むっとする熱気: ペルシャ湾に面した工業都市アフヴァーズ

 
私たちの乗った列車は朝5時前、アフヴァーズに到着した。駅はホームと小さな駅舎があるのみで、小さなものであった。 駅舎を出ると、外はまだ暗いが客引きのタクシーや迎えの車がたくさんおり、乗客を待っていた。アフヴァーズは高温多湿な気候を持っており、テヘランと違って早朝にもかかわらずとても蒸し暑い。ガイド氏によると、ペルシャ湾に近いこの都市は、気温が50℃を超えることもあるらしい。夏期は4月後半から10月で平均気温42℃、冬期は11月から4月で平均気温14℃と、気温差の激しい町である。
 アフヴァーズは国内有数の工業都市であり、また近くに油田が多いことから国の重要都市として発展してきた。ペルシャ湾岸には、石油化学工場が集まる、バンダレ・イマーム・ホメイニー・ポート・コンプレックス(以下、「バンダレ・ホメイニー」)という区画が存在する。イラクとの国境に近いので、イラン・イラク戦争時には集中的に攻撃を受けて大きなダメージを負った。 人口は約150万人で、元々アラビア民族の住む土地であり、アラビア語を話す住民が多かった。だが、若い世代は学校でペルシャ語を習うため徐々にペルシャ語を話す人の割合が高くなっているそうだ。  

イランの石油化学拠点:バンダレ・ホメイニー

アフヴァーズは、街の中心を南北にカルー川が流れており、この川を境に旧市街と新市街に分かれている。私たちの泊まるホテルのある東側が旧市街、西側が新市街である。
30分ほど走った後、私たちはShariaty Street沿いにあるNaderi Hotelにチェックインし、それぞれ部屋で少し休んだ。部屋の冷房は、全開でガンガンに効いていた。午前9時ごろ再集合し、私たちはバンダレ・ホメイニーに向けて専用車で出発した。

 バンダレ・ホメイニーにはアフヴァーズから高速に乗り、約2時間かかった。高速道路に乗ってからのポート・コンプレックスへの道のりは、左右に礫砂漠が広がっているところが多かった。所々に小さな湖のようなものを見かけたが、ペルシャ湾に続いているわけではない。水がわいている地域なのか、大量に降った雨水がたまっていたのだろう。沿道に建物はほとんどなく、ガソリンスタンド・発電所以外はあまり見られなかった。 道路脇にはタンクローリーが大量に駐車されており、すれ違うたくさんのタンクローリーを見かけた。これらの車体には、「PETROL」、「IRAQ」、「NADER」、「MARAL」、「KHAK OIL」、「FOX OIL co.」などという名前が書かれてあった。調べてみると、これらは全て石油商品を扱う企業であることがわかった。バンダレ・ホメイニーで精製された石油製品を運んでいるのであろう。


 私たちの車は、道中で二度検問を通過した。石油の精製工場があつまるこの場所はイランにとってとても重要な場所で、かなりセキュリティーが厳しい。私たちの専用車の運転手は、用意してあった証明書のような書類を持って窓口に行き、通過するための手続きをしていた。検問を通過してからは、車はトラックばかりになり、左右には巨大な鉄パイプが置かれた工場や石油化学工場であろう煙突のついた工場が見え始めた。また、小さなボートが停泊する、ペルシャ湾に続く河口もいくつか見受けられた。 バンダレ・ホメイニーに入ると、多数の石油化学工場が建ならんでいる。ガイド氏によれば、現在バンダレ・ホメイニー内で操業している工場は、中国、韓国企業をはじめ多くの多国籍企業のものであり、たくさんの労働者が近隣に住んでいる。だが、今は、日本企業のプレゼンスはない。 とはいえこの場所は過去に日本が、イランと合弁で、岡山県水島などにある石油化学コンビナートと似た石油化学施設を似たやり方で建設しようとした土地なのである。

《コラム》 〜挫折した2つの石油事業〜
 イランにおける石油事業には、過去に日本も関わった大型の案件が2つ存在し、いずれもこの地域でなされた。ここで、その2つについて解説をしておこう。

@「 IJPCの石油化学コンビナート建設」
 一つは、イラン・ジャパン石油化学(IJPC)による石油化学コンビナート建設である。1973年4月、 三井物産を中心とする民間企業グループと、イランの国営石油会社の合弁事業として、IJPCが設立された。当時のイランは日本の石油科学技術を導入し、湯種品の高付加価値化を実現しようとして日本の説得に必死で、イランにコンビナート建設を行う代わりにロレスタン鉱区の石油採掘権を与え、日本はロレスタン鉱区の採掘とコンビナート建設を手掛けることになった。そのコンビナート建設が行われたのが、え現在のバンダレ・ホメイニである。
 設立後すぐに、三井物産を中心にイランへ進出し、日本人約2,000人、現地人約6,000人という大規模な体制でコンビナート建設に取り組んだ。当時日本各地で新産業都市などとして進んでいたコンビナート建設の手法を、そのまま持ち込んで事業を進めたのである。日本の石油化学コンビナート建設事業に携わっていた経験者・技術者を集めイランへ派遣した。 だが、一方のロレスタン鉱区の採掘作業で、日本は、石油を発見することができなかった。コンビナート建設も順調ではなく、様々な政治的理由で何度も妨げられた。まず、73年の第一次オイルショックで建設費が暴騰し出資を減らす企業が出てきた。また、79年にはイラン革命が起き、日本人は帰国せざるを得なくなり、事業は一時中断となった。イスラーム原理主義政権が成立したのちも事業は継続したが、政治リスクが高く、もはや民間だけで進められる案件ではないと判断され、この事業は国家プロジェクト化された。だが、事業再開を前に今度はイラン・イラク戦争が勃発し、建設中の施設が破壊されてしまった。
 その後、ネオリベラリズムの思想を経済政策に取り入れはじめた日本は、財政支出削減のため、国がこの事業に出資することをやめた。そして、最終的に、日本は撤退することとなった。そのあと、韓国企業が事業を行なっている。

A「アザデガン油田」
 二つ目は、アザデガン油田の採掘である。日本がアザデガン油田の採掘権を獲得したのは2000年、当時のハタミ大統領が訪日した際である。採掘権の獲得に際し、イランは交換条件として、@石油化学・鉄鋼・通信の3分野での5.5億ドルの貿易保険、A3年間無条件で30億ドル石油代金前払いを要求し、日本はこれを受け入れた。アザデガン油田は当時の油田の中ではかなり巨大で、自主開発油田を持たず、石油メジャーから輸入するしかなかった日本の石油業界としてはとても魅力的であった。元々イランと日本はアメリカ抜きで良好な関係にあり、日本のトーメン(現豊田通商)とイラン国営石油会社(NIOC)に強い結びつきがあったことも、イランが日本に声をかけた理由の一つである。政治リスクの高いイランの油田開発を反対する国内の声もあったが、なんとか話を進めていった。
 だがその最中に障害が発生する。イランの核開発問題である。2002年8月にイランがウラン濃縮用の地下施設を保有していることが発覚、核開発の疑いがかけられた。アメリカとイランの関係はさらに悪化し、アメリカはILSA(イラン・リビア制裁法)を国内法として制定した。イランの石油・天然ガスに対する投資を禁じるものであるが、国内法にもかかわらず、これを強引に外国企業にも適用させ始めた。これによって他国の石油メジャーもイランとの取引をやめてしまい、イランはありあまる石油を輸出できなくなった。アザデガン油田プロジェクトに関しても、アメリカから打ち切りにするよう圧力がかかり、結局日本は手を引くこととなった。アザデガン油田の開発はその後中国企業が引き継いでいる。

 この二つの案件は、どちらもイランの政治的な理由で撤退を余儀なくされたものであり、日本の石油業界は足を引っ張られる形となってしまった。イランへの制裁は未だ続いているが、イランはロウハニ政権になってから強硬路線を変更し、柔軟な外交を進めようとしており、アメリカとの関係が改善される可能性も見えてきている。だが、イランへの制裁が解けたとしても、イランへの足がかりを全て放棄した日本は、いまイランで事業の実績を着々と積み上げている中国や韓国を出し抜く大きな事業を、いまさら進められるだろうか。
  (参照)化学業界の話題
     中嶋猪久生『資源外交、連戦連敗〜アザデガン油田の蹉跌〜』
     『IJPCプロジェクト史 −日本・イラン石油化学合弁事業の記録−』
     朝日新聞デジタル

 専用車は、ポート・コンプレックスの入り口近くに到達した。道沿いに税関が建っている。税関をさらに進むと、ポート・コンプレックス内部へのゲートまでたどり着いた。ゲートの上には「PORT COMPLEX」と書かれた大きな看板があり、イランの国章も描かれていた。ここは今まで通った検問よりもさらに厳重で、関係者以外は入れない。当然私たちも立ち入ることは出来ず、手前で折り返すことになった。イランでは、港湾は重要な機密地区のようである。ゲート内部は木々が植えられており奥まで観察することは出来なかったが、おそらく工場に続いていて、工場従事者や製品の受け渡しを行う人々が出入りするのだろう。 続いて、石油化学コンビナートのゲートにも向かった。こちらのゲートの先にIJPCの事業地があったという。ゲートの先には石油の精製工場のようなものが見え、ゲートは厳重でこちらにも立ち入ることが出来なかった。敷地は広そうで、IJPCが事業を始めた際に約1万人の体制でスタートした事がうなずけた。


ポート・コンプレックス近くの湾岸で、私たちは専用車から降り、海沿いを散歩した。周囲には釣り船が停泊する浜辺・公営住宅と公園があった。ガイド氏によると、住宅と公園は工場で働く中国人やイラン人家族が利用するために建てられたものだそうだ。公園にある遊具は滑り台しか見えず質素であったが、スペースは広めだった。海沿いでは、小さな釣り船を動かす現地人2人に会った。ペルシャ湾の海水はあまりきれいではなかったが、良く観察すると確かに、魚が泳いでいるのが確認できた。釣った魚は働く中国人などに売ったり、自ら食したりするのだろう。この釣り船のエンジンはYAMAHAの製品である。小さな釣り船やボートの船外機は、世界的にYAMAHAのエンジンが圧倒的に支持されており、中国製や韓国製の追随を許さない。性能や価格の面で、強いグローバルな競争力を持つことが分かる。

また、ペルシャ湾の対岸には、工場や住宅のような建物が立ち並んでいるのが見えた。日本がかつて事業を行ったIJPCは、こちらの方角にある。日本が、独自の立場でイランと関わりを続けていれば、イランでのプレゼンスは、ずっと高いものになっていただろう。
 

周りには極めて多数の石油化学工場があり、蒸留塔や排ガスを燃やす煙突がたくさん見られた。煙突からは炎が上がり、操業中である。




白い粉末の山も見かけた。これは廃棄された化学製品の何かであると思ったのだが、後日調べてみると工場で使う電