
朝8時、ホテルをチェックアウトした。豪華な四つ星のSafir Hotelに別れを惜しみつつ、私達はホテルに大きな荷物を預けて、市内巡検に出発した。本日は、徒歩で王の広場まで行き、そこから大バザールを経て最大のモスクであるマスジディ・ジャーミを見学、往復してホテルに戻る。次に、新市街のアルメニア人教会とアルメニア人地区を訪れ、そこから専用バスに乗って鉄道駅に行く。
ホテルを出て西に進むと、イスファハーンの南北の目抜き通りであるチャハル・バーグ通り(Chahar Bagh e Abbasi)に出る。片側3車線はありそうな幅の広い大通りで、中央分離帯には樹木が植えられ、両端にはタイル舗装された歩行者用道路がある。今日はイスラームにおける平日だが、大通りはまだ行き交う人も少なく、ほとんどの店が閉まっている。日本では既にラッシュアワーの時間帯にあたるが、ここでは朝の交通量が少ないことに驚いた。北に直進すること数分、大きなロータリー交差点に着いたが、ここも車でごった返している様子はなかった。
| (コラム)チャハルバーグ大通り |
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| 16世紀末、イスファハーンはサファヴィー朝の首都となった。この大通りは17世紀初頭に都市開発の一環として作られた、都市を南北に貫く、真っ直ぐな大通りである。当時の大通りは、大遊歩道として両側に並木を備え、中央には泉とそれを繋いで走る水路が設けられていたという。通りを横切る街路にも水路があり、水路が交差する部分は、泉を中心とした正方形の庭園を水路で「田」の字に4つに分割することになる。これをチャハルバーグ(四分庭園)といい、通りの名前にもなっている。こういった四分庭園はイスラーム世界に古くからあり、緑と水を利用する思想をうまく計画街路にも持ち込んでいる。現在は先に述べたような近代的な自動車道路になっている。 (出典:陣内秀信・新井勇治 編 『イスラーム世界の都市空間』p.524) |
交差点を右折して東に進むとセパー(Sepah)通りに入る。この通りの終点が王の広場で、観光地であるせいか、この通りの広場に近い地区は両替所が集積している。私たちは両替所に寄りたかったのだが、まだ開いていない。イランでは経済制裁の影響でクレジットカードが使えないので、クレジットカードを使ってATMから現地通貨の現金を下ろし、後から日本に帰ってそれを返済するということができない。米ドルの現金を所持し、それを両替しながら現地の費用を賄わなければならないのである。やむなく、両替は帰りに回すことにした。
8時半、私たちは王の広場に着いた。観光客や客引きや地元の人々で賑わっていた昨晩とはうってかわって、人はまばらである。観光客らしき人はほとんど見当たらず、この時間帯は地元住民の憩いの場となっていた。
これから視察する大バザールは、サファヴィー朝の首都となった16世紀末に建設された王の広場および隣接する宮殿区域と、ササーン朝時代からの古広場および8世紀末に建てられたマスジディ・ジャーミ、という都市の2つの核を結ぶ大動脈である。
大バザールの入り口は広場の北端にあり、そのまますぐバザールに直結する。入口の手前にある正方形の噴水からは水が勢いよく出ている。入り口は高さ10mはあろう、巨大なイーワーンになっており、イスファハーンのシンボルである大バザールの名に恥じない荘厳な入り口である。
大バザールに入ると、堂々たる曲面天井のアーケードに、等間隔で空けられた天井の小さめの穴から朝日が差し込んできた。まだほとんどの店はシャッターが閉まっていて、店の人が開店準備や店の前の清掃に勤しんでいる。人が少ないおかげか、アーケードの天井に掲げられたハメネイ師とホメイニ師の肖像画の垂れ幕がよく目立つ。
大バザールは小さな店舗が両側に密集して並んでいるが、いろいろな業種が雑然と店を開けているわけではなく、業種ごとに集積があってゾーンが分かれている。まだほとんどの店のシャッターが降りているが、開いているいくつかの店を見ると、ここ入り口付近は、派手な模様の陶器、貴金属、ペルシャ絨毯など、主に観光客向けの伝統的な高級品を取り扱う店が集積している。広場から近く、このあたりに一番観光客が集まりやすいため、このように集積したのだろう。
この大バザールには、主要なアーケードと、そこから別れる枝道がたくさん存在する。枝道の先にはかつてのキャラバンサライの跡が多数あるということで、いくつか観察しながら進むことにした。キャラバンサライとは、バザールに隣接して建てられた、かつての隊商のための宿泊施設のことである。昔のバザールは遠くから商人が来て、ある日はこの地で商売をして、また帰ってゆく、というように商人が空間的に行き交っていた。そのため、このような宿泊施設を必要としたのである。
最初に入った横道の終点には、八角形のドームと、同じく八角形の泉がある。ドームの周りには個室群があり、この建築様式が典型的なキャラバンサライである。かつてキャラバンサライとして使われていた施設は、現在では倉庫や、買回り品を売る店として使われている。店主が椅子に座ってくつろいでいたり、おじさんが泉を掃除したりしていた。
また別の横道に入ると、その先には中央に泉を有する八角形の空間と、その奥の行き止まりには矩形の中庭と泉、それを囲む樹木があった。中庭の周囲は小部屋に囲まれている。先程よりは大きなキャラバンサライである。ここのオーナーに話を伺うことが出来たので、ガイド氏に通訳してもらった。かつてここは金を売る店であったという。建物は、ガージャール朝時代、約120年前のもので、キャラバンサライとして使われ、2階が宿泊所であった。現在は1階は売り場、2階は倉庫として使われている。今は地元の経営者がバザール内の空間的に固定された場に店を構えているので、宿泊所はもはや必要でない。輸送形態の変化などにより、商売の形態が年月を経て変わっていくにつれて、バザールの建造環境は変わらなくとも、それが持つ各部分の機能や形態も変化しているのが、よく観察できた。
さらに別のキャラバンサライの跡があったので見てみることにした。大規模な建て替え工事の真最中であり、少し土煙臭さがあった。ここもやはり八角形の空間と、背後にその各辺を取り囲む2階建ての個室群という構成で、シンメトリーのタイル貼りの外壁も新しく完成している。壁に金の延べ棒が描かれた新しいポスターが貼られていたことから、ここはやはり金(gold)の店として改装するのだとわかる。つまり、キャラバンサライとして使う必要がなくなると、機能は、より有効活用できる形に変化してゆく。バザールは単に歴史的価値のある建造物だけでなく、現在も経済活動の場としていきいきと機能している。
私たちがまた主要なアーケードに戻って進むと、今度は横に小さなモスクへの入り口が現れた。ガイド氏によると、これは男性用モスクで、現在は改修中で中には入れなかった。バザールに来た客や、近くの店の人が日常的にここで礼拝をするのであろう。私達はこの先でも、女性用モスクなどいくつか小さなモスクを発見できた。バザールは単に商売をする場所というだけではない。そこに居る人々は時間が来たら礼拝をしなければならないので、モスクのような公共施設がバザールと密接に関わっている。
主要なアーケードからの次の寄り道はTimche Malek(Timcheはアーケードの意)である。ガイド氏によると、この建物はガージャール朝時代に建てられた。最初にキャラバンサライとして使われ、現在はその形を残したまま銀行と金の店として使われているそうだ。入り口を入ると、荘厳な横長の八角形の広間があり、中央には同じ形の泉がある。周りは2階建ての小部屋群が囲み、典型的なキャラバンサライの跡である。しかし、ここは今まで見たものよりはるかに豪華で、天井のドーム部分と、八角形の頂点にあたる柱部分には、荘厳なモザイク模様が見られる。模様の入った焦げ茶色一色の小部屋群の壁は少々新しい気がしたので、ガイド氏に聞いたところ、改修した箇所も多いということだ。
短い通路を通り奥に行くと、開放的な矩形の中庭が広がっている。今まで見たことのない楕円形の泉と、背後の小部屋群の柱の梁の部分にモザイク模様が施しているのが、特徴的である。今までに見たキャラバンサライだと中庭1つで終わりであったが、この奥に短い通路があり、通路の両側にも店舗が並んでいる。それを抜けるとなんと2番目の中庭があった。モザイク模様がないせいか、先ほどに比べて質素である。低い柵に囲まれた、アシンメトリーな多角形の泉と周りの花壇、レンガ造りの小部屋群が特徴的で、ここは2階建てではなく、2階部分としてあるのは隅の土壁作りのドームだけであった。土壁部分はやや風化した部分もあって、いささか古さを感じさせる。
またアーケードに戻り、1分ほど歩いた先にもキャラバンサライがあった。ガイド氏によると、ここは約200年前に建てられ、キャラバンサライとして使われなくなった後はマドラサ(神学校)になったという。名前はマドラサ・ハーンといったそうだ。現在は店舗群として使われている。入り口の短い通路を通った先には中庭があり、中央には長方形の泉があった。中庭には自転車やバイクが複数台止まっていた、客は居なかったので、店の人の所有物であろう。中庭に入って左手にも通路があり、通路の天井付近に2本のつっかい棒があり、その間には金属製のはかりが掛かっていた。はかりの両端には鎖が巻き付いてあり、かつての商人たちが取引する商品を量っていた名残である。
時刻は9時半前になり、私たちはここまで、いくつかのキャラバンサライを見ながら、入り口から200mほど北進してきた。この辺りは鍛冶屋が集積しているのか、金属加工品を扱うお店が多い。ある店では、店主が金属の板を叩きながら伸ばして、巨大な円筒形の容器を作っていた。
バザールのメインストリートはここから北東方向へと曲がる。だが私たちはマスジディ・ハキームを見るために、北西方向へと進んだ。メインストリートを外れ、天井を覆っていたアーケードもなくなると、雲一つない青空が現れた。そこは、車が20台ほど止まっている駐車場があった。バザールの道は細くて車は通れないため、訪れる人はここに車を停めて、あとは歩くのであろう。
アーケードを外れてから、マスジディ・ハキームまでの道は車が1台やっと通れるほどの細い街路が続き、ひたすら日干し煉瓦と土壁で作られた住居が並ぶ。4〜5分ほど歩くと目的地に到着した。
目的地のマスジディ・ハキームに到着したが、残念ながら入り口の鉄格子の扉には鍵が掛かっており、中に入ることは出来なかった。扉から覗いて見えた限りでは、広い中庭の四辺の中央部に大きなイーワーンがあり、礼拝室を覆う巨大なドームが印象的であった。
出発前にゼミで読んだ『イスラーム世界の都市空間』によると、ハキームという人物はサファヴィー朝の医師で、インドで成功した人であり、彼が立身出世して帰郷した証として、このモスクを建てた。その広さは9500uに達し、イスファハーンで3番目に大きい。
中に入れないのでは仕方がないのでバザールのアーケードへと戻ることにした。
大バザールはここから北東方向へと折れ曲がる。この辺りまで来ると、王の広場から遠く、観光客は訪れない。ならぶ商店には、テヘランと同じく、卸売業の雰囲気を感じる。この辺りは布地を扱う店が多い。観光客向けに絨毯などを広げて陳列・展示されて売られているわけではなく、丸めたり折りたたまれたりした布地が整然と積み上げられている。9時半を過ぎ、荷車で布地をはじめとした大量の荷物を運んでいる人もちらほら見かけた。そろそろ店が開き始めるのだろう。
横道にまた、別の典型的なキャラバンサライの跡があった。現在はここは布地の倉庫として使われている。特徴的であったのは、茶店を表す垂れ幕が通路の天井付近に掛かっていたことである。垂れ幕の絵は、水タバコと茶器が描かれたカラフルなデザインであった。だが、私達が訪れた時には、茶店はまだ開いていなかった。
バザールのアーケードへ戻った私たちは、ここから北東方向に直進する。この辺りからは、ひたすら日用品や生活雑貨を売る小売店が続く。日用品より細かい単位のカテゴリで店が空間的に集積している様子は見られなかったが、以下、便宜上、カテゴリ別に整理して述べたい。
まず、衣料品である。女性物の例として、カラフルなヒジャブを売る店があった。店によっては頭部のマネキンを並べて商品を見せているお店もある。イランは服装の戒律が比較的厳しいのだが、驚くべきことに、肌を露出するような西洋風のパーティー用衣装と思われる服を展示して専門に売るお店もあった。このような店が成り立つということは、戒律とは違った服装をしたい人々もイランにわずかながら居ることを示している。とはいえ、こういったきわどい服への需要はいうまでもなく少なく、イランの他の小さな地域では商業が成り立たない。だが、どうしてもこのような戒律違反の服を着たいイラン人はいるので、わざわざ遠くから大バザールに来て買うのだと考えられる。日本の県庁所在都市に、全県で一軒だけ、校則に違反した変形学生服の店が成り立っているのと似たようなものであろう。前述のように卸売商業が成り立っていることとあわせて、この大バザールの商圏の広さが窺える。一方男性物は、スーツ専門店、ジャケット専門店、ジーンズ専門店など、やはりどこも特定の服装を専門に売っている。他には靴屋も何軒か見かけた。NIKEのスニーカーなど、有名なカジュアルブランドの靴を多数見かけたが、本物かどうかは定かではない。
次に、玩具である。玩具屋はこの辺りに何軒か点在していたが、店の中を見ると、商品を隙間なくびっしりと陳列してあり、人形、ラジコン、文房具、シールなど、様々なものを取り扱っている。有名キャラクターの商品も多数あったが、知的財産権が守られた商品かどうかは甚だ怪しい。
ひどいものでは一つの商品の外箱にサンリオとディズニーのキャラクターが混じって複数描かれているものもあった。イランでは経済制裁でグローバルな市場から外されているため、逆に、グローバルな知的所有権の支配からも全く自由な経済活動が行われているのである。
この辺でSANITARY NAPKINと書かれたダンボールを見つけた。下側にはMADE IN IRANと書かれている。ガイド氏はバザールで売られている日用品・衣料品は中国製が多く質が低いと、ことあるごとに中国製を罵っていたが、イラン製の日用品も時々見かける。例えばこの生理用ナプキンの場合、中身を漏らさないようにするため高度な技術が求められる。このため、技術にあまり信頼のおけないイメージがある中国製よりも、自国のイラン製のものが好まれるということではないだろうか。イランの生活用品の技術水準には、それなりのものがあると思われた。
このあたりのアーケードを歩いていると、通りの真ん中には時折、水が入ったポリタンクが置いてあった。暑いので買い物をしている間に喉が渇くから、自由に飲んでいいそうだ。こういった小さな公共施設にも心遣いが感じられる。
進行方向左手に広場が見えてきた。この辺から曲面天井の雰囲気変わり、床も大きなタイル貼りとなっている。『イスラーム世界の都市空間』のイスファハーンの項によると、この広場はササーン朝時代、イスファハーンにもユダヤ人が住んでいた昔に、馬の競走のために街の外側に計画されたと言われ、16世紀に大バザールが出来た際に片方の核となった。
筆者の深見奈緒子氏が1990年代に行なった実地調査では、この広場はごちゃごちゃした細い道路網によって分断され、広場としての面影はないとのことだった。しかし、私たちが見たのはイスラームの伝統的なデザインでありつつも、真新しい長方形の広大な広場そのものであった。ガイド氏は約10年前と言っていたが、王の広場からここまで観光客に足を伸ばさせるために、広場として整備がはじまったのだろう。現在も工事中の箇所がいくつかあった。
四角形の白いタイル貼りの床には一部に点字ブロックが敷かれ、緑や花の手入れも行き届いている。朝早かったせいか、見渡しても現地の人々がちらほら散歩している程度であった。残念ながら、まだ観光スポットとして賑わっている様子はなかった。
古広場のすぐ先にマスジディ・ジャーミがあった。入り口に差し掛かるあたりになると、大バザールの天井を覆っていたアーケードがなくなった。ここが大バザールの終点である。バザールの出口の周りは、土産物屋ではなく、バッグやカジュアルな服を売るお店が並んでいる。
入り口に到着した時、日本人観光客のグループに遭遇した。20〜60代までの幅広い年齢層を含む、15人ほどのグループである。このグループを日本語でガイドしていた男性は私達のガイド氏の大学時代の友人だそうで、久々の挨拶を交わしていた。イランで日本人に遭遇したのは、これが最初で最後であった。彼らもこのモスクを見学しに入っていった。
入り口の上部には鎖が掛けられていた。ガイド氏によると、これはモスクを示すもので、似たような外観の入り口が多いこの地で迷わないように、また現在地の目安にするためだそうだ。私達は入場料1人30000リアルを払い、中に入った。入ってすぐのガラスで仕切られた部屋には、建物全体の模型が展示してあり、ガイド氏がここで建物の概観を説明してくれた。
マスジディ・ジャーミとは「金曜モスク」の意味である。ムスリムにとっては金曜日の礼拝を集団で行うことがイスラーム教徒の成年男子のすべてに義務と定められている。このモスクは8世紀に最初の部分が作られ、11〜12世紀頃に一度焼失、以後18世紀まで増改築が繰り返された。様々な時代に渡るため、多様な建築様式が観察できるという。東西南北4つのイーワーン(中庭を向いたアーチ状の開口空間)が特徴的で、それぞれ名前が付いている(後述)。ムスリムは必ずメッカの方角、すなわちキブラ(ここでは南西)を向いて礼拝する。その方角を示すために、礼拝室のキブラにはミフラーブとよばれる壁のくぼみがある。南イーワーンにあるミナレット(塔)からはアザーン(礼拝を呼びかける音声)が流れる。建物の外観を理解したところで、私たちは中へと進んだ。
入り口を進み、左手には回廊が現れた。等間隔で並ぶ灰色のレンガ造りの柱と曲面天井が印象的である。奥に進むと、壁に本棚が取り付けられており、カラフルな表紙の本が所狭しと並んでいた。ガイド氏によると、すべて、アラビア語で書かれたコーランであるそうだ。
左に曲がると南側の礼拝室(シャベスターン)に着いた。高さ10mはあろう天井の立派なドームが印象的だ。奥にはミフラーブがあり、ミフラーブの周りにだけモザイク模様が施されており、他は当時のものと思われる煉瓦造りの灰色の壁がむき出しである。隣には祈るための空間があり、赤を基調とした絨毯が一面に広がっている。ガイド氏によると、今でもこのスペースが使われているそうである。時間が悪かったので、礼拝する人を見ることができなかったのが残念だった。
外の光が差し込んでいる方へと行くと、中庭へと出た。1辺50mはあろう中庭は、中央に正方形の泉と、北側に花丸型の泉がある程度で、開放的な空間が広がっている。どうやら私たちは南側イーワーンから出てきたようだ。南側のイーワーンは”主のテラス”(Soffe Sahib)と名付けられている。天井は黄色を基調としていて、全体に規則的なくぼみがあり、くぼみには不思議な模様がある。中庭から見えるイーワーンの外枠は、青い荘厳なモザイク模様を基調としていて、両側には立派なミナレットが2本付いている。イーワーンの隅には絨毯が丸めて置いてあった。きっと礼拝時に使用するのであろう。
次に西側イーワーンの方へ進んだ。ここは”師のテラス”(Soffe Ostad)”という。天井は南側と同じように黄色を基調とし、同じようなくぼみがあるが、こちらは全体に直線的な模様が広がっている。西側礼拝室に入ると、細かい模様の装飾が大変美しいミフラーブと両側にはミンバルと呼ばれる階段状の説教壇があった。手前には透明な柵があって、触れることはできず、美術館の展示品のような扱いをされている。
北側イーワーンは、”托鉢僧のテラス”(Soffe Darvish)という。ダルビッシュ(Darvish)という単語は、日本人には野球選手の名前として馴染みがあるだろう。先の2つのイーワーンよりやや低くてシンプルなデザインである。ここで、正方形の容器に入った、沢山の丸い石と四角い石を見かけた。ガイド氏によると、この石はモフルといい、シーア派のみが礼拝時に使用する。床に置いて額を乗せて使うという。形の差に特に意味は無いそうだ。スンニ派とシーア派を分ける条件は、預言者ムハンマドの後継者の資格についての考えの違いだけかと思いきや、こういった細かい作法にも差があるようでなかなか興味深い。
残る東側イーワーンは”弟子のテラス”(Soffe Shagerd)という。こうして4つのイーワーンを見ると、構造や模様などすべてスタイルが異なる。様々な建築様式の違いを眺めるのは面白く、ここはイスファハーンの金曜モスクの名に恥じない立派なモスクであった。
マスジディ・ジャーミを出た私たちは、バザールの来た道を戻った。時刻は11時を過ぎ、地元の買い物客がちらほら現れはじめた。私たちは王の広場には戻らず、途中でバザールのアーケードを外れ、マスジディ・ハキーム方面へ曲がった。ハキームが面するアヤトラ・ハキム(Ayatollah Hakim)通りを渡る。この通りは古いバザールに隣接する迷路状の旧市街を分断するように貫通して作られた新しい計画道路であり、イランのかつての西欧的な「近代化」の象徴とも言えるものである。
通りを横切り、家々に囲まれた細い路地を進み、数十メートル南西に行った所にあるのが、バザール巡検最後の目的地、セルケ家とメイサミー家である。ここは、『イスラーム世界の都市空間』の本では、富裕層が居住した中庭式住宅として紹介され、イスファハーン文化財保存局の所有と書かれている。中に入るために先生とガイド氏が先に中で交渉していたが、難航したのか10分ほど建物の前で待った。結局、写真撮影禁止、5分程度の見学という条件で、中に入ることが出来た。
ここは現在、イラン文化遺産・手工芸・観光庁のイスファハーン州支部(Iran
Cultural Heritage, Handicraft and Tourism Organization of Isfahan Province)のオフィスという行政機関の建物になっていた。しかし、中庭式住宅をそのまま活用しており、面影は色濃く残っている。まず入り口が、八角形のハシュティーと呼ばれる空間になっている。本と対照すると、かつてはセルケ家の玄関広間だったようだ。直進すると、小さな中庭に出た。ここはセルケ家の北中庭だった場所と思われる。中央の長方形の泉は水が抜かれており、その周りには木が植えられている。
さらに細い通路を進むと、吹き抜けの二階部分に来たようである。吹き抜け空間は八角形で、背後には沢山の個室群のドアが囲んでいた。吹き抜けから1階部分を覗くと真新しいタイル貼りの中庭が見えた。ガイド氏によると、建物のある1部屋では映画を撮影したことがあるらしい。
このように、かつて人が住み日常生活を営んでいた中庭式住宅も、現代生活の浸透、大家族の盛衰と共に役割を変え、こうして修理されて政府のオフィスとなった。突然の訪問に対応していただいた職員に感謝し、建物を後にした。
私達は一旦ホテルへと戻り、荷物をピックアップして、アルメニア教会に行くことにした。先ほどの建物を出て、アヤトラ・ハキム通りを南下する。バザールと交差する所には大きなドームが掛かっていたのが印象的であった。さらに南下すると、通り沿いには、大きな銀行やショッピングセンターが並び、一転、伝統的なバザールや迷路状の旧市街とは対照的な、広い道の計画的な町並みになる。計画道路沿いの再開発はそれなりに進んでいるようだ。建物の色はバザールの雰囲気に合う黄土色のものが多く、歴史的・文化的価値をもつ大バザールの景観を損なわずにうまく開発が行われているようだった。
大きな交差点が見えてきた。朝方、両替しようと訪れたセパー通りとの交差点である。朝と比べて交通量も多い。銀行も両替所も開いたので私達は両替を行おうとした。両替所の近くでは、両替商が多数待ち構えており、大量のイランリアルの札束を持っている。「ドルをリアルに替えないか?」と寄ってくる者もいたが、丁重にお断りした。レートはきっといいのだろうが、偽札には用心をしなければならない。一部の者は銀行で両替をし、その後はそのまま今朝来た道を戻り、ホテルで少し休憩をした。
午後1時、専用車でホテルを出発し、旧アルメニア人地区にある教会に向かった。途中、ザヤンデ川に掛かる、アザール橋(Azar
Bridge)を渡った。この橋自体は質素なものだが、左手に見えたSiosepol Bridgeは別名33アーチ橋ともいい、サファヴィー朝建築の傑作である、アーチが印象的な大変美しい橋である。歩行者専用なので、渡ることは出来なかったが、近くを通過してもらった。観光客や地元の人で賑わい、橋もまた人々の憩いの場となっている様子だった。なお、ザヤンデ川はこの季節は枯れ川となっており、雑草が茂っていた。
橋を渡ると、新市街に入る。このあたりが旧アルメニア人地区で、ジョルファー(Jolfa)地区と呼ぶ。この地区に入った途端、都市景観が、それまでの古いペルシャの街並みから、ヨーロッパ風の街並みにがらりと変わった。路面も整備された規則的なタイル貼りで、どの建物の外壁も薄茶色である。洋服や靴、アクセサリーを売る高級なブティックが並んでいる。adidas、NIKE、HERMESなど世界的ブランドの店と、おそらく国産の高級品を扱っている店が共存している。また、家電製品店もあり、SIEMENSやPHILIPS、NOKIAの携帯を取り扱う店を確認できた。街を歩く女性はカラフルなアバヤを付けおり、街並みから服装にいたるまで全体的にリベラルな雰囲気を感じる。
| (コラム)アルメニア人とジョルファー地区 |
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| アルメニア人はキリスト教の商業民族で、かつてヨーロッパとアジアに跨る巨大な交易ネットワークを有していた。イランに定住したのは、ムスリムとヨーロッパ人との仲介者としての役割によるもので、ヨーロッパ人にとって、イスラーム圏で交易するにあたりアルメニア人はムスリムより親しみやすく、アルメニア人もまたムスリムとの交渉に慣れていたからであろう。 16世紀後半、彼らの活動の中心はサファヴィー朝の首都となったイスファハーンにあった。政治・文化の中心となったこの地は「世界の半分」と呼ばれるほど、モノが集積して発展し、商人が世界中からやってきた。 アルメニア人が住んだジョルファーという地区名は、元々コーカサス地方にあった町の名である。17世紀初めにこの街を含むアルメニア地方の住民は、アッバース1世の命でこの地区に移住させられた。理由は、オスマン朝との国境に近いコーカサス地方に軍が攻め込んできても食料補給ができないよう国境地帯に荒れ地を作ること、また旧ジョファーの場合、西方貿易で巨利を得ていたこの街が支配下に入るのを恐れたからだそうだ。 イスファハーンへ移った旧ジョルファーの住民はザヤンデ川の南に住み着いて、ここを新しくジョルファーと呼んだ。アッバース1世は家や教会を建て、住みやすいよう配慮するとともに、移住者に免税やし資金援助など数々の特典を与えた。王室が独占販売権を握る絹の国際貿易を彼らに任せたのもアッバース1世で、このおかげで彼らはますます成功し、この地区には商人の立派な邸宅が立ち並んだ。 (第3,4段落出典:永田雄三・羽田正『<世界の歴史15>成熟のイスラーム社会』p.277-279) |
私たちは、ジョルファ地区にあるバンク教会(Vank Cathedral)を訪れた。入り口の扉の上には教会が描かれたアルメニア語を冠したプレートがあった。入場料150,000リアルを払い、中へと入った。
入り口付近には時計塔があり、基本的には時計に従う文化のないイスラームの建物に対し、さすがここは時間というものを重視するキリスト教の建物であることを感じさせる。
教会の建物は、キリスト教会ということだが、大きなドームを上部に持つなど、イスラーム建築の影響も大きい。ガイド氏によると、この教会は、現在は日常の礼拝には使用されておらず、不定期のセレモニーぐらいにしか使われていないという。
教会の中に入ると、精彩なキリスト教絵画が広がり、シャンデリアが吊るされている一方で、イスラーム建築の7色のタイルが一部に散りばめられているなど、やはりイスラームの雰囲気が感じられる。ガイド氏が、教会内の絵画を1枚選んで説明してくれた。下側は地獄、上側は天国を表し、善い行いをした者は上へ安らかに天国に昇り、悪い行いをした者は苦しみながら下へ落ちるという構図の絵である。大変わかり易く、字が読めない者にも、キリスト教の教義がわかるような工夫がなされている。
次に、隣の博物館に入った。中では、アルメニア人の伝統工芸品や、キリスト教関連の肖像画が多かったが、中には第二次世界大戦中のトルコによるアルメニア人虐殺の歴史や、トルコがアルメニア人のアイデンティティである、
アララト山の領土を奪った歴史に関する展示があった。ガイド氏によると、ここを訪れたトルコ人は、この展示に関しては知らん顔をするという。自分たちが虐殺を起こした事実は認めないということらしい。
列車に乗り遅れてはいけないので、展示をざっと見学した後、教会を後にした。
ジョルファー地区は、イランの中では珍しくヨーロッパの面影を持った地区で、ファストフード店や喫茶店もたくさんある。教会の門前にはヨーロッパ風のファンシーなレストランが何軒か立ち並んでおり、他の地区と違った雰囲気をキリスト教が醸しだしている。イタリアのコーヒーブランド、illyの看板も見かけた。
だが、先ほどのバザール同様に、偽物もたくさんある。サンリオのハローキティが描かれた看板のおもちゃ屋があったが、サンリオ製品は扱っていないもようで、看板のハローキディも当然、知的財産のライセンスをとっていないであろう。カーネルサンダースらしき人物が描かれた、赤い背景に白抜きのフライドチキンのファストフード店は、ZFCという名前だった。私達の一部は、ZFCで昼飯を買いバスの中で食べることにした。私は買わなかったので、買った人のものを見せてもらった所、ZFCのロゴが描かれた箱の中に、フライドチキンとポテトが無造作に入っており、サラダの入った小さいカップとケチャップの小袋が別の箱に入っていた。味はまあまあだったらしいが、勿論本物のKFCとは全く違う。
14時、私達はイスファハーンを後にして、専用車で北北東に150km離れたバドルード(Badrud)駅へ向かった。
イスファハーン発バンダレ・アッバース行きの列車は隔日運行で、この日は運悪く運行されていないため、毎日運行されるテヘラン発バンダレ・アッバース行きの列車の途中駅から乗らざるを得なかったからである。
(出典:イラン鉄道時刻表)
専用車に乗り北に向かうと、街の中心部では地下鉄の工事が行われていて、線路が確認できた。ここでも中国が建設を担当しているのだという。アメリカを中心とした経済制裁は、ただ、イランを中国の側に押いやっているだけで、中国の側としては笑いが止まらないであろう。
郊外に入ると、中層のアパートが立ち並び、盛んに新しいアパートが建設されている。さらに北側の郊外地域には、一部農地が広がっている。その光景もしばらくすると荒地が延々と続くものになった。途中、わずかな放牧や森林地帯は見られたものの、ほぼ全面に岩や礫の沙漠が広がっていた。
16時半頃、専用車はバドルードの町に入った。人口約14,000人(出典:City Population)
の、のどかな田舎町である。人通りはほとんどない。他の町に比べカラフルな家々が印象的で、低層の住宅がまばらに点在している程度であった。町からさらに10分ほど車で北東に進んだところ、家一つ無い町の外れにバドルード駅があった。アフヴァーズからイスファハーン、さらにはここまで安全確実に専用車を運転してくれた運転手さんともここでお別れである。最後に、運転手さんを交えて皆で写真を撮った。
バドルード駅は分岐駅になっており、ゴム(Ghom)方面から来た列車がスィースターン(Sistan)方面とアルダカーン(Ardakan)方面へと分岐する駅である。(出典:Iran Trains)
駅舎に入ると、質素な駅舎の外観からは予想もつかなかったが、小綺麗で比較的広い待合室があった。エアコン、水飲み器、コンセント、公衆電話も備わっていて、なかなか快適である。待合室には私達以外には列車を待っている人はおらず、駅員が一人、隣の小さい事務室に居るだけであった。待合室と同じ建物内の隣の部屋には祈りの部屋(Prayer
Hall)があり、待合室とは壁で完全に仕切られている。
ホームに出てみると、雄大な砂漠が広がっていた。1面1線のホームで、もう1本奥にホームに接しない待避線のようなものがあった。トイレはホームに併設されているが、鍵が掛かっていた。おそらく駅員に言わないと開けてもらえないのであろう。
17時45分、定刻でバンダレ・アッバース行きの列車が来た。列車が停まると乗務員が出てきてチケットの確認をした。この駅から乗るのはもちろん私達だけであった。私達は、男性5人と先生、ガイド氏と女子学生、2つのコンパートメントに分かれて乗車した。
ここでトラブルが発生した。男性陣が乗るはずのコンパートメントに既に男性が2人乗っていたのである。乗務員の説得により2人は荷物をまとめてどこかに移動したので、事なきを得た。
この列車も、テヘランから乗ったのと同じ、民営化されたホテル列車である。ただし、経営主体は違い、Kavir
Trainという。私たちが乗車すると、乗務員が私達含め乗客たちに、ジュースやスナックを配ってくれた。
客車は、やはり欧州の標準型で、列車のコンパートメントは6人乗り、両側に3人掛けの座席があり、この背もたれ部分を変形させて3段ベッドにするというものであった。基本的には、先日乗ったアフヴァーズ行きのコンパートメントと同じ構造だが、違った点は全体的に比較的綺麗であったのと、上段のベッドに上るための梯子が付いている点である。
| (コラム)Kavir Train |
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| Kavir Trainはこの列車の名称で、Raja Passenger Trains Co.が旅客輸送サービスを提供している。この会社は、イラン国鉄(Iranian
Railway)の構造改革の一環として、旅客輸送分野の持続的な発展を目指すため1996年に設立した政府企業で、イラン国鉄が100%出資をしている。 (出典:History - RAJA Rails Transportation Co.) つまり、旅客輸送サービスが鉄道の保有主体から分離されている。この形態を、上下分離という。このように、意外とイランの鉄道運営には、日本以上にネオリベラリズム的要素が取り入れられているようである。 |
テヘラン〜バンダレ・アッバースを走る列車は、総延長1482kmで、国内で2番目に長い路線である。
バンダレ・アッバースまで延伸されたのは1995年のことで(出典:News Agency - SHANA)、少しずつ何度も延伸され、遂にペルシャ湾まで届いたということだ。
列車は出発後、夕暮れの砂漠地帯をひたすら走っていた。たまに小さな町が遠くに見えたり通り過ぎたりすると、そこから少し離れた何もない場所に駅があって停車する。街の外れに駅があるのが一般的なようだ。駅によっては貨物列車が停まっており、「中国海運」と書かれたコンテナが大量に載っている。バンダレ・アッバースからのコンテナを鉄道が輸送していて、内陸まで開運の輸送網がつながっているということだ。イランと中国との強い経済的な繋がりが、改めて確認できる。
この後、何やらコンパートメントの外が騒がしくなった。先ほど乗車時に私達のコンパートメントに既に乗っていた男性2人が、乗務員側の手違いでダブルブッキングだったらしく、本当は移動する必要がなかったということらしい。その事実が分かった男性達は乗務員に殴りかかったらしく、車内が騒然とした。結局彼らは私達の元へは戻らなかったが、彼らが一体どこで一夜を明かしたのかはわからない。
日も暮れた後、私達は食堂車で夕食をとった。メニューはたった一つしかないが、テヘラン〜アフヴァーズの列車とは違い、今回は冷凍食品ではなく、ちゃんとキッチンでコックが簡単ではあるが調理をしている。出てきたのはレーズンが散りばめられているご飯の中に油で焼いた大きなチキンが1つ入っている、イラン料理であった。チキンは少しパサパサしていたが、なかなか良い味付けで、美味しくいただくことが出来た。相変わらず米の量は多かった。ペットボトルのオレンジジュースもついていた。
この路線の経由地として特筆すべき都市は、ヤズド(Yazd)である。ヤズドはキャビール砂漠とルート砂漠が交わる、乾燥地帯の真ん中に位置し、厳しい気候にある。残念ながらヤズドを通るのは真夜中になるため、町並みを見ることは出来なかった。
食事の後、車窓はとっぷり暮れ、暗闇が続くばかりとなった。翌日に備えて、各自早めに就寝した。
(小山内 貴志)