2012年9月12日 ザポリージャ

コサックのアイデンティティを上書きし、ソ連型工業化が形成した社会主義都市 シンフェロポリで寝台車に乗った私たちは、プロヴォドニッツア(provodnitsa)と呼ばれる寝台車の管理人の太ったおばさんに4時に起こされた。ロシア国鉄の車両なので、おばさんもロシア人である。ソ連時代も今も変わらず、管理人は、車両ごとの専属で旅客の面倒を見ることになっていて、降車駅が近づいてくると、真夜中でも、部屋ごとに乗客を起こしに来てくれる。シーツや枕カバーを返却し、身支度を整える。4時29分、時間通りに列車はまだ真っ暗なザポリージャ駅に着いた。

私たちの乗った列車は17両と長く、そのため駅のホームも非常に長い。荷物を運びながら駅舎へと向かうが、線路を歩いて渡るしかない。早朝でも、石炭を乗せた貨物列車が絶えず通るので、気をつけなければ大変危険である。駅舎は早朝ということもあり、人はまばらであった。








駅前で、私たちを迎えに来てくれた専用車のドライバーと合流し、ホテル(Intourist Hotel)に向かった。ホテルの外観は近代的な作りで、エントランスやロビーも非常にきれいである。だが、ホテルの部屋にはいると、古くくたびれていた。社会主義時代のホテルを、ロビーの部分だけ新しくつくりなおしたのであろう。朝5時にホテルにチェックインし、一旦解散となった。再集合は9時となり、それまでゼミメンバーは睡眠を取ったり、シャワーを浴びたり、朝食をとったりした。このホテルは、外見は非常にきれいで近代的つくりになっていたが、ホテルの部屋自体は古かった。社会主義時代の建物を外装だけ新しくつくりなおしたのかもしれない。

今回私たちがザポリージャを視察する大きなポイントは、この都市が、ソ連が力を入れた電化・工業化計画によって都市発展した、典型的なソ連型工業都市だということである。ザポリージャは、もともとはザポリージャ・コサックの発祥の地で、見るべき工業はなかった。だが、そのコサックの歴史を上書きするように、ドニエプル川に水力発電所をつくる計画をソ連がすすめ、その電力をもとに急速に工業化がなされて、ザポロージャは典型的なソ連型社会主義都市を形成することとなった。ウクライナのアイデンティティであるコサック発祥の地という歴史を持ちながら、ソ連型工業都市となったこのザポリージャで、本日私たちはコサックの歴史博物館、水力発電所、工業地帯、都市構造などの視察を予定している。



ウクライナ・コサック発祥の地、ホルティツァ島

朝9時、ガイド氏とホテルのロビーで落ち合った。 まず午前中私たちは、ザポリージャの原景観ともいうべき、ウクライナコサック発祥の歴史的土地であるホルティツァ島を視察する。 ホルティツァはドニエプル川の中にある島で、そこにはザポリージャ・コサック博物館とコサックの要塞がある。








レーニン通りを北上し、ホルティツァ島へと橋で渡る。この橋はソ連時代につくられ、上を列車が通り、下を車両が通る二階建て構造になっている。この橋は狭いため、この橋よりも南側に新しい橋を建設しており、私たちの車からも建設中の橋が見ることができた。 レーニン通りには建物や商店が立ち並んでいたが、ホルテツィア島に入ると、緑が広がっており、あまり開発がされていない。ウクライナのルーツであるコサック発祥の地ということで、開発が控えられているのかもしれない。



ソ連時代の歴史博物館を換骨奪胎してできたザポリージャ・コサック歴史博物館

私達はまず、ザポリージャ・コサック歴史博物館を訪れた。 この歴史博物館は、もともと1983年に開かれたソ連時代の自然誌・歴史博物館であった。ソ連時代、このような博物館は各都市につくられていた。これは、ソ連が人民労働者の知性向上を重視していたためでもあるが、そこでは、ソ連国家の統一性や社会主義の偉大さなどのイデオロギー教育がおこなわれていた。それゆえ、この博物館も、ソ連時代には展示の中心はコサックではなかった。

とはいえ、後述するように、コサックの展示やコサックの歴史と解釈し直すことの出来る展示も少なからず存在した。この博物館の建設の1983年という時期は、ソ連経済が硬直してゆき、弱体化に向かいつつある中で、ソ連が人民の不満を和らげるため、少しは少数民族に寛容な態度を示してきている時期であったのだろう。

ウクライナが独立を果たすと、展示は現在のザポリージャ・コサックに関するものへと大幅に改装された。旧石器時代の出土品から近年の展示物まで、約32,000の展示品がある。  博物館は土器や農機具など、紀元前の展示から始まっている。このあたりは、ソ連時代の展示とさほど変わらないものであろう。

ガイド氏はそれらの展示を見ながら、ホルテツィアやザポリージャのコサックの歴史について解説してくださった。他の文献ともあわせ、それを以下の囲み記事にまとめる。

コサックの発祥、諸民族のフロンティア抗争の中での発展、そしてウクライナ国家の形成

ホルテツィアには、35,000年以上前の石器時代から人々が暮らしていた。紀元前8世紀には、キンメリア人やスキタイ人、サルマタイ人などが一帯を支配し、牛や羊、馬などを遊牧して暮らした。紀元前3世紀ころから4世紀ごろまではペルシャやギリシャ、ローマといった周辺の強国の影響を強く受けた文化が栄え、ギリシャとの交易が盛んになった。博物館には、ギリシャ人のつくった剣や鎧などが展示されている。











4世紀から6世紀にかけて、東スラブ人がやってきて、黒土地帯で農業や牧畜を行った。12世紀ころには,北欧のバイキングがドニエプル川を利用し交易に乗り出した。北欧の人々は次第にスラブ人と融合して行き、キエフ・ルーシ(キエフ公国)が成立した。博物館にはバイキングの乗ってきた船の展示などがあった。











このルーシが派生したのが、現在のロシアに用いられているロシアという名である。10世紀にはギリシャ正教を導入し、キエフ・ルーシは栄えたが、13世紀には諸侯の内紛とモンゴルの侵入によって衰退。14世紀にはウクライナ一帯はリトアニア大公国、そしてポーランドに支配された。











16世紀初頭、現在の南ウクライナはポーランドやクリミア汗国、ハンガリーなど多数に分かれた民族のフロンティアの地となり、タタール人による奴隷狩りなどが横行していた。ポーランド・リトアニア領内の貧しい農民たちは、タタールの襲撃に備えて自衛するようになった。これがコサックである。コサックの大部分はスラブ系で正教徒であるが、出自を問わない自治的武装集団である。「コサック」とは自由な民、自立した民を意味するトルコ語であり、コサックの言語もトルコ語による語彙が多い。コサックは自由と平等を重んじ、ラーダという議会をもち、首領であるヘトマンを選出した。











コサックたちは、タタールやトルコからの攻撃から自衛するため、砦を築き、馬術や武器を使う訓練をした。夏のあいだは、シーチとよばれる要塞を拠点として戦争・略奪、狩猟に従事した。男性が中心で、未婚の女性は災厄をもたらすとしてシーチには入れなかった。シーチの外には市場があり、ユダヤ人など非コサックの店が並んでいた。このホルテツィアには、1555年にシーチが作られた。ここを拠点として編成されたコサック軍がザポロージャ・コサックとよばれ、ウクライナのコサックの発祥の地とされている。











コサックが強くなると、ポーランド王がタタールやトルコからポーランド本土を守るためにコサックを利用するようになった。また、自衛するだけでなく、コサックは、タタール汗国への襲撃など、リトアニアやポーランドのフロンティアを拡張する尖兵となっていった。

しかしコサックは独立心が強く、たやすく命令を聞こうとはしなかった。このため、1572年に登録制度を導入し、登録コサックに王の軍人としての地位を認めた。その軍務に対する給料の見返りに、コサックは王の統制に従うとするものであった。この制度により、ポーランド王は安い軍事力を確保できた。16世紀末以降、コサックはポーランド王に従い各地で戦うことによって政治的な地位を高めた。コサック軍に軍規・階級・秩序ができ、コサック軍はゲリラ的な軍から正規軍に姿を変えた。1621年には南部のホーティンで、3万5千のポーランド軍と共に4万のコサック軍を動員して、10万のトルコの進撃を食い止めることに決定的な役割を果たし、ポーランドを危機から救った。

だが、王から与えられる待遇や領主からの搾取にコサックは不満をいだくようになり、反乱が起きた。そのリーダーが、フメリニツキーである。彼は登録コサックであり、ザポロージャ・コサックの総書記であった。当時、ポーランドによるコサック圧迫は激しく、登録コサックの領地没収や略奪が続発し、フメリニツキーもその犠牲となった。領地を奪われ、我が子を失った彼は、ザポロージャ・シーチに逃れてポーランドに対する反乱を起こした。 フメリニツキーの呼びかけに、コサックたちと、ポーランド貴族により農奴化された農民たちが加わった。さらにフメリニツキーは長年の敵だったクリミア・タタールと同盟を結んでポーランドに備えた。1648年に9千人で始まった反乱は、10万に膨れ上がり、戦いは勝利した。コサックの伝統的権利を認める、登録コサックを4万人に増やす、コサック領の拡大などを取り決め、フメリニツキーは「ポーランドへの奴隷からルーシを開放した者」と称えられた。ここから、最初のウクライナ国家であるコサック国家が形成された。

(参考文献:黒川祐次 『物語 ウクライナの歴史』中公新書)

博物館にはコサック・シーチの模型や、剣、銃などの武器、黒海北岸部の町を襲撃するのに使った小型カヌーのチャイカなどが展示されている。また、コサックたちは麻薬やタバコ、ウォツカなどを好んでいたそうで、パイプなどもあった。当時のウォツカは現在のような40度近いアルコールではなく、12度程度であったそうだ。正教会への信仰があったため、イコン画や八端十字架が展示してあり、コサックは十字架の一番下の斜めを秤と考え、死後、左上の天国にいけるか右下の地獄へと落ちるかを良く考えて生きるべきだという考えがあったそうだ。



ソ連時代につくられた迫真のジオラマがたどった運命

この博物館の目玉は、ソ連が歴史博物館などで良く用いた、大規模な3つのジオラマの展示である。これらのジオラマは、いずれもソ連時代に、モスクワの国営スタジオ、グレコフ(Grekov)でつくられた。細部まで作りこまれた動的な表現は、迫真的で、観覧者を、あたかもその場で事実を見ているかのような錯覚に陥らせる。この意味で、ジオラマは、重要なイデオロギー教育の手段のひとつとなっていた。

最初のジオラマは、972年にキエフの王子スヴャトスラフが襲われている場面である。王子はブルガリアをめぐるビザンチンとの戦いで敗走しドニエプル川を遡っていたところ、遊牧民のプチャネグ族によって殺されてしまった。このキエフの王子はウクライナのルーツとされるが、ソ連の支配下にあった頃はロシアの祖先という解釈が与えられていた。ソ連の一部に含まれていたウクライナのルーツをロシアの祖先の王子に仕立ててジオラマを作成したのだ。このジオラマも、ウクライナ独立とともにキエフ・ルーシの王、ウクライナのアイデンティティと解釈され直した。解釈を直せばいいだけなので、ジオラマ自体はそのまま展示されている。








2つ目のジオラマは、コサックのリーダーであるヘトマン選出の場面である。平等と自由を重んじてきたコサックであったが、登録コサックの制度により、領土や権利を有するものが出て次第にコサック間にも貧富の差が生じてきた。しかし代表をラーダという議会で選出するという民主主義がコサックにはあった。このジオラマは、上流階級の前リーダーが選挙によって庶民の貧しいリーダーに取って代わられ、引き摺り下ろされている場面を描いている。このジオラマ展示がつくられたのは、ソ連時代の1983年である。当時は、コサックの歴史を展示するという意味合いではなく、貧しいリーダーが貧しい人の代表として力で金持ちを倒す、すなわち「民衆が力を獲得して平等を達成する」社会革命のテーマを現すものとしたため、このようなコサックの歴史に関するジオラマ作成が許されたものであろう。








最後のジオラマは、博物館の最後に置かれている。ナチスによって占領されたザポリージャを、ソ連軍が1943年10月14日の夜に奇襲をかけて取り戻した場面である。このジオラマはかつて、現在コサックの展示がある博物館の中心部にあった。しかし独立後、この博物館がコサックの歴史を中心とする博物館に衣替えしたとき、このジオラマは倉庫にしまわれてしまった。だが2011年になり、ソ連軍の英雄チュイコフの胸像とともに、ナチドイツと戦った栄誉ある歴史の展示として、このジオラマは、博物館の隅の方に再び展示されることとなった。今はコサックの展示がある博物館の中心部にかつてはあった。しかし独立後には、コサックの歴史を中心とする博物館としての展示に変えたときに、このジオラマは倉庫にしまわれた。2011年に、博物館の隅の方にこのジオラマが再び展示されることとなった。他にも博物館の隅のほうに、ソ連時代のものが少しだけ置かれてあった。コサックの歴史に焦点を当てて展示されているこの博物館に、かつてのソ連的な要素が、未だおざなりとはいえ、少しずつ戻ってきている。

私たちは、このザポロージャ・コサック博物館で、ウクライナのアイデンティティであるコサックの歴史を、多くの展示物を通して知ることができた。

これと同時に、3つのジオラマの博物館内における位置づけならびに付与された意味の変化を通じ、博物館の展示テーマをめぐるソ連とウクライナとのせめぎあいをみてとることができた。ソ連時代には、ウクライナのルーツをソ連のルーツとして表現し、ソ連の栄光を前面に押し出した展示方法がとられていた。ウクライナは、ソ連軍の栄光を示すジオラマを博物館の中央部からはずしてしまうなど、ソ連が描いた官製の歴史に拒否反応を示し、ザポロージャ・コサックがウクライナのアイデンティティであるという強いメッセージを発する博物館へと換骨奪胎した。

なお、展示には英語の説明もあり、自身のアイデンティティを国際的に知ってもらいたいという、ウクライナの意図がうかがえた。



ソ連が消し去った、ザポリージャ・コサックの遺跡

博物館を出て、博物館の前にある小高い丘に登ってみた。この丘はコサックマウンテンのレプリカで、コサックが、敵の接近を見張るための丘であったそうだ。この丘にあるウクライナ国旗は35mの高さがあり、ウクライナで最も高い国旗であるという。このコサックマウンテンにウクライナの国旗を掲げていることには、コサックがウクライナの起源であるというメッセージが込められているのだろう。








丘に登ると、ドニエプル川とその分流、そして水力発電所がよく見える。もともとコサック・シーチはこのあたりに8箇所あったが、水力発電によってその遺跡のうちの7つが沈んでしまったそうだ。ソ連は、この地にあるザポリージャ・コサックというウクライナのアイデンティティのほとんどを、水力発電所建設によって消し去ってしまったのである。



コサック・シーチへ

11時ころ、私たちはホルテツィア島の北西にあるコサック・シーチ(砦)を見学しに行った。

この砦はレプリカで、オリジナルの砦の10分の1の広さ、3分の1のサイズの建物でつくられた、一種の歴史体験施設である。もともと、ニコライ・ゴーゴリの「タラス・ブーリバ」という映画撮影のセットとして作られたものを、そのまま国立公園としたものである。4年前からつくられ始め、現在もまだ建設途中である。このタラス・ブーリバの像が砦の外に設けられている。

砦の周りは木の柵で覆われ、物見櫓を通って集落の中に入る。コサックは武装集団であったため、木の柵や櫓で敵の襲来に備えていた。コサックはこのシーチに夏の間だけ住んで、戦闘に備える。冬の間は牧畜や狩猟、農耕、養蜂などを行っていた。








シーチは2つの部分から成り立っている。教会、武器や食べ物の保管庫、司令官の家などがある砦の内部と、外にある市場である。私たちが砦の中に入ると、中央に大きな教会が見える。この教会は正教会のもので、樫や松の木材でつくられている。木造のため、外見は質素なつくりに見えたが、中に入るとキリストや聖母マリアのイコンや黄金のイコンが綺麗に飾られていた。集落には木造の家や、白壁に藁葺き屋根の家がある。一軒に250人ほどが住んでおり、長い机や長いベンチなどがあるそうだ。








この体験公園では、当時のコサックの生活を示す実演も行なわれていた。家の外でコサックが数人、弓と鞭の訓練をしており、私たちが見ているのもお構いなしに、寡黙に続けている。麻の白い長袖に、ゆったりとしたズボンをはき、皮製のブーツをはいている。頭は、一房の毛を残して剃っている。これは、オセレーデツィというコサックの伝統的な髪型であるそうだ。中国の辮髪と似ており、スキタイやタタールなどの遊牧民のもつ文化がコサックにも引き継がれたのではないかといわれている。コサックが冬の間かぶる毛皮の帽子はクチマとよばれる。また、8〜10歳の男の子たちに、読み書き・計算を教えて、コサックとしての教育をしている。軍事リーダーは、コサック語、ウクライナ語、ロシア語、スラブ語とトルコ語の混合の言語、タタール語の少なくとも5つの言語を覚えなければならなかったという。








コサックのコインをつくる体験コーナーもあった。20フリブニャで、金属片に刻印を入れてコサックのコインを作ることができる。絵柄が入っていない金属片を型に入れて、上からハンマーで強力にたたくと絵柄がコインに刻まれる。ゼミ生が体験してみないかと勧められ、ハンマーを打ち付けてみたが、力が足りず絵柄が十分にコインに入らなかった。そこでコサックが替わってハンマーをたたいてくれた。コサックは力強く、ゼミ生とは比べ物にならないくらいのスピードと威力でハンマーを打ち付けた。コインには無事コサックの絵柄が入り、コサック・コインのお土産ができた。他にも、土産売り場などがあった。 この砦はレプリカの体験施設で、観光客や、近隣の学校の社会見学の生徒などを対象としているのだろうが、建設途中ということもあるのか、私たちの他には訪れている人はおらず、説明もまったくない。外の看板には、それぞれの建物の名称が書いてあったが、ウクライナ語であり、海外からの旅行客向けの説明は見当たらなかった。コサックをウクライナのアイデンティティとして国際的に示したいなら、ザポリージャ・コサック博物館のように英語の表示を付けるなど、説明表示などを充実させる必要があるだろう。



ソ連の社会主義工業化を支えた電化計画の要、レーニン記念ドニエプル水力発電所

午前中の、ウクライナの源流であるコサックについての視察を終え、午後、私たちは、ウクライナの発祥地という場所の伝統を上書きするように築かれた、社会主義工業都市というザポリージャのもう一つの側面について、視察を行うこととなった。

レーニンは、電化による急速な工業化が社会主義経済発展における基軸的戦略と指示した。それゆえ発電所は、社会主義経済にとって、基幹的であり、象徴的な設備となった。










12時過ぎ、私たちは、この工業都市にエネルギーを供給し、核となった施設であるドニエプル水力発電所を訪れた。

発電所に入ると、技師長のニコライ氏(Voronoy Nikolai)が私たちを出迎えてくれた。発電所内は高圧電気が流れている場所もあり、危険であるため離れないで行動すること等の注意を受け、発電設備の建物までの道すがら、発電所の歴史についてお話してくださった。

この発電所は正式には「レーニン記念ドニエプル発電所」であり、レーニンの掲げた電化計画によって、革命直後の1920年にソ連政府が10の水力発電所を計画したうちの1つである。ダムの長さ760メートル、高さ60メートルのこの水力発電所は、当時、ヨーロッパ最大であった。








そのころソ連には、このような巨大な水力発電所を建設する技術がなかった。このため、アメリカの技術も導入し、ソ連の技師アレクサンドロフが設計した。1927年から1932年まで、5年間という短い期間で建てられた。








発電所ができる前は5万人ほどでしかなかったザポリージャの人口は、発電所の建設に新たに6万人がソ連中から働きに来て、人口が増大していった。さらに発電所が完成すると、その豊富な電力をエネルギーに用いた工業が配置され、計画的な都市建設がすすんだ。 第二次世界大戦がはじまると、1941年にナチドイツがザポロージャを占領し、水力発電所を爆破してしまった。43年にソ連軍によってザポロージャが解放されて再建が始まり、1950年に再稼働をはたした。

この歴史を伺い、私たちは、建設当時のアメリカ経済について考えた。1929年ニューヨークで起こった恐慌は世界に広がったが、ソ連はその影響を全く受けず、経済発展を続けた。国家主導の経済体制の優位性を見たアメリカでは、国家が経済に介入することで経済と雇用を回復する政策が採られた。これが、TVAやダムづくりなどの公共事業で雇用を増やすニューディール政策である。このように、戦後の冷戦以前は、ソ連とアメリカとは意外に近い関係にあり、技術や政策手法を互いに交換し合いながら、経済発展が進められていった状況がわかる。








私たちがソ連では電化・工業化が国家的な重要戦略とされたため、ザポリージャの水力発電所は社会主義の基盤となる、社会主義の象徴的設備である。発電所の門を見ると、ソ連の国章が残っている。また、発電所内の道路や街路樹、庭園などがきれいに整備されている。ソ連時代に戦略的に重要な施設と位置づけられていた象徴は、いまも発電所にはっきりと刻まれている。

ニコライ氏は、この水力発電所にアメリカの技術が使われたという点は非常に興味深い。1929年は世界恐慌が起こり、アメリカではダムづくりなどの公共事業を増やすニューディール政策がとられた。景気が悪化し失業が問題となったアメリカで、ソ連的な国家が公共事業に介入する経済回復が図られたのだ。一方のソ連も電化を進める際に、アメリカの進んだ技術を導入しており、当時、エネルギー政策において両者が協力し合いながら、同じように国家的電化政策を進めていたのだ。この水力発電所について、ウクライナが資本主義化した今でも国有であり、1kwhあたり、0.02フリブニャという安いコストで発電され、0.6フリブニャの利益が出る、と説明された。儲けが出ている国有部門は民営化せず、国が保有したままにするという形態は、先日のクリミア半島で見たブドウ園と同様である。 敷地には、迷彩色の服を着た警備員がパトロールしていた。91人の警備員が発電所を警備しており、テロの攻撃のリスクがあるため、360人の発電所労働者も車で通勤することは禁じられているそうだ。ただし、この水力発電所は、事前に予約すれば見学者を受け入れており、敷地内にも発電所の仕組みや歴史などを展示するパネル等が設置されている。

《発電設備》








発電設備のある建物は、入口にソ連の国章があり、スターリン式の頑丈な石造りである。この建物もナチドイツによって破壊されたため、世界大戦後に建設しなおされたという。  建物内部に入ると、発電機のタービンの轟音が響いてきた。発電機はアメリカ製のものとヨーロッパ製のものがあるそうだ。下流との水位差が36.3mある上流の水を直径8mのパイプを通してタービンを回し、発電する。タービンは直径12m、500tもの重さがあり、1分間に83回転して、13,800Vの電気を発電する。この発電所の発電容量は150万kWである。、 夜になり電力需要が減ると、次の日の発電に備えて、発電機を逆回しにモーターとして使って水を上流に戻す、揚水式も兼ねている。15億立方メートルの貯水量をもつこのダムは、発電以外の目的では使われていない。








水力発電の特徴は、電力の生産・消費のバランスを調整しやすいことである。火力発電や原子力発電は、設備を稼働させたり停止したりするのに時間がかかり、需給バランスに合わせて発電量を調整するのが難しいが、水力発電はスイッチを入れれば7秒で起動でき、停止にも7秒しかかからないそうだ。よって、水力発電所は電力需給のバランスを調整する役目を果たし、現在では、原子力発電や火力発電を補うような形で利用されている。








発電機がある部屋の隣には、パネルによる発電所の説明や、重要な歴史的出来事を示す絵画が展示されている。水力発電所の計画や建設の様子、完成式典でミハイル・カリーニン(Mikhail Ivanovich Kalinin)が演説している様子、ザポリージャ発電所がナチスドイツによって破壊されている様子などを描いた絵画が何枚か展示されている。完成式典でのカリーニンの演説の絵には、たくさんの共産党の赤い旗、ダムにかかる虹などが描かれ、共産党の電化計画による発電所建設によって社会主義経済が発展し明るい未来が築かれる、というイメージを与えている。また、完成式典にソ連の国家元首が訪れたことから、当時のソ連にとって発電所建設が非常に重要な国家事業であったこともうかがえる。 2012年はちょうど建設80年の年であり、10年前の70周年にはロシアのプーチン大統領が式典に参加した様子が紹介されていた。エネルギー分野において、ウクライナはロシアと友好的な関係を築いて行きたいのだろう。今でも、ウクライナにおいてロシアの影響力はあなどれないことがわかる。

《管理室、変電・送電設備》








次に、発電の管理を行っているコントロールルームを視察した。ここも、天井が高く、典型的なスターリン様式の建物となっていた。中には大きな古いコントロールパネルがあるが、今はこのコントロールパネルではなく、コンピュータによって管理されるようになっているそうだ。この管理室には4人が1シフト12時間で管理している。








外には変電・送電設備がある。かつてはアメリカ製のものを使っていたそうだが、今はスイスなどのヨーロッパ製を導入し始めているそうだ。アメリカは60Hzで、ヨーロッパは50Hzであり、ウクライナも50Hzを用いているため、ヨーロッパ製が選好されるようになっているという。とはいえ、機器のロゴを見ると、ゼネラル・エレクトリック社(General Electric)の変圧器も、現役であることがわかる。フランスのアレヴァ社(Areva)のものもある。ソ連が建設した発電所ではあるが、発電機も、変電所も、いずれも欧米の技術に依存しており、最近はEUとの結びつきを強めて西欧の新技術によりそれを更新していることがわかる。

私たちはドニエプル水力発電所について丁寧に説明してくださったニコライ技師長にお礼を言い、発電所をあとにした。




午後からのザポリージャの都市ならびに工業地帯視察に備え、私たちは、昼時で混み合っているレーニン通りのマクドナルドで軽食をとり、市内巡検へと出発した。



ザポリージャ新市街のメインストリート、レーニン大通りに立つレーニン像

ソ連が工業都市として建設した計画都市ザポリージャの新市街は、ドニエプル川べりから始まってザポリージャ第一駅まで、市街地を北西から南東に貫く、広い幅のレーニン大通り(Prospekt Lenina )がメインストリートとなっており、20kmもの長さがある。もともとは聖堂通り(Cathedral Street)と呼ばれていたが、スターリンによって1921年にレーニン通りと改名された。

この通りは、社会主義経済の都市建造環境における表象である。通りに面して、スターリン様式の社会主義住宅や、麦や鎌などの彫刻がついた建物が並ぶ。

レーニン大通りの起点は、ドニエプル川沿岸の広場である。レーニン通りをドニエプル川が流れる北西の沿岸から南東方向に向かって進むと、州庁舎などが建つ都市の中心地区となる。中心地区からさらに南東に進むと、工業化以前の古い都市地区があり、ドニエプル川の発電ダムを渡ってレーニン通りより北西に、大規模な工業が集積する地区がある。

私達はまず、レーニン大通り起点の広場に立った。そこには、立派なレーニン像が置かれている。ドニエプル川沿岸の、レーニン通りの基点となる広場には、立派なレーニン像が立っている。ガイド氏によれば、かつてウクライナには20,000以上ものレーニン像が置かれていたそうだ。だが西部では、私たちがみたようにリボフでレーニン像がすでに撤去され、「レーニン通り」も改名された。他の西部の諸都市、そしてオデッサすら、レーニン像を撤去した。他方、東部のロシア色が強いクリミア半島には、今もレーニン像が建っている。ザポリージャでは現在も道路名、像ともにザポリージャのメインとなる場所にレーニン像が残っている。このことからも、ザポリージャでは、まだソ連やレーニンに対する正統性の意識も心理的な愛着も強いことが窺える。それはやはり、ザポリージャに、レーニンの計画のもと水力発電所が配置され、その電力をもとに工業化と都市化が発展して、今日もこれが地域の雇用を維持していることに由来しているのであろう。

レーニン像の広場からは、ダムを船が通過するための閘門の一部が見える。閘門は300mの長さ、幅は8mある。さきほど水力発電所でもうかがったように、ダムの上流と下流には30m以上の水位差があるため、船を通すには、水位を調整する必要がある。この閘門はダムができた1932年につくられたが、1980年により広く拡張された。



スターリン様式の都市建造環境に、ロシア構成主義の社会主義住宅と市場経済の看板

まず、レーニン像からレーニン大通りを5ブロックほど南東に進んだところにある、ソツゴロド地区(Sotsgorod)を視察した。この地区で、レーニン通りと交差する通り名が冶金通り(Metalurhiv Avenue)であるように、ザポリージャの工場労働者が住んでいた社会主義住宅である。ロシア構成主義(Constructivism)とは、新古典主義やスターリン型の、建物の機能とは関係のない装飾を施した建築に反対し、建築構造そのものがもつ論理性の中に美と合理性を追求する、ソ連初期5階建ての同じような社会主義住宅のブロックが同一方向を向いて整列したように並んでいるなかに、一番南端にあった住宅だけ、キリル文字のCのような形をした住宅であった。キリル字のCは、ラテン文字ではSであるため、スターリンのSかまたはSSSR(The Union of Soviet Socialist Republics、キリル文字ではCCCP)のSを表している、とガイド氏は説明した。なお、同様の彎曲した社会主義住宅の例は、チェコなど他の旧社会主義国にもみられる。そこでは、住居を彎曲させることにより、人々の交流を促しコミュニティづくりを建築構造から図る目的があるとされている。 さらに南東へとレーニン大通りをすすむと、ザポリージャの中心地、オクトーバー・スクエア(October Square)と呼ばれる、新市街の中心地区へと入った。








私たちが泊まったホテルもこの地区にあった。4,5階建ての屋根が高いスターリン様式の建物が多く、銀行やカフェなどが並ぶ。中心の広場には、州庁舎や郵便局がある。広場を囲んでいるのは、4,5階建ての屋根が高いスターリン様式の建物である。壁面には、麦や鎌など、ソ連時代のアイコンが刻み込まれている。








このような社会主義のアイコンは、レーニン大通り沿いに数多く見られる。郵便局近くの建物には、1970年代につくられた壁画があった。壁画には、水力発電所のダムと、冶金や化学などの工場、労働者が描かれ、電化・工業化と労働者というソ連社会主義経済の目標が表象されている。ソ連時代の壁画を塗りつぶしたりせずに、ウクライナ独立後も、そのままに残してあるのだ。

だが、このようなソ連時代のアイコンがレーニン通り沿いには数多く散見された。その壁画の隣には、市場経済後のIT関連の広告が掲げられ、壁画の建物の前には近代的なガラス張りの高層の建物が新たに建てられて、ソ連的な壁画と対照的な都市景観を形成していた。銀行やカフェなども目に付く。古いソ連時代の社会主義工業都市の建造環境の中に、少しずつ市場経済の要素が浸透していることが見て取れる。私たちが泊まった、1階ロビーの部分を近代的に改装したインツーリストホテルも、この広場にある。



工業地区

次に、レーニン通りより北に位置する工業地区に私たちは向かった。 中心街を過ぎると高層の富裕層向けのマンションも散見されたが、次第に建物は古く、荒廃したものになっていった。この工業地区へはトラム(路面電車)が通っており、工場労働者が住宅地からこの工業地区へと通勤でやってくる。ソ連の都市計画では、住宅・行政地区と、工業地区は分かれており、トラム等による通勤インフラが整備された。私たちが訪れた時にちょうどトラムが通ったが、乗客が多く、通勤だけでなく市民の足としても現在も活発に利用されていることがわかる。無数の高圧線が工業地区へと延び、ドニエプル水力発電所の電力がこの地区の工場で消費されている。








ガイド氏によると、ザポリージャの人々の月平均収入は約153米ドルであり、ウクライナ平均の約330米ドル、キエフでの約520米ドルと比べてかなり低い。しかしザポリージャでは、水力発電をもとにした社会主義以来の工業活動がいぜん維持されて雇用が確保され、失業率は2〜5%と低く保たれている。








工業地区へ入ると、石炭化学工場やドネツクの石炭を利用した製鉄工場、合金工場などが建ち並んでいる。ソ連時代に配置された工場であるが、どれも立派に操業していて、工場の煙突からは茶色、黄色、オレンジ、グレーなどの色とりどりの煙が出ているのが見える。 この工業地区のダイアゴナル通り(Diahonal’na Boulevard)で通りかかった合金工場を外側からより詳細に見ようと、私たちは専用車の外に出た。すると、空気が臭く、ゼミ生たちはたちまち咳が出て、喉や目が痛くなってきた。ひどい大気汚染である。ソ連時代につくられた工場を、公害防止設備を設置せずそのまま使い続けていて、環境汚染物質がそのまま排出されているのだろう。ソ連は、環境汚染を、資本主義の利潤極大化行動がもたらす害悪だと主張していたが、実は、自分たちの工場にこそ、公害防止設備など整備されていなかったのだ。ウクライナはかねてEU加盟を望んでいるが、EUには一定の環境基準がある。このような状態のままでは、とてもEU加盟は無理である。もし、EUに加盟するならば、環境負荷が大きい古い工場に大規模な公害防止設備を設置する必要があるが、それにはコストがかかりすぎる。おそらくは全て閉鎖となってしまうだろう。そうなれば工場閉鎖に伴う失業問題がザポリージャにおいて大々的に発生する。ウクライナが本腰を入れてEU加盟を進められないのは、親露勢力がいるからだけではない。こういったソ連時代の生産設備がもたらす問題があるからなのだとわかる。

私たちは合金工場の駐車場を通って、工場入口へと向かった。駐車場に停めてあった通勤用バスは錆びたりへこんだりしている古い車だが、依然として使っているようだ。工場の敷地に沿って歩き、入口の門まで来ると、いきなり、早く立ち去れ!と言われてしまった。工場を外見から見ると、建物は薄汚れ、錆びたりしている。ソ連時代の工場設備をそのまま使い続けていることは一目瞭然であった。ガイド氏は、ザポリージャの工場はソ連時代のままのもので、能率が低く低品質であり、環境への配慮もなされていないままであると言っていた。

工場にはISO9001の表示があり、品質管理に関して国際基準を満たしていることが表示されていたが、設備の古さを見ると、このISO規格(有効期間3年)を取得したのはだいぶ前なのかもしれない。



帝政ロシアの面影の旧市街の中心は、KGB創始者の像が立つ革命広場

再びレーニン通りを南東に進んでいく。州庁舎などがあった中心街の先、ガガーリン通り(Gagarin Street)より南東からは旧市街である。ザポリージャは、1921年にザポロージャという都市名に変わるまえは、アレクサンドロフスクというシーチ(砦)の名前が使われていた。この旧市街には、革命前にアレクサンドロフスクとして発展した地区なのだ。アールデコに似た雰囲気の構成主義的ともみえる建物もあるが、1930年代から50年代のスターリン様式の建物などもみられ、全体として新市街よりも低層である。その後この地区も、ナチスドイツの占領によって多くが破壊されたため、1970年代以降建て直されたブレジネフ様式の住宅やガラス張りの商店なども見られた。








私たちは、旧市街の中心であるレピック通り(Leppika Blvd.)との交差点付近に来た。ここでも、左手には1950年代の天井が高く屋根が斜めのスターリン様式の建物、右手には1970年代の天井が低く窓が規則正しくついているだけの簡素なブレジネフ様式というように、さまざまなソ連当時の様式の建物が見られる。そして、旧市街の中心地であるここには、革命の広場があり、ジェルジンスキーの像が建っている。ジェルジンスキーはソ連の革命家で、ロシア革命後、反革命の人を逮捕するチェーカー(秘密警察)を創設した。チェーカーは後にKGBに発展し、現在のロシアではFSBと姿を変えて存続している。KGBによる抑圧に対してマイナスの感情をもっていた人が、数年前にこのジェルジンスキーの石像を赤ペンキで塗ったことがあったという。足元には赤いペイントが拭き取られたような跡がまだ残っていたが、像は撤去されることなく、きれいに洗い直されていた。足元には赤いペイントが拭き取られたような跡がまだ残っていた。革命の広場には芝生や木がきれいに整備され、石柱のモニュメントがたっている。ソ連は、旧市街におけるそれまでの帝政ロシアの象徴を塗り替えるため、その場所にソ連が革命広場やジェルジンスキーの石像をたてたのだ。

前時代のレジームを消すため、以前の象徴を上書きするように新たな象徴的モニュメントを設置することは良く見られる。今回のウクライナ巡検でも、リボフの旧オーストリア東ガリチア州庁舎前のシェフチェンコ像などで見られた。

ソ連から独立し市場主義化したウクライナで、今なおザポリージャでは革命の広場とジェルジンスキーの像が旧市街の中心に残されている。このことも、やはりザポリージャがソ連の計画経済の下で発展し、今なおソ連時代に計画的に配置された工業がこの都市の雇用を維持しているという都市経済の背景と無関係ではありえない。むしろナチスドイツによる占領と大きな破壊を受けた経験から、ソ連はザポリージャをナチスから解放してくれたとして、プラスにとらえている面もあるのかもしれない。この広場は植物が植えられ、ベンチで人々がゆっくりと過ごす憩いの場所となっていた。

旧市街には、歴史的にユダヤ人が多く居住していたそうで、15年前にやっと再開できたというシナゴーグ(ユダヤ教会)もあった。ザポリージャでは1934年にスターリンによってシナゴーグが破壊され、その後の41年のナチスドイツによる占領で多くのユダヤ人が殺された。近年になってようやく再建が終わったのだそうだ。



通勤に恥さらしのソ連車工場では、今は外車のノックダウン生産のみの見学

次に私たちは、ソ連時代につくられたもう一つの工場、ザポロージェツィ自動車工場を訪れた。1930年代から水力発電所のもと冶金を中心に工業化を進めたソ連は、1960年に、一般市民向けの国産車工場をザポリージャに配置した。ザポロージェツィとはザポリージャの住民を表す言葉で、地元に根差した社会主義らしいネーミングだ。

生産していたのは、イタリアのフィアットと提携して設計した、日本の軽自動車のような、小さくデザイン性にも優れない車だった。このため、当時には「(ザポロージェツィの車に乗る)20分の恥をしのげば、車でオフィスに到着できる」というジョークもあったほどだそうだ。しかし、東独のトラバントと同じく、その安さから、当時はソ連市民に人気があった。

だがソ連が解体した今では、ザポロージェツィ車は、もう生産されていない。工場の入り口には、当時のザポロージェツィが金色に塗られて看板の上に飾られており、かつての国営工場のアイデンティティを示している。当時を知る人には懐かしい車であろう。

工場には販売店も併設され、工場の前に販売車が並べられていた。ディーラーの方が来て、私たちに簡単な説明をしてくださった。組み立ての部品はオペルなどのヨーロッパから持ってきており、ザポロージェツィの自動車製造ラインをそのまま使って組み立てを行っている。車のロゴがすべてザポロージェツィのものであるのは、そのほうが10〜12%ほど安くなるからで、自動車本体はシボレー等のものと何もかわらない。ブランド料の分だけ安くなっているのだろう。ザポロージェツィが1から作り上げる生産はなくなったが、海外の自動車ブランドの組み立て生産が行われているおかげで、雇用は守られている。

要するに、現在この会社は、独自に設計した車を生産するのはやめて、アメリカのGMと提携してその系列会社から持ってきた部品を組み立てる工程のみを行う、ノックダウン生産に特化しているのだ。看板には、大宇(韓国)・シボレー(米国)・オペル(ドイツ)などのGM系列車、そしてアフトヴァース(ロシアのヴォルガ)等のロゴマークがあり、これらの自動車会社の部品を組み立て販売していることがわかる。売られている車を見ると、たしかにどれにも、ロゴマークはザポロージェツィのもがついていた。それでも、一番人気の車種が9,000〜11,000米ドルほどと、ウクライナの人々にとってはまだまだ新車は高嶺の花である。

今回の巡検では、自動車会社に見学の打診をしたのだが残念ながら断られてしまったため、工場の周辺のみの視察となった。工場の敷地の中を見ると、たくさんの出荷待ちの車が並べられ、積み出しを待っていた。すでに自動車運搬車に積み込まれている自動車もあり、車の部品などが積み込まれているコンテナもあった。工場の入り口には当時ザポロージェツィで生産された黄色い車が看板の上に飾られており、当時を知る人には懐かしい車であろう。看板には韓国の自動車会社、大宇や、シボレー、アフトヴァーズ(ヴォルガ)等のロゴマークがあり、今ではこの工場でいちからデザインしたものではなく、これらの自動車会社のモデルを組み立て販売していることがうかがえる。工場には販売店も併設されているようで、工場の前の芝生の上には販売車が並べられ、どの車にもロゴマークはザポロージェツィのもがついていた。

ディーラーの方が来て、私たちに簡単な説明をしてくださった。組み立ての部品はオペルなどのヨーロッパから持ってきており、ザポロージェツィの自動車製造ラインをそのまま使って組み立てを行っているそうだ。車のロゴがすべてザポロージェツィのものであるのは、そのほうが10〜12%ほど安くなるからだそうで、自動車自体はシボレー等のものと何もかわらないそうだ。ブランド料の分だけ安くなっているのだろう。ザポロージェツィが1から作り上げる生産はなくなったが、海外の自動車ブランドの組み立て生産が行われているおかげで雇用も守られているそうだ。



レーニンの執務室、ピオネール姿の店員:ソ連を懐かしむポリトビューローカフェ








私たちは18時過ぎに、レーニン通りの州庁舎のすぐ隣に位置するポリトビューローカフェで夕飯をいただくことにした。ポリトビューロー(政治局)とは、ソ連共産党の最高指導機関であり、その名の通り、この店は、ソ連時代を懐かしむテーマレストランである。店内は、ソ連時代の国旗や勲章、写真や、ソ連時代の古いランプやラジオなどの日用品、貨幣などが飾られ、ソ連時代を知る人が訪れればどれも懐かしい品ばかりが飾ってある。店内には、いくつか個室があり、レーニンの執務室を模した部屋で食事を楽しむこともできる。ウエイトレスは、白いワイシャツに黒のスカート、そして赤いスカーフを首に巻くという、ピオネールの制服の出で立ちである。私たちはここでボルシチとポテトを焼いた鍋のようなものをいただいた。このようなテーマレストランは、ほかの旧社会主義国では見られることがあり、中国にも「文革レストラン」が各地にある。 私たちはここでボルシチとポテトを焼いた鍋のようなものをいただいた。








私たちが訪れた18時という時間にあまり客はいなかったが、州庁舎のすぐ隣という一等地に店を構えているところを見ると、休日やもう少し遅い時間になってくると客が多く訪れるのだろう。ソ連といえば言論や少数民族・反体制派の抑圧があり、つらく苦しい過去というイメージもあり、ソ連崩壊前には経済が停滞し、世界経済に後れを取ってしまっていたが、これまでの巡検でも話に出たように、住宅も病院も学校も勤務先も整備され、失業はなく、勤労者にはサナトリウムで長期の休養が与えられるなど、市民の社会的福祉がよく整っていた時代でもあった。1929年の世界恐慌の影響も受けずに経済成長を続け、戦後のアメリカとの宇宙開発競争で勝った。タブーの共産党批判・政府批判さえしなければ、それは住み心地が良く、誇りを持てる社会だったのであろう。ザポリージャは工業が盛んな地域で、労働者が多いため、ソ連時代の活気にあふれていた大国時代にノスタルジーを感じる人も少なくないのだろう。そうした中高年を中心に、このポリトビューローカフェはかつての古き良き時代の栄光をしのぶ場所となっているにちがいない。

ザポリージャの町は、一方でウクライナのコサック発祥の地としてウクライナのアイデンティティを強く主張する土地である。その上に、ソ連の社会主義経済計画によって、水力発電所がつくられ、工業が配置され、社会主義都市が建設された。社会主義時代の工場はいぜん人々の雇用を保障しており、それゆえに親ソ連の気風が都市社会に強いことは容易に想像できる。特に午後からの都市巡検では、レーニンの像や通り、スターリンのCの字をかたどった社会主義住宅、革命の広場やジェルジンスキーの像など、ザポロージャのいたるところにソ連時代の象徴をそのまま目にすることができた。このようなソ連の計画経済と社会をそのままに残し懐かしむザポロージャ市民のソ連への愛着が、このポリトビューロカフェに象徴化されているのは、いうまでもない。



夜の街をひた走り、ドネツクへ

私たちは、翌日の巡検地ドネツクへと向かうため、ザポリージャを19時30分頃、ドネツクから回送されてきた専用車で出発した。 暗闇の道を4時間ひた走り、23時30分にドネツクに到着する。








町は人通りも少なくひっそりとしていたが、オレンジ色の街路灯が煌々と光っており、都会という雰囲気である。ドネツクが、ソ連、そしてウクライナ随一の工業都市であることを事前学習していたため、もっと工業が中心のすすけた都市なのかと思っていたが、2012年にドネツクでサッカー大会が開かれたこともあり、街は大変きれいに整備されていた。 私たちは宿泊先のセントラル・ホテル(Central Hotel)にチェックインし、本日の巡検は終了した。



(坂本 彩 / 吉田 達郎)