早朝6時15分、私たちはHotel Palermoを出発した。今日はいよいよ、ウクライナに入国する。先ずはニーレジハーザ市内の南西に位置するニーレジハーザ駅(Nyiregyhaza vasutallomas)に向かうべく、ホテルを出てセーチェーニ(Szechenyi)通りを西に歩きだす。
ニーレジハーザの都市構造は、中世に起源をもつヨーロッパ都市のそれと同様なものである。町の中心には昨夜訪れた広場が位置しており、そこには教会や重要な行政機能が集まっている。その広場を中心にして周りには網目状街区が存在する。これはオーストリア-ハンガリー帝国時代に建設された。この街区を囲む形で、楕円に環状道路が走っている。一般に中欧の都市では、中世時代の城壁に沿ってこのような環状道路が走るが、ここの環状道路はかなり大きいので、後の時代につくられたものと推測される。この道路の外側、特に西から南にかけては現在工業地帯が広がっている。その更に郊外には、社会主義住宅と思われる大きな建造物が多数存在するマロムカート(Malomkert)や、住宅と思われる小さな建物が無数に隣接している区域であるカートバロス(Kertvaros)がある。市の中心から年輪のように異なる性格を見せている街である。
セーチェーニ通りには、昨晩と違って歩行者もまばらに見られ、バス停には早朝から多くの通勤客が待機していた。通りにアジア人は見当たらなかったが、通りには「倚君快餐(いくんかいさん)」との漢字表記の看板を掲げた中国のファストフード店があった。
ニーレジハーザ・バスターミナル(Buszpalyaudvar Nyiregyhaza?)の方向に走る市内路線バスを、駅までの15分間に4.5台発見した。駅に近いターミナルには、6台バスが止まっていた。この一帯の交通のハブとなっている。
ペチョーフィ(Pet?fi)通りとの交差点で南へまがって歩いて行くと、ホテルから15分くらいでニーレジハーザ駅に着く。二階建てのこの駅舎は、白を基調とした近代的つくりをしている。入口はガラス張りで日が差し込んで構内は明るく、床は白のコンクリートタイルがひかれていて清潔感がある。利用者は私たちの他に駅構内に30人程度みられた。
ホームは地下通路で移動するものも含めて4つ、線路は6つ敷かれていて、かなり広い。二階は、売店コーナーと思われるフロアだったが、まだ朝早く、開店してはいなかった。
構内にある大きな電光掲示板を見てみると、この時間帯には列電車は朝から数分という高頻度 で行き来している。殆どの列車はハンガリー南西部の町セメリー(Szemely)が始発となっている。
ハンガリーからウクライナに入国するには、国境のザホニー(Zahony)駅にまず向かい、そこで、ウクライナのチョップ(英語:Chop, ウクライナ語: Чоп,ハンガリー語:Csap)駅行きの、1駅区間だけを走る国際列車へ乗り換えることになる。ここからチョップまでの切符は、一人2等で400フォリント(≒145円)。ザホニー行きの列車は06:30から07:14までの40分で3本走っており、鉄道輸送への需要が高いことがわかる。
駅舎をでるとすぐそこがホームになっていて、私たち乗る列車が停まっていた。ホームが低く、地面と段差なく線路が敷かれているため、階段を使って車両に乗りこむ必要がある。
車両に見える逆向きのcに二重線が引かれたマークは、列車を運営しているハンガリー鉄道(MAV-START 略称MAV)のロゴである。
午前6時48分、列車は定刻通りに出発した。青色をした列車の構成は、電気機関車と3両の客車からなる。客車は、窓際に一人しか通れない幅の通路が一本あり、その通路に面して計10部屋あるコンパートメントに入るという構造である。あまり新しい車両とは言えないが、車内は清潔に清掃されていた。
出発して暫くは民家が続いていたが、15分程走ると、辺りにはトウモロコシ畑が広がった。トウモロコシは枯れており、辺り一面茶色である。耕地面積はかなり広く、雑草も生え放題で粗放的だ。農地間に明らかな境界は見られず、社会主義時代の集団農場の名残が感じられる。トウモロコシ以外には、計画的に植林された平地林が目についた。区画によって高さや太さが整っているので、商用木材としているのかもしれない。駅と駅の間には、畑のほか、集落が1、2点在している。また、廃墟のような工場が幾つか見られたが、社会主義時代に稼働していたものであろう。
途中から列車に、小中学生ほどの子供が多く乗り込んできた。皆珍しげに私たちを見ている。近寄ってきた女の子に話を聞いてみると、通学中であるという。車内の掲示物には英語やウクライナ語は見られないことを考えても、この路線は、現地住民の通勤・通学列車として、地元に密着して活用されているとわかる。
路線をニーボクダニー(Nyirbogdany)、ベルケス(Berkesz)と進んでゆく。アヤク(Ajak)などニーレジハーザから距離のある途中駅は、鉄道から降りる部分が舗装されているだけで、駅舎も雨よけのみという常に簡素なつくりである。
キシュバールダ(Kisvarda)の郊外に近づくと、民家が増えはじめた。農産物のサイロ、工場、その生産物を輸送するのであろうドイツ物流企業VTGやオーストリア資本系列のRail Cargo Hungariaの貨車、タンク車が見られる。道路の脇には、多くの商業広告が出ている。踏切には、列車待ちをしている車の長蛇の列が出来ている。キシュバールダ駅に停まると、車内の生徒達が一斉に降りていった。この町は、この地域の中心地だとわかる。
キシュバールダを出て少しすると、列車はコモロ(Komoro)という寂しい駅を通った。ふと、新幹線駅の誘致に失敗し、すっかり寂れた日本の同名の都市を思い出した。
午前8時05分を過ぎる頃、列車は国境駅のザホニーに近づいた。駅舎は、今までとは違って立派な二階建てである。線路が増え、貨車が数多く停まっている。駅には3ホームあり、それぞれ利用客が多く歩いていた。ウクライナとEUとの間の、ザホニーを通じたのヒト、モノの移動が活発なことを窺わせている。
現在でこそザホニー駅は国境の駅となって、隣接のウクライナやルーマニアとハンガリーを結びつけているが、この国境は、オーストリア-ハンガリー帝国が解体された第一次大戦後に出来たものにすぎない。かつてはこの先も、カルパチア山脈の稜線までハンガリー領であり、鉄道もハンガリー国鉄線だった。駅舎内には、これから私たちが向かうウングヴァールUngvar(現在はウクライナの都市ウジゴロド)とキシュバールダ間が開通して125年目であることを示す1998年の銘板や、カレイ(Nagykaroly 現在はルーマニア領)-ザホニー-チョップ間が開通して100年であることを示す2005年の銘板が展示されていた。この国境駅の先も、本来はハンガリー領のはずだという意思が、さりげなく示されている。
駅舎内にある電光掲示板には、ハンガリー語の他に英語、そしてキリル文字での列車行先表記が見て取れた。ウクライナがいよいよ近くなってきたと知り、気持ちが高ぶる。
私たちの中には、巡検前にEUの他の国で買った土産物を持っている学生がいた。EU加盟国を出国するところの税関で正規の手続きを取れば、一旦払った消費税の還付措置を受けることが出来る。係員に税関の場所を聞いたところ、駅舎から離れた場所にある。8時:15分の、ウクライナのチョップ行き国際列車の出発が迫っていて、これを逃すと次の列車は二時間後である。泣く泣く税の還付手続きを諦めた。
ウクライナはEU加盟国でもシェンゲン協定加盟でもないので、ハンガリーからの出国審査がある。その審査は、駅舎内ではなく、ホーム上で行われた。客車のドアの前に待ち構えている出入国検査官二名にパスポートを提示すると、すんなりとパスポートにスタンプを押してくれた。これで出国審査終了で、係官の背後にある列車にあっさり乗り込むことができた。検査官に英語やドイツ語は通じなかったが、ロシア語は通じた。空港の出国検査ではパスポートをスキャンされるが、ホームの出国審査では、当然スキャンする装置や端末の通信機能はない。係官がその都度データを照合して出国させているかは怪しく、厳しい出国審査でない。
たった一駅区間だけの国際列車は、ディーゼル機関車と客車二両の短い編成で、ゆっくり走りはじめた。車内には、私たちの他に、孫連れと思われる老夫婦や、10人程の個人客が利用していた。走り出して5分程経つと、地面には今まで走っていたものより線路の幅が広い広軌の軌道が加わって、レールは4本になった。この川から東がソ連領になった時、ソ連は、すべて欧州規格の標準軌をロシア規格の広軌に改軌したのである。
トカイから流れ来るティサ川を架ける鉄橋を過ぎると、ウクライナの国旗の色である青と黄色のポールが立っていた。鉄橋の川が国境で、ここからがかつてのソ連、いまのウクライナとなる。国境線は、シェンゲン協定のもとにあるハンガリーとスロバキアの国境とは違って、鉄条網で明確に防衛されていた。列車はここで一旦停車し、迷彩服を着て銃を装備した兵士が乗り込み身、車内巡回をはじめた。カメラを出していると「no camera!」と厳しく注意され、私たちは撮影を断念せざるを得なかった。EU諸国どうしの友好的な国境とは違う雰囲気に、否が応にも緊張感が走った。
列車は、ソ連時代には東欧社会主義国との友好を謳い「ドルジバ」と呼ばれていたチョップ駅のホームに滑り込んだ。降りると、目の前の建物が直ぐに入国審査場になっていて、乗客たちは皆、その建物の中に吸い込まれていく。
入国審査は、列車内ではなく、空港のような、係官が座るブースの前で行なわれた。ブースは2つあり、審査を受けるため、乗客は二手に別れた。並んでいると、麻薬調査のための大きな犬が連れられてきて、私たちの荷物の近くを歩く。入国審査はパスポート見せるだけでよく、質問されることもなかった。
次は、税関審査である。ソ連時代のような税関申告書は必要なくなっていたが、荷物検査は入念だった。鞄の中を開けさせられ、これは何かいちいち尋ねられた。ドラッグの持ち込みに厳しく、日本から持参した常備薬について、細かく質問を受けた。X線照射による検査は存在せず、荷物検査をパスすると入国完了である。とくに検査でひっかかった学生はいなかったので、一人10分程度の入国検査であった。
ウクライナに入国して、時差が一時間発生する。ウクライナ時間で午前9時45分に時計を合わせた私たちは、チョップ駅舎のコンコースに入った。
ガランとしたコンコースで、本日私たちをガイドして下さるバレーリー・シェフチェンコ氏の出迎えを受けた。コンコースには、ソ連時代の1985年に製作された巨大な壁画がひときわ存在感を示している。この壁画を題材に、ガイド氏が、ウクライナの歴史について早速説明してくださった。
壁画の描写は、4つのセクションに大別されている。
まず
一つ目は、ウクライナ内乱(Civil War 1917-1921)の戦闘シーンの描写である。帝政ロシアの一部であったウクライナでは、第一次世界大戦とロシア革命をへて、ドイツやフランス、白系ロシア人(帝政ロシアの残党)、ソ連のボリシェヴィキ、そしてウクライナ人による独立を目指す勢力等が入り乱れた内戦状態にあった。そんな中、ソ連のボリシェヴィキが各勢力を押しのけて「ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国」を建設し、ウクライナの地にソ連が根を下ろす。その様子を描いたものである。
二つ目は、第二次世界大戦の描写で、ドイツを意味する鷲が描かれた旗を踏みにじり、武器を高く掲げる兵士が描かれている。ソ連がナチドイツの侵略を防ぎきって、第二次大戦に勝利したことを強調している。
三つ目は、宇宙飛行士や科学技術者、そして勤勉に働く労働者の描写で、先進的科学を応用した工業を経済の基礎に据えるソ連社会主義経済のあるべき姿を示している。スプートニクの成功にみられる先端技術開発をもとに、炭砿や製鉄関連と思われる労働の様子を描き、労働を基礎に無限の未来につながる社会主義の理想を象徴している。
四つ目は「平和」と書いたプラカードを持つ人々のデモや、子供が鳩と戯れる描写である。制作当時は冷戦の只中であり、平和を希求する勢力としてのソ連をアピールしている。
ウクライナの鉄道は国営であるため、ソ連社会主義の栄光を示す目的で製作されたこの壁画がチョップ駅に全くソ連時代と同様にありさまで保存されているのは、ウクライナ政府の何らかの意向があると考えられる。壁画の撤去コストがかかるという理由もあろうが、私たちは、この壁画に、ここからがかつてのソ連だとあらためて感じ、いまもウクライナにいぜん強く残る、旧ソ連との強い連続性を求める勢力が存在することを知った。
壁画の説明を終えると駅舎を出て、私たちは専用車に乗り込んだ。すぐ右に、チョップの旧駅舎が見える。車は、チョップの街を抜け、ハンガリーに通じる幹線道路に向かった。
不便なことに、チョップ駅には両替所がない。そこで、私たちはまず、両替所が併設してある国境付近のガソリンスタンドに立ち寄った。両替所では、米ドルやユーロの他、国境を接するハンガリーのフォリントも扱っている。ここの両替所は少々杜撰で、レシートを発行しない。このため、その場で両替された金額が正確か確認しないとならない。私たちのうちの誰かの両替が誤って多く払われ、後で差額の返金を求められた。だが、レシートがないため結局分からずじまいになった。誤って少なめに支払われることもあるのだろうが、その場合は、窓口に戻って抗議しても、むろんとり合ってもらえないだろう。
ガソリンスタンドに併設のレストランで、私たちは朝食をとることにした。ウクライナに入国し、旧ソ連のすすけて荒れた雰囲気を想像していた私たちは、このレストランの市場経済的景観に、早速裏切られることになった。白で統一されたソファや床のタイルと照明、黒に塗られた木製のテーブル、朝日が差し込む明るい店内は、西欧のお洒落カフェのようである。ここでは、フランスやイギリススタイルと称して、オムレツやハム&エッグがメインで売られていた。メニューはどれも10〜20フリヴニャ(≒100〜200円)と、物価は日本や西欧に比べ圧倒的に安い。店員は英語を話さずメニューに英語表記はなされてないため、ガイド氏にキリル文字を読んで頂いて注文ができた。だが、道路標識を見ると、EUに近いここではキリル文字とラテン文字が併記してあった。
食事を済ませ、ウジゴロド(Ужгород)市街に向け走る。沿道には、平屋建ての小規模民家が建ち並んでいる。ウジゴロドの郊外に入り、ミナイスカ通り(Mynais'ka Blv.)に入ったあたりから、五階建てやそれ以上の高層で、かつ外装は無機質なビル群が目につくようになった。ガイド氏は、これらの建造物を指して、社会主義時代に建てられたものだと言いながら、その由来をウジゴロドの歴史を交えて教えてくださった。
ウジゴロドを含むウクライナのザカルパチア州(Zakarpats'ka Oblast)は、第一次世界大戦まではハンガリー領であった。1919年に、オーストリア・ハンガリー(ハプスブルク)帝国解体により新たに誕生したチェコスロヴァキアの一部に編入されたが、ナチドイツや日本と同盟し枢軸国に加わったハンガリーが、1938年に奪回する。だが、第二次世界大戦で時ドイツは次第に劣勢となり、1944年にはソ連がザカルパチアを占領し、その後ソ連領に組み込まれた。1991年、ウクライナ独立とともにウクライナ領となって、現在に至っている。
このような、4つの国に入れ替わり支配されてきた歴史を背景に、ウジゴロドの市街地は、大きく三つに分けられる。第一に、北の丘陵に中世以来のハンガリー支配の影響を残す部分、第二に、ウジ川(Uzh Richka)北側の平地にあるチェコスロヴァキア支配時代の商業・行政中心、そして第三に、ウジ川南側の、ソ連が社会主義時代に開発した部分である。
私たちが見た建物は、ウジゴロド市街のうち、ソ連が社会主義都市として開発した第三の部分にある。ガイド氏によると、これらの高層建築は、フルシチョフ時代にできたもので、機能重視の質素な作りが特徴であるという。このソ連地区には、フルシチョフ時代の社会主義住宅や、それを改築して利用している建物が幾つも建っている。ウジゴロド駅も、このソ連が開発した地区に立地している。
ミナイスカ通りを北進すると、スホボディ大通り(Prosp. Svobody)との交差点に出る。この交差点の広場が、ソ連地区の中心にあたる場所で、10年ほど前にできた、真新しい青い屋根のロシア正教の救世主キリスト教会(Xram Xrista Spasitjelya)があった。ソ連地区には、古い建物ばかりでなく、最近作られたらしいガラス張りという近代的作りをしたホテルもあって、ウクライナが市場経済になってから発達した都市機能の受け皿ともなっている。
私たちの車は、交差点で進路を北西に変え、てスホボディ大通りに沿って走る。すぐにウジ川の橋を渡り、正方形の広場を目の前にした石造りのザカルパチア州庁舎が現れた。 なお、このチェコ地区、ハンガリー地区については後述する。
11時30分頃、ザカルパチア州庁舎についた。これは、チェコスロバキアが建設した官庁建築で、この地区が、チェコスロバキア時代にはカルパチア地域の行政中心をなしていた。この建物は、現在もその行政機能を維持している。
会議室は5階にある。そこに行くのに、前代未聞のエレベーターに乗る経験をした。二人乗り程の小さいカゴが、絶えず昇り降りしているのである。停止ボタンはなく、カゴは止まることがない。このため、利用するには、タイミングを見定めてカゴに飛び乗る必要がある。タイミングを失うとどうなるか…。少々安全性に難があるが、とても珍しい。
五階に無事降り立つと、私たちは会議室に通された。ここでの私たちの目的は、前日訪れたコシチェやモルダヴァと同様に、カルパチアユーロリージョン内にあるここウジゴロドで、どのような越境地域経済協力がなされているか、そしてウジゴロドにある経済特区の政策について伺うことである。ザカルパチア州への投資を振興し、また案件に許認可を与える権限をもつザカルパチア投資センターの局長デューシマン氏、ザカルパチア投資センターのディレクターであるフェイエル氏、そしてザカルパチア地域の投資、外交担当者のヴァシップオヴィウ (Vasip’oviu)氏らが、対応してくださった。
ザカルパチア州は128,000km2の広さを持ち、1,245,5000人の人口を抱える。土地の80%が山地であり、215の自治体を州都ウジロドが統括している。ポーランド、スロバキア、ハンガリー、ルーマニアとそれぞれ52km, 97km, 153km, 203kmの国境線を共有し、これらの国境線は、自動車やバイクで渡れるようになっている。ザカルパチア州には、主にウクライナ人、ロシア人、ハンガリー人、スロバキア人、ルーマニア人が住んでいる。
続いて、ザカルパチア州への投資実績について。現在、51の国が年間3億5千万米ドルの投資を行なっている。2011年の統計によると国別では日本が4,500万米ドル、アメリカが4,480万米ドル、オーストリアが3,860万米ドル、ドイツが3,620万米ドル、ボーランドが3,220万米ドル、イタリアが2,890万米ドルとなっている。日本が大きいのは、後に私達が視察する矢崎総業という日系企業の工場 がウジゴロドに進出しているためである。
近年に大型投資を行った企業として、日本の矢崎総業やオーディオ機器のJVCケンウッド、オーストリアの総合スキーブランドとして有名なフィッシャー(Fischer)、ノキアやサムスン等の電子製品メーカーに半導体回路を供給するアメリカのジェイド電子(Jade Electronics)やジェイビルサーキット(Jabil Circuit)、を挙げてくださった。
投資額の推移について、 1995年の3,500万米ドルから始まり、2004年の6億7,000万米ドルまで、概ね右肩上がりに増加した。その後リーマンショック、欧州危機をへて2009年には1億7700万米ドルまで減少したものの、直近は2010年に1億7400万米ドル、 2011年は3億800万米ドルであり、2012年度は上半期時点で3億米ドルの投資がなされるなど上昇基調にある。
投資の部門別内訳としては、建物の建設が76.2%、輸送が8.5%、農業が5.5%である。投資の流輸入が流出より大きく、この差額は年々拡大している。以上のように海外からの直接投資を受け入れている。EUとの国境に接するウクライナのこの地区が、EUの外縁として、平均月賃金が230ユーロという、ウクライナの低廉な労働力の活用を目指し、欧州を中心とする海外から投資を誘致する成果をかなり挙げてきたことがわかる。
ザカルパチア投資センターが投資を誘致するための施策を説明してくださった。まず、投資家に対して、その所有権を保証する法制度をつくり、投資家が安全に資本の投下、回収を行える環境を整備した。その結果、ザカルパチア州において投資家はその財産がEU諸国と同等に保証されるようになった。また、土地取得で海外の企業が困難を感じないよう、立地を決めればすぐに工場を建設できる工業団地を整備している。現在は機械工業、運送業、建築機械工業の誘致を目指して、輸出の便を図って国境付近に5つの工業団地を整備中である。例えば、スロバキア、ハンガリー、ウクライナの3国が接するソロモノヴォ(Solomonovo)地区に40haの自動車工業団地を整備している。現在は、キエフの中央政府に、物流の税金や、現在20%である社会税の減税を働きかけているという。
私たちは、カルパチアユーロリージョンという枠組みにおける投資促進に関して質問してみた。前日スロバキアで、EU側のカルパチアユーロリージョンに参加する自治体がウクライナとの協力に積極的でなく、ウクライナを除外して活動しようという動きを示したことと呼応するように、ウクライナ側でもカルパチアユーロリージョンに関連した動きは少ないという。ザカルパチア投資センターが関与する海外投資誘致案件は、同センターが単独で扱っているものであり、カルパチアユーロリージョンがこれに協力して誘致したわけではない。カルパチアユーロリージョン参加自治体との共同プロジェクトは、産業案件ではなく、ハンガリー人やスロバキア人少数民族が住む山間部の村落に対して、ハンガリー政府やスロバキア政府が病院や学校建設といった社会的投資案件として62件存在するが、これも、ユーロリージョンとしての取組みではないということだ。しかも、これらの案件への予算は、少ししか割り当てられていないという。昨日の話とあわせ考えると、カルパチアユーロリージョンという越境経済協力は、もはや有名無実であることがはっきりした。
以上で、プレゼンテーションと質疑応答は終わった。海外投資家への説明、アピールも行う投資センターというのに、プレゼンテーションや質疑応答は、ウクライナ語スライドとウクライナ語のみで、英語では行われず、英語を使った資料も配布されなかった。しかし、私たちとの1時間余りの会談にたいして3人の管理職と、2人のアシスタントが時間を割いて頂き、丁寧な応対をしてくださった。ザカルパチアは多民族多文化で開放的マインドをもつと仰っていたが、そのホスピタリティは東洋の日本から来た私たちに対しても分け隔てないものであると感じた。
州庁舎を後にした私たちは、そのまま庁舎のすぐ側にあるウジゴロド国立大学に向かった。社会主義住宅のような外観が物語るように、この大学はソ連時代の1945年に建てられた国立大学である。入口正面には、ソ連の雰囲気を醸し出す壁画が飾られていた。私たちはこの大学で、経済学部の教授ならびに学生と交流する機会を得た。
まず、互いの大学を紹介しあった。経済学部銀行学科のダンキフ(Volodymyr Dankv) 講師によると、ウジゴロド国立大学は3研究施設、14学部、1万2千人の学生を擁する。私たちが訪れた経済学部が中でも名門で、10人以上の教授と15人以上の准教授が研究し1,400人が学ぶという。経済学部には経済、財政、会計、銀行業務、経済理論の5つの学科がある。課外活動ではスポーツも盛んで、バスケットボールはウクライナ屈指の強さを誇るという。ウクライナ語のみではあったが、大学紹介、会計部門紹介の冊子を頂いた。
次に、女性教授の方が、ウジゴロドの地域経済について簡単に紹介してくださった。成長分野として、機械組立、電子製品、農業、観光が期待される、と仰った。
ウジゴロド大学では、一橋大学との交換留学等を見据えた協力を将来的に行うことを期待しているようであった。ウジゴロドと日本というと接点が非常に少ないと思われるが、ウジゴロドでも見られる桜や日本車といった共通点を引き合いに出しながら、暖かく歓迎して頂いた交流に、笑いも多く、楽しい時間が過ごせた。
私たちは、再びウジ川を渡ってウジゴロド市街を南下した。目的地は、郊外のミナイ (Minay)地区に作業場を構える、矢崎総業のウクライナ工場である。郊外に出ていくに連れて、再び戸建ての民家が矩形の街路ブロックをなす景観となった。ガイド氏によると、これらの戸建て住宅はソ連時代に建てられたもので、社会主義住宅建設が間に合わなかったため、住宅への不満を和らげるため、土地だけ提供し個々人に建てさせたものだという。矢崎総業の工場は、ウジゴロド駅から直線距離2km程の、この住宅地に立地していた。
駐車場に専用車をとめ、セキュリティーチェックを通過して工場に入る。入口の前には、5本の旗が掲揚されていた。入口から見て左から、矢崎総業、ウクライナ、日本、EU、そしてISOシリーズを取得したことを示す旗である。
工場建物に入ると、正面には、矢崎が2003年にウジゴロドに進出したことを報じる記事や、工場の操業開始式典に当時の首相クチマが来たことを示す銘板が飾られていた。矢崎総業のザカルパチアへの工場立地は、ウクライナが西側資本を誘致する大成功例の一つであったのだ。また、矢崎総業の重役の写真、そして竹とともにその信念である「功」の漢字が壁に貼り付けてあり、この工場が日本企業のものであることを示していた。
受け付けの方に会議室に案内され、財務部長であるザビジオン(Igor Zavision)氏と人材部長であるバクラギナ(Natalia Baklagina)氏から、矢崎総業の事業とウクライナ工場についてブリーフィングをうけた。
矢崎総業は自動車関連部品の製造メーカーで、その生産物の87%が、ワイヤーハーネスを主とした自動車関連部品である。ワイヤーハーネス(Wire Harness)とは,自動車の車内で電力と制御信号を伝える電線や情報回路をまとめた、電線や情報回路の束である。矢崎総業は、全世界にその製造工場と販売網を拡大する多国籍企業で、アジアを矢崎日本が、欧州を矢崎ヨーロッパが、米大陸を矢崎アメリカが、そしてオーストラリアを矢崎オーストラリアが担当する。その四つの拠点が各地域内の支店、工場を統括し、世界40ヶ国に200拠点を有する。顧客は、GM、フォード、クライスラー、オペル、スズキ、本田、トヨタ、マツダ、三菱、いすゞ、日産、ダイハツ、BMW、ボルボ、アウディ、ベンツ、プジョー、ルノー、アルファロメオ、フィアット、ジャガー等、世界中ほぼ全ての自動車メーカーに及び、そのワイヤハーネスは、世界で33%のシェアを占める。
クライナには、2003年に矢崎総業の工場が設立された。従業員数は景気変動によって前後するが、2012年8月時点での1,345人を抱える。直接雇用が1,021人、間接雇用が236人、男性3女性7の比率で、平均年齢は30歳となっている。従業員の国籍はウクライナやハンガリー、ロシアが多い。52平方mの土地の分配は建物が23.6平方m、製造フロアが16.166平方m、倉庫が15.13平方mとなっている。
矢崎総業は、もともとスロバキア東部のミハロフツェ(Michalovce)に工場を立地させていた。ウクライナ工場は、ミハロフツェ工場の分工場のような位置づけで、親工場から多面的にアドバイスを受けている。経営陣の一人はスロバキア人であり、ミハロフツェ工場から熟練した労働者を招聘してウクライナで指導させている。
矢崎総業の企業組織内では、ウクライナ工場はドイツのケルンにある矢崎ヨーロッパに統括されている。戦略的決定は矢崎ヨーロッパが行い、ウクライナ工場の管理職の研修は矢崎ヨーロッパで行われるという。つまり、この矢崎ウクライナ工場は、旧ソ連の一部としてではなく、EUの外縁というはっきりした位置づけで運営されているのである。
矢崎総業がウクライナに工場を立地させた要因は、ザビジオン氏によると、まずウクライナの低賃金である。EU内においてポーランドやハンガリーなどの旧社会主義諸国は西欧諸国に比べて一般に低賃金で、ドイツなどから製造業の投資を引きつけているが、ウクライナは、そのハンガリーと比較してもさらに40%低いそうだ。賃金水準は労働市場を睨んで決め、現在は月230ユーロ前後であるという。立地要因としては、ウクライナ政府が主導する経済特区を利用する狙いもあり、投資家は特別の税控除を受けられるという。
ザビジオン氏によると、この工場は、今は専らフォルスワーゲン(VW)のサプライヤーとなっている。だが当初は、米国アのGMとフォードのサプライヤーであった。そういえば工場のエントランスから会議室への通路には、GMが矢崎を優秀サプライヤーとして表彰した賞状が掲示されていた。ザビジオン氏は、矢崎がウクライナのウジゴロドに工場を立地させた背景に、このようなアメリカ自動車メーカーの意向の存在を示唆していた。矢崎が扱うワイヤーハーネスという製品は、車という最終財を生産するための中間財であるしたがって、矢崎総業の経営戦略もさることながら、外資の世界的サプライチェーン戦略の一環として、この地に立地することを外資から指示された線が強い。
矢崎総業は企業毎に製造工場を決めている。このウクライナ工場は、VWロシアとVWスロバキアに製品を供給しているそうだ。日本の自動車メーカーはルーマニアとトルコの工場が担当し、例えば矢崎トルコが本田に対してワイヤーハーネスを供給している。
労働者について、新人の職業訓練は、まず2週間の知識教育が行われ、試験を通過すると製造ラインで更に2週間の実習訓練をうける。その後最終試験を合格した者は製造ラインで働くこととなり、その後OJTで学びながらより専門的な試験をうけていく。雇用契約を毎年更新するわけではなく、専門試験に不合格となったり、重大なミスを犯したりしなければ終身的に雇用される。ただ、女性従業員が7割を占めている事情もあって、平均勤続年数は9年である。
日本企業は、海外に進出しても従業員の現地化が進まないとはよく言われるが、矢崎ヨーロッパでは、経営陣に一人だけ日本人がいるほか、すべて現地化が完成しており、このウクライナ工場に日本人は一人も働いていない。矢崎日本はヨーロッパ戦略に積極的に関与せず、ケルンに自由に決断させて報告を聞いて承認するだけであるという。このような積極的な現地化・地域分権化を世界で進める矢崎総業のガバナンスには、驚嘆させられた。
会議室でのプレゼンテーションが終わると、私たちは会議室を離れて、実際の作業場内へ案内された。工場内の大まかな見取り図は次のようになっている。線の矢印は場内の通路を示していて、私たちは矢印がさす順番に視察した。白ヌキで太い矢印は、場内において財が加工されていく順を示している。なお作業場内は撮影禁止である。
a: 管理職の事務所。作業場のわきに位置し、作業場側へはガラス張りになっており、中の様子がよくわかる。
b: 加工前のワイヤーが搬入される倉庫。何色ものワイヤーの束が無数にあった。
c: 修繕スペース
d: ワイヤーをくっつけるスペース。
e: コネクターのスペース
f: ワイヤー組み立てスペース。ベルトコンベヤーによる流れ作業で生産が行われていた
g: 完成品の品質チェックスペース
h:展示スペース。完成車が置かれており、場内で生産される製品が自動車のどこに生かされているかを労働者が理解できるように展示がなされている。
i: 労働者の教育スペース
j: 完成品の保管スペース。最大2箇月間ここで保存される。
工場を一巡して、この工場での労働の集約度は、それほど過密なものではないと感じた。スペース毎に見ていくと、dにおいては2×1mの机が9台あり、各々に一人が配置されていた。eにおいては4×2mの机に8人が、gにおいては2×6mの机に4人が作業していた。労働者には若い女性が多く、私服のまま働く労働者もいる。マネージャーいわく、私服での勤務はルール違反だそうだが、平気のようだ。またある人は非常に熱心に仕事に取り組んでいたが、他方である従業員はまわりの従業員の人と雑談しながら仕事を進めていた。日本の工場でなら、いずれも、規律の緩みとして労働者は厳しく指導されるだろう。よく言えば働きやすい職場であるが、社会主義時代の働きぶりが若い世代に残ってしまっているともとれる。移行経済における労働者の勤労様式を垣間見る思いがした。
作業場の半分はガランとしていて、何もおかれていなかった。ザビジオン氏によると、これは欧州の不景気が原因で、受注が激減し、生産設備を減らしているためであるという。ただ、今はだんだん受注が回復してきているため、近いうちにまた生産設備を再び設置するかもしれないと話していた。
ドイツの太陽光発電所で気づかれた、要求される技術水準の高低による国際的分業のありさま様が、ここでも、場内の中間財からみてとれた。bで見られる汎用品のワイヤーといった技術水準がそれほど高くない財は、ポーランド等の旧社会主義国の企業から仕入れている。一方、eで見られたコネクターは米デルファイ社製(Delphi Connection Systems)であり、さらにfで見られたミシンのような機械はスイスのコマックス社(Komax)製であった。
jで見られた完成品ワイヤーには「VW」と表記されていたが、ザビジオン氏によると、これはVW車に使用される部品に厳しい品質管理がなされているためだという。VWは部品毎に品質基準をクリアしたサプライヤーを限定し、協力会社という位置づけで供給させている。jにおいて保存されるワイヤーは供給先によって異なる色別のケースに入れられており、このケースはフォルスワーゲンの所有であるそうだ。つまり、このウクライナ工場は、完全にVWのグローバル生産システムに組み込まれているのである。
作業場の観察を終え、私たちはロビーに出た。訪問帳をあけると、在ウクライナ日本国大使館特命大使がウクライナへの日本企業進出のモデルとして矢崎総業を2012年に視察したようだ。私たちも訪問の記録を残し、矢崎総業をあとにした。
工場の視察を終えた私たちは、車をふたたび北に走らせ、ウジ川を渡って、北部のハンガリー統治時代の都市区域に移動して、ここに位置するウジゴロド野外民族歴史博物館へ向かった。チェコスロバキア時代の商業建築が低層の建造物へと変わり、道路もアスファルト舗装から石畳へと変化した。
この博物館は、ハンガリーの城跡を利用していて、石畳の風景にうまく溶け込んでいる。ガイド氏は、ザカルパチア地方を統治するハンガリー領主が住んでいたウングヴァール城が13世紀には既に存在していたと史料に記されていることを、紹介してくれた。つまり、ザカルパチア地方は、ハプスブルク帝国崩壊まで約7世紀もの間、ハンガリー固有の領土だったのである。ハンガリー人が、この地に特別の感情を抱くのは、無理からぬ事である。
この博物館は、カルパチア地方の動植物の展示とこの地域に住んでいた人々の伝統工芸品や民族衣装を展示している屋内の博物館と、歴史的建造物の野外展示にわかれている。野外展示は、1970年代に、当時のソ連が、なんと当時墓地であった場所を整地して開業させたのだという。
私たちは、城の正面で車を降り、チケットを購入して入場した。チケットは大人一人15フリヴニャ、営業時間は10:00〜18:00である。まず私たちはカルパチア地方における伝統的な建造物の野外展示から見て回ることにした。
ここには、ウングヴァール城の南東面のなだらかな丘陵地に、ザカルパチア地方の農村に存在した農家や教会などのオリジナル建築が移設されてい。そこから当時の人々の生活と労働を想い起させる事を目的としているのであろう。説明はすくなく、とくに英語のものは殆どない。
カルパチア地方における伝統的な家屋は、その多くが木造であるというところに特徴がある。これは、ザカルパチア地方が森林資源に恵まれていることによる。実際に、多くの家が丸太造りであり、屋根も木の皮、あるいは藁ふきであった。基本的に農家の家は1階建ての平屋作りである。以下、視察した建物毎に、説明したい。
〇教会とそれに併設された学校
教会は1777年に建てられた木造建築で、セレストSzelesto (ハンガリー語地名、ウクライナ語はシェレストボShelestovo)という村から移設されてきた。四層で、バロック様式とテント様式の双方をとりいれた形をしている。教会の塔の頂点に複十字が掲げられていることから、正教会の教会であるが、この教会が元々正教会であったかどうかはわからない。また、教会の下には金属製の鐘が展示されてあり、その鐘にはハンガリー人とみられる名前が彫られていた。
教会に附属の学校は一層の高床式で、これも木造建築である。学校では、教会の神父たちがハンガリー語で読み書きを教えていたそうだ。内部をのぞいてみると、教室に十字架が掲げられており、宗教と教育が未分化だったことが分かる。校舎のわきには、始業や終業の際に使われたと思われる鐘が設置されていた。
〇一般家庭の家屋
この博物館には、全部で13の家がある。一般的な13〜15世紀ごろの家屋は、仕事場、食堂など2〜3部屋、そして玄関(土間)で構成されていたようである。一つの部屋は5m四方くらいであった。窓は小さく、屋根には煙突がないのが特徴である。民家の中には柵をめぐらしているもの、塀で囲んでいるものもあった。これは山賊やムスリムの攻撃に備えたもので、14〜15世紀のものだそうだ。侵入者からの防衛というこの地域の歴史を一般家庭の様子からも窺い知ることができる。
〇ユダヤ人の家屋
ユダヤ人達の家も、外見はだけは他の家と同様に木造の平屋作りである。ただ、ユダヤ人の家には煙突が付いているという特徴がある。煙突を持つことは裕福の象徴であり、裕福であったユダヤ人は軒下に小規模の煙突を設置してさりげなくその富を誇示したそうだ。あまり大々的に煙突を設置しては、妬まれて攻撃にあうことを恐れていたのかもしれない。
野外展示を見たあと、私たちは城内に入り、屋内の博物館を見学した。タタール人の襲撃に備えるためにハンガリーが造ったこの城は、二重の濠に囲まれ、外には監視のための見張り台がある。現在では両方の堀の水は抜かれていた。2階建の城の建物は、両階がともに博物館として利用されている。
2階の展示場には、ウジゴロド周辺に生息するクマ、リス、ワシといった動物や、カルパチア地方の植生、地形などの自然環境が展示されている。動物の剥製なども多数置かれている。植物の展示では、この地方の豊かな森林と多様な植物が写真をもとに紹介されていた。植物展示のなかには日本の桜があり、博物館前には桜の木が植えてあるそうだ。
1階にはウジゴロドに住む人々が使ってきた装飾品や民族衣装、楽器、そしてこの地における宗教の発展に関する展示がある。カルパチア地方の木材を用いて自作されたギターのような楽器が数多く展示されており、天井の壁画や台座といった宗教施設の跡のような空間もあった。
ここはかつて、オートスリア・ハンガリー帝国のマリアテレジアによって設立されたユニエイト神学校(セミナリオ)だった場所ということで、マリアテレジアの肖像画とともに、ここで僧侶となった最初のハンガリー人イヴァン・バチンスキー(Ivan-Batchinsky)、そして最後の僧侶となったロムジァ(Theodore Romzha)の肖像画が展示されていた。ロムジァは、ソ連によってユニエイトが禁止された際に最後まで反抗したため、1947年にソ連によって暗殺された。このため、ロムジェは西ウクライナにおいて殉教者とみなされており、この後に向かったユニエイト教会にも肖像画が入口に飾られていた。このガイド氏の解説から、私たちは、この宗教関連の展示はオーストリアの宗教的寛容さと援助にたいする親しみ、そしてユニエイト教会を弾圧したソ連・ロシアへの反感を表明している、と感じた。
以上の博物館内外の展示は、全体としてみると、ソ連時代に各地に設置された典型的な地方郷土資料館といった趣である。展示がほぼウクライナ語でしか説明されていないことからも、外国からの訪問者への地元の文化の紹介というよりも、地元の人々のために、地域のアイデンティティを涵養し、郷土愛のような価値観を強める機能を持つものであろう。
歴史博物館の視察を終えた私たちは、城に近いユニエイト教会(ウクライナ東方典礼カトリック教会)である正十字大聖堂(Padub Pjerjetinati Sobor)で、実際にユニエイトのミサに参加してみることとなった。ガイド氏によると、この教会は、ウジゴロドで最も古いユニエイトの教会であり、17世紀中頃に建てられた。
ユニエイトとは、西ウクライナ独自のキリスト教で、正教の一派が典礼をそのままにローマ教皇の権威を認めて正教から分離したもので、カトリックの一派ということになる。ロシア正教側からは分派として敵視され、一時はロシア正教の教会に変更させられたが、ウクライナ独立後、1993年にようやくユニエイト教会に復帰した。
教会の内装は荘厳で、柱は金色に彩られている。正教の教会のように、イコンが何層にも描かれた壁であるイコノスタシスで、通常人々が祈る場所と祭壇とが分けられている。だがここでは、礼拝堂の奥の壁にも一面にイコンが飾ってあった。そして一般の参列者が祈る場所には腰かける椅子がカトリック教会と同じように設置されてあった。私たちが訪れた時、教会内は多くの人であふれ返っており、年齢層も老若男女と幅広く、いかにウジゴロドの人々の多くがユニエイトに帰依しているかがみてとれた。もっともガイド氏によれば、若者の信仰はお祭りに参加する感覚なのだという。
ミサの進行は非常に独特である。神父が聖書の文句をまるで歌うように詠唱すると、信者らがそれにこたえる形で詠唱する。それを一時間ほど繰り返すと、今度は信徒が列をなして神父のほうへ向かい、聖体受領を行なっていた。聖書の詠唱に楽器の伴奏がなく、すべてアカペラであるところが、ローマカトリックと大きく異なる。周りの信徒は、見慣れない東洋人の私たちを怪しく思ったのか、やや避けられているようにも感じた。
一時間ほどミサを聴き入った後、私たちは教会を後にした。
ミサが終わった後、私たちは夕食をとるため、チェコスロバキアが建設した旧市街に向かった。ガイド氏が紹介してくれたレストランBertepは、伝統的なザカルパチア料理をふるまってくれる民族レストランで、ウェイトレスの方々は先の博物館で展示されていたのと似た民族衣装に身を包んで、観光客の目を楽しませてくれた。私たちは、ウクライナ料理の代名詞であるボルシチを後日にゆずり、カルパチア料理を食べることにして、地方のキノコとして展示がなされていたマッシュルームと豚肉をつかったザカルパチア伝統の家庭料理を注文した。料理はとても美味しく、しかも値段がどれを注文しても200〜400円と、格段に安かった。
夕食後私たちは、第一次世界大戦後に、ハンガリーに代ってウジゴロドを支配することになったチェコスロヴァキアの支配時代に発展した、商業地区の巡検に出発した。
メインストリートは、ハンガリー域からチェコ域へと南北に走るコルゾ通り(Korzo Vulitsya)と、これに直交して東西に走るバロシナ通り(Voloshina Vulitsya)である。そして
この地区の中心は、ガイド氏がシアター広場と呼んだ、川に面し、劇場広場とも呼ばれるイェフェニ・フェンツィク広場(Yevhena Fentsyka Ploshcha)である。この広場には、チェコスロバキアが作った劇場が存在しており、チェコスロバキア領時代は、この場所が、ウジゴロド全体の中心部であった。
ソ連時代を経て現在まで建造環境がよく維持されているこの地区は、今も広場からバロシナ通りの区域が商業中心となっている。対して行政中心は、午前中に訪問した市庁舎のあった、チェコスロバキア地区の西に位置している。
劇場広場からイェフェニ・フェンツィク通り(Ul. Yevhena Fentsyka)を東へ進むと、コシチェでも見られたチェコの靴メーカーであるバータ(Bata)がチェコスロバキア統治時代に建てたビルがある。ウジゴロドでもやはり、周りの建物とあえて様式を変えて、当時最先端だった建築デザインを店舗にも適用させ、自社の「最新鋭」というイメージをつくっていた。ソ連時代には接収され、高級官僚のアパートにされていたとのことだ。
ソ連時代のものと思いがちであるが、実はオートスリア・ハンガリー帝国の建築に典型的といわれる「スパイ・ウィンドウ」(建物から窓が突き出し、三方に見られる)を持つ建物もあった。更に進むと、元はユダヤ教会(シナゴーグ)の建物を使ったコンサートホールを発見した。この建物の機能の変化は、かつてこの街の商業を握っていたユダヤ人が、第二次大戦でドイツ軍によって駆逐され、それに従い、この建物もユダヤ教会としての機能を失ったことを物語る。
通りを西に戻り、裏通りであるテアトラルニル小路Teatral’nyl Lnヘと右折すると、ここはチェコスロバキア時代からのアーケード型商店街になっている、現在は歴史地区として、ウジゴロドの都市史を示す展示がなされていた。
この小路を北進すると、中世ハンガリー時代の王の邸宅が見えてくる。この辺からはハンガリー地区である。ここにはユニエイトの教会よりも古いというローマカトリックの聖ジョージ大聖堂(Svyatii Gjeorg?j Sobor)がある。これは、カトリックの国であるハンガリー領だったなごりである。ここは、ウジゴロドの主要商業地区の一つバロシナ通りで、市場経済化されたあと、資本主義諸国から多くの店が進出してきている。香港のドラッグストアチェーンであるワトソン(Watson’s)やアディダス、アメリカに本拠をおく華僑銀行のUniversal Bankが見られた。そのほかには、ウクライナの電子製品チェーン店MOYO、ポーランド系のクレド銀行(Kredo Bank)、カフェや服飾雑貨店といった店々が構えられていた。ただし、この辺りの旧市街は、周辺のザカルパチア地方に住む人々の所得や嗜好から考えても、超高級店が密集しているという訳ではなく、買い回り品を求めつつ街の雰囲気を楽しむショッンピングエリアであるといえよう。
市街巡検をして疲れたので休憩に、とガイド氏がよく通うという「リボフ・ハンドメイド・チョコレート(Lviv Handmade Chocolate)」のカフェに私たち案内してくださった。
ガイド氏によると、かつてのハンガリーは、ハプスブルク家の支配に先立つ16世紀半ばから17世紀までトルコにより占領され、トルコのコーヒー文化がハンガリーに根付いた。これが、オーストリアに広まり、そしてリボフがウィーンを首都とするオーストリア領となったことによって、リボフにもウィーン式のコーヒーやホットチョコレートが根付いたのだそうだ。
この会社はウクライナ中に支店をもっている有名店である(http://www.chocolate.lviv.ua/)。この店の名前に「リボフ」という町の名前が入っていることは、日本人が横浜・神戸=舶来高級品、というイメージを抱くのと同様、リボフという都市に西欧のイメージを重ねて高級イメージを売り込む、ウクライナ人向けのブランド戦略であろう。ロゴの中央にある塔は、リボフ市役所である。
店の外観は、テラスがあって西欧風に洒落ており、川沿いに立地していて、昼間であったらさわやかな川風に風景を楽しみながらコーヒーをいただけそうな場所である。このような店がウジゴロドの旧市街の一等地で営業しているということの背景には、ハプスブルクの伝統がいまもウジゴロドはじめ西ウクライナの人々の心理に場所の誇りとして抱かれていることがにじんでいる。私たちはガイド氏がおすすめのチョコにクルミやオレンジを付けて食べる、液状チョコレートを注文した。濃厚なホットチョコレートは、歩き回って疲れた私たちにとっては、格好の癒しとなった。
帰り際、私たちはある事件に遭遇した。10歳くらいの少年たちが、突然すれ違いざま「キターイ!(Kitaii!、中国人)」と私たちに向かって叫んで走り去っていったのである。私たちは中国人と見なされたということである。これはウジゴロドの人々にとって一番イメージしやすい東洋人が中国人であり、或いは東洋人全般にたいして珍しさまたは蔑みの念をもっているということなのかもしれない。少年たちのからかいは、私たちとってはウジゴロドの人々の東洋人観に関する発見の契機となった。
11時頃、夜行列車に乗るために、私たちはウジゴロド駅に向かった。駅は、外装もきれいでよく整備されており、構内も明るく治安の心配はあまりない。駅の待合所では、私たちの他に20人程の人々が一日一便のリボフ行き夜行列車を待っていた。構内には地球からロケットのようなものが飛び出しているオブジェが中央に設置されていた。ソ連の宇宙開発の偉業をたたえたものであろう。
ガイド氏とプラットホームでお別れし、私たちは午後11時57分のリボフ行きに乗り込んだ。多様な言語を操り、豊富なウジゴロドの知識と陽気なドライブを提供していただいた非常に優れたガイドだった。
車内は、ソ連時代と同じ一部屋4人の寝台コンパートメントで、車内はあまり清潔とは言えず、少し臭かった。寝台には手すりが付いておらず、寝相に注意しないと、落ちてしまいそうである。プラハから乗った夜行列車とは比べ物にならないほど内装が悪かった。
この列車は、ポーランドとの国境のすぐ東側に迫ってカルパチア山脈を標高852mのウジャチキ―峠(prvl. Uzhoch’kii)で越えてリボフに至る鉄道を走る,現在唯一の旅客列車である。昼に通れば山中の景観は素晴らしいだろうが、昼行列車は今では全て廃止され、一日一本のこの夜行しかない。起きて外をみたが、真夜中なので、景色は何も見えなかった。