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水岡 不二雄 |
「学会」は、専攻する学問分野を共通にする研究者が集まって構成される、ひとつの社会組織です。この集団は、規約・その会員が研究成果を発表する雑誌・意思決定機関・この機関のメンバーを選出する手順・他の社会形態との関係などをもち、学問にとってひとつの社会的インフラストラクチュアを構成します。 いったん学会が組織されると、この学会に所属する研究者が行う研究プラクティスという実体は、多かれ少なかれ、社会形態に多かれ少なかれ特有の固着性をもつ制度に支えられて再生産され、維持されるようになります。しかし時として、この制度が逆に、学問の実体を緊縛することも起こり得ます。学会という制度と学問の実体とは、密接に関連しながら、同時に互いの緊張関係をもちうるのです。この、実体と制度との間の弁証法を吟味し、それを現代に投射して研究者としてのプラクティスを営み続けることが、地理思想史研究者としての初歩的要件であることは、いまさら申すまでもありません。 地理思想史研究には、バッティマーがはじめた、地理学研究の中心をになってきた人々へのインタヴューによってその「語り」を記録する、という研究手続きがあり、日本でもいくつかの例がみられます。その背景にあるのは、学問研究における思想やパラダイムの転換が、こうした中心的な諸個人が担う主体的な行為と経験の集合として成り立っている、という考え方です。だが、本当にパラダイム転換を可能にし、あるいは逆に阻んでいるのは、しばしばこうしたインタヴューの対象とならない人々や、インタヴューではおそらく語られない経験であるかもしれません。 わたしは、地理思想史をテーマとするこの雑誌で、これまでずっと心の中にしまっておいたひとつの経験から書こうと思います。その経験は、「経済地理学会」という日本の地理学の学会に四半世紀ばかりかかわり、これを中心とする社会的な場でいろいろな人々と行き会ったところから生じたものです。1987 年から私が勤務している大学の個人研究室の隣には、この学会のささやかな事務局が設けられています。このことについての語りを通じ、「経済地理学会」という学会の学問プラクティスの実体とその社会形態との関係、そして経済地理学会という「制度」が今後むかう方向とわが国の地理学の今日的な思想情況全体について、考えてみようと思うのです。
今から20年前、わたしが大学院修士課程の院生だったころ、西ドイツのシェラー教授のもとに1年間留学しながら、修士論文口頭試問のため一時帰国したことがありました。 ふとした用事で、わたしが御茶ノ水の明治大学にそのころあった経済地理学会の事務局を訪れたおり、そこに
四ッ谷駅で落ち合ったその人は、私を新宿東口のあるパブに連れて行きました。 薄暗いパブの光の中でしばらく雑談が続いた後、その人は、静かに、わたしにむかって切り出しました。
……。 そのころ、『戦後日本資本主義の地域構造』(1975)という本が日本のマルクス経済地理学界でもちきりでした。この本の、今の若い人はたぶん名も聞かない発行元は、当時、日本共産党系の執筆者が多く本を出す出版社のひとつとして、かなり有名でした。<その人>は、この本の冒頭に理論編とでもいうべき部分を執筆し、30歳代の若さで<マルクス経済地理学の体系化をなしとげたホープ>と注目されていたのです。
日本には、戦前から連綿とした、オルタナティヴな地理学の伝統がありました。これを担ってきたのは、主として、1954年に組織された経済地理学会、ならびにその前身となった団体に集まって研究をしてきた人々でした。わが国において戦後のオルタナティヴな地理学の歴史を形作った主な初期の論文は、多く『経済地理学年報』に掲載されています。1960年代にはいると、鴨澤巖氏の『経済地理学ノート』が一世を風靡するようになり、1960年代末になって、上野登氏の『経済地理学の道標』と『地誌学の原点』がこれを引き継ぐ、という状況になっていました。合衆国のラディカル地理学雑誌『Antipode』の創刊号刊行が1969年、Harveyの『Social Justice and the City』は、原書刊行が1973年でしたから、このころはまだ、英語圏のマルクス主義地理学(地理学のpolitical economyに基づくアプローチ)は、姿も形もなかったのです。日本の研究業績が「世界におけるマルクス経済地理学の最高水準に達して」いる、という青木外志夫氏の自負(1961、p.6)も、当時はあながち誇張や己惚れではなかったでしょう。
<その人>は、もともと石炭産業の研究で博士論文をまとめ、新日本出版社発行の『経済』に筆名で登場し、日本共産党の政策に沿って「対米従属下の急成長」・「『地域開発』『都市化』の美名の下……独占資本による国内資源の収奪・濫用」を批判し、「自民党政府の資源政策の失敗」を糾弾していました(秋葉、1974、pp.47-48,61)。こうした人が、鴨澤氏や上野氏はじめ、従来の説を「経済地誌学派」となで斬りにして提起した<オルタナティヴ地理学の体系>は、その理論の中身もさることながら、ひとつの「政治的権威」の裏付けをともなったのです。
鴨澤氏や上野氏と違い、<その人>は、組織者でもありました。自身が事実上の中心となって、「地域構造研究会」と呼ばれる研究会を組織し、そこに、当時マルクス経済地理学に多かれ少なかれ関心を持った若い地理学者のほとんどを結集しました。その背景には、この「政治的権威」を見逃すことができません。
とはいえ、「地域構造論」は、こうした狭い政党サークルのなかだけでとどまったのではありません。いわゆる「伝統的地理学」の流れに属する人々をも巻き込んでいったのです。「地域構造研究会」の世話人代表をつとめた北村嘉行氏の専攻からして、比較的伝統的地理学に近い工業地理学でしたし、他に伝統的な都市地理学者も含まれていました。そこには、こうした「学界運動」をつうじて、伝統的地理学者をも「マルクス主義地理学の前衛」のなかに、さらにはその中核となる政治的潮流に巻き込んでゆきたい、という意図があったのかもしれません。しかし、学問プラクティスの実体を透徹して問わないまま、とにかくできるだけ多数を「仲間内」に集めようとしたことは、逆にこの研究会が、マルクス主義地理学本来の理論化という過大から遠ざからざるを得ない傾向をも意味していました。もっとも、社会科学としての地理学における理論的厳密さの探求より人的な勢力拡大に第一義的な目的があったならば、むしろこちらの方が「正攻法」だったでしょう。
そこには、かつてのソ連におけるレーニン型の「前衛党」(=共産党)組織論の影が認められます。このことについて、少し説明が必要でしょう。
「前衛党」と自らを規定する共産党が関わる、賃上げ・公害阻止などある特定の目標を持つ「大衆団体」(「大衆」と呼ばれる非党員も含み、労働組合や住民運動団体、科学者運動のような組織)の被選出機関内部には、通例、前衛党と大衆運動とを結びつけ、運動を革命の方向に導いていく「党フラクション(グループ)」が、秘密裏に組織されます。
労働組合を例にとってみましょう。組合は、賃上げ・労働条件改善といった、組合員全体の利益に関わる諸要求実現を目指して闘います。組合運動の共通点はあくまでこの大衆的利益の実現です。組合員それぞれの思想・信条はさまざまで、その執行委員は規約に定められた方式に従って、組合員から選出されます。しかしだからといって、執行委員の構成やその活動方針が、組合員全体の多様な思想・信条を反映するわけではありません。執行委員会(被選出機関)のなかにいる共産党員は、一般の組合員の全く知らないところで秘密の「党グループ」を組織し、そこで組合の方針について討議・決定して、多様な思想・信条を持った組合員を革命の方向に導く「伝導ベルト」を構築するのです(大森、1973)。この二重組織の構造を基盤とし、執行委員会が党員の比較多数で占められる限り、多様性をもった非党員の意見は、結局、多数決の論理で葬り去られます。執行委員会で過半数を占められない場合、非党員ではあるが党の方針を支持している人(機関紙読者などの支持者)を取り込んで過半数とし、党の方針を通すことが画策されます。
他の勢力と拮抗していたらどうでしょうか。最悪の場合には、大衆団体自体が分裂することもあります。その最も悲惨な例が、世界で唯一、原爆を実戦で投下された経験を持つ国・日本の原水爆禁止運動でしょう。大衆団体の組織自体を、より少数の「執行部」を党員やその支持者が牛耳りやすいよう改変してしまうことも、時として試みられる方策です。凡打者集団が、空振り3回でアウトになると困るので、「伝導ベルト」を構築するため、自分が勝てるようゲームのルール自体を改変してしまおう、というわけです。
党員にとって、党は自己の行動を規律する最上位の意思決定機関です。そこで決められた方針を無視し、より下位の機関である「大衆団体」の意思に従うことは、許されません。自覚的な指導ができるのは、前衛党中央委員会と、「民主集中制」の原則のもとにこの指導に従う一般党員だけです。なぜでしょうか。それは、前衛党指導部だけが、「科学的社会主義」で理論武装し、マルクス・レーニン主義という「無謬の真理」を体現しているとされるからです。対する「大衆団体」の非党員はより無知であり蒙昧であって、「科学的社会主義の真理」によって啓蒙・指導されるべき存在ではあっても、対等・平等に議論する存在ではありません。真理を自覚した者が、それに未だ至ることのできない蒙昧な者を対等に扱い、そこから「学ぶ」ことは、それ自体、真理と科学に唾する行為です。ですから、大衆団体に属する非党員がどんなに党員と議論を試みてその理解を求めようとしても、徒労に終わります。あるいは、迷い多き下級党員が党中央の無謬な釈迦に対して同じ試みをしても、やはり徒労です。
この、20世紀初頭のロシアで正当性を持った組織論は、今でも、わが国の共産主義運動の中に立派に生きながらえています。信じられない方もおられるかもしれませんが、これは事実です(川上、1997)。そしてまたこの関係は、旧来の全ての社会主義国・社会主義政党で、いったん最高指導者の地位を占めた者がほとんど、死ぬまでその地位にとどまった事実に端的にに証明されています。スターリン、チャウシェスク、毛沢東、金日成などすべて一国の中で生涯、誰よりも無謬な真理を語ることができる最高指導者、「偉大なる領袖」でした。こうしたものによってしか維持できなかった「社会主義」が、グローバルな資本主義発展の前にどういう帰結を呈したか、歴史は、すでにわれわれの前に明瞭でしょう。
……。
1976年の春、わたしは浦和の某共済会館で開催された会議に招かれました。『戦後日本資本主義の地域構造』の合評会を開催する、という名目で招集されたこの会議で、わたしも報告者の一人にあてられていました。行ってみると、新刊書の合評会というのに、参加者はなぜか人目を忍んでいる風で、そのなかの一人は、
章ごとに報告者が出て「合評会」が終わった後、
そして最後に、その場にいた人々は、
英語圏に、これまで全くなかったマルクス主義地理学の潮流がしみこむのと時期を一つにして、がわが国の学界のなかには「地域構造論」がしみこんで行きました。しかしその過程には、英語圏のマルクス主義地理学と大きく違った情況がありました。
英語圏のマルクス主義・人文主義地理学が、シェーファーとハートショーンとの「例外主義」をめぐる議論を経て確立した斯学独自の理論化という流れに沿って発展してきたのとくらべ、わが国におけるそのカウンターパートは、地理学そのもののパラダイム転換とかかわりをもつことがなかったのです。1970年代後半に『戦後日本資本主義の地域構造』共著者だった一人、青野壽彦氏を中心に、『Radical Geography』(Peet ed., 1977)輪読会が組織されました。「地域構造論」のバイブルともいうべき書物の共著者の一人が、いちはやく英語圏のマルクス主義地理学に強い関心を示していたことは、特記しておいてよい事実です。しかし、この青野氏の努力は、他の「地域構造論」を説く人々に強い影響力を与えることなく終わりました。そしてその後、青野氏自身、「地域構造」の一線から退かれたように見えます。これ以降、英語圏のマルクス主義地理学から学ぶ努力は、ほとんどなされなくなりました。「経済地誌学派」批判は一見、「例外主義」批判と軌を一にしているかのように思われましたが、時がたつにつれ、「地域構造論」のほうは、ますます強く伝統的地理学の方向にコントライブされたものになっていったのです。これは、世話人代表の北村氏自身が『日本の地域構造』シリーズ第1巻(1988)で書いているところなどから証明されます。それゆえ、「地域構造論」が日本の学界に浸透するにあたって、英語圏のマルクス主義地理学が経験しなくてはならなかったような、激しい論争を通じたパラダイム転換の痛みをわが国の側が経験する必要は、ますますなくなりました。これが、「地域構造論」が派閥としてわが国の地理学界に食い込んで行くのに極めて具合のよい状況であったことは、いうまでもありません。むしろ、「仲間内」を集めようとする理論が先行し、「地域構造論」は、そうしたパラダイム転換の必要がない安穏な方向へと転換していった、といってもよいのかもしれません。
1973年にハーヴェイが『Social Justice and the City』でバンギが行っていた類のゲットー調査を「反革命的」と批判して(Harvey, 1973, pp.144-145、竹内・松本訳pp.190-191)マルクス主義地理学理論化の必要性を説き、のちに独自の研究の営みを通じて『The Limits to Capital』や『The Urbanization of Capital』等の書物によりこの課題を達成したハーヴェイを中心とする英語圏のオルタナティヴ主義地理学-そこにもピートの編集する『Antipode』のような、これを支える制度がありました。ネィール・スミスが主唱して昨年バンクーバーで開かれたIICCG(第1回批判的地理学国際会議)もまた、こうした制度のひとつでしょう。しかし、それは透明な組織を持つ開かれたフォーラムであり、「党フラクション」にホモロジカルな二重組織の構造はなく、そしてなにより、内容は、真摯なオルタナティヴな地理学の理論化への努力だったのです。
地理学におけるパラダイム転換を回避する姿勢と、それを支える前衛党にホモロジカルな組織構造。この二要素の奇妙な日本独特の接合から、いったい何がもたらされたのでしょうか。
まず、マルクス主義地理学理論の課題はすべて、『戦後日本資本主義の地域構造』の、とりわけ序章で「解決済み」であり、<偉大なる領袖>の高説を神棚に奉ればそれですむ、という傾向です。いったんある「無謬の指導者」に率いられた制度が成立すると、経済の実態がいかに貧困になろうとも、<領袖が偉大だからすべては偉大だ>という自明視がかきたてられる例は、すぐ近くの国にもあって、とりたてて珍しくありません。ここから、この高説に従って――言葉をかえれば、工業・都市地理学を中心とした既存のパラダイムで――「実証」を繰り返せば、自動的に新しい「マルクス主義地理学理論」を実践したかのような仮象が生じます。しかし、水内俊雄氏(1997, p. 30)も、九州大学で1996年に開かれた経済地理学会大会について「新しい方法論的パースペクティブを提示したとは見られない」と指摘しているように、その概念的な実体は、都市システム論から在来の工業地理学を論ずると伝統的なパラダイムから出ていないものなのです。
かくて、<マルクス主義地理学の理論化>という外面的形式のなかで、伝統的地理学のパラダイムという実体がより強固な制度的基盤を受け取るという、奇妙な物象化が生じます。戦前からの伝統をもったわが国のマルクス主義経済地理学は、そこからかけ離れたところで人々の目をくらましながら、オルタナティヴどころかむしろ例外主義的な伝統的地理学のプラクティスという実体を再生産しつづけるのです。いま、『経済地理学年報』の相当部分が「無味乾燥で無イデオロギー的な人文地理学の研究」によって占められるに至っているのは、この必然的な表明にほかなりません。
付け加えれば、英語圏のマルクス主義地理学は、前衛党主導の「正統的」マルクス主義理解から自由な、ネオマルクシズムの影響を強く受けています。日本の「マルクス経済地理学」は、このネオマルクシズムに反対する動きからも勢いを得たかもしれません。英語圏の新しい地理学理論の力など借りなくても、「自主独立」でやって行ける――こうした意識もまた、ローカルに「地域構造論」を支えていったことでしょう。
「地域構造論」はこのように、学問の実体としては伝統的地理学と基本的に同質ですから、その派閥という制度的仕切りが再生産される根拠は、学問の実体内部にあまりありません。その再生産を支えたのはむしろ、学問の実体からかけ離れた「仲間内の論理」であり、それを支え強固にする、人事という制度におけるネポティズムです。この極めて「非西欧的」で、しばしば途上国の発展を阻んでいる社会関係に、「地域構造論」はその伸長する場を得たのです。
「地域構造研究会」そのものは、1980年代の終わり、シリーズ『日本の地域構造』第1巻の刊行をもって解散しました。しかしこれは、「地域構造論」そのものが学界から消えてなくなったことを意味していません。むしろ、「仲間内の論理」が強固になったため、こうした学問研究の組織を必要としなくなった、といった方が適切でしょう。
グローバルなコンテクストのなかでこの20年間、日本のマルクス主義経済地理学は、ますます世界的な空間論の理論水準から遠ざかっていきました。
兆候は、すでに数年前から始まっていました。1996年春、「地域構造論」の流れに近い日本人経済地理学者が中心になって、「日英地理学会」が企画されたことがあります。しかし、英国人参加者をほとんど集めることができず、不成立に終わりました。旅費が高い、というのが英国人多数の参加しない「理由」でしたが、英国から日本へ行くのとおよそ同じ距離を、方向だけ変えて移動する必要のあるカナダのバンクーバーで昨年開催されたIICCGは、若手を中心に多くの英国人参加者を集めたのですから、真の理由が別のところにあったのは明らかです。
1993年5月、バンクーバーのブリティッシュコロンビア大学で教鞭をとるレイを招いて明治大学で開催されたシンポジウム「空間と社会」は、少なくともこれまでのところ、経済地理学会が、いまや地理学のグローバルな知的共通通貨である空間編成論を大会テーマとして正面から取り上げた、唯一のケースでした。この大会のためには、私も大会実行委員として、相当の尽力をしました。しかし、この大会には、開催以前から、当時の代表幹事にある種の圧力がかかっているという情報がありました。『経済地理年報』は、大会終了後、そこでの報告を通例「大会報告論文」として掲載しますが、この時は大会報告論文のうち1本が、掲載拒否にあいました(文体が理由とされたようですが)。私も報告者であったので寄稿し、掲載は一応認められたものの(水岡、1994年)、編集担当者から大量のコメントがつきました。本稿冒頭にふれた<その人>が、現在政府関係の審議会委員として活動している、これは「地域構造論」の有用性を示すものであるからそのことを評価し明記せよ、などというコメントでした。「国土軸」など政府の開発計画に奉仕することがマルクス経済地理学の有用性の表明なのか、それとも「地域構造論」はマルクス経済地理学ではそもそもないから政府の開発計画に有用なのか――コメントの主は、そこまで明確にしてくれませんでしたが、少なくともはっきりしたのは、「地域構造」論者みずから、かつて秋葉理史氏が口を極めて糾弾していたはずの政府・自民党と結びついたことの積極的意義を明確に認めた、ということです。
昨年秋には、マルクス経済学や空間編成論の考え方を大幅に盛り込んだ、英国の経済地理学者ロイドとディッケンの『Location in Space』第3版(原書1990年)の邦訳書(伊藤監訳、1997)が刊行されました。私は、この原書を第2版当時から高く評価していましたので、さっそく訳書上下2冊を購入しました。一読したところ、経済学をはじめとする社会科学や空間論の基本にかかわる部分に相当量の誤訳が含まれています。訳者全員が、著者の提起している論理の基本をきちんと理解できて訳したとは思われない、基本的な個所での誤訳です。このことについては、『経済地理学年報』に書評(水岡、1997)を発表しましたので、詳細はそちらをご覧ください。ちなみに、わたしが『経済地理学年報』で「書評」というジャンルを選んで投稿したのは、書評にだけレフェリーがつかず、空間編成論の立場から自由な意見を表明できるからです。
日本地理学会・英国のIBG・合衆国のAAGなど、各国を代表する地理学会は、それぞれの国における地理学のナショナルスクール成立を担うひとつの制度として成立し、発展してきました。その限りにおいて、これらの国を代表する地理学会は国家装置と関わり、その維持と強化に貢献してきたため、もともと保守的性格を根強く持ちがちでした。
しかし、国家の性格をより強く反映するということから、時とともにこれと正反対の状況が起こり得ます。国家の政治装置がより民主主義を志向し、多元主義を媒介として国民の社会統合を図ろうとすればするほど、その反映として、ナショナルスクールを担う学会自体も多元主義を許容するようになっていくのです。マルクス主義地理学が、世界最大の資本主義国アメリカ合衆国を代表するアメリカ地理学会(AAG)という場において発展することができたこと、日本地理学会が後に述べる内藤氏のような論文を「論説」としてその機関誌に掲載し、また地理学のマルクス主義的アプローチを含む研究活動を行う研究・作業グループ「空間と社会」の存在を承認し、さらに1994年秋にはハーヴェイが基調講演者のシンポジウムを開催、さる3月の大会の会場で、空間編成論の立場に立つ産業・経済地理学者、A. J.スコット来日記念研究集会開催を許容したことなどは、なにより、合衆国や日本の国内政治に存在するこうした民主主義の反映にほかなりません。
ナショナルスクールを代表する学問制度として存在する地理学会を別とすれば、それ以外に各国に存在する地理学関係の学会や学術誌は、多かれ少なかれ特殊な成立過程と存在の基盤を持つものです。
では、このコンテクストにおいて、経済地理学会はどのような性格を持つでしょうか。経済地理学会は、ナショナルスクールを代表する学会ではありません。その前身は、1950年につくられた、民主主義科学者協会(民科、日本共産党系の大衆団体)「地理研究会」、そして同じ民科に属した地学団体研究会の影響下に設立された「地理学ゼミナール」でした。1951年秋には、これらが核となって、日本地理学会で「社会科学としての人文地理学」という座談会がもたれます。これが翌年「経済地理学談話会」に成長、1954年に経済地理学会として設立されます。「既成の秩序と権威に背を向け、一方では……評議員選挙を通じて日本地理学会の改革に取り組み、もう一方では、経済地理学会の結成を日程にのせてい」った、という当時を振り返った風巻義孝氏の「裏面史」の叙述(1998年、p.72)からすれば、経済地理学会が、ナショナルスクールへのアンチテーゼとして、「日本の公の地理学会」の「革新を目指」し(石井、1994年、p.85)、社会科学に基盤を持つ地理学の研究活動を行う制度を構築しようとする意気込みで設立されたものであることは明らかです。地理学という学問の革新を目指す「運動体」とも形容できましょう。
昨年暮、日本地理学会の『地理学評論』に、論説「多文化・多民族共生のための研究視角――山本健兒論文の批判的検討を通して」(内藤、1997)が掲載されました。内容には、トルコにおけるイスラム原理主義対近代主義といったロカリティの問題も孕まれているようですが、より本質的なのは、この論説が、表題となっている論者の、社会科学者としての研究手続きのあり方を根底から批判している、という事実です。見据えなくてはならないのは、経済地理学会の現役の代表幹事をつとめる人物が、いまや、そのアンチテーゼであったはずの日本地理学会の機関誌上で、その非社会科学性を批判されたこと、そして、「地理学の社会科学性」を論じる舞台が、社会科学としての地理学を掲げて出発したはずの学会誌『経済地理学年報』ではもはやなくなってしまったこと、という冷厳な情況です。日本地理学会とその機関誌『地理学評論』が地理学の社会科学化をめざすフォーラムとなり、逆に経済地理学会は、地理学の社会科学化の方向に対し消極的ないし否定的な存在に骨化してしまった――ポジションは、いまや180度転換したのです。
いま、経済地理学会に、奇妙な事態が起こりはじめています。 最近、経済地学会の周辺で時折、<経済地理学の再生産が世代的にできていない>という声が聞かれるようになりました。わたしはこの声に接するたび、奇異の感に襲われるのです。『経済地学年報』は定期的に刊行されているし、入会希望者からの問い合わせ電話や郵便は私の研究室の隣にある事務局に相次いでいるし、修論発表例会(関東支部)は、若手院生からの希望が多すぎ満員御礼で集会委員が報告を断らなければならないくらいの盛況です。いったいどこで「再生産が世代的にできていない」というのでしょうか? もし、「できない」としたら、それは、経済地理学会に集う研究者一般の問題ではなく、「地域構造」派の問題です。地理学の社会科学化・オルタナティヴ地理学のあり方を真剣に考える若い研究者たちは、この『空間・社会・地理思想』を刊行している科研や、「空間と社会」研究グループなどがプラクティスしてきた前望的努力の甲斐が多少なりともあって、「地域構造、地域構造」と昔ほど語らなくなってきたのです。 ここで、みずから「経済地理学の前衛」をもって任じる「仲間内集団」が颯爽と登場し、<まとめ役>となって、愚昧な大衆の語る誤謬に満ちた空間編成論など超克し、「無謬の地域構造論」の地位を回復するため運動を展開しなくてはなりません。無論、そこに立ち現れるのは表と裏の二重組織、そして裏の組織のほうでポリティクスを通じて、多様な考え方を持った経済地理学会員を「地域構造論」という方針にまとめあげていくプロセスでしょう。このプロセスの前に張られた、「世代的再生産ができていない」と語る煙の幕の向こうを、よく見通さなくてはいけません。 この「仲間内集団」の人々は、こうしたプロセスを担う行為を、<ボランティア精神の発露>と形容しています。ボランティア……いかにも、崇高に響く言葉です。しかし、ボランティアという行為は、その受け手が、ボランティアの行為を欲してこそ成立するものでしょう。べつに、こうして「指導」されなくてはならない、と経済地理学会員ないし日本の地理学全体がみな主体的に欲しているわけではありません。押し掛けや押し付けは、本当のボランティアでしょうか。
「アフリカの角」にあるソマリアが、「独立国」でありながら、今日では政府も憲法もない自己崩壊の悲惨な状況になっていることは、知られている通りです。ソマリアの国民がみずから欲してもいないのに国連軍・米軍が勝手に「希望回復作戦 Operation Restore Hope」と称して押し掛け、内戦をかきたて、情況を手がつけられないまでに悪化させてしまったのです。
しかし、百歩ゆずって、仮にそれが押し掛けのように見えても、こうした<ボランティア精神>をもって指導する人々が、フレキシブルで開明的な発想をもっていて、広く構成員全体の意思を民主主義的に反映し、グローバルな経済・社会地理学の展開に積極的な関心を示し、地理学の社会科学化という初心をしっかりふまえようとしていたならば、情況はもっと違ったものとなっていたかもしれません。
西欧と比べ立ち後れていた20世紀初頭のロシアでは、この<ボランティア精神>は少なくとも有用でした。ソマリアと同じアフリカ東海岸にあるタンザニアでは、一党独裁の社会主義政権が長い間続きながらも、指導者ニエレレはかなり開明的で、中華人民共和国の援助などを得つつ、教育水準の向上や人民公社をモデルにした村落開発などに尽力し、アフリカにつきものの部族対立を克服して国家を統一しました。さらに、諸外国からの現物援助でインフラなどを整備し、1990年代に入ってからは政策をめぐって争うことのできる複数政党制へと、政治的な成熟を示しはじめています。天然資源も乏しく、植民地時代には、英領東アフリカの周辺に過ぎなかったタンザニアは、こうして、植民地時代の中枢ケニアを経済的・社会的に凌駕することを現実的目標とするまでに成長してきたのです。
しかし、おなじ独裁でも、お隣のザイールでは、状況は全く異なります。モブツが長期にわたって富を個人的に領有し、豊富な天然資源を十分な自立的経済発展のために生かせないまま、長い間腐敗と混乱が続きました。
では、20世紀初頭のロシアとは全く異なる状況にある、21世紀にあと一歩の日本にある学会においては、どうでしょうか。
1993年春、上野和彦氏が経済地理学会代表幹事をつとめていたころ、上野氏は、経済地理学会の幹事会のなかに各種委員会代表を集めた「連絡会」のようなものを組織するよう提案したことがありました。このとき、九州のある大学で当時教鞭をとっていた「地域構造論」の旗手がはるばる小金井で開催された幹事会までやってくる<ボランティア精神>を発揮し、激烈な反対論でこの提案をつぶしてしまったのです。みずから「経済地理学の前衛」をもって任じるからには、経済地理学の<まとめ役>は、あくまで自分たちでなくてはなりません。当時の幹事会の陣容からすれば、こうした「連絡会」が上野代表幹事のもとにできた場合、「地域構造論」の「仲間内集団」の影響力は少ないものにとどまらざるを得ず、学会の「指導」がむずかしくなることは明らかでした。時期は尚早だったのです。 そして、いま。「学会組織改革」という名のもとで、現行の運営体制を大幅に改変し、学会における事実上の意思決定の場を、「執行委員会」と称する間接的に選ばれたごく少数の会員にのみ委ねてしまおう、という案が検討されています。 これを推進している幹事の中には、上に述べた上野元代表幹事案をつぶした人物をはじめ、いったん評議員に選出されながら、<編集委員会を補強する>という名目で、<ボランティア精神をもって>幹事を兼任している会員が2名います。国政に例えれば、参議院議員に選出されながら衆議院議員にも任命され、両方に発言・議決権を持っているようなものです。このような事態は、どんなに腐敗の横行しているアフリカの国の議会といえども、考えられないでしょう。 もうすこし具体的に、いま幹事会で提起されている案の大要をみましょう。経済地理学会には、現在会員からの直接選挙ならびに会長推薦で選出される定数40~50名程度の「幹事会」があります。この会が、学会の長い伝統として、実質的に、経済地理学会の意思決定と運営を担ってきました。しかし、案では、この幹事会が大きく変化します。直接選挙で役員が選ばれることは学会が学術会議に認められる一要件をなしているので、完全に廃止することはできません。しかし、幹事会は、総会同様、年1回しか招集されなくなります。他方、実際の意思決定ならびに運営は、この委員会の中で選出される10名弱の会員集団からなる「執行委員会」なるものが担うことになります。 これは、どういう帰結を事実上もたらすでしょうか。多くの学会の総会がそうであるように、年1回開催の「幹事会」が形骸化することは必至です。他方、実際の意思決定と運営を担う「執行委員会」メンバーは、各種委員会や地域部会の代表、これに数名を加えるといった陣容で、その人選に一般会員の意思は反映しにくくなります。ムラの選挙のように恣意的で、結果の不明朗性が強まることになるでしょう。そして、この執行委員会の裏に「地域構造グループ(フラクション)」が作られ、それが執行委員会の多数派を占めることも十分予想されます。すると学会の研究内容は、この集団によって左右され、会員の総意が学会運営に公正に反映しにくくなるでしょう。こうなれば、経済地理学会は、地域構造グループの「伝導ベルト」になりおおせます。例えば、学会のシンポジウムで「地域構造論」のテーマばかりが取り上げられる、「地域構造論」と異なるアプローチからの研究論文が『経済地理学年報』に掲載されにくくなる、「地域構造論」関係者がお手盛りで名誉会員を含む学会役員の推挙を行う、など、さまざまな事態が学会の中に発生することが危惧されます。そして、こうした状況が生じても、一般会員はいわずもがな、直接に選出された幹事ですら、もはや、異議を申し立てる場がもはや十分に保障されません。年1回の会議開催では、何を発言しても実効性に乏しいのが実際のところでしょう。ナショナルスクールと緊張関係を持ちつつ、闊達な批判の精神に基づいて自由な地理学のプラクティスをする場としての経済地理学会という制度は、「終焉」します。そして、「国土軸」といった政府・自民党の開発計画に奉仕する「伝導ベルト」になりおおせます。 いま、学校でも、企業でも、日本中で「自由」や「主体性尊重」が大合唱されています。ですがそこには、大切なことが忘れられているように思います。 それは、「自由」や「主体性」というものが本来、個人の独立の上に成り立つべきものであり、こうして他者から独立した本当に自由な個は、互いに競争の寒風ににさらされ、ひどく精神的に不安な状態に置かれる、ということなのです。真の自由と個性を獲得するには、この不安を克服できる、プラクティスの実体における力とそれを貫く勇気が、個としての主体に備わっていなくてはなりません。残念なことに、まだ日本では、「主体性」や「自由」の掛け声に駆り立てられている人々が、往々にして、この実体も自由も十分に持ちあわせていない場合が多いのです。そこでこうした人々は、みずからの「自由」や「主体性」を「仲間内」に拠出し、多少の不自由と集団性をともなう「仲間内の論理」身を置くことと引き換えに、精神の安定をかちえることを志向しはじめます。「主体性」が志向されるはずの中学や高校で、どの生徒もみな同じルーズソックスをはき、プリクラにいそしみ、結局、資本主義の大量生産・大量消費社会の餌食にされていっていること、そしてこの「仲間内集団」から外れた人々に陰湿な「いじめ」が加えられている事実は、こうしたわが国のお粗末な「自由」・「主体性」のレヴェルからすれば、何の不思議もありません。 とはいえ、この「仲間内」のムラ社会は、やはりムラの外に対しては独立しており、その外には厳しい競争の寒風がふきすさんでいます。だが困ったことには、ぬくぬくとした「仲間内の論理」に、その仲間の構成員が浸りきるようになればなるほど、安穏にバイオリンを弾くムラ人たちには、この風の冷たさを感じることがますます怖くなってくるのです。キリギリスのムラ人たちが危機に気づいた時、まわりはもうすっかり真冬。氷点下の吹雪です。夏の間から一生懸命働いたアリは、無論いまさら助けてなどくれません。 日本の金融界の護送船団方式が、まさにそうでした。そして、経済・社会のあらゆる部面で進んでいるグローバル化の寒風にさらされ、「仲間内の論理」がいくつかの銀行や証券会社で破綻しました。寒風をあえて感じないようにし、問題の顕在化を「先送り」する体質が、「仲間内」の中に身についてしまい、それが最期の日を招いたのです。そしていま、破綻した証券会社は、外資というアリに食いちぎられています。
グローバルな空間編成論のうねりという新しい斯学の現実に目を覚ますならば、「地域構造論」を神棚に奉り、ネポティズムに浸っていて済むどころでないことは、もはやはっきりしています。新しい空間編成論に基づく地理学のパラダイム転換が、崔炳斗氏(大邱大)の主宰するKASER(The Korean Association of Spatial Environment Research, 韓国空間環境学会)に代表される、お隣韓国まで押し寄せてきました。そして、対馬海峡を挟んだ対岸の島では、今なお、20世紀初頭の革命党組織、伝統的地理学、そして政府・自民党の開発計画への協力――この3つが混ぜ合わさった、風変わりな味のカクテルを、700人の学会員に制度の力で飲ませようとする――日本の経済地理学会でいま、このアナクロニズムが進行している……。
学問の真のパラダイム転換は、過去から学び未来を見据える、意識的な研究者の積極的な行動なしには、あり得ません。経済地理学会は、「地位や年齢に関わりなく自由に問題を提起し、討論をする場」を提供する制度として、日本の地理学界が世界に誇るべき伝統のはずです。このわれわれみなが共有する「今後に伝える価値のある財産」を継承(風巻、1998年、 p.73)しつつ、地理学のグローバル化が一層進展する中で、その研究動向を広く受け入れそれに柔軟に対応できる自由な社会・経済地理学研究のフォーラムへと、21世紀に向けて一層発展していかなくてはなりません。そのため、この学会はいま何を変え、また何を変えてはいけないのか――このことについての慎重な判断と、それに基づく積極的な行動が、いま求められています。
軽量革命を達成し、マルクス経済学や人文主義哲学などの社会理論に明確に裏付けられた地理学と、それをもたらしたような、真に自由な作風を持つ多元的で透明な議論の風土が経済地理学界に本当に根付くことがあるとすれば、それは、こうしたレヴェルでの慎重さある積極的行動を経たのちのことでしょう。
未来の地理思想史家による注意深い検討の対象となるであろう、われわれ同時代の地理学者一人一人の、わが国の社会・経済地理学の行く末に関わる主体的な責任が、この判断と行動にかかっています。いうまでもなく、この小論も、それへのささやかな寄与にほかなりません。
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