陸路でオマーンに入る


 ドバイから陸路オマーンをめざす私たちは、寝苦しいマイクロバスの窮屈な座席に揺られながら、出発してから1時間強ほどして何か審査場のような場所に着いた。時刻は深夜12時すぎであった。日本の高速道路の料金所のようなゲートがあり、バスがそこに横付けすると警官らしき人物が2人現れた。運転手としばらく話してからそのうちの一人がバスに乗り込んで、私たち乗客全員に、パスポートを見せろと求めてきた。態度はかなり高圧的で、私たちはいささか恐怖感を覚えながらもパスポートを出すと、顔の照合をされた。無事に乗客全員のパスポートがチェックされたようで、ゲートをバスが通過した。通過するときにゲートを観察すると、3つほどの出入り口にはそれぞれ警官が1人から2人ほどいて、同じような審査を行っているようだった。
 だが、ここはUAEの最後の出国審査場というわけではない。UAEとオマーンとの国境線は、このあたりで屈曲していて、ドバイからオマーンへ行く幹線道路を3回もまたぐようになっている。(左図参照 出典google.earth)左図の中で黄色の線が国境を示し、赤の線が私たちの移動経路を示す。国境を3回通っている様子が確認できるだろう。その一つ一つに国境検査場が設置されている。私たちは、この後にも検査を3回ほど受けることとなった。
 その後、オマーン領内を10分ほど進むと、出国審査場らしき場所に着いた。そこでは乗客全員が一度バスから降り、パスポート検査場のような受付にパスポートを提出するというものであった。この受付は小屋のような建物に設置されており、外壁が白く塗られた簡素な建物であった。受付は2か所ほど設置されており、それぞれに係員がいた。係員は頭にターバンを巻き、白い伝統的なイスラームの衣装を着ていた。比較的スムーズに審査は行われた。一人にかけた時間は3分程度であった。
 出国審査を終え、そこからさらに5分ほど進むと、大型トラックの列が見えてきた。列は1km弱にもわたっており家具や鉄パイプなど様々な物資が載せられていた。UAE各首長国、主にシャリジャーの港からオマーンへ運ばれていく輸入物資であろう。列の先頭は荷物審査場までつながっていた。この荷物審査場は大きな屋根がついている場所に、少し大きめな長机が1か所置いてあるという簡素なつくりで、建物らしきものは存在しなかった。国境検査官は2人いた。先ほどの大型トラックが審査を受ける所と我々が審査を受ける所は別の場所となっており、そちらの場所にも検査官が2人ほどいた。私たちはバスから降り、荷物を一人ずつその机においていき検査を受けた。検査はカバンの中身を空けてみせるというものであった。日本人旅行者ということがわかったのか、私たちはそれほど厳密に中を見られることはなく、一人につき1分程度で審査は終わった。トラックの方の審査はやはり一台に時間をかけて厳しく審査しているらしく、列の進みは遅いように思われた。
 荷物審査を終え、バスに乗り込みさらに進むと、大きな建物が見えてきた。全体は白を基調としており、オマーンの国旗が掲げられている。これが、UAEからオマーンへ入るときの正式な審査場である。建物の中に入ると、清潔に保たれた大きな広間があり、そこにビザ発給と入国審査の窓口が設置されていた。また、施設内にはATMやトイレも設置されていた。オマーン国内の情報誌や、ビデオを流すテレビも置かれており、入国者に対しての気遣いが感じられた。
 深夜1時をまわっていたが、ビザ窓口は開いており、審査官が、白いイスラーム伝統の衣装を着て執務を行なっていた。私たちはオマーンのビザを現地でとることにしていたため、ビザ取得用の書類に必要情報を書き込み、パスポートとともに提出し本人確認を行った。ビザの申請には、一人につき50UAEディルハムかかった。ビザ発給手続きはスムーズに進み、一人3〜5分程度で審査は終わった。ただし私たち全員が終えるまでは30分ほどかかった。入国審査を終えた私たちは、待ってくれていたバスに戻り、オマーンへと入った。時刻は深夜2時近くになっていた。

Oman National Transport〜 ホテルへ


 オマーンの首都であるマスカットはオマーン湾沿いに90kmにわたって細長く伸びている港湾都市であり、人口は約80万人である。私たちの乗った夜行バスがマスカットの市街に入ると、三々五々客が下車していった。バスの終着所は、市のビジネス地区、ルウィ(Ruwi)地区内にある、オマーン国営交通(Oman National Transport)のそばのバスターミナルであった。早朝5時近くに着いた私たちは、ホテルからの迎えのバスがまだ着ていなかったので、その場で少し待った。
   このターミナルの周囲にはバス会社のオフィスが多くある。鉄道が全くないオマーンでは、バスが重要な交通手段のひとつであることがわかる。このバス停の近くには、オマーン国営交通の事務所が建っており、イスラームの正装である白装束を身に着けた人がいた。周辺の建物を観察すると主にバス利用者が使うのであろう、地元の人用と思われるホテルが多く建っていた。しかし、商店やレストランは多くなかった。10〜15分ほど待っていたところ迎えのバスが到着し、休息をとるためホテルまで向かった。
 10〜15分ほどして私たちが泊まる、ハッファハウス(Haffa House)というホテルに着いた。4つ星ホテルということもあり、内装は豪華なものであった。私たちは各自の部屋に入り2時間ほど仮眠をとった。

大航海時代の拠点マスカットの歴史を物語るベイトアルベランダ博物館


 仮眠を終えた私たちは、まずホテルで朝食をとった。ビュッフェ形式の朝食はフレンチトーストやクロワッサン、ソーセージなど欧米風の料理も並んでおり、アラビア伝統の朝食に限らず、メニューが豊富であった。国際旅行者に配慮しているのだろう。
  



 今日の巡検の重要なポイントは、アラビア半島の東端に位置し、欧州列強のインドや東アジアとの貿易において、中継点として重要な位置にあったマスカットが、大航海時代から欧州の東洋貿易の時代にかけて、ポルトガルをはじめとする様々な国に支配され、航海の拠点として利用されてきたと同時に、オマーン自身も海洋国家として発展してきた歴史を、都市地理やマスカットの風土を通じて学ぶことである。
 朝食をとり終えた私たちは、こうした歴史について学ぶため、バイト・アル・バランダ(ベランダ)博物館(Bait Al Baranda Museum)に向かった。オマーンやマスカットについての基本情報を博物館に向かう車内でガイド氏が話してくれた。それらの情報を踏まえ、オマーンについての基本知識を下にコラムとしてまとめたのでご参照されたい。

(コラム)  オマーン・マスカットの基礎知識と歴史
 オマーンはアラビア半島東南端に位置する、国土面積約30万9千500平方kmの比較的小さな国である。人口は約274万人(07年末)であり、その国民の大部分はアラブ系住民でその他には東アフリカ系、インド系、パキスタン系などがいる。貿易が主な産業であり、主要な輸出品目は石油、LNG、ライム、小麦粉であり、輸入品目は機械機器、食料品などである。総輸出額は約470億ドルであり、石油のみの輸出額は約360億ドルであるから、輸出に占める石油の割合は、7割以上にも及ぶのであろう。首都であるマスカットの人口は約85万人(2012年現在)。夏には最高気温が50度を超え、最低気温も30度以上となる。雨は年間を通してあまり降らないが、海岸地帯のため湿度は高いという高温多湿の気候となっている。
 次に、オマーンの歴史に触れたい。16世紀、大航海時代にポルトガルとスペインがそれぞれ世界の東半球と西半球を覇権下に置き、排他的独占権を持っていたころ、マスカットにはポルトガルがリスボンから長崎に至る航路の重要な中継地点があった。17世紀にマスカットがポルトガルの支配下から抜け出すと、東アフリカ海岸部とその近辺のインド洋の一部を勢力下においた。19世紀に入り東アフリカ沿岸の奴隷・象牙香辛料貿易の拠点でもあったザンジバルに第二の首都を置くと、オマーンは全盛期を迎えた。しかし、オマーン国のサイイド・サイード王が死去するとザンジバルとオマーンは分割、帆船を主に用いていたオマーンは欧州の蒸気船技術についていけず衰退していった。この時、奴隷制を廃止したフランスとイギリスとの争いが起きており、フランスはイギリスがオマーンの利権を得ることを阻止しようしたが失敗し、オマーンはイギリスの保護国となる。19世紀後半に入り、オマーンがイギリスの保護から抜けると1960年代から続いていた石油メジャーによる石油採掘が本格化し、石油輸出が盛んにおこなわれるようになった。2000年には世界貿易機関に加盟した。

(出典)
・Ministry of Information http://www.omanet.om/english/home.asp
・オマーン基礎データ 「http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/oman/data.html」
・在オマーン日本大使館公式ホームページ「http://www.oman.emb-japan.go.jp/japanese/3stay_j.htm#stay2」
・Oman tourism.gov. 「http://www.omantourism.gov.om/wps/portal/mot/tourism/oman/home」
・『ポルトガル史』 著者 金七 紀男  彩流社  第6章 [ポルトガル帝国の誕生]
・『フランス植民地主義の歴史』 著者 平野 千香子 人文書院 第一章 [奴隷制廃止と「文明化」]
・『イギリスの歴史』 著者W・A・スペック 創土社
・地図 http://www.globalsecurity.org/military/world/gulf/oman-leaders.htm

 マスカットの旧市街は、地形的に区切られた3つの地区に分かれている。私たちが向かう博物館は海辺近くのマトラー(Mutrah)地区に位置するため、ルウィ地区から海辺近くの地区に向かって進む形となった。
 バスから市街地を観察するとホテル付近の町の中心部は開発がすすんでおり、オフィスビルや商店、ファストフード店なども見られた。また、道路もしっかりと整備されている。通りを走る車はトヨタやホンダ、スズキなど日本車が多くみられた。交通量も多かったことから、マスカットの人々の主要な移動手段は車であるのだろう。事実ガイド氏も、日ごろから市内の渋滞が多いと言っていた。
 海の方に近づくにつれ大きな建物やビルなどは少なくなり、民家や小規模の商店も多くみられるようになっていった。古い街並みが、比較的よく残っている。ガイド氏は、オマーンの主要産業である観光業のために、古い街並みを政府が保全するよう努めていると語ってくれた。建物の多くは白を基調としている。ガイド氏によると、強い日差しから建物を守るため、太陽光に強い石灰を建物の塗料に使っているため白くなるとのことであった。
 私たちはホテルから20分ほどでベランダ博物館に着いた。博物館のすぐ前には、観光客をめあてにしたHSBCのATMが設置されていた。この博物館は、元々19世紀に建てられた建物であって、航行してきた欧米人の病院として使われた後、イギリス人が学校やオフィスなど様々な用途に使った建物である、と博物館に記述されていた。つまり、この建物は、マスカットにいまも残る、数少ない植民地建築の一つである。建物は、白を基調として海の青によく映えるきれいな建物に修復され、国旗が掲げられていた。イスラームを思わせるアーケード型の入り口を入ると、内装も白で統一されていた。二階建てで吹き抜けになっており、冷房がなかった当時、通風が考慮されていると同時に、天窓から陽光を取り入れられる設計になっている。
 入って正面に受付口があり、制服の係員が受付をしていた。受付を済ませた私たちは一階部分から見学を始めた。この博物館では主に博物館についての歴史やマスカットの都市地理についての資料などが展示されていた。また、マスカットの昔の海図や都市図なども展示されていた。
 都市図においては昔と現在の都市の定点写真による比較が行われていた。マスカットの人口が増え、住宅が増えていくとともに、元あった通りが区画整備され、空間移動の際の主要な手段がラクダ、徒歩から車へと移行していく様子が観察できる。また、海岸近くが写る写真では、昔は砂浜が多く残されており、漁労に使うものであろう木船や網などが置かれていたが、現在では整備され、砂浜地帯が少なくなっていることがわかる。商業地帯でいえば、スークは元は露店が集合しているというような形であったが、現在では屋根がつけられアーケード商店街のような形に変容し、商業地帯としての機能は残している様子が観察できる。
 次に見学したのは、様々な時代に書かれた海図である。展示されていた海図の中でも最古のものであった12世紀のオマーン人が作った海図には的確にアラビア半島の地形が示されていた。記されているアカバ湾が現実と比べて巨大すぎるなど、まだ正確な測量技術がないことによるデフォルメもあったが、キプロスなどもしっかりと記されており、当時の技術力の高さがうかがい知れる。16世紀のポルトガル人が作ったと思われる海図にはポルトガルの航路が示されていた。ポルトガルがリスボン〜長崎航路の経由地点としてオマーンを重要視していたことがわかった。また、18thの海図にはオランダ人の作ったものであるとの記述がされていた。これは大航海時代が終わり、ポルトガルからオランダへと覇権がうつっていったことを表している。
 その他にはオマーンの昔の民族衣装や、伝統的な打楽器などが展示されていた。ガイド氏によると、今もオマーンの人達は公的な仕事を行う際には白い民族衣装を着ているという。昔からの民族としての伝統、歴史というものを大切にしている様子が、展示やオマーンの人達の仕事の服装からも伺うことができた。見学を終えた我々は博物館を後にし、オマーンリヤルへの両替がまだだったため、両替所へと向かった。


マトラー地区:海辺の町と砦


 海辺に両替所があったため、私たちはスークの近くでバスを降り換金を行った。このあたりは観光客向けと思われる、民族衣装やお土産などを売る商店が多く立ち並んでいた。人通りも多く、活発に商業活動が行われていることがうかがえる。観光客だけでなく、マスカット全体の伝統的な商業中心になっているのだ。通りを歩く地元の人たちの服装に目を向けると、洋服と白の民族衣装が半々といった割合であった。イランほど敬虔なイスラーム教徒ではないのであろう。女性はあまり見かけられなかったが、黒のアバヤを着ている人が何人か見られた。
 海辺には遊歩道が整備され、東屋らしきものなども設置されていた。また、海辺の道路わきに設置されている街灯はイスラームの唐草模様であった。
 換金を終えた私たちは、マスカットがポルトガルに支配されていた時代、ポルトガル人が貿易拠点として支配したマスカットの市街地に、外敵を向かわせないようにするための要塞として建設された、マトラー砦(Mutrah Fort)に向かった。建物に入場することはできないので、ふもとから眺めるだけである。海沿いに車を走らせると、5分ほどで着いた。砦は当時の形をそのまま残しており、見張り台なども設置されている。


 この砦のふもとからは、マスカット港の観察ができた。港には貨物船が停泊し、コンテナなども多く積まれ、コンテナを移動させるクレーンも設置されていた。この港がマスカットにおける重要な貿易港であることがわかる。この港には王子の個人用の船も停まっていた。また、港近くには穀物やセメントを貯蔵するサイロが建っていた。オマーンは砂漠地帯であるため穀物は輸入しなければならないのだろう。だが、規模はそれほど大きいわけではなく、貿易には制約がかかりそうである。ガイド氏によると、現在、この港から200kmほど離れたところに新しい大規模な港を作っており、その港が完成すると貿易などは新しい港中心で行われるようになるという。この港でも引き続き貿易は行われるが、旅客船中心の港となるらしい。
 砦と港の観察を終えた私たちは、かつてポルトガルが支配した旧市街のマスカットへと向かうため、専用車に乗り込んだ。

マスカット旧市街:ポルトガルの世界覇権の拠点に立つ王宮


 現在の首都マスカットの発祥地であるマスカット地区は、スークがあるマトラー地区から東へ3〜4kmほど行ったところにある。山々の間を抜けていくように作られた道路を進んでいくと、突然視界が開け、マスカットの旧市街が眼前に現れた。旧市街地は私たちのホテルがあるルウィ地区などとは異なり、古い街並みが多くそのままに残されているようであった。新しい住宅の建設も行われていたが、積極的に都市開発が推し進められているようではなかった。
 この旧市街を囲むように岬が両端から突き出ており、その両端にポルトガルが設置した砦がある。
 私たちはまず、オマーンの君主であるサルタンの居城であるアルアラム宮殿(Al Alam Palace)に向かった。宮殿は、海に近いところに立っていた。この宮殿は、かつてのイギリス植民地政庁の建物を改装したものである。かつての朝鮮総督府の建物が初代の韓国の国会議事堂として使われたのと同じように、「権力」が埋め込まれた建造物は、支配者が交代してもその機能を存続させることが多い。中東のオマーンでも、この原理があてはまることがわかる。入り口の門を抜けると宮殿まで長い中庭のような部分が続く。並木が植えられており、両側はイーワーン状に縁どられた白い回廊が続いていた。中庭の部分には街灯があり、フランス風のつくりであった。後述するがフランスとオマーンは友好的な関係を築いており、この関係性が宮殿近くの様式にも表れているのだろう。宮殿の本体まで近づくと門が閉められており、宮殿内部には入れない。宮殿の入り口部分は青色と黄色に装飾されており、白い建物が目立つマスカットの中で特徴的なその装飾は権威を表しているかのような荘厳な様子であった。門に向かって右側には王族の住居があった。

 宮殿の見学を終えた私たちは、つぎにフランス博物館(French Museum)へと向かった。
 フランス博物館は、外壁が白く塗られたきれいな建物である。入り口の門を抜けると庭があり、これをさらに進み、イスラームを思わせるアーケード型の入り口を抜けて建物内に入ると、受付が設置されていた。受付には警察官のような服装をした人がおり、パンフレットをもらい見学を始めた。
 このフランス博物館にはサルコジ大統領も訪問したらしく、施設内には訪問時の様子が詳しく描かれていた。また、サルコジ大統領の顔写真とオマーンの現国王の顔写真が並べて飾られており、両国の友好的な関係性が現れていた。パリの都市図や凱旋門やエッフェル塔の模型なども展示されていた。また、イギリス植民地時代のフランス領事用の部屋も設置されており、ここには時計も設置されていた。館内の説明には、フランス語訳がついている。
 それにしてもなぜ、マスカットにフランスの博物館なのだろうか? フランスとオマーンがこのような友好的な関係を築くまでの歴史は、館内の資料と説明を見ると明らかになる。ポルトガルを追放し、インド洋全域と東アジア全域において覇権を誇っていたオマーンであったが、イギリスからの侵攻を受けて衰退してしまう。その時にイギリスの覇権奪取を妨害しようと行動したのがフランスであった。フランスは当時、アフリカ、東アジアなど世界各地でイギリスと帝国主義の覇権争いを繰り広げており、当時急速に力を握りつつあったイギリスに、これ以上の利権を渡さないために妨害を行ったのである。イギリスと手を結びオマーンに侵攻してきたザンジバルについての資料もあり、ザンジバルを攻撃するフランスについての記述もなされていた。フランスがオマーンと共同してザンジバルという外敵に当たったことによって、オマーンの人々のフランスに対する信頼感のようなものが生まれたのであろう。ほかにもオマーンの帆船についての資料も多く展示されており、その中の一つにはパリに初めて渡った船について記述がなされていた。東アフリカなどにおける覇権をオマーンから奪ったイギリスに対する敵対感情は、オマーンが、ビルマなどと同様、英連邦加盟を拒絶していることにも現れている。オマーンにあるこのフランス博物館は、イギリスの帝国主義的行動を妨害したフランスへの友好的な感情がオマーン人の中に存在していることを示している。フランスも負けず劣らず、ベトナムなど世界各地で厳しい植民地支配を行なったのではあるが、「敵の敵は味方」ということだ。
 フランス博物館の見学を終えた私たちは、旧市街地の砦(Al Jalali Fort)をふもとから眺めた。新市街地の砦とさほど様式は変わらなかったが、こちらの砦の方が見張り塔なども立派で、防備に力が入っているように感じられた。ポルトガルの拠点として使われていたのは旧市街地の港であったから、防備も厳重であったのだろう。



 私たちは、次に、マスカット城門博物館(Muscat Gate Museum)へと向かった。ポルトガルによる都市防衛のための城壁が、現代では道路にかかる門となってその遺構をとどめている。城壁は、マスカットの旧市街をその外部と仕切って、内陸部から港へと攻めて来た敵の進行を食いとるために設置されている。ポルトガルが、マスカット利用価値をその世界覇権のための遠隔地通商の拠点にのみ見出していたことがうかがえる。城門博物館は、それら門の中の一つの内部に設けられている。1970年ころに、城壁を改造するGateway Projectが行われ、その時に同時に作られたのがこの博物館である。
 博物館の内部にはいると、マスカットの地形の模型が展示されており、このマスカットが、入り組んだ入り江を多く持つリアス式海岸のような地形をしていて、ポルトガルがこの地形を巧みに利用して世界覇権の拠点を設置していたことがわかった。また、城壁や砦がどのように港周辺に設置されていたかが描かれた都市図も展示されており、当時のポルトガルがマスカットのコの字型の自然の入り江を防備に活用していたことが改めてわかった。その資料によると、港のあった旧市街地だけに城壁を設置したのではなく、今の新市街地がある部分にも城壁を設置していたらしい。新市街地のマトラー地区もまた、旧市街地の港の防備にとって重要な場所であると考えられていたのだろう。砦のふもとに作られたモスクの写真もあった。ポルトガルに支配されていた時代のオマーン人についての展示もあり、その頃、漁撈などで生計を立てていたことが記述されていた。
牛に縄を結び井戸から水を汲ませるという当時の仕組みを、わかりやすく模型にして展示されたものもあった。国土の大半が砂漠であるオマーンにとって飲み水の確保というものが生活の根幹を担っていたということが詳細な昔の井戸についての資料や、模型などからうかがえる。当時の資料にはアラビアンナイトの挿絵なども見られた。
 見学を終えた私たちは、次の目的地である石油ガス展示センター(Oil & Gas Exhibition Centre) に向かった。

現代のオマーン経済を支える石油とガス:石油化学展示センター


 次に私たちは、旧市街を出て、石油ガス展示センターのある、ミナ・アル・ファハル(Mina Al Fahl)地区に向かった。ここは、マトラー地区よりもさらに西側に、3〜4km離れたところにある。この地区は原油を精製する製油所が建っている場所である。石油精製は大規模な工場が必要であり、かつ石油の入出荷に港湾施設も必要となるため、市街地から離れた海辺に近い場所に製油所が建っているのであろう。この近くに博物館を設置することで、技術力のアピールにもつながり、かつ併設されているエコマーンセンター(ecOman Centre)で、石油事業の正当性を強調するため、環境保護活動の広報も行うことができる。
 

まず私たちは、石油ガス展示センター(Oil & Gas Exhibition Centre)の見学を行った。展示館の正面にはオマーン石油開発(Petroleum Development Oman、PDO) の施設であることを表す赤と緑のアンモナイトを象ったロゴマークが描かれていた。
 

このPDOという会社は、1962年に設立されたオマーン政府が経営する国営企業で、オマーン国内での石油生産量の90%を占めている。また、天然ガスでも国内のほぼ全シェアを占めている。国内でも最大規模のこの会社の所有形態は、政府が60%、王族が34%という持ち株比率で、王族の力も大きく経営にかかわっている。国と王族と経済が一体化しているこの方式は他の中東諸国、サウジアラビアやドバイでも見ることができる。{出典 PDO公式ホームページ(http://www.pdo.co.om/Pages/Home.aspx)}
 

展示館内は非常に清潔であり、休憩するためにイスとテーブルが設置されたスペースがあるなど、見学者に対して配慮が行き届いていた。また、パンフレットも多く置かれていた。その中にはPDOの月刊誌もあり、その内容は会社がとった様々な賞のことや職員一人についてのインタビュー、本来の業務以外の様々な取り組みについての特集など、会社内部の透明化を図り、また職員一人一人の会社への帰属意識を促すものだった。
 

展示館に入ると、石油採掘技術が、手順を追って展示されている。大型の装置で原油を採取する工程が示されているものや、ボタンを押すことで擬似的に石油の採取に関係する工程を体感することのできる装置などがあった。また、原油を探査する方法として衛星を使用した方法や、電磁波を利用した方法が紹介されており、その探査によってイェメン近くに油田の可能性があることがわかったということが述べられていた。オマーンが最新の原油採取の方法を用いていることや、原油産出量が極めて高いことも記述されていた。見学客参加型の施設が多く展示されていることは、小学生〜中学生などの子供を多く博物館に引き込もうという狙いなのだろう。しかし、これらの石油採取技術は、実はオマーン独自の技術を示すものではなく、英蘭系の石油会社であるシェルによって行われているものである。
 

私たちは次に併設されているエコマーンセンターの見学に向かった。このセンターは、子供向けの科学博物館のような展示を通じて、オマーン国内で行われているPDOの環境保護策について説明されていた。なかでも、石油精製の際に出るCO2の削減方法について詳しく説明されていた。国営企業ということもあり、エコなエネルギーを使い環境保護活動を行っているという宣伝が国民の支持を得るために必要なのだろう。このような先進性の高いエコロジーの広報活動をシェルという多国籍石油資本が積極的に関わって行なうことは、外国資本のオマーンにおけるプレゼンスを正当化する役にも立つ。
 

見学を終えた私たちが展示館の外に出ると、外にはモスクが設置されていた。施設のスタッフ用のモスクであろう。







ルウィ地区:ショッピングモールと欧米系ファストフード


 展示館を出た私たちは、ルウィ地区に戻り、オマーンのショッピングモールについての視察を行うことにした。

 マスカットの都市構造においては、マトラーとマスカット旧市街が歴史的な史跡を多く保っているのに対して、ルウィ地区、つまり新市街はビジネス中心の機能を持っている。私たちの泊まっているホテルをはじめ、銀行やオフィスビルなど、欧米型の現代的経済施設が集積している。イスラームの伝統地区と欧米地区がはっきりと分化しているというのは、イラン、ドバイなどで見た中東の都市地理に共通の特徴であり、マスカットも例外でない。
 商業についても、伝統的なセクターは、今朝方視察したマトラー地区のスークのあたりに集積しているが、ショッピングモールが集まっているのは、ルウィ地区である。これらのモール施設は、全体的に清潔で高級な印象が感じられ、中〜高所得者をターゲットとしている。
 もともとルウィ地区はインド人が多く集まっていた。その場所に金融街があるということは、インド人がオマーンの金融を掌握していることを意味する。これは、イギリスがオマーンを植民地として統治していた際に、マスカットの経済を支配者として、英領インドの人々を送りこんだことに起因している。イギリスは、自己の主要な植民地の人々を、経済的支配者として他の英領植民地に送り込み、間接統治したのである。シンガポールなどの東南アジアの旧英領植民地では「華僑」が著名であるが、オマーンはもとより、東アフリカでは、「印僑」といわれるように、こうしてできたインドの人々のビジネスにおける存在感に、大きいものがある。

 まず向かったのはSabco Commercial Centre である。施設内に入ると、COSTA Coffeeという英国系のコーヒーショップチェーン店が中央に設置されており、オマーンの伝統的な衣装を着た男性達が談笑していた。しかし、閉まっている店がかなり多い。これらのモールに入っている店は、午後の暑い時間帯になると閉店してしまうらしく、談笑していた男性達は店の従業員であることが考えられる。ガイド氏によると、夕方になるとまた店を開けるということらしい。しまっている店が多いため当然客の数は少なかったが、モール内にいる人たちも身なりを整えた人たちが多いように思われた。中に入っている資本は海外資本と国内の資本が半々といったところで、サムスンなどの家電メーカーも多く入っていた。テヘランでも、また後に訪れるヨルダンでも、中東におけるサムスンのプレゼンスは相当に高く、日本の家電メーカーの追随をもはや振り切ったという感がある。オマーンでも現在鉄道建設が計画されており、その投資説明会のポスターがショッピングセンターの一角に掲げられていた。また、香水や洋服なども売られていた。
 次に向かったのはAl Araimi Complexである。これは、マスカット内でも最大規模のショッピングモールであるらしい。正面入り口の上には大きな現国王の肖像画があった。施設は三階建てで、先ほど訪れたショッピングモールよりも広く、入っている店の数も多かった。売られているものは洋服類が多く、食事ができる所もあった。海外資本も多く入っていた。このモール内にもCosta Coffeeが見られた。Wifi環境が整っているが、コーヒー店で注文をしないとパスワードが手に入らず使えないという、フリーライダー防止の設定になっている。この施設もやはり高級感を感じさせる施設で、富裕層向けの施設であるように感じられた。

 ショッピングモールの視察を終えた私たちは、昼食をとるためにルウィ地区の中心部へと向かった。向かう道中、トヨタやフォルクスワーゲンなどの車メーカーの大きめなディーラーがあった。このようなディーラーが多くみられたことは、オマーン国内の車需要が高いことを示している。また、ノキアやコダック、ダイキンなどの広告が多くみられたことから、多くの海外資本がオマーンに進出していることがわかる。マスカットのビジネス地区であるルウィ地区は、多国籍企業がオマーンに進出する際の拠点を置く場所として活用されている。
 途中、用水を引く工事をしている場所があった。商業活動が活発になるにつれ、人口も多くなり、水需要も増えていくからだろう。工事の詳細についてはわからなかったが、大規模な工事であった。
 私たちは、中心部でケンタッキーなどのファストフード店が集まる区画を見つけ、そこで昼食をとることにした。当たり前であるがケンタッキーの味は日本と変わらず、その変わらぬ味に安心感を覚えながら食した。値段は1〜2オマーンリヤルであった。

ビジネス街と時計塔


 昼食をとり終えた私たちはルウィ地区内にあるビジネス地区の核心部の視察に向かった。多くの金融系の企業が、この場所にオフィスを構えている。建っている銀行の種類を概観すると、オマーン国際銀行(Oman International Bank) ,マスカット銀行( Muscat Bank)などのオマーン国内の金融機関をはじめとして、もみられた。また、近くには、保険会社や、AIR INDIAなどの旅行会社も多く集まっていた。インドの旅行代理店があることから、インド系の人々がオマーンと頻繁に往来していることがわかる。大きなオフィス群が建ちならんでいるこの地区は、まさにオマーンのビジネスの中心地といった様相であった。
 

時計塔(Clock Tower)は、このような中心ビジネス地区の南側にある広場に建っている。この広場に面して、オマーン開発銀行( Oman Development Bank)や、HSBCなど、オマーン経済を支配する金融機関の建物が建ちならんでいる。ガイド氏によるとこの広場は、元は飛行場の敷地であったのを改装したものであるらしく、敷地が広くとられていた。時計塔自体はさほど古くなく、1995年に建てられたものである。全体は白で統一されており、八角柱に支えられている時計盤部分の上にはモスクでよく見られる、玉ねぎ型の装飾が施されていた。また、下の台座の部分にはオマーンの帆船を描いた絵があった。貿易で成長してきたオマーンにとってのビジネスの象徴は、帆船だということであろう。もともと、時間の概念はヨーロッパ諸国がイスラームにもちこんだものである。ここにこのような時計塔が建っていることは、この地区が時間の概念が重要な意味を持つ近代的なビジネス地区であることを象徴的に示している。また、イギリスによる文明の促進、それらのヨーロッパ文化への啓蒙の象徴として見て取ることもできる。
 

時計塔の観察を終えた私たちは、実際に金融街を見ることにした。金融街の中心の通りには、通りを挟んで約500mにわたって様々な銀行、金融施設が建っていた。どれも綺麗で背の高い建物である。地区の中ほどには、オマーンの発券銀行であるマスカット中央銀行がある。専用車の中から観察すると、他の銀行や施設と比べてその規模が大きく、入り口にはイーワーン型の装飾が施されていた。


世代を超えて受け継がれる印僑の経済支配:インド系学校

 ビジネス街の観察を終えた私たちは、オマーンにおけるインド系の人々のプレゼンスの一端を知るため、マスカット内にある外国人学校の観察を行なった。
 ルウィ地区の北側に位置するダルサイト(Darsayt)地区には、様々な民族が住んでいる。ガイド氏によると、そのような外国人グループの中で、旧英領インドを出自とする者が、三分の1の比率を占めているという。この地区は外国人が多いために、私立の外国人学校が多く建っている。また地区ごとに、インド、パキスタン、バングラデシュ、フランスなどに分かれており、それぞれの民族のための学校が設けられている。ちなみに、インド、バングラデシュ、パキスタンは、いずれもかつて英領インドの一部であった。イギリス植民地経済の影響が、マスカットの社会地理に今も大きな影響を与えているのを見て取ることができる。
 

私たちが最初に向かったインド人学校は、周りが白く高い外壁に囲まれており、あまり中の様子はうかがい知れない。建物自体は十分に大きく、生徒数が多いことの表れであろう。学校の周りの様子はあまり開発されている印象は受けなかったが、集合住宅が見られ、ここからも子供たちが通っているのではないかと推測される。



 

次に向かったのは、パキスタン人学校である。ここも周りが壁に囲まれており、壁の上には鉄線が張ってあるなど閉鎖的である。大きさは先ほどのインド人学校と同程度あり、十分な大きさであったように思われた。
 観察した学校に見られた高い壁は、マスカットの経済・社会構造を象徴的に表しているということができる。インド人やパキスタン人が金融の面でオマーンの主導権を握っており、比較的経済的に高層に位置する。つまり、オマーン人のインド人やパキスタン人に抱く民族的な対立感情が、この高い壁に可視化されているのである。

 外国人学校の観察を終えた私たちはホテルに戻り、夕食をとったあと、翌日に備えて早めに就寝した。a