乾燥地帯を抜け、標高差1000mの山岳路線を下る列車


 午前8時頃、バンダレ・アッバースへと向かう私たちを乗せた列車は、イラン中央部に位置する乾燥地帯の砂と岩山のみが広がる景色を抜け、朝日に照らされた窓の外には、それまでの砂漠の景色に加えて少しずつ植物の緑が見受けられるようになっていた。線路沿いには背の低い木々がところどころ生息している。



 この地帯は約1000mの標高にあり、目的地のバンダレ・アッバースは海沿いの都市であるため、線路はこの約1000mの標高差をそのまま下る。山岳地帯での鉄道工事は大変困難であるが、難工事を経てようやく完成したものである。イラン中部で、イスファハーンの400kmほど東に位置するバフクBafqから、バンダレ・アッバースへの路線は1993年に竣工し、これに伴いテヘランからバンダレ・アッバースまでの鉄道路線が全通した。(The Unofficial Homepage of Iranian Railways 、”History”の項参照)。走行中の食堂車からは山岳が景観出来た。



 車窓からは馬蹄形カーブで標高を下げてゆく線路が見えた。遠方にこの先列車が進む橋梁も確認できた。 乾燥地帯での岩山は、表面がかなりボロボロである。

これらは、この地帯では降雨量が非常に少ないため、雨に削られることなく、風化のみによって浸食が行われたことを示している。岩肌に表れている地層には、緑色を含む地層が観察できた。これは、溶岩が残っていることを示すものである。イランには主に7つの火山があり、イランで最も高い山である標高約5610mのダマヴァンドDamavand山がもっとも知られている(Volcano Discovery HP)。私たちの乗った列車が走るイラン南部の高山地帯にもクアレハサンアリQal’eh Hasan Ali火山など、いくつかの火山がある。先ほどの緑色の地層もいくつかはこれらの火山活動の形跡であるかもしれない。


 車窓からは、時に植物や岩山の間に、川が流れている場所や、川が干上がったと思われる場所も見受けられた。また、列車の走る線路沿いには周囲より10mほど下がった土地が見られた。これはおそらく河岸段丘であり、やはり川があったことを示す。私たちが巡検で訪れた9月は雨量の多い季節ではないので、水量の多い川は見えなかったが、この地帯にも降雨があり、植物が生息する条件である水が供給されている地帯であることがわかる。

 河川沿いや線路沿いのところどころで、ナツメヤシが栽培されている。ガイド氏によると、ナツメヤシの実は、乾燥させて砂糖などで加工され、ドライフルーツとして食べられており、私たちも巡検中、イランに限らず中東各国でこれを食べた。また、ナツメヤシの油は石鹸や化粧品として使われたり、ラクダなどの動物の飼育のエサとしても使われたりする。

 鉄道の線路は単線であるが、上下列車の交換所を増設する工事がすすんでいる。列車の運行数が増えていることを示すものに違いない。

 午前9時を少し過ぎたころ、列車は高山地帯を下りきり、フィンFin駅で停車した。駅の周辺には川もあり、植物もたくさん見て取れた。フィン市はバンダレ・アッバースから約50kmの距離にある人口5000人ほど(2011年)の小さな都市である(City Population HP のイラン、Hormozgan県についての統計 )。その都市にあるフィン駅は特に大きいものでもなく、乗客の乗り降りも少なかった。しかし、反対路線に停止していた貨物列車は大きなコンテナをいくつも牽いており、また駅の近くには多くのコンテナが置かれていた。この新設の鉄道は、バンダレ・アッバースで海外から輸入された物資をテヘランやイラン各地へ、そしてさらに国境を越えてロシアなどに輸送するため、また反対にこれらの地域から輸出品を港へ輸送するのに、大きく活躍していることがわかる。ロシアの企業Uralvagonzahodの専用貨車の写真を撮影した。 RIVの記号がついており、この貨車は国際輸送に使われていることを示す。Uralvagonzahodは、戦車や車輌類を生産するソ連スターリン時代から続くロシアの企業で、工場はニジニ・タギルというウラル山脈の東麓の都市にある。スターリンは、独ソ戦に備えて、生産拠点をヨーロッパからウラルの東側に移転させた。この企業が、ロシアからイランの鉄道網に貨車を乗り入れ、イランの港湾を利用して輸出入をしていることがわかる。ロシア製の兵器等を需要するアジアやアフリカの諸国への貿易は、イランの港湾が便利であろう。イランはアメリカを中心とした国々からの経済制裁によって、経済が停滞してしまっているのではないことが、この鉄道から確認できる。

 フィン駅の様子を観察していたところ、隣に座っていた客が、車窓の遠くに見える建造物を指さして「ポルトガルだ」と私たちに話しかけてきた。この駅のすぐそばのフィン市街の中心部に、大きな岩山がひとつあって、その頂上付近に見張り塔のような建物が建っていた。その客の話ではこれはイラン南部にポルトガルの要塞があった時代のものであるらしい。私たちが向かっているバンダレ・アッバースの近傍には、16世紀にポルトガルの要塞があった。後に私たちは、オマーンのマスカットで、リスボンから長崎に至るポルトガルの航路の拠点のひとつを視察するが、当時、ポルトガルの覇権は、マスカットを拠点としつつ、ホルムズ海峡を支配しようとし、その対岸のバンダレ・アッバース近郊の都市にまで及んでいたことになる。

 反対方向へ向かう列車の待ち合わせのための約20分の停車を経て、列車はフィン駅を出発し、いよいよ最終目的地バンダレ・アッバースへと向かった。バンダレ・アッバースへと向かう線路沿いは、駅出発直後には岩山と砂の景色であったが、海が近づくにつれ、しだいに緑が多くみられる平地に変わっていった。かなり湿気も高くなっており、車窓の外ではナツメヤシの樹や背の低い植物が多く生えており、時にはラクダが草を食んでいる様子も観察できた。



イランの貿易を支え続けてきたバンダレ・アッバース


 列車がバンダレ・アッバースの郊外に入ったころから、かなり住宅地も見られるようになった。

 午前10時頃、ついに列車は、終着のバンダレ・アッバース駅に到着した。プラットホームは床のタイルも天井も柱も白で統一された飾り気のないデザインであり、その直線的なフォルムは、中国が建設したテヘランの地下鉄とどことなく似ていた。駅舎には落書きもほとんど見られず、ホームの床にもゴミなどが散乱することもなく比較的きれいに保たれていた。掃除をするスタッフの姿は確認できなかったが、それなりにメンテナンスは行われている様子である。


 この終着駅で乗客は一斉に下車し、ホームはかなり混雑していた。私たちはホームを進み隣接する駅舎に入ろうとした。だが途中には、テヘラン駅で私たちが通過したのと同じようなゲートが設置されており、少し滞った。ゲートを抜けると駅舎である。内装や外観は、中国で見受けられる駅舎と似ており、白い二階建ての小さなものであった。

内部はそれほど広くなく、簡素で、待合のイスや売店の他は何も見当たらなかった。テヘラン駅のように入口に装飾が施されているわけでもなく、質素で飾り気のないシンプルな建物であり、正面の二階の中央部分に、「バンダレ・アッバース」とペルシア語と英語で表記された看板が掲げられていた。駅前には駐車場が広がっており、駅を降りた乗客たちは、次々に待機していたタクシーや迎えの車に乗り込んで去っていった。


 新設の駅は、市内からはなり離れた場所に建設されており、駅前には商業機能はまったくない。駅から少し離れた高台には、マンションが何棟か並んでいた。市内から少し離れた場所にマンションが建っていることを考えると、車を所有する程度の中級・高級層の住民が住んでいるのであろう。建設途中と見えるマンションもあり、マンション需要の存在を窺わせた。


 私たちは、駅の駐車場に待ち構えていた専用車に乗り込み、市内へ向かった。列車で出会ったイラン人造船技師、アミンさんが私たちを自宅に案内してくれることになったため、市内の様子を観察しつつ彼の自宅へ向かうのである。



コラム:バンダレ・アッバース
 バンダレ・アッバースは人口約50万人(2011年) の都市で(フィン市の人口と同様、City Population HPのイラン、 Hormozgan県についての統計)、Hormozgan県の県都である。現在は、イランにおいて、最も重要な港湾都市である。この港はホルムズ海峡に面しており、インド洋に一番近いという有利な立地にあるため、世界各国との貿易によってイラン国内に様々な物資を調達し、テヘランなど国内各地や、隣接する内陸諸国へ届ける役割を担っている。
 イスラーム教が誕生する7世紀以降、イスラーム商人が海上交易ではペルシア湾やアラビア海、インド洋などを経てアラビア半島や東南アジア、インド、東アフリカなどを結び活躍していた。バンダレ・アッバースは、ホルムズ海峡に面しているため、アラビア海などに出ていくことや、逆に外洋からペルシア湾へ入る関所としてこの都市は便利に使うことができる上、イラクやシリアへ向かう陸路の入り口になることから、ホルムズ島とその対岸のこの街が、イスラーム商人の交易の拠点として繁栄したのであろう。
 羽田正著『東インド会社とアジアの海』(2007年、講談社、198〜203頁参照)によると、15〜16世紀、東アジアとの貿易から得られる莫大な利益を求めてポルトガルが海上航路を開拓し始めて以来、中東地域もまたポルトガルの進出を受け、ホルムズ海峡もポルトガルの支配を受けることとなった。だが、その後ポルトガルは衰退し、1615年サファヴィー朝アッバース1世がこの地へ遠征を行い、イギリスと協力してポルトガルを追放した。その時のサファヴィー朝のシャーの名にちなみ、1622年「バンダレ・アッバース Bandar-e Abbas」と改名された。



イラン人造船技師宅を訪問


 私たちの専用車は、市内へと進んでいった。バンダレ・アッバースは西部と東部、海岸沿いの3つのエリアに分かれている。
 西部エリアは巨大な貿易港であるシャヒッド・バホナール港Shahid Bahonar Portと街の中心である中央業務地区を抱えている。また主要な道路沿いには小さな商店が立ち並び、住宅地も確認できる。

 東部エリアは主な道路であるイマーム・ホセインEmam Hosain 通りを挟んで両側に住宅地が広がり、マンションが広範囲に広がっていた。これらは少し古めであったが、外観はきれいであり、時折建設中のマンションや建てられたばかりの新しい建物も見受けられた。多くのマンションで駐車上を兼ね備える建物や建物前に車が駐車されている光景が確認できたため、おそらく中から高階層向けのものが多いのであろう。
 海岸沿いエリアは、西部・東部エリアの南側にあり、高級ホテルや高所得者層向けの住宅街やマンション群が立ち並ぶ。また市役所や図書館など、市の施設も集まるエリアとなっている。
 専用車は駅から市内へ入り、市内北東部のイマーム・ホセイン通りを東へ進んだ。この通りの途中には、バンダレ・アッバース・イスラーム自由大学のモニュメントが建っていた。

地図で確認すると、この場所から約1〜2km南の場所にこの大学がある。私たちはさらに東へと車を走らせて、アミンさんのお宅へと向かった。
 アミンさんは、バンダレ・アッバースに住み、海軍軍需工場の造船の仕事に就いておられる方である。大学の修士を取得した後、このお仕事をされているそうであり、昨年には京都大学への留学に志願されたこともあって、日本には関心が深いらしい。


 アミンさんのお宅はマンションである。マンションの外装はそれほど古くなく、同じ色・同じデザインのマンションが何軒も連なって建っていた。各マンションは背の高い分厚いゲートで囲まれていた。

 アミンさんの部屋へと入る際は、日本と同様部屋の前で靴を脱ぐよう指示された。しかし、日本と違って玄関という空間はなく、部屋への扉の前に小さなカーペットが敷かれているだけであった。部屋内部は10畳ほどの大きなリビングとキッチン、さらに奥にはいくつかの小部屋があった。リビングには植物のような模様のカーペットが敷いてあり、壁のそばには高級そうなソファーが並んでいた。テレビ、ステレオ、PCなどが並んでおり、テレビとステレオはSonyの製品であった。壁にはコーランの言葉が書かれた額縁が飾られていた。壁紙はイスラーム的な植物の模様が描かれていた。キッチンにも電気ケトルや冷蔵庫などの電化製品があり、これらは日本の一般的な家庭とさほどかわらなかった。この家はアミンさん個人ではなく、彼の家族で購入したものらしいが、現在ご両親は近くの別の街に住んでおられるということである。
 私たちはソファーやカーペットにすわり、アミンさんに出して頂いた砂糖の入った水やお茶、お菓子とアイスクリームを頂きながら、アミンさんにイランに関する質問をすることにした。

○イランと国際関係
 まず当然すぎるように、イランと欧米諸国・アジア諸国との国際関係が話題となった。私たちは日本や欧米とイランの関係についてどう思っているか、伺った。
 アミンさんは、イランは経済制裁によって国が閉ざされているが、イラン人はもともと親切で平和的な人々であり、他の国といい関係を築きたいと思っている。しかし政府は欧米などの他国と友好な関係を築けておらず、その理由がわからないとおっしゃった。イランは日本ともいい関係を保ちたいが、日本政府がそのような態度を取ってくれない、と指摘された。欧米諸国に関しては、新政権になって欧米との関係は改善していることを感じているようで、新政権を支え、信じていると語り、1〜2年後には今よりもっと関係はよくなるのでは、と期待されていた。イランの政権に関して、過去の欧米諸国と悪関係を認めたうえで、新政権に対する期待感を持っているようであった。
 次に、アメリカがイランの核保有を疑っていることに関しては、アミンさんはイラン政府が疑惑を否定しているのであれば、それを信用するしかないとおっしゃった。軍事関連のお仕事をされていることなので、それ以上は立場上言いづらいということもあるのかもしれない。

 アミンさんは、新政権に関してはかなり期待をしているようである。イラン国内では若者の就職率は悪化しているそうであるが、それはイランに若者の人口が多すぎることと経済が停滞していることが原因であるといい、新政権で国際関係が改善すれば経済も上向きになり、就職率も改善すると期待しておられた。また、アミンさんは、新政権は様々な法整備も進めており、自動車産業や造船業を支援するなど、2〜3年後に状況はかなり良くなるのでは、おっしゃっていた。

○日本、中国、韓国への印象
 次に私たちは、実際、巡検中に視察したバザールに、中国製品が多く見受けられたことを思い出しつつ、日本、中国、韓国の製品にたいしてどのような印象を持つか、と伺った。  アミンさんは、イランにはたくさんの中国製品が流通しているものの、それらは安いが1〜2年ですぐ壊れてしまうので、イラン人はそれほど好んでいないと話をされた。
 イラン人は所得の関係でいつも日本や韓国の良質の製品を買うことはできないが、長く使うのであれば、そのような高級であるが良質のものを購入すべきであるとおっしゃった。日本や韓国はテクノロジーがあり、特に韓国製品はイランでは一般的であるという。アミンさん宅にも日本製の家電製品があったが、それらは2〜3年前に購入したとおっしゃっていた。

 またアミンさんは、日本や韓国がどのように経済成長を果たしたかについて興味を持たれていた。アミンさんの話では、造船業ではイランは10〜20年前には、日中韓の3国に対してそれなりに競争力を持っていたそうであるが、現在では90%以上を日中韓3国が独占しているらしい。これらの国々がどのように成功したかを知って、イランも日本や韓国を参考にしていきたいそうである。

○イランと、中国・ロシアとの経済関係
 次にイランと中国・ロシアとの経済関係についてお話を伺った。
 まずは中国について、アミンさんの話では、イラン南部のガス開発プロジェクト にPhase 20というプロジェクトがあるそうで、そこでは中国がその操業を請け負っているそうである。しかし、イラン人たちはこのプロジェクトには満足していない、とアミンさんはおっしゃっていた。地下100〜60mにあるガスの抽出技術はそれほど難しくない開発技術であるのに、中国の抽出するガスのクオリティーは低いとおっしゃっていた。欧米諸国や日本からの開発協力が得られない中、イランにとって中国はほぼ唯一の選択肢である。だが、アミンさんによるとこのプロジェクトから中国は2〜3年後に撤退してしまうらしい。先ほどの中国製品に対してもそうであり、このプロジェクトの話でも、やはり中国に対してあまりいい感情を持っている様子ではなかった。

コラム:イランにおける中国のガス開発の動向

 帰国後、イランのガス開発への中国の関与について調べてみた。別のプロジェクトではあるが、2012年12月27日の朝日新聞の記事によると( 「中国石油、工期遅延でイランから警告 50億ドルの契約取り消しか」) Phase 11というイラン南部のサウス・パルスSouth Pars天然ガス田の開発を、イランが2009年に中国のCNPC(中国石油天然気集団公司)に委託した。このPhase 11はもともとフランスのトタルTotal社とインドネシアのペトロナスPetronas社の合同業者が開発に協力していたが、2009年に欧米諸国の経済制裁を受けて撤退したことから、代役として中国企業が選ばれたようである。しかし2012年末、中国企業の工期が遅延したため、イランは50億米ドルに上るサウス・パルス天然ガス田の開発契約を打ち切ると警告した。同記事ではCNPCは「Phase 11は開発リスクが高かった」と言い訳したと報じている。2013年8月のIran Dairy Briefの記事によると( Chinese CNPC out of phase 11 of South Pars)、その後契約は打ち切られ、結局イラン国営石油会社がこのプロジェクトを引き継いだようだ。
 これらのケースから察するに、中国はイランが経済制裁で欧米諸国の支援を受けられない状況を利用し、進出したものの、何か困難があると開発の途中で事業を無責任に放りだしてしまうケースもあるようである。このようなことがあれば、イランの人々が中国に悪い印象を持つのも無理からぬことであろう。



 ロシアについても、アミンさんのお話を伺った。ソ連時代にイランとソ連はとても親密であったのではないか、と質問したところ、現在ではエネルギー開発関連に関してロシア企業もイランに積極的には進出していないらしい。ロシアはエネルギー関連ではそれほど協力的ではないとおっしゃっていた。アミンさんは、日本や韓国がもしイランに協力してくれるのであれば、イランの経験や知識を提供する準備があるとおっしゃっていた。

○イランの宗教と政治との関係について
 宗教についても、アミンさんにお尋ねしてみた。
 イランでは90%以上の人々はイスラーム教を信仰しており、他の宗教の信者は5%程度くらいではないかとおっしゃっていた。イスラーム教は一日に5回の礼拝があり、朝1回、昼・夜はそれぞれ2回をまとめて行うらしい。礼拝室は家にはなく、普段の礼拝は近くのモスクで行うそうである。

 さらに私たちは、実際に、イラン国内でダムや灌漑工事などのインフラ整備の現場を見ることができ、イスラーム原理主義の政権がイラン国民の生活を支援していることが感じられたことをふまえて、イランの宗教と政治の関係について伺った。
 政治と宗教は密接な関係にあり、政府はイスラーム教の立場にある。鉄道やダムなどのインフラ整備によって国民の暮らしを豊かにするなどして政府は人々を大切にし、人々はイスラーム教のルールに基づいた選挙制度によって政権を選び支えている。国だけでなく県の政府も同じ政治制度である。アミンさんはこのようなイランの政治制度のほうが、政教分離の制度より好ましいとおっしゃった。イラン革命以前の政権では、貧富の格差に対して適切な処置が行われなかったことから、国民はイスラーム原理主義の政権を求めた。ただ、アミンさんはイスラーム政権を持つ国家だけでなく、政教分離を行っているトルコなどの国とも、友好な関係を築きたいとおっしゃった。

 今度はアミンさんが、日本も選挙で統治者を選んでいるのかと質問された。私たちが、戦前のように天皇は主権者ではなく、現在は選挙によって統治者を選んでいると説明したところ、アミンさんは戦前の日本は現在の北朝鮮と似ていると指摘された。
 アミンさんは、同じく欧米の経済制裁下にある北朝鮮のことにも関心を持たれており、北朝鮮と韓国の関係について質問された。私たちは、韓国は政府が北朝鮮との関係改善に乗り出していると説明したところ、韓国についてはあまり知らないが、韓国人はとても親切であり、いつか訪れてみたいとおっしゃっていた。中国と比較すると、韓国に対しては好印象を抱いている様子であった。
 私たちはアミンさんとのインタビューを終え、突然の訪問にも関わらず快く迎え入れてくれたアミンさんにお礼申し上げて、別れを告げた。

 その後私たちは、専用車で近くのホテルで休憩・昼食をとることにした。私たちが訪れたファグナーホテルFagnar Hotelでは昼食に魚・エビの揚げ物を頂いた。日本で見かけるものとさほど違いは見受けられなかったが、この街が港湾都市であるため魚も新鮮であった。ずっと続いた肉とコメのイラン料理とは異なった料理で昼食をおいしく頂き、休憩をはさんだ後、私たちは次の巡検先であるUAEへ向かう船の時間まで、市内を専用車で巡検することにした。

富裕者のための開発が進むバンダレ・アッバース


 市内の東端に位置するホテルを出た私たちは、街の東にある空港沿いの道を走り、ペルシア湾沿いの道を西進した。海岸へと向かう道は道の両端にヤシの木が並び、海辺の雰囲気を感じさせるものであった。

 海岸沿いの道にでると、海側にまず白い大きい建物が見えた。ガイド氏の説明では、これは海水を農工業や飲用水に変える施設であるという。淡水化技術は、乾燥地帯を持つイランにおいては、いうまでもなく重要である。周囲には小規模の民家が立ち並んでいたが、栄えている様子はなかった。しかし、車で数分ほど走るとバスターミナルがあり、このあたりは工事中の建物が多く並んでいた。工事現場の前の看板の建物の完成予想図には、巨大なショッピングモールのCG写真が載っていた。私たちがテヘランで見た、富裕層向けの商業施設が、この都市にもできるということである。

ガイド氏によると、バスターミナルの辺りは、最近、商業地区として開発が進んでいるという。私たちが利用した鉄道は近年開通したものであるため、その前はバスが唯一の長距離交通の手段であった。このため、バスターミナルの周辺は重要な交通結節点で、商業が栄え、開発によりさらにその中心性が高められようとしている。



 また、このエリアには大きなモスクがあり、先にはバザールが見えた。残念ながら私たちは立ち寄ることはできなかったが、ガイド氏によるとここには伝統的なバザールがあるという。クリーム色で統一された建物の中には、多くの商店が立ち並び、専用車の窓から見るには衣服の店が中心であった。その周りにも小さな商店が並んでいたが、半数ほどの商店はシャッターが下りておりいずれも人通りはさほど多くなかった。

 さらに西進するとまもなく大きな図書館やスポーツジム、ショッピングセンター、高級ホテルなどが見えてきた。その付近には5、6階建のマンションが並んでいた。ここは高所得者向けの住宅街であるらしく、中には、ベランダや柱に多くの装飾が施されているものもあった。海岸沿いにある海が見え、商業地区の近くという好立地が人気であるのだろうか。ガイド氏によると、ショッピングモールとマンションが同じ建物内にあるものもあるらしい。バスターミナルとモスクの周辺という都市の伝統的な中心が、次第に富裕者の地区に変わってきていることがわかる。


 この通りのもう一つ北側の通りであるパスダラン通りPasdaran Blvdはもう中央業務地区である。ただ人通りは多くなく、またそれぞれの施設にも活気は感じられず、中には開店していない施設もあった。その中にはSonyやPanasonic、Hitachiといった日本の電気製品メーカーが看板の店の立ち並んだ場所もあった。電気製品を扱う専門店であろうが、こちらもやはりシャッターが下りており、中の様子はわからなかった。ガイド氏によると、この時期のバンダレ・アッバースは日中かなり暑さとなるため、日中は店が閉店しており、開店が遅い夕刻からか日没後の19、20時からになるという。一方、冬期はオープンが早まり16、17時ころには開店するらしい。これは気温の問題もあるが、冬は多くの観光客がバンダレ・アッバースに訪れるからというのも一つの理由らしい。

 イランはペルシア湾にキシュ島Kishなどの観光スポットを持っており、冬期は特にイラン北部は冷え込むため、美しい自然と温暖な気候を求めて多くの観光客がペルシア湾の島々へ旅行するという。そしてバンダレ・アッバースは出発港として観光客が集まる、ということである。通りには「ダイビングスクール」の英語の看板の出た店もあり、観光客向けにダイビングを体験させているようである。経済制裁を受けているイランに欧米の観光客が押し寄せるとは思われないので、これはイラン国内の富裕な観光客を相手にしたものであろう。このようなサービスを含む観光業もまた、貿易や漁業とともにこの港湾都市の経済を支える一つの重要な要素である。イスラム原理主義のもとでも、バンダレ・アッバースでは、富裕者の支出が都市経済の要素となってきていることは、疑いないようだ。

漁業もバンダレ・アッバースの主要産業: 魚市場視察


 バンダレ・アッバースは、海に面し、漁業も盛んな都市である。そこで私たちは、海辺の魚市場Fish Bazarでいったん停車し、バンダレ・アッバースの漁業の様子を観察することにした。

 中央業務地区からほど近い海辺に魚市場はある。建物は巨大な倉庫のようなつくりで、中は薄暗く、魚の生臭い臭いが建物中に充満していた。魚を売りさばく商人たちは、大きな机の上に各々の商品を並べて、前を通る客を呼びとめては売りさばこうとしていた。私たちも頻繁に声をかけられたが、珍しい日本からの客に、常に笑顔で親切に接してくれた。衛生面ではお世辞にもいいとは言えず、商品にハエが止まっていても気に留める様子もない商人もいた。外気はかなり熱かったが、冷蔵庫も使われておらず、氷を使って保存しているわけでもないため、魚の状態は良いとは思えなかった。


 扱っている品としては、たらこ、エビ、そしてアヤメに似た小さい魚から、マグロやタイのような大きな魚まで様々であった。しかし、訪れたのが16時ころであったこともあり、商品の並ぶテーブルには売り切れなのか空きの机が多く、また魚の並ぶ机でも売られている魚の量は少なく、すでにこの日の営業はピークを過ぎてしまっていた様子であった。魚市場に訪れる地元の客もかなり少なかった。



 建物のすぐ横には、果物や野菜を扱う小さな店も隣接していた。オレンジやリンゴ、人参など私たちには身近なものが中心に売られていたが、魚市場同様に人は少なかった。正面の通りの海辺沿いは公園のようになっていた。また、魚市場の入り口には飲み物やたばこを売る売店があった。この売店で働く2人の男性もまた、かなり親切に私たちに接してくれた。先ほどのアミンさんもそうであったが、イラン人たちは巡検中いろいろな場面でかなり親切に接してくれた。見ず知らずの通りすがりの人たちが笑顔で「イランへようこそ」と言ってくれるなど、外国人である私たちを歓迎しようという心がひしひしと感じられた。もともと、アザデガン油田開発など、日本とイランは良好な関係であった過去を考えると、かなりイランの国民は、親日的な感情を持っているのであろう。



中心業務地区: フォーマル部門とインフォーマル部門の集積


 魚市場の視察を終えた私たちは、専用車に乗り込み、中央業務地区であるパスダランPasdaran通りを視察し、その後UAEへ向かう船に乗るためシャヒード・バホナールShahid Bahonar港へ向かうことにした。

 中心業務地区には銀行とショッピングセンターが数多く集まっている。専用車からは「Bank Maskan」、「Bank Saderat Iran」、「Bank Sepah」、「Bank Keshavarzi」などの看板の銀行が見えた。帰国後調べてみるとすべてイランの有力な銀行で、これらが中心業務地区の一区画に集積しており、イラン経済におけるバンダレ・アッバースの重要な地位を示している。

 また、中央業務地区には大きなショッピングモールがいくつかあったが、ガイド氏によるとこれらは夕刻から夜にかけて開店するようである。通り沿いの道の店には各所に、ホメイニ師やハメネイ師の肖像画などが見受けられた。さらにサンドイッチなどの軽食の飲食店や果物を扱う店なども見かけたが、日常品などを扱う店はなかった。

しかし、ひとつ北側の通りに入ると今度は、銀行は少なくなり、むしろバケツなどが店頭に並ぶ小規模の日用品の店が多くなるなど、フォーマルなビジネス空間とインフォーマルな空間が、都市区画一つの違いではっきり分かれている様子が観察された。この中央業務地区の東端には、石と鉄で作られたモニュメントがあった。ガイド氏によると産業の発展を願ったものであるという。

 専用車は、中央業務地区を抜けて港へと向かうため、市内北部を横断するジャムハワル通りJamhawar Blvdを西に進んだ。道中、1〜2階建の同じようなデザインの少し古めの建物が並ぶ区域があった。ガイド氏によると、企業が設けた労働者向けの住宅であるという。貿易港であるバンダレ・アッバースは他の都市から働きに来る労働者が多いことから、そのような労働者を雇う企業側が労働者とその家族のために住居を貸し出すそうである。これらの企業は政府機関ではなく民間の企業であるらしい。

 ジャムハワル通りを西進するにつれ、街の郊外へと車は入り、コンテナを積んだ沢山のトラックとすれ違った。時折、コンテナが大量に積んである施設も見えた。車窓から、山積みのコンテナの奥にクレーンも観察され、相当に大規模の施設であることがわかった。

 数分後、専用車はシャヒード・バホナール港のゲートに到着した。ゲート周辺では数多くのコンテナトラックが走行・駐車していた。コンテナには、「Bay Line(シンガポールの海運業者)」、「IRISL(Islamic Republic of Iran Shipping Linesの略称、イランの海運業者)」、「HANJIN Shipping(韓進、韓国の海運業者)」、「EMIRTES SHIPPING LINE(UAEの海運業者)」、「YANG MING(陽明海運、台湾の海運業者)」などと書かれている。東アジア・東南アジア諸国の会社のコンテナも多く見られた一方で、日本の会社のコンテナは見られなかった。コンテナ数やトラックの数はかなり多く、バンダレ・アッバースの港の規模を知ることができた。



巨大な貿易港、シャヒード・バホナールShahid Bahonar港


 港のゲートは巨大であり、壁にはここでもホメイニ師とハメネイ師の大きな肖像画が描かれていた。まさに国の威厳を象徴するような立派な建物であった。ここからはかなりセキュリティが厳しく、ガイド氏からは写真を撮らないようにとの注意があった。  まず、ゲートの通過の際に、運転手が警備員に許可証のような書類を渡すために一度停車した。間もなくして警官らしき人物が2人私たちのバスに乗り込み、パスポートのチェックと荷物のチェックが行われた。荷物のチェックは、ただ荷物の外側からチェックするではなくスーツケースやバックパックの中身を一部開けるよう要求されるという本格的なものであった。
 無事に検査を通過して敷地内に入ることができた。専用車は数百メートル進んですぐに、国際船客ターミナルの前で停車した。さらに奥にある貿易関連施設へと車を進めようとしたところ、もう一度車は止められ、これ以上進むことは許されなかった。結果、旅行客が利用する船の発着場だけへ立ち入ることができたが、セキュリティの厳しい貿易関連の施設の視察はできなかった。


 国際船客ターミナルの建物は背の低いビルで、外部に特に装飾は見受けられず、ただイランの国旗が掲げられているだけであった。正面の入り口も、一面がガラス張りの非常にシンプルなものであった。


 建物の中に入ると、そこには船を待つ旅行客のためのイスが数多く並んでおり、客のためにお菓子やパンなど軽食や飲み物を扱う売店があった。国際船を使う利用客のために両替所もあったが、閉まっていた。この建物の外は、写真撮影は禁止であると、ガイド氏が私たちに再三注意を促した。周囲もセキュリティが厳しく、緊張感漂う雰囲気であった。しかし、建物の内部は写真撮影も許され、人々が待合のイスで談笑し、警備員も気さくに話しかけてくれるなど、外部とはかなり異なる和やかな雰囲気が漂っていた。
 利用客には、アラブ人風のターバンや帽子・衣装を身にまとった人々や、目以外は全て全身を黒いベールに包んだ女性、アフリカ系に見受けられる人など様々な客がいた。

 この待合室で2時間弱待ち、出航の時間が近づいたため、私たちは出発する客の列に並んだ。イランの全6日間をガイドしてくださったNadia氏とはここで別れを告げた。隣接する部屋は、出国審査場と手荷物を預ける場所になっている。巨大なバッグをいくつも持った客が、時には家族を連れて出航のための列に並んでいた。彼らは観光客ではなく、UAEなどに出稼ぎに行く人々なのであろう。船であれば飛行機よりも運賃が安く、しかもはるかに大量の荷物を追加料金なしで持ち運べるため、このような客がフェリーを利用するのである。私たちも各自のスーツケースやバックパックなどを預けた。


 次いで、パスポートのチェックを受けた。しかし出国審査をする係員は、私たちのパスポートにスタンプを押したあとすぐには返却せず、一旦預かるので準備が整うまで奥の出航待合室で待つように指示した。後程、出国審査を通過した他の周囲の客を観察したところイラン人やアラブ人の客はみなパスポートをすぐに返却されていた。1時間以上待ちすべての客が出国審査を通過した後、無事私たちのパスポートは返却されたが、その時同時にフランス人の女性客もパスポートを返却されていた。どうやら彼女も私たちと同じように返却を待たされたようだった。このように、アラブ系以外の外国人には特別により厳しいチェックを行っているようである。

 出航待合室は、ただ利用客のためのイスが並ぶのみで、売店や両替所などはなかった。ここでも私たちは、テレビを見ながら2、3時間ほど待たされた。
 出帆予定時刻から1時間ほど遅れた夜10時過ぎ、ようやく出航の合図となった。男女は別々の列に並ぶ。私たちも指示に従って、UAEへと向かう乗船の列に並んだ。t