ドバイの朝の風景


 朝起きた私たちは、ホテルのレストランにて朝食をとった。朝食の内容は、この巡検でなかなか見なかった西洋風の料理であり、海外からの観光客のニーズに合わせていることがうかがえる。実際に、レストランには私たちの他にも欧米系の観光客とみられる家族が食事をしていた。

今日は、今回のドバイにおける巡検、特にRTA(Road and Transport Authority,ドバイ政府道路交通局)との会談の実現に多大なお力添えをしてくださった、ドバイの日本総領事館への表敬訪問から始まる。

ホテルをでた私たちは最寄りのドバイ・メトロの駅である、「Mall of Emirates」へむかう。このホテルの周辺には、私たちが泊まったホテル同様、高層のホテルが数多く立ち並んでいた。まだ建設途中のものや、空き地のままであるところも多く、建設労働者を乗せたバスがしばしば私たちの横を走りさっていった。数年後には景色が大分変っていそうである。

10分ほど歩くとドバイ・メトロの一つであるレッドラインの高架橋が見えてきた。ドバイ・メトロは三菱商事を主体として、日系企業4社(三菱重工、三菱商事、大林組、鹿島建設)、トルコの企業(Yapi Merkezi1社で構成するJVが受注して建設したドバイ初の都市鉄道で、RTAが運営している。この「Mall of Emirates」駅付近では、ドバイ・メトロは高架になっている。駅の外見は、金色の流線形の屋根をした近未来的な雰囲気のする設計となっている。

私たちは、高架に沿って歩いていき、駅舎に近づこうとした。だが、駅舎手前の自動車道路を渡るための横断歩道などは一切なく、かなり交通量の多い中を車の間隙をぬってわたるほかなかった。高架の駅にあがるためのエスカレーターは設置されておらず、当初から道路から周辺住民が徒歩で駅に入るような利用を前提として設計で作られたのではないように思われた。一方で、駅名にもなっているエミレーツモールには、直通の通路が設けられており、この駅はモールに対する利用客に主眼がおかれているようだった。駅周辺には、人工的につくられた泉があったり、街路樹が植えられていたりしていた。自然豊かなイメージをつくろうとしているのだろうか。ただ、泉の水は循環させてないらしく、やや臭かった。

駅の構内に入ると、通路には歩く歩道が設置されていた。駅構内で、私達は片道切符を購入した。切符は駅の改札のような場所と、自動改札の双方で買えるようである。自動券売機は、欧州風のシステムになっており、まず行き先を決めて後からお金を入れるシステムになっている。切符の価格はゾーン制になっており、目的の駅のゾーン番号をもとにして、切符の料金が決まる。第1ゾーンは2.5UAEディルハムで、3km未満の短距離区間は、ゾーンに拘わらず2ディルハムに割引されている。切符は、日本のように改札機内を通すシステムではなく、磁気に反応させて利用するタイプであった。頻繁に利用する客は、日本のスイカ、パスモのようなカードを利用している。自動改札機のゲートの形は扇形になっており、日本で見られるものと異なっている。日本の三菱商事が中心になった都市鉄道プロジェクトであるので、日本の鉄道技術の粋が集められているのではないかと期待していた私たちは、日本の鉄道駅とは少々雰囲気が異なるドバイのメトロに、いささか裏切られたような気持ちを覚えた。私たちは切符を取得すると、改札を通り、エスカレーターでホームへと上がった。

駅の構造は22線の対面式ホームで、ホームは完全にガラスの壁とドアで線路の部分と隔たれて、乗客が線路に転落しないよう安全が図られ、またホームの冷房効率が良くなるようになっていた。

ドバイ・メトロの列車は完全自動運転で、5両編成、うち1両は優等車両(ゴールドクラス)となっており、総乗車可能人員は643人である。集電は第三軌条方式で、軌間は標準軌である。朝の通勤の時間帯であったが、乗車率は日本の通勤列車のような激しさはないものの、座席が全部埋まり、数人が立っているような状態であった。車両の内部にあったプレートから、この車両が近畿車両で作られたものであることがわかった。ただ、車両の内部は日本の通勤電車とは異なり、座席数は少なく、立つスペースが広く取られている印象をうけた。乗っている人々は主に若いホワイトカラー層が中心のようである。もっと上の社会階級の人は、自動車で通勤をしていると考えられる。またより社会的階級が低い人にとってメトロの運賃は高く、建設会社が提供する大型のバンで居住地から仕事場へ向かっているのだろう。

世界貿易センター(World Trade Centre)駅で降りた私たちは、日本総領事館が入るビルへ向かう。こちらは、駅の名前になっているビルとの間に連絡通路がないし、駅に掲示してある地図には、ビル名が書かれていない。しかもこのビルはやや駅から離れているので、私たちは少々迷ってしまった。私たちは、一般の人に道を尋ねながら目的のビルへ向かった。世界貿易センタービルは、少々デザインが保守的で古く、周りのガラス張りの最新鋭のビルと比較してやや浮いた存在であった。さらに、外壁にどことなくアーチ型のイスラム的な様式をとりいれているように見えた。



総領事から親しくお話を伺う:日本領事表敬訪問


 

ビルに到着した私たちは、エレベーターで19階にあがり、日本総領事館に到着した。総領事館についた私たちは、入館する前に、携帯電話、カメラやICレコーダーを預かられた。当然のことだが、セキュリティチェックは厳しい。総領事館についた私たちを高岡副領事が出迎えて下さった。私たちは会議室に通され、温かい日本茶を御馳走していただいた。イラン入国以来絶えて口にする機会がなかった久しぶりの日本の味は非常に懐かしく、とてもおいしく感じられた。

私たちが待つことしばし、松永大介総領事がお忙しい中駆けつけて下さった。私たちは松永総領事をはじめとする総領事館の皆様に、感謝の意を述べた。総領事はドバイについての概要を記した資料を用意してくださっていた。その後、その資料をもとに現在のドバイの人口や経済の現状と、日本との関係についていくつかお話を窺う機会をいただいた。

まず、このビルに対してのお話を伺った。この日本総領事館が入るビルは、ドバイで建設された初めての高層ビルであり、1979年に竣工したという。いまでこそ周囲には高層ビルが数多く建設されているものの、その当時はまだ周囲はラクダが闊歩する一面の砂漠だった。かつては天然真珠を採取して生計を立てていたドバイの漁村民は、日本の養殖真珠の開発成功により生業を失ってしまった。その後、ドバイ政府は油田を発見したが、その石油の埋蔵量の少なさから、石油を基盤とした経済成長に派限界を感じ、これに代わって巨大都市とインフラストラクチャーの整備をして脱石油依存の経済をつくりあげることに活路を求めたのである。このことの象徴ともいえるこの世界貿易センタービルは、通貨であるUAE20ディルハムの紙幣その姿が描かれており、ドバイの人々のこのビルに対する強い思いいれが窺えるという。

松永総領事は同時に、世界的な金融危機をおこしたドバイ・ショックについて語られていた。あの金融危機はドバイの人々がよかれと思って、結果的に過度インフラに投資を行ったものであって、決して悪気あってやったものではないことを理解して欲しいと語られた。

次に私たちは日本とドバイの様々な関係について伺った。ドバイの人々に対する日本への感情はかなり良く、「日本製は良いもの」という意識があるそうだ。この日本への好感度がドバイにおける日本車率の高さに反映されているかもしれない、と松永氏は語っていらした。また、工業製品以上に日本のポップカルチャーやアニメ、漫画といったゲンダイの日本文化に対する関心も強いようで、特に若い世代でその傾向がみられるそうだ。また、2020年の東京オリンピックに関連して、2020年にドバイで万博が開かれる予定であり、東京とドバイ双方でお祝いしたいという感情があるという。

日本製品が人気であるとはいえ、一方で、中国製品も依然として大量に入ってきている。だが、UAEがWTOに加盟していることもあって、周りの中東諸国に比べて知財に対する意識が強く、政府も知財を守るように指導をしていると松永総領事はおっしゃった。そのため知財のおかれている状況は先進国のそれに近く、イランで見られたような、知財に対する深刻な侵害はそこまでひどくはないという。中国製の製品が敬遠される一つの例として、UAEが、ホルムズ海峡を避けて、同じUAE内のフジャイラ首長国に石油基地を作り、ホルムズ海峡を通ることなく直接インド洋で石油の積み出しを行うためのパイプラインを建設する工事を挙げられた。そのパイプラインの整圧機に性能の悪い中国製を採用してしまったため、なかなか工事が進まないという。それゆえ、ドバイの高所得者は、中国製ではなく日本製の製品を特に選好する傾向をもつのだそうだ。イランで、人々が中国製品をこき下ろしていたのと共通の、中東の人々の意識なのであろう。

松永総領事は、私たちが今日まわろうとしている目的地について話すと、ドバイでの巡検のヒントとして、それぞれの場所にどのような人がいるのか、服装や民族に注目してみたほうがよいというアドバイスをいただいた。

この他にも、松永総領事は、氏が外交官になった理由などを、私たちに親しく語ってくださった。

非常にお忙しい中、貴重な時間を割いてお話をしてくださった、松永総領事を始めとする総領事館の方々の温かいお心遣いに再びお礼を申し上げ、私たちは総領事館を後にした。



大航海時代の拠点マスカットの歴史を物語るベイトアルベランダ博物館


 総領事館への訪問を終えた私たちは、再びドバイ・メトロに乗り、ドバイ歴史博物館の最寄り駅である、アルファヒド(Al Fahid)駅に向かった。アルファヒド駅周辺は、ドバイの旧市街、すなわち歴史的な都市中心にあたる場所で、昨日訪れたドバイの新市街で見られたような超高層の建物は無く、4〜5階ほどのやや古い中層のビルが立ち並んでいた。今ここは、ドバイにおいて外国人が集中している外国人街となっている。

私たちは幹線道路からやや細い道に入った。そこはインド・パキスタン・バングラデシュなどを出自とする印僑が集中している場所であるようで、電化製品や雑貨店などに交じって、インド系の文字(ゼミ写真では確認できませんでした)が使われた店や、インド系の民族衣装が売られている店などが見られた。インド系住民が多いのは、かつてUAEがイギリスの植民地(保護領)であったため、中間支配層や労働力として当時イギリスの植民地であったインドから多くの人が連れてこられたり、また移民してきたりしたためである。

 インド人街を抜けた先にドバイ歴史博物館はあった。この博物館は、かつてドバイで実際に使われていた見張りのアルファヒド砦を修復して設けられたもので、入口にはドバイ首長国の首長国旗とUAEの国旗がそれぞれ掲げられていた。「アル・ファヒディ砦」である。一階には、砦に使われた金属製の大砲や漁村民が使用していた大小のボート、そして漁民が住んでいた家とその家財道具なといったものが展示されてあった。

地下には、かつてのドバイの漁村民の暮らしぶりと昔のドバイ・クリークのようすなど、現代の世界都市ドバイの原景観というべきものが地図とともに展示されてあった。石大工や香辛料商の様子が、当時を再現したモデル人形、ジオラマや再現ビデオとともに展示されてあった。ドバイの発展の歴史を展示する場では、1940年代以降のドバイの発展の近・現代史が、1990年代まで、年代ごとに展示されていた。最初のものは、第2次世界大戦後のイギリス保護領化での社会インフラの整備、1966年におけるドバイ沖での海底油田の発見による海外資本の流入までについて説明されていた。次のものは、石油資本流入による都市としてのドバイの発展と、その後の資源減少からの、産業の脱化石燃料・多角化、及び都市機能の集中への転換について描かれていた。最後のものは、都市機能の集中に成功し、世界都市へと発展したドバイについて説明されていた。

ドバイに生息する陸海の動物や植物についての自然誌に関する展示もあった。

以下にそのまとめとして、ドバイの歴史について述べる。

(コラム) ドバイの歴史
ドバイはかつて、クリークを拠点とした小さな漁村であった。住民は魚をとったり、天然真珠を採取したりして、それらの交易をもとに生活をしていた。大きな変化は、インドとの貿易の中継点として、1853年に大英帝国がドバイを保護領化したことである。その後、イギリスの植民地経営会社である東インド会社の中継地の要所となったドバイであったが、20世紀にはいると日本が真珠の養殖に成功。主力産業であった天然真珠の価格が暴落し大打撃を受けてしまう。ドバイの成長の画期となったのは、油田の発見である。隣接する穴軸イギリスの保護領であるのアブダビで1950年代に油田が発見され、1960年代にはドバイでも油田が発見された。しかし、ドバイの油田の埋蔵量は非常に限定的で、長期にわたって石油に経済を頼るのは不可能であった。1971年にイギリスから独立したドバイ(他の首長国も同時に独立)であったが、そこで当時の首長であったラシード・ビン・マクトゥームは自ら音頭をとり、巨大都市インフラ整備を国家が主導して行うことによって地域を発展させようと試みたのだった。これにより、現在でもドバイ最大の貿易港であるジュベル・アリ港やその周辺の特区が整備された。さらに積極的な投資を行い何棟もの超高層ビルが建設されることとなり、UAEを構成する首長国の一つであるドバイが「都市国家」として発展する基礎を作ったのである。

一つ気になったのは、ドバイの歴史について述べられているはずのこの博物館において、外国人についての展示や記述が見られなかったことである。ドバイの外国人は全住民の8割に及び、ドバイの歴史を語る上でも避けては通れないものであるはずである。それにも関わらず、そのような展示物がないということは、ドバイ政府が外国人労働者やイギリス植民地としての歴史を軽視しているとも考えられる。外国人労働者が連邦内の人口の過半数を超え、現代的なビルが次々立ち並び、過去のものがどんどん失われていく中、ドバイの人々のアイデンティティとその歴史を永続的に保ち、彼らの祖国愛を醸成する働きをしているように感じられた。ここでもUAEの外国人労働者は大量に受け入れつつも、自国民を優遇しようとする政策の一端を感じた。



RTA本社


歴史博物館を後にした私たちは、再びアルファヒド駅に戻り、メトロでRTA本社に向かった。途中ユニオン(Union)駅でグリーンラインに路線を乗り換えた。グリーンラインはドバイ空港のターミナルと直結している駅があるということで、観光客やビジネス客でかなり混雑していた。私たちは空港駅のつぎの駅であるエミレーツ(Emirates)駅でおりた。この駅の名前については、後でRTA社にて聞くこととなるのであるが、命名権の制度を取り入れている。このエミレーツ駅は、いうまでもなくエミレーツ航空が命名権を買ったことによるもので、命名権の料金は10年間で1000万ディルハムだそうだ。

エミレーツ駅は、空港に近いということもあり、トラック輸送のターミナルや倉庫がかなり見られた。また、セメント工場や自動車修理工場など中小の工場も集中しており、この地域がドバイの工業地域であるように見受けられた。駅の改札をでた私たちは、RTAの迎えを受けて、RTAの人とここで合流する予定であった。しかし、駅には誰も待っていなかったので、私たちはタクシーを用いてRTA本社に向かった。タクシーもバスやメトロと同じくRTAの経営で、料金はメーター制であった。

RTA本社ビルは、駅から車で数分の場所に位置していた。建物はガラス張りの現代的な建物で、外壁はベージュ色で塗られていた。建物内部には、そこで働く人々のためのカフェが設置されていた。警備員も常駐しておりしっかりとセキュリティが守られていた。内部の写真を撮ろうとしたゼミ生が警備員に注意を受けたことから、かなり規律と治安には気を使っていることが窺える。内部で働いている人は、男性女性両方おり、服装はスーツの人もいたが、いわゆるイスラムの正装をしている人が多く、これはRTAが政府企業として、ドバイの国民としてのアイデンティティを重視していることが考えられる。

RTAの職員と合流した私たちは、来賓室と思われる部屋に通された。来賓室は広く、中央の空間を取り囲むようにソファーが設置されていた。ちょうど、内閣の大臣が会談をおこなうような様式である。豪華な食べ物も供されており、かなり重厚なおもてなしをうけた。RTAのCEOであるMattar Mohammed氏が、激務のなか私たちのためわざわざ挨拶のためお越し下さり、私たちは一緒に記念撮影を行なった。その後、Abdulla YousefさんとAysha saadさんより、RTAの現状と今後の展開についてお話を伺い、質疑応答を行う機会を得た。私たちは階下の会議室に通され、RTAに関する質問を行った後、スライドを用いてRTAについて、私たちの質問に答えてくださった。

 

私たちはなぜRTAが建設業者として日系企業を中心としたJVを選択したのかを伺った。RTAが地下鉄の建設業者に日系企業4社にトルコ企業を加えたJVを選んだ理由は、日本に対する友好感情とは関係なく、単にコストと技術の面で最も優れているからであったからだそうだ。この契約は、最初は13.2億UAEディルハムという予算であったそうだが、三菱を主としたJV以外の入札者提示した企業はどこも20UAEディルハム前後の提示であったそうだ。

しかし、RTA側の駅や橋といった施設の増設などの計画の変更や、JV側の建設コスト上昇に伴って、RTA側とJV側との折衝が行われ、その都度予算を増額したそうだ。最終的にかかった総額は29.6億UAEディルハムになったそうで、これは初期の計画の倍以上にあたる額である。このコスト上昇にはインフレーションは含まれていないといそうだ。駅の増設や車両の増加といったものが理由だとYousef氏は述べる

次に私たちはRTAの財務状況について伺った。現在でもRTAは赤字であり、現在は運賃収入のみでコストの70%しか賄えてないそうだが、2017年に黒字化達成の見込みであるそうだ。これの要因には先ほどの命名権料金も大きな要因を占めているようだ。現在は12%である、ドバイ市民のドバイ・メトロを使う率が2030年には30%まで伸びる見通しであり、乗客数のさらなる増加が見込めるからであるとYousef氏は自身をもって語る。開業時の6年前に1日に4万人だった乗客は、現在では10倍の40万人まで伸びている。これの原因はドバイ・メトロの運賃が非常に安いためで多くの市民にとって魅力的だからであるという。現在は12%の公共交通におけるシェアを占めているそうだが、最終的にはイギリスやフランスといった先進国並みの30%〜40%のシェアを獲得することを目論んでいる。

次に私たちはRTAの運営形態について質問を行った。ドバイ・メトロは、RTAがインフラの保有と運営の両方を行う垂直統合型の形態をしている。日本では多くの鉄道が垂直統合であるが、世界的にはインフラ保有と運営の会社が異なる垂直分離の形態も少なくない。Yousef氏は、RTAは垂直統合であったからこそ成功したと語る。RTAには、道路交通、鉄道、公共交通、バス、タクシーの5つの部門が存在し、これらすべてが100%垂直統合で運営が行われている。それぞれが連携し合って独占的に乗客を輸送しているという。これらの一体となった連携こそがRTAの強みで、垂直分離では言ったとなったマネジメントをしづらくなるとYousef氏は語っていた。今後はさらに連携を強め、新たな乗客をとりこむため、海上輸送にも力をいれていくそうだ。100%政府による出資で株式を公開していない、かつ公共交通機関が乏しく、その中で公共交通をほぼ独占しているRTAならではの政策ともいえるだろう。

次に私たちはRTAの設備について、お話を伺った。RTAの先進的な流線形の駅舎は、フランス人の建築家による設計のものであるそうだ。また、自動運転装と信号システムはカナダのTrans Canada社のシステムを、さらに自動改札はスイスのシステムを導入してしるそうだ。ここまで聞くと、私たちが今日使ってきたドバイ・メトロが日本の鉄道とかなり異なる外観であった理由がはっきりした。RTAは三菱重工を筆頭とした日本の企業中心のフルターンキーの案件と言われていた。しかし、実際には全てが日本製のものではないということが明らかになった。これは日本の製品のデザイン性そして運用というソフトの部分、がまだ他国を満足させることができるようなものではないということである。日本は工業先進国だが、まだまだ後進的な部分があるのだということを認識させられた。私は、延伸計画を実施する際に、また日本企業と契約するつもりはあるかと伺った。すると彼らは、RTAは最良と思える企業を選択するだけだと答えた。

最後に、私たちはRTAの現状とこれからの展望について、Yousef氏よりスライドを見せていただいた。

ドバイの人口は2020年までに310万人に増加する見込みで、上述したように2030年までに市民の30%がドバイ・メトロを使うようになる見込みである。現在、ドバイ・メトロは79車両を保有し、そのうちの50両を使用、ピーク時は3.5分に一本、平常時は8分に一本で運行しているそうだ。本来は90秒に一本で運行する設計となっているため、容量にはまだまだ余裕があるようだ。ドバイ・メトロはその環境性から海外の賞をうけとっており、一定の国際的な評価をうけているそうだ。

現在の運行路線は、総延長52km、所要運行時間70分のレッドラインと、総延長22.5km、所要運行時間3032分のグリーンラインの2線だけである。このうちグリーンラインの一部には海底トンネルがあり、これは中東で初の物であるそうだ。RTA2030年までに、トラムの新設と、ブルーライン、パープルライン総延長110kmの新地下鉄設線を建設する予定だという。これらのメトロはEthihad RailというUAEの中心を貫く、都市間鉄道にそれぞれ連絡駅を設ける予定であるそうだ。Ehihad Railは、現在は貨物のみを取り扱っている鉄道で、将来的には旅客も取り扱う計画だそうだが、これはUAE連邦政府の計画であるのでRTAとしては主体的に関与できないものであるという。このEthihad Rail も新設路線についても、計画の進捗は周囲の不動産開発と密接にリンクしたかたちとなるように思われる。このEthihad Railの第1期工事について、ShahからHabshanを結ぶ264kmの路線についてはすでに完成している。このEthihad Railの建設にはUAEに本拠を置くコンサルタント会社であるAtkins社が関わっている。もちろんこの不動産開発は土地を所有する首長の一族の主導でおこなわれると考えられるため、ドバイ・メトロはドバイ政府主導の都市開発とともに延伸していくものだと思われる。これらの建設を行う企業について、Yousef氏は、よくは承知していないが、アメリカと中国の企業が参加していると述べていた。

ドバイ・メトロは、パーク・アンド・ライド施設の拡充も進めており、Rashidyaには2700台分、Al Gusais には2500台分を扱うことができる施設があるという。これもドバイ市民を公共交通機関に誘導する一環であるようだ。

ドバイ・メトロは3か所の車両基地を保有しており、これらの基地にて車両の保守・管理もここで行っている。また、運行管理については、現在はレッドラインで8分間隔、グリーンラインでは3.5分間隔で電車を走らせているが、これは42%しか能力を発揮していないという。最大にシステムを生かせば、1.5分間隔での運行が可能となり、1時間で26千人の乗客をさばくことができるようになるそうだ。また、客車には等級がわかれており、日本の新幹線のグリーン車に当たるゴールドクラスと、一般車両のシルバークラスにわかれている。ゴールドクラスは日本の新幹線のように座席が並んでいる構造となる。

運賃はゾーン制となっており、全沿線を7種類のゾーンに分けて、どのゾーンからゾーンに行くのかによって運賃が決まっている。最低運賃はこの当時は1.8ディルハム(現在は2ディルハム≒60円)で比較的低価格である。また、乗降客は運賃の清算にNolカード(日本でいうところのSUICAのようなICカード決算システム。ちなみにNolとはCost Fareに相当するアラビア語)を利用することができる。また、このNolカードにも種類があり、ゴールドクラスを利用できるGold Card、一般定期乗客が利用するSilver Card、学生が利用できるBlue Card 、そして私達のような短期利用者が利用できる Red Ticke(使い捨て)の四種類存在する。

 

ちなみに、ドバイ・メトロの駅舎はそれぞれ4つの異なったデザインコンセプトをそれぞれもっているそうで、水(青)、地(茶)、空(緑)、火(赤)という意味合いなのだそうだ。一つ一つの駅舎に芸術性を求めているところが、日本の一般的な鉄道と異なるところだろう。

私たちは最後に、いくつか質問を行った。一つは、2008年の金融危機の時に、日本の銀行からの金融支援はあったかというものだったが、そのようなものはなかったという。もう一つは、主な乗客の社会的地位について尋ねると、大部分は中流階級の人々であるそうだ。

RTAへの質問を終えた私たちは、RTAの職員の皆さんに重ねて感謝を申し上げた。

ドラゴンマート: 中国製品を、中東、アフリカに広く売りさばく


 

RTAの訪問を終えた私たちは、昨日のガイド氏と再び合流した。専用車に乗り込んだ私たちは幹線道路を進みドラゴンマートを目指す。ドラゴンマートに向かう途中、幹線道路のわきには低層の新興住宅が見られ、ガイド氏によるとこれらは富裕層向けの住宅であるそうだ。このような宅地開発は、土地を所有することが許されている首長の一族が、その所有する土地を独断で民間に委託し開発するのだそうだ。自動車のディーラーが多くみられ、周辺住民の自動車の需要が非常に大きいことが窺える。中小のショッピングモールも目立ち、外国人労働者の身の回りの生活雑貨や食料品の調達はこのようところで済ますのだろう。

しばらく幹線道路を走っていると、低層の赤と白に彩られた長大な建物が見えてきた。建物の周辺は広い駐車場となっており、多くの客の車での来店に対応している。駐車場には乗用車のほかにトラックも何台かとまっており、このモールが卸売の機能を持っている可能性があることが窺えた。

私たちは車から降り、中へ入った。建物の入り口は、ガラス張りで壮大なつくりになっている。モール内部の入り口に中国風の絵が描かれた掛け軸があったり、中国の簡体字が店の看板に書かれていたりなど、あからさまに中国の影響をうけていることがわかる。出店している店の店主が中国系とみられる人であることがしばしばあり、中国の商業におけるプレゼンスがドバイでも小さくないことが窺えた。一方で、モールの一角にはかつてのイギリスの植民地銀行であり、現在は香港に本拠を置く有力な英国系銀行のひとつであるスタンダード・チャータード銀行(渣打銀行、Standard Chartered Bank)が店を構えており、かつての宗主国であるイギリス系で、かつ中華系の人々になじみが深い香港の金融機関がこの地に進出してきていることがわかる。モールの客層は、一見したところ、ドバイモールの時のような欧米人の客は少なく、地元のアラブ人や、インド系などの人々が多いようにみられた。客としては中華系の人はあまりいなかったように見受けられた。先日訪れたドバイモールと比べて、閑散としているようにも感じた。また、ガイド氏の話によると、リビア、シリア、ヨルダン、オマーンといった国からも客が来るようで、このモールは中東及び北アフリカに及ぶ非常に広い商圏をもつ高次の商業中心であることがわかる。ドバイ、ひいてはUAEが中東諸国全体の商品の供給地となっていることの表れであろう。一方で、ドバイモールや、この後訪れるエミレーツモールなどと比べて、客が少なかったのも事実である。これは、このモールの対象となる客が、一般的な消費者というよりも、商品を大量に購入する卸業者向けであるためと考えられる。この先進国と周辺国への商品供給の中心地というドバイの2面性の縮図が、このモールの観察で感じられる。

私たちは、モール内を進んでいった。モールは広大で、全体として縦長であり、入口付近のみが2階建てになっている他は、平屋である。モールの背骨となる一本道のメインストリートの両脇に、商品の種類ごとに区分されて小規模の店舗が多数展開していた。売っているものの種類は、日用品、電器、工具、衣料品、家具、バッグといったものから、商店のネオンや彫刻といったインテリア、芝刈り機、果ては宝石といったものなど、ありとあらゆるものに広がっていった。モールの一角には旅行代理店も入っている。また、中華料理のレストランも何軒か出店していた。モールの奥まで行くと、中国の企業とタイアップした、企業進出のための窓口が開設されており、中東への中国の投資を積極的に支援していた。

一部の衣料品には、スパイダーマンやディズニーといった知的所有権が侵害されていると思われるものもみられた。やはりドバイモールとは大きく異なり、法治が及んでおらず、規律の乱れがやや見られるようである。出店している店に、ドバイモールのように、世界的に知られているブランドの店は無い。店舗の一角には風俗店とみられる店も出店していた。ガイド氏によるとドバイにおける性産業はその多くを中国人が担っているとのことである。また、このモール内の撮影は禁止されており、ゼミ生が写真を撮ろうとすると警備員がそれを制してきた。政府が取り締まっているはずの、模造品や風俗店の存在が公になることを隠すためかもしれない。


ドバイ金融センターに立ち寄る


 

ドラゴンマートを後にした私たちは、ドバイの金融センター地区を視察するため立ち寄った。地区の中心にある金融センタービルは現代的な外観をしており、フランスの凱旋門のような形で内側がガラス張りとなっている。かなりのビジネスマンが出入りをしていた。金融センターの周囲には超高層のビルが建っており、この一帯はオフィスが集中する業務中心地区となっている。金融センタービルの一階には、スタンダード・チャータード銀行の支店がおかれていた。やはり旧宗主国のイギリス系の金融機関のプレゼンスが大きく、強いドバイの金融に影響力を持っていることが窺えた。

建物の中に入った私たちは、奥に入ろうとすると、警備員に止められた。RTA同様かなり警備は厳重である。そのため、私たちは金融センターの地下におり、ならんでいる喫茶店やレストランの店舗群を観察した。出店している店舗はスターバックスやサブウェイといった欧米系の店舗であった。ここではスーツを着こなした欧米系のビジネスマンが休憩したり、他の人とビジネストークをしたりしている。また、このような人々が勤める外資系の企業がこの周辺に集中して立地していることがわかる。さらにこの地下には、飲食店だけでなく、宝石店、時計店、高級スーツの店といった高級品を売る店舗もみられた。この地下が、高所得者むけの、かなり有力な商業地区になっていることが窺える。



砂漠の国の奢侈的スポーツ: スキー


私たちは、一度ホテルにもどり、服装の準備をして、ドバイ第2の規模を誇るショッピングモールである、エミレーツモールに向かった。外観は、レンガ調の外壁とガラスに囲まれた2階建ての建物で、巨大な滑り台のような屋内スキー場のゲレンデが遠くからでも一目でわかる。エミレーツモールの入り口部は広い駐車場になっており、たくさんの車が出入りしていた。中には高級車が駐車している様子も見られ、かなり上流の人々がこの屋内スキー場に足を運んでいることが窺えた。

 モールの内部は、ドラゴンマートと異なり、西欧の化粧品やカジュアルな衣料店など、多くのブランド店が入っていた。客層もアラブの人々だけでなく、白人客がかなり見受けられた。

 モールに入ると、屋内スキー場は奥の方になる。スキー場はモール側とガラスで隔たれて、可視化されており、多くのギャラリーがスキーを楽しむ人々のようすを眺めていた。スキー場入り口にある広告などを見ると、ペンギンショーや、雪のスライダーといったイベントも定期的に行っているようで、来客を絶やさないようにしている様子がうかがえた。また、スキー場入り口付近には、旧ソ連の中央アジアのイスラム教国に本物のスキー旅行にパンフレットが置いてあった。ここでスキーを練習した地元の富裕な人々は、本場のスキーを楽しむために、そのような海外のスキー場へいくのだろう。日常的に雪がない熱帯地方の国々で、スキーは、極めて奢侈的なスポーツとなっている。

私たちは入場すると、スキー用具を借りるために一人20UAEディナールを払い、それとは別にロッカーを借りるために一人当たり20UAEディナールをデポジットした。私たちは各々、スキーあるいはスノーボードとスキーウェアを手に入れ、スキー場へむかった。

屋内スキー場内部は当然のことだが非常に寒い。熱帯においてこの低温を維持するだけでも、莫大な費用がかかると思われる。滑っている人々を見ると、主な客層は、外国人の観光客というよりも、ドバイに住む地元の富裕層たちであるようだ。コースはL字型に屈曲しており、曲がっている部分の内周と外周の距離の差を活用して、内側はやや急な斜度の上級者むけコース。外側の部分が初級者むけコースが置かれている。初心者でも十分滑ることができる一方である程度の熟練者でも満足できるものとなっており、すぐに飽きないようなコース設計となっている。雪質は、日本の春スキーのような湿雪ではなく、本格的なパウダースノーといってよく、快適に飛ばせる。

リフトは、日本のスキー場にもある一般的な4人乗りのチェアリフトと、紐につかまって斜面を登るやや危険なロープトウがあった。リフトの下には、アルプス風の建物の模型が置かれていた。

雪が降らないこの地域の人々の富裕層にとって、このようなゲレンデでスキーを練習し、スキーが滑れるようになるということは、一種のステイタス・シンボルで、非常に魅力的なものであるだろう。私たちも2時間ほど、ゲレンデで季節外れのスキーやスノーボードを楽しんだ。


ドバイで稀になった中東の雰囲気: オールド・スークを巡る


スキーを終えた私たちは、オマーンへ向かう夜行バスの出発まで時間があったため、バスの乗り場に近い旧市街のオールド・スークを見学していくこととなった。オールド・スークは今日の昼間訪れたドバイ歴史博物館のやや北側に位置している。そこへ向かうため、私たちは専用車にのりこみ、午前中訪れた旧市街まで移動した。

旧市街に着いた私たちは、ドバイ・クリークを観光用の船で北上してオールド・スークに向かった。ドバイ・クリークでは、多くの電飾に彩られた観光船が行き来しており、かつては多くの漁船や貿易船が停泊し、交易の中心となっていたクリークが今では巨大な観光スポットとなっていることがわかる。いまでもわずかに見られる漁船が、かつての小さな漁港であった昔の名残を感じさせた。

オールド・スークについた私たちは、ガイド氏の友人だという人がやっている店へ向かった。スークは、先日イランのバザールで見たような、ドバイではむしろ稀になった中東の雰囲気がいっぱいに漂っていた。狭い路地の両サイドには2階建ての商店が並んでおり、香辛料や、家内のインテリア、布生地、アクセサリーというものが売られていた。ここの雰囲気はイランで何回か見てきたバザールに近いイメージを感じさせる。やはり同系統の商品を売る店舗は集中して立地している。ガイド氏の友人はイラン人で、香辛料を売る区画で、ターメリックや黒コショウなど日本でもおなじみの香辛料などを含め、約100種類もの香辛料を売っていた。地元の人々の他にも観光客に対しても人気であり、一種の観光スポットとなっているようだ。

その後私たちは、ゴールド・スークに向かった。ここでは金を始めとする貴金属や宝石店が軒を連ね、金や宝石がショーケースに並べられていた。ある店舗には、ギネスブックに載っているという、世界で一番大きいダイヤモンドがショーケースに陳列してあった。ゴールド・スークは人がまばらであったが、ガイド氏によると、翌日が休日であれば、もっと多くの観光客や行商人でにぎわうという。金の相場表がとおりの真ん中に据えられている。これを見て金を売買する人がいるのだろう。このゴールド・スーク付近には、黄色いウエスタン・ユニオンの看板もあった。旧市街のスークが、外国人労働者の送金の場所としても使われていると考えられる。
 

オマーン行き夜行バスの発着場は、きちんとしたバスターミナルのような所ではなく、オマーンの旅行社事務所の前の駐車場にある。

私たちは、バスの出発までしばらく時間があったため、近くで夕食をとることとなった。この発着場周辺は、昼間訪れた旧市街同様、インド人街となっており、私たちはその一角にあるカレー屋で夕食をとった。建物の外観は質素なコンクリートづくりで、店の外では数人のインド人がたむろしており、仲間とお喋りに興じていた。内装もいわゆる大衆食堂といった感じで、簡素なテーブルと椅子があるのみだった。値段も非常にお手頃であった。店内では何人かのインド人と見られる客が食事をとっており、手で白米とルーを混ぜながら手で食べるインド古来の食べ方をしていた。私たちもこのような食べ方をしなければならないのかと危惧したが、店主は親切にも私たちにスプーンを持ってきてくれた。このようなインド人料理屋は、ドバイに住む印僑に故郷の味を提供するだけでなく、インド人のコミュニィの拠点となっているのだろう。

 食事を終えた私たちは、バス移動に備えるためスーパーマーケットで買い物をし、2日間お世話になったガイド氏たちに別れを告げた。

私たちの乗るオマーン行き夜行バスは、大きな高速バスのような車と思いきや、20人乗り程度のマイクロバスであったため、私たちの荷物は後ろの座席に積みおかれた。座席は満員であり、乗客の多くはオマーンに帰る人であるように見受けられた。私たちが乗り込むとバスは21時に出発し、一路オマーンとの国境へ向かった。


(吉田 洸一)