2012年9月14日 キエフ

多くの人々が行き交うキエフ駅

巡検終盤になっても慣れない寝台列車の寝床にて目を覚まし、眩しい光が差し込んでくる車窓を覗くと、快晴の青空を背景にした、郊外の高層ビル、マンション群が目にはいった。今までウクライナの至るところで見てきた社会主義住宅のつくりではなく、ガラス張りの近代的なビルである。

列車はこの市場主義の景観を走り抜けて、午前7時40分、キエフ駅(正称:キエフ旅客駅 Kiev Pasazhirs'kii Stants?ya)にすべりこんだ。

首都のターミナル駅であるキエフ駅は、地上のホームが階段で二階のコンコースに連結され、南北の駅舎につながっている。ホームは14番線まで列車が乗り入れている。

私たちが下車したホームには人々がところ狭しと行き交い、ホームからコンコースに上がると。2線毎に100席を超える待合席と売店、土産屋があって、ここも人であふれており、待合スペースはどこも満席に近かった。電光掲示板には、キリル文字とラテン文字が交互に表示され、国際的な旅客サービスを提供しようという意図がにじむ。

私たちが向かった南口駅舎は、京都駅を小さくしたようなガラス張りで、構内は明るく清潔である。南口周辺には巨大商業施設や広場等は特になく、駅前に道路・駐車場があるだけであった。そのなかで目に付くのは、駅前にある小規模の新しい教会の建物である。

私たちは駅舎を出て、駅前の道路・駐車場の下を地下道で移動し、待機していた専用車を利用して宿泊予定のホテルに向かった。


共産主義と市場主義が混在するキエフ

キエフ駅は、キエフの中心地区から西に1.5kmほどはずれていて、駅からホテルへは、都市中心部から下り方向へ東南に移動する。車窓からまず気づいたのは、ウクライナの他の都市と比べて、ラテン文字表記の看板が多いことだ。ベンツやトヨタの乗用車、サムスンのTV、米メディアニューズ・コーポレーション(News Corporation)傘下にあって旧社会主義諸国で広くアウトドア関連広告を行なっているNews Outdoorの広告、ウクライナのディベロッパーKDDによる高級マンション、その他レノボ・LG・富士フィルムの電子製品やイタリアUni Creditの金融などの看板が目白押しである。これらの看板や近代的高層ビル群から、首都キエフが、ウクライナの他都市にも増して、多国籍企業の市場になっていることが見て取れる。

一方、キエフには、依然として旧社会主義の色も確認できた。私たちが通ったドニエプル川を渡すパトンナ橋(Patona M?st)には、共産党の党章を頂く柱が存在した。また、近代的ビジネスセンターや建造中の高層マンションの中に、依然として社会主義的建築物が数多く残っている。

郊外に向かう車中から、キエフ中心業務地区への上り方向の道路をみると、時間帯が通勤と重なっていて大渋滞を起こしており、乗用車で通勤する郊外通勤者が多数いることがわかる。都市交通が、社会主義時代には主役だった公共交通機関から、市場経済化とともに、個人の運転する自家用車へと移ってきていることが感じ取れる。

橋のそばの高台には、剣と盾をもって両手をかかげる女性の巨大な像が立っていた。これはナチス・ドイツ軍と闘って第二次大戦に勝利したことを記念し、ソ連時代に建設されたものである。

このように、キエフの街は、広がりつつある市場主義とかつての共産主義が混在した都市景観を示していた。


ソ連時代の社会主義ホテルは、いまや韓国系

パトンナ橋を渡るとすぐ、本日宿泊するSlavutich Hotelについた。外見は地味であり、社会主義時代のホテルをそのまま改装して使っていることがわかる。ロビーに架かっている世界各都市の時計に目をやると、アジアの時間を示す都市の代表として、東京や北京、シンガポールなどでなく、ソウル時間が表示されていた。このホテルにはハンガン(Han Gang)という韓国料理店が、展望の良い上層階に存在する。この店は、キエフにおける韓国のビジネス関係者や韓国外交官など、韓国コミュニティーの社交場となっているらしい。おそらく、ソ連時代のホテルが民営化された際に、韓国資本が買い取って運営しているのであろう。








荷物を置いたあと、本日のガイドをお願いするラーダ(Lada)さんと合流した。ガイドさんは都市地理を専攻し、キエフの都市史で博士論文をまとめるため頑張っておられる大学院生である。キエフ都市地理に精通し、博物館の学芸員や雑誌編集、私たちのようなスタディーツアーをガイドする仕事もやっておられるそうだ。本日の都市巡検にはうってつけの、博識なガイドさんである。

私たちは、早速キエフの都市を案内してもらうことにした。


活況を呈する東岸の郊外都市開発: ダーニスタ地区とリソフ地区

午前中、私たちは、ガイドさんに案内されてドニエプル川東部の郊外地区を視察した。 この地区は、ソ連のブレジネフ時代に開発が進み、社会主義住宅が林立して、平均的所得水準の人々が多く住んでいる。ここは、ドニエプル川東部中央のダーニスタ(Darnista)地区とリソフ(Lisov)地区、そしてソ連の工業地帯であったドニエプル川東部北のトロエスチナ(Troyeschina)地区に分けられる。私たちはこの三地区を目指した。

まず、最寄りの地下鉄リボベレージナ(Livoberezhna)駅に向かうバスが走るルサニフスカ・ナベレジーナ通り(Rusanivs'ka Naberezhna Vulitsya)を北上し、ロバルスキー大通り(Brovarsky Prospjekt)に沿って走る地下鉄の方向に向かった。

駅周辺には、遊園地、銀行、レストラン、スーパー、ホテルなどが集中し、駅前が地域商業の中心となっている。駅前の商業機能のほかに、最近建てられた、或いは建設中と思われる高層建築物も、駅前には数多く見られた。

これを見ながら、私たちはガイド氏から、市場経済化以降のキエフの都市化過程についてお話を伺った。ガイド氏によると、キエフには高賃金の職を求める人々の移住が多く、人口は15年で倍増して現在は約290万人となっている。都市開発の進展を背景に、キエフ人口の40%はドニエプル川東部に住んでいる。その増加分の多くを、ダーニスタ・リソフ両地区のアパートが受け入れているという。

このため、ダーニスタ地区とリソフ地区では住宅需要が高まっている。この地区はかつてソ連時代には、工業地域であったトロエスチナ地区のすぐ南に位置するため、工業労働者が住む社会主義住宅が多く建設された。これらは民営化を経て、都市再開発の対象となっている。社会主義時代のビルが転用され、近年は人口の増加に伴って活発に建て替え建設が進んでいる。また、ブレジネフ時代に設けられた社会主義住宅の建物の間の緑地帯をつぶして、市場経済のもとで高層マンションが建てられつつある。その結果、私たちは通りを挟んで一方は1960~70年代に建てられたブレジネフ時代の社会主義住宅、反対側には上空にヘリポートがあるような高級高層マンション、というなんともアンバランスな都市景観を目の当たりにすることになった。主に新興富裕層をターゲットとしたこの種の高層マンションは、家賃が一ヶ月に1000USD以上もするそうだ。








このように、キエフの都市化は、都市縁辺が外延的に広がるというよりむしろ、社会主義時代に計画されたゆとりある都市空間を利用した、内包的な高密度化を通じて進んでいる、とガイドさんは説明した。しかしこれは、この地区が高級住宅地に変容したということではない。キエフには、高所得者地区とか、貧民地区といった、所得階層別の地区分化はまだ明確にはできあがっていないそうだ。ウクライナが独立し、市場経済化してから20年余りしか経過しておらず、社会主義時代の社会階層について均質な都市空間が、キエフではまだかなりの程度に維持されているようである。

とはいえ、ガイド氏によると、市場主義による行き過ぎた都市開発に反対する運動が生じているという。地元と一部ロシアの民間不動産会社やディベロッパーが、キエフの森林や歴史的に重要な土地や建築物を伐採し、土地を買い占めて開発を拡大しようとしており、民間人たちによる反対デモがおきている。しかしウクライナ官僚の腐敗具合はウクライナ史上稀に見る程とガイド氏が嘆くように、政府はそれら会社側から賄賂を受け取っているようで、何ら対策に動いてないということだ。

しかし、これらの都市開発は、一面で投機により動かされている。駅前を見渡すと、建設が途中でストップした建物が目についた。資金が続かなくなったのであろう。バブルにのったキエフの都市再開発の危うさを、物語っているようであった。


トロエスチナ地区: 外国人が低所得者向けに中国製品を売りさばく自由市場

地下鉄駅から北に車を進めて、トロエスチナ地区についた。ガイド氏によると、ここはソ連時代には工業が集積していた地区であり、いまでも工場時代のものと思われる煙突が立っている。だが現在は、工場の土地や建物は転用され、エンターテイメントセンター、ショッピングセンター等として機能している例が多いそうだ。ワチューチン将軍大通り(Henerala Vatutina Prospjekt)の西でみることができたSkymallという巨大ショッピングセンターは施設転用の好例である。

私たちはまず、エレクトロテヒニカ通り(Elektrotekhnichna Vulitsya)にある自由市場にむかった。ガイド氏によると、通りの名のとおり、ここにはソ連時代に電気関連の工場が立地していた。現在は、その施設、跡地が自由市場になっている。

駐車場にはぎっしりと車が停車している。トラックから荷出しする業者の姿はあまり見られなかったが、大量の買い物をワゴンに詰めている光景が見られた。しかしこのワゴンは比較的小型であり、オデッサで視察した7kmマーケットがかなり広い商圏をもつ卸売拠点として機能していたのに対し、この自由市場は市民向けの小売拠点となっているようだ。ガイド氏は、買い物客は地元の年金生活者など、標準またはそれ以下の所得の人々が主である、と仰った。外貨両替所もあり、営業時間である午前7時から午後6時まで人が絶えないそうだ。

建物の中に入ると、狭い通路を挟んで、肩を寄せて店が並び、店頭には乱雑に在庫や商品が積まれている。威勢のいい文句で客を呼び止めている店員の顔立ちは、中東や中央アジア系と思われる人々が多い。ここで購入できる品物は靴、衣服、家電製品、財布、文具、玩具、台所製品など家庭雑貨が主で、衣服類、玩具類など、大まかに区画が別れている。

パッケージやダンボールをみると、中国の簡体字がプリントされているものも多く、中国が主な商品の供給地であることがわかる。

下着を販売していたアフガニスタン人の若い店員に聞き取りをした。この方は、かつてソ連が傀儡政権をつくって支配していたアフガニスタンのカブールから、旧ソ連アゼルバイジャンのバクーに留学して医学を学んだが、医師としての職を得ることができず、現在はこの自由市場で販売員をしているという。ウクライナでは、このような境遇になると誰の助けも得られない。ウクライナ人の女性と結婚し、子供ももうけたが、不安定な仕事に将来が心配であると話されていた。この方によると、この自由市場での販売員は、大抵が、店のウクライナ人オーナーに雇われる労働者である。店の商品はオーナーが仕入れ、それを販売して最低水準のUS$400~500の月給をもらっているという。この自由市場の労働者の95%は不法入国者で、主に近隣に住んでおり、労働者としての権利を主張する労働組合やNGOは存在しないそうだ。

そのほか、ベトナムから来てウクライナ語を満足に話せなかったベトナム料理店の男性、そしてビザをもって入国しウクライナ籍を取得した稀な例であるベトナム人女性の衣服店オーナーなどがいた。ソ連がかつて覇権を及ぼした途上国からウクライナに流入してきた移民者たちが、不安定かつ低賃金な自由市場の店員として、市場経済化されたウクライナ社会の底辺に滞留し、不安を胸に生きている実情をみてとることができる。

そして、移民たちが労働の場としてこの自由市場に依存すると同時に、この店員たちは、安価な中国製品などを売って、年金生活者など、近傍の社会主義住宅に住むキエフの低所得者たちの生活を支えているのである。



形成されつつある新興富裕層向けの都市地区: ペトリフカ地区

自由市場を出た私たちは、ワチューチン将軍大通りに入った。すぐ右手に、赤く派手な色合いに塗装された社会主義住宅が立ち並んでいる。ガイド氏によると、これはソ連末期の社会主義住宅で、この時期には、住宅に前衛的な塗装を施す試みがなされたのだという。

モスコフスキー橋(Moskovs'kyi Mist)を通って、ドニエプル川の西岸に渡る。北から新興区であるオボロン(Obolon)地区、大型ショッピングセンターが集まるペトリフカ(Petrivka)地区、歴史ある旧市街の中心であるポディル(Podil)地区、そして現代キエフの中心であるリプキー(Lypky)地区となっている。

私たちがモスコフスキー橋を渡っている最中から、前方東に新しい高層ビルや建築中の高層マンション、そして建築途中のまま放置された建物が目に入ってきた。このオボロン地区の川岸から離れた場所には、1980年代の社会主義住宅がある一方、川岸に近いオボロンスキー大通り(Obolonsky Prospjekt)では、ここ5年で多数の高級マンションやショッピングセンターが建設され、新興富裕層むけの地区になってきているという。キエフでも、徐々に、地区ごとの階層分化が進んでいることがわかる。建築途中の建物が多いことから、そのマンションのかなりの部分は、投機的な開発であることが想像できる。

ガイド氏によると、この地区にあるショッピングセンターにも、先程の自由市場と同様に、ソ連時代の施設や、その空き地を転用しているもが多いという。沿道には、量販をおこなうドイツ系ウエアハウスストアのメトロ(METRO)が大きな店舗をかまえていて、敷地には同じドイツ系のVW車のディーラーも入っている。日本車トヨタの販売店、スポーツ専門ショッピングセンターSportsLifeなども目についた。これらが、先ほどの自由市場と比べ高付加価値のものを販売し、より富裕な層を相手にしていることは、いうまでもない。

私たちは、そのような商業施設の中の一つ、ゴロドク(Gorodok)を訪れた。








ゴロドクは二階建てで、服飾雑貨店や電気製品店、ジュエリー等の店が入っている。ガイド氏によると、このショピングセンターには、キエフの平均的所得者なら年に数回もこないような高級店が軒を連ねているのだという。たしかに店内は、平日昼間ということもあってか、これで商売になるのかと心配するくらい閑散としている。

その中で、私たちはCity.comという電気製品の量販店に入った。この店は入口にあった構内見取り図で大きな敷地をとっており、ゴロドクのキーテナントなのであろう。ミドルクラスの月収が500~1,000USDであるそうだが、デジタルカメラの値段が特価で500フリブニャ(=5千円弱)、その他の店頭価格は1000フリブニャ強と、ウクライナの中産階級の月収の5分の一から10分の一の価格のものが多かった。このような場のショッピングでは、人々はクレジットカードによる分割払いをよく利用するようで、金融経済がキエフでも消費財需要を増やしていることがわかる。

City.comでは、ニコンやキャノン、ソニー等の日本製品を多数目にした。ガイド氏によると、日本製品はキエフでは高く評価されており、人々は高いお金を払って日本メーカー製の電気機器を購入している。ただし、これらの日本メーカー品も、実は大部分が中国製である。

自由市場とゴロドクという二つのショッピングセンターを視察し、両者を比較すると、キエフでは所得水準に応じて通うショッピングセンターの大まかな立地、そして扱う消費財が分化してきており、市場経済化に伴って消費の階層化が進んでいることが見て取れた。

私たちはゴロドクを後にして、キエフの旧市街地ポディル地区の視察へと移った。


段丘崖の下にできた、中世都市キエフの商業地区: ポディル

ゴロドクがあった地点から2kmも南下すると、私たちは、すぐにキエフで最も古い都市地区であるポディル(Podil)地区に到着した。

ポディル地区に入ると、前方が開けて広場が現れた。ここは、ポディル地区の中心であるコントラクトバ広場(Kontraktova Ploschad)である。ここはかつてキエフの商業中心だった場所で、広場に隣接する白い重厚な柱が何本も立っている建物は、昔は露天商店街であったゴステホイドフォル(Gostevoy Dvor)である。この地区には、国立大学モヒリャンスカ・アカデミヤ(Kiev- Mohilyanska Akadjem?ya)も建っている。

ここでガイド氏に、キエフという都市の成り立ちについて、地図を広げながら概説していただいた。

キエフの地には、9世紀にルーシ族が住み始め、小高い段丘の上に町をつくりはじめた。これがキエフの始まりである。キエフ公国の時代には城が作られて城山と呼ばれるようになる。次第に段丘の上には聖職者や王族、貴族が住みつき、これに対し段丘の下には一般の人々たち、という住み分けが生じて、ポディル(下町という意味)地区が形成された。

川に面して舟運に便があるポディルはキエフの商業中心となり、町の外周を城壁で囲った。11世紀になるとヤロスラフ賢公(Yaroslav Mudrii)が既存の町の南方に町を拡大し、その外周を城壁で囲った。

次の地図は、メゼンツェフとヘレツ(Volodymyr T. Mezentsev and Leonid Heretz)による論文 The Emergence of the Podil and the Genesis of the City of Kiev: Problems of Dating Harvard Ukrainian Studies, Vol. 10, No. 1/2, June 1986 に掲載されている、都市キエフの古地図である。

ポディルは、ドニエプル川の段丘の下の5番の地区にあたる。これに対し、キエフ・ルーシが最初に住み着いたのは、段丘崖のすぐ上の2番で、ウラディミルの町(Volodimer's Town)と呼ばれ、これをヤロスラフが拡大した地区はヤロスラフの町(Jaroslav’s Town)と呼ばれる。

そして、地図上で4番の地区は、コピリフの端(Kopyriv End)という地区で、小規模の交易・工芸の場として機能していた。ヤロスラフの町の城壁が3.5kmあるとされるので、地図から概算するとキエフの旧市街の広さは10平方kmといったところだったのであろう。地区や丘の開発を主導した人物の名前が地名になっていることが多い。


広島・福島と連帯感を共有する、国立チェルノブイリ博物館

ポディル地区には、元々消防署であった建物を活用し、国立チェルノブイリ博物館が設けられている。私たちも、もちろんこれに立ち寄った。建物の側に停車している戦車や救急車のような車が、博物館を周囲の建物と異質なものに見せている。これらは1986年4月26日にチェルノブイリ原発事故が起きて、その対応のためチェルノブイリに向かった車両である。

私たちは、入場料として一人10フリブニャ(≒100円)を支払った。オプションとして、英語による解説オーディオ(一台につき二人まで利用可能)を15フリブニャで借り出し、館内で写真を取るために一人20フリブニャ払った。館内の殆ど全ての展示には英語による解説も、ましてや日本語での解説もなされていない。このため、ウクライナ語が理解できない場合は、解説オーディオを利用するかガイドをつけるのが適切であろう。

館内は、一階に会計を行うロビーと、チェルノブイリ事故のイメージを示す展示物があり、二階が主な展示スペースとなっている。以下で、一階と階段の展示、そして二階については内容により三分類して展示を紹介する。

●イメージを重視する博物館の展示姿勢

一階の入口の前には、青く発光した高圧線の碍子をイメージしたようなオブジェが天井から吊るされている。チェルノブイリ原発の送電線を表現しているのであろう。その後ろには破壊された町や、放射能を示した画が飾ってある。この博物館の展示対象が放つ重い空気を、いやがうえにも感じる。

一階のロビーには、桜の枝とともに、ウクライナ語および日本語でのメッセージが掲示されていた。引用すると:

「桜の枝 ? 煙の美女。この枝に歩み寄って、優しく抱きしめる。チェルノブイリ   から宜しくと伝えておく。桜が息で返事をする。全世界が悲しみに暮れ、皆が心 配になり、祈りが天国まで響く。その中に私たちの声: 私たちはあなたと共にいる。 桜 ? 私たちの姉妹。傷が癒されるように祈りを捧げている。諦めないで!」あな たの兄弟、キエフの栗の木より

ただ、このメッセージはウクライナ語で書かれたメッセージをうまく日本語に訳せていないところがあると思われる。一文目の「煙の」は「赤い」、最終文の括弧閉じはコロンが本来は括弧開きであろう。この展示を入口付近に設置することで、博物館は、原爆投下、そして原発事故という2つの核の被害者としての日本にたいする共感を表している。

チェルノブイリ原発事故の前と後が、写真で比較されていた。子供たちが元気に勉強している教室は、事故後には荒れ果てて朽ちた。1970年に原発付近に作られた計画都市プリピヤチの碑を背景に男女がポーズをとっていた場所には、雑草が生い茂っている。プリピヤチ建物はそのままの状態で残っているが、街は放棄されてしまっている。

二階につながる長い階段には、天井から大量の、白地に地名を書いた標識板がぶらさがっている。この地名は、強制避難区域とされた村の名前である。標識板の裏面は黒地に村名が白抜きされ、村名に赤い斜線が引いてある。これは村民が避難して廃村となったという意味で、ガイド氏は「死んだ町」と仰っていた。







階段には、枯れた林檎の木が描かれていた。ガイド氏は、林檎はウクライナで伝統的に好まれる果物であり、林檎の木から実が全て落ちてしまっていることは、枝になにもなくなってしまったように、原発で人々の心にポッカリと穴が空いてしまったことを表現しているという。この博物館の外壁にもその林檎の木の絵が飾り付けてあった。

●チェルノブイリ原発事故の発生と、大量の被曝犠牲者

二階には、事故の一日前の昼から事故が発生した後までを説明した音と照明のついたスライドショーのような展示がある。まず、事故前日の昼は平穏に運転をしていた発電所が現れ、その画面が暗くなって、その夜に火災が起きたことが示される。次のシーンは翌日の朝で、火災とともに原子炉の建屋が崩壊していた。ヘリコプターがやってきて上空から砂やセメントを投入する。そして最後のシーンでは、建物が石棺で被われた現在の姿が写し出された。ガイド氏は、この石棺で封じられた建物内には、どれほど高濃度に汚染されたかもわからない汚染水が依然として残っている、と問題を指摘された。


事故対応に使われた地図が展示されていた。ガイド氏によると、軍が作成し利用していた地図だという。どの地域でどれほど汚染されているかが、その度合によって色分けされており、避難地域が円で示されている。首都キエフは、原発から120~30km程しか離れていないものの、風下にないため、地図ではキエフが汚染度合いが低い地域とされている。放射性物質は、風が吹く方向に乗って、主にベラルーシ領の北西方向に流れていき、そこで被害を拡大させたのである。

モニターによる映像で、原発事故後初期段階の事故対応が紹介されていた。建物の天井が吹き飛ばされ、その隙間から調査員が建物に入っている。潜入の際に持ち込んだ調査機器はあまりの高濃度汚染下では正常に機能しなかった。そして、所持していたガイガーカウンターは1分間で被曝量が危険水準に達したことを示した。この時に調査を行なった人々の殆ど全ては、被曝によりのちに命を落としたという。

二階の展示では、防護服をまとった人形とその周囲にあるおびただしい数の白黒写真が印象的である。人形は、事故直後に対応にあたった政府担当者や科学者、そして消火にあたった消防士や軍人たちをイメージしている。赤と黄色の放射能マークがついた写真が多くあって、それは被曝が原因で死亡が確認されたことを意味している。マークがない人々は、その後連絡が取れていないだけで、大半の人々は死亡したはずだという。兵士だけでも800人は投入されたらしい。館内には事故対応に従事した人々が着用した防護服が数多く展示されていた。福島原発において除染事業に携わる人々が身に付けている防護服と比べても非常に簡素なもので、これでは作業時の被曝は防げないだろうと感じさせた。

●ソ連政府の情報隠蔽と、ウクライナのソ連・ロシアへの態度

ガイド氏は、ソ連政府が人々に、チェルノブイリ事故について極めて限定的な情報しか提供しなかったことを私たちに強調した。モニターで流れていた映像によると、4月26日午前1時に起きた事故について、近隣の住民は何も伝えられぬまま、27日の午後2時には強制的に政府が派遣した車両によって避難させられた。その際人々は、何かが起きたことはわかったが、重大な事故だとは思わなかったため、また帰還できると思い込んで特に荷物をまとめることもなく避難したという。人々が避難するその街のビルには、「本日ディスコ開催」との広告が出されていた。展示されていた29日のソ連ウクライナ共和国の新聞記事でも、大事故が起きたことについては何も報道されなかった。

広河隆一著『チェルノブイリの真実』(講談社、1996年) p.96によると、事故発生の二日後に、スウェーデンの気象台がバルト海の向こうから放射能を含む雲がやって来ていることを突き止め、ソ連において原発事故が発生したことを全世界に発表した。外国で事故が報道されたソ連は、スウェーデンの発表から数時間後になった28日の夜、チェルノブイリ原発で事故が起きたことを伝えた。しかし、ソ連側の伝え方は事故がさも軽いものであったかのような印象を与えるものだったという。

二階の中央には、ソ連時代のウクライナの写真が飾られていた。ソ連書記長ブレジネフの顔写真や、キエフにおいて1977年にソ連60周年記念パレードが行われた時の写真、ゴルバチョフが演説している写真、そして大きな人物画を背後に集まっている人々が映る写真等である。これらの写真のうち後者二点は、黒い檻のような枠で囲まれている。ソ連時代に破壊されたと思しき荒廃した教会の写真がかざられていることを加えて考えると、この展示はソ連の思想統制を非難していると考えられる。人々の集合写真は檻の中にあり、思想の檻の中で人々が洗脳を受けていたということを示しているのであろう。このことと、チェルノブイリ事故直後の民衆になされた情報隠蔽とは、もちろん一体のものである。

●チェルノブイリと広島・福島の絆

チェルノブイリ事故のあと、ウクライナは多方面から支援を受けた。二階の一部の天井には仏のストラスブール(Strasbourg)と書かれた、支援物資を思わせるダンボールが多数張り付けられている。アメリカからは消防士から犠牲者追悼の碑が贈られている。ガラス棚の中には欧州連合や国際連合の旗と共に、代表者がウクライナの子供と交流している写真や、共同制作した本が展示されている。

以上のような各国の展示と比較して日本からの支援や日本の原発事故・原爆投下に関する展示には、ひときわスペースが割いてあった。広島への原爆投下については、1995年に『中国新聞』労働組合が編集・発行した仮想『ヒロシマ新聞』の「新型爆弾 広島壊滅」と報じた記事、キノコ雲の絵や原爆ドームの写真等が展示してある。また民間団体であるジュノーの会や「えんどうまめ」による草の根支援として、千羽鶴とともに画用紙に書かれたメッセージ、毛筆で半紙に書かれたメッセージが展示され、「ともに生きるために」という文章を掲げて支援者を募っていた。また福島原発事故に関しては「絆」という漢字や「CHERNOBYL」「FUKUSHIMA」という字ともに、ウクライナと日本の両国をチェルノブイリと福島を中心に重ねて描き、重なっている点から建物が伸びて、復興を思わせる画像が展示してあった。

日本政府による、この博物館への支援も見られた。館内に設置してある館内利用ガイドや館内のモニターには、日本のODAによって提供されたものであることを示すステッカーが貼ってあった。館内ガイドの冊子に用いられている言語は、ドイツ語・英語・ウクライナ語である。欲を言えば、日本が援助したことを明示するためにも、福島原発事故が起きて僅かでも増えたであろう日本人来館者への日本語ガイド冊子も用意してほしかったところである。

広島への原爆投下や福島の原発事故に関する数多くの展示は、博物館の入口に展示されている日本語のメッセージと合わせ、核にかかわる事件を不幸にも共有したウクライナと日本の間にある強い連帯感を表明していると考えられる。

これら一階と二階への階段における展示内容からもわかるように、この博物館は、原発事故件に関わる具体的な科学的データを示すのもさることながら、原子力が人類にもたらした否定的な帰結をイメージとして観覧者に伝えることを重視する展示姿勢を見せている。

一時間ほど博物館を見て回ったのち、博物館を出て私たちはキエフの都市巡検を再開した。博物館からすぐのウラディミルスキー坂(Volodymyrs'ky Uzviz)は、ポディル地区で一番の商業中心街になっている。ここを上ってフレシャチク通り(Khreshchatyk Vulitsya)に入ると、そこは帝政ロシア時代以来キエフの中心地区である、リプキー地区となる。


リプキー地区: キエフ随一の目抜き通りと、開放的な官庁街

ガイド氏は、シャンゼリゼ通りほどのショッピングストリートはキエフにはない、と謙遜しながら、このフレシャチク通りが一番の目抜き通りだと解説してくれた。通りには、帝政ロシア時代に建築されたと思われる建物が、整然と並んでいる。そして、ソ連時代のものであろう国際会議場、そしてソ連時代のレーニン像に代わって天高くウクライナ独立記念碑がそびえ立つ、独立広場(Maidan Nezalezhnosti)がある。広場の周囲にはホテルや音楽学校、省庁舎等があり、広場の噴水は憩いの場となっていて、人で溢れていた。









この独立広場は、古地図でおおよその位置を確認できる。広場はフレシャチク通りで東西に二分されるが、その東広場の中央にはレンガで出来た門が見える。これはヤロスラフの町の城壁にある代表的な門の一つであり、古地図の2の番号の南東にあったが現存しないリヤドスキ門(Lyadski Vorota)である。ここでガイド氏が、地図を広げながら、ヤロスラフが築いた城壁と城門の跡について説明してくださった。ヤロスラフの町の正門は、古地図では番号2の南にある黄金門(Zoloti Vorota)であり、ここからリヴィヴスカ (Lvivska)広場にあるリボフ門(Lviv Vorota)まで北西に伸びるヤロスラフ城壁 (Yaroslaviv Val)通りが町南西の城壁跡である。町南東の城壁は黄金門からリヤドスキ門へつながっていた。古地図にあるような直線の城壁跡は現在の道路にはないが、大まかには黄金門から西に伸びるプロリズナ通り(Prorizna Vulitsya)、そしてその突き当たりとリヤドスキ門までのフレシャチク通りがそれに近い。

専用車を広場の東方面に走らせると、薄茶色のホテルがひときわ目立つ。ガイド氏によると、1960年台に建てられた、スターリン様式のホテル・ウクライナである。その裏手のバンコフ通り(Bankova Vulitsya)からシャフコフチン通り(Shovkovychna Vulitsya)にかけて、ウクライナの国政機能が集中している。バンコフ通りは、ウクライナの大統領府がある場所であるが、セキュリティーが甘いのか、私たちのような外国人も難なく近づいて建物を間近で見ることができた。白と灰色の大統領官邸はバロック様式で1930年代に建てられた。ウクライナ独立以前にはウクライナ共産党の本部として利用されていたそうだ。







その目の前にある、なにやら色々な怪物の像が置かれている建物は、キメラの家(Budinok z Khimjerami)と呼ばれる。ガイド氏によると、20世紀初めにポーランド人建築家ゴロデフスキー(Gorodefsky)がつくった「アニマリスティック」アールヌーボーと呼ばれる特異な様式である。利用用途は様々に変わってきたが、かつてはKGB員の治療を始める病院であり、現在は大統領の公邸であるそうだ。








その奥には、1920年代後半から1930年代に建てられたという、かつてのウクライナ共産党高級官僚のためのアパートがあった。デザインは白一色のシンプルなつくりである。これらは、バウハウス運動を源流にもつ、簡素で機能重視な構成主義(constructivism)の表れである。この様式がここに採用された背景には、ブルジョワの好んだような無闇な華美さを嫌う、当時のソ連ボリシェビィキの姿勢が窺える。

バンコフ通りを抜けると女性の顔の彫刻が施してあるグレーの建物が目立つ。窓や外壁の曲線や奇抜な彫刻からアールヌーボーの建築様式だとわかるこの女性彫刻は、経年劣化によって色がはげ、まるで瞳から涙がながれているように見える。このことからガイド氏は「すすり泣く未亡人の家(Budinok plakuchoi vdovi)」と呼んでいた。

バンコフ通りを抜けてシャフコフチン通りを進むと、1930年代に建てられたスターリン様式のウクライナの議会(ラーダ)、そして州庁舎がみえた。


ソ連時代の神聖な「民族友好」をあえて貶める遊戯施設群

私たちは、ミハイル・フルチェスコ通り(Mykhaila Hrushevs'koho Vulitsya)を通って独立広場の方向に戻る途中で、近くにある展望台に建つ、ソ連時代の「民族友好記念碑」を視察した。

ガイド氏によると、1982年にソ連がもともとコンサート広場であった場所を取りつぶして巨大な記念碑をつくったのだという。茶色と灰色の石像の頭上にあるアーチは虹を表現し、これは旧約聖書にある大洪水の後に訪れた平和な世界に神がみせた虹をモチーフとしているそうで、統合を意味しているという。ソ連は、当時あった15の共和国の民族を共産主義のもとに同化させる方針を持っており、この記念碑はこの同化政策を促進させることを象徴しているのだと思われた。

ソ連の党章を掲げる二人の男性像は、ウクライナが17世紀に周囲をトルコとポーランドという外敵に囲まれた際に、防衛のためウクライナがモスクワと条約を結んでモスクワ大公国の庇護下に入った時の統合を表している。ウクライナにとっては、ポーランドの支配下からロシアの支配下に入った転機であった。独立後のウクライナ人にとって、このモニュメントは、ソ連支配・ロシア支配を象徴するもので、必ずしも喜ばしいものではないだろう。茶色の像はポーランドとの戦争の際の兵士である。ロシア人とウクライナ人を判別するのは難しいが、詰襟の服を着用しているのがロシア人で、あごひげを蓄えているのはウクライナ人であるそうだ。ソ連社会主義時代のモニュメントには、このような勇ましい姿が表現された社会主義リアリズムの作品が多い。

民族統合を印象つけるこの展望台は、ソ連時代には神聖な場所であったにちがいないが、ウクライナが独立を果たした今は、記念碑の周りに売店、ドニエプル川横断綱渡りの絶叫アトラクション、貴婦人のような服装をして馬車にのるコスプレ場といった、遊園地のような施設が立ち並び、すっかり市民の憩いの場となっている。このような資本主義的な諸物を周囲に配置することで、キエフ市政府は意図的に、記念碑が表現するソ連時代の思想とこの広場の政治的意味を貶めているのかもしれない。

そしてここには、「The European Villege. Our continent . Our future.」と英語、ウクライナ語で書かれた広場の案内板も見られた。これはヨーロッパのサッカーイベントEURO2012がウクライナで開催されたときにつくられたもので、大会にむけた整備はドイツとウクライナが主導したと書いてある。EUとキエフ市の支援があったことは、それらを表す旗が印刷されていることからわかる。この案内板をこのソ連時代の思想を体現した広場にあえて設けたことからも、ウクライナ政府の目線は着実に、旧ソ連からEUへと移っていることがわかる。

独立広場に戻り、トロフスビャチテルスク通り(Tr'okhsbyatytel's'ka Vulitsya)を西進すると、聖ミハエル(Mikhajlivs'kii)広場に至る。広場の中央には、キエフ大公国建国初期イーゴリ一世のお后であるオリガの記念碑が立つ。その奥にある白い柱の建物は、ガイド氏によると現在は外務省が入っている。

奥には聖ミハイル修道院(Svyato-Mikhajlivs'kii Zolotovjerkhij Monastir)があり、古地図で番号3の場所と確認できる。修道院の背後は丘になっており、段丘崖の上に建つ、青い屋根が美しい、ウクライナ正教会の聖アンドリイ教会(Andriivs’ka Cherkva)の敷地に登ると、ボディル地区やドニエプル川、そして東岸の郊外が一望のもと、眼下に広がった。ガイド氏はここに私たちを連れてきて、一日かけてまわったキエフの都市を俯瞰させたかったのだろう。川の手前と比べて、午前中に視察した東岸には高層マンションが立ち並び、ダーニスタ・リソフ地区の都市開発の進展が見て取れる。








住友商事キエフ支店: 潜在力あるウクライナ市場の軽視と挑戦不足

この教会と修道院のあたりは、帝政ロシア以来の伝統をうけつぐキエフの一等地で、その地区が持つ名声から、外資系企業などが多くオフィスを構えている。私たちは、その中の一つ、日本の商社を訪れ、インタビューをすることとした。

住友商事キエフ支店は、独立広場の北西のリルスキー通り(Ryl'skyi Vulitsya)にあるビルに事務所を構えている。1Fには高級紳士服カナーリ(CANALI)が出店し、3Fにボストンコンサルティングなど外資系企業が入居している。

支店の部屋は、瀟洒で高級感あふれるインテリアである。広い会議室で、キエフ支店長である喜納政夫氏とマネージャーの長田竜介氏のお二人が、お忙しい中、私たちのインタビューに応じて下さった。

喜納支店長によると、住友商事のウクライナでのビジネスは現在四分野ある。すなわち、製鉄所の発電設備更新事業、トヨタ自動車の輸入代理と販売事業、コマツ建機の重機販売事業、そして農薬の販売事業である。設備更新事業以外の事業に対してはそれぞれ独立した子会社を設立し、8人の日本人を派遣して100~200人の現地人を雇っている。私たちはこの中で、製鉄所の発電設備更新事業について詳しくお話を伺った。

製鉄業はウクライナGDPの三割を占める主要産業であり、国内にはソ連時代から稼働している多数の製鉄所が存在する。2008年にリーマンショックが起きるまでの2000年代は、このようなソ連時代の設備更新・近代化プロジェクトに対しての海外からの投資ブームがウクライナでおきていた。住友商事はその流れにのって、アルチェフスク(Alchjevsk)にある民営化された製鉄所、アルチェフスク製鉄所(Alchjevskii Mjetallurgichjeskij Kombinat)向けに、三菱重工業製の高炉ガス焚きガスタービン・コンバインドサイクル発電設備2系列を納入する契約を、2006年に取り付けた。これは製鉄所むけの自家発電設備であり、通常はガス発電であるところを工場排ガス利用による省エネを実現した発電様式である、と喜納支店長は説明された。

この事業は2008年のリーマンショックによりその構造的問題があらわとなって停滞をみせる。喜納支店長は、ウクライナにおいてソ連時代の設備を更新する際の問題点に、設備保有側の資金調達の難しさを指摘された。設備更新の巨額な費用を賄うためには、金融機関からの融資が不可欠である。実際、住友商事は、契約の際に金融支援の斡旋も行い、国際協力銀行、欧州復興開発銀行からの拠出を受けた。しかしリーマンショック、その後のユーロ危機の影響によって、ウクライナの設備更新ブームにのって進出していた欧米の金融機関の資金がウクライナから離れてしまった。そのため、住友商事が納入資金の振込を受ける段階になって、アルチェフスク製鉄所側が資金難に陥った。それ以来現在まで、親会社であるドンバス鉄鋼連合(Korporats?ya)は、銀行団との債務繰延交渉を続けている。このように、国際的融資がないと設備投資が不可能であり、建築に時間のかかる設備更新事業には長期的な資金援助が必要であるにも拘らず、銀行は短期の資金しか貸し出せない状況にある。ウクライナの製鉄業は、社会主義国営企業の設備を受け継いで非常にローコストでビジネスを開始できたが、その設備が老朽化するにつれ、問題が生じてきた。

ウクライナではこのようなソ連製の産業設備を更新する必要性が認知されてはいるものの、今日明日にその設備が使用不可能になる訳ではないので、ソ連時代の遺産を消費しつつ現状を維持しながら独立以来20年が過ぎた。しかしこれから10年、20年先までその設備が利用できるかはわからない。遅かれ早かれ、老朽化して使えなくなる日が来るであろう、と喜納支店長は分析する。

したがって、ウクライナにはポテンシャルな設備更新需要がある。潜在需要を実需要として掘り起こすため、資金調達問題を克服するソリューションを提供できれば、これは大きなビジネスチャンスである、と嘉納支店長はおっしゃられた。

この意味で、中国のウクライナへの攻勢は目を見張るものがあるという。中国は国営銀行が中国製品の採用を前提に、数十億ドル$単位もの融資を行なっている。そういえば、私たちは先日クリミアを視察した際にトロリーバスが中国製のものに更新されたことを知ったばかりであった。

これに対し日本はウクライナ市場への政府、民間による関与は極めて消極的であると言わざるを得ない、と喜納支店長は嘆かれる。政府系金融機関に、金融面でのサポートがあれば日本の技術を非効率的な現在の旧ソ連製生産設備の更新で売り込める可能性は十分にある、と政府に訴えても、何故ウクライナか、と冷たい反応がかえってくるそうだ。日本には、中央アジアやロシアと異なってウクライナシンパの政治家はおらず、日本企業にとってチャンスがあっても日本政府は金融援助に動かないのである。

日本外務省発表の政府開発援助国別データブックによると、2011年度の日本政府のウクライナへの政府開発援助額は、円借款が0円、無償資金協力が5200万円、技術協力が1億5500万円と少額である。住友商事の発電設備更新受託の際に三菱重工のものが使われたというのも、アルチェフスク製鉄所の更新計画の作成段階で日本が国家的戦略としてコンサルタントを送り込んでマスタープランに関与し、住友商事や三菱重工が受託できた、というわけではない。受託は純粋な競争入札の結果であり、政府は山の如く動かず、日本企業間での協力受託がなされたのも、実は偶然であったとのことだ。

日本政府がネオリベラリズムに乗って「小さな政府」を志向し、すべてを市場に委ねた結果、国際的なビジネス戦略で、国家資本主義の中国に後塵を拝する結果となっていることが、ウクライナでもよく理解できた。

では、政府が頼りにならないのなら、政府に責をなすりつけるのではなく、民間企業のウクライナへの経済的進出の手引きを自ら主体的に行うことについてはどうなのか。このことについて、その挑戦意欲には疑問符がつく。リーマンショック以前の、ウクライナへの投資が盛んで欧米金融機関がこぞって進出していた時期ですら、邦銀のプレゼンスは皆無であった。その理由として、格付け会社が公表するウクライナの「高いカントリーリスク」や、そもそもウクライナへの「関心度が低い」ことがある、嘉納支店長は説明した。ウクライナは、ロシアという大国の影に霞んで存在感が乏しく、ロシア、中国と違って、日本企業関係者の視野から外れているという。つまるところ、ウクライナについて日本の企業は全く知識がない、とまで言い切られた。

住友商事のウクライナでの活動においても、これからの新規ビジネスの創造を試みるものの成功をみていないのが現実である、という。設備更新事業に関しては、アルチェフスク製鉄所以外の実際に動いている案件は存在せず、現在模索中だという。

しかし私たちは、ウクライナの現地で、中国香港のワトソンやドイツのMETRO等の小売業チェーンが「高いカントリーリスク」をヘッジして挑戦的に進出している事例を、数々目の当たりにしてきた。そこで、ウクライナの小売への関与は考えているか、と質問してみたところ、その考えは現在持っていない、との返答であった。日本にも、イオンやマツモトキヨシなどの実力ある流通企業はあるはずだが、そのウクライナへの進出・誘致の手助けをしようという考えは、ないらしい。ウクライナの農産品の輸入に関しては、日本への輸入は輸送費がかさむ他に、チェルノブイリ原発事故の記憶から汚染の風評被害があり、よほどの価格差や高品質でない限り日本では需要がない、と肩を落としていた。

住友商事のキエフ支店は、他のロシアのモスクワ支店、カザフスタンのアルマティ支店ならびにアスタナ支店、ウズベキスタンのタシケント支店等と同様に、住友商事の旧ソ連にある支店を統括するCIS住友商事の管轄下にあり、依然として旧ソ連という地理的枠組みを墨守している。EUの外縁としてウクライナを捉える視角は、ないようだ。そして、旧社会主義国の支店は採算が採れないとして、年々閉鎖されているという。

進出に挑戦しない言い訳はいくらでも思いつくだろうが、住友商事は民間企業である。だが、日本の人事制度では、どこの会社もたいてい、海外駐在の人員が数年で配置転換される。喜納支店長は、この4月に赴任してからまだ5ヶ月で、3年の任期で他支店に移るようである。このような人事制度であると、任期の短さ故に、赴任している間は極力荒波を立てず、リスクを積極的にとってビジネスを拡大しようというインセンティブは生まれ難く、企業は官僚化していくのかもしれない。これでは、中国や欧州の企業に勝てるはずはなく。じり貧になるほかない。

現状で、住友商事がウクライナで実際に展開できているビジネスが先述の四分野しかなく、その半数は代理販売といった状況では、キエフ支店にめざましい収益が上がっているのだろうか。それでいて、日本から駐在員を派遣し、キエフの一等地に高級感あふれるオフィスを構えていては、コストばかりがかさみ、このままではキエフ支店の閉鎖も遠くはない、と厳しく考えることもできるかもしれない。

私たちがウジゴロドにおいて視察した矢崎総業は、喜納支店長によると、商社の手を借りずに、独自の判断で進出した稀有な例であるという。矢崎総業の工場はクチマ大統領が開場式典に出席したように、ウクライナ側から、技術力をもつ日本企業への熱い視線がある。だが、ウクライナに入国して始めに矢崎総業の喜ばしい進出例を見て感動した私たちも、巡検最後には、やはり、海外ビジネスでの挑戦に消極的な日本の姿を確認することとなってしまった。

ウクライナへのビザンツの影響を物語る、聖ソフィア大聖堂

住友商事を辞し、すぐのところに、馬にまたがるウクライナコサックの長ボグダン・フメリニツキーの像がある。フメリニツキーは、先ほど視察した民族友好記念碑で述べたポーランドとの戦いで活躍し、モスクワ大公国の保護下に入る条約を進めた人物である。像が手にしている棍棒はモスクワの方角をむいているという。現在のウクライナにフメリニツキー像が現存していることは、ロシア支配下にウクライナが入ったのもさることながら、リボフの視察で私たちが学んだ、ポーランド支配からの独立もウクライナ人にとって重要で、ポーランドからの自立に尽力したことが評価されたのだろう。ただし、中にはロシア支配下に誘導したとして、フメリニツキーを嫌う人もいる、とガイド氏はお話になった。

続いて私たちは、このボグダン・フメリニツキーの像のすぐ近くにある聖ソフィア大聖堂(Sobor Svyatoji Sof?ji)を訪れた。像の近くにある背の高い白と水色の建物は鐘楼であり、敷地への入口の一つとなっている。私たちはここでチケットを購入した。開館時間は10:00〜18:00、(水曜は10:00〜17:00)で、木曜日は休館である。入館料金は大人53フリヴニャ、学生は23フリヴニャとなっている。日本語表記の私たちの学生証も認めてもらえた。館内にある鐘楼や製パン所を見る場合には追加料金がかかる。なお博物館の敷地内での写真撮影は建物の外では許可されているが、建物内部では禁止されている。

入館するとまず、ガイド氏が聖ソフィア大聖堂について概説してくださった。敷地の中央に鎮座する聖ソフィア大聖堂は、11世紀のヤロスラフ賢公時代にギリシャ人建築家と芸術家によって、ビザンツ様式により建てられた。この場所に建築されたのは、ヤロスラフ時代のキエフの南門である黄金門のそばに立地することが求められたからである。当初はキエフの正教会修道院、学校として機能し、後に図書館が建てられて年代記が編纂された。宗教、教育、文化の中心になっただけでなく、聖堂内で王族の結婚式や任命式、外交会議がおこなわれ、政治的にも利用された。

ソ連政府は、このような聖堂の破壊を試みた。だが。そのときウクライナの歴史学者たちは、教会保存のために、教会ではなく「博物館」であると主張してこれを護った。このため、1944年からは国立博物館となっている。11世紀のモザイク画を聖堂内部に残していることから、聖ソフィア大聖堂は1990年にユネスコ世界文化遺産の指定を受けた。今でも、ここは「博物館」ということになっていて、教会として機能はしていない。

敷地内にある地図によると、敷地内には大聖堂のほかに鐘楼、大主教住居、食堂、聖堂高階級者の住居、神学校、パン屋と教会会議所、南門、ザボロフスキー(Zaborovsky)門、の8つの建築物がある。敷地内の建築物では聖堂だけが11世紀に建てられ、敷地内のその他の建物は18世紀につくられた、と説明書きにある。

入館時に通った鐘楼は18世紀初頭に建てられ、ウクライナ・バロック様式でつくられた。鐘楼壁面に見られるような草花の散りばめられた様式は、カーペットスタイル(カーペットとは草花の広がりを意味する)とよばれる。草花の他には、王冠を持つ二人の天使や、十字架と杖を足でもつ双頭の鳥が彫られている。これは、ビザンツ皇帝の紋章である双頭の鷲に似ており、キエフ、ロシアへの正教会の伝播、伝統を物語る。『最新世界史図表』(第一学習社)によると、上述したウラディミルの町をつくったキエフ公国ウラディミル1世が、10世紀後半にギリシャ正教に改宗・国教化した。そして15世紀中頃、ビザンツ帝国滅亡後にビザンツ最後の皇帝の姪と結婚したモスクワ大公国イヴァン3世は、ギリシャ正教保護者の任を、この紋章を掲げてビザンツ帝国から後継した。この歴史があるため、18世紀初頭のロシア正教首長であるロシア帝国ピョートル大帝時代になって鐘楼が建築させる際にも、この鷲の紋章が壁面に彫刻されたのである。









私たちは時間の関係から、大聖堂を主に視察した。聖堂の外壁は基本的に白く塗られているが、ところどころ茶色い石壁が露になっている。これは、ガイド氏によると、18世紀初頭に聖堂が修復された際に、元々の11世紀の石壁を遺すために敢えて白く塗らなかったということだ。

聖堂に入って目に飛び込むのは、天井のドームに描かれた巨大なモザイク画とその下にある黄金のイコノスタシスである。ガイド氏によると、中世ウクライナのモザイク画として有名なのが、このアプスに描かれたモザイク画であり、両手を掲げるその姿は、神への完全な信頼を表現している。これらの11世紀に描かれたモザイク画の大半は時が経つにつれひどく劣化したため、この天井のモザイク画以外は、修復された画であるそうだ。

この聖堂のバロック様式のイコノスタシスは、ウジゴロドで視察したユニエイト教会のイコノスタシスと異なって、祭壇の奥にある至聖所と人々が祈りを捧げる聖所をわける本来の場所に位置している。イコノスタシスは黄金で彩られているが、その門の部分の金を見てみると新しいものであることがわかる。これは、ガイド氏によると、イコノスタシスの門の部分が1930年代に破損し、その修復をおこなったからであるという。

見逃してしまいそうになるが、壁面には数多くの落書きが刻まれている。ガイド氏によると、それら大半は祈りの文言であるが、中には歴史を伝えたものがある。例えば「1054年にヤロスラフ王が死んだ」と刻まれている落書きを、ガイド氏が読みあげてくださった。

聖堂内の壁面には、フレスコ画が壁や柱に描かれている。その一部は古いものが現存しているが、多くは復元されたものである。ガイド氏によると、これらは時代毎に上書きされていったものだという。ビザンツバロック様式で描かれ、その内容はヤロスラフ賢公とその子供たちの画や神の福音を伝えるものである。

聖堂は、代々キエフ公国の大公の墓所でもあったので、館内にはヤロスラフ賢公の石棺が展示されていた。ガイド氏によるとこの石棺内部にあったものは多くが盗まれてしまったという。しかし、残っていた骨を利用して、ヤロスラフ賢公の胸の像が再現された。

聖堂内には、黄金門が破壊される前のキエフの町と聖堂の模型の展示があった。これにより、土塁や門がどのように位置で町を囲っていたかがわかる。ガイド氏によると、大聖堂は黄金門のすぐ側につくられていたために、町の外からも確認できるキエフのシンボルになったという。この門と教会とを近接させるという都市計画は、エルサレムをモデルとしていて、自らギリシャ正教に改宗したヤロスラフ賢公がつくったヤロスラフの町は、キリスト教の町であることを念頭に、このように計画されたのだそうだ。しかし、キエフのキリスト教関連施設や町は、13世紀にモンゴル軍によって、聖堂を残して破壊された。そして1930年代から60年代に、ソ連政府によってキエフのキリスト教関連施設は同じように厳しい弾圧を受けたという。

聖ソフィア大聖堂を出た私たちは、黄金門を訪れた。現存する門は、復元されたものである。その木製の城壁の厚さや高さから、外敵に常にさらされていたキエフの町にとっての防衛の重要性が窺える。門の横には、ヤロスラフの4~5mある像があった。現代までキエフの中心街となっている都市地区創設の父であるヤロスラフ賢公は、現在も市民のフォトスポットとして市民に慕われていた。









地上からホームへ5分以上:核シェルターともなった深い地下鉄

黄金門の視察をもってキエフの都市巡検を終えた私たちは、移動に移動を重ねたことが祟った極度の空腹をみたすため、リプキー地区南のペチェルスク(Pechersk)地区にあるウクライナ・スタイルのレストランで夕食をとった。

店は、牧畜を行う農家のような作りで、外には豚や牛の作り物が置かれている。店内では民族衣装をまとった数人が、アコーディオンのような楽器を奏でながら響かせる歌声とともに、食事を楽しむことができる。これは、ロシアの民族楽器バヤンで、これを演奏する伝統が、ウクライナにも伝わったものかもしれない。メニューは、日本のレストランと価格が大差なく、ウクライナの物価を考慮すると相当に高級なレストランであった。巡検も終わりに近づいた私たちは、黒く酸っぱいパン、パンで作られた容器に入ったボルシチ、豚肉の盛り合わせ、ミートロール等の食事、そしてワインやウォッカを平らげ、ウクライナ巡検を振り返りながら談笑を楽しんだ。









夕食をとり終えた私たちは、徒歩と地下鉄でホテルへの帰路へついた。ラフルスカ通り(Lavrs'ka Vulitsya)を北進し、キエフを東西に走る地下鉄一号線アーセナルナ(Arsenalna)駅を目指す。

途中スヴォロフ通り(Suvorova Vulitsya)との大きい交差点を渡る為に地下に降りると、そこは商店街となっていて、区画毎に賃貸されているような小規模な商店が並んでいた。夜九時頃であったためか殆ど全ての店が閉店していて全容は分からなかったが、飲み物店や玩具、財布や鞄の店など多様な店が入店していた。出入口には警備員が座っている以外は人通りもまばらだったが、ウジゴロドでも見た香港のドラッグストアチェーンのワトソン(Watson’s)の店だけは、煌々と電気がついて夜遅くまで営業を続けていた。おなじ東アジアの資本であるのに、機敏に旧社会主義諸国のビジネスチャンスをつかまえてウクライナに進出し定着している香港企業と、リスクや日本の無関心ばかりを言い訳に、後ろ向きなビジネスしかシない日本企業との格差は、あまりに対照的であると感じる。

地下街を抜けると、すぐ一階建ての目立たない駅舎についた。キエフの地下鉄構内は、冷戦時代には地下核シェルターとして機能していたので、ソ連時代はその軍事機密を守るため、地下鉄駅構内の写真撮影は厳禁だったそうだ。地上で自販機から均一料金2フリブニャのコイン型切符(ジュトン)を購入する。そこから改札を通ってホームにたどり着くまでには、高速で移動する三線のエスカレーターを乗り継いで地下深くまで降りて行く必要があり、所要時間は体感で5分以上かかる。乗車時間以外に往復10分以上かかるということであり、これでは急いでいるとき地下鉄はあまり役に立たない。

市場主義経済になってから、駅構内のエスカレーターの照明や壁面には広告が出されるようになり、アメリカのビールであるバドワイザーが大きく宣伝されていた。ただし、欧州では、チェコの都市バドワイスにある同名のビールと商標が競合しているため、「バドワイザー」が使えず、「Bud」のブランドで販売されている。

やっとホームにたどり着くと、そこには電光掲示板がある。次の発車時間までカウントダウンするその表示によると、鉄道は4分前後の間隔で運行されているらしく、直ぐに電車がやってきた。車体は青と黄色のウクライナ色に塗りなおされてはいるものの、モスクワ地下鉄と同じ、ソ連製の古い電車である。車内は少々暗いものの汚くはなく、また日本の電車と同様に、車内アナウンスや広告、液晶モニターがあり、利用客も多かった。


午前中視察したリボベレージナ駅はもうすっかり暗くなっていた。地下鉄を下車し、ホテルへと歩いて本日の日程を終えた。

(吉田 達郎)