ダム開発で移転してできた新しい街

7:50に集合し、クケス市内を視察することから、この日の巡検は始まった。ホテルから南西に歩き、フィエルツァ(Fierza)湖の方へと向かった。

建物の脇には、既にこの巡検でもう何回も目にしてきたウエスタン・ユニオンとライファイゼン銀行の看板があった。この地域の経済も、出稼ぎ労働者の送金で成り立っているようだ。

町は、早朝ということもあってか、あまり人気がない。

 市役所の建物が見えてきた。4階建てで、正面玄関の上にはアルバニアの国旗が掲げられている。

 市役所の建物のすぐそばに、選挙のポスターがあった。立候補者の顔の横に、EUをイメージしたような丸い星のマークがあった。日本に帰って調べてみると、ア ルバニアでは2005年の7月に議会選挙が行なわれたことがわかった。民主党を中心とする右派政党が躍進する結果となり、8年ぶりに社会党(旧共産党)か ら民主党への政権交代が行なわれた。この選挙結果については、この日の夜、NGOのアドミリムさんから詳しくお話を窺う機会があった。

 市役所からフィエルツァ湖の方に近づき、周囲を観察した。フィエルツァ湖は、ホッジャが政権を握っていた1976年に、電源開発のため、アドリア海 に注ぐドリン(Drin)川本流をダムでせき止めてできた人造湖である。当時、鎖国経済に向かって進んでいたアルバニアにとって、国内にエネルギー源を確 保することは至上命令であった。アルバニアには山が多いので、水力発電が重要なエネルギー源とされ、このドリン川本流に3つのダムがつくられた。開放経済 となった現在でも、そのダムは稼動中である。このダム建設のため、古いクケスの集落は、湖底に沈んでしまった。現在のクケスの町は、水没した集落の住民が 移り住んでできたものなので、古い集落というものは存在しない。

湖岸の南のほうには、真新しい白色がまぶしいモスクがあった。湖岸にはまた、建設を途中で放棄された、カトリック教会らしき建物もあった。

 湖岸の北のほうに目を向けると、社会主義時代に建設されたリゾートホテルがあった。ガイドブックには、現在は放棄されていると書かれているが、放棄されているにしては、外観はきれいに整えられている。もしかしたら、外資が入り込んで建て直したのかもしれない。

クケスは周囲を高い山に囲まれた町だ。南に標高2,486mのギャリツェス(Gjalicës)山がそびえている。湖から道を挟んだ向かい側に社会 主義時代の集合住宅があり、住宅の奥手に見えるのが、コソボとアルバニアの国境になっている山だ。クケスは、湖、山岳、警告など自然の観光資源にはそれな りに恵まれているが、観光開発はほとんどなされていない。

 湖から社会主義住宅の方へと向かった。道路から見える住宅は新しいように見えたが、近づくと、外壁が剥げ落ちているのが視野に入り、老朽化が目立った。

途 中に、狭い公園を見つけた。敷地内には子供の遊具やベンチがある。公園の入り口に看板があって、CAREというNGOとUNHCR(国連難民高等弁務 官事務所)のロゴマークが書かれていた。公園は1999年にできたようだ。看板の上にに、赤いスプレーで“LSI”という落書きがされている。LSIとは 社会党(旧共産党)から分裂した左派政党の「社会主義統合運動」だ。NGOが国連の組織とタイアップして資金を調達し、このような社会活動を行なうという のは、近年世界各地でよく見られる。この看板にLSIの落書きがあるということは、国連のこのような活動が、アルバニアの左派からあまり歓迎されていない ということの表れだろうか。コソボでも、国連の存在は、アルバニア人から必ずしも歓迎されているわけではない。

クケス市内視察を終え、いよいよコソボに向け出発しようとしたところで、トラブルが発生した。水岡先生は、私たち全員分の宿泊代を8月16日にまと めて日本の銀行からマケドニアの旅行社宛に振り込んだのだが、その旅行社から宿泊代金がこのホテルに支払われていないとホテル側が主張してきたのである。 そして、現金で200ユーロを支払えと要求してきた。アルバニアでは、社会主義崩壊後の1997年に、ねずみ講が行き詰ってアルバニア経済は大混乱に陥っ た。その後遺症なのか、アルバニアでは銀行や信用制度に対する人々の信頼がいまひとつだ。高級レストランでも現金決済なのを思い出した。銀行システムも、 まだ効率的に機能していないのかもしれない。

クケスからコソボへ

トラブルはなんとか解決し、8:30にコソボに向けて出発した。

コソボの詳しい歴史については別ページにコラムとしてまとめたので、こちらを参照していただきたい。

車でクケスのメインストリートであるBulevardi Kryesorを通った。道の両側には植木があり、アルバニアの他の道路と比べてわりと整備されていた。左側には車がたくさん駐車してあった。ナンバーをみるとほとんどがアルバニアの車だった。

 メインストリートを抜けると、道の両側は瓦礫がつみあげてあったり、建設放棄された建物があったりと、有効に活用されていない土地をよく見かけた。 もしかすると、ティラナやデュレスのように資金が一時期ここにも流れ込んだが、ここにビルを建ててもテナントが集まる見通しが低いと判り、途中で放棄され たのかもしれない。

廃棄された社会主義時代の工場も確認できた。

道 の左側には、9月5日に見たようなトーチカがいくつかあった。大きさや見た目は5日に見たものと大して違いはない。いくつかあるトーチカの中にひときわ大 きなトーチカがあった。大きなトーチカから周りのトーチカに指令を下して攻撃するように造られたようだ。これらは実際には使われることなく、現在に至って いる。

 モリーネ(Morinë)という国境の町に入った辺りで、車が止まった。私たちの専用車の前を、十数頭の茶色い牛の群れが横切っている。対向車や歩 行者は、「いつものことだ」といった様子で気にも留めていないようである。この辺りでは粗放的な牧畜が行なわれているのだろう。牛は痩せており、あまり栄 養状態がよろしくないようだった。

国境で、国連マーク入り入国スタンプをもらう

9: 15ごろ、アルバニアの出国管理所に到着した。私たちのほかにあまり車はなく、すいていた。ガイドに全員分のパスポートを預け、専用車内でしばらく待っ た。ガイドは国境の係員と何かもめているようだった。しばらくすると、ガイドが50セント(0.5ユーロ)をくれといってきた。どうやらアルバニアの出国 税として10ユーロを払おうとして、少しガイドの手持ちのお金が足りなかったようである。出国税は、個人ではなく自動車に課税される。1台10ユーロだ。 これを払い、今度は荷物検査を受けた。検査はすぐに終わり、アルバニアを出国した。

 次はいよいよコソボへの入国だ。道路の脇にはUNMIK(国連コソボ暫定行政ミッション)の看板がいくつもあった。UNMIKはコソボ紛争終結後の 1999年から、コソボ自治州における司法行政を含めたすべての立法権及び行政権の行使を担当している。つまり、現在コソボは国連安保理の保護領ないし植 民地のようになっている。警察や国境管理の仕事もUNMIKの担当で、セルビア・モンテネグロ政府は一切出る幕がない。

コソボのベルブニツェ(Vërbnicë)入国管理所は、それなりに混雑していた。コソボの入国管理の方が厳重に行なわれているということだ。

 UNMIKの要員は世界各国から派遣されており、私たちはヨルダンの派遣要員を確認することができた。軍服に“JORDAN”と書いてあり、肩にはアラビア語で何か書かれていた。

 入国管理官が全員分のパスポートとドライバーの免許証をチェックしに来た。そして、「コソボからセルビアの方に抜けるか」と質問された。アルバニア からコソボに入りセルビアに抜けると、ゼルビアの入国スタンプが入手できないので、後日セルビア出国のとき大きなトラブルとなる。セルビア・モンテネグロ 政府は、コソボを自分たちの固有の領土とみなしているので、コソボとセルビア・モンテネグロの境界には入国管理所を置いていないのだ。また、コソボとセル ビアの境界地帯は、今でもたまに武力紛争が勃発しており、危険でもある。

私 たちの予定では、危険なコソボ北部は訪問しないし、翌日はマケドニアに入国するので、スタンプについても問題はなかった。チェックはすぐ終わり、5分ほど してパスポートが返ってきた。スタンプには日付とUNMIKの文字、そして国連のマークが押されていた。パスポートのスタンプに国連のマークが押されてい るのは、世界でもおそらくコソボだけだろう。

 パスポートが帰ってきた後、税関申告と荷物チェックが行なわれた。そして、9:50ごろ、コソボへと入国した。

新鮮な農産物とパクリ商品がならぶ市場

コソボに入国して、すぐ気づいたのは、道路の舗装状態がアルバニアと比べて急によくなったことである。コソボの道路インフラは、旧ユーゴ時代に整備 された。そのインフラ整備の蓄積が、今でもコソボ経済の競争優位となっている。ベオグラードで聞いたセルビア人のガイドさんの発言を想いだした。

10:00ごろ、プリズレン(Prizren)に入った。道が渋滞している。道の両側に大規模な市場が開かれているようだ。ガイドの話によると、この市場は毎週水曜日に開かれるらしい。私たちは偶然にも、コソボの市場を視察し、コソボの経済活動を学ぶ機会に恵まれたことになる。市場を少し過ぎたところで下車し、歩いて視察することにした。

下車した場所の周辺には、車の修理工場や日用雑貨、衣料品を売る店があった。“ECONOMICS”というベルトやバッグを売る店があり、看板の端 には、経済学の授業で出てくるようなグラフが描かれていた。意図はよくわからない。道の反対側には、楽器を売っている人もいた。この辺りの伝統楽器なのだ ろうか。リュートのような弦楽器だった。また、このあたりに「コソボ保険会社」という看板の保険代理店もあった。みると、この会社の商標はコソボの地図に なっている。コソボの会社として、この領域のために営業しているのだという場所のアイデンティティの強調が感じられた。

道 路は相変わらず渋滞していて、たまにKFORのトラックが走っている。道路を挟んだ向かい側には、トルコ軍が国際条約のもとで常駐していることを示す看板 とトルコの国旗があった。トルコは、旧オスマントルコ領のあたりに、いろいろ理由を設けて積極的に軍隊を派遣し、この地域での覇権をねらっているようにも 見える。

 市場に足を踏み入れた。アルバニアからコソボに入る方向に向かって道路の右側が生鮮食料品市場、左側が日用雑貨の市場である。

食 料品市場では、近くの農家が、農産物を直接売りにきているようだ。市場に直接車やトラックが入ってきて、荷物を降ろさず、車をそのまま店舗として商売をし ている。車はほとんどがKSというアルファベットが入ったコソボナンバーをつけている。フランスやドイツの中古車が多く、車体にはフランス語やドイツ語が そのまま消さずに大きく書かれていた。

農 産物は値札がついていなかったが、店の人に聞くと、トマトが1箱2ユーロ、パプリカがネットに入って50セント、豆が1kgあたり1ユーロとかなり安い。 客も、これらの野菜をまとめて買っていく人が多いようだ。このマーケットは卸売市場のような役割も果たしているのだろう。

野菜や果物の箱から産地を判断しようとしたが、店の人の話では、これらの箱は使い回しているので、箱に書かれている産地と商品の産地が必ずしも一致 しないということだ。一応紹介だけしておくと、マケドニア、トルコ、コソボ産の箱が多かった。商品の鮮度は相当よかったので、コソボ、アルバニア、マケド ニア辺りの野菜、果物が多いのではないだろうか。野菜や果物と一緒に、大き目の容器、調味料、酢が売られているのを発見した。この地域では、漬物を作る習 慣があり、それに使うものらしい。

 ちなみに、コソボの通貨は、ユーロである。市場でも、ユーロ以外の通貨は流通していない。コソボは、ユーロ導入に求められるマクロ経済の条件を満た しているわけではないが、モンテネグロと同じように、欧州中央銀行との正式の契約なしに、事実上のこととしてユーロが流通している。ゼルビアのディナール は、受け取ってもらえない。セルビアがコソボの実効支配をすでに失っていること、そしてユーロが着々と欧州の基軸通貨として台頭していることの、経済的な あらわれだ。

道路を挟んで反対側の日用雑貨の市場に移動した。こちらは生鮮食料品の方と比べて人が少ない。衣料品、歯ブラシ、ポケットティッシュ、CD、文房具 など品揃えは豊富だ。日用雑貨は中国製やトルコの製が多いようである。私たちが8月26日に訪問した、スロベニアのドロガ・コリンスカ社の製品も売られて いた。

 日用雑貨市場でも、砂糖が大きな袋に入れて売られているなど、まとめ買いの需要に対応している店が多く見受けられた。清涼飲料水もまとめて売られていた。2リットルのペットボトル入り清涼飲料水が6本で2.5ユーロだった。やはり、小売商人が来て買ってゆくのであろう。

私 たちがこのマーケットで一番の衝撃を受けたのは、「コーラ・コーラ」という名前のコーラ飲料が売られていたことである。露骨なパクリ商品である。黒褐色を した炭酸飲料が、コカコーラに類似したボトルに入って売られている。同じ売り場にファンタの類似商品でファンタムというものもあった。どちらも、ロゴのデ ザインまで、本物そっくりだ。コソボは法整備が進んでおらず、知的所有権の侵害を取り締まることが行なわれていないのだろうか。水岡先生はペットボトルの 重さを物ともせず、コーラ・コーラを購入した。中身は、スコピエの宿に着いてゼミ全員で飲み、その空きボトルが、今でも研究室の上から私たちを見下ろして いる。

 11:15ごろ、私たちはマーケットを出発した。車体にOSCEと書かれた車が何台か走っているのを見かけた。OSCEとは「ヨーロッパ安全保障・ 協力機構」のことで、ロシアから北米に至る55ヶ国が加盟している。もともと、全欧安保協力会議(CSCE)という多国間協力の話し合いの場にすぎなかっ たが、冷戦体制崩壊後、常設機関となった。コソボで実体的な平和維持活動に積極的に貢献するようになっていることが注目される。

トルコの面影を強く残すプリズレン市内

20分ほどして、プリズレン市内で下車した。プリズレンは中世セルビア王国の首都であったが、街並みはオスマントルコの影響を強く残しており、トル コの影響のほうがはるかに強く感じられる。町にはモスクがあり、建物はオレンジの屋根のトルコ風のものが多い。セルビア正教の教会も見られるが、丘の上に あるセルビア教会は、現在は破壊されてしまっている。

 市内を流れるビストリツァ(Bistrica)川には、モスタルと似た形の橋が架かっている。この橋は、洪水で破壊されたものを再建したものらしい。川沿いには、水辺にテラスのあるこぎれいなレストランがならんでいた。

車を下り、橋を渡って、町の中心についた。背が低いトルコ風の商店が立ち並び、石畳で舗装された広場があって、中世以来のトルコの街並みとわかる。だが、そ の真ん中にはアルバニアの戦士の像があって、足元に沢山の花が捧げられていた。コソボ戦争で闘って戦死したアルバニア解放軍の英雄なのだろう。そのそばに は、アルバニアの旗が掲げられている。像のすぐ横にはウエスタン・ユニオンの看板があった。広場に面して飲食店が何軒かある。人通りもにぎやかで、歩いて いる人たちのなかには、観光客と思われる人も見受けられた。コソボ戦争以前、ここは観光都市だったのだが、コソボの治安がかなり安定してきたので、また観 光客が戻ってきているのだろうか。

打ち棄てられたセルビア人居住地区と教会

町の全域を見渡せる丘に登ることにした。ここは、ローマ時代以来の城跡である。道の崖側には、有刺鉄線が張ってあり、物々しい感じがした。そこは、もとセル ビア人の居住区だったのだ。丘を登っていく途中によく見ると、セルビア人の住んでいた家は、屋根が落ち、窓が破れ、軒並み破壊されて荒れ果てた状態になっ ている。近くに破壊されたセルビア教会があり、現在それをドイツ軍が防衛していた。このセルビア正教の教会は、この近くに住んでいた人々の精神的中心だっ たのであろう。この地区に、セルビア人はもう誰も住んでいない。自分の車やトラクターに家財道具を積めるだけ積み込み、NATO軍に護衛されて、コソボか ら命からがら逃げ出したのだ。

丘の頂上にたどり着いた。ここは、プリズレン市内が一望できる。トルコ風のオレンジの屋根が所狭しと並ぶなかに、モスクが散在している。パラボラアンテナを設置してある家が多く目に付く。

丘から遠く離れたところには、近代的な建物も少し見受けられた。丘の上から博物館を見ることができたので、丘を下り、そこの博物館に行くことになった。

 下っていく途中の道は、街に面したほうが高いブッシュで覆われているが、1箇所だけ切り開かれたところがあった。ここから、先ほどの破壊されたセル ビア教会が内部までよく望めた。中は、すっかりレンガ剥き出しのがらんどうになっている。誰かが、破壊の状態を人々に知ってほしいと、ここだけブッシュを 刈り払ったのであろう。

下りきったところで、真新しい建物を発見した。窓には国連のマークとHCCというNGOのマークがあった。ここは、「ローレンツアントーニ」という名前の音 楽学校だ。戦争で破壊されたのだが、EUHO(欧州委員会人道事務所)の資金を使ってNGOのHCCがサポートし、修復したということが、建物の壁にある 看板に書いてあった。NGO経由で政府資金を流し復興に充てるという、この日の朝に見たクケスの公園と同じパターンだ。これならば、貴重なODAにあてら れる血税が、日本の場合のように、外務省関係者やその外郭団体などに掠め取られる心配も少ない。

さきほど、城跡に登る道から見えたセルビア人の居住地区が、この音楽学校のちょうど裏手に当たっている。そこで私たちは、今にも崩れかかっている荒廃した家をいくつも間近に見た。看板には「KFOR AREA。危険。武器使用が認められている」と書いてある。ここに立ち入ると、KFORの兵士から狙撃される危険があるということだ。私たちは、看板の近くまで行って写真を撮り、元セルビア人居住地区を去った。

 

川べりを歩いてゆく途中で、アルバニアの旗を掲げているホテルがあった。旧ユーゴ時代は国営のホテルだった。すぐ近くに、「コソボ民主トルコ党」の事務所もあった。ここでは、トルコ人がかなり幅を利かせているようだ。

 制服を着た女子高校生の一団に出会った。大陸ヨーロッパではほとんどの高校が私服通学なので、珍しい。シャツの襟ボタンを外しネクタイを緩める着こなしは日本と似ているが、女子のスカート丈は膝下にしている生徒が多く、保守的である。校則が厳しいのかもしれない。


アルバニア独立運動揺籃の地であることを示す博物館

12: 50ごろ、博物館についた。門のところには“1878 ALBANIAN LEAGUE OF PRIZREN”と書かれている。1878年にオスマントルコからセルビア王国が独立するときに、プリズレンではアルバニア人によって「プリズレン同盟」 が結成され、プリズレンは、当時オスマントルコに支配されていたアルバニア人による民族運動の中心地となった。この博物館は、その独立運動に関わる展示物 が集められている。

 セルビア人が、コソボはセルビア揺籃の地だと主張しているのに対し、アルバニア人も、コソボはアルバニア独立運動揺籃の地である事実を示して対抗しようということなのであろうか。

 博物館は、真新しい壁の白が青空に映える、オフリドで見たバルカン様式のきれいな建築物だった。戦争で破壊された建物に対して、EUが金を出し、破壊される前のバルカン様式の建物を作り直したらしい。

入場料を払って中に入った。中にはプリズレン同盟の指導者の像、戦争前のプリズレンの街の写真、破壊される前と無残に破壊されたあとの博物館の写真、そして戦争で破壊されたプリズレンの写真などが展示されていた。

 博物館の見学を終え、近くのハンバーガーショップで昼食をとった。ハンバーガーショップは“KING BURGER”という名前だった。昔日本にもあった、米国のハンバーガー多国籍企業であるバーガーキングのパクリだ。この店からも、コソボでは知的所有権 の保護が重要視されていないことが伺える。

 14:00過ぎに昼食を終え、首都プリシュティナ(Priština)に向けて出発した。

援助マネーが集中するプリシュティナ

道中、KFORの基地をいくつも見かけた。駐留している軍はドイツ、トルコなどだった。どの基地も、高い塀が建設されていて、中の様子を見ることはできない。塀の一番上には有刺鉄線が張り巡らされている。アルバニアなどで見た軍事基地以上に、厳重な警備がなされていた。

 途中で検問などにひっかかり、時間を食ってプリシュティナ到着が遅れるのではないかと心配されたが、検問は1箇所もなく、極めて交通はスムースだった。

 プリシュティナには1時間足らずで着いた。ここはコソボの首都であり、街の様子が、プリズレンとは明らかに異なる。近代的な建物が立ち並んでいて、道路には 街灯まで整備されている。住宅も、トルコ風のプリズレンと違い、社会主義時代の集合住宅がある。都市インフラの整備のかなりの部分は、旧ユーゴ時代になさ れたものだ。これに加えて、戦後復興資金が流れ込み、斬新なデザインの真新しいビルが次々と建てられている。

道端で、野菜や果物を売っている人を見かけた。売り物を見ると、さきほどプリズレンのマーケットで見たもののように思えた。やはり、プリズレンのマーケットは卸売の役割も果たしていたのであろう。

商店も、プリズレンと比べると高級そうな店が多い。看板が英語で表記されている店も見かけた。各国から兵士やNGO、国連関係者の人がやってくるので、それに対応しているのだろう。

 市内には、大きなセルビア教会も発見した。現在では廃墟状態となっていた。

 少し道に迷いながらも、この日宿泊する予定のイリリアホテルに到着した。このホテルは旧ユーゴ時代は国営のホテルで、現在はコソボ政府の所有となり、アルバニア人が経営している。

 チェックインの後、17:30まで各自部屋で休憩を取り、それからプリシュティナ市内の視察をすることになった。

17: 30に再び集合し、ホテルから北の政府総合庁舎の建物のほうへ向かった。コソボという響きとは似つかわしくない、真新しいピカピカの壁の高層ビルだ。戦後 復興資金によって、建築されものにちがいない。そのビルの足元に、ティラナのスカンデルベグ広場にあった像とそっくりのスカンデルベグ像があり、アルバニ アの旗も掲げられていた。ビルの近くにあった看板には、“REFURBISHMENT OF GOVERNMENT MINISTRIES BUILDING”と書かれていた。いま、ビルは改装工事中であるらしい。

 政府総合庁舎から、コソボ博物館を目指して歩いた。途中、裁判所があるのを確認した。コソボでは、司法も国連が握っている。このように、国にとって 重要な機能のほとんどを国連が管理しているので、コソボは「国連の植民地」のような状態になってしまっている。民主主義的に選挙されたアルバニア系の政党 が中心となっている暫定自治政府諸機構(PISG、Provisional Institutions of Self-Government)というものも一応存在している。暫定自治政府諸機構は2002年に成立し、経済・教育科学技術・農林・環境など民政諸事 項にかかわる権限は移譲されているが、依然としてUNMIKがすべての立法権・行政権の監督をしており、植民地にある民政府のような低い地位にとどまって いる。

博物館に着いたが、あいにく閉まっていた。係りの人に開館時間を聞き、翌日の9:00からここを視察することにした。

博物館のすぐ後ろに、モスクがあった。Jashar Pasha Mosqueという名前らしい。ここも閉まっていて中には入れなかった。

 私たちは、ここから、プリシュティナにわずかに残るトルコの街並みがある地区に向かった。それは、政府機関総合庁舎の裏手に当たる。そのすぐそばには、コソボ解放軍(KLA)の戦傷者を収容する施設があったので、写真を撮ろうとすると、入口で警備している男に制止された。

 ここは、すでに何度もみた背の低い建物が列をなしている。

その先、街中を歩いてゆくと、コソボ・アルバニア民主党の事務所を発見した。事務所の窓には、党のロゴとアルバニアの旗が掲げられていた。この党は、KLAの政治部で、急進的な独立派であり、プリシュティナでは結構支持を集めているようだ。

また、EUの援助によって復興されている途中の建物と、老朽化した建物が隣接している場所があった。EUの資金を使って、“Bernard Brunches International”というNGOが復興を実施しているらしい。復興資金のコソボへの流れ込み方には、とにかく目を見張るものを感じた。さすがに、世界中の耳目を集めた戦地だっただけのことはある。

コソボ独立を熱望するNGOの現地代表の方と夕食

18:30ごろホテルに戻ると、ホテルの入り口で私たちを待っている人たちがいた。この日アポをとったのは、大学でコンピュータを学びながら、旧 ユーゴスラビアに援助を差し伸べる国際NGOであるJNIVの現地コーディネータをしておられるアドミリム(Admirim)さんとそのグループである。 マケドニアのテトボに拠点をおいて旧ユーゴ全体にまたがり難民問題と取りくんでいるJNIVの日本人女性の方も、多忙な予定をぬって同行してくださった。

歩く途中に、「UNMIK住宅局」という看板を発見した。国連は、コソボで、住宅の供給管理といった人々の日常生活に関わることまで直接運営しているのを見て、驚いた。

私たちは、近くのタイ料理レストランで夕食をともにをしながら、アドミリムさんのNGOの活動や、コソボ情勢一般に関するインタビューを行なうことにした。

 全員が席に着いたころ、周囲の電気が暗くなり、大きな機械音が周りから聞こえてきた。日本人女性のお話によると、これは停電だという。プリシュティ ナではよくあることで、大きな機械音は自家発電機の音らしい。レストランのようなところでは自家発電機があるが、一般の家庭では電気が突然止まってしまう ので、料理もろくにできない、とこの日本人の方はおっしゃった。

 アドミリムさんが活動しているNGOは国際ボランティア連絡会議(Joint Network of International Volunteers:JNIV)という名前のNGOで、日本では須田浩之さんが主宰し、マケドニアのアルバニア人地域ではアドミリムさんがNGOの現地コーディネートをしている。なお、 JNIVはコソボだけでなく、旧ユーゴ地域全域を活動範囲としている。

アドミリムさんはマケドニアのテトボ(Tetovo)に住んでいるアルバニア人である。アドミリムさんはまず、このJNIVの組織において、マケド ニアで行っている活動について説明してくださった。まず、学校教育への援助である。内容としては、日本文化の紹介、銃のない社会をめざす平和教育、そし て、日本国外務省とのなかだちになって、戦争で被害を受けた学校や医療施設が、それを再建する必要性を日本政府にアピールし、復興資金を援助してもらうお 手伝いをするということだ。また、ボランティア活動ニーズの情報提供、ボランティア研修機会の提供、コーディネート、宣伝活動も行っている。

日本政府の規定によれば、1つのプロジェクト当たり援助の最高額は60,000ユーロ(およそ840万円)ということだ。具体的には1999年の戦 争で破壊されたマケドニアの小・中学校や医療施設を再建するというプロジェクトに、日本政府の資金が提供されたということだ。マケドニアでのプロジェクト は、マケドニアでの紛争後の復興事業として2001年にスタートした。

NGOの話がひとしきり終わった後、私たちは、バルカン諸国のさまざまな情勢について議論しあった。

まず、コソボの情勢について。1999年以降、NATOがコソボに進出し、セルビアの軍と行政機構はコソボを去った。だが、コソボは形式的にはセル ビア共和国の自治州で、人々は独立を求めている。独立が認められるため最も重要な条件は、コソボが民族間の協調・調和について国際標準を満たすことであ り、この条件はこれまでに満たされてきた、とアドミリムさんはおっしゃられた。そこで本年から、コソボの将来について、「国際社会」が関与する公式の議論 が始まるということだ。

ここで重要なのは、経済状況の改善だと、続けて指摘された。現在コソボの人口の40%以上は失業中だという。コソボの人々は貧しい。そこで、経済状 況を改善することも、独立に先立って重要だとおっしゃっていた。そして、独立が達成されれば、さらに経済的繁栄が訪れるだろうともおっしゃられた。現状で は、いちおう民政府があるものの、採集的な意思決定権限は「国際社会」すなわちUNMIKが握っており、コソボの人々は自由にものごとを決められない。民 主主義的に選挙された議会が何かを決めても、その決定は、「国際社会」の外国人によって承認されなければならない。よい行政をするためには、現地の文化の 理解が不可欠だが、「国際社会」の人々は、コソボやアルバニアの文化について詳しくない。

コソボの独立を求める住民には、「国際社会」は独立を邪魔するものだと思っている人がいる。もちろん、「国際社会」は、多くの虐殺を行ったセルビア勢力をコソボから追放して、住民を助けた。だが、街を見てもわかるように、「国際社会」の支配は長く続きすぎている。

 将来のコソボ独立の可能性について、アドミリムさんはこれを楽観視しているようだった。もし、コソボで独立の是非を問う住民投票をしたら、独立派が 勝つだろう。しかし、EU、米国、そのほかの「国際社会」はコソボの独立につながるような住民投票を認めるかどうかについて、アドミリムさんは懐疑的で あった。だから、アルバニア人は、「国際社会」がコソボの独立を認めるように、常に訴え続けなければならないのだ、と言われた。もし、コソボが独立できな いということにアルバニア人が気づいたら、それはバルカン全体に影響を与えることになるだろう。マケドニアでも、再び紛争が生じるかもしれない、とアドミ リムさんは警告した。

次に、マケドニアで人口の4分の1を占めるアルバニア人の状況について、アドミリムさんはお話くださった。

マケドニアは1991年の国民投票の結果、ユーゴスラビアからの独立を宣言した。それから2001年までの間、マケドニアでアルバニア人は抑圧され ていた。マケドニアにはアルバニア語で学べる大学がなく、公務員になることも制限されていた。そこで1996年に、アルバニア人たちが平和的に抗議行動を したところ、マケドニア軍はそれを武力で抑圧し、アルバニア人を殺した。これは3〜4回繰り返され、アルバニア人学生たちの民族教育を受ける権利の運動 は、屈辱的な対応で返された。とうとう、2001年、アルバニア人は、マケドニアにおけるアルバニア人の権利を保障するため立ち上がった。

最終的に、オフリド協定が結ばれて、人々はアルバニア語で学ぶ権利を獲得し、政府の中にも人口比に応じてアルバニア人が登用されることとなった。今 のマケドニア政府は、マケドニア人の政党とアルバニア人の政党の連立になっている。アルバニア人の地位向上は、教育状況の改善へとつながった。

だが、経済状況はあまり改善していないし、新たな人的資源もまだ十分発掘されていないという。その理由として、アドミリムさんは、アルバニア人が ユーゴスラビア時代以来、マケドニアで十分な教育を受ける機会を得られなかったことを挙げられた。大学教育を受けたいアルバニア人は、プリシュティナか ティラナに行かなければならなかったのである。アドミリムさんがNGOのコーディネータとして、マケドニアのアルバニア人教育に強く関心を持つ理由が、よ くわかるような気がした。

アドミリムさんは、かつてユーゴスラビアのアルバニア少数民族だった。そこで、ここで私たちは、チトーの時代をどう捉えているか、という質問をアドミリムさんに出してみた。

アドミリムさんは、旧ユーゴ時代は経済やインフラの状態がよく、制度はきちんと機能していた。だが、アルバニア人コミュニティに関する限り、すばらしかったとはいえない、と答えた。

 多くの利益は、ベオグラードに吸い上げられていた。また、教育の状況もあまりよくなかった。アルバニア人は、母国語で勉強することができなかった。また、ミロシェビッチ時代ほどひどくはなかったが、旧ユーゴのなかに差別は存在した。

アドミリムさんのチトーの時代の評価は、一長一短ということだ。たしかに、チトー時代のユーゴスラビアは大国で、経済やインフラの状況に満足していた人は多かったため、街の通りにチトーの名前が残っていても不思議ではない、とおっしゃられた。

次に、アルバニア本国の現在の状況について質問した。

アルバニアでは2005年の7月に議会選挙が行なわれたばかりだ。結果は民主党が社会党(旧共産党)に変わって政権をとった。アルバニアは民主党と 社会党の2大政党体制が続いており、どちらの政党も民主主義を支持し改革すると言っているが、実体は腐敗しており、政治家は個人の自己利益ばかりを追求 し、政権をとると公約を実行しない。民主党でも社会党でもない第3の政党が必要であるが、民主党の現政権は、他の弱小政党と連立を組んでおり、アルバニア 本国のアルバニア人は、それがより社会に目を向けて、現在のアルバニアの状況を改善してくれることを望んでいるという。

次に、現在のアルバニア本国の経済にどのような競争優位と見通しがあるか、質問した。

アルバニアは鉱山資源に恵まれている。ただし、これらの資源は現在海外の投資家手に落ちてしまい、これが大きな問題である。社会主義崩壊後のアルバ ニアは、鉱山をもはや維持できなくなっている。このような状況が直ちに大きく改善するとは思われないが、十分な人的資源があり、経済を牽引するような人物 があらわれれば、海外からの投資をこの人々が代替し、アルバニア経済は変わるかもしれないとおっしゃった。

さらに、45年間の社会主義時代が、アルバニアにとって何かよいことはなかったか、質問してみた。

アドミリムさんは「暗黒の時代だった」と答えた。経済状況は悪く、人々は洗脳され、外国旅行の自由はなく、外部から知識や情報を取り入れることがで きなかった。この結果として、アルバニア経済は停滞した。必要なのは人的資源であったが、自由な言論は許されず、共産党と違う考え方を表明すれば、有能で あっても、殺されたり隅に追いやられたりという目に遭った。100%無意味だったとは言わないが、95%はだめだった、とおっしゃっていた。

ここで再び、コソボの独立の可能性に話は戻った。コソボ独立に関して、国際社会はどのように対応するだろうか。

アドミリムさんは、まず、セルビアにより開明的でコソボ独立を許す政治家が登場しなければならない、「国際社会」はセルビアに対して「コソボの独立 を認めろ」と説得する以外に道はないと気づいているはずだ、とアドミリムさんは言われた。そもそも、アルバニア人はこの場所に紀元前からいたのだが、スラ ブ人はバルカン半島に5〜9世紀にやって北に過ぎない。それゆえ、アルバニア人はみなこのコソボという場所を愛し、この場所を防衛したいと考えている。も しコソボの独立が拒否されたら、コソボでは、KLAが再び武力による抵抗という形でメッセージを示すだろう、と警告された。

では、コソボが独立したら、アルバニアとはどのような関係になるのだろうか。質問してみた。

アドミリムさんは、コソボの政治家や人々はアルバニアにコソボの資源をもって行かれてしまうことを恐れている、とおっしゃった。コソボもアルバニア も、アルバニア人から成っていることは間違いないが、コソボのアルバニア人は、例えていえばフランスとスイスのフランス人のような関係だ。コソボの人たち は、コソボを自分たちで統治することを求めている。もし、コソボがアルバニアと合併すれば、ディラナの政府に権力が集中することを危惧しているのだ。そも そも、大アルバニア主義という言説は、アルバニアを中傷するためセルビアが作り出したもので、アルバニア人の間では極めて少数派だ。UNMIKの退去を求 めるKLAも、「大アルバニア主義」には反対しているという。

タイ料理店の外の熱帯バルコニー風の作りにいた私たちは、だいぶ寒さを感じてきた。最後に私たちは、コソボが独立するまでに何年かかるか、尋ねた。

アドミリムさんは、まず議論をすることが必要で、コソボ、セルビア、国際社会(UNMIKなど)の3者が、対立点を解消して交渉のテーブルにつかな ければいけない、これに1年かかるだろう、という。それから、議論となる。しかし、議論をだらだらつづけているのはよくない。なぜなら、ラディカルなグ ループが、これを独立を得られないサインと理解し、再び武力に訴える可能性があるからだ。アドミリムさんは、2年以内には何かしらの動きがあるだろう、と かなり楽観的だった。「国際社会」もこの考えとスケジュールには同調するはずだ、なぜなら、アルバニア人コミュニティはこれを要求し続けてきたからだし、 2006年ともみられるモンテネグロの独立も追い風となるだろうからだ、とおっしゃられた。

モンテネグロは、旧ユーゴ時代に共和国の地位をもっていたため容易に独立を認められるが、コソボには共和国の地位がなかったというだけで独立にこれだけ苦労する。これは不合理ではないのか、と聞いてみると。全くその通りだ、とアドミリムさんも同意された。

 私たちは、会食を終え、一緒にホテルに戻った。

 ホテルに戻る途中、壁に“JO NEGOCIATA VETËVENDOSJE!”という落書きがあった。この落書きは、プリズレンでも、プリシュティナでも、いたるところで見かけた。日本語に訳すと「交渉 ではなく(民族)自決を!」になる。草の根のアルバニア系住民の叫びが、このような形で表現されているのだ。コソボの一日も早い完全独立を祈りつつ、ホテ ルの前でアドミリムさんたちと別れた。


(山田尚生)