2009年8月18日 旅順

日本との強い結びつき:
大連周水子空港

2009年度水岡ゼミの巡検集合場所は大連周水子国際空港であった。昼の集合時間に合わせて、各自都合にあった飛行機会社を利用して、空港に集合する。

この空港は、日本からの直通便が、東京、名古屋、大阪、福岡はもとより、それ以外にも、広島、岡山と結ぶ便があり、日本との結びつきの強さが感じられる。周水子飛行場は、日本植民地時代から飛行場として使われ、陸軍機、民間機が出入りしていた。日本航空はこの時、既に大連と東京を結んでいたという。(北小路健『さらば大連・旅順』147ページ(1979、国書刊行会))

私も含め、最初の4人が10時50分に韓国のアシアナ航空の便で到着した。他のメンバーを待つ間、空港の中を観察した。

大連周水子国際空港は、1階が到着ロビー、2階が出発ロビーとなっている。2階の出発ロビーは、天井から光が差し込み、人が賑わい、活気がある一方、1階は薄暗く、雨漏りや移動しないエスカレーターによって、暗い雰囲気になっている。

最終日、9月4日に私たちが視察する予定となっている大連の技術経済開発区には大変多くの日系企業が立地していて、日本のプレゼンスが大きい。日本からの到着便を待つ人の中には日系の大手企業の看板を持って、出迎えに来ている人が多かった。携帯電話で話している人も日本語で話している人が目立つ。広告は半分位しか埋まっていなかったが、出ている広告の殆どはPanasonicのものであった。出迎えの中にはハングルで書いた看板を持っている人も何人かいて、日本以外にも韓国からも投資を集めている大連技術経済開発区の様子を伺える。

空港を散歩している途中、警備の人間は見かけなかった。しきりに写真を撮ったり、メモを書いたりしても、注意されず、警備に関しては薄いように感じた。ただし、保健関連に関しては厳しい管理体制を取っていた。入国する際には、検疫カードの提出と荷物検査を求められたし、2階の国際線のチェックインカウンターは、検疫チェックを受けた人しか入れないように、フェンスで完全に隔離されていた。

次に国際線の路線について見てみた。上海や広州のような最も国際化されている都市と比較すると、国際都市としてのレベルは劣っている。ロサンゼルス、ロンドン、パリ、ミュンヘン、フランクフルト、シドニー、クアラルンプール、バンコクを結ぶ路線があるが、全て上海、もしくは北京経由で、直行便は無く、中国の航空会社によって運行されている。つまり日・韓以外から大連直通便は、採算が取れないということであろう。大連への国際投資が、特定の国に偏っているありさまを知ることができる。

全員集合、旅順へと出発

13時頃、今回の巡検メンバーである水岡先生、徐先生とゼミ学生8人が無事に集合することができた。私たち一行を迎えてくれたのはRichardという愛称の中国人の英語ガイドであった。 今日の午後は、遼東半島の先端部に位置し、大連から約45km離れた軍港都市、旅順を視察する。私たちが旅順を最初に訪問した理由は、日本が大陸侵略の決定的な足がかりを得た日露戦争の戦史において重要な都市であり、ロシアと日本の帝国主義のフロンティアが中国大陸でせめぎ合った歴史をたどる今回の巡検の最初の訪問地として適切な場所と考えたからである。

大連の工業機能が広がる202号線で旅順口区へ向かった。旅順口区は大連市の1つの区で、人口は約20万人である。大連市内から旅順口区へと自動車で向かうには2つの国道がある。北を回る国道202号線と、南を回る国道201号線である。私たちは、往路に202号線、復路に201号線を利用した。

旅順口区に至る間、僅かに一部の区間は工事中の未舗装の区間があったが、ほとんどの部分では快適な走行が可能で、並木や花が植えられた快適な道であった。

順調に発展してきた大連の工業都市としての機能は、都心から離れた国道202号線の方にまで広がっている。私たちが通過した一帯は大連技術経済開発区ではないが、道路の左右には、造船、シームレス鋼管や鉄板などの金属関連の大規模な工場が並んでいる。大連の一部では、“Software Park”と呼ばれるハイテク産業の集積地も増えつつあるものの、ここの沿道は、重厚長大型産業の事業所によって占められていた。

国道202号線が大連・旅順間を結ぶ鉄道と交差した際、走行中の列車が目にした。この区間は、帝政ロシアが建設した鉄道で、未だ電化されていない。旅順まで自動車では片道40分かけて行けるのに対して、鉄道では1〜2時間かかる。そのため、人の移動は自動車が主であり、鉄道は主に貨物輸送を担う。

外国人へと開放が進む旅順口区

旅順は、北側が盆地状に山に囲まれ、海への出口は狭い南側の海峡しかなく、軍港としての条件が整った地形である。市街は海と扇状の山に囲まれている。このような軍事的に恵まれた地形のため、19世紀末から世界有数の軍港が築かれ、ロシア、イギリス、日本、ソ連、中国と統治者が移り変わっても、その機能は、一貫して軍港都市であり続けた。中国が開放体制を取った後も、旅順に限っては、外国人の立ち入りは、長く制限されてきた。(右図内の番号は、今回訪問した順番)

しかし、日・露の植民地侵略の歴史遺産が多く残り、ツーリズム発展の可能性が非常に高い地域であることから、近年、制限の緩和が進んだ。ガイドのRichard氏によれば、以前は、旅行社経由で許可証を取得しなければ立ち入れなかったが、2009年7月から大幅に規制が緩和され、ごく僅かの地域を除いて許可証が要らなくなり、だれでも中国のほかの都市と同様に訪問できるようになった。2007年に出版されたガイドブック『大連と中国・東北歴史散策』(日経BP企画)によると、まだ2、3年前までは、規制が緩くなる傾向にはあったものの、車外での撮影が禁止されるなど厳しい制約があったと書いてある。だが、私たちの今回の旅順訪問では、中国軍の施設を除き、車外での市外撮影も問題なく可能で、厳しい規制を感じる機会はなかった。

旅順口区に近づくにつれ、多くの高層マンションが立ち並ぶようになった。Richard氏いわく、旅順口区では、開放が進むにつれて、住宅や土地の値段が上がっているそうだ。土地1uの価格は1000元であったのが、3000〜4000元まで上昇しているという。8階〜15階建て位の縦長に建てられたマンションが至るところに建設中で、すでに出来上がっているものもある。これらのマンションは巡検で各所に見られた“社会主義住宅”とは明らかに異なり、装飾面にもお金がかけられている。Richard氏いわく、都市住民のみならず農民の一部もかなり豊かになり、住宅に対して投資をする者が現れてきた。彼らの住む家も、平屋から3階建ての建物に変わるものが増えてきたそうだ。街頭広告の中には不動産関連の広告が多く、後に発見した、旅順駅前にあった広告には1uあたり4350元と書いてあり、私たちも土地価格の値上がりを確認できた。中国の不動産バブルが高まり、戦後は軍施設と農村しかなかった旅順口区が、新しい都市発展の局面に入っていることを感じた。

新しく建てられた高層住宅が増えているとはいえ、農地も多く残っている。この一帯では林檎や梨などの果物が都市の近郊農業として栽培されている。中華料理の高級食材であるアワビを運ぶトラックとすれ違った。旅順には軍港としてだけでなく、農業・漁業地域としての機能もある事が観察できた。

帝国主義の覇権争いの拠点都市となった旅順

ここで、日本とロシアという2つの帝国主義が覇権を争った「中国東北部」という空間スケールの一都市として旅順を捉え、領域争いの歴史、そして旅順の空間を編成し主体の変化を整理しておこう。

旅順は、遼東半島の先に位置し、黄海と渤海によって三方を海に囲まれ、対岸の山東半島とは約100kmの距離である。太平洋から天津、北京へと入るためには、かつて直隷海峡と呼ばれたこの海峡を通過しなければならず、軍事的な要地であった。そして、一年間を通して、流氷などの制限を受けずに太平洋に出られる不凍港である。このような地理的条件から、植民地列強の中国侵略拠点として、旅順はとりわけ重要な意味を持った。
(右図出典:『世界史詳覧』(2002)浜島書店、p.177)

表1 旅順の領有の変遷
-1895.2 1895.2 1895.2- 1898- 1905.9- 1945- 1955-

(1857年から
短期間は
イギリス)
下関条約
三国干渉
ロシア 日本 ソ連 中国

表1に示した領有の変遷に従って、近代の旅順の歴史を5つの時期区分に分けて振り返りたい。区分は、(1)1898年以前、(2)1898年〜1905年、(3)1905年〜1945年、(4)1945年〜1955年、(5)1955年〜現在、とする。

(1)1898年以前: 帝国主義の覇権下に置かれる前の旅順

近代以前から、中国王朝の多くの船が旅順に寄港していた。この都市が旅順という名称になったのは、1371年に明の朱元璋に派遣された一段が「旅途平順」の意味に因んでいるからである。

世界に旅順が注目されるのは、19世紀から列強が最後の拡張地として中国に侵略の手を伸ばし始めたときである。まずイギリスが、九龍半島を奪取した戦争で、1857年から旅順に軍事拠点を置いた。だが、イギリスの関心は上海以南にあり、戦争終結後、旅順を長期的に支配することはなかった。このときイギリスがPort Arthurと呼んだことから、欧米では現在もその名称で呼ばれることがある。

1880年、清朝が北洋艦隊を派遣し、清の手で旅順は軍港都市として発展しはじめた。1894年の時点で人口は約2万人であった。

(2)1898年〜1905年 ロシアの覇権下に収まった旅順

帝政ロシアは、高品質な皮や鉱山を求めて、フロンティアを東方に拡大していた(麻田雅文『中東鉄道とダーリニー(大連)港の勃興:1898-1904年 スラヴ研究 No.55(2008)』)。1856年クリミア戦争の敗北によって、ヨーロッパにおける不凍港獲得が失敗に終わり、不凍港獲得のためのロシアの極東政策の重要性はより増した。 日清戦後、1895年に結ばれた下関条約で、日本に遼東半島の割譲が決まり、揚子江沿岸都市の開放によりイギリスも経済的利益を得た。だが、ロシア主導の三国干渉で遼東半島の返還が決まり、その3年後、ロシアが清から旅順・大連の25年間の租借権を獲得する。

1860年の北京条約でロシアは沿海州を獲得したが、 ウラジオストクは真冬の一定期間、流氷によって使用を制限された。そこでロシアは、さらに南にフロンティアの拡張を図った。

ロシアにとって、ヨーロッパと東アジアを直接結ぶ鉄道路線の建設は、海での空間統合に確固たる基盤を持つイギリスへの強力な対抗ツールであった。1896年には、ハルビン経由でウラジオストクとモスクワを直結する東清鉄道の敷設権を獲得した。そして、旅順・大連の租借権獲得と同時にハルビンから分れる東清鉄道南部支線の敷設権も獲得し、完全な不凍港である旅順に築かれたロシア太平洋艦隊の拠点は、モスクワと鉄道で結ばれた。

ロシアは、旅順に、さまざまな軍施設を建設し、軍港としての機能を高めていった。

(3)1905年〜1945年  大陸侵略をすすめた日本の一都市としての旅順

1904年に日露戦争が始まると、 ロシア軍の拠点であった旅順では、激戦が繰り広げられた。日本海軍にとっては、旅順戦で一定の時期までに勝つことで、ヨーロッパからくるバルチック艦隊との海戦に準備万全で臨める。 日本は、旅順戦と日本海海戦で勝利し、イギリスと同様にロシアの覇権拡張を危惧していた合衆国の仲介によって、勝利した。戦勝後、ロシアが建設した東清鉄道支線の南半分が日本の勢力圏となり、日露の境界は長春へと移動した。旅順軍港は日本軍の拠点となって、大連と旅順は、「関東州」という、香港の新界同様の、99年間の租借による直轄植民地となり、日本の大陸支配において中心的な役割を担うようになった。

大連と旅順を「満洲」とするのは、それゆえ誤りである。満洲国成立後も、大連・旅順が満洲国に合併された事実はない。

以降、1945年までの40年間、旅順は日本の大陸覇権の拠点となった。日本の植民地統治期の旅順は、帝国主義国同士の覇権争いから外れたという意味で、ある意味落ち着いた40年間であったかもしれない。日本人が数多く移住し、公的機関や商店、街路、日本人住宅街が形成された。

(4)1945年〜1955年: 社会主義陣営の前線としてソ連軍に占領された旅順

日本が敗戦し、大陸から撤退すると、旅順はまたも国際情勢の影響を直に受けることになった。連合国間の協定によって、関東州ならびに旧満州国の地域は、蒋介石の国民党軍ではなくソ連の占領地域とされ、ソ連軍は、旅順軍港に拠点をおいた。 対立構造が、冷戦の米ソ対立へと変わったため、旅順・大連は2つの機能を持つようになる。まず、資本主義陣営に対抗するソ連の前線基地の機能である。不凍港獲得は、この時期にもソ連の目標の一つであった。もう一つが、中国国共内戦において、共産党に対する支援基地の機能であった。 中国共産党が国共内戦で勝利し、ソ連の覇権下におかれた中華人民共和国が中国全土をその領域として成立すると、状況は変化する。1950年、中ソ協定が結ばれ、一定の要件が満たされれば、いずれソ連軍は旅順から撤退することが約束された。

当初は1952年末までに返還の予定であったが、朝鮮戦争の勃発によって極東の緊張感が増し、結局、緊張が緩和した後の1955年5月に、旅順からソ連軍は完全に撤退した。

(5)1955年〜: 中華人民共和国の軍港として歩んだ閉鎖的な都市・旅順

その後、旅順は人民解放軍の軍港として利用されて、長い間、機密保持のため外国人の立ち入りが禁止された。その規制は、2000年頃から緩み始め、2009年7月に本格的な開放に至る。

このように、帝国主義諸国の争いの中で、旅順は様々な国によって支配されてきた。このような歴史が、現在の旅順という空間にどのように刻みこまれているのか。このことが、私たちのテーマである。


<参考文献>
井口和起編 『日清・日露戦争』(1994)吉川弘文館
大江志乃夫『世界史としての日露戦争』(2001) 立風書房
江夏由樹、中見立夫、西村成雄、山本有造編『近代中国 東北地域史研究の新視角』(2005)山川出版社
南満洲鉄道株式会社調査課編『露国占領前夜ニ於ケル大連及旅順』(1911)南満洲鉄道株式会社調査課
西澤泰彦『「満洲」都市物語』(2006)河出書房新社

二〇三高地:
日本の中国侵略の要地で、
したたかな中国人のツーリストビジネス 

私たちは、旅順に到着すると、最初の訪問地である二〇三高地へ直接向かった。二〇三高地は日露戦争の主戦場で、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』や、1980年公開の東映映画『二百三高地』などの作品でも詳細に描かれており、歴史に関心のある日本人には思い入れが深い。

ちなみに二〇三高地自体は、旅順市街地から離れているため、もとから外国人の入域規制対象外であった。そして、旅順自体の外国人の立ち入り規制が撤廃されてからは、二〇三高地は日本人を中心に、さらに多くの観光客を集めているようだった。このことは、ガイドの証言、観光客用の施設の存在から確認することができた。

旅順の都市空間と軍事施設の果たした機能

1920年代の旅順地図
出典:『近代アジア・アフリカ都市地図集成(1996)柏書房 p.40』
ここで、私たちが本日訪れる、二〇三高地と東鶏冠山北堡塁が、立地の観点からどのように異なる特徴を持っていたか比較してみよう。

日露戦争の旅順戦では、南部から日本海軍が、北部から日本陸軍が旅順港に閉じこもるロシア軍を攻め立てた。しかし、約300mしかない旅順港への入り口から日本海軍の船が1隻ずつ入ることは、ロシア側から一斉砲撃を受けるため不可能であるため、山側から攻め立てる陸軍に、旅順陥落の任務が託された。

陸軍の選択肢としては、少なくとも2つあった。その1つは東北部に位置する永久堡塁群への正面攻撃であり、日本軍は当初この選択肢を選んだ。しかし、この攻撃はロシア軍にとっては想定内のもので、数々の大砲と東鶏冠山の堡塁などの堅牢な要塞(永久堡塁)が都市の入り口に設けられており、ここに立てこもったロシア軍が日本軍に対抗した。この攻撃において、日本軍は多くの犠牲者を出しながら、全く芳しい戦果を上げることができなかった。

旅順の正面攻撃へのもう一つの選択肢は、二〇三高地であった。この高台からは、市街が一望できる。ここは、西北部の旅順市街から少し離れ、旅順市街を囲む要塞群の外に位置する。このため、ロシア軍の守備は手薄であった。そこで途中から、日本陸軍は、二〇三高地に目標を切り替え、二〇三高地の占領に成功した。これによって日本軍は、旅順港内部にいるロシア艦隊の状況把握が完璧にできるようになり、ここから指令して艦隊への攻撃を行い、ロシアの艦隊は滅亡した。このように、二〇三高地の占領は、旅順戦の勝利に重要な意味を持っていた。

<参考文献>
大江志乃夫『世界史としての日露戦争』(2001)立風書房
横手慎二『日露戦争史』(2005)中央公論新社

私たちが二〇三高地の麓に到着すると、頂上まで歩いて5分程の駐車場に降ろされた。駐車場の横には、観光客用に建てられた小さな建物があったが、その時は職員しかいなかった。「一人100元で、さらに頂上までバスで連れて行くよ」とその職員が勧誘してきた。いきなり、カネを求めてやまない中国ツーリズムに直面した私たちは、自分達の足で登ることを選択した。

丘を登る前に、私たちは、中国語・英語・日本語で書かれた説明書きの前で立ち止まった。

二〇三高地入り口の説明書き
日露戦争の遺跡―――二0三高地

 二0三高地は日露戦争の時に日露両軍が争奪しあっていた旅順西部戦線における主な戦場である。

 旧日本軍が1904年9月19日からロシア軍周り陣地を奪い取った後、二0三高地に向かって総攻撃を行い始め、66日間続ぃて12月5日にその高地を攻めおとした。当該戦役の中に旧日本軍は万人以上、ロシア軍は5千人以上死傷した。

 旧日本軍が二0三高地を奪ぃ取つた後すぐここに重砲観測所を設け、重砲を指揮しながら旅順口を砲撃した。その結果、港にあるロシア軍艦は砲撃されほとんど沈没した。

 日露戦後、旧日本軍国主義の頭でぁる乃木希典は二0三の(中国語の)音読みによってそれを[爾霊山]と改名した。日本軍の亡霊を供養するために、戦争が残した砲弾の皮と廃棄武器から日本式歩兵銃の銃弾のような形で10.3メートル高さの[爾霊山]記念タワーを作り上げ、日本の国民を騙している。

最後の部分に、「日本国民を騙している」という記述があるように、日本国民と日本の軍国主義を区別する形で、軍国主義に対して批判がなされていた。ここを訪れる一般の日本人市民に友好的姿勢を貫いて気分を害させないための配慮であろう。もっとも、日本人の側で、かつての日本軍国主義と日本人である自己をそれだけ明確に峻別できるかどうかは、別問題である。

駐車場から、丘を歩いて登っていくと、わずか5分強で頂上に着いた。これに100元の価値はない。丘を登った所にも再び説明書きがあった。駐車上にあった説明書きと同じく、日本軍国主義に対しての批判が込められていた。

丘を登ったところにあった説明書き

二0三高地は1904年日露戦争時の主要戦場の一つであつた。日露両軍はこの地を争奪するため、殺しあっていた。その結果、ロシア軍は5000人以上、日本軍は一万人以上死傷した。戦後、旧日本第三軍司令官である乃木希典は死亡将士を紀念するため、砲弾の殘片から10.3m高さの銃弾のような形の塔を鋳造し、自らが「爾霊山」という名を書いた。これは日本軍国主義が外国を侵略した犯罪の証拠と耻辱柱となっている。

頂上からは、旅順港を見渡せるようになっている。かつて日本軍が旅順の湾内にいたロシアの軍艦を、ここから攻め落とした。そこには、ロシアによって使われた150mカノン砲や日露戦争後に日本が建てた、「爾霊山」(二〇三と同音)と刻まれたモニュメントがそのまま残っている。このモニュメントは、日露戦後に戦地に残っていた砲弾を集め、乃木希典によって、亡くなった兵達のために作られたもので、日本で鋳造された。

ロシア式150ミリメートルカノン砲の日本語の説明書き

 二〇三高地争奪戦で、高地に駐屯するロシア軍は150ミリメートルカノン砲二台と76ミリメートル速射野戦砲二台をもって、人工による散兵塹壕、歩兵塹壕、掩体など防御工事により、日本軍からの進撃を粘り強く阻止した。

景色を眺めていると、露店から日本語を話せる店員が近寄ってきて、日露戦争の旅順戦と二〇三高地について、簡単な説明をしてくれた。一通り説明が終わると、日本語で説明してくれた店員が、店で旅順グッズや日露戦争関連書籍購入の勧誘をしてきた。ガイド料を取らない代わりに、ここの店で商品を買ってくれというやり方である。商品は割高であったが、お礼にと先生が購入していた。過去の忌まわしい侵略の歴史すらビジネスチャンスに変えてしまうしたたかさには、驚嘆すべきものがある。

旅順の閉鎖性が残した、爾霊山の碑

駐車場から登ってきた道とは反対側の道をたどって、私たちは駐車場まで降りることにした。この下り道から少し外れたところに、乃木希典の息子、保典が亡くなったことを悼む石碑がある。乃木は2人の息子を日露戦争で亡くしている。「乃木保典君戦士之所」と縦書きで彫った石碑は、5分程山道を下ったところにあった。この山道は。 政府によって、段差など整備されているようであった。その近くには、100年以上前の日露戦争時の物とは思えないほどに新しい堀があった。

本来中国共産党政府としては、中国侵略のために命を落とした日本軍の将校を祀る記念碑など取り壊したいはずであろう。だが、これを敢えて観光地として整備している。このことは、中国の政治路線とツーリストマネーとの微妙なバランスを浮かび上がらせる。特に最近、外国人観光客への規制が緩み、ツーリズムの発展を期待していることは、このバランスが微妙に変わってきていることを表している。また、歴史的建造物がたとえ過去の植民地主義の遺産であっても、中国政府が、それを愛郷心を育てる手がかりとして最近積極的に評価するようになってきているという事情もあるようだ。戦前の日本に見られたように、愛郷心は、容易に愛国心に結びついてゆく。

とはいえ、現在でこそ経済的価値を生むモニュメントではあっても、日本軍撤退後、ソ連占領期、そして文化大革命期という激変の半世紀をつらぬいてなおこれが残っていることには、不思議の感をいだかせる。日本陸軍の武将によって建てられた碑など取り壊して、代わりに、社会主義やソ連を賛美するモニュメントがなぜ、建てられなかったのだろうか。

その答えは明確にはわからないが、その背景の一つに、軍港都市としての旅順の閉鎖性があると思われる。仮に、社会主義を賛美する新しいモニュメントを建設するにしても、人民の見られる所に建てなければ意味がない。破壊という行為に関しても同じである。旧朝鮮総督府の建物に対する韓国政府の行動に象徴されるように、植民地建造物の破壊は、その行為を人民の目に広く晒すことが、反植民地主義のプロパガンダになる。だが、閉鎖都市ではそれを人民の目に晒すことができない。つまり、破壊行為自体が政治的意味合いをもち得ない。
(右図:現地で販売しているガイドブックの表紙)

近年、この都市の閉鎖性が薄まってくるに伴い、爾霊山の碑が、主として日本人のツーリストマネーを呼び込む誘因としての価値を高めた。それゆえ、もはや破壊という選択肢はなくなった。

この旅順の閉鎖性によって建造環境が長い間保存されたことは、これから私たちが訪れる旅順という都市全体に対してもあてはめることができそうだ。

旅順市街へ

二〇三高地の視察を終えた私たちは、旅順市街へと向かった。市街は小ぢんまりとしており、中国の都市中心部にありがちな喧騒は、全く感じられない。

旅順の歴史的都市空間





















<出典>『近代中国都市地図集成』1986年、柏書房 所収
   ※東京交通社が1931年に発行した旅順の地図を掲載

山地に囲まれた盆地状の旅順は、軍港となった湾の北にある平地部に都市が形成された。中央には都市を東西2つに分断する龍河が流れ、大連から走る鉄道は川に沿う形で建設され、海に近いところに旅順駅が建設された。この鉄道は日露戦争以前、ロシアによって建設されたもので、旅順駅の立地も変わっていない。龍河には橋がかけられ、日本植民地時代は「日本橋」と呼ばれた。

上に掲載した地図に拠ると、日本の植民地時代、龍河の東側は商業地区であった。扇形に駅から延びる乃木町には日本人商店街が長い距離立ち並んでいたことが確認できる。当時についての記述(北小路健『さらば大連・旅順』(1979、国書刊行会)に拠ると、中央部に交差する鯖江町と青葉町が特に賑わっていた。駅に近い辺りには、軍関連を除く市役所や警察署などの役所、そして本願寺と天理教などの宗教施設があった。

西側は、ロシア植民地時代から軍関係施設が集まっていたところで、川に近い方に関東軍関係の施設ならびに博物館・動物園という文化施設、そしてその奥には扇状に比較的高級な住宅街が広がっていた。西側には、2つの日本の旧制中学や工科大学があり、教育機関も集まっていた。

現在も、旅順の市街は大きく2分され、東側が「旧市区」、西側が「新市区」と呼ばれている。東側、西側共に街路網自体の大枠は日本の植民地時代と殆ど変わっていない。ただし、道の名前は変わり、高崎町は八一路、日進町は白山路、朝日町は黄河路といったように、中国語へと改称されている。さらに現在は、龍河を上った北部にも市街が広がっている。

旅順博物館:
大谷探検隊が西域で奪取した現地の文化遺産を引き継ぐ展示品

旅順博物館は、ロシア時代の将校クラブの建物で、石造りのロシア風である。内装は白を基調としつつ、細部には茶色が使われている。階段の手すりに黒い大理石、天井にはシャンデリアが飾られ、重みのある雰囲気だ。改修されているものの、建物は基本的に変わっていない。日本植民地時代には、関東軍司令部が博物館前面に建設された。 これも、いまは博物館になっている。

博物館に近接する駐車場で車を降りると、周りには芝生が広がっていた。芝生の一部には、清代に使われた大砲が展示されている。数分ほど歩くと広場を中心に旧関東軍司令部の建物と博物館の本館、分館の3つに囲まれた広場に出る。私たちは、広場に面する博物館本館に入った。

旅順博物館のウェブページによれば、その前身は1915年に建てられた満蒙物産陳列所に起源を持つ。展示の主要部分は、20世紀初頭、仏教関連の品を収集するために活動していた本願寺の大谷探検隊に由来している。龍谷大学西域研究会『旅順博物館蔵大谷探検隊収集漢文資料について : トルファン出土陀羅尼仏典を中心としてによると、大谷探検隊はアジア全域に派遣され、特に中央アジア、シルクロードで著名な成果を残した。 旅順の博物館にシルクロードの品々が大量に集まっているのは、こうした背景に拠るものだ。現在の展示品は、これら日本植民地時代の展示品を継承したもので、ほぼ変わっていない。

蒋介石の政府は、大陸の支配権を失い台湾に避難する際に、北京の故宮博物館所蔵の多くの貴重な美術品を台北にある同名の博物館へと持ち去ったが、日本は貴重な品々を日本本土へと持ち去らず、そのまま大陸から撤退した。その後、所蔵品は、ソ連と中国の「戦利品」として秘密のベールに隠された。龍谷大学の西域研究会によれば、1999年まで、旅順博物館に関係を持つ研究者でさえ、中国政府からの許可が下りず、日本人は博物館へ立入りできなかったという。しかし、現在はだれでも自由に見学できる。10年間でここまで公開に対する姿勢が変わったことは、驚くに値する。

展示品は、大まかに3つのジャンルに分けられる。1つ目が古代から近世にかけて中国の王朝で利用された青銅器・漆器・エナメル器・古代玉器など、2つ目が西方からシルクロードを通して伝わってきた品々と仏像、そして3つ目が東方の朝鮮や日本の陶磁器・日本画である。なかでも興味深いものは、シルクロードに関連する品々で、 その一つの目玉が、西暦500年にトルファンで成立した漢人国家高昌を建国した麹氏のミイラである。これもまた大谷探検隊によって集められた。

このように、この博物館のメインは、戦前に日本が大陸各地で収集したコレクションである。大英帝国がその植民地主義の力で世界中から貴重な文化遺産を集めてできた大英博物館のような特徴を、旅順博物館は持っている。ただし、中国の一都市にある博物館とは思えない程に、日本画も展示してある。これは、帝国主義的な収集品ではなく、明らかに日本植民地時代に日本から持ってきたものである。それが、日本の撤退に伴い中国の所有となって、 ここに展示されている。

博物館の出口には、所蔵された作品が電子版で見られるようになっていた。このデータは、旅順博物館のウェブページからも見られる。




ソ連から中国に贈られたモニュメント

旅順博物館と旧関東軍司令部が向き合った形で建ち、その間に割って入るように、1955年に中ソの友好を記念してソ連が贈った塔が建てられている。

この年は中ソ対立の始まる前で、蜜月関係にあった両社会主義国の関係を表している。塔のてっぺんには、平和の象徴である鳩の下に両国の国旗があしらわれ、塔の下から3mくらいの部分には、レーニンと毛沢東が手を結ぶ肖像がある。ロシア側を代表して握手をしている人物が、1953 年3月に亡くなったスターリンではなく、レーニンであることは興味深い。

モニュメントの下から2mくらいの部分には4枚の石を彫って作った作品が四方に付けられている。これら4枚の絵も興味深い。旅順博物館の本館に面しているのが、(1)クレムリン、そこから半時計周りに、(2)鞍山の製鉄所、(3)旅順にあるソ連の勝利塔、(4)トラクターを利用した農業の絵である。








左から順に、(1)、(2)、(3)、(4)

1940年代後半から、中ソ論争が起きる1950年代後半まで、中華人民共和国は同じ社会主義であるソ連から、多方面にわたる技術的援助を受けた。鞍山の製鉄所は、満洲国時代に日本の技術で建設され、1950年代においてはソ連からの技術援助を大きく受けていた。エンジン付きトラクターは、社会主義集団農場の効率的で高い生産力を誇示しており、やはりソ連からの技術援助の象徴的存在であった。 (2)鞍山の絵と(4)農業の絵は、煙突から出ている煙や風でなびく小麦の描写によって、動きが与えられており、明るい未来を予感させる、典型的な社会主義リアリズムの絵である。

Richard氏いわく、これらの絵は、ソ連軍が撤退する際に、モスクワからわざわざ持ってきたものだそうだ。このようなモニュメントを撤退する地に残すことは、ソ連の旅順に対する執念を示すと共に、中国の社会主義の発展を促そうとするソ連の意思もあったであろう。

常盤町: ノスタルジーを感じる旧日本人住宅街

旅順博物館とモニュメントの視察を終えた私たちは、旧日本人住宅街の一画、旧常盤町を訪れた。ここは海から離れ、ゆるやかな山の斜面にできたかつての高級住宅街である。坂道を登っていくと、騒がしさの一切ない、閑静な住宅街に出た。いまは「文明街」と名を変えた通りの左右には、レンガ造りの日本植民地時代から残る家々が並ぶ。街路樹が整備され、幅員が約10mと広めにとられていて、その文明的な様相は、戦前から変わっていない様子だ。住宅と住宅の間から、現在の中国の典型的な建築様式である“社会主義住宅”の質素な建物が遠方にちらりと見え、明らかに他の場所とは違ったこの一帯の雰囲気を際立たせていた。

かつて日本人が建てた建築物は、現在中華人民共和国に建っている他の建築物と異なる特徴を多く持つ。素材はレンガや石造りが多く、耐久性が良い。60年以上も残っている所以である。当時の日本内地では木造が多かったが、大陸において日本人はレンガ造り、石造りの住宅を建設していた。素材以外にも、窓枠に装飾がなされ、各家には1本から2本の煙突が備わって、完備された暖房が備わっていることがわかる。2階建てが多いことも、日本人住宅の特徴である。

人気のない旧常盤町のゆるやかな坂を登っていくと、海軍の施設があった。中華人民共和国になってから建てられたこの建物は、周りの日本人住宅と比較すると、 機能のみを重視した建物に見える。だが、入り口までの20段以上ある階段は人民解放軍の威厳を示していた。

この常盤町一帯に住んでいた日本人は、満鉄職員や植民地政府の官僚など、経済的に豊かな層が中心であったが、現在も一定の経済水準にある人々が住んでいるようだ。そう考える根拠は所々に、しっかりと整備された庭が存在し、その維持費を負担できているからだ。上述したように、街路樹もある程度、保全に努められている。だが、最近のインフラ整備からは取り残されていて、道路には一部穴が開いていたり、電線も一部破壊されたりしている。この住宅街は、積極的に保全されているというより、壊す理由もないから結果的に残っているというのが実態かもしれない。

旧日本人住宅街はゆったりとした時間が流れ、昔の日本人の暮らしに思いを馳せたくなるような雰囲気であった。侵略であったことは間違いないが、たしかにかつて日本人が住んでいた事実を感じさせる場所であった。

ソ連撤退時の遺産、スターリン様式の勝利塔

旧日本人住宅街を出た私たちは、勝利塔へと向かった。勝利塔とは、1955年に日本軍の撤退を記念してソ連が建てたものである。勝利塔は旅順駅から西側地区に入ってすぐの部分にある。勝利塔から西に伸びる2つの道は、いまなお「斯大林(スターリン)路」、ソ連との友好を示す「友誼路」の名をとどめており、第二次世界大戦後の約10年間ソ連支配が続いた面影をとどめている。

勝利塔は1辺が3m程の灰色の石でできた六角柱で、上部からはさらに金色の塔が出ており、広い三角の形をした土地を中心に空に高く突き刺すような形をしている。六角柱の下には屋根がついていて、社会主義の象徴である、ハンマーと鎌を組み合わせたソ連の国旗の紋章が石の部分に彫られている。塔全体は強いて言えば、デコレーション・ケーキのようであり、スターリン時代の建築物に多く見られる特徴を示している。

六角柱には文字が刻まれており、この文字を読もうと私たちは車を降りて、植木を貫き、塔へとつながる道を歩いていった。塔の下は短い階段がついていて、そこを登ると金の板にロシア語と中国語で書かれた碑文があった。その内容は、日本軍の侵略から中国を開放したソ連軍の功績を讃え、中ソの友好を謳った内容であった。

勝利塔の文章の訳

一枚目:日本帝国主義に打ち勝ち、遠東(モスクワから遠く離れた東部)の和平を守り抜いたソビエト国民およびその軍隊の力は輝かしい栄誉である。

二枚目:1945年8月から9月、勇敢なソビエト軍の兵力は日本帝国主義の精鋭部隊−関東軍を殲滅した。さらに、中国では、人民武装部隊が協力して、日本の侵略者から中国東北部を解放した。

三枚目:ソビエト・中国両国人民の偉大な友情に万歳。

車に戻ろうとしたが、塔から見ると四方八方同じ景色であるため、どこから来たのかわからなくなって、誤った方向から出てしまい、勝利塔を取り囲む林の周りを歩いて、車に戻った。帰り際、もう一度見上げた勝利塔は実に高く、威圧感を感じるものであった。

旅順のロシア化の象徴、旅順駅

次に、市街の中心部にある鉄道駅に向かった。これは、帝政ロシアが1900年に建てたものである。Richard氏は、駅の近くの方がロシア時代から残る建物が多いと説明してくれた。なるほど、先ほど見た住宅街のように、日本人によって建てられた建物は、駅から離れた地域に残っている。このことは、時代が進むに連れ、旅順の市街が周辺へと広がっていった様子を示している。その都市発展の歴史は、統治する国が変わっても、100年以上使い続けられた建物によって、旅順の建造環境に刻みこまれている。

かつて日本橋と呼ばれた橋で龍河を渡ると、すぐ駅があった。作られた駅舎は黄色の壁に緑色の屋根を備えた美しいゴシック式デザインである。はっきりとロシア風のデザインを駅舎に採用することで、帝政ロシアは、旅順がまぎれもなくロシアの土地であることを象徴しようとしたのであろう。建物自体は、中国政府も積極的に保存しており、「大連市重点保護建築」に指定されていて、塗装などメンテナンスがなされている。保存に対する姿勢は、旧日本人住宅街と違うようだ。

鉄道のレールは旅順駅から更に南に、港へと延びていたが、地図には載っていない線なので、軍港への引き込み線と考えて間違いないであろう。

中国においては、日本のように鉄道を近距離交通の手段として使うという発想は薄い。大連と旅順の間の旅客輸送はバスが主となり、鉄道旅客輸送のシェアは少ない。そのため、駅はこれから訪れる大連や瀋陽の駅とは比べ物にならない程小さく、電光掲示板などの最新の設備はない。だが、時刻表によれば、大連・旅順をつなぐ旅客列車は往復共に朝と夕方の一日2本走っている。鉄道が建設された当初は、旅順・大連間は4時間かかっていたそうだ。しかし、現在は2本のうち1本は、旅順と大連の間にある5駅をとまる各駅停車で約2時間、もう一本は旅順と大連までノンストップで行く急行で、所要1時間と、ある程度高速化されている。時刻表の隣には、大連駅発着の中国各地の都市へ行く長距離鉄道の時刻表が貼ってあった。

私たちが旅順駅を訪れた時間は4時過ぎで、丁度大連へ向かう夕方の列車が出発する直前であった。そのため、駅舎の中には20人程の旅客がいた。大連に列車で行く地元客も、それなりにいるということだ。旅客たちは、券売窓口に並んだり、改札に並んだりして、発車を待っている。他の旅客と比較して、明らかにみすぼらしい格好をした4・5人のおじいさんとおばあさんがいたため、彼らについてガイドのRichard氏に聞いてみると、彼らは旅順近郊の町から、旅順に日帰りで農産物を売りに来ている人達だそうだ。低所得の人々には、本数は少なくとも、運賃が安い鉄道がやはり欠かせない交通手段なのだ。

旅順の繁華街は駅から離れているため、駅の周りは7階建てのホテルが一軒あるくらいで、目立った建物は少ない。もはや夕方となり、その先にある、かつて日本植民地時代に商店が立ち並んでいた旅順の東側の旧市街は、時間の都合上、視察できなかった。

中華人民共和国になって発展した
北側の新市街地

駅を出た私たちは、水師営の会見所へと向かった。そのため、私たちは旧日本橋を再び渡り、川に沿って五一路、かつての金比羅町を北上した。

水師営は日本植民地時代には都市化していなかった郊外地域に位置するので、水師営に向かう間、中華人民共和国になってから発展した街を観察することができた。この新しく作られた街は、常盤町のような植民地時代の地区と異なり、他の中国の多くの都市景観と同じである。具体的には、道の両側に4、5階建ての社会主義住宅が並び、道路に面する一階には、色とりどりの看板を掲げる様々な個人商店が並んでいる。スターバックスやハーゲンダッツなどのテナントが入っている船をかたどった珍しい形の建物もあり、外国資本も流入し始めているようだ。

賛美の地から、糾弾の地へ: 水師営の会見所

駅から約10分で、水師営の会見が行われた農家の家を再現した建物に到着した。かつては農村の郊外であったが、いまでは、社会主義住宅に囲まれ、旅順の住宅地域となっている。

ここは、塀に囲まれた建物が一軒あるだけである。日露戦争で二〇三高地をはじめとして、激戦を交わした後、1905年1月2日に、野戦病棟として使われていた農家の建物にて乃木希典とロシアの将軍ステッセルが会見し、ロシアが公式に降伏した。この水師営の会見は、日本軍の栄光の歴史として、戦前の日本で語り継がれることとなり、この会見所は、日本植民地時代の「戦跡めぐり」ではずすことができない有力なツーリストスポットとなった。100年間で統治者が日本から中国へと変わっても、観光地としての機能は変わらない。しかしそれは、日本軍国主義の栄光を賛美した場所から、糾弾する場所へと変わっていた。

会見所には、区級文物保護単位という看板があり、この家はいまも、旅順口区の政府によって、いちおう史跡として管理されていることがわかる。ただし、Richard氏いわく、現在建っている小屋は1997年に建て替えられたレプリカだそうだ。たしかに、100年前の農家としてはかなり頑丈な造りである。屋根は藁が重ねられ作られていたが、雑草が生えていてひどい状態になっていて、あまり管理はされていない。だが建物からは、歴史を忠実に再現しようとする努力がにじんでいた。

ここには、観光客を相手とした食堂が併設されている。旅順への外国人立ち入りが規制されていた頃、観光客は市内を自由に散策できず、この食堂でしか食事をとれなかった。つまり、日本人観光客御用達の、ツーリストマネーを呼び込む場所として、この会見所は再建されたのである。爾霊山の碑が当時のまま残っている二〇三高地に比べると、水師営の会見所はより、“作られた”観光地という印象が強い。

中は通路を挟んで2つの部屋があり、私たちはまず、日本軍が利用していた右手の部屋に入った。この部屋の展示品は、約20枚の写真とその説明書きである。写真は日露戦争当時の写真、水師営会見の写真をはじめ旅順の農民達に焦点を当てた写真が多い。戦争後の旅順について、中国語と英語の説明がある。説明書きの内容は、日露戦争の旅順戦の降伏がこの小屋で行われたこと、日本が占領後、ここに日本帝国主義を称える記念碑が建てられ、今も残るこの史跡は我々中華民族の屈辱の歴史を思い出させること、などが書かれている。

写真と説明書きには、外から日本軍とロシア軍がずかずかとやってきて、勝手に領地を取り合って戦争を始め、旅順の農民が苦しめられたことが強調されていた。旅順の農民が処刑されている写真などはその最たるものである。ここでも、発せられるメッセージは、反帝国主義である。

展示を見ていると、その中国語の説明文を英語に翻訳した者の中華人民共和国の正統性に対する認識が微妙に表れている説明書きを見つけた。英語の文章は、「The testimony of history shows us the aggression of big imperialistic powers for partition of China and the humiliating history of the People's Republic of China.」となっている。英語の文章においては、日本植民地時代の歴史が「中華人民共和国の屈辱の歴史(humiliating history of the People's Republic of China)」となるが、中華人民共和国の建国は1949年であるから、この英語の文章は正確には誤っている。そこで原文の中国の説明書きを見てみると「近代中華民族屈辱歴史」となっていた。「近代中華民族の屈辱の歴史」を英文ではあえて「People's Republic of China」と訳したところには、歴史的に長く存在する中華民族の正統的な国家として中華人民共和国が存在している、という翻訳者の潜在意識がにじんでいるような気がした。

私たちは、入口から見て左側の,元々はロシア軍の待合所であったという部屋に移った。ここには乃木とステッセルが向かい合ったという木の卓が置いてあった。木の卓には、第一師団衛生隊醫長横川徳郎によって文章が書かれている。この部屋には、卓と長椅子以外に、1905年1月2日に日露両軍の間で結ばれた日本語の「旅順開城規約」が展示されていた。他には乃木希典の名前が書いてある掛け軸があった。かつて訪れた人々の旅行記に載っているホームページと比較すると、この待合所の展示品は時折入れ替わるようである。

木の卓に書かれていた文書

明治三十八年一月二日水師営ニ於ケル第一師団衛生隊繃帯所ヲ以テ日露両軍使旅順開城談判所ニ充テラレタル際此手術(?)上ニ白布ヲ被ヒテ卓子ト為シ両軍使相対シテ條約ヲ締結シタルモノナリ

第一師団衛生隊醫長横川徳郎

小屋を出ると、左側に、井戸と石碑があった。この石碑は戦前からあるもので、「満洲戦績保存会」と建立者が刻まれ、手術室で会見が行われたことが説明されている。このような石碑でも破棄せず残しているのは、「帝国主義列強が中国で甚だ大きい罪を犯した歴史的な証」とするためであるという(東鶏冠山北堡塁にある中国側説明)。しかし、ここを訪れる日本人のかなりの部分は、この石碑を見て、戦前同様の真正な会見所を見られたと満足するだろう。共産党の公式の立場と、日本人の心情をおもんぱかりツーリストマネーを獲得しようとする衝動との矛盾が、にじんでいるように感じた。

石碑の説明書き

繃帯所の跡

此ノ地ハ明治三十七年十月二十六日ヨリ三十八年一月二日二至ル間数回二亘リ第一師團衛生隊ノ繃帯所ノ開設シタル處ニシテ會見所ハ郎チ其ノ手術室ナリ。 陸軍軍醫總監鶴田釘禎次郎碑名ヲ書ス

昭和四年十一月

財團法人満洲戦績保存会

生々しい激戦の跡と平和への希求:
東鶏冠山北堡塁

水師営の会見所を出て、私たちは東鶏冠山へと向かった。行く途中には、薄い板をそのまま建物にしたような共産党旅順市委員会の建物があった。言うまでもなく、中国において権力を最も持っている組織は共産党であり、それは絶対的な権威を感じさせる。その周りは大きな工事現場になっており、旅順開放の流れに乗るかのように、大連と結ぶ鉄道工事が進んでいた。完成の暁には、旅順がもっと騒がしい大連の郊外になるのであろう。

東鶏冠山北堡塁は、日本陸軍が当初行った正面突破で攻め立てた永久要塞のうちの一つである。堡塁は山の中にあり、車は途中から山道を上がっていく。

車から降りると、そこは石でできた綺麗な円状の広場であった。白い石材を切って作られた階段が設置され、「世界和平」という文字の形に丁寧に整えられた植木があって、「平和の希求」というメッセージが強調してあった。案内板も二〇三高地の案内板と字体や地図の描き方が同様で、政府が積極的に保護していることがわかる。

この堡塁は、堀が円状に作られており、北側から日本軍が堀に侵入することとなる。

そして、日本兵は堀を降りると、日本兵は背後からソ連軍の攻撃を受けることとなる。壁には、両軍の戦争の激しさを示す銃痕が無数に残っている。堀に入った日本兵が、ロシア軍から一斉攻撃を受けた跡だと考えられる。

見学ルートの沿道には、銃弾を模ったゴミ箱がところどころに設置されている。私たちは堀を反時計回りに歩き、半分くらいのところで、堀の中央部の丘に登った。丘の真ん中には、「東鶏冠山北堡塁」と大きく書かれた石碑がある。これは日本植民地時代に建てられたもので、「満洲戦績保存会」の文字があった。この東鶏冠山も、日本植民地時代には重要な戦跡観光地であった。近くにある看板を見てみると、中国語、英語、日本語で書かれた説明書きがあった。

看板の説明書き

東鶏冠山北堡塁は1904年日露両軍が奪い取った主要戦場のひとつであり、戦後、日本の「満州戦績保存会」は1916年にこの碑を作った。この碑は高さが6メートル、青いみかげ石で建築されており、日本の将領である鮫島重雄が題名した。現在、これは帝国主義列強が中国で甚だ大きい罪を犯した歴史的な証となった。

丘の反対側に降りると、士兵宿舎などがあった。堀の中は崩壊の危険があるためか、立入りはできない。コトラキンカ少将の死んだ場所という表示があった。日本兵だけでなく、大量のロシア兵もここで犠牲になったことがわかる。

東鶏冠山北堡塁を一周し、バスへと戻った。ここの史跡は、日本軍が正面突破を試み、大量の戦死者を出した激戦の地であることから、爆破の跡や銃痕が多く残っており、二〇三高地以上に日露戦争の激戦の様子を肌で感じられる場所であった。

「反帝国主義」という共通したメッセージ

ここの史跡でも、中国側の強調したいメッセージは、帝国主義への非難であった。堡塁には「1898年帝政ロシアが旅大を強引に借りた後、旅順を長期的に占領するために、1900年より、中国労働者にこの永久的な防衛工事を築造するように強制した」という説明書きがあり、帝政ロシアに対する批判も日本軍国主義に対する批判と同様になされ、帝国主義への嫌悪感を示している。この反帝国主義というメッセージは、私たちが訪れた旅順のいずれの史跡においても共通していた。

1955年、ソ連は中国から撤退する際に、日露戦争で亡くなったロシア兵を悼む記念碑の建立許可を中国に対して求めた。しかし、中華人民共和国は帝政ロシアも日本同様に中国大陸への侵略者であることは変わらないという理由によって、ソ連の要望を拒否している。(『近代中国 東北地域史研究の新視覚』(江夏由樹、中見立夫、西村成雄、山本有造編、2005)。多くの帝国主義国家の侵略を受けた中国にとって、旅順はその反帝国主義イデオロギーを発信するのに絶好の場所となっているのである。

拡大する市街をみながら、大連市内へ

5時過ぎ、旅順の視察を終え、私たちは大連市内へと戻った。旅順からの復路は、南を走る国道201号線を通った。旅順の近くでは沿岸部を走ったが、少し旅順から離れると山と山の間を走る。道の周りには、大量の戸建て建売住宅が並んでいる。巡検を通して今振り返ってみると、これ程多くの戸建て住宅が立ち並んでいる景観はここ以外になかった。不動産バブルの追い風を受け、急速に大連の都市が拡大していることが伺える。今はまだ林になっている、道から約500m以上離れた部分にも、いずれは建売住宅が並ぶようになるのかもしれない。

201号線の街路樹がとても整備されていることに驚いた。大きな木はないが、1、2mくらいまでの高さの木が数種類植えられていた。しばらくすると、右手に沿って走るトラムが現れた。不動産開発と同時に、郊外の交通も計画的に整備されている。大連では、日本が1905年に作った路面電車が戦後も大部分廃止されずに残り、それがさらに新しい市街地に延長されているのである。

中山広場にある私たちの今夜の宿舎に行く前に、友好広場の大連凱菜酒店 (Gloria Plaza Hotel)にて夕食をとった。客の半分は日本語を話していた。青島ビールを飲みながら、10人で中華料理を囲み、各自感想を話しあった。

19世紀末から旅順は、帝国主義の争いに巻き込まれる中で、軍港都市として歩み、幾度と統治者は移り変わったにもかかわらず、旅順市内にスケールダウンして考察すると、建造環境は基本的に維持されてきた。博物館の建物は日本統治時代から同一の機能を持つ建物として機能し、二〇三高地や水師営の会見所は日露戦争以後、観光地として、建造環境が維持されている。この建造環境の維持、とりわけ常盤町のような消極的保存は、軍港としての閉鎖性に依る所が大きい。今後、旅順の開放が進むに連れ、旅順の建造環境がどのように維持、または変化していくのか、関心がもたれる。

夕食後、私たちは、かつての大連ヤマトホテルのままに残されている、中山広場前の大連賓館へ移動し、ホテル内で解散した。

(下野皓平)