英・仏・独帝国主義列強のせめぎあいでできた植民地の上置境界を引き継いで、ナイジェリアは、200以上を越える民族を抱える多民族国家として独立した。中でも人口の多くが西部のヨルバ、東のイボ、北のハウサ・フラニの3大民族に属している。連邦政府の政治は、これら3大民族を中心とした綱引きによって舵取りされてきた。ビアフラ戦争は、東部のイボが北部勢力主導の連邦政府の政策に対して不満を抱き、ナイジェリア国家からの分離を唱えたために勃発した戦争である。
ナイジェリア政府の財源の多くを占める石油はほとんどがイボ族の多く住む東部に存在する。しかし、その石油を巡る収益は産油地の東部に多い割合で還元されるのではなく、連邦政府を通して国家全体に再配分されるために、イボ族は不満を抱いていた。東部の鬱積した不満は、1966年1月クーデターという形で表面化する。イボ人の中堅将校たちによって、北部出身の連邦首相をはじめとした政治家や軍人が暗殺された。以後、イボ人大量虐殺の発生など東部と北部の対立は一層深まり、1967年6月、ビアフラ共和国が独立宣言した。連邦政府は、この分裂国家と、7月から戦火を交えることとなった。戦争は、2年半にわたって続いた。
ビアフラ戦争において、ソ連とイギリスは連邦政府を支援し、フランスはビアフラ共和国を支援した。ソ連はこの機会に乗じてアフリカに覇権を及ぼす拠点を形成しようと優位な連邦政府を支援した。そしてイギリスは独立以来の上置境界を保ったままの方が、経済権益を確保できると考え連邦政府を支援した。一方、東側に国境を接するカメルーンをはじめ、周辺に旧植民地が広がるフランスは、ナイジェリアが2国に分裂した方が自国の権益を伸ばせると考えた。ただし、国際社会全体としては、外交的孤立を恐れて、ビアフラ共和国を承認する国はアフリカの5カ国に限られ、先進国含めその他の国はビアフラ共和国を承認しなかった。国連は、アフリカ連合(OAU)に解決を一任し、そのOAUは連邦政府の意向を尊重したため、積極的な役割を果たすことが出来なかった。
英ソから大量の武器供与をされた連邦政府は、戦力においては圧倒的に有利であり、半年以内には戦争が終結すると、観測は楽観的だった。しかし、2年半も戦争は続くこととなる。ビアフラ共和国は、かなり粘ったと言える。粘れた要因は、貧弱ながらも自前で武器を生産する能力をもっていたこと、外国人傭兵の活躍、フランスから非公式とはいえ武器支援を受けられたこと、密林の中のビアフラ軍の拠点であるウリ空港を奪回されなかったことがあげられる。
この戦争の特徴は、難民の発生数である。連邦政府は、ビアフラ共和国を東西南北包囲し、赤十字の支援を妨害するなど、兵糧攻めを行なって崩壊に追い込もうとした。このため、ビアフラ情報部の公式発表によれば餓死者は子供を中心に150万人で、戦後もしばらくの間は一日あたり2000人程亡くなり、戦争犠牲者は総計200万人にも及んだ。ビアフラ共和国政府の支配下に入った人口は800万人程であったが、その3分の1程が難民になったのである。
1970年1月ビアフラ共和国が降伏宣言する。ナイジェリアは当初の国境線が守られ、三大民族が綱引きする政治は何も変わらなかった。内戦以後もクーデターは多発する。ビアフラ戦争という国家分断の危機は、植民地主義が作り出した上置境界によりできあがった人工国家ナイジェリアが、国家に正統性を持たせることの困難さを端的に表している。
参考文献
フレデリック・フォーサイス著、篠原慎訳『ビアフラ物語 飢えと血と死の淵から』, 角川書店, 1981
伊藤正孝『ビアフラ 飢饉で亡んだ国』,講談社,1984
室井義雄『ビアフラ戦争 叢林に消えた共和国』山川出版社, 2003
片山正人『現代アフリカクーデター全史』叢文社, 2005