一橋大学 水岡不二雄 |
小柳尚正君は、2001年8月10日未明、日野市で私のゼミ学生たちと遊泳中、亡くなった。優れた研究者の素質を持ちながら、22歳の誕生日も迎えられなかった彼の夭折の喪失感は、私の心に日増しに重くのしかかっている。
社会学部2年だった2000年4月、私の基礎ゼミに小柳君はその飄々とした姿を現した。私のゼミでは例年夏に海外巡検に赴く。昨年は、NGO・英植民地主義と建造環境などをテーマに、バングラデシュとインドに行くことにしていた。小柳君は、日本のあるNGO主催の研究会で、バングラデシュ南西部で活動するNGO「ウッタラン」代表、イスラムShahidul Islamさんとめぐりあう機会を作ってくれた。イスラムさんの好意で可能となった3日間の現地視察を通じ、グラミン銀行のような農村への市場経済導入ではなく、社会関係変革により貧困からの脱出を図ろうとする農村開発のあり方をわれわれは学んだ。「分断化された農村社会開発とその克服」は、主にそのとき得た彼自身の経験と知見に基づいている。
小柳君は真面目な努力家で、その大学生活は密度の濃いものだった。履修科目の8割が「A」、私の担当した経済地理学でも最高点に近い成績。にもかかわらず、勉強以外にも、少林寺拳法・自作曲を披露した一橋祭コンサート・留学雑誌『Briges』の編集に携わる。わずかの睡眠時間も彼には惜しかったであろう。
3年進学時、小柳君は、理論と定性的分析を結びつけて勉強する必要を強く感じ、あえて経済学部に転学部して、私のゼミに入った。意欲的な勉学姿勢には、彼が着実に力をつけている手ごたえがあった。本年夏の巡検ではドイツに赴き、戦後、旧東独・チェコ・ポーランドの三国に分断されたローカルな区域で国際間協力をめざす「ユーロリージョン」などの調査を心待ちにしていた。そして四年生には豪州に短期留学し、新しい地理学・都市計画論を学び、卒業後は海外の大学院に進んで博士号を取得、合衆国の大学で教鞭をとりたい…だが、彼のこの熱い願望は、あの夜、一瞬にして打ち砕かれたのである。その日の小柳君の酒量はわずかだったから、これを「池落ち」や一気飲み」と同列に論じることはできない。深夜の暗い川で泳ぐリスクをわきまえず学生たちが連れ立って出かけ、他社の「自立性」の領域を避けだれも「危ないから帰ろう」と注意し合うこともなくできあがった場の雰囲気。これにのまれ、泳ぎは苦手な彼が、幅30メートル、深さ4メートルの多摩川本流横断に挑戦した。自主性やチャレンジ精神は、「自分の板子一枚は地獄」というリスクへの研ぎ澄まされた認識を常に持ちあわせるときだけ、人に成功をもたらす。前途有望であった一人の人間の無念な死とひきかえに、われわれが学びとらなければならぬ教訓は、余りに大きく、そして重い。
小柳尚正君よ、安らかに。われわれは、君を決して忘れない。
2001年8月22日
水岡 不二雄