前日夜にドネツクに着いた私たちは、セントラルホテルにてこの日の朝を迎えた。宿泊したこのホテルは、州政府などのあるドネツクの中心業務地区であるボロシロフスキー(Voroshilovskiy)地区にあり、駅から中心街へ伸びるメインストリートのアルテマ(Artema)通りに面するという、一等地に立地する。
その名の通り、ドネツクのまさに「中心」にあるというわけだ。
ホテルは比較的新しい作りで、泊まった部屋は綺麗に清掃されていた。ホテルの案内板などはラテン文字表記されているものも多く、海外からの観光客を意識したホテルとなっている。ちなみにホテルのHPには、中国語ページは無いのになぜか日本語ページが用意されている 。 サッカーの欧州選手権・ユーロ2012の開催に合わせ、日本人観光客が訪れることを想定して、改装されたのだろう。
ドネツクとドンバス工業地域の歴史ウクライナ工業の発展史を語る上で欠かせないのが、 東ウクライナの「ドンバス工業地域」である。高校地理で、旧ソ連最大の工業地帯として習うため、非常に有名だ。 そして、今回私たちが訪れたドネツクは、ドンバス工業地域のまさに中心拠点であり、また現在のウクライナにおいて5番目に人口の多い中心都市でもある。 ドネツク含むドンバス地域は、「資源生産地」として発展を遂げた。19世紀後半に、ドンバス地方で、大規模なドネツ炭田が発見された。以後、ドンバス地方では250以上の炭田ができ、帝政ロシア最大の石炭産地となった。同時期に近隣のクリヴォイログでは、鉄鉱石の採掘が急速に拡大していた 。 ドンバスは、石炭と鉄鉱石という、製鉄に必須な二つの原料産地が近接するという地理的条件に恵まれ、必然的に製鉄業の立地をもたらすこととなる。 1869年に帝政ロシアは、ドンバスを軍艦などの建造に向けた鉄鋼供給拠点とする目的で、英国人ジョン・ヒューズ(John Hughes)を招き、1872年、この地にドンバス初の製鉄所と鉄道工場を作らせた 。ヒューズは、英国の工業地帯の一つとして知られる南ウェールズ出身で、冶金技術に堪能だったため、ロシア皇帝が、彼に白羽の矢を立てたのである。その後、ジョン・ヒューズは、ドネツクに派遣された約100人のイギリス人技術者と共に、製鉄所の設立から運営、冶金技術の提供など、ドネツクの鉄鋼業の発展に力を注いだ。 ちなみにドネツクという街は、元々、彼の功績にちなんでユーゾフカ(Hughesovka ,Yuzovka)と名付けられており、まさに「ドネツクの父」たる存在だったようだ 。 これにより、現在のドネツクは、ヨーロッパ全体でも有数の製鉄業地帯として、またロシア帝国で最重要な戦略的工業地帯として、急速に発展した。 工場で生産の主要な担い手となったのは、ウクライナ人よりも、帝国内部から流入した多数のロシア人労働者たちであった。農村を居住地として好んだ多くのウクライナ人にとって、こうした工業都市は「異質で居心地の悪い」空間 であり、工場労働者を志望する者は少なかったのである。 こうした歴史的背景から、東ウクライナのドンバス地方ではロシア系住民、ロシア支持者が多く、ウクライナ人の民族帰属意識の高い西ウクライナ地域(リボフなど)と対照をなすとされる。 こうして工業都市として発展を続けたドンバス地域の製鉄所、炭鉱などは、1917年のロシア革命以後、社会主義経済のもとで、国営企業となる。地名も、1924年、ユーゾフカから、スターリンに由来した「スターリノ」(Stalino)と変更された。社会主義計画経済のもと、1940年までに、ドネツク/スターリノの石炭産出量はソ連全体の7%、鉄鋼生産の5%を占めるなど、ソ連内でも有数の工業都市として発展を続けた。 労働者流入は加速し、人口は毎年30%成長という急速なペースで拡大し、社会主義住宅建設、バス、鉄道など交通インフラの拡張、大学、劇場など文化施設の新設が進んだ 。 第二次世界大戦中、ドネツク/スターリノはナチドイツの占領下におかれ、街全体が破壊され、大戦前に50万人あった人口は17万人に急減し、大打撃を被った 。 戦後、1950年までに街は徐々に復興した。 1961年には、スターリン批判とともに、街の名称が、スターリノから現在のドネツクに変更された。 1991年の独立以降、ドネツクはウクライナの中心的工業都市として発展を続け、現在156万の人口を抱える大都市となっている。 2012年は、ポーランドと共催でサッカー欧州選手権・ユーロ2012が開催され、多数の外国人観光客が訪れる等、国際化、地域経済の多角化をねらった観光都市化も進んでいる。 参考: |
8時までにバイキング形式の朝食を済ませ、8時半ごろホテル前で、本日のガイドを務めて下さるスビトリアーナ氏と合流した。
彼女は、1999年に設立されたウクライナの非営利組織である、欧州ビジネス協会(European Business Association 、EBA)の職員で、修士号をもち、堪能な英語を生かして専門的な仕事についている。
EBAには、ウクライナ、欧州の企業合わせて約900社が加盟しており、ウクライナと欧州の企業間の交流、人的交流を促進し 、いわば「ウクライナと欧州の橋渡し」の役割を果たしている。
欧州との関係においてウクライナを考察することがテーマの一つである私たちには、EBAの彼女はうってつけといえよう。
ちなみに、スビトリアーナ氏によれば、日本人のEBAへの来訪者は、私たちが初めてとのことである。
私たちはホテルを出発し、専用車で、最初の訪問先であるオクチャブルスキー炭鉱へと向かった。 炭鉱はセントラルホテルのある中心街から北西に15kmほど離れた場所にある。
《欧州系とロシア系がプレゼンスを競い合う中心業務地区》
ホテルからまずはアルテマ大通りを進む。大通りには、プロクレジットバンクやライファイゼンバンクなどのドイツ、オーストリア系銀行、ボッシュ(BOSCH)というドイツ系機械メーカーの技術センターなどが見られ、ドネツクにおけるEUの金融機関やメーカーの高いプレゼンスがうかがえた。
ドネツクにおいて今や、EUとの経済関係は、切っても切れない強力なものとなっていることが、都市景観からもみてとれる。
とはいえ、ロシア系資本のプレゼンスも高かった。
特に、大通りから観察された、ロシア貯蓄銀行(Sberbank)の店舗は、スターリン様式の建物を増築した6階建ての巨大なもので、ドネツクの町並みに際立っていた。
また、アルテマ大通りに面した広場を見ると、レーニン像がしっかり立っている。ソ連時代に作られたレーニン像は全て撤去された西ウクライナのリボフとは、対照的である。やはりウクライナ東部では、西部に比べ、ソ連時代を肯定的に捉える趣が強いのだと分かる。とはいえ、中心街の建造環境は、全体として、予想していた煤けたソ連時代の工業都市のそれではもはやなかった。ウクライナが独立し、市場経済化が進んでから作られた新しいホテル、商業施設、マンションなどが中心地区には多く見られ、資本主義化したドネツクにおける不動産や商業への投資の高まり、経済の好調さがうかがえた。
もちろんユーロ2012の開催前になされたインフラ整備や観光投資の活発化も大きく影響しているだろう。
《市場経済下で大型商業施設や大規模住宅開発が進む郊外》
中心地区を抜けていくと、町並みの様子が少し変わった。
中心街に見られなかった新築のマンション、大型の自動車販売店、大型ショッピングセンターなど、面積需要の大きい郊外立地型の商業施設や大規模住宅開発が多く目に入るようになった。
ショッピングセンターには、キーテナントとして家具店が入っている。
この辺りには、トヨタや日産(インフィニティ)など日本車の販売店、や広告もいくつか見られた。
ドネツクやキエフなどの都市圏の消費者は所得水準が高く、他地域と比べ日本車のニーズも高いのだろう。
《社会主義を色濃く残す、外縁部の工業・炭砿地帯》
郊外をさらに北上すると、化学工場の周辺に社会主義住宅が目立つようになる。
市場経済化後にできた商業や住宅は、この辺りになるともはや見当たらない。
これらの社会主義住宅はソ連時代、化学工場や炭鉱で働く労働者のため、通勤の便を考慮して工場や炭砿の近傍にに作られたものである。
建築様式を観察すると、いわゆる「フルシチョフ様式」の建物が多かった。
炭鉱へ続く通りは、対独戦などで華々しい軍歴をもつソ連軍人の名前をとったジューコフ元帥大通り(Prospekt Marshala Zhukova)と今でも呼ばれている。 私たちの専用車でこの通りにはいると、古い社会主義住宅が並んでいた。 この通りの名前もそうだが、地図を見ると、周辺にも「赤軍通り」「ソ連60周年通り」など、ソ連時代、社会主義時代を表象する通りの名称が数多く見られる。 この辺りは、ソ連時代に形成された、労働者地区なのだと分かる。ウクライナが独立して資本主義化しても、通りの名の改称がなされないところに、東ウクライナの特徴がみてとれる。
途中に鉄道レールが見られた。これは、この先の炭鉱につながっている。
炭鉱と製鉄所を結ぶ石炭運搬用の貨物列車を運行するため欠かせないインフラとして鉄道が建設されたのである。
炭鉱へと続く通りを進む。炭鉱方面から来る大型トラックとはすれ違ったが、人通りは少なかった。
《三重の同心円をなす、都市空間の編成》
これまでのホテルから炭鉱に至るまでの道のりを観察したところから、ドネツクの都市構造を全体としてまとめると、同心円的な空間編成を指摘できる。
すなわち、
@「ホテル等観光施設、EUやロシアの金融機関やメーカーの事務所、富裕層向け商業施設の目立つ中心街」
→
A「資本主義経済の導入により形成された大型ショッピングセンター、富裕層向けの大規模住宅などが集まる都市郊外地区」
→
B「ソ連時代に形成された工業施設、労働者住宅地が立地する外縁部」
という3段階の都市空間に大きく区分されていることがわかる。
9時15分、私たちは、オクチャブルスキー炭鉱(Shakhta Oktyabr’sky Rudnik)に到着した。
事務所の建物前で、主任技師のデニソフ氏に出迎えて頂く。炭鉱の管理事務所はソ連時代の面影を残す建物であるが、玄関の上部には、ウクライナの国章、国旗、そして赤いレーニン勲章のモチーフが大きく描かれた、青い看板が掲げられていた。
内部にはいると、最近すこし改装されたようで、比較的綺麗であった。
私達は、会議室へと通され、炭鉱の歴史、石炭の採掘の仕組み、企業の福利厚生、炭鉱が直面する課題などについて、デニソフ氏からの説明を受け、その後質疑応答のインタビューを行った。
以下、デニソフ主任技師がしてくださったお話をまとめて記述する。
《高品質な、オクチャブルスキー炭鉱の資源》
オクチャブルスキー炭鉱は、ソ連時代の1975年に操業が開始された。 現在の石炭の産出量は毎年およそ80万トン、炭鉱の総面積は約48kuである 。鉱山の労働者は総数1,300人ほどいる。 この炭鉱は、ウクライナ独立後の現在も、国営企業として経営されている。
オクチャブルスキー炭鉱の「売り」は、産出される石炭の純度の高さである。 石炭は、一般的に硫黄分など不純物が少なく、炭化の度合いが高いほど、高品質とされる。 私たちが視察後、石炭のサンプルを大量に頂いた。触ってみると、非常に硬かった。 純度の低い石炭ほど、もろく崩れやすいので、この石炭の硬さは、品質の良さを示している。
デニソフ氏は、オクチャブルスキー炭鉱の構造について、鉱山の図面 を見せながら私たちに説明してくれた。
石炭は、地下深くの炭層から採掘される。そのため、炭層に向かう労働者は最下層の地下約1000mまで、リフトで20分かけて向かう。 地下深くの作業であり、石炭は燃え、可燃性ガスが噴出するリスクもあるため、炭坑労働者は常に危険と隣り合わせである。 炭坑労働者の安全管理のため、外気と地下の空気の交換を行うことは最も重要なことであり、オクチャブルスキー炭鉱では、最新の換気設備を導入している、と主任技師は語ってくれた。
炭層に賦存し、採掘できる資源量には限界がある。 年月が経って枯渇すると、さらに他の深い炭層へと新たに場所を移し採掘をしていく。現在は、6層まで到達している。 そして、オクチャブルスキー炭鉱では、さらに新たな炭層の開発を計画しているという。
《ソ連時代を受け継ぐ、労働者重視の制度的特色》
主任技師は、オクチャブルスキー炭鉱が、労働者の福利厚生を重視したさまざまの制度をもっていることを、誇らしげに語ってくれた。 主な制度的取り組みとしては、二点ある。
一点目は、労働者用の保養所(サナトリウム)である。黒海に隣接した湖にある保養地にこの炭鉱のサナトリウムがあり、炭鉱の労働者は皆無料で、そして労働者の家族も格安料金で、施設に一定期間(約20日)自由に滞在できるという。
交通費こそ支給されないものの、ドネツク中心部から車を走らせておよそ200kmと比較的近距離で、気軽に行きやすい。
会議室には、風光明媚な恵まれた環境に立地しているこのサナトリウムの絵が誇らしげに飾られてあった。
二点目は、勤続支援、家庭支援制度である。オクチャブルスキーの炭坑の労働者は、50歳と、比較的若くして定年退職を迎える。 退職金・年金は、勤続10年以上で支給されるようになり、勤続15年以上だと支給額がさらに80%増額されるという。 また、労働者に子供がいる場合、大学まで教育費は無料で、炭鉱が全額負担するようになっている。
ソ連時代、社会主義経済のエネルギーの根幹を苛酷で危険な労働で担った炭鉱労働者は厚遇され、またこのため、炭砿労働者は、他の労働者より優っているというエリート意識が共有されていた。 この特徴は、ソ連崩壊・市場経済導入後もウクライナの国営企業の制度の中に強く残っており、恵まれた労働条件の維持に貢献していると分かる。
《炭鉱の抱えるジレンマ》
だが、市場経済導入後、オクチャブルスキー炭鉱は、ソ連時代と異なった新たなジレンマを抱えることとなった。 主任技師は、このことについて語り始めた。
前述のように、現在、オクチャブルスキー炭鉱では、新たな炭層の開発を計画中である。 しかし、炭層の開発に必要な設備投資資金が不足しており、計画が行き詰まっているという。 その要因として主任技師は、政府から支出される交付金の不足と、民間企業などからの投資不足を挙げた。
政府の交付金不足を聞いた私たちは、市場経済になれば、高品位の炭層があるというだけで、そのリターンは不明確なまま、オクチャブルスキー炭鉱だけを特別視して政府が重点的に補助金を出すことはしないのだ、と感じた。 政府の財源は限られている。より収益性の見込める国営企業や、国家戦略としてより重要と政府が考える事業に予算を優先的に配分したいのかもしれない。
主任技師は続いて、民間企業からの投資も不足である、と嘆いた。 その背景としては、オクチャブルスキー炭鉱の民営化に対する「期待」が絡んでいるという。 民間企業は、民営化前に、政府負担で炭層開発に必要な設備投資がなされるのを待っている、という。 民間企業としては、そのような設備投資が政府によりなされたあとで政府から炭砿を買い受ければ、少ない投下費用で、多くのリターンを得ることができる。 いま、国営企業に投資したところで、そのリターンは不確実であり、たかが知れている。このため現状では、民間企業からの投資を呼び込むのはなかなか難しそうだ。
では、オクチャブルスキー炭鉱は民営化されるのだろうか。 主任技師によれば、炭鉱側としては、民営化は、現在の恵まれた労働環境や雇用制度の維持を困難にさせると考えられるため、民営化せず、このまま国営企業として存続したいのだという。
私たちも、政府が炭鉱の完全民営化に踏み込むには問題が多いと感じた。 民営化すれば、例えば、ロシア系資本に買収されるリスクも考えられる。 ロシアが、その輸出している天然ガスなどのエネルギー価格を通じて、ウクライナの政治経済をコントロールしようとしていることは、よく知られている。 もしロシア系資本に買収されれば、この炭鉱はロシア政府のエネルギー政策に組み込まれ、ウクライナ国内向けの石炭販売価格を吊り上げられるおそれがあるだろう。 この炭鉱は、ロシアに対抗するため、ウクライナにとって重要な戦略的資源を掘り出しているのである。 もう少し補助金を交付しても、決して政府の損にはならないはずだ。
とはいえ、現実には、政府から交付される補助金は乏しい。民営化をしなければ設備投資は進まず、炭鉱の生産はジリ貧となって窮地に追い込まれてしまう。 オクチャブルスキー炭鉱は、その経営形態に関して、このように大きな「ジレンマ」を抱えているのである。
《現場で生の情報を得ることの大切さ》
巡検前に私たちは、ゼミで、イギリス人経済学者・Adam Swain著の英語文献Re-constructing the Post-Soviet Industrial Regionを輪読した。 文献は、ドネツクの石炭産業に関して、「90年代後半以降、政府からの補助金の打ち切りに伴い、補助金による保護を受けてきた不採算炭坑が次々に閉鎖された 」と指摘していた。 そのため、現在、ドネツクの多くの炭鉱が非常に厳しい経営状況下にあることを、私たちは巡検前に予想していた。 しかし、主任技師デニソフ氏の話を総合すれば、高品位の炭層をもつ炭坑の場合、国営として経営を続けていけるだけの経済環境は存在するようである。
私たちは予想に反した状況に驚くとともに、文献から得られた情報も重要だが、それ以上に、現場に行き「生の情報」を得ることの大切さを実感した。
《豪華なロシア風軽食のもてなしを受ける》
炭鉱に関する熱い議論を終えると、デニソフ主任技師に奥のテーブルを案内された。
そこにはなんと、私たちのために豪華な軽食のテーブルが用意されていた。
私たちは、こうした食事やコーヒーを美味しくご馳走になった。パイ生地の菓子や、「ブリンチキ(ブリヌイ)」というクレープに似たロシア料理、他にもケーキやパンなど多く用意して頂いた。
オクチャブルスキー炭鉱の方々の、親切で温かい心遣いに、この場を借りて感謝申し上げたい。
食事テーブルの奥には、ロシア正教のイコンが数多く飾ってあった。東ウクライナでは、ロシア正教の影響力が強いことがうかがえる。
その後、管理棟の内部を少しだけ見回す時間があった。
正面玄関の看板にあったレーニン勲章をモチーフにしたマークが、随所に見られた。
そのことについて、主任技師に尋ねると、彼は、いまだにレーニンは人々の「英雄」なのだ、と教えてくれた。
ロシア革命によって、資本家や権力者の所有物だった炭鉱や工場などを「労働者のもの」としたレーニンの功績はやはり大きいのだろう。
オフィスを出ると、デニソフ氏は、炭坑に潜るリフトがある採掘所の建物の場所を教えてくれた。
危険なため、私たちは中に入ることが許されなかったが、錆びて赤茶色に変色した建物の外観から、ソ連時代以来脈々と続く、オクチャブルスキー炭鉱の長い歴史を想像することができた。
オクチャブルスキー炭鉱を後にした私たちは、続いて次なる訪問先、ドネツク製鋼社 の製鉄所へ向かった。 ドネツク製鋼社の本社ビルと製鉄所は、宿泊したホテルのある中心業務地区であるボロシロフスキー地区のすぐ南隣、レニンスキー地区にある。 炭鉱からドネツク製鋼社へ向かう道のりは、途中までは、行きの道を戻るかたちとなる。
私たちは、ユーゴスラフスカヤ(Yuhoslavskaya Ul.)通りから、クイビシェフ(Ul. Kuibysheva)通りを進み、ドネツク製鋼社の本社ビルに到着した。
ドネツクの都市中心にすぐ隣接したこの場所に製鉄所が立地しているのは何故なのだろうか。 オクチャブルスキー炭鉱に向かう途中観察した、ドネツクの同心円的な都市構造からすれば、中心業務地区の近くという製鉄所の立地は、奇異に映る。 だが、ドネツクの都市発達史を少し考えれば、この疑問は氷解する。
ドネツクでは、炭鉱が先に立地し、鉄鉱石など原料調達の優位性から、この場所に、製鉄所ができた。 そして、工業の発展と共に、多くの労働者が流入し、都市が成長して、現在の中心業務地区が形成されてきたのである。 つまり、ドネツクでは、まず炭鉱や製鉄所ありきで、そのいわば門前に都市が発展したのである。
本社ビルにはいると、2012年は丁度ドネツクでの鉄鋼業設立140周年記念 に当たるため、館内には、これを記念するポスターが掲げられているのが目に留まった。
ビルの二階は広い展示室になっていて、ドネツクの都市発展、鉄鋼業の発達、そして会社にまつわる詳しいパネル展示がなされていた。私たちは、ドネツク製鋼社の係の方に案内され、パネル展示を見ながら、本社ビルの二階にて、ドネツク市やドネツク製鋼社の歴史などを伺った。
《ドネツク製鋼社の概要》
ドネツクの鉄鋼業の歴史については、既に冒頭のコラムで述べているので、そちらを参照 いただきたい。
現在、ドネツク製鋼グループは、石炭採掘事業、コークス事業、製鉄事業、ロジスティクス事業の四部門から成り、グループ全体の従業員数は、約26,000人と、東ウクライナでトップ5の規模を誇る企業である 。 このうち、私たちが訪問したドネツク製鋼社(正式名称;PJSC Donetsk steel Iron and Steel Works )は製鉄事業を担っている 。 製鉄事業における生産量は、銑鉄145万トン/年、鋼150万トン/年、圧延鋼板37万トン/年である。 生産規模は、ウクライナの鉄鋼会社としてそれ程大きくはないが、製品の品質が非常に高く評価され、ロシア、ベラルーシ、アゼルバイジャンなど旧ソ連諸国、中東欧諸国を中心に54カ国もの地域へ輸出を行っているそうだ 。
《製鉄所140年の歴史を語る、本社ビル展示フロア》
次に、この製鉄所の 歩みについて、案内の方からパネルなどを使って説明していただいた。主な点を、以下にまとめる。
まず、この製鉄所の鉄鋼生産量の推移を、1913年を100としてグラフで示したパネルがあった 。
生産指数は1872年の、ジョン・ヒューズによる設立から1875年までがおよそ2〜3、1897年が9.7、1900年に大幅に拡大し107.6、1913年が100、1914年に大幅に減少し27、1917年に回復し75となっていた。
1897年から1900年までの生産量の拡大幅が圧倒的なものだったことがよく分かる。
丁度、日露戦争の直前の時期であり、当時のロシア帝国が、軍需用の鉄鋼生産を国策として推進していたことが大きく関係しているだろう。
この製鉄所は、1917年のロシア革命後、ソ連政府に接収され、働いていたイギリス人など外国人技術者・労働者は、国外へ追放された。 国営企業となった後、ソ連において戦略的に重要な鉄鋼生産拠点として大きな役割を担うこととなり、生産は続けられたものの、生産効率は悪化したという。 生産計画は政府によって厳格に管理され、大戦期には戦車や戦闘機など軍需用の鉄鋼生産が大半となった。
ソ連解体後、移行経済の過程で、この製鉄所の鉄鋼の生産量は一時再び大幅に低下した。
その頃の生産効率はなんと30%以上も下ったという。資本主義化した経済のもとで、さしあたり政府が株式を保有する私企業であるドネツク製鋼社の所有となったこの製鉄所は、経営改革を進めた。
経営改革は1992年から始まり、1996年、新たな投資資金を獲得する必要に迫られたドネツク製鋼社は、株式を英国系の民間企業や投資家に一部売却し、部分的な民営化を行い、その資金で製鉄所の設備更新を図った。
こうして再構築を図った結果、ドネツク製鋼社は、現在まで、鉄鋼生産を回復させてきた。
館内の目立つ場所に、創設者であるヒューズの銅像が展示されていた。案内の方によれば、ヒューズは、現在もドネツク鉄鋼社の社員から、創業者として尊敬されているのだそうだ。
他にも、レーニンやマルクスのパネル写真が見られ、先ほど視察した炭鉱と同様、ソ連時代の英雄もまた、現在も「製鉄所の英雄」とみなされているのだと感じた。

ヒューズの銅像 レーニンの胸像
《至近距離で溶けた銑鉄と対面! -- 製鉄所の視察》
本社ビルでの説明が終わり、私たちはいよいよ製鉄所見学に向かった。見学前に、社員の方から渡されたヘルメットと作業着を装着し、見学に向け万全の準備を行う。
製鉄所の敷地は広く、本社ビルから製鉄所まで、専用車で10分ほどかかった。製鉄所の周りには、トーピードカーと呼ばれる銑鉄輸送用の貨物列車や原料の鉄鉱石や石炭の輸送車などが見られ、その広軌のレールが工場内に敷かれていた。
製鉄所の生産過程
製鉄所は、順番に銑鉄エリア、製鋼エリア、圧延エリアに分かれている。 次に、製鋼エリアでは、製鋼工場で銑鉄から炭素分や不純物を取り除き、鉄鋼を作る。炭素や不純物が多いと硬くもろい鉄になってしまうため、強くしなやかな鉄にするにはこの作業が不可欠なのだ。 最後に、圧延エリアでは、鉄鋼を用途に合わせて加工し、熱延鋼板や厚板などにする。こうしてできたものが、製品として出荷される。 (参考:新日鐵住金HP WEB工場見学 ) |
私達は、今回ドネツク鉄鋼の銑鉄エリア、その中でも製鉄所の核心部分というべき、銑鉄を作り出す高炉を至近距離で見学することができた。
まずは地上から頑丈そうな階段を上り、高炉の制御室へ案内された。こちらの部屋では、高炉内の温度や、焼鉄鉱とコークスの反応の様子を、高炉に設置されたセンサーで監視していた。部屋にある大きなモニター画面には、刻々と変わる様々な数値が、細かく表示されていた。部屋は小さく、普段なら職員は2,3人で十分といった様子である。
その後、いよいよ高炉の視察である。高炉を外から見ると、高炉に向かって大きな細長い施設が伸びている。これは、焼鉄鉱とコークスを投入するコンベアであり、これを使って高炉の上から原料を流し込むのである。高炉は巨大で、40〜50mの高さはありそうだった。
高炉の区画に入ると、高炉の熱気を直接肌で感じた。高炉内は1,200℃もの熱さなのだから当然だ。ちなみに日本では、効率向上のため、より高温の2,000℃ で運用されているようである。 高炉の穴からは、中でマグマのように焼鉄鉱とコークスがどろどろに溶けている様子を、直接見ることができた。日本でも製鉄所の見学はさせてもらえるが、一般的なコースでは、見学者の安心安全を十二分に考慮し、階段を登ってバルコニk―から20〜30mは離れた場所で見学させるのが普通である。しかも、高炉の部分は危険なので入れてもらえず、圧延エリアの視察あたりでお茶を濁される場合が多い。しかし、今回のドネツク製鋼の高炉では、4,5mくらいの至近距離で見学をさせてもらえた。
高炉からは時折、高温の噴出物が出て、私たちのすぐそばに落ちた。私たちのような一般見学者にとっては少々危険な高炉見学ではあったが、ある意味で、一生に一度しかできない貴重な経験に恵まれた。
製鉄所全体をみわたすと、やはり設備は古いものが多いように感じた。設備の煙突側面に「1973年」と書かれたものが確認された。ソ連時代に導入された設備が、いぜん多くの生産過程で未だに利用されているのであろう。ソ連時代の設備には、さほど遅くない時期に耐用年限がやって来る。
安全性、生産効率を高めるために、今後設備更新のニーズが一層増すであろう。ドネツク製鋼社では、この設備更新の資金を、政府が保有する株式の一部売却で賄っているので、設備更新が滞ることはさしあたりないのかもしれない。日本企業にとっても、こうしたウクライナの工場設備更新のタイミングを見極め、設備を売り込むチャンスとしてほしい、と思った。
《製鉄所周辺の様子》
製鉄所の見学を終え、私たちは、専用車で再び本社ビルに向かった。途中、製鉄所から2〜3分の場所で、私たちはいったん下車した。その周辺は、工場労働者やその子女のための公園となっている。一帯には緑地が広がり、公園内には川が流れ、大きな噴水や子供鉄道も見られた。 子供鉄道とは、子供が鉄道に乗り、車掌役をしながら実際に運転を体験するができる、という社会教育、就労教育が目的の鉄道である。また、公園の周りにはオーケストラなど音楽を行う小さなホールがあった。
このように、ドネツク製鋼社によって、労働者やその家族が休日に遊び、楽しむことができるような充実した社会的施設が、製鉄所の工場内に整備されている。
ソ連崩壊後に修復されたためか、公園や施設は見たところ新しく、とてもクリーンな印象を受けた。製鉄所の立地する工業地区というと、汚く、環境はおろそかにされたイメージであったため意外であった。ドネツク製鋼社の公園には、民営化された現在も、社会主義の「労働者重視」というコンセプトが上手く活かされている。
公園の側には、社会主義時代にはなかった社会的施設も建っていた。真新しい正教の教会である。社会主義に変わる国民統合の理念として、正教を振興するという現在のロシアの動きは、この製鉄所にも及んでいるのだ。
本社ビルに戻り、私たちはヘルメットや作業服を返却した。ドネツク製鋼社の方から、おみやげに、社名入りのクリップボードを頂き、私たちは感謝の気持を言って別れた。
次の私たちの訪問先は、ドネツク州政府である。
《美しく整備された庁舎近くの公園》
13時半頃、私たちの専用車は、平和大通り(Prosp. Mira)にあるドネツク州庁舎に着いた。面会の約束は14時からだったため、それまで30分ほど、州庁舎周辺の公園を観察した。公園は広く、緑豊かで整備が行き届いており、そこには工業都市の“汚れた”イメージは全く無かった。環境に配慮した街づくりを推進するドネツク州政府の意図が感じ取れる。
庁舎前で待っていると、私達のもとにEBAドネツク支部で代表を務めるオレクシー氏(Oleksiy)が挨拶に来て下さった。州政府でのインタビューには、オレクシー氏も同行していただいた
14時になり、私たちはさっそく州庁舎の入口に向かう。ドネツク州庁舎は、11階建てで非常に大きく、威圧感すら感じさせる、箱型のソ連時代の建築物であった。
建物中央部に確認できたトライデントの紋章は、ウクライナ独立後に付け加えられたものと思われる。建物に近づくと、その玄関には、レーニン勲章が掲げられたモニュメントがあった。
レーニン勲章とは、ソ連政府が国家に貢献した人物、組織などに対し、授与する名誉ある勲章である。ソ連時代の勲章を現在も誇らし気に飾る点からは、やはり、ドネツクに現在もなお残るソ連時代の影響力の強さを感じる。
私たちは、州政府の会議室に案内され、そこでドネツク州政府・石炭産業部の代表であるイゴール・ニーゾフ氏(Igor Nizov)に出迎えられた。ここでは、午前中に行ったオクチャブルスキー炭砿視察をより広い州スケールの経済関係において深めるため、ドネツク州の石炭産業の現状や、ドネツク州政府の果たす役割について議論・ヒアリングを行った。内容を以下にまとめたい。
《ウクライナ政府のエネルギー政策で息を吹き返すドネツク州の石炭産業》
前述の通り、ドネツクは帝政ロシア時代ならびにソ連時代を通じ、製鉄業を中心とする戦略的な工業地帯であった。現在でも、ウクライナの国内総生産量のうち、ドネツクの製鉄生産が占める割合は約50%、石炭生産は約46%、機械組み立ては23%、発電は17%を占め、国内の中心的な工業都市となっている。 また、ドネツクの全産業の生産高のうち、製鉄業は約50%、機械組み立ては約10%、エネルギー・発電が約10%、石炭産業は約10%をそれぞれ占めていると言うことだ。
ドネツクにおける石炭生産は、ソ連時代の1976年に過去最大の2.18億トンを記録して以来、1991年まで停滞した。ソ連崩壊後の、1991年以降は更に生産量が急減したという。 しかし、近年は回復傾向にある。2010年に長年続いた石炭生産量の減少が止まり、2011年は前年比6%、2012年は前年比11%の回復となっているという。
ニーゾフ氏は、その背景に、ウクライナ政府のエネルギー自給の向上戦略があると指摘した。天然ガス輸入の大半をロシアに依存してきたウクライナだが、近年、ロシアとの「天然ガス紛争」があり、より安定した自給資源として石炭が見直され始めたのである。 ウクライナの石炭可採埋蔵量は339億トン、可採年数は460年とされている 。こうして近年、石炭需要が高まり、ドネツクの石炭生産量も増加しているというわけだ。ニーゾフ氏は「ドネツクの石炭産業は存続している」と力強く語った。
《ドネツク州政府の果たす役割》
このように近年、国内での石炭需要の高まりから石炭産業が活気を取り戻しつつあるドネツクだが、オクチャブルスキー炭鉱で伺ったように、政府による石炭産業への補助金は十分でない。私たちは、このことについてニーゾフ氏に意見を伺った。
ニーゾフ氏によると、「州政府は、昨年、石炭産業への補助金は全く出していない」という。理由としては、州政府の財源不足という面もあるが、石炭産業への直接的な保護はすべきでない、というネオリベラリズム的な経済政策を州政府はとっていることにあるようだ。
つまり、州政府は、外資を含め民間企業による投資を促進する環境整備こそが第一に行うべき仕事と考えているのだ。具体的には、投資家の法的保護、国内外の投資家を招待する炭鉱の投資サミット、インフラ整備、などを挙げていた。
また、そもそも、企業は政府からの関与を受けたがらないという。なぜなら、製品を輸出する際に、ダンピングと認定されかねないからだという。このように、ドネツク州政府は、より間接的な関与、自由放任型の経済システムを目指していると言える。
私たちは、ドネツクやクリミアなどで、依然として「旧ソ連」、「社会主義国」のイメージの強さを知ったが、ニーゾフ氏によれば、現在は、ドネツクにおける経済活動、産業への州政府の関与は実際には少ないのだという。
例えば、ドネツクの生産高の約60%を生み出す製鉄業・機械組立産業はほぼ民営化が進み、国営企業はあまり見られなくなったという。国営企業の比較的多い石炭産業でも民営化された企業は40%以上になっているし、そもそも石炭産業の生産高は全産業中約10%程度なので、ドネツク州全体を考えれば、政府の関与する企業は少ないと言う。ニーゾフ氏は「ウクライナは資本主義国である」と強く主張した。
《議論を終えて、私たちの見解》
オクチャブルスキー炭鉱、そして、今回のドネツク州政府で共通して得られた私たちの感触は、「ドネツクの石炭産業が活気を取り戻してきた」ということだ。その背景には、エネルギー自給の向上を目指す国家戦略、石炭需要の増大があることは間違いない。 ただし、州政府は、石炭産業に対し補助金による直接的保護はしていない。投資環境の整備という間接的保護だけで、民間企業から石炭産業への投資が十分に進めば、問題はない。 しかし、オクチャブルスキー炭鉱でのインタビューのように、民間投資家は国営炭鉱への投資を手控えており、炭砿では投資資金不足によって開発が思うように進んでいないのが現状である。
オクチャブルスキー炭鉱の主任技師の、積極的な財政的関与を求める声は、州政府には届かないのだろうか。私たちは、国家の役割と民間投資家(企業)の役割とが、ウクライナでは依然として統一的に調整されておらず、効果的な政治・経済戦略を打ち出せていないもどかしさを感じた。オクチャブルスキー炭砿のように、まだまだ社会主義的な経営姿勢を維持しようとする国営企業が少なくない現状において、政府の「自由放任」政策一辺倒では必ずしも上手くはいかない。これでは、政府が民営化などの姿勢を示せば示すほど、かえって矛盾は拡大するばかりだろう。ドネツクの石炭産業の抱える課題は、「政府と企業の関係のあり方」を問う問題でもあるのかも知れない。
なお、ニーゾフ氏は石炭産業の話をされる中、私たちに、「現在の日本の石炭産業はどうか」、「日本は東日本大震災以降、原発から他のエネルギー資源への切り替えが進んでいると聞いたが、石炭へのシフトは進んでいるのか」「石炭の液化技術は、日本ではすすんでいるか」など、しきりと日本の状況について私たちに質問をしてこられた。ドネツク州政府として、石炭輸出先として日本への販路拡大に期待しているのかも知れない。あるいは、日本の石炭技術に期待して、それを取り入れようとしているとも考えられる。
確かに、現在、日本では石炭火力発電への比率を高めようとする動きも高まっており 、今後、日本の石炭輸入は増加するかも知れない。海上輸送するに当たって距離の遠さが課題になるとはいえ、ウクライナを石炭の調達先として日本が注目することを今後、期待したい。
ドネツク州政府を後にした私達は、専用車でイリチャ通りを東に進んだ。そして、中心業務地区を細長くとりまく湖沼を渡ってすぐそばの「Ё・MOЁ(ヨーモヨー)レストラン」で夕食を頂くことにした。
都市公園の森の中にあるこのレストランは、ログハウスに似た木造のレストランで、店内には斧、動物の首などが展示され、狩猟をテーマにして野趣があふれて、一種の「隠れ家」ともいえる雰囲気だった。ちなみに、ヨーモヨーとは、ロシア語で、「まあまあ」のような、ゆるい意味の俗語なのだそうだ。
私達は、ボルシチをはじめ魚料理、肉料理などロシアの家庭料理、ウクライナのビールなど、めいめいが思い思いのメニューを味わった。ちなみに、筆者は、「Pride of Donbas(ドンバスの誇り)」という奇妙な名の料理を注文したが、出てきた料理は、ジューシーな牛肉の詰まったコロッケに似たもので、大変、珍しい味であった。外の眺めや雰囲気も良く、ガイド氏によれば、EBAで外国人の接待によく利用する高級なレストランとのことだった。EBAがレストランの常連客として長期契約しているそうで、私たちは、今回それにより特別に20%の割引にあずかることができた。EBAの方々に感謝申し上げたい。
ガイド氏は、大学院で国際経済学を専攻し、修士号を保有している。ウクライナのEU加盟についての経済理論分析をテーマとした修士論文について、話して頂いた。ガイド氏は、EU加盟によってウクライナの一部の農業、エネルギー産業が打撃を被ること、ロシアの反発などが予想されるものの、EUからの直接投資、企業進出の拡大などのメリットの大きさを考えれば、ウクライナはEUに加盟すべきだ、と論文で述べたらしい。
ドネツクは、親ロシア派の人々ばかりかと考えていたので、これには少々、私も驚いた。
ガイド氏は、若者を中心に、実はEU加盟支持派は少なくないのだと話してくれた。東部ウクライナでもEU加盟支持派が増えてくれば、ウクライナの国政も、いずれそのような流れになって行かざるをえないであろう。既に資本主義化しているウクライナでは、グローバル化の進行に合わせ、柔軟な考えを持った人々が増えているのかもしれない。
加えてガイド氏は、ウクライナの若者の間で、寿司などの日本食、日本のアニメや漫画がブームになっていることも教えてくれた。政治・経済、また、こうした文化面も含めてウクライナは私たちが想像している以上に、グローバルな社会に変容しつつあるのだろう。
楽しい夕食の時間を終えた私達は、専用車でドネツク駅へと向かった。途中、中心業務地区を通過して北上し、通りがかったチェルスキィンツェフ通り(Ul.Chelyuskintsev)からは、ユーロ2012のスタジアム会場となったドンバスアリーナが見えた。
完成は2009年と新しく、ドーム型の非常に大きなスタジアムであった。欧州の一員としてのウクライナが、ここにも象徴されている。近年のドネツクの経済環境は、こうした欧州向けの観光産業を中心に多角化が進み、活況さがうかがえる。
私たちは、ドネツク駅に着いた。駅は、やはりウクライナ中心都市の玄関口というだけあって、非常に大きな造りであった。ユーロ2012開催に合わせて改修されたのか、ガラス張りで内装も綺麗であり、新しい瀟洒な建物となっていた。
ホームに停まっていたドネツクからキエフに向かう列車の車両は、濃い青色に黄色のラインが入った国旗カラーで、“Донбас(ドンバス) ”と文字が大きく書かれている。夕暮れの19時過ぎ、私たちの寝台列車はドネツクを発車し、この日のドネツク巡検を終えた。