文字コードを変更して開く 上書保存 編集内容をリセット 閉じる 9月6日/アフヴァーズ

オマーンでの最終日、この日は港町のスールを訪れた後マスカットに戻り、サウジアラビア上空を通る飛行機でアンマンまで移動した。

イブラ〜スールの道中

   私たちは、朝5時頃ホテルを出発し、国道23号線をひたすら南東へ進み、オマーン湾に面する港町スールを目指した。標高475mから0mまでの下り道だ。国道なので長距離移動する車が多いのか、ガソリンスタンドが多かった。そして、そのほとんどがシェル石油だった。シェルはオマーンで石油採掘もしている会社で、オマーンへの進出度が高く、オマーン国内にいる間、シェルのガソリンスタンドを至る所で目にした。

スールを象徴するモニュメント

   スールの街に入ってすぐの辺り、私たちが走る大通り沿いに大きなモニュメントがぽつんと2つ、通り沿いに距離を置いて設置されていた。高さ10m、横3mほどで城壁のような形をしており、中央には絵が描かれている。一つは武器を持ったアラブ人の集団を描いたもの、もう一つは木で造られた船が大きく描かれたものであった。ガイド氏の説明によると、これはスールのシンボルだそうだ。スールは昔、オマーン人商人が海外に進出する拠点としての機能を持っていた。マスカットはポルトガルに支配されていたが、ポルトガルの手はスールまでは伸びなかったので、オマーン人はスールで貿易船を造り、インド洋に乗り出していた。それ以降スールは、造船と漁業がさかんな街として発展してきた。ザンジバルをはじめとする東アフリカに進出する際にも、スールで造られた船が使われた。モニュメントの絵は、果敢に海外へ進出するオマーン人と、スールの造船職人の技術が結集した貿易船を表していたのである。


 この木の船は、ダウ(Dhow)と呼ばれる貿易船である。スールはかつて、ダウ船を用いたインド洋の交易の拠点都市であった。 現在は、漁業中心の港町となっている。住民には漁師が多く、人口は7万5千人と、この地ではかなり大きい。3区画に分かれており、住居・商店があるエリアと、センセラー(senselah)と呼ばれる漁港のあるエリアがある。


 私たちがスール市内についたのは午前7時頃。ファストフード店や薬局・美容室などを通り過ぎたが、朝が早いためどこもまだ開いていなかった。車は、大通りを海の方へ向かって走った。道はよく整備されており、樹木も植えられていてきれいだった。左右には白塗りの新しそうな建物が多く見られ、横にオマーン国旗が掲げられているのをいくつか見かけた。官公庁が集まっている地区のようだ。
 私たちはさらに海の方へすすみ、魚市場へと向かった。

魚市場

 市場には広い駐車場が有り、私たちが来た頃は、結構な数の車が止められていて出入りも多かった。市場が開かれている建物は、扉がなく、外壁も部分的で、半室内のような空間である。ガイド氏によると、この建物は政府が建て直した比較的新しいものらしい。たしかに、壁もきれいであるし、床には排水溝もありしっかりした造りである。電灯は取り付けられていたが点いておらず、少し暗い。20メートル四方程の広さの建物に20〜30人おり、混雑しているとは言えないが、それなりに人はいる印象を受けた。室内は、周りに高さ1メートル程の台が各辺5つくらい並べられ、中央には、床より少し高くなったスペースが設けられていて、現地の人々はそこに絨毯を敷くなどして商品を売っていた。魚は直に置かれ、冷蔵庫もなければ氷にかましてあるわけでもなく、すぐ腐ってしまいそうだ。衛生管理はしっかりしていないが、日本のように刺身で食べたりするのではなく、火を通して食すため、あまり気にならないのかもしれない。
 建物内を観察していると、奥の方に10人くらいの人だかりができているのが見えた。真ん中にいる人が手を挙げながら何か喋っている。ガイド氏によると、オークションを行っているとのことだ。日本の築地で見られるせりのようなものなのだろうか。魚市場ではしばしばオークション形式で売買が行われ、スーパーで魚を買うより安くなることも多いそうだ。このような市場は小売というより卸売機能のほうが大きいと考えられるため、買いに来ているのは市内の魚屋や飲食店が多いだろう。魚は基本的に丸ごと一匹ずつ売っているようだったが、中には捌いてバラ売りする人もいた。

ダウ・ミュージアム

 次に私たちは、スールの象徴であるダウ船を展示しているという、ダウ博物館(Dhow Museum)へと向かった。車はオマーン湾に面する海沿いの道を走る。道沿いには更地が所々に目立ち閑散としていたが、建っているモスクや官公庁らしき建物は白で統一されていてとても綺麗であった。しばらく走ると、海の方を向いている大きな船の模型が見えた。ここが、ダウ博物館である。車を止めて降りたが、入口の門は閉まっていて入ることができなかった。大きな船の模型は、高さ5メートル、長さ10メートルくらいの大きさで、船体の横には白と青の幾何学模様が描かれている。イスラム教国家で頻繁に見られる色使いである。近くには小さなボートの模型も展示されている。模型はどれも新しそうで色がはげていたりはしていなかった。

 

ボートファクトリー

   私たちは海沿いをさらに走り、実際に船を作っている工場へ見学に向かった。広めの敷地内には木材が山積みにされており、通路以外は木材でびっしりと埋め尽くされていた。保存用の倉庫などはないようだ。ダウ船の工場は、現在スールにはこの工場しか残っておらず、スール以外にあるのはマスカットとサララの2つだけだとガイド氏はおっしゃっていた。奥へ進むと、骨組みに支えられた建造中の船があり、甲板の上で5人程の作業員が働いている。現在は実用に作っているわけではなく、オーダーメイドで観光用の船として作ることが多く、建造中のこの船はカタールからの依頼があった観光船らしい。木材はマレーシアのチーク材を輸入し、総費用およそ8万リアル(日本円でおよそ2180万円)、8ヶ月ほどで竣工するという。私たちの目の前にあるものは、7〜8割の完成度だそうだ。
 別の場所ではおもちゃ・土産用の小さな木舟が作られていた。オマーン人が海外へ積極的に進出していた頃、貿易船を作るために培われてきた職人の技術は、現在違う用途で使われているが、技術そのものは脈々と受け継がれていることがわかった。

漁港と東側を結ぶ橋

 スールの地形は少し変わっている。海が内陸に入りこんで入江のようになっているため、先述したセンセラー「Senselah」という漁港エリアは海峡を挟んでおり、街の東側から陸路で行こうとすると、たいへんな遠回りになる。
 私たちがこれから向かうスールの灯台と「AL AYGH CASTLE」は東側にあり、以前までは国道23号線まで戻り10kmの道のりを走り遠回りするか、内海を小舟で渡らなければならなかった。だが、海峡を渡るAl Ayjah Bridgeが完成し、たった100m程で東側に渡れるようになった。2007年施工開始、2011年完成。東側との移動をスムーズにすることとなった。
http://www.mageba.ch/fr/804/R%C3%A9f%C3%A9rences.htm?Reference=19563&BackLink=Product&Panel=Dessins&Division=19252&Product=19353&Structure=19396

監視塔・城・灯台

   橋を渡っている途中、左側に、高台に建つ二つの監視塔が見えた。近づくと、その奥には小さな城も建っていた。「Al Aygh Castle」という名前で、道沿いに標識も見えた。ガイド氏によれば、港を自衛するために建てられたという。海外進出を積極的に行っていた頃、ポルトガルをはじめ敵が来た時に備えていたようだ。監視塔も城も茶色で統一されており、まだ新しそうである。保存するために建て直したのかもしれない。


 スールの東側の最北端、オマーン湾に一番近いところには灯台があり、その足元には小舟が数隻停泊している。小舟のエンジンは、イランだけでなくここでもヤマハ製で、世界的なシェアの高さが窺える。灯台も監視塔と同様、塗り直したばかりなのかとてもきれいで、横の街灯と比べると際立って新しそうに見えた。灯台のふもとからは、海と山に囲まれたスールの町並みが一望できた。モスクのミナレット以外に、高層の建物はみられない。マスカットと異なり、近代的な金融やオフィス管理機能をこの歴史的都市はもっていないのである。だが、低くて白い建物が圧倒的に多い町並みは統一感があってきれいだった。内海やオマーン湾には漁船が20隻くらい漂っていて、漁業が盛んなことが窺えた。

スール市街地

 私たちは、もと来た道を戻り、23号線手前に広がる市街地へ向かった。時間は午前9時頃で、まだほとんどの店は開いていなかったが、外に出て談笑をする地元住民の姿はちらほら見られるようになってきた。 ここは現代的なスーク、要するにスールの商店街である。飲食店やホテル、写真屋などが建ち並んでいた。一番印象に残ったのは美容室の多さだった。2,3軒挟んで美容室が並んでいる場所もあり、気になってガイド氏に聞いてみたところ、オマーン人は美容室に行くのが好きで頻繁に利用するらしい。オマーン人の美意識はけっこう高いようだ。だが、マスカットで見たようなショッピングモールは、ここには無いようであった。


 商店街には、ウエスタンユニオン(WESTERN UNION)が1軒あった。ウエスタンユニオンは、低所得の外国人労働者を中心とした、海外送金の手段としてよく利用されている。ウエスタンユニオンは、様々な国で目にすることができる。ここでは、ドバイなど建設需要が高い地域へ働きに出ている労働者が多く、スールに残る家族が送金を受ける目的で利用しているのかもしれない。


マスカットへ

  スールの視察を終えた私たちは、マスカット国際空港からアンマン行きのフライトに乗るため、マスカットへ向かった。行きの国道23号線ではなく、オマーン湾沿いの17号線をひたすら西北に向かう、約200kmの長い道のりである。道は整備されたばかりといった感じで、内陸側の左方向には崖が続く。上り下りの激しい道を進んだ。右側には更地が広がり、その向こうに海が見えた。 海のすぐ近くには、大きな工場が建っていた。淡水化プラント、天然ガスの液化工場、肥料工場、そして発電所である。 調べてみると、この発電所には日本の企業が関わっていることがわかった。

(コラム)丸紅による発電事業
 2011年7月、丸紅株式会社と中部電力株式会社は、カタール発電水道会社(QEWC)とオマーンのマルチテック社と共同で、オマーン国では最大規模となる発電事業に関わる事業権を獲得したと丸紅のホームページで発表されている。このプロジェクトに関して、出資比率は丸紅50%、中部電力30%、QEWC15%、マルチテック社5%であり、日本企業が中心となっている。実際に操業するのはPhoenix Powerという現地企業で、出力200万kWの天然ガス焚き複合火力 (コンバインドサイクル) 発電プラントを建設する。オマーン電力水道会社への15年売電契約も結ばれているため、安定的な収益が見込まれているそうだ。着工は2011年の10月に開始されているが、竣工は2014年4月予定であるらしく、私たちが見かけた時はまだ一部しか操業されていなかったようだ。
 オマーンは90年代から、電力インフラの整備がなかなか進まないことを背景に、発電事業に関する民営化(IPP事業)を推し進めている。2013年4月には双日と四国電力もマスカット北西部でIPP事業権を獲得した。LNG・石油輸入量が多い日本は、商社をはじめとした民間企業が積極的に進出することで、資源豊富なオマーンとの関係をさらに深めていくかもしれない。
参照:http://www.jbic.go.jp/ja/information/press/press-2011/1122-6098     
   http://www.marubeni.co.jp/dbps_data/news/2011/110714.html     
   http://www.nikkei.com/article/DGXNASDD150IQ_V10C13A4TJ1000/ 

 しばらく進むと、高速道路のゲートのようなものを通過した。ゲート自体はあるのだが、遮断機があるわけでも係員がいるわけでもなく素通りした。ガイド氏によると、この道は元々有料の高速道路として作られたが、現在は有料道路ではなくただの国道として使っているそうだ。スールとマスカットを繋ぐ約200kmの道路を中国企業主導でオマーン企業と合同で手がけたというが、ゲートは残されたままになっているなどあまりしっかりした造りには見えなかった。中国はこのような高度な技術力が求められない建設に、豊富な労働力を武器に積極的に関わっているのだろう。総工費は6400万オマーンリヤル(約175億円)だという。

(コラム)オマニゼーション
 オマーンでは、この高速道路事業のように、外国企業と共同で事業を進め技術を吸収し、外国人労働者への依存度を減らそうという政策が1988年から採られている。経験豊富なオマーン人を教育し、資源力だけに依存せず人材を強化する、国の意向がうかがえる。企業や銀行へ、オマニゼーション協力を呼びかけているようだ。
http://www.omanet.om/english/misc/omanise.asp

 車通りの少ない道を20kmくらい進むと右側にカルハット(Qlhat)という街が見えた。スールと同様白い建物が目立つ。ガイド氏によると、カルハットは13〜14世紀ごろ、海上貿易で栄えた町だそうで、訪れる人は少ないが遺跡もあるようである。


 カルハットを通過した後、17号線は海に沿ってしばらく北上する。右側には海が見え、左側には山脈が聳える道が続いた。左側の山はハジャール山脈といい、オマーンの東海岸を走る山脈であり、山脈の地下水を利用しているのか、所々に小さな農地やナツメヤシのプランテーションが見られた。


 北に1時間程進みダグマール(Daghmar)を過ぎると、国道17号線は海沿いから内陸に入り、その後真北に進みマスカットまで伸びていく。両側に山々がそびえる道をしばらく進み、変電所や衛星通信所を通り過ぎた。すると、17号線に沿って、太い鋼管が並べられているのが見えるようになった。まだ組み立てられていないが、長い距離をつなぐようである。これは、乾燥地域へ水を送るパイプだとガイド氏が教えてくれた。ダムをつくり、そこから水を送るパイプラインをつくるために現在工事が進められている。山脈の比較的高い部分にダム予定地と思われるスペースがあったが、まだほとんど更地だった。少し下った所には貯水池による水没予定地が広がっている。土地を水平にする為山は少し切り拓かれており、工事後の瓦礫の山や目印の柱が建っているのが見えた。ダム予定地から水没予定地まで、鋼管が所々に置かれているのみで、ダム竣工はまだ程遠いようだ。この鋼管には「UFUK BORU」と書かれあったため調べてみると、溶接鋼管を作っているトルコの企業であることがわかった。http://ufukboru.com.tr/  国内企業にはこのような鋼管をつくる技術がまだないのであろう。こういった技術に関して、中東ではトルコのプレゼンス大きく、技術を持たない中東諸国に進出している。できたばかりの国道や工事中の送水パイプラインなど、17号線を観察することで、インフラの整備途上にあるオマーンの現状を知ることができた。


 私たちの専用車は、ようやくマスカット市内に入った。3日前に観察しなかったマトラのスークに向かおうとしたのだが、市内に入るやいなや、今までの空いた道から突然の渋滞にまきこまれ、車はなかなか前に進まなくなった。前方を見ると数百メートル以上先まで車がびっしりと道路を埋めている。市内に入ったのは午後11時半頃であり、この時間はスークやデパートに出かける人が多いらしく、渋滞は毎度のことだとガイド氏はおっしゃった。中東の都市では、石油が安く、国民の所得増加に伴って車を入手する人の数が増えているものの、都市鉄道新設や道路の整備が追いついておらず渋滞が発生する。このような都市交通の状態を、私たちはイランでも目にした。中東諸国が抱える共通の問題点である。

マトラのスーク

 市内を進み、マトラ地区のスークに到着した。オマーンでの初日、両替を行った場所のすぐ近くである。渋滞していたことからも予想できたが、スーク周辺には多くの人が集まっていた。
 ここのスークは伝統的なもので、テヘランと同様トンネルのようになっているが、電球もつけられていたし屋根の左右には光を取り込む小窓があったため暗くはない。ここは200年ほど前から続く、国内で一番歴史のあるスークだが、壁も天井も新しく改装されており、床はタイル張りになっていた。http://www.squ.edu.om/tabid/11251/language/en-US/Default.aspx


 入口を入ると、左右に店が立ち並び、店頭に立つ人が笑顔で話しかけてくる。入口付近、左側には民族衣装屋、右側にはジュースを売るファーストフード店が構えられている。この通路沿いには他に、ラクダの置物や水タバコ等の小物を売る土産物屋が軒を連ねる。





少し奥に進むと円形の開けたスペースがあり、左右に道が分かれている。私たちは右に進み、店の観察を続けた。すると、初めには香水店が2軒左右に並んでいた。その次には財布や鞄が陳列された店が左右に4,5軒並び、さらに奥へ進むと、子供服や下着を売る衣料店が2軒続いていた。出口手前には薬局と鞄屋があった。一度岐路を進んだ先は現地人が買い求めるような商品ばかりで、同じ種類の店舗はほぼ同じエリアに集積していた。この道は、日用品主体の店構えになっており、エスファハーンと同様、観光客の移動する範囲にある入口付近は観光客向けの土産物店などが立地し、奥には現地の人々が買い求める小売の日用品店が立地するという、計算された店の配置になっている事が分かった。これらの現地人向けの店は、中間財というより最終製品が多かった事、商品を詰める大きなダンボールや台車も見かけなかった事から、卸売ではなく小売の商品だと考えられる。


 さらに進み一度スークから出た。出口付近にはタクシーが何台も止まっており、客待ちしていた。また、スークの外は電化製品や布団・絨毯など、現地の人しか買わないようなものばかりを揃えた店が建ち並んでいる。観光客向けの部分を除けば、このスークは、テヘランの大バザールと同じく、地元の人々むけの大規模な消費財の供給地として機能しているのである。
 元来た道を戻り、初めのスーク出入り口に戻ってきたところ、ヨーロッパ系の観光客を連れたガイドに出会った。話をしたゼミ生によると、このガイドはフィリピンから来た外国人労働者ということだった。旅行ガイドすら、低賃金の外国人労働者を雇っているのには、いささか驚いた。

空港へ

   空港のチェックイン時間が迫ってきたため、私たちは再び車に乗り込み空港へと向かった。西部の新市街地に向かう大通りは国道1号線しかなく、車線も2つずつだけなので相変わらず渋滞がひどい。ただ、車線を増やす工事を行っている箇所もあったため少しずつ軽減していくかもしれない。新市街に入ると車線が増え渋滞がなくなった。一昨日通った道の左右には、官公庁の建物やマンション、大手車メーカーや銀行のオフィスビルが見える。また、建設中のビルもたくさんあり、開発が進んでいることがうかがえた。

 新市街を抜けしばらく走ると、前方の広大なスペースに飛行機が止まっているのが見えた。マスカット国際空港である。空港の隣には建設中のビルがあり、新たなターミナルビルの建設が行われているようだ。調べてみると、アメリカの建設会社Bechtelが空港の拡張工事を行っているのがわかった。これまでの倍の年間1200万人の利用客を取り扱えるようになる。総工費は18億ドルで、2014年竣工予定である。
http://www.bechtel.com/2057.html

マスカット発、アンマン行

   空港入口の目の前に車を止め、3日間付き合っていただいたガイド氏にお礼と別れを告げ、空港内に入り手続きを行った。たくさんの航空会社の受付カウンターがあったが、フラッグキャリアであるオマーン航空(OMAN AIR)の占める割合が大きかった。私たちが乗るフライトも、オマーン航空である。オマーン航空は、日本には就航していないが、アンマン等中東各地に飛んでおり、さらに、ザンジバルやインド、スリランカ行のフライトもある。いずれも、今回のオマーンの巡検で明らかになった、この国と関わりの深い地域が多く、航空会社によって特徴のある航路網が存在する事がわかった。


 搭乗と出国の手続きを済ませ搭乗時刻まで待っている間、空港内に礼拝の時間を知らせるアザーンが流れた。海外の化粧品やファッションブランドが立ち並んでいるが、オマーンには不釣り合いなほど大きなデューティーフリーショップなどである。ドバイなどとハブ空港化を争い、建物の増築や過度なショップの数を設置している事がわかる。アザーンの放送やprayer roomも用意されており、やはりイスラム教国家の空港は一味違っていた。


 フライト時間は、約3時間半だった。サウジアラビアの上空を飛んでいるとき、地上には大きい正円のかたちをした灌漑農業施設が点在している事が確認できた。機内は、短距離だからか、座席にモニターは設置されていなかった。
 機内サービスでは、ケバブとサラダ・パン・ジュースの遅めの昼食をいただき、オースラリアのフォスタービールも用意されていた。巡検開始から飲酒する機会はもちろんなかったので、久々のビールの味に感動しながらオマーンとの別れを惜しみ、ヨルダンへの期待を抱きつつアンマン到着を待った。

クイーンアリア国際空港

   現地時間の午後4時半、巡検最後の国ヨルダンの首都、アンマンのクイーンアリア国際空港に到着した。空港内には国王家3代の顔写真が飾られている。途中、外に取り壊された建物が見えたため、後日調べてみると、こちらの空港でも拡張工事が行われていることがわかった。ヨルダンのAirport International Group社が手がけ、2段階に分けて拡張される。現在年間3万5千人利用のところを、第1次段階で9万人、第2段階で12万人収容できるようになる。総工費8億5千万ドル、現在建設中である。
http://www.aig.aero/en/content/expansion-project


 オマーン・ヨルダンをはじめとする中東諸国では、空港を拡張しハブ機能を備えることで、より多くの人々を国呼び込もうと、熾烈な競争が行われていることが窺えた。
 手続きを終え外に出るとタクシーが列を作って待っていた。私たちは2台に分かれて乗り込み、35km離れたアンマン市街へ向け出発した。運賃はメーター制ではなく事前に決め、ホテルまで1台22ヨルダンディナール(約3200円)であった。


 空港は郊外にあり、左右にはビニールハウスのある畑や、更地が広がっていた。市街地に近づくと、アンマンでも渋滞に巻き込まれた。アンマンにも鉄道系の都市公共交通はない。渋滞は日常茶飯事のようだ。KFCやHYUNDAIの大きな看板、HSBCもあり、様々な外国企業が進出しているのがわかる。建物は全体的に古く、雑然とした町並みである。


 途中、信号待ちをしている際に、窓に歩行者が近寄ってくると思ったら、突然運転手に小物を売り出した。また違う場所では、喜捨を求め一時停止中の車に1台ずつ声をかける女性もいた。運転手は適当にあしらっており、これも日常の光景のようである。ヨルダン自体は政情が一応安定しているが、シリア、パレスチナ、イラクなど政情不安な国に周囲をぐるりと囲まれており、難民の流入数が多いと考えられる。先程の人々は難民だったのかもしれない。

 一度ホテルを間違えたがなんとか無事に到着し、外のKFCで夕飯を食べた後ホテルで各々休んだ。
翌日のアンマン視察に向け、早めに就寝した。

(杉山 優平)