イギリス植民地支配とインド

経済学部2年 山下拓朗



T.最初に

T−1.本文の構成とねらい

本文は、インドがかつてイギリスに植民地として統治されたことが、インドにどのような影響を与えたのか、また現在まで与えているのか、を明らかにすることを目的としている。

本文は4つの章から構成される。まず「T.最初に」では本文の導入として日本人と外国人の「戦争」や「支配」に対する考え方を紹介したい。というのは、イギリス人やインド人は、日本人が一般に持っているであろう考え方と大きく違った考えを持っているからなのだ。とりわけ私が驚いたのは、私の知っている何人かのインド人がかつてのイギリスの植民地支配に好意的な印象を持っていたことである。

「U.考え方の相違の原因はなにか」では、「T.最初に」で紹介したようなインド人のイギリス支配に対する捉え方が存在する理由を探っていきたい。そのためにイギリスがどのような政策をインドに対して行ったのか、ということを具体的に検討していく。

「V.「インドはなぜ発展できないのか」」では、自国の経済に対するイニシアティブと経済発展との関係について日本とタイを比較の対象として考えてみたい。

最後に「W.イギリス植民地時代の遺産」「X.最後に」では、ここまで紹介してきたイギリス植民地支配のさまざまな特徴が、インドに今現在どのような影響を残しているのかについて述べ、結論とする。

以上の流れに沿って本文を進めていく。



T−2.「戦争」や「支配」に対する考え方の違い

多くの日本人は一般に、反戦争、反植民地支配の思想を持っている。太平洋戦争やその当時の大東亜共栄圏思想などは従って、私達日本人のほとんどにとってもっとも憎むべきもののひとつに他ならない。もちろん、その態度そのものは私は間違いではないと思う。実際現在の日本は自衛の場合を除いては一切の戦争を放棄しているし、戦争や支配につきまとう虐殺や搾取などを考えると人道的な見地からそれを間違っているとする考え方は、むしろ当然である。また被支配者である朝鮮半島の人々についても、日本の支配を好意的に捉えている人の存在を私は聞いたことがない。

 そのような考えを持っていた私にとって、支配者であるイギリス人の考え、あるいは被支配者であるインド人の考えは非常に驚くべきものだった。例えば「インドとイギリス」には、日本人の著者とオーストラリア在住のイギリス人女教師がイギリスのインド支配について会話する場面がある 。著者がインドの貧困の大きな原因はイギリスによる過去の搾取であるというと、彼女はそれに反発し、鉄道や技術化、法整備などのイギリスによる功績の例を挙げ、むしろイギリス支配が続いていればインドは今よりずっとましだった、と述べる場面である。さらにはこれが当時の「平均的なイギリス人の考え方を代表している」らしく、私は非常に衝撃を受けた。それにしても、これは支配者側の意見であるから、イギリス人は自らの支配、搾取を正当化しているのだろう、というのが私の持った感想であった。しかしながら、実はそうとも言い切れないことがわかった。

 それは、巡検によってインドのカルカッタ、ダージリンを訪れたときであった。カルカッタで私達はチャクラボティ氏というカルカッタ建造環境保全運動家に会った。彼は、イギリスの建物は実用的であり、美しく、そしてもはや街の景観として溶け込んでいるのに、壊すというのはおかしい、と言っていた。またイギリスの統治についてもそのシステムの理念や合理性に同意しており、被支配層であったインド人がイギリス統治に価値をあたえていることに、私は少なからず驚いた。ダージリンでは19世紀にイギリス人のためのパブリック・スクールとして始まった名門校、聖ヨセフ学校のカレッジ部門に訪れた。そこではイギリスの残した「遺産」についてディスカッションの場を持ったのだが、教師も学生もイギリスの残した様々な制度、とりわけ現在のインド人IT技術者の世界的な活躍を可能にした英語という言語の導入を好意的に捉えていた。

 どちらのケースも筋は通っている。イギリスの建てた建築物をすべて壊すのはもはや困難であろうし、様々な合理的制度や英語の導入がインドを近代化したことも確かではあるだろう。しかしながら被支配者感情とでもいうものは彼らには存在しないのだろうか。「憎き植民地支配」の過去を思い出させる建物を壊したくはならないのだろうか。あるいはこのような両者の考えの違いに、なんらかの原因があるのだろうか。




U.考え方の相違の原因はなにか

U−1.はじめに

 さて、この段階で本文には2つの論点の存在を示すことができる。ひとつは旧支配国、すなわちイギリスと日本の、人々の戦争や支配に対する考え方の違い。もうひとつは被支配国、すなわちインドと南北朝鮮の、過去の支配に対する考え方の違い、である。従って以下ではまず前者のような違いはどうして起こるのか、そして後者はどうして起こるのかを順に解明していきたい。



U−2.イギリスと日本の、戦争や支配に対する考え方の違い

まずイギリスと日本、つまり旧支配国同士の考え方の違いについて述べたい。

この原因としてあげられる大きなもののひとつは、現在の両国における、戦争や支配に対する態度の違いであろう。敗戦後戦争を放棄した日本にとって、戦争は絶対的な悪、少なくとも肯定することを許されない手段となった。従って、侵略と支配は忌むべきもの以外の何ものでもないということを教育によって教えることは、ひとつの重要な課題であったと思われる。そこで日本の戦争と侵略の歴史は被害者の悲惨さと表裏一体で語られた。私が朝鮮半島や中国の人の中に日本の支配を好意的に捉えている人がいることを聞いたことはないのも、実際いるかどうかは別として、そのように私には伝えられていたのである。よって日本人は植民地支配が実際何を被支配国に与えたかを考えるより前に、まず前提として「支配は悪」「被支配者はみな過去の支配を憎んでいる」という思考にいたるのだと思われる。少なくとも私の場合はそのようであった。イギリスによるインド支配も、「イギリスは侵略によってインド人を支配下におき、搾取の対象とした」と教えられ、またそうであると信じてきたのである。

一方イギリスは日本と比べて戦争や支配に対して否定的な立場にいるわけではない。それは世界中のほとんどの国家と同様イギリスは軍隊を持っており、いざとなれば戦争をしなければならないという態度を取っているから、戦争を絶対悪と考えることはできないことにひとつの原因があるだろう。また植民地支配の理念はキリスト教倫理やノブレス・オブリージの精神 など現在でもイギリスに根強く残る思想が背景となっていたことも大きな要因と考えられる。つまりイギリス人の中には、多かれ少なかれかつてのインド支配を正当な使命であったという考えがあってなんら不思議ではないのである。

そのような考え方は、教育や統治への使命感という考え方から転じて、非キリスト教徒への蔑視という形でも現れている。そのよい例として、第2次世界大戦期のイギリスの首相チャーチルは、以下のような考えをもっていた 。すなわち、インドは原始的な宗教と古くさい身分制度を持つ劣等民族の国であり、自治領の地位を与えるに値せず、人口のほとんどがその日暮らしに追われる愚民であり、西洋文明の恩恵に浴しているものはわずかである。従って彼らの平和と幸福は白人の統治によってもたらされるものであり、もしそれがなくなったらインド人はみな計り知れない不幸に見舞われるだろう、というものだ。これは20世紀初頭に、当時盛んになってきていた「インドに自治領の地位を与えるべきだ」という意見に反対したものだ。

 他にも原因はあるかもしれないが、およそ両国の戦争教育と植民地支配に対する思想や考え方にその原因を求めることができるだろう。

 ではもう一方の論点、すなわち旧被支配国感情の違いはどこにその原因がもとめられるだろうか。以下の節ではそれについて考察していく。



U−3.イギリスのインド政策

U−3−@.はじめに

 ここではまず、イギリスのインド政策について簡単に説明し、考察してみたい。すなわち上で述べたような、インド人に存在するイギリスへの好意の原因が、まず政策そのものにあったのかどうかを確かめる、という試みである。

U−3−A.イギリスのためのインド

 「インドとイギリス」において前述のイギリス人教師は、イギリスはインドに「進んだ文明をもたらし、良い統治を持ち込んだ」と述べている。さらに港や鉄道、道路、近代的な工業技術を与え、英語を導入し、政治的統一をもたらし、法による統治と代議制を教えた、とも述べている。これはイギリス人のノブレス・オブリージの精神に基づいている。従ってイギリス人たちはその使命を果たしたことになり、これは名誉である。

しかしながら、当のインド人達にとって、これは望んでいたことではない。それはインド人たちに十分な恩恵を与えていないばかりか、大きな弊害をももたらしたのである。それを今から説明していきたい 。

 まず当時のイギリスとインドの関係を語る上で、産業革命に入りたてのイギリス綿業の存在はかかせないであろう。というのはイギリスの産業革命は当初綿業に始まったからである。16世紀頃からヨーロッパとインドとの貿易が始まって以来、インドのキャリコという綿製品がヨーロッパで愛用され始め、イギリスの国民的産業であった毛織物産業や綿産業は大きな打撃を受けた。その結果イギリス人の綿業技術者などはかれらから保護貿易政策の要求を強く議会、政府に要求し、ついに1700年、議会に捺染ものの輸入禁止法を認めさせたのである。その一方でイギリスは産業革命を達成し、やがて機械制大工業によってインド製品に劣らないものを安く大量に作ることができるようになり、19世紀初め、ついにイギリス綿業は政府の保護のもとインド綿業を追い越すのである。さらに19世紀中頃には、インド市場にイギリス綿製品の3割が輸出されるほどになった。このような急激な逆転は、当然インド綿業に携わる人々の失業と飢餓という悲惨な結末を導くわけだが、事態はこれにとどまらない。中国へ進出を図ったイギリス綿業はそれに失敗し、その犠牲はインドへのしかかった。さらにインドが関税を5%から10%に引き上げようとしたときには、それを「自由貿易の原則に反しインド綿業に保護を与える政策である」として猛反対したばかりでなく、1882年には関税を撤廃させ、機械性大工業として復活しようとしていたインド綿業を徹底的に叩いたのである。

 こうして新たにイギリスの国民的産業になった綿業のために、原料輸入地かつ製品販売地としてインドに鉄道がもたらされたのは、19世紀半ばであり、これは他のヨーロッパ諸国とさほどかわらない 。アジアではもちろん最初の鉄道建設事業である。それほどインドのインフラ整備は急務だったのだ。それは政治的、軍事的要請はもちろんだが、綿業資本家などの強い要請も背後にはあった。つまるところこれは「イギリスのため」の鉄道敷設だったのである。しかしながら、そのつけはインドにまわされることとなる。

当初鉄道の建設を請け負う会社は国によって元利保証がなされていた。鉄道には莫大な資金が必要だからである。そのため資金はよく集まったが、会社はそれを頼みに広軌で鉄道敷設を行った。だが、やがて利息が払いきれなくなり、インド政庁は財政危機に陥った。このため、軌の幅が途中で変わることで損害を受けることになる綿業資本の大反対も押し切って、今度は政庁直営会社によって標準軌の建設を行うこととなった。おまけに地方の藩王たちが勝手に狭軌で鉄道を建設したことで事態は収拾がつかなくなり、もはやインド国内には様々な広さの線路が複雑に絡み合うこととなったのだ。しかもさらに問題なのは、そのような杜撰な鉄道敷設を行った会社の利息分が、インドから本国費としてイギリスに支払われていたことである。この根拠は、イギリスがインドのために鉄道を敷設してあげたから、というものであった。

インドの工業化過程においても、イギリスは大きな役割を担っている。イギリスは諸外国よりも低い関税率でインドに鉄鋼製品の輸出を行い、このため当時機械化が徐々に進み始め鉄鋼製品の需要も増えてきていたインドではイギリス製品の輸入が急増した。これが結果的にインド国内の鉄鋼業の発展を阻害したことはいうまでもない。が、それよりもインドの工場はイギリスの高価な機械を使用しなければならなくなり、国際競争に不利な条件を背負うことにもなったことで、これを克服するために多くの工場が労働力に低賃金と苛酷な労働環境を強いることになった。これが結果としてインドの労働者の所得拡大を阻害した。これも綿業の例と同様、インドの国民資本の芽をイギリスが摘んでしまった例と言えるだろう。

さらにイギリスからインドの開発を助けるため借款がなされていたのだが、これはイギリス製品をこれだけ買いなさい、という条件を伴うもので、言ってみればイギリスの産業のために存在する借款であった。

すなわち様々なインフラ整備、工業化は、イギリスがイギリスのために、しかしインドのお金で行ったものである、ということになる。

他にイギリスの功績といわれているものについてもそれを功績とするには疑問の残ることが多い。インドの統一については、それはただ単に現在のインドの国土をおおまかに規定するもととなったというのみで、言語がいまだに地方によって様々であることを考えると、そのようなインドの統一が果たして意味があったのかという点についてこれは疑わしいのではないかと思われる。

法の整備について、これはたしかにインドにとっては利益をもたらしたといえるかもしれない。これによってインドは西洋の合理主義的な統治手法を学んだ。しかしながら、これをインドにはできなかったこと、イギリスがインドにしてあげたこと、と捉えるのは間違いであろう。現に日本は明治時代に使節団を派遣したり、外国人を雇うことで自らイニシアティブをとって近代的な法システムを確立している。イギリスがわざわざインドを植民地化してまで行うことであったとは考えられない。

以上のように、イギリスは本当にインドのためを思って自らを犠牲にインドを開発したのではない。それはあくまでイギリスの利己心のためであり、その弊害がインドの上にのしかかったのだ。イギリスも他の帝国主義国家のケースにもれず、安定した原料供給と製品販売のために植民地を多く所有し、大英帝国全体にまたがる大きなひとつの経済圏を形成していたのである。私はこれを非難するというわけではない。イギリスが自らの国益を第一に考えることはごく当然のことである。ただここで言いたいのは、イギリスによるインド政策がとりわけ他の列強のそれと比べて優れており、被支配国の国民に利益を与えたというわけではなく、インド人の一部がイギリス支配に好意的であることの原因はここにはもとめられない、ということである。



U−4.統治方法の比較

U−4−@.はじめに

イギリスと日本ではその植民地統治システムはいくつかの点で大きく異なっている。そのうちとりわけ大きなものである間接統治と同化政策の違いについて考察してみたい。当時インドなどアジア諸国においてイギリスは間接統治を行っており、日本は朝鮮半島において同化政策をとっていた。このような統治方法の違いが今の時代にどう影響しているのかを考えてみたい。

U−4−A.間接統治と同化政策

 まずイギリスの間接統治について考える。イギリスはその大英帝国と呼ばれた時代に世界中に植民地を持ち、その最大のもののひとつがインドであった。イギリスはそこを間接統治という形で植民地支配を行った。

 間接統治とは、もともと被支配国内に存在した支配階級にある程度の権限を与えることで、被支配階級を支配させつづけることによって支配を安定させるというシステムのことである。これによって以前の被支配階級は反抗しようという意識をもたず、支配階級は依然として特権を受けつづけられる。しかもイギリス自体は支配階級と被支配階級の対立を深めるような政策をとることで、イギリスに対するインド人たちの不満を回避し、さらには漁夫の利を得てさらに影響力を拡大することができる、という利点もあった。たとえばイギリスは各地の地主小作関係を破壊してその土地を吸い上げるようなことはせず、ザミンダールという徴税請負人階級もその権力を奪うどころかかえって彼らを優遇した。一方でヒンドゥー教徒とイスラム教徒については徹底的にその対立をあおり、政府の高官はイギリス人によって独占した。つまり、イギリス人→ヒンドゥー教徒や地主階級→イスラム教徒や一般市民、という重層的な階層関係をつくることによって、イギリス人は少数かつ彼らに好意的なインド人のみからしか見えない立場にいられるのである。ここにおいて当時の階層同士の対立構図はイギリス人対インド人ではなく、上層のインド人対下層のインド人であったといえる。

このようなシステムが生まれたことには-原因がある。それは、インドの過酷な気候と本国からの遠い距離のためだ。私達はインドでいくつかのイギリス国教会の教会を訪れたのだが、そこに飾ってある碑は40代そこそこで亡くなったイギリス人のものが多くあった。まったく文化環境、気候環境の違うインドを支配することは非常に困難だったのである。このためイギリス人はダージリンやシムラにヒル・ステーションを建設し、また大都市を中心に公園や池、クラブをつくって、なんとかインドの中にイギリスを造ろうとしたのだが、人があまりに多いとそのコストは甚大である。そこで間接統治を用いることで、イギリス人は必要最小規模の人間によって最大限の統治能力を発揮させることに成功したのである。

 一方で日本のケースは、これとは大きく異なる。前述の通り日本の朝鮮半島に対する支配は同化政策のもとに行われた。この根拠になったのは日鮮同祖論というもので、日本人と朝鮮半島の人々はもともと同じ祖先であり、同じ民族であるとするものだ。つまり民族統一国家をつくるべく朝鮮半島を日本の領土とし、そこに住む人々を日本人として扱う、ということになった。この論をもとに1910年日韓併合の後、朝鮮半島の人々に日本語を強制し、日本名を与え日本語で教育を行った。また従軍慰安婦として戦争に同行させられた人々も多くおり、その補償などの問題は今でも残っている。このような支配方法は日本ではもう一例存在する。それは沖縄である。もともとここは琉球王国として江戸時代に島津家の支配が始まるまでは独立した国家であった。現在では沖縄は日本の一部であるということに疑問をいだく人はほとんどいないだろうが、これは当時日本が日琉同祖論という考え方に基づいて沖縄に対して同化政策を行った結果なのである。

 つまり対立の構造は日本人対朝鮮半島の人々である。

 このようにインドと朝鮮半島における階層間の対立構造は異なっており、特にインドのケースでは対立構造の中にイギリス人が含まれていない、つまり支配者不在の対立構造であったことには留意しなければならないだろう。これはどのような意味を持つのだろうか。

U−4−B.「被支配者層」という言葉のさすもの

このこと、つまり統治方法の違いは、インドと南北朝鮮の人々の被支配者感情として私が考えていたものは実はなんだったのか、そしてそこになぜ違いが生じたのか、ということをうまく説明してくれる。

考えてみれば、イギリスに好意を持つインド人とは、実は教育によって西洋の合理主義的精神を教えられてきた、言ってみればインドでは上層に位置する人たちである。そのような人々が、自分たちに特権与えてくれ、進んで階層の再生産を行ってくれるイギリスにある種の感謝を憶え、しかも合理的な考えと統治システムをもったイギリスにあこがれを憶えることは、当然ありうることである。つまり私の意識していた「イギリスに好意を持つインド人」とは、イギリスがその間接統治を達成するために便宜的に特権を与えていた、上層のインド人たちだったのである。下層のインド人に対しては、わたしはこれについてよく真実を導くことはできない。もちろんそのような人々と私とは言語的な問題から会話することはできないから、という理由はある。しかしもっと重要なことはおそらく、インド人の下層の人々は実際のところ本当に答えを持たないであろう、ということである。低い教育水準のために英語が話せないし農業や既存の産業に就くことがほとんどである一方で、間接統治制度のおかげでイギリス人の存在を感じることがほとんどなかった下層のインド人は、イギリス植民地支配の恩恵や損失を、直接イギリス支配の影響として結びつけることはほとんど無理だったであろうからだ。しかしながら、イギリスが特権を与えたインド上層の人々によって搾取されるのはこのようなインド人の下層の人々である。とすれば本来ならばインド下層の人々こそが被支配者層のうちでもっとも搾取されているはずの階層であろう。しかしながら彼らの考えは見えてこない。これが前述した「支配者不在の対立構造」の真実である。

一方で朝鮮半島の人々は前述のとおり、だれかれを問わず日本政府によって日本語教育を義務化された。これが言語統制として朝鮮半島の人々のほぼすべてから反感を買ったであろうことは間違いない。つまり被支配者層とは朝鮮半島に住むほとんどの人々であり、その人々が全体として日本に反感を持つのは当然のことである。

つまり結局、「1.はじめに」で紹介したような被支配者の考え方の違いとは、統治方法の違いが大きな原因となっている、ということである。 しかしまだもうひとつ、重要な要素がある。そしてその点で、イギリスの植民地は極めて特徴的である。それが今日のグローバル言語、英語の導入である。



U−5.英語の導入について

U−5−@.はじめに

 「3.」に加えて、インドが他でもないイギリスの植民地であったということは、上層のインド人のイギリスへの好意をさらに促進している。それが、英語の存在である。もともと他の政策同様これはイギリスのために行われたのだが、今日ではもっと異なった意味を持ってきている。ちなみにここで注意すべきは、これはあくまで、上層のインド人のイギリス人に対する好意である、ということである。前述のとおり、下層の人々の多くは十分な教育を受けていないため英語があまり話せない。また間接統治制度によってイギリス人と会話をする必要があまりなかったことも原因と言える。

U−5−A.英語の特殊性

 英語の導入という政策が持つその独特さは、旧フランス植民地であったベトナムのフランス語、南アフリカにオランダの持ち込んだアフリカーズのケースを見ればよくわかる。あるいは朝鮮半島における日本語のケースでもよいだろう。

 つまり今日の段階で旧支配国言語が残っている、または政府が積極的に残しているのは英語のケースくらいなのである。アフリカでは一部、フランス語が公用語としていまだに話されている国も存在するが、そのような国の数も英語を話す国に比べればずっと少ない。南アフリカではオランダ支配がなされている頃に、オランダ語に近いアフリカーズと英語が植民地言語として導入された。しかしながらアフリカーズはアパルトヘイトの象徴として徹底的に住民に嫌われたにも関わらず、英語については1994年にアパルトヘイト政策が終了した以降、現在でも南アフリカに広く普及しているのだ。韓国や北朝鮮においても、日本や日本企業で働こうと思っている人は日本語を学ぼうとするが、そうでない人についてはあまり日本語を知らないだろう。しかし英語については、ひととおり公教育で学習することになっている。旧イギリス植民地のほとんどの国では当時からずっと英語は残っており、しかも積極的に学ばれている。

 その理由は言うまでもなく、英語が今日においてはグローバル言語としてその地位を確立していることである。経済圏がグローバルに拡大している今日、そこで使われる言語、すなわち英語を知らない人間は競争についていけない。したがってたとえどんな言葉が母語であったとしても、その国は積極的にグローバル言語を習得させようと試みる。日本でも近年英語教育が盛んになってきている現状がある。とりわけ途上国は労働者が海外で働くとか他国に存在する企業と意思疎通を図るには英語の習得が不可欠であることから、英語教育に対する需要が非常に高い。

しかしながら、もしもそのように需要の高まっている英語が、すでに公用語として導入されていたとしたらどうであろう。しかもそれが植民地時代の支配国であるイギリスが導入したものだったとなれば、人々、とりわけインドの上層の人々は結局イギリスへの感謝の気持ちをいだくだろう。下層のインド人たちも、英語教育が受けられない人はそもそも英語と離れた生活をしているわけだからこの議論については関係ないが、受けられる人については海外や外資系企業での労働の可能性が現れてくるし、国家としても外資系企業の誘致がしやすくなるわけだから、喜びこそすれ嫌悪することはないだろう。ダージリンで訪れた聖ヨセフ学園でも、そこの学生、教師の考えているイギリス植民地時代の一番の遺産とは英語であり、それによってインド人は現在世界中で活躍できる、と述べていた。おそらくこの英語こそが、今現在までインド人の一部にイギリス支配への高い評価を与えさせている最大の要因であることは間違いないであろう。

しかしながら、ここにまったく問題がないわけではない。それについては「W.イギリス植民地時代の「遺産」」でふれたい。

 結局「U.考え方の相違の原因はなにか」においては次のように言える。イギリス人が間接統治に用いた間接統治制度はインドの上層の人々を喜ばせ、下層の人々から支配者であるイギリス人を見えなくすることに成功した。英語の導入は今日においてそれを促進している。こうしておいてイギリスの行った政策そのものは決してインドにとって幸福なものではなかったのだが、統治システムがそれを見事に隠したのである、ということだ。




V.インドはなぜ発展できないのか

V−1.はじめに

 ダージリンで訪問した聖ヨセフ学園において、学生から次のような質問が出た。その主旨は、「どうして英語のできない日本が経済発展に成功して、インドにはできないのか」ということだった。これはインド人が英語ができることを、誇りに感じていることを端的にあらわしていておもしろい発言だったと思うが、同時にたくみな支配システムによってインドに対するイギリスの搾取が隠されていたことも示しているように思える。

 インドがなぜ経済発展できないのか、については実際のところさまざまな原因があるだろうが、その主要なもののひとつはやはりまぎれもなく、イギリスによって植民地支配を受けたことである。それは前章までで十分説明してきた。もっとも、植民地支配を受けなかったら発展できたか、というとそうでもない。だが少なくとも、自国の経済に対してイニシアティブを持っていること、これが経済発展のためには重要であったと思われる。



V−2.日本とタイのケース

 ここでは日本とタイを例にあげたい 。どちらも植民地になった歴史を持たないが、経済に対するイニシアティブについては両国で違いがあり、経済発展の過程も異なっている。

 日本は19世紀に開国して以来、外国人の顧問を雇ったりヨーロッパに留学生を派遣したりして近代化に努めた。日本は基本的政策としては「富国強兵」の言葉にも表されるように、自国の産業を育てて経済発展を行うことであった。政府の役人は基本的に日本人を用いており、外国人顧問もいるにはいたが、技術や知識を教えてもらったらそれで外国人顧問の役目を終わりとする「お雇い外国人」の制度を用いており、もっとも多かった1875年の527人から1895年には79人にまで減少した。また当時関税自主権は持っていなかったものの、生産者補助金制度などによって国内産業の保護育成に成功している。

 タイは日本とほぼ同じ時期に開国したが、英仏の緩衝地帯であるという地理的状況や国王の古典派的思想から、自由主義的政策がとられた。財政収入安定による健全財政の確立を目指しており、日本のように積極的な経済発展を望まなかった。タイには当時から多くの華僑がおり、役人や資本家になっていた。そのように当時から外国人主導で国を運営していたことも原因であろうが、開国後にはイギリス人顧問を筆頭に列強から200人以上の外国人を恒久的な顧問として雇っていた。そしてその外国人顧問の半分を占めるイギリス人が財政、金融担当になっていたことは、タイのその後の経済政策、つまり経済発展よりも健全な安定財政と国際的なバーツ価値の安定を重視する政策に大きく影響を与えたと思われる。しかし自国の経済政策を外国に任せたことは、結局自国のための経済政策を必ずしも行えない、ということである。現にタイのケースではそれぞれの外国人は国ごとに決まった担当に就く傾向を見せ始め、それぞれの顧問の主張が必ずしもそろわなかったことも多かった。結局タイの輸入代替工業化とそれに伴う経済発展は、1926年の関税自主権の回復を待つことになる。



V−3.インドのケース

 さて、インドのケースは経済発展に対するイニシアティブはさらに小さい。それはもちろん、インドがイギリスの植民地であり、そのイギリスがインドに行うのはあくまでイギリスのための経済政策だったからである。結局自国の経済に対してどれだけイニシアティブを持っていたのかが、少なくともこの3国の例では、重要な役割を果たしたことになる。

 しかしタイとインドのケースはやはり大きく異なっていると言わざるを得ない。タイは外国人の力は大きかったにせよ、あくまで「タイのための」経済政策であった。外国人たちがタイはどのような経済圏に属するべきかについてはそれぞれの考えがあっただろうが、そのおかげでタイはどこかひとつの国に左右されることはなかった。ところがインドはイギリス人によって「イギリスのために」経済政策が行われ、完全にイギリスを頂点とした経済圏に取り込まれることになったのである。そしてその弊害は今でもインドに跡を残している。次の章ではそこに話を移そうと思う。




W.イギリス植民地時代の「遺産」

W−1.はじめに

今まで「1.」で紹介した疑問について考察しつつ、インドにイギリス植民地支配が与えた影響について述べてきたわけだが、この章ではそれがどういう形で現在まで残っているのか、について述べることで結論としたい。



W−2.今日のインドの状況とイギリスの植民地支配

 まず杜撰な鉄道計画は確実に現在でもインドに弊害をもたらしている。本来鉄道は距離という空間の属性を絶滅することにより、国内における財市場の一物一価の法則を達成し、労働力の移動を可能にするものである。特にインドは広大な土地をもっているわけだから、そのような特性をもつ鉄道に対する潜在的な需要は大きいだろう。しかしながら、幅の違う線路がインド中に複雑に絡み合っていることは、逆に紛れもなくそれを妨害しており、従って国内市場は、イギリスの持ち込んだ鉄道によって分断されていると言える。

 また当時のイギリスの産業政策は、成長期には自国イギリスの産業を保護して育成する一方でそれが達成されると今度は自由主義に転換する形で行われ、インドが自らの産業を保護育成することは阻まれた。そのため工場の設備などを自国で生産すると非常にコストがかかるため、海外、とりわけ関税を低く設定されていたイギリスの設備を買うようになった。その結果、イギリスから購入した高価な機械設備のために製品の原価が上昇してしまう分を相殺するように、インドの産業は低賃金など苛酷な労働環境によってなんとかやっていくことを余儀なくされた。独立後もそれは尾を引き、もはや当初目指された自給自足の経済発展は不可能となってしまったのである。

今日インドには数億の貧困層が農村やスラムに存在しており、人口の6割は農業に従事 している。さらに教育を受けるのはインド人の半分程度である。すなわち、人口の大部分は国内において十分な需要を生み出すことができない。とすれば製品は外貨獲得欲求とも重なり、良質なものは海外へ輸出されることとなる。現に企業や工場によっては製品の半分、あるいはすべてを輸出向けに生産しているところもある。

今日の市場の不統一、国内産業の未発達と貧困は、当時のイギリスの植民地政策に大きな原因のひとつを見出すことができるであろう。それは杜撰な鉄道計画や低関税政策、間接統治など、すべてイギリスのためにおこなわれた政策の遺産である。



W−3.インドの未来と英語

 最後に、英語の導入について考察してみたい。これは他のイギリスの政策とは厳密に区別されるべきである。なぜなら他の政策と異なり、インドはこれによって大きな恩恵を受けていることも事実だからである。たとえば今日のIT産業におけるインド人の活躍は目を見張るものがあるが、もし彼らがほとんど英語を話せなかったら、今ほどグローバルに活躍することはできなかったであろうし、他国から企業が入ってくることも難しかったであろう。外資主導工業化過程の必須事項である先進国企業の国内誘致が、こと言語環境に関しては行われやすい環境にあるといえる。インド人が英語を話せることはインドにとってよい影響を多くもたらしてくれている。

 しかしながら、実はこれとても手放しで喜べることではない。なぜ英語がグローバル言語になっているのだろうかを考えてみると、ここには実は、植民地主義の皮肉とも言うべき構造が存在していることがわかる。

英語経済圏が他の言語の経済圏と比べて極端に大きかったこと、またイギリスとアメリカが世界経済の中で極めて大きな存在であったことが、現在英語がグローバル言語である原因といえるだろう。しかしイギリスはインドなどの植民地から大きな富を得て、それを用いてさらに植民地を拡大し、そして世界経済の中で大きな地位を築いてきたことを考えると、英語がグローバル言語になることができた背景にはインドなどのイギリス植民地からの搾取が存在していることがわかるのだ。

 さらに現在においても大きな問題がある。そもそも英語が話せるのはすべてのインド人ではない。インド人の中でもきちんとした教育を受けたものが英語を話せるのであり、人口の半分程度もいる非教育層は話すことができない。言ってみれば英語の話せるインド人はグローバルな経済圏に存在しており、話せないインド人はインド一国の経済圏内に存在していることになる。とすれば前者はより高い賃金とよりよい職場環境を求めてあるものは海外に職を求め、あるものはインド都市部の外資系企業に就職するかもしれない。しかしながら後者はインド国内でしか働くことができない。しかも教育を受けていないため非熟練労働者として扱われ、低賃金とあまりよくない労働環境の中で働くことを余儀なくされる。こうして労働者の階層分化がおこり、上層の労働者が海外に出て行くほど、国内には下層の労働者が比較的多く残ることになる。これによってますますインドの国内需要は落ち、産業は海外輸出を向いて、結局インドは貧困から、少なくとも当分の間は抜け出せない。これこそ英語の導入がもたらしたインドの現状と言えるのではないだろうか。英語の導入はインド人ひとりひとりについては恩恵を与えるが、そのような人々が外国に流出する可能性が否定できないとき、国家全体では損をしているのだと言えるだろう。




X.最後に

 今まで見た通り、つまるところITの分野における一部のインド人の活躍と、その裏で構造的貧困に見舞われる数億のインド人は、イギリス植民地支配の遺産の、その最たるものであると言える。