2010年9月3日 郡役所、現存する日本人家屋

島民の中心地と観光の機能が混ざり合った、朝の道洞

本日は、フェリーが出航するとの報をきき、一同ほっと胸をなでおろした。

私たちは、朝9時過ぎに、朝市を視察した。朝市の様子は、一昨日視察したものとほぼ同じで、港にある広場のような場所でパラソルを立て、その下で売っていた。店数は、10〜15軒程度で、2m四方くらいの店が隙間なく並んでいた。私たちが視察した時には、あまり客はいなかったが、多くは観光客向けであるように見受けられた。パッケージに入れられたものの方が、包装なしの裸で売られているものよりも多く、観光客がお土産に買っていきやすいように配慮されている。


イカを加工したものを並べている店もあった。鬱陵島特産のイカをその場で焼くのは、観光客向けのパフォーマンスにもなるし、熱々の美味しいものも提供できる。貸し釣竿の店があったが、島全体が海に囲まれているものの、釣竿を持ってくるのは労力になるというところに着眼した、良い商売である。また、コーヒーや紅茶も置いてある。民宿の韓定食の朝食ではコーヒーが出ないので、洋風の食文化の観光客のニーズに着目したものであろう。地元でとれた山菜、芋、和布などは、包装なしでの販売となっており、食堂の人や住民向けなのだろう。


港付近から出ている道を登っていくと、鬱陵郡のマークのついた大きな立体駐車場があった。住民の足として車が多く使われており、また、道洞が島の中でも中心的な位置であるということの表れだろう。この駐車場の向かいにはバスターミナルもあった。新設か改築されたと思われるほど、綺麗だった。ベンチだけでなく天井がついていて、雨の日でもその中で待っていられるような構造になっていた。


道には、肉屋、電子機器を扱う店、土産店などが並んでいる。午前10時前、いくつかの店は開店していた。また、食堂の開店準備なのか、道路脇で山菜や食器を洗っている人も何人か見かけた。日本ではあまり見られない光景であるが、鬱陵島の街並みには馴染むものだった。さらに登っていくと、土産店や植物を扱う店、食堂、ケーキ屋などもあった。これらも、見た目からして高級なものというよりは、地元に根差したリーズナブルなものだろう。また、「日式」という看板を掲げた日本風レストランがあったが、外装からしても新しく、レストランというだけあって他の飲食店と比べて立派な建物であった。

環境にやさしい国際観光地を目指す:郡役所で伺った鬱陵郡の取り組み

このあと私たちは、鬱陵郡役所に伺い、鬱陵島の観光開発についてお話を伺うことが出来た。

郡役所は、警察署と郵便局に挟まれる場所に位置している。日本植民地時代にもここに郡役所があったので、その場所と機能をそのまま引き継いでいることがわかる。地下1階、地上5階建ての綺麗な白い建物である。

私たちが到着した10時頃には駐車場に車が7,8台停車していた。入り口へと続く階段の脇にはスロープもあったが、建物内部にはエレベーターやそれに代わるものはなかった。階段の踊り場には、鬱陵島の花火の写真など、自然の美しさを押しだす写真や絵が飾られてあった。それらの写真の中には、竹島/獨島の写真もあった。

私たちは5階の一室に通され、職員の方が業務している中、係長の将志栄さんが、インタビューに応じてくださった。

◆国際観光地化

[沙洞 港湾建設中の様子]
韓国国民からは観光地として認識されていたため、それをグローバルな商品化しようと考えたのだそうだ。そのためには、まず、韓国本土とのアクセスを改善することが必要である。そのため、沙洞を埋め立てて飛行機を飛ばすことを考えたそうだ。しかし、山がちな地形で、飛行場建設は難しい。そこで、海運交通の整備を考えたという。私たちが、台風による船の欠航に遭ってしまったことを考えても、欠航便を減らすことは、国際観光地化を進める上で非常に重要な要素となるが、そのためには、安定したより大きな船を就航させなくてはならない。だが、そのような船を接岸する港湾がないため、インフラ整備が先決だという。現在、沙洞への着岸は2300トンの船が限界なので、5000トン以上の船が停泊できる大きな港湾建設を構想中だそうだ。また、島全体の貫通道路は3〜4年でできるということだ。


◆環境重視の開発

[モノレール]
国際観光地化を目指すとともに、もうひとつの目標は、現在世界的にトレンドとなっている「環境」を重視した開発をするということであるという。デンマークの
サムソ島をモデルとして、地熱、水力、風力を利用し、エコを売りとした観光地を目指している。そのため、建設する観光施設に関しては、環境を配慮したものにするそうだ。例えば、私たちが視察したモノレールは、回生ブレーキを利用しており、下りで電気を発電していて、発電した電気を使って上る際の動力にしている。蓬莱の滝は、観光客が滝に近づけないよう、柵がめぐらされていたし、聖人峰も、草花が踏み荒らされないよう、階段を造ったりゴミ箱を設置したりしていた。


◆予算・民間活力の利用

島全体で1500億ウォンの予算がある。水産業や農業と切り離して一概に言うことはできないが、観光には30〜40%ほどを充当していて、補助金は国から50~70%、慶州北道から30〜50%出ているという。民間の資金も活用することとしており、観光開発のスポンサーは、例えば深層水の開発はSKグループが、独島博物館は三星グループがついている。


◆日本との関係

日本人の多くが韓国に観光に訪れ、観光客の韓国への関心が高い。だが、行く場所はかぎられていて、鬱陵島にはほとんど来ない。日本人観光客は、具体的数値は分からないものの、韓国に留学している学生やその家族など、ごく少数であるそうだ。もっと日本から鬱陵島に観光客を誘致することを考えているという。必要なのは、日本から鬱陵島への直行便であり、それを開設する必要性は認識しているという。現在は釜山経由でしか来られないので、時間と面倒がかかる。しかし、そのような航路の開設には政治的な問題があり、まずは韓国本土との結び付きを強固にすることが先決だと言った。(コラム「なぜ日本人は鬱陵島に行かないのか―鬱陵島観光の課題」)

[日本語パンフレット][パンフレット 竹島/獨島の記述]
島根県を訪問した際、韓国語で映像紹介をしたことがあり、そのことに触発されてか、日本人誘致のためにも日本語の映像やガイドブック製作をすすめているという。ガイドブックの中には竹島/獨島に関する記述もある。また、日本人家屋訪問の際に聞いた鬱陵島フォーラムも、国際観光プロモーションの一環だったという。

竹島/獨島を訪問できるというのが、日本人を呼び込めるアトラクションになるのではないか、あるいは逆に、竹島/獨島の存在が、日本人が鬱陵島に来島することの障害になっているのではないか、と尋ねてみたが、お互いの理解が必要だという回答で、明言はなかった。

いまも多く残る日本人家屋をさぐって

ついで私たちは、宿近くの道洞市街全体を視察し、日本人が居住した建造環境の跡を道洞にさぐった。9月2日に視察したものも併せてここに記載する。

もともと道洞は、李氏朝鮮時代の台霞に代わり、鬱陵島の植民地支配のため日本人がつくった街であり、港に近い地区に日本人、そしてその奥の山に近い地区に朝鮮人という、居住分化が成立していた。 日本人が建てた住宅は比較的堅固なので、旧日本人地区は、植民地時代からの建物がそれなりに残っていて、このために道が狭くなっている。しかし、山の方に近づいて、かつての朝鮮人居住地区のあたりにくると、建物が取り壊され、道が広くなっていることが分かった。

[日本人家屋:主な番地]
奥は普通の切妻屋根だが、前面が垂直で四角くなっていて、外観をあたかもビルのように見せている看板建築や、出窓など、戦前の日本様式の名残が残る、間口が広い商店建築がいくつも見られた。壁を塗ったり、屋根をトタンに変えたりと手が加えられているものの、全体的に保存状態はよく、昔の機能を引き継いで商店を営んでいる店もあった。

[日本人家屋:2-97]
郡守の官舎の向かいの建物(番地:道洞2−97)は、看板建築である。玄関先にはたくさんの植木が並べられているが、人の気配はなかった。


[日本人家屋:2-81]
雑貨屋(2−81)は、商店としての機能を引き継いでいた。壁はピンクに塗られていたものの、瓦は残っていた。


[日本人家屋:2-55]
2階建ての民家(2−55)は、外壁は薄緑に塗られていて、1階部分のひさしも赤色のトタン屋根に変わっているものの、2階部分の屋根は瓦のまま残っていた。また、ドアはスライド式の戸で、竹の模様が描かれていて鍵は外から南京錠をかけていた。


[日本人家屋:3-19] [日本人家屋:3-19拡大]

東に一本入った道にも、日本家屋が多く見られた。南側から、出窓のついた建物(3−19)が2軒、その隣には看板建築があり、いずれもスライド式のドアである。


[日本人家屋:3-23] [日本人家屋:3-27]

ひさしと切妻屋根がトタンに変わっているものの、布や雑貨を売っている平屋建ての店(3−23)もある。
植木屋(3−27)も同じく、ひさしと切妻屋根がトタンに変わっていた。


[日本人家屋:3-29] [日本人家屋:3-31]

植木屋の隣のパン屋(3−29)は、切妻屋根をトタンに変え、間口が広くとられた、商業施設としての機能を引き継いでいた。パン屋の隣の花屋(3−31)は、看板建築であった。

これらの民家のほとんどは、保存建物として指定されておらず、道洞の都市再開発が進まないためたまたま残された消極的保存にとどまっている。今後、建物の老朽化がすすんだり、あるいは、鬱陵島の観光事業がより成長し都市再開発の動きが強まったりした場合、これらの建物はいとも簡単にとりこわされてしまう。

しかし、『愛国主義教育基地』のようにして反日的な雰囲気が横溢するこの道洞の集落にも、九龍浦とおなじように、植民地時代の日本が作った建造物を保全しようとする人たちがいる。
(下記参照)
道洞は、もともと植民地時代に日本人が作った集落で、いまでも当時の建造物が多く残っている。道洞に戻り、私たちは、宿近くにある復元中の日本人家屋を視察することにした。

家屋では、復元と保全を担当しているナショナルトラスト運動グループ(文化遺産国民信託)の洪廷弦さんからお話を伺うことができた。洪さんはソウルから来たという。近年、世界中で、歴史的建造物を尊重する必要性が強く唱えられ、その復元がグローバルに普遍的な流れとなっている。この考え方は欧米に端を発するものであり、韓国においては、旧植民地支配者である日本の建造物復元という姿をとってあらわれるようになった。韓国本土の中でも、グローバルなスケールとの接点が強いソウルを中心とし、鬱陵島というローカルなスケールにも広まってきたのである。

この家は、植民地時代の1910年〜40年代までは日本人が、そして日本人が引き揚げてから1960年代までは韓国人が住んでいた。最近韓国には、危機にさらされている歴史的建造物を行政当局に通報するNPOができている。この通報によって、建物が売却されそうになったことを鬱陵郡が知り、2006年に文化財庁が購入したものである。地域ごとに小さな団体が日本人家屋を発掘して残していこうという動きがあり、この日本人家屋は、洪さんの属するナショナルトラストで保護しているという。 残っていた写真と、住民たちの記憶を頼りにして復元を行っており、10月の開館に向け鋭意作業中とのことだ。

この建物は、2階建ての木造建築である。外から見ると1階と2階それぞれに戸袋がついており、雨戸は閉まったままであった。玄関の入り口には戸が6枚張られており、木の格子状の骨組みにガラスが張られ、中が見えるようになっていた。

1階は、韓国人の方が居住した際に、少し変わってしまった部分があったので、日本人の方が住んでいた当時を復元したという。玄関を入って一段上がると、廊下が左手方向に伸びている。この廊下沿いには8畳ほどの間があるが、床にはビニールが敷かれ、まだ整備中であった。この部屋の奥、つまり玄関から直進した左手側には、8畳程度の間がある。その奥には、壁で見えないようになっているものの、手洗い所と2階に続く階段があった。 右手側には、一段下がったところは砂が敷いてあり、調理用の大きなお釜があった。こちらも8畳程度の広さだった。

2階は手を入れるまでもなくきれいだったので、昔のままだそうだ。階段を上がって右手側に、6〜7畳の部屋が2つ連なっている。床は全て畳で、床の間は書院造。 「SOBUKURO」や「DAIGOKU BASIRA」などと書かれた紙が、それぞれを指し示す場所に貼られていた。ツガ、ケヤキ、スギなど、鬱陵島の木も日本の木も使用しているという。

庭は、日本庭園の「心字池」になっていて、小さい石で池の周りを囲んでおり、木が何本か生えていた。だが、池には水が入っておらず、庭じたいも、まだきちんと整備されていないで荒れていた。 庭から見ると、この家屋は、日本家屋には場違いな緑色のトタン屋根をしていることがわかった。韓国人の方が住んでからこの屋根に変わったという。検証して当時の屋根の色や形態が分かれば、オリジナルのものに変えるとのことだった。

視察したあと、私たちはアンケートを求められた。それには、訪問のきっかけ、感想、この空間がどのように活用されると良いかといった質問が、ハングルとともに日本語でも書かれていた。今後、日本人観光客誘致に一役を担う施設として構想されているのかもしれない。

こうして、韓国本土では日本人の作った建造環境の保護という考え方が次第に知れ渡ってきているものの、鬱陵島にも日本人家屋があることは、あまり知られていないようである。2010年8月初旬に、大亜リゾートにて半日間、第一回鬱陵島フォーラムが開催された際には、参加していた島根県の方がこの日本人家屋を訪問したということである。 洪さんは日本語は話せないとのことであったが、日本植民地時代の家屋の保全にはひときわ熱心な様子で、私たちがこの後家の前を何度か通りかかったときにも、夜遅くまでパソコンに向かって仕事をしていた。

日本人家屋の視察を終え、私たちは、宿の近くにあった植民地時代の神社の跡地に向かった。階段を登っていく途中、上は青、下は白の建物を見つけた。これは、昔の交番の名残だという。神社の建物は、取り壊されてもはや存在しない。しかし、神社の森の樹は、今もかなり残っていて、面影がわかる。この土地を買った人は、家を建てようにも木が邪魔で建てられないということだった。階段には、コンクリートで「限定旅館」と書かれており、階段の上の方を指す矢印がついていた。階段を登ったところにある古びた建物を指しているのであろうが、宿として使われている様子はなかった。

建物の横にはベッド、椅子、机の木くずや、酒瓶などのゴミが山積していて、粗大ゴミの不法投棄場になっている。ネギが栽培されていたが、神社がなくなったあと、積極的に土地利用されず、全体として、遊休地になっているようであった。

神社跡をでて、谷間にある道洞の集落を横断するように階段を登ると、神社跡を含む街のかなりの部分が望める。その先の、反対側の崖のふもとに、郡守の官舎が建っている。植民地時代から続く建物で、裏に設置してあるトイレ以外は、そのまま保存してあって、いまでも郡守のために使われている。

敷地には誰でも入れるようになっている。外壁は、土台部分に赤茶けたレンガに模様をほどこしてあり、上部は木の簡易な柵をめぐらせてある。高さは2m程度である。黄土色の瓦屋根をもつ民家風風建築である。

建物の中を覗いてみると、障子も残っているのが分かった。中に入った
韓国に滞在していたジャーナリストのブログによれば、畳が敷かれ、床の間、掛け軸など純和風の様相であるという)。

岩壁にドアが2つ取り付けられている低温保存が可能な倉庫は、もともとは防空壕だった。が、かがまなくては入れないような高さのドアである。切妻屋根の小ぶりな倉庫もあった。庭は、日本人家屋のものと同じように、木々の周りを石で囲っていた。

1m四方にも満たないような小さな池があったが、水は張っていなかった。地面は土のままではなく、煉瓦を敷いてあり、非常に整備が行きとどいている。また、通りに面したところに木製のベンチとテーブルが置いてあり、庭でくつろげるスペースも確保されていた。

郡役所や警察署の位置は、植民地時代と変わっていない。植民地時代に創りだされた場所の持つ権威性を、そのまま独立後も受け継いだということであろう。


郡役所からさらに坂を登っていった場所には、中学校があった。3階建てで、グラウンドは広い立派なものだった。植民地時代なら二宮金次郎の像があったようなグラウンドの前面に銅像が建っていたので、安龍福かと思ったが、そうではなかった。

やっと本土に帰れる

浦項行の船の出港時刻が近づいたので、私たちはターミナルへ向かった。港に白いサンフラワー号を見つけ、これで本土に帰れると、緊張感がほぐれた。港で船を見ていると、船は、船首に設けられた穴から旅客だけでなく、車の積み下ろしも出来るようになっており、カーフェリーの機能を果たしていることがわかった。

乗客の中には、西欧系の人の顔もあった。私たちと同様に前日乗船予定だった客と、本日乗船する客が同じ船に乗ることになったため、船内は非常に混雑していた。

船はトラブルに見舞われることなく浦項に到着した。船の欠航で日程は一日延びたものの、危険な目に遭うこともなく、私たちの9日間の巡検は無事終了。浦項の港で現地解散をした。

(福永温子)