの集落の玄関口におかれるモニュメントが展示してある。
木原さんによるとwahaとは口のことを表し、roaというのは長い、という意味だそうだ。
マオリの崇拝の対象であるトカゲをモチーフとして、上から2番目の像は大きく舌を出している。
この仕草はマオリにおいて戦闘の前に威嚇として用いられ、ラグビーの試合でニュージーランドのチームがこれをするので、よく知られている。
ただし、この場所に展示されているものは1991年に国際展示用に作られたもので、特定の部族を表したものではないという。
来訪者が皆通る入口の通路にマオリの展示物を置くことから、この博物館におけるマオリのプレゼンスの高さが窺われる。 私たちが視察したオークランドやタウポの博物館ではこのようなマオリの地位の強調はなかった。 モニュメントの門の上には木でできた横3列の像が縦にいくつも積み重なり、全体の高さは5メートルほどある。
2階の展示は、ニュージーランドの自然や動物をテーマとしている。 すさまじい力(Awesome Forces)というエリアには、地質学に基づいた展示がある。 ここでは、地震を疑似体験できる部屋がある。 オークランド博物館同様、実際に体験できる場としての博物館という流行りを取り入れている。
他にはプレートの境目が書き込まれた金色の地球儀と共に、ニュージーランドでは年に1500回ほど地震が起きていること、 プレートは年に3cmずつ動き、歪が蓄積していることが展示によって説明されている。
また、ニュージーランドの動物の紹介のエリアでは、キウイやウェタ、その他ニュージーランド独自の動物がパネルと模型によって紹介されている。
3階も2階と同様ニュージーランドの自然を展示テーマに扱っているが、今回私たちは時間の都合上立ち寄らなかった。
《4階: 多民族主義と大英帝国との葛藤‐移民とニュージーランド経済、米仏との対抗》
続いて私たちは、4階に上がった。この階はマオリの文化やニュージーランドの歴史、そして移民問題などを扱っている。
私たちはまず、テ・マラエ(Te Marae)と呼ばれるマオリの集会所のモックアップモデルを見た。
集会所は1部族に1つ、ニュージーランド全体で1000あるといい、ここで見られる2つのテ・マラエは最新様式のもの(左写真)と一番古いもの(右写真)なのだそうだ。
最新様式のものは白く立派なもので、装飾は現代アート的でありヨーロッパ文化の要素が見て取れる。
マオリ文化とヨーロッパ文化の融合を強調しているのだろうか。
屋根の正面には5人の兄弟の神の像がつけられている。
また、古いタイプのテ・マラエは1870年に作られたものである。
木造で、小さな窓が1つあり屋根の中央に顔が縦に2つ彫ってあるほかは装飾がほとんどない。
私たちは時間の関係上中には入らなかったが、中は1870年当時のままで残っているという。
進んでいくと、ワイタンギ条約を英語・マオリ語両方で書いたパネルが展示されていた。
英語のパネルとマオリ語のパネルを対面させて置いていて、両国語が対等であることを強調している。
私たちが視察したワイタンギ条約地区など他の場所では、英語版の下にマオリ語版が載せてある展示が一般的であった。
これに対し、首都ウエリントンの国立博物館ではあえて、両者が平等であるという中立的な立場を示すため、このような展示がなされているのだと考えられる。
パネルの横には「Treaty 2 U《という文字の書かれた旗がある。
これは「Treaty to you《を捩ったもので、ワイタンギ条約を、建国に関わる基本法として、広くニュージーランド国民一般に広めるための宣伝文句である。
もちろん、このように表現された白人(パケハ)とマオリとの「対等な《地位が、白人から恩恵として授けられたものではなく、 マオリの人々の白人に対する粘り強い民族闘争の成果かちとられたものであることは、いうまでもない。
最近でも、1975年には土地の返還を要求する行動としてマオリの老婆がワイタンギからウエリントンまで歩く運動を行った。 すると、1000人以上が続いてこれに参加した。 そして、最近では南島の北東部にあるカイコウラ(Kaikoura)と呼ばれる地域においては、マオリ族の人々が、 伝来の資源を用いてホエールウォッチングやキウイ保護を行っている。 権利をかちとった資源を利用したマオリによるビジネスも少なからずあるらしい。 トンガリロトレッキングでのマオリのガイドビジネスなども同様のものだろう。 マオリ族の間には、伝来の資源に対する権利を英国系白人と闘って確保し、それに基づいてビジネスを始めてマオリ族の経済的地位を向上させるという、 したたかな戦略があることがみてとれる。
奥に進むと、19世紀以降のニュージーランドにおける入植者や移民の推移を表すパネルがある。
ここでは、1民族に焦点を当てるのではなく、マオリからイギリス植民、アジア人移民等の増減が1つの時間軸の中におさめられて展示してある。
これによると、1840年代からマオリから土地を奪おうと入植する英国人が増え、1858年にはマオリが同数ほどになった。 さらに、1860年代にオタゴで金が発見されたことにより入植者の増加に拍車をかけた。 金が枯渇してからは入植者の数は激減したが、1870年代には国内に少なくなった農業従事者をアイルランドなどから集めることに成功し、 人口が15万人以上増加して、羊毛、小麦の輸出も急増した。 しかし1885〜1900年までの間に羊毛の値段が下がり、金も枯渇していたため入植者は激減し、オーストラリアに流れた。 20世紀に入り冷凍船が開発されると再び入植者は増えた。 このように、戦前は、基幹的な経済部門の動向がニュージーランドの盛衰を決めていた。
2つの世界大戦では経済は大きな打撃を受けたが、戦後は住みやすい国として、イギリス以外のヨーロッパ、アジアからの移民も増えた。 1970年代、EC加盟をきっかけにイギリスがヨーロッパでの結びつきを強め、オイルショックと相まって1980年代のニュージーランド経済は落ち込むと、移民も流出していった。 だが1990年代になって、アジアからの移民、そして反アパルトヘイトの動きが強まり黒人の力が増大することを嫌った南アフリカから白人の移民が急激に増えた。 政府は1996年に一度移民に対する規制を強めたが、銀行が資金繰りに困ったことで再び規制を弱めた。 香港の中国返還直前には、英領香港から同じくイギリス色の強いニュージーランドに移民してくる香港中国人も少なくなかった。 裕福な移民たちが持ち込む資金が、ニュージーランド経済に重要な役割を演ずるようになり、これを取り込むため、中国人向けに土地の開発も行うようになった。 木原さんは1997年にニュージーランドに移り住んだが、1999年にアジア人移民の規制が緩和された3日後に永住権の許可が下りたのだそうだ。 このように、戦後は、住みやすさと、英語国であるという理由から、ニュージーランドは重要な移民の受け入れ国となり、それによって経済が発展してきていることがわかる。
難民の受け入れに関しての展示もある。 ニュージーランドは世界一の難民受け入れ国として様々な地域から多くの難民を受け入れており、 スーダンから来た少年やベトナムから来た少女を紹介するパネルがあった。 難民を多く受け入れていることを示すことで、大英帝国の覇権主義的ではなく、 国際貢献に積極的な開かれた国ニュージーランドというイメージを売り込もうとしているのかもしれない。
とはいえ、大英帝国の覇権を問題とせずに、ニュージーランドを語ることはできない。
更に進むと、戦争に関する展示のコーナーがあった。この場所の展示は、オークランドの博物館と似て、大英帝国の面影が強い。
「Little Britain《と書かれた下に、ビクトリア女王の肖像画やイギリス国旗が見られる。
また、第二次大戦の際日本軍がニュージーランドに侵攻して来るのではないかという上安があったといい、日本人を風刺した当時のおもちゃも展示されている。
ニュージーランドは第二次大戦に参戦し、1945年9月に日本の降伏を東京湾に浮かぶ米艦ミズーリ号上で接受した戦勝国の一つである。 その後、ニュージーランドは戦争や紛争には参加していないと木原さんは説明してくれたが、 私たちが行ったオークランド博物館では朝鮮戦争やベトナム戦争で亡くなったニュージーランド兵の名が、はっきり壁に刻まれていた。 日本人の訪問客向けに、あえて事実を曲げて、「平和国家ニュージーランド《というイメージを売り込もうとしているのだろうか。
広島にアメリカが投下した原爆の悲惨な画像と共に、冷戦時に欧米諸国が太平洋で行った核実験の場所を表す地図が展示され、
太平洋で核実験が行われていたことに反発する展示がある(写真)。
これも、「平和国家《のイメージづくりに貢献している。
たしかに、ニュージーランドは核廃絶の立場から、核実験はおろか、原子力発電所すら作っていない。
イギリスとの精神的結びつきの強いニュージーランドにおいて、南太平洋で核実験を繰り返したフランスに対する敵愾心、という大英帝国の匂いも漂ってくる。
この思想は、このフロアにある、1689年に英国人キャプテン・クックがハワイで手に入れてニュージーランドに持ち寄ったというマントと帽子の展示にもにじんでいる。
ハワイでは神様は白人であると思われていたため、現地人がキャプテン・クックを崇めて贈呈したものだという。
この展示品に関しては、元々ハワイのものだという事で、アメリカが返還を要求しているが、「脆くて移動させることができない《ことを言い訳にニュージーランドは返さないのだそうだ。
もともと、ハワイの王室は、ハワイ島を英領植民地として差し出す代わりに大英帝国の庇護のもとでハワイ王国を維持しようとしていた。
しかし、その王室は結局アメリカ人によって打倒され、最終的にハワイはアメリカ合衆国の一部に編入されてしまった。
クックが受け取ったマントや帽子は、ハワイの先住民に返還要求の権利はあっても、征?者のアメリカにはその権利がない、と言わず語りに伝えているようでもある。
同じ英語国でありながら、25年以上にわたり、米国軍艦の寄港を拒否し、むろん国内に米軍基地を置くことも許さないニュージーランドの、
大英帝国の一員としての誇りとアメリカとの微妙な緊張関係を、ハワイのマントから垣間見たように思った。
《全体として: 中立性を意識した展示の裏に潜む展示者の意図》
この博物館を全体として見ると、植民地主義・大英帝国的なオークランド博物館や開拓史観を持ったタウポ博物館とは違い、 表面的には、中立的な立場をとり、特定のメッセージ性を取り除いているようにみえる。 首都に作られる国立博物館として偏った立場からの発信とならないよう「中立的《な博物館として作ろうとする努力は、見学していて強く感じられた。 見学順路すら設定されておらず、個々人の見たいものを回りたい順番で回れるようになっている。
マオリのプレゼンスが高く、白人に偏ったような展示を行っていないことは、2階入り口にあるマオリのモニュメントや、ワイタンギ条約の展示の仕方に見て取れる。 館内のトイレの表示さえ、英語とマオリ語が併記されている。 このこと自体、粘り強いマオリ族からの要求によって、現在の白人政府が置かれざるを得なくなったニュージーランドの、多民族的でポストコロニアルな政治状況を反映している。
とはいえ、その一方で、白人がマオリに対して、その土地を奪った謝罪を示すような展示があるわけでもない。 また、世界大戦や反核、ハワイの衣装などには、大英帝国との結びつきを窺わせる展示もある。 そこには、いぜん大英帝国の一員ニュージーランドという意識がにじんでいる。
私たちは今回、十分な時間がとれず主要な展示品のみを見て回ったが、この博物館を隅々まで見ていくのには3日間はかかるという。 様々な考え方の角度から展示物を見られるよう、全て取り揃えていった結果、このような巨大な博物館が出来上がったのだろう。 メッセージ性が乏しいその大量の展示物の堆積から、展示者の意図を見抜くには、かなりの洞察力が必要である。 だが、よく見とおすと、そこからは、現代のニュージーランドが、ポストコロニアルの時代にそのアイデンティティの確立を求めて苦悩している姿が、 逆に強いメッセージとして浮かび上がってくるのである。
次に私たちは、ウエリントン駅内にあるキウイ・レール(Kiwi Rail)のオフィスを訪ねた。
この駅舎は、首都の鉄道駅として英国風の威厳ある作りで、植民地時代には国営鉄道の本部があった。
私たちは、ロータリーから向かって右側の入り口から入り、オフィスのある4階に上がると、客車の形をした来賓用の会議室に通された。
壁には記念列車の写真のほか、イギリス王家の来訪を示すプレートや王室の紋章が飾られていて、大英帝国の鉄道という過去の栄光を示していた。
私たちはここで、キンバーリー・ブラディ(Kimberley Brady)氏にお話を伺った。
《歴史》
キウイ・レールは、ニュージーランドの鉄道の再国有化によって成立した。 ネオリベラリズムの初期、鉄道についても完全な民営化が図られたが、それは鉄道業の特質を無視した市場原理主義の機械的な適用であり、 さまざまの問題をもたらし、重要な公共交通機関の一つである鉄道を荒廃・衰退させる結果を生んだ。 そこで、ネオリベラル政策の見直しが図られ、鉄道がもつ社会性・公共性や長期的視野をとりいれた、新しい鉄道政策が導入されたのである。
19世紀から続いていた完全な国営鉄道ニュージーランド鉄道省(NZ Railways Department)が、 1990年キウイ・レールの前身である国有企業ニュージーランド・レール(NZ Railways Corporation)に公社化され、それが1993年に民営化された。 この公社化から民営化されるという動きは、当時のニュージーランドの国営事業体の民営化に共通する流れであった。 1993年の民営化に際しては、アメリカの鉄道会社ウィスコンシン・セントラル(Wisconsin Central)、 ニュージーランドの投資銀行フェイ・リッチホワイト(Fay Richwhite)、 その他のアメリカ投資会社によってトランズレール・ホールディングス(TRANZ RAIL HOLDINGS)という合弁会社が作られた。 ウィスコンシン・セントラルは持株比率としてはこの企業の第3株主だったが、元々アメリカの鉄道事業者であったから、 トランズ・レールに金融・技術面で職員を多く送り、他の投資だけの企業と違い、実際に鉄道事業に携わった。
ウィスコンシン・セントラルが運営するニュージーランド鉄道は、当初は積極経営を行い、利便性が高かった。 旅客列車では、飛行機と同じように食事時間になると軽食や飲物が乗客にふるまわれ、北島の温泉地ロトルアや、 南島の最南端の都市インバーカーギルまで旅客列車網が伸びて、鉄道の競争優位をめざす経営戦略が取られた。 貨物輸送においても、 キウイ・レール公式ホームページ によると、この時期には北オークランドに新しい港を作り、乳製品輸送を強化するなど、事業拡大を目指していた。
しかし、ブラディ氏によると、2000年前後に 、株主たちは事業から引き上げるために収益を持っていき、設備投資をしなくなっていった。 貨物メンテナンスを含めたネットワークへの投資がなくなり、次第にネットワークは老朽化し、サービスも悪化していった。 政府はトランズ・レールに設備投資のための補助金を出していたが、これも株主が横取りして、鉄道設備には十分行き渡らない状態だったという。
その後、2003年にオーストラリア資本のトール・ホールディングス(TOLL HOLDINGS LTD)が買収した。 このトール・ホールディングスも新規投資を行わず、設備は老朽化し、鉄道のサービス水準はますます低下していった。
結局、事態を見かねた政府が、2004年に鉄道線路事業を買い戻した。 この時、トールの共同出資者であるオーストラリアの企業から政府は2ドルで線路事業部を買い取ったという。 2008年には、当時の労働党政府が、運行も含めた全事業を再統合することに成功し、現在の国有鉄道会社、キウイ・レールとなった。 キウイ・レールの経営は民間会社として行われているが、その株式の100%を政府が保有している。 (ちなみに、この所有形態は、日本でのJR四国、JR北海道と同じである。)
ブラディ氏のお話によれば、キウイ・レールが再国有化に行きついた背景には、民間企業が、短期的な株式からのリターンのみを追い求める弊害があるという。
ニュージーランドには人口が少なく、鉄道においては貨物輸送が鍵を握っている。 この貨物輸送を円滑に行うためには、全国の線路に対する長期的な視野を持ったメンテナンスが必要とされるが、これには多額の投資が必要となる。 一方、民間企業は短期的な利潤を求めるので、直ちに収益の出ない設備投資に多額の資金を投入することはせず、設備投資がないがしろにされる傾向がある。
民営化した当初は、国営時代の十分にメンテナンスされた設備が利用できたので、 民間企業が線路に投資をしなくても成り立っていたが、次第に老朽化が目立ってきたのだろう。 だが株主は、保有する株式からの短期的利益を追求するのみで、老朽化への長期的対策は行わない。 ここに、ネオリベラル政策におけるインフラ事業民営化の限界が見られる。
2008年に全事業が買い戻された後、国民党政府への政権交代があった。 労働党政府時代は補助金という形で政府は年にNZ$9000万の資金を投入していたが、新政権はこれを嫌い、よりネオリベラリズムの方向に再び揺り戻しが起こっている。 現在は、収益性が見込めるという条件のもとで、投資という形をとって、政府が資金を供与している。 現在キウイ・レールは政府から3年でNZ$7億5000万の投資を受けている。 この金額は、路線ネットワーク事業での設備投資に賄われている。
《5つの事業部にわかれた組織》
キウイ・レールは、組織として、5つの事業部に分かれている。 貨物輸送事業部(Kiwi Rail Freight)、旅客事業部(Kiwi Rail Passenger)、 機械事業部(Mechanical)、路線ネットワーク事業部(Kiwi Rail Network) 、 連絡船事業部(Kiwi Rail Interislander)である。
1. 貨物事業部
貨物事業部は、石炭や乳製品、木材やコンテナなどの貨物輸送を扱う。 2010年度の利益はNZ$3億8600万と、現在のキウイ・レールの中核をなすビジネスとなっている。
キウイ・レールが担当する貨物列車は週に900本ほど運行され、年に1441万2千トンもの貨物を運んでいる。 その内訳は、石炭や乳製品、木材などの資源が56%、輸出用コンテナが31%、国内用コンテナが14%である。 2011年はクライストチャーチでの地震の影響で落ち込んでいるが、全体的には各分野とも伸びている。 ここでの内訳をみると、諸外国の鉄道輸送同様、ニュージーランドでも、単価が安く定形・大量輸送に適するものに対して鉄道輸送が競争力を持っていることがわかる。
コンテナに関しては、線路の幅が日本のJR在来線と同じ1,067mmと狭軌で、トンネルの断面も小さい関係上、コンテナを1段にしか積めないので効率が良くないという。 だが、その中でも貨物輸送の45%をコンテナが占め、うち海運コンテナが3分の1近くあるというところに、 コンテナ輸送を中核ビジネスとして育てていこうとする経営意欲が窺える。
鉄道経営の中で貨物は中核部門であるが、国内全体の貨物輸送のシェアでみるならば、現在、鉄道の割合は6%にしか過ぎない。 20年前までは60%を保っていたというが、今や自動車輸送の92%に大きく引き離されてしまった。 その一因は、政府が一連のネオリベラル政策の中で自動車輸送における規制を緩和させたことである。 民営化以前は、国鉄保護のための規制として、自動車による40km以上の貨物輸送には特別な許可が必要だった。 許可が下りたトラックも、70kmまでしか運べなかった。 この規制がネオリベラル政策の中で1987年に撤廃され、鉄道はトラックとの激しい市場競争にさらされて、シェアが大きく落ち込んだ。
現在この状況を打開するため、貨物事業部では、新たな競争力強化戦略を打ち出している。 私たちがオークランドで訪問したフォンテラや、ニュージーランド最大級の輸送会社メイン・フレイト(Main Freight)と協力し、 鉄道の操車場の中にそれらの企業の輸送基地を置くことで、ドア・トゥー・ドアに類似した利便性をつくりだし、 トラックから列車へのインターモーダルな積み替えをより効率的に行って、自動車輸送に対する優位を生み出そうとしている。
また、夜行貨物列車の運行で、速度の制約を打ちかつ方策も計画されている。 まずは、ウェリントン・クライストチャーチ間で試すという。 北島と南島におけるハブ間の輸送を夜間に行うことで、夕刻にウエリントンの貨物駅に荷物を運び込めば、そのまま鉄道連絡船経由で翌朝クライストチャーチに貨物が着く。 荷主は、翌朝にクライストチャーチでスポーク部分の輸送を行えば、日中のロスタイムがなくなり、時間を効率的に使える。
2. 旅客事業部
旅客事業部では、年間1236万7千人の乗客を運ぶ。これはウエリントン都市圏の郊外鉄道を扱うトランズ・メトロ(Tranz Metro)と、 長距離鉄道を扱うトランズ・シーニック(Tranz Scenic)の2つのブランドに分かれる。
ウエリントンの郊外鉄道を運行しているトランズ・メトロは、 車両を保有するウエリントン市の自治体(Greater Wellington Regional Council, GWRC)と契約し、鉄道のオペレーションを行っている。 この点で、キウイ・レールの位置づけは、オークランドにおけるヴェオリアと似ているといえる。 ただし、オークランドと違い、首都ウエリントンにはネオリベラル政策導入以前から、国鉄時代が運営する郊外鉄道が長いあいだ存在してきた。 国鉄民営化後の現在も、ノウハウを蓄積したキウイ・レールがそのままオペレーションを続けているのは、鉄道経営における径路依存性(path dependency)の一形態ともいいうる。 今後も当分は、自治体との契約という現在の形を取り続けるという。
ただし、現在使用している車両は老朽化しており、更新が急務である。 イギリス製の車両は50年以上使われている。 午前中、ウィリスさんから、私たちが見たウエリントンの郊外鉄道の車両はハンガリー製で、これもずいぶん古いと聞いた。 ブラディ氏によると、これらを一新するべく、近々韓国製の新しい車両を導入するらしい。 車両はキウイ・レール側が注文を行い、市の自治体に譲渡する。
トランズ・シーニックが運行する長距離列車には、オークランド・ウエリントン間のオーバーランダー(Overlander) 号、 連絡船を挟んでウエリントンとクライストチャーチを結ぶトランズ・コースタル(Tranz Coastal) 号、 そしてクライストチャーチと西海岸のグレイマスを結ぶトランズ・アルパイン(Tranz Alpine) 号の3本の急行がある。 これ以外に1990年代まであった長距離都市間列車やローカル列車は、全て廃止された。
ニュージーランドの国土は山がちなので、鉄道は速いスピードを出すことが出来ない。 トランズ・アルパイン号は平均時速40〜50kmである。これでは空港を持つ都市間の移動において、単純な移動手段としては航空に対して競争力を持てない。 このため、ニュージーランドの長距離鉄道は、旅客輸送というよりむしろ観光用という面で、競争優位を追求する戦略をとっている。
とはいえ、オーバーランダー号もトランズ・コースタル号も、儲かっていないらしい。 ブラディ氏によると、オーバーランダー号とトランズ・コースタル号の2つについては、引き受ける民間企業があれば運営を任せたいというが、 赤字のため、現在は民間企業の側に参入意欲はないようだ。 それでも、ネオリベラリズムに逆行して、このような日常的な収益が見込めない列車を、国有のキウイ・レールが定期運行しているというのは、 全国スケールの主要都市を結ぶ鉄道だけは少なくともキウイ・レールがオペレーションして残しておくことで、 自動車・飛行機輸送が災害などのため運行困難に陥った場合でも鉄道輸送が機能するようにしておくという、国土・社会政策的な意図があるのだろう。 ちなみに、同じ配慮は、アメリカの公営鉄道アムトラックにも認められる。
もう1つの、クライストチャーチからグレイマスまで南島を横断して運行しているトランズ・アルパイン号は、 その乗客の75%が海外からの観光客であり、ニュージーランドの主要産業の一つである観光業の目玉をなす重要な路線となっている。 最近では多言語でのアナウンスや、別料金の特等客車(Premier Class)の客車を用意するなど、観光客向けの新しいサービスを始めている。 近々行われるラグビーワールドカップの試合の合間の日にも、特別なキャンペーンを行う予定だという。 また、今後、乗客が景色を見やすいように、屋根に窓の付いた展望車も導入する予定である。 国有鉄道がこの列車の運行、そしてこれらのキャンペーンを行うことに、国を挙げての観光プロモーションに力を入れていることが窺える。
窓からの景色を眺める観光用の列車を中心としているので、現在は、夜行の旅客列車は運行していない。 民営化後も、1990年代にはオークランド・ウエリントン間で夜行の列車があったが、廃止された。 そこには、最小限の幹線旅客輸送と観光路線だけ残し、その他の収益を上げられない路線を廃止する、管理されたネオリベラリズムの発想が見られる。
3.機械事業部
機械事業部では、790名が全国に22か所ある作業場で働いており、機関車の修理、列車の設計と製造、 新しい機関車や輸送手段の導入に対する専門的なアドバイスなどを行っている。 その管轄範囲は、186の幹線用の機関車を含む全車両である。
ニュージーランドでは、植民地時代から長いあいだ、工場で国産車両を作っていた。 だが、現在は安い車両を輸入する動きとなっている。最近も中国製の機関車を80両ほど購入したという。 これらの状況から、今後は機械事業部における国内の工場の労働力は削減に向かうこととなる。 一時は工場の作業員が4000名いたというから、職員は当時の5分の1に減っている計算になる。 ここにもネオリベラル政策の影響が見られる。 一方、雇用喪失を防ぐべく、これに反対している地元のコミュニティもある。
ちなみに、機関車でも電車でも、軌間が同じ日本の鉄道車両は、ニュージーランドでまったく参入に成功していない。 日本企業に、やる気がないのであろうか?
4.路線ネットワーク事業部
路線ネットワーク事業部では、線路や信号の修理を行う。 ニュージーランドには線路が計4000km伸びており、1149本の軌条と600万の枕木が存在する。 これらの整備に年間約NZ$2億4900万を要するが、これは線路の老朽化に対する予防策として、長期的に見れば十分に見返りのあるコストだという。 また、今後枕木を木製からより頑丈なコンクリート製に変えていく計画がある。 これによって長い貨車を牽引できる重い機関車が走れるようになり、一度に運ぶことの出来る輸送量の拡大、 それに伴う人件費などコストの削減にもつながるので、競争力強化が見込める。
これらの投資を行う上で、路線事業でも収益の見込めない支線に対しては、廃止を検討するとしている。 ただし、これに対し地元のコミュニティは反対し、自治体によっては路線を買い取りたいと申し出るところもあるらしい。
このように、路線ネットワークの維持管理においては、路線を収益性の観点から地理的に選択した上で、選択された路線には、 短期的な収益性にとらわれない長期的視野に立った投資を行うという戦略が立てられている。
5.連絡船事業部
連絡船事業部ではインターアイランダー(Interislander)というブランドで、北島と南島を結ぶ鉄道連絡船を運航している。 年に乗客約86万人、6万の貨車、5万6千のトラック、22万3千の車を運んでいる。
ここで運ばれるオークランド・クライストチャーチ間の積荷には、スーパーマーケットなどに並ぶ消費財なども多い。 石炭などと比較すると小さな事業であるが、消費者にとっては早さが求められる。 そのため現在、連絡船に積む貨車の容量を30%拡大する予定である。 また、現在使用している南島側の港であるピクトン(Picton)は、フィヨルドで入り組んだ地形となっており、 曲がりくねった水路をぬって航海することを強いられるため輸送時間が余分にかかるほか、安全性の面でも問題がある。 そのため、より交通の便が良い、クライストチャーチ寄りのクリフォード湾(Clifford Bay)に港を移す予定もある。 しかし、それには政府の投資が多く必要となるため、いぜん将来の計画にとどまっているようだ。
《今後の経営戦略》
キウイ・レールは現在、方向転換を掲げた10ヶ年の計画を打ち出しており、2011年はその3年目にあたっている。
この計画では、政府が運営に必要な投資を完全に済ませ、2019年までには、 政府からの補助金や投資を受けずにも採算をとれ、自立できるようになることを目指している。 そのため、この計画においてはインフラとしての鉄道というよりも、高い収益性の見込める事業に戦略的な重点が置かれ、 鉄道経営における収益性の上昇が随所で試みられている。 この政策は、公的主体によって管理されたネオリベラル政策に沿ったものといえる。
具体的には、投資を、オークランド・クライストチャーチ等の重要な区間に絞って行い、効率化やサービス向上を図る。
キウイ・レールの中核ビジネスであり、成長を続ける貨物事業部で、新しい車両を導入する。 新しい機関車は、中国製などのコストが安くそれなりに性能がよいものとし、オークランド・タウランガ間の幹線で既に中国製の新しい機関車が20台導入されているという。 電化は、オークランド市内の都市鉄道など、どうしても必要な区間でしか行わないこととし、都市間を結ぶ鉄道は、既に電化されている区間以外、当分電化しない。 その一方で、車両の輸入によって需要の少なくなった機械事業部においては人員削減を行う。 また、収益性の見込めないローカルの支線に関しては、場所によっては廃止することを検討する。 地元のコミュニティが反対しようとも、キウイ・レール側としてはビジネスの継続を優先させ、廃止を強行するという。 収益性を増大させ、コストを切り下げ、効率を高めるため、投資対象や投資地域を絞って重点的に投資を行うが、どうしても必要な場所以外には投資しないという、 選択的なネオリベラリズムの鉄道投資戦略がはっきりと窺える。
ブラディ氏は、これら一連の鉄道経営計画に、国民の62%が賛成していると述べ、国民の支持のもとで管理されたネオリベラリズムの鉄道経営を行なっていることを強調した。
キウイ・レールを後にした私たちは、
ヒル通り(Hill Street)を挟んでビーハイブの向かいにある聖ポール英国教会ウエリントン聖堂(Wellington Cathedral of St. Paul Anglican)に立ち寄った。
玄関は既に閉まっていて中には入れなかったが、議事堂の近くにあるこの教会の入り口に、1995年エリザベス女王訪問の碑があった。
大英帝国の尖兵となり、植民地時代から、宗主国と一体となって宣教に努めてきた英国教会と政府の結びつきが深く感じられる。
私たちは、ウエリントン随一の高級な目抜き通り、ラントン・キー(Lambton Quay)を歩きながら、夕食をとる店を探すことにした。
ラントン・キーは、いまは高層ビルが立ち並び、1階に高級な商店が軒を列ねている。 だが、キーという名前から、以前はこの通りが海岸線に沿っていたことがわかる。この通りより海側は、埋立地なのだ。 ここで私たちは、オークランドの目抜き通りであるクイーンストリートとラントン・キーとの違いを観察した。
まず、カークカルディ・アンド・ステインズ(KIRKCALDIE&STAINS)というスコットランド系の名門百貨店が立地している。
目抜き通りにあるにもかかわらず、夕方の5時30分に閉まってしまう欧州風の営業スタイルを堅持していて、中には入れなかったが、
店内は照明で照らされ、有名ブランド商品が並んでいることは分かった。
その近くには、HSBCが「HSBCタワー《を持っている。
HSBCのニュージーランドへの参入は1995年と比較的最近であるが、いちはやく最も名声ある通りに自社ビルを建設し、そのプレゼンスを誇示している。
HSBCはオークランドでも、クイーンストリートの港にいちばん近い1番地という都市の一等地に進出している。
HSBCはもともとは香港を拠点とした英国の植民地銀行であるが、ニュージーランドでは、
一等地への支店立地によってプレスティッジを獲得し、富裕層を相手にリテール業務を展開するという経営戦略がみてとれる。
オークランドのクイーンストリートでは、アジア系の漢字やハングルなどの文字が看板に多く、土産品店が立ち並ぶなど、海外観光客を意識した観光街となっていた。 エスニックな人々の経営もかなり入り込んでいて、商店街に高級感はなかった。(クイーンストリートの詳細は 8月24日巡検記録 を参照) これに対しラントン・キーは、伝統的なイギリス式の商店が並び、地元の英国系白人の富裕層を主要顧客とする、伝統的な商業中心が維持されていることがわかる。
このような違いが生まれる背景として、交通と観光、そして富裕層の意識が挙げられよう。
オークランドは、ニュージーランド随一の空港をもつなど、対外的な交通の便が良く、海外観光客も多い。 そのうえ、オークランドの都市内の交通は主に車で行われ、郊外にショッピングモールが出来たため、 目抜き通りが空洞化して、地元民向けの商店がほとんどなくなってしまった。 その代わりに立地してきたのが、空港を利用して出入りする観光客向けの土産物店である。
一方、首都ウエリントンは、航空ネットワークからも、また観光資源の賦存状況からも、オークランドと比べ国内都市として発展してきた。 郊外からは、通勤鉄道やそれを軸としたパーク&ライドが整っていて、都心への交通が容易であるため、郊外に大型ショッピングモールが発展しない。 そのため伝統的に地元向けの高次な商店が都心部に残っている。
ウィリスさんのお話によれば、以前、この通りを歩行者天国型のショッピングモールに改装するという案が出されたが、富裕層に反対されて取りやめになったという。 おそらく、富裕層は、高級自家用車を店に横付けして買い物を行うことにステータスを感じているのだろう。 こうした需要者の保守的・伝統的な意識が、ラントン・キーを高級商店街として存続させるもう一つの理由であるに違いない。
横道にそれたところに、チューズ・レーン(Chews Lane)という小道を見つけた。 ここには、19世紀当時この地を所有し、現在も通りの名前にもなっているジョン・チューズ(John Chews)の年表がパネルで紹介されている。 それによると、1852年から、ウィリス・ストリート(Willis Street)を始め、この地区の埋め立てが行われた。 1858年にチューズはイギリスのランカシャーからこの地に来て、ウエリントン湾委員会(Wellington Harbour Board)の委員となり、 機械の輸入に関与し、「ウエリントンの産業の父《と呼ばれて、工業都市ウエリントンの礎を築いた。 ウエリントンが、政治都市としてだけでなく、産業都市としても発展してきたことを示している。
この通りには、現在コイン式の双眼鏡が設置されている。 夜で辺りが暗かったのでよくわからなかったが、 ウェリントン・ケーブルカーの頂上駅にあるウエリントン植物園(Wellington Botanic Gardens)の方に双眼鏡が向いていることから見ると、 昼間は丘の頂上が良く見られるのだろう。
私たちは、小さなショッピングモールとなっているキューバ・ストリート(Cuba Street)に入った。 このあたりまでくると、ラントン・キーにあるような高級商店は見られず、一般のスポーツ用品店やカフェなど、一般庶民向けの店が多くなる。 高層ビルもなく、2階建ての店舗がつながるモールとなっている。 距離としてさほど離れていないにもかかわらずラントン・キーとこのキューバ・ストリートの店の雰囲気や客層が全く違うことに、 ウエリントンの富裕層における「ラントン・キー《という地名に対する強い心理的こだわりと愛着が窺えた。
私たちはこのショッピングモールのフェリックス・カフェ&バー(Felix Cafe & Bar)にて食事をとることにした。 このカフェは、ガラス越しに外から全席見えるつくりの庶民向けのカフェであり、海外での夕食にしては軽いメニューであった。
食事のあと、有志でケーブルカーに乗ることにした。ラントン・キーから出ているケーブルカーは、片道NZ$3.5。日本の学生証では学割がきかなかった。
往復チケットでは、往復NZ$6に割引になる。入り口は自動改札であり、ハイテク化が進んでいた。
30人乗り程のケーブルカーに乗ると、他に乗客は2,3人ほどしかおらず、閑散としていた。 ケーブルカーの頂上駅につくと、植物園の入り口があり、その隣にはケーブルカー博物館がある。 植物園、博物館どちらも、既に閉まっていて入れなかった。夜景は、オークランドとは違い、ネオンや高層ビルはあまり見られず、全体に暗い感じである。 なお、ケーブルカー乗り場の近くに置かれていた公衆電話を見ると、言語選択にマオリ語、サモア語、トンガ語と並び日本語があった。
今回私たちは植物園を見ることはできなかったが、 この植物園のホームページ にその歴史について書かれている。 これによると、この植物園の用地はワイタンギ条約の4年後である1844年に植民地会社であるニュージーランド会社(New Zealand Company)によって5.26ヘクタールが買い取られた。 その後1868年に、植物園が開業した。 1870年代には21.85ヘクタール分敷地が拡張され、1891年からは現在と同じく市の自治体の所有となっている。
イギリス植民地にはこのように、ケーブルカーと植物園がセットで置かれていることが多い。 植民地に拠点をおいた当時海外のイギリス人は、長崎のグラバー邸のように、好んで港の見える高台に居を構えた。 航空輸送が発達していなかった昔は、一旦植民地に出ると、容易に英本国に帰ることは出来なかった。 そこで、英本国と結ぶ船の出入りが見える丘に登り、イギリス式の庭園を散策することで、故郷を懐かしむと同時に、植民地の繁栄を肌で感じたのであろう。
私たちはシャトルを呼びホテルに帰り、この日の巡検は終了した。