2012年9月9日 オデッサ

巡検6日目

6日目。私たちは「黒海の真珠」と称されるウクライナ南西部の港町オデッサ(Odessa)を巡検した。このオデッサは、私たちがこれまで訪れてきた都市とは違って、 18世紀になってからロシア帝国の女帝エカチェリーナU世( Yekaterina II)によって建設された計画都市である。また、オデッサは、現在も昔も、 この地域の人々の西欧、特に隣接したハプスブルク帝国やフランス、イタリアなどへの憧れを体現してきた都市であった。

私たちは、この18世紀の都市が、帝政ロシア、革命、そして第二次世界大戦と社会主義の時代を経て、どのように独立ウクライナの港湾都市という現在に至るのか、 そしてその歴史が、オデッサの、建造環境に積み重ねられてきたのか、そして現代ウクライナの東西対立が、都市景観にどのように表象されているのか、考察していきたい。



オデッサ駅に下車:市場経済とソ連への追憶との共存

私たちの乗ったリボフからの夜行列車は、速度を落としオデッサの駅に近づいた。この辺りはオデッサの郊外地区で、1980年代の社会主義住宅や、 市場経済導入後に立てられた真新しい高層建築が数多く見られた。

朝8時36分、列車はオデッサ駅に到着した。この駅は、ウクライナ各地からの鉄道の結節点となっている。 これは、かつてオデッサが南ロシアの中心都市として、穀物の輸送基地と工業生産基地という2つの役割を果たすよう、 鉄道網が計画的に造られたからだ。

私たちが下車すると、ホームには、今回の巡検でウクライナ国内の行程をアレンジしてくれた ウクライナツアーズ(Ukraine Tours)の社長ユーチュク(Igor Yurchuk)さんが待っていてくれた。 会社の本社はこのオデッサにある。

ユーチュクさんは、社会主義崩壊後の経済的混乱のなかから新たに旅行会社を立ち上げて成功した、 いわゆる新興富裕層の1人である。ソ連時代、西側からの観光客は、国営のインツーリストが独占的に扱っていた。 ウクライナが独立し、市場経済化したチャンスをとらえ、ユーチュクさんは、主に国外からの観光客・ビジネス視察団を ターゲットにする旅行会社を起業した。ウクライナツアーズ社は、顧客のニーズに合わせた旅行企画をかなり丁寧に 設定してくれており、顧客からの信頼を得て、将来に渡っての発展に懸命に取り組んでいるようだった。ユーチュクさんは、 インツーリストに勤務の経験はないというが、恐らくは社会主義時代に広い人脈を築いていたと予想される。 そのコネを今のビジネスに活かし、私達の巡検のような、難しいアポ取りもこなしていただけたのではないだろうか。 このような、新しいビジネスチャンスを積極的に生かす起業家の姿勢が、今日のウクライナ経済の繁栄を支えているのは間違いない。 ユーチュクさんの?装はとてもラフなもので、日本でいうベンチャーの雰囲気を醸し出していた。

ユーチュク氏に先導されて駅舎の方へと歩いていく。建物の上には、この都市が第二次世界大戦の英雄都市であることを示す、 横断幕のような看板が掲げられていた。ウクライナは、対外関係・経済政策・独立志向などをめぐって、大きく東西が対抗する国である。 リボフは、EUとの関係強化を志向し、ウクライナ民族主義の拠点であるが、ここオデッサは、むしろロシアとの結びつきが強く、ソ連時代の歴史的遺産を重視している。 看板を見て、リボフとは違うウクライナに来たという思いを強くした。

オデッサ駅の駅舎は、帝政ロシア時代の1884年にこの場所に建てられた。第二次世界大戦で焼失し、その後社会主義の時代に現在のものが再建された。 駅の内部に入ると、中央のメインホールは天井が高くとられており圧倒された。駅の電光掲示板には英語の表記もあり、観光・国際ビジネス都市として、 西側からの客を意識しているようだった。

駅舎を出て正面を外から観察すると、建築様式はスターリン様式と言えそうだったが、これまで見てきたようなオーストリアの影響もかなり濃いように感じた。 外観は彫刻やギリシャ風の柱などの装飾に覆われ、建物は巨大なドームになっている。このような特徴には、見る人に威厳を示し、社会主義による支配を確たるものにしようという意図がにじんでいる。 ウクライナ独立後の2006年に改修されているはずだが、それでもなお、駅の正面には勝利の女神と水夫をかたどった社会主義リアリズムの像や、1905・1917・1944という、 ソ連について重要な年代が堂々と彫られており、ソ連時代の影響が強いことが窺える。

その後、私たちは専用車で市街内にあるホテルに向かう。オデッサ駅はオデッサ旧市街の南端、郊外との境目に位置しており、私たちは旧市街の縁辺から中心に向かって進むことになる。 旧市街の南部には、スターリン様式の社会主義住宅などもあるものの、それ以前の新古典主義やアールヌーヴォー、ネオバロックなどの革命前のものと思われる低層の建物が密集していた。 再開発の余地がないので、旧市街の南側は、ニューリッチのような富裕層には居住地として選好されていないことがわかる。 ただし、商業機能については、真新しい店があって賑わっており、特に複数見受けられたリテール業の銀行が印象的だった。 市場経済化に伴う民間銀行部門への資金の集中傾向を窺わせている。

ホテルに到着した。このホテルは、これまで駅からの道にならんでいた低層の建物を改装したもので、内部は新しく、名前も”Continental II hotel”という英語名だった。 また、ボーイは英語が話せ、このホテルが西側からの客を意識していることが窺える。ただ、このホテルにはちゃんとした食堂は無い。私たちは狭いカフェのような所で 簡単な朝食をとった。1階は24時間営業の食料品店になっている。


植民都市オデッサを築いた西欧の人々

現在オデッサがある場所には、かつてハジベイKhadzhibeiいう名のトルコ人の集落があったが、露土戦争の結果、1789年にロシア帝国によって占領された。 この時の皇帝がエカチェリーナU世である。彼女の治世の間、ロシア帝国は積極的な南下外征を行っていた。 オデッサは、北のサンクトペテルブルク(Saint Petersburg)に対応する南のロシア帝国の拠点として発展していくこととなる。

このオデッサという地名は、当時流行していた古典主義の影響により、かつてこの場所にあったと考えられた 古代ギリシャの植民地「オデッソス(Odessos)」に肖って名づけられた。 ただし実際のオデッソスはもっと東の方にあったといわれている。

西欧に憧憬をいだいていたロシア帝国は、当初単なる軍港に過ぎなかった植民都市オデッサの建設と発展を、 西欧の人々に委ねた。次に、その主な人物について述べたい。

@デ=リバス(Joseph de Ribas)とデ=ヴォラン(Franz de Voland)の時代
まず、元々ナポリの軍人であったデ=リバスは、ロシア軍にスカウトされ、オランダ人技師のデ=ヴォランと協力して港湾建設計画を政府に提出し、1794年からオデッサの建設が始まった。 しかし、この計画は港と軍事施設を主な対象としたものだったため、現在のオデッサへの足がかりはついたものの、本格的な都市建造には至らなかった。 しかし、彼の統治時代に外国人植民政策による人口増加、各種振興策による経済発展が成し遂げられ、国際貿易港としての基礎が築かれた。デ=ヴォランの建設計画はその後も踏襲され、 現在の直交路型の街路網がつくられた。ロシア帝国は、ダーリニー/大連など植民都市にパリやカールスルーエのような放射環状型の街路網を好んで採用するが、オデッサでこの街路網が採用されなかったのは、 まだそのような街路網が西欧で流行していなかったためのようだ。

Aデ=リシュリュー(Armand de Richelieu)の時代
次にオデッサの統治者となったのがフランス人のデ=リシュリュー公爵である。彼はルイ13世に仕えたリシュリュー宰相の一族であった。フランスの革命時にロシアに亡命してから軍人としてエカチェリーナU世に仕え、 その後、1803年にオデッサの知事として招聘される。彼は街づくりに熱心で、デ=ヴォランの立てた建築計画に則って、市立劇場(1873年焼失)をはじめとした新古典主義様式の公共施設の建設や人々の住宅整備を行い、 デ=リバスの統治時代から踏襲した植民政策、各種経済振興策や港湾や金融機関などの施設整備を積極的に行った他、貴族向けと庶民向けの2つの学校も開いた。その結果オデッサは、ノヴォロシア(ロシア南部)の中心都市として、 また国際貿易都市としての地位を確たるものにする。1819年には、自由貿易港として認定された。

Bミハイル=ヴォロンツォフ(Mikhail Vorontsov)の時代
最後に現れたのが、ロンドン生まれのロシア軍人で名門貴族のミハイル=ヴォロンツォフである。1823年にノヴォロシア総督となった彼は、イギリスの先進的な教育を受けていて、行政力にも優れ、商工業振興の他文化事業や慈善事業にも取り組んだ。 中でも最も大きな功績は、オデッサの経済を自由貿易港として発展させたことであった。黒土地帯からヨーロッパへの小麦の輸出が増大し、オデッサはその積出港として重要な役割を果たした。結節点としての機能から、 オデッサには様々な加工製品の工場もでき、都市経済は裕福になった。こうして植民都市オデッサは、ロシア帝国の領土であったにもかかわらず、国際都市として発展していった。

Cロシアの上海: 国際都市オデッサに育まれた自由な都市社会
ヴォロンツォフの時にほぼ都市の枠組みが完成したオデッサだったが、その後も順調に発展を続け、上下水道の整備や鉄道敷設などのインフラ整備が進んだ。そして、国際都市となったオデッサは、 中国の上海のように自由な欧米との接触が多く、専制的なロシア帝国のなかで、その専制から逃れやすい自由な都市社会が育まれていった。このためオデッサは、上海と同様、 数々の民族運動・社会運動の活動拠点となった。1905年の革命時にオデッサは、南ロシアの革命闘争の中心地となり、映画になった戦艦ポチョムキン号が入港してくる。 それに続いて起きた1917年の革命から1920年までの間、オデッサは、革命勢力と反革命勢力、そしてウクライナ独立派、諸外国(英・仏・独・墺)などの3つの勢力がこの南ロシアの拠点都市を支配しようと入り乱れて争い、オデッサは壊滅的な被害を蒙った。

D社会主義経済を支えたソ連時代、ウクライナ独立と国際都市の再興
共産主義政権が樹立されたオデッサでは、単純な戦災以外にも共産主義政権から逃れての人口流出やその後のスターリンが引き起こした大飢饉などによる人的?失が大きかった。 共産主義時代にはそれまでのような自由貿易ができなくなって国際貿易港としての性格は鳴りを潜め、ソ連南部の中心都市としての性格が強くなっていった。 第二次大戦では、枢軸軍(ドイツとルーマニア)が侵攻してきて占領される。だが戦後に、オデッサは見事に復興され、機械工業の中心都市として発展して、ソ連経済を支えた。ウクライナ独立後のオデッサは、 南部の中心都市として、ウクライナ最大の貿易港として成長し、再び欧米と結びつきが強い国際都市としての性格を取り戻しつつある。

(参考 Alexander Grabovsky 『Odessa』 2008年 Optimum)



ロシア正教教会が建つ、オデッサ発祥の地

ホテルで朝食をとった後、いよいよ市内巡検に出発する。

ホテルを出たところに、アールヌーヴォー調の真新しい建物があった。これは、後述するIncor Groupの貿易センターである。オデッサでは、このように古い様式をまねて建てた新しい建物が最近増えている。この後、そのような建物が多く見られた。

車に乗って、旧市街と新市街の境界の街路にそって北上し、大聖堂広場(Sobornaya Square)という場所で車から降りる。 この辺りは1794年にオデッサの建設が始まった時初めて建物が建てられたオデッサ発祥の地で、現在一帯は公園になっている。 最初の建物は木製で、ロシア正教会の聖ニコラス教会と言った。その後1808年に石造りの教会になった際、名前が現在の 救世主顕栄大聖堂(Spaso-Prjeobrazhjenskii sobor)に変更された。だが、他の教会と同じく、1936年6月6日にスターリンの手によって完全に破壊され、 スターリンはその石材を使って向かいに学校を建設してしまった。ウクライナ独立後、1999年から再建が始まり、2001年に完全な形での再建が終了した。 更に、2008年にはロシアの援助により鐘楼最大の鐘が運び込まれた。ロシアでは、かつての共産主義に代わる新たな国家アイデンティティとしてロシア正教が称揚されているから、 このことは、オデッサに強いロシアの影響力が及んでいる証とも言えるだろう。教会の内部は一般的なロシア正教のもので、大理石の建物内に金の装飾品、イコンなどが飾られ、教会の奥にはイコノスタシスがあった。 また、私たちの訪問時はミサの最中で、以前リボフの独立派正教教会で見たように、この教会でもほとんどの人が立って祈りをささげていた。

教会から出てしばらく歩くと、公園の中に、前述したヴォロンツォフの銅像が立っていた。その台座には、彼の活躍した露土戦争やナポレオン戦争、 そしてその治世を讃えるレリーフが彫ってあった。この銅像がここに建てられている訳は、彼がこのオデッサの建設者の1人であるからだけではなく、 彼の遺体が教会に紊められているからである。ソ連時代に教会が破壊された際、この銅像もまた破壊されたが、彼の遺体は教会の外に運び出されて無事だった。 その後教会の再建とともに遺体は教会に戻り、2006年には銅像も再建された。

大聖堂広場を出て教会通り(Preobrazhenskaya Street)を左に進んでゆく。ガイドさんによると、この通りは昔海軍通りとも呼ばれていたそうだ。私たちはこの通りの角にあるパサージュ(Passage)という名のショッピングアーケードに入った。 1911年に完成したこのアーケードは、元々19世紀の商業施設であり、この建物はオーストリアのアールヌーヴォー様式についているものよりも派手にデフォルメされた、バロック調の装飾がごてごてとついている。現在は、主に観光客用の店舗とホテルがあり、 私たちの訪問時も多くの観光客であふれていた。

パサージュを出て、デリバソフスカヤ通り(Deribasovskaya Street)に入る。この通りは、パリでいえばシャンゼリゼに相当する、オデッサで最も名声が高い商業街で、マクドナルドや、” Lviv Handmade Chocolate”という名前のチョコレート店など、 西側志向の消費行動をもつ客を狙った店舗が並んでいた。マクドナルドは、いうまでもなくアメリカ資本主義の象徴である。また、チョコレート店は、かつてオーストリア領で小ウィーンとも呼ばれたリボフの名前を冠した、ウクライナ中に支店を持つ高級チョコレート店だ。 それがこの商業中心にもあるということは、やはりオデッサでもオーストリア文化への憧れや親しみがあるということなのだろう。店名が英語で書いてあるということも、消費者に西側という漠然としたイメージを印象付ける戦略なのかもしれない。

パサージュを出て、デリバソフスカヤ通り(Deribasovskaya Street)に入る。この通りは、パリでいえばシャンゼリゼに相当する、 オデッサで最も名声が高い商業街で、マクドナルドや、” Lviv Handmade Chocolate”という名前のチョコレート店など、 西側志向の消費行動をもつ客を狙った店舗が並んでいた。マクドナルドは、いうまでもなくアメリカ資本主義の象徴である。 また、チョコレート店は、かつてオーストリア領で小ウィーンとも呼ばれたリボフの名前を冠した、ウクライナ中に支店を持つ高級チョコレート店だ。 それがこの商業中心にもあるということは、やはりオデッサでもオーストリア文化への憧れや親しみがあるということなのだろう。店名が英語で書いてあるということも、 消費者に西側という漠然としたイメージを印象付ける戦略なのかもしれない。

この通りは、向かいの公園と合わせて、買い物のための散歩道になっている。通りの先を見ると、「Bolshaya Moskovskaya」 というアールヌーヴォー調の緑色のホテルがあり、大規模な改修工事が行われていた。このホテルは元々1904年に建てられたものだったが、 昔よりもずっと大きい形で再建されているそうである。ホテル前の建物がそうだったように、オデッサでは観光資源としてこのような アールヌーヴォー調の建物の建設や再建が盛んに行われている。

このような都市開発は、他の都市ではあまり例がない。他の都市の場合、古い伝統的な様式の建物を取り壊せば、 そのあとには新しく現代の様式の建物を建てるのが普通だからだ。しかし、オデッサでは、オーストリアをはじめとする西欧に対する憧れが強く、 それが建物にも表れている。オデッサの人々は、社会主義という、建築的にも抑圧された時代を過ごしてきた。 だが、社会主義は、西欧への憧憬という、長年オデッサの伝統として人々に埋め込まれた気質を、消し去ることはできなかった。 市場経済になった時、社会主義への反動として、このアールヌーヴォー様式の新築建物が、資本主義の景観として再度オデッサの建造環境に現れたのである。



荒れた建造環境に記憶を留める、革命前の最高級住宅地区

公園を出て、著名なウクライナ人小説家ニコライ=ゴーゴリ(Nikolai Gogol)がかつて住んでいた家がある ゴーゴリ通り(Gogolya Street)に入る。この通りに見られる石畳は初期のオデッサに典型的なもので、イタリアの溶岩石が使われている。 溶岩石はとても堅く建物には向かないため、石畳に使用されたのだそうだ。この地区は、港湾にも高級商業地区にも近く、 ロシア革命前には最高級住宅地区として富裕層が好んで住んでおり、豪奢な中層建物がならんでいて、その建造環境は、 当時のオデッサの繁栄を今に伝えている。しかし、ロシア革命が起こると、すべて共産党政府に接収され、分割されて人民アパートになった。 ソ連はそれまでの階級による住み分けを否定し、少なくとも建前上は、全ての住居は全ての人民に平等に分割された。 このため、富裕層が住むというこの地区の特色は、革命後は基本的に失われた。だが実際、このような豪奢な建物は、 共産党の関係者へ優先的に振り分けられることも多かったようである。ウクライナが独立した後も、そのまま国の所有となっており、 現在は中流以下の市民の公営住宅として使われている。

中層建物の裏手に回ると、庭のような広場があり、その中央には小さな濾過装置が設置してあった。 オデッサは海沿いの都市であるため長年水上足に苦しめられていた。そのため、富裕な人々はこのような濾過装置を使って生活用水を自ら確保していたのである。

通りを挟んで向かい側にはアールヌーヴォー調の建物があり、当時の、流行に敏感な上流階級の市民の家であったことを示している。 フランス革命の影響で流出した建築家の手によって作られたそうだ。表の壁や彫刻は綺麗に整備されており、観光都市オデッサの景観形成に一役買っていた。

更に進むと、建物の角に、地球を支える巨人アトラスの像が置かれた、ひときわ特徴的な建物、オデッサに住んだドイツの貴族、von Falz-Feinが住んでいた家がある。 この家はとても大きく、2つの家が繋がって1つの家になっているように見えるほどで、14世紀のオランダ建築をモチーフに20世紀始めに建てられた。

東独やチェコ、スロヴァキアなどの東欧諸国では、社会主義政権崩壊後に、社会主義時代に国家に接収された建物の返還を求める訴訟が、旧所有者から頻発した。 だがウクライナでは、ここに建つかつての豪奢な物件に対し、返還訴訟は全くないという。この違いは接収からの年数にあり、接収から100年近く経ったオデッサでは、 法的には可能であろうとも、建物の所有権を主張するのは非合理的と考えられているようだ。そもそも世代が違う上、証拠が失われてしまっている場合が多いであろう。 現在の建物は市が所有しており、市民が生活してはいるものの、日本で一般的な区分所有とは違い、建物は勿論部屋自体の所有権も市が持ったままである。 住人は市から部屋を間借りし、賃貸料と各部屋の整備費用を負担するという形式になっている。建物自体の修繕費用は市が負担することになっているのだが、 市に財政的余裕がないため後回しになってしまっているそうだ。

一方でこの建物のすぐ隣には、スパイウィンドウと呼ばれる出窓がついた茶色い様式の社会主義住宅があった。 オデッサの旧市街エリアにはあまり社会主義住宅は見られないのだが、稀に見られる社会主義住宅は、第二次世界大戦時の戦災でそれ以前の建造物が破壊された場所に建てられたものである。 また、この建物の1階には、アールヌーヴォー調の手摺も見られた。この地域にも社会主義住宅があるということは、現在この地区が、低・中所得者層向けとなっていることの証だろう。

この住宅地区から歩くとすぐに、海に面した通りへと出た。黒海である。北東ドイツの北の海、バルト海から、私たちは鉄道を乗り継いで欧州大陸を斜めに横断し、南の海にたどりついた。

ここからポチョムキン階段がある方向に行くと、オデッサ港がよく望めた。途中には1950年代に架けられたジョシチェの橋がある。カップルがこの橋に錠前をかけてその鍵を捨てると永遠に結ばれるという言い伝えがあり、 私たちが通った時には、この橋の欄干と、橋のたもとにあるハート形のモニュメントに、大量の錠前がかけられていた。これは橋を利用したレクリエーション場と言えるだろう。

オデッサ港には貨物船が多数見え、観光用と思われる帆船も観察することができた。ガイド氏の説明によると、ソ連時代には黒海を巡る旅客船クルーズが存在したというが、ソ連が崩壊したことで黒海航路の多くが国際航路となって海上交通が分断されてしまったこと、 そして陸路や空路がメジャーになったことで、海路は廃れてしまったらしい。更に、港湾に石油化学工業の施設も見られ、オデッサが産業の中心であるという事も確認できた。ここの生産物は、鉄道によって北部の都市にある工場に運ばれていくのであろう。

このようにオデッサ港が繁栄している一方で、港湾設備の老朽化と更新の遅れも観察できた。ここから望める港湾クレーンは、そのほとんどが在来型の名り上げ式クレーンで、コンテナ用のガントリークレーンは少なかった。 ただし、このガントリークレーンが本格的に整備された港湾設備を港の西部で新たに建設中しており、コンテナ化への取り組みは進んでいるという。

この丘の上には数多くの歴史的建造物があり、私たちはその1つであるヴォロンツォフの宮殿の前を通った。この宮殿は、トルコ時代に要塞の中心である領主の館があった場所に1826年に建てられたもので、 社会主義時代にはソ連に接収され、ピオネールの本部である「子供の宮殿」として使われていた。現在は所有権が市に戻り、公式行事の時に使われるという。建物や広場は綺麗に整備され、港を一望できる観光スポットとして賑わっていた。

ヴォロンツォフ宮殿を通り過ぎて、崖に面した臨海通り(Primorskaya Boulevard)を進んでいく。オデッサ旧市街の直交路型の街路網の中で、この辺りだけが海岸線にそって、街路の方向が斜めになっている。 ここは並木のプロムナードで、1820年代にヴォロンツォフがパリ駐在の経験を生かしてその街並みを再現したものと言われている。現在のプロムナードは20年前のウクライナ独立後に再建されたもので、歩道やベンチが整備されていた。 通りに面した町並みには19世紀の建物が残っており、古代ギリシャ時代の発掘品の展示を行ったりするなど、単に憩いの場というだけでなく、オデッサの文化都市としての風格を醸しだしていた。ガイド氏によると、 かつてここは上流階級の人が行き交った通りで、パリを模した並木道は、やはり帝政ロシアの西欧への憧れを示す証拠と言えるだろう。

この臨海通りを進んでいくと、有名なポチョムキン階段、そしてその頂上にあるデ=リシュリューの銅像に達する。

リシュリュー像は19世紀に建てられたもので、当時流行していた新古典主義の影響を受けたためか、リシュリューはローマ人のような?装をしている。そして彼は海の方を向いて右手を差し伸べ、更に左手には、 オデッサを自由貿易港に認定すると書かれた巻物を持っている。彼の治世には認められなかったものの、自由貿易港認定への道筋を開いたリシュリューの功績が称されているのだ。彼は市民に近い統治者で、 よく市民の声に耳を傾けていたという。また、貴族でありながらオデッサの開発に私財を投じ、その暮らしはとても質素だったそうだ。このため、リシュリューに対するオデッサ市民からの人気は高く、市民に慕われた。 このため、女帝エカチェリーナを差し置いて、その銅像はオデッサの最も目立つ場所に配置された。また、ソ連時代にもエカチェリーナやヴォロンツォフの銅像は撤去されてしまったのに対し、このフランス人の銅像だけは撤去されることがなかった。

このリシュリューの銅像がある一角はリシュリュー広場と呼ばれ、広場に面した建物は現存するオデッサ最古の建物の一つで、ヴォロンツォフ宮殿の建設と同時期に建設されている。


現在、この名声ある建物に、Incor Groupという、ウクライナの新しい資本主義を象徴するようなディベロッパーの本社が入っている。


Incor Group

このIncor Groupは、列車の窓やホテルのそばからもその看板を観察できた企業で、1997年にオデッサに設立された。 いくつもの子会社を擁するこのグループの事業は多岐にわたり、新興富裕層向けの新しい住宅や商業施設、 歴史的な建築物の修繕、公共広場・交通インフラの整備まで、ありとあらゆる分野の建設・土木事業を行っている。 ドバイへの海外展開も行っており、最も成功した新興企業だと言えるかもしれない。



フィクションの虐殺が有名にしたポチョムキン階段と、活発なオデッサ港

この広場自体は、オデッサ随一の観光スポットであり、レストランや土産物売りがならび、観光客と思しき人々で賑わっていた。

広場から海の方に出ると、映画史に残るエイゼンシュタイン監督の無声映画 「戦艦ポチョムキン」 の、虐殺シーンのロケ現場となった階段がある。この映画は、 1905年のロシア帝国時代に戦艦ポチョムキン号で起こった兵士たちの反乱と、艦上で殺された主人公の水兵ワクリンチュクに対するオデッサ市民の共感、 そしてこれに続く虐殺を題材にしたものである。史実としてこの階段で虐殺があったわけではないが、映画があまりに有名になったので、階段にこの名がついた。

高台のオデッサ市街と港を結ぶこの階段は、1842年に完成した。上から見ると踊り場のみで階段が見えず、 下から見ると階段のみで踊り場が見えない、という工夫が凝らされている。更に、この階段は一見均等な幅に見えて、 実際は下に行くにつれて階段の幅が大きくなっており、これによって下から見上げると階段が実際よりも奥深く見えるという、 遠近法の仕掛けも施されている。建設当初は、この階段が終わるとすぐに船着き場があり、船からすぐに荷物を階段に揚げることができたのだが、 現在は階段を下りた正面には、オデッサ港の旅客ターミナルがある。この一帯は、観光客を相手にした土産物店や軽食売りなどがひしめき合っており、 階段の上よりなお一層賑わっていた。ただ、この辺には観光客を狙ったスリや置き引きがいるらしく、ガイド氏から注意を受けた。 それだけ外からの観光客が多く来ているという証なのであろう。

このポチョムキン階段の脇には、1906年 にできたケーブルカーがあり、近頃改修されたようで、かなり綺麗になっていた。 施設としては複線なのだが、訪問時は観光シーズンを過ぎていたためか、片方のケーブルカーしか動いていなかった。

私たちは、階段を降り、道路を横断してそのまま港湾の方に進んだ。オデッサ港は旅客ターミナルを中心に広がっており、 各施設は道路で結ばれている。鉄道の上を立体交差でまたぐ道路まで歩いて線路を見ると、多数の貨車が停まっていて、 オデッサ港から内陸への輸送は鉄道が中心になっていることが窺われる。港の中央部にあるターミナル周辺は、 港湾各地からの荷物の集積地になっていて、沢山のコンテナ貨車や鉄資材、鋼管、石炭などが置いてあり、全体として活気あふれる印象であった。 旅客ターミナル付近にはチキータバナナやサムスンの広告が掲げられ、中国、スイスの海運会社MSC、やオランダのTRITONなど世界各地のコンテナがあり、 オデッサの国際性を再確認できた。また、ターミナルの中には2001年完成のホテル、そして商業施設がある。



都市史の表象:市街に建つ彫像をめぐる社会集団間の対立

再び階段を上り、リシュリュー広場から階段の奥の方にまっすぐ伸びる道を進むと、 そこにはエカチェリニンスカヤ広場(Ekaterininskaya Square)がある。街路網は、ここだけ直交型ではない。 ポチョムキン階段から伸びる道が、直交街路に対し45度で斜めになってこの三角形の広場に入り込んでくるので、 直交する2つの街路とあわせて、この広場から、ちょうどパリのエトワール広場のように、三方に放射状の街路が 出ているようにみえる。しかも、直交する街路の一つを曲げて、直交街路が交わる角度を広げ、 3つの街路が等しく互いに約120度の間隔をおいて放射するように街路が設計されている。このような特別に設計された 広場の中央に、エカチェリーナU世と、彼女の足元にはオデッサの発展を支えたデ=リバス、デ=ヴォランら4人の像が、立っている。

この広場の像は、元々1900年にエカチェリーナ時代の陸軍大元帥アレクサンドル・スヴォーロフ(Alexander Suvorov)の 死後100周年を記念して建てられたものであったが、社会主義の時代になった1920年に一部破壊されて撤去され、 1965年にはここに戦艦ポチョムキンの兵士を称える像が建てられた。独立後の2007年、このポチョムキンの像は移設され、 エカチェリーナ2世の像が帰ってきた。ロシア皇帝のエカチェリーナ2世は、もともとこの地にいたウクライナ人を抑圧し、 ロシアの覇権を強めた人物ではないかとの批判もあったが、それでも都市オデッサの建設と発展に対するエカチェリーナ2世の功績は、無視できなかったのであろう。

像についての論争といえば、過激な親露派の人々がオデッサにスターリン像を再建しようという案もあった (当時のネット記事)。 ガイド氏によると、結局その案は市民の多くの反対で取りやめになったそうだ

都市建造環境の中に多数ある歴史的人物の像に囲まれて生活しているオデッサの市民にとって、どの像を建ててどの像を建てないかは、 都市生活の重要な一部をなす。像をめぐる、オデッサの親露派対独立派の間の論争は、ウクライナがおかれた東西対立の表明であると同時に、 市民が、オデッサの都市の表象を自分たちの公衆空間の問題として考える民主主義の意識が次第に定着していることを示しているのだろう。



修復されたウィーン様式のオペラ座に対峙する、ソ連時代の「英雄の壁」

広場と階段をひととおり視察したあと、私たちはリシュリュー広場にあるオープンカフェのようなレストランで ボルシチとパンを食べた。店内を見るに観光客風のお客が多く、パンが白パンだったことも考えると、やはり海外からの観光客を意識したレストラン名のかもしれない。

昼食後、私たちはさらにプロムナードを進み、観光ホテルなどを右に見ながら、議会広場(Dumskaya Street)に出た。この広場には現在市役所がある。 市役所の建物は、1830年に建てられた新古典様式の建物で、革命前は証券取引所として使われていた。よく手入れされた真っ白な大理石に、 ギリシャ様式の円柱、そして証券取引所に相応しく、ローマ神話の豊穣神ケレースと商業神マーキュリーが、オデッサの主要な産業である商業と、 その後背地で盛んな農業の繁栄を表象している。ローマとギリシャは西欧文明揺籃の地であり、オデッサにおける西欧への憧憬と当時の新古典主義の流行ぶりを表象している。

この広場には、ロシアの文人プーシキン(Alexander Pushkin)の銅像と、クリミア戦争時にイギリス海軍の軍艦から奪った 大砲のモニュメントもある。これらはいずれもロシア帝国時代のオデッサを偲ぶもので、これが市役所の目の前に置かれていることは、 オデッサの歴史に対する自負や誇り表しているのだろう。

また、オデッサの国際貿易港としての性格を表すものとして、市役所の近くには、世界中にあるオデッサの姉妹都市や 各国の主要都市の方向と距離を示した道路標識のようなモニュメントが立っていた。この付近はオデッサのなかでもかなり高級な地区で、 ドイツの領事館を見ることができた。現在のオデッサには、ロシアやトルコなど、そして東欧諸国の領事館が多く、 オデッサがこの地域の貿易において重要な地位を占めていることが窺える。

この地区でひときわ目立つのが、オデッサのオペラ座 である。このオペラ座は、1887年に当時世界で5本の指に入るオペラ座をめざして、 ウィーンの建築家によって建てられた。建築様式としては、前述の市役所と同じく新古典様式で、ギリシャのイオニア式風の柱や彫像、アーチなどが見られる。 彫像は、当時のハプスブルク帝国の流行をそのまま取り入れたかなり動的なもので、ルネサンスとの折衷様式を示している。 この建築に、音楽の中心であるオーストリアへの憧憬がはっきりと示されている。その後、オデッサを襲った数々の戦乱によって、この建物は度々?傷した。 ガイド氏によると、ソ連時代の?傷が特に酷かったという。ウクライナが独立すると募金運動が行われ、2007年に細部にわたる完全な修復が完了した。 このオペラ座は、ホテルの観光地図で一番初めに紹介されており、オデッサのランドマークの一つになっていることがわかる。 建物の周りはよく手入れされた公園になっており、多くの家族連れが見られた。

このように、オペラ座が、社会主義革命以前の西欧的な景観として、資本主義化の中で復活しているのと対抗するように、オペラ座の対面にあたる東側の広場では、 ソ連時代に栄誉を受けたウクライナ人英雄を称える「英雄の壁」というモニュメントが整備されていた。一方には軍事英雄を称える壁があり、 他方の「モーツァルト」という名のウィーン風小ホテルのすぐ横には、科学者をはじめ労働英雄として栄誉を受けた人々が大々的に称えられている。 モニュメントにはソ連の鎌とハンマーの国章が彫られた勲章が刻まれており、社会主義時代に対する憧れの気持ちが含まれているのは間違いないだろう。 ガイド氏によると、非軍人のモニュメントのほうは、私たちがオデッサを訪問する数週間前に設置されたばかりだという。



時代を超越し雑多な様式の建物がならぶ、折衷的なオデッサの建造環境

街の中心から少し内部に入ると、デ=リバス(コラムへのリンク)の名前を冠したデリバソフスカヤ通り(Deribasovskaya)がある。 これはオデッサ旧市街のメインストリートの1つで、そこから少し脇に入ったところにデ=リバスの像がある。像はこれまでのものと比べるとさほど大きくない。 シャベルと設計図を持っており、軍人よりも都市建築家としての性格を表している。彼の像はソ連時代に撤去されてしまったのだが、 独立後の1994年に今の位置に帰ってきた。やはり、実質的にオデッサを誕生させた人物であり、市民からの愛着が強かったのだろう。

デ=リバス通りから南に走るプーシキン通り(Puskkinskaya Street)で、私たちはコンサートホール (Odjesskaya Gosudarstvjennaya Filarmoniya)を視察した。このホールはオデッサ最大のオーケストラであるオデッサフィルハーモニー管弦楽団の本拠となっている。

元々この建物は、1899年に、当時オデッサの経済を牛耳っていたギリシャ人のための証券取引所として建てられたのだが、 革命後の1924年からはコンサートホールとして使われるようになった。社会主義時代には、古典音楽、バレエ、 オペラなど文化・芸術に潤沢な財政がつぎ込まれ、振興が図られていた。建物はアラブの影響を受けたヴェネチアゴシック様式で、 巨大な門や壁一面の幾何学文様、東方由来の黄道十二宮の装飾が特徴的である。これを設計したのは、オペラ座と異なり、 当時オデッサで人気のあったイタリア人建築家である。

このように、オデッサでは、西欧の本場では時代が異なって登場するさまざまな種類の建築様式が同時期にさまざまの建築家によって用いられ、 現在の混沌というほど雑多な建築が並ぶ街並みが出来あがった。これには、冒頭でも述べた、自由闊達かつ国際的でありつつ、 西欧への憧憬を常にいだきつづけたという、都市オデッサの社会的性格が影響していることは間違いない。

以上で私たちは旧市街エリアでの巡検を終えた。引き続き専用車で、南の郊外にある第411要塞守備隊記念公園へと向かう。



郊外の元別荘地フォンタン地区と、これと結ぶ路面電車沿線にできた社会主義住宅群

海岸沿いに旧市街をその外縁部に進むと、今までのような革命前からの建物が相変わらず見られたが、同時に、 今まであまり目にすることのなかった社会主義住宅も目に付くようになった。ここで多く見られたのは斜めの屋根や煙突、 ベランダ、スパイウィンドウなどを備え、頑丈な作りのスターリン様式社会主義住宅で、それ以外の社会主義住宅はあまり見られなかった。 これらは、旧市街が戦争で破壊されたため、その跡に建てられたものと思われる。真新しい高層マンションや新築したと思われる新古典主義風の住宅なども、 ところどころに見られた。

私たちの車は、両側に社会主義住宅が広がる、広いフォンタンスカヤ通りを南下してゆく。通りには、路面電車が走っている。 そこは、社会主義住宅の地区になる。そこにはスターリン様式にある余計な装飾をそぎ落とした、 フルシチョフ時代の箱型のもの、そして、緑地が多く、より高層で、色もカラフルなブルジネフ時代のもの、 などが見られるようになっていく。これらの社会主義住宅は、郊外の工場建設に合わせて作られていった労働者用住宅なのだろう。

やがて、大きな塀に囲まれ、今までの住宅よりも広大な敷地を持つ住宅も目につくようになった。ここは、フォンタン地区で、 旧市街手前の小と、先の大に分かれている。これらの住宅は、ロシア革命以前、オデッサの富裕層の郊外型別荘として使われていた。 ソ連時代には国に没収されて人民アパートや共産党員の別荘などとして使われていたが、現在はその一部を新興富裕層が買い取ったり立て直したりして暮らしているそうだ。 ただし、フォンタン地区には打ち棄てられた廃墟のような建物もみられる。新興富裕層の資金はこの町すべてを覆い尽くしているわけではないようで、オデッサ市街地の発展と比べるとかなり見劣りがした。

元々フォンタン地区は、オデッサとは別の町だった。現在も走る路面電車はオデッサとこの町を結んでいたもので、 リボフのように、郊外に社会主義住宅ができてから電車が延伸されたのではない。革命後、オデッサとこの町との間にあるすいた空間に、 大規模な社会主義住宅建設がすすんだ。そのため、現在では、オデッサとフォンタン地区に革命前の住宅が偏在し、 その間にまとまって社会主義住宅が集中的に建つ、という都市構造になっている。

フォンタン地区をはずれまで進むと、森になっている。この森では、ソ連時代にピオネールキャンプが開かれていた。



ピオネール

ピオネール(pioner)とは西側のボーイスカウトやガールスカウトに似た10〜15歳までの子供の団体である。 夏にはキャンプを開催し、1ヶ月近い集団野外生活を通して少年少女に社会主義教育を行った。 社会主義において子供の養育責任は国家にある、という思想が強く、ピオネールはその一環として行われたので、 当然参加費も無料だった。また、このピオネールには、共産主義をになうエリートを選抜するという機能もあった。 子供がここの活動で認められれば、将来、共産党や政府官僚などへの出世の道が開け、逆にここで上都合な行動をして評価が下がると、その後挽回するのは難しかった。

ピオネールキャンプは人々の間になかなか評判が良く、ソ連社会主義を批判してもピオネールキャンプを懐かしむ市民は多いようである。 ピオネールが解散した後の現在も夏に開催されているが、昔と異なるのは、民営化したため参加料(数千フリブニャ)がかかるということで、 期間は短くなり、しかもウクライナの物価からすればかなり高額なものになっている。



貧弱な兵器でドイツに特攻した戦争初期のソ連軍、兵器で遊ぶ子どもたち

私たちは、森の中にある第411要塞守備隊記念公園に到着した。この公園では、輸送用自動車に始まり、戦車や戦闘機、潜水艦まで、陸海空の兵器の実物が沢山展示されていた。

元々この公園は第二次世界大戦時のドイツ・ルーマニア軍によるオデッサ包囲戦を記録して作られたものだったのだが、 展示されている兵器で、実際にオデッサの戦いで使われたものは少なく、他の場所から持ってこられたものが大部分だという。 オデッサの戦いを記録するというより、兵器の展示によってソ連の軍事的威信を示す場所といったほうがよい。

公園の周りはベンチや売店、遊具などが整備されており、そこで幼稚園ぐらいの子供が遊んでいた。 戦争に対して忌避感をもつ教育を受けてきた私たちからすると、このような場所は子供の遊び場に相応しくないと思える。 だが、ソ連にとっては少々意味合いが異なる。戦勝国側にとって、第二次世界大戦は輝かしい勝利の歴史であり、 子孫に語り継いでいくべき誇りなのだ。国威発揚のために、戦争経験が利用されている。この公園の風景は、 敗戦国の私たち日本人と連合国構成国の人々との価値観の違いを意識させる出来事だった。

博物館では、オデッサの戦いについて職員の方が解説して下さった。1941年から始まった独ソ戦によって、 枢軸国側はソ連へ侵攻し、オデッサも開戦まもなくルーマニア軍に包囲された。陸・空の戦力はルーマニア軍に圧倒されていた。 展示されている兵器のうち、オデッサで実際に使われたものを見るとわかるように、ソ連軍の装備はきわめて貧弱だった。 スターリンはオデッサでの枢軸国との戦闘を全く予想していなかったらしく、準備がほとんどできていなかったため、 ありあわせを使って戦力の補強を図るしかなかった。

小型のI-16戦闘機は、対地攻撃に使用されただけでなく、これを使って敵への特攻が行われた。費用軽減のため脱出機を付けず、 敵に体当たりさせたのだ。第二次大戦末期の日本の神風特攻隊と同じやり方である。この軍務を拒否すれば、むろん重罰が待っている。 ソ連は兵士を大切にしないことで有名だが、特攻というと日本がまず出てきてしまい、この事実はあまり知られていない。 また、オデッサ戦車とも言われるNI Tankは、オデッサの戦いに備えて耕運機に装甲を被せて作った即席のお粗末な車両である。 ただし、この戦車はさすがに実際の戦力としては役に立たず、専ら敵への威嚇用に使われた。 さらに、普通の路面電車と全く変わらない電車が、市民ではなく兵士を乗せて走り、大砲を牽引した。 使えるものは何でも使うという、当時のオデッサのなりふり構わぬ様子が窺える。

ただし、海軍は枢軸国側が貧弱だった。このため、オデッサの陸軍は海からの支援を受けることができた。 海軍は、軍艦から艦砲射撃も行ってオデッサの街を支援した。その結果、オデッサは73日間の籠城戦にもちこたえ、 結局陥落したものの、夜陰に紛れて撤退し、兵員や物資のほとんどは船でセヴァストポリに逃れることができた。

そして1944年にオデッサは枢軸国からソ連に奪回され、「大祖国解放戦争」の英雄都市として、その栄誉を称えられることとなった。

こうしてオデッサの戦いを見てみると、スターリンが独ソ戦に対する備えをいかに疎かにしていたかが分かる。 それを美化するためか、他の場所から兵器を持ちこみ、オデッサの戦いがいかに充実したものだったか、見せかけているのだ。 しかし、独立後には政府の管理が甘くなったのか、展示してある兵器の汚れや所々に捨てられたごみが目立っていた。



ドイツ人が入植した地区を通って、ホテルへ戻る

戦争公園を視察後、私たちはホテルへと戻ることにした。

郊外に来るときは海寄りの道だったが、帰り道は内陸寄りの道を通った。そこは行きの道よりも建物が密集しており、 道路も広かった。確かに建物自体は多いのだが、一見したところその整備は行き届いておらず、社会主義住宅も普通の住宅もかなり古びたものだった。 しかし、ガイド氏によると、社会主義住宅はブルジネフ時代のものが多く、外見はボロボロなのだが中身はしっかり改装され、 中所得層の人々が暮らしているそうだ。この点で、外装にはこだわらず中身の機能を重視する中所得層と、新しいものを好み、 建物の外観にこだわる顕示的な消費行動をとる新興富裕者層との違いが分かる。

私たちが通った街路の名前は、昔この地域にあった村に因んで、リュースドルフ通り(Lyustdorfskaya Street)いう。 これと全く同じ地名(Rusdorf)がドイツにもある。エカチェリーナ時代の入植政策によって、この地域にドイツ人が多く住んでいたことの名残だ、 とガイド氏が説明した。しかし、ソ連時代になると、そこに住んでいた人々のほとんどが中央アジアに強制移住させられてしまった。 スターリンが彼らとナチスドイツの関係を疑ったことが原因だそうだ。現在でもキルギスやカザフスタンにドイツ系住民の集落があるのはそのためである。



豊富な在庫、英語の本もある大型書店

ホテルへ帰る途中で私たちは、参考資料入手のため、本屋に立ち寄った。この本屋は2階建てのかなり大きなもので、 絵本や小説、学術書まで幅広い種類の書籍が揃い、オデッサの文化の高さを物語っていた。私たちにとってありがたかったのが旅行ガイドと地図のコーナーで、 英語のものも数多く揃っていた。やはり、再び国際都市となってきたオデッサでは、英語で書かれた本の需要もあるのだろう。

ホテルに戻った私たちは、少し休息して、ガイドブックに載っていたウクライナ民族料理店「Kumanjetsei Rjestoran」向かった。 この店は「ウクライナの農家」をコンセプトにしたレストランで、店内は農家のような装飾、ウェイトレスはカルパチア地方の民族衣装を着ていた。 そこで私たちは、ホルブツイというロールキャベツの中にライスが入ったウクライナ伝統の家庭料理や、クバスというロシアやウクライナに伝統の飲料をいただいた。 雰囲気も味も良かったが、値段が少々高かった。

食事を終え、ホテルに帰る途中、プレオブラジェンスカヤ(Preobrazhenskaya)通りにあったスーパーマーケットで、 買い出しをした。このスーパーマーケットは外装が新しく、扱っている品物の生産国を調べてみると、EUやロシアからの物が多い。 おそらくこの店は、日本でいうと「紀ノ国屋」のような、富裕層向けなのだろう。ただし、旧社会主義国からの輸入品も多かった。 これは旧社会主義国で、独立阻止という目的もあって、国ごとの分業が進み、社会主義諸国間の産業連関が緊密だったことに由来する。 それが現在の旧社会主義国における各々の特産品に繋がっている。店は夜遅かったにもかかわらず、かなり混雑していた。

帰り道、日本料理店のような店を見つけた。だが、店名や雰囲気がどうにも日本らしくなく、メニューを見てみても日本料理に混じって 中国やヴェトナムの料理が多かった。日本人でない経営者が日本料理店と名乗るものを開くほど、オデッサでは日本料理に関心が集まっているということだろう。

こうしてホテルに戻り、オデッサの学習を終了した。



(堀越 亮)