2012年9月6日 コシチェ、モルダバ、ニーレジハーザ

巡検3日目

巡検3日目。私たちはスロバキア東部の都市であるコシチェ(Ko?ice)とその南部にあるモルダバ/セプシを訪問した。 ここでは、国家より下位のスケールながらも複数の国にまたがり、地方自治体を主体とした越境地域協力体である ユーロリージョン(Euroregion)の1つ、スロバキア、ハンガリー。ルーマニア、ウクライナのそれぞれ国境地域から構成される カルパチア=ユーロリージョン(Carpathian Euroregion)の取り組みについて、現地で話を聞き、状況を視察することを目的としている。

EU辺境の国際都市、コシチェ駅に下車

私たちはプラハ中央駅からの夜行列車で、深夜にチェコとスロバキアの国境を越え、朝7時半、スロバキアのコシチェ駅に到着した。 ハプスブルク帝国時代にはオーストリア領だったチェコと、ハンガリー領だったスロバキアとは、1993年、結局分離し別の国になったが、 シェンゲン協定国相互なので、列車内で出入国検査はなかった。ホームのベンチを見ると、イギリスの商業資本であるTESCOの広告が出ており、この地域における西欧資本の進出が窺えた。

コシチェ駅のエントランスで、カルパチア=ユーロリージョンのディレクターであるキッスさんと落ち合う。 コシチェ駅は現在工事中で、来年完成予定である。完成の暁には、より機能的なコシチェのエントランスとして、 都市発展に更なる役割を果たすことが期待される。

駅では食堂で朝食をとった。注文の際、従業員に英語が通じなかったので、ロシア語で注文してみたところ、注文できた。 こうしたところに今でも、社会主義時代の面影が見られる。

私たちは、ベルリンで入手できなかったウクライナの旅行社に支払う米ドル現金を入手するため、駅の両替所に立ち寄った。 コシチェは、ベルリンとは違って、EUの辺境に近い。このため、駅には多くの国と往来する旅行者が多く、 通貨両替の需要が高い。このため、多様な通貨を取り扱っており、米ドル現金も問題なく入手できた。両替のレートは、 交換頻度と通貨の信用度に影響される。そのため、通貨レートの良し悪しは、通貨ごとに違いがあることが、両替所の電光掲示板からわかる。 通貨は交換頻度が高い、即ち需要が高いと手数料が安くなりレートが良くなるため、近隣諸国の通貨は特にレートが良かった。 また、基軸通貨である米ドルは、交換の頻度に加えて信用が高いので、やはりレートが良い。そうでない、比較的遠隔で、 通貨の信用が低い国の通貨のレートは、悪くなっている。このあたりは、もちろん市場原理そのままだ。

その後、私たちは車で移動を開始。朝の混雑する道路をコシチェ市庁舎へと向かった。駅前には路面電車が走っており、 多くの社会主義住宅が立ち並んでいた。これとならんで、真新しい建物も多数あり、移行経済期の混沌とした状況を 象徴しているようだった。


コシチェ

まず、このコシチェという町の成り立ちとその歴史的背景について述べておきたい。

コシチェはもともと、ハンガリーの都市であった。

現在の町並みの原型が出来たのは、13世紀のことで、東方騎馬民族の侵略に備えるために、 ハンガリー王はニーダーザクセン州からドイツ人を入?させた。このドイツ人たちが作った町と城壁が、 現在のコシチェの旧市街になっている。

辺境の中心都市として、商業と手工業で繁栄したコシチェは、ハンガリー王国第3の都市に成長する。 その後、オスマントルコの占領や内乱などの戦火により一時衰退するものの、17世紀の末にハプスブルク帝国の統治に 組み込まれ、上部ハンガリー(Fels?-Magyarorszagi)の首都として繁栄を取り戻した。

19世紀中ごろまでにコシチェは、1848年革命に代表されるハンガリーナショナリズムの中心地となった。 19世紀初めからの急速な工業化に加え、1867年のオーストリア=ハンガリー二重帝国の誕生によって、 コシチェのハンガリーナショナリズムは更に高まった。それと同時に、ヴィーンからアール=ヌーヴォーが流入し、 建物の新築・改築が流行した。

だが、第一次世界大戦でハプスブルク帝国が敗戦し、1918年にオーストリア=ハンガリー二重帝国は解体され、 オーストリア領のチェコとハンガリー領のスロバキアが合体してチェコスロバキアとして独立する際、それまで、 ハンガリー領だったこの地域に、敗戦後の民族自決の原則により、人口構成に基づいた国境線が確定され、 コシチェを含めた上部ハンガリーは、新しい国チェコスロバキアの一部に編入された。従来支配民族だったハンガリー人は、 少数民族に転落したのである。失地回復を狙うハンガリーは、第二次世界大戦で、ドイツの支援の下、この地域をハンガリーに一時再編入するものの、 結局はソ連の反撃により、元のチェコスロバキア領に戻って、戦後はソ連覇権下におかれ、社会主義化された。

社会主義経済のもとでのコシチェは、大規模な社会主義住宅の建設などのインフラ整備や、後述の国営東スロバキア製鉄所建設などの基幹産業が配置されて繁栄する。 そして1989年には、ゴルバチョフの新政策によりソビエト連邦の覇権から自立し、1993年からはチェコと分離して、スロバキア共和国の都市となっている。

市場経済化されたコシチェは、ハンガリー・ウクライナ・ポーランドの国境に近く、空港も整備されていることもあって交通の拠点となっている。 そして、前述したような歴史的な背景や市内の建築物による観光業も盛んに行われている。また、カルパチア=ユーロリージョンに参加して 主に観光業を通じた越境協力を行っており、2013年のEUの文化・観光推進事業である「欧州文化首都《にスロバキアで初めて選ばれた。

(参考 Jozef Duchon「Kosice Ako Na Dlani《2012)



副市長にインタビュー: 権限も財政もないカルパチア=ユーロリージョンの形骸化

コシチェの市庁舎は、以前の建物が手狭になったために市の中心部から移転して、1980年代に建てられた。 この建物内には、様々な行政関係のオフィスが集中している。

市庁舎では、コシチェ市の副市長でありスロバキア議会の議員でもあるレナータ (Renata Lenartova)氏にお話を伺うことが出来た。

コシチェはスロバキアにおけるヨーロッパ文化の中心であり、このコシチェは10もの文化的なプロジェクトを進めていた。 しかし、実際には財政的に厳しく思うように進んでいないのが実情である。プロジェクトの運営方式は様々で、 コシチェ市単独で、周辺の地域共同で、スロバキア政府で、などがある。だが、部分的な影響力は勿論あるものの、 カルパチア=ユーロリージョンが主体となって財政支出を行い、進めているプログラムは無い。

今年は4つのプロジェクトが進められており、そのうちの2つは文化の中心としてのコシチェを対象としたものである。 それは新たな動物園と子供鉄道の整備である。子供鉄道とは、子供への労働・科学技術教育の一環として子供に鉄道の運営を させるもので、社会主義時代に盛んに行われた。コシチェの子供鉄道は、チェルメリュ鉄道(?erme?ska ?eleznica)と呼ばれ、 1955年に開業したものである。これは現在国営で、以前のような教育目的ではなく専ら観光用に用いられているため、 これを立て直し、特にポーランド方面からの観光の足掛かりとすることが期待されている。また、カルパチア=ユーロリージョンに 参加しているポーランド南部のビエスチャディ(Bieszczady)やジェシュフ(Rzeszow)にある子供鉄道と連携しようとしている。

スロバキアは、EU加盟にともない、他のEU諸国と緊密な繋がりを持ったが、ウクライナとは安易に行き来できるものではない。 なぜなら、同じカルパチア=ユーロリージョンに属するとはいえ、ウクライナはEUに加盟していないからだ。EUのメンバー国は、 シェンゲン協定という国内外の移動に関する決まりを批准している国がほとんどであり、これによってEU諸国内の移動が自由になった。 その反面、EU外との移動が厳しくなってしまった。ただ、このEU国境の厳格化というのは、主に東方や南方からの移民の流入を警戒するためで、 EU内からEU外への移動には適用されないようである。実際、私たちは翌日ハンガリーからウクライナへの入国審査を1人当たり5分ほどで終えてしまった。 ウクライナ側からEUに入るためのビザも、ちゃんと手続きを踏めば1週間程度で取れるので、観光をメインにしたカルパチア=ユーロリージョンの活動への影響は全く無いという。 因みに、この国境管理は国の管轄であるため、カルパチア=ユーロリージョンではどうすることもできないそうである。このことは他の事柄にも言えるようで、 カルパチア=ユーロリージョンに実際的な権限はほとんど無く、高位の問題は政府に解決を頼まなくてはいけない。

次に越境協力について。国境線が接しているハンガリー、特に国境を挟んで向かい側に位置しているミシュコルツ(Miskolc)とは、 主に観光面での連携を行っている。この観光業に加え、後ほど訪れたハンガリーのワイン生産地との越境協力は盛んに行われている。

その一方で、相互の投資や西欧地域からの投資の呼び込みは進んでいないという。これは越境協力以前の問題だが、コシチェという町の知吊度が高くなく、 そのせいでなかなか投資が集まらないことが原因だそうだ。また、逆にスロバキアから他の地域への投資についてもあまり進んでいないようで、 特にウクライナへの投資はEU外ということもありためらわれているという。コシチェ市としては、投資に関しては法律の問題がある上、 法律はコシチェ市やカルパチア=ユーロリージョンは手を出せない国の管轄になので、具体的な解決策は見いだせずにいるそうだ。

しかし、私たちが考えるに、EU参加国のポーランドはウクライナへの投資を盛んに行っており、リボフ郊外には、ポーランドがほぼ専有する工業団地まである。 このことに鑑みると、EUではなくスロバキア自身の弱い投資行動に問題があるのではないか、と思われる。

最後に、コシチェ市が独自に行っている越境協力として取り上げられたのが教育である。ウクライナのウジゴロド(Uzhgorod) には、スロバキア人が、少数ではあるものの、生活しており、彼らのための中学校や高校の運営をコシチェ市が支援している (大学は国に管轄のため関与が無い) 。

スロバキアの公用語はスロバキア語であるため、教育機関では原則としてスロバキア語が教えられている。しかし、スロバキア国内にはハンガリー系マイノリティが 多数存在するため、各都市でハンガリー系住民の割合が20%を超える場合、行政関係者はハンガリー語を話せることを法律で義務化されている。そのような地域の小中学校では、 ハンガリー語も教えられている。

他の地域に見られるようなマイノリティ問題に関しては、地域的に密着していることもあり、全く問題ではない、と言っていた。本当に問題ないのかもしれないが、あるいは、 民族問題なので、意図的に触れないようにしている可能性もある、と私たちは感じた。このため、これを鵜呑みにすることはできないかもしれない。

以上で、副市長との会談を終えた。

カルパチア=ユーロリージョン設立当初の目標や、事前にゼミで読んだ文献と比べると、その活動は随分形骸化していると言えるだろう。このインタビューから分かる問題点は:

@カルパチア=ユーロリージョン全体での協力が行われていないこと

A投資などの経済協力に対する積極性が無いこと

Bカルパチア=ユーロリージョンに政治的権限が無いこと

の3つである。これらのカルパチア=ユーロリージョンの分析についてはこの後モルダバで聞いた話も併せて最後に考察したいと思う。

私たちはコシチェの市庁舎を後にし、市内巡検へと向かった。



都心周辺部:真新しいショッピングモールと、社会主義の戦争慰霊碑

郊外の市庁舎から先ほど通った道を戻って町の中心部へと向かう。コシチェ市の構造は、ハプスブルク帝国由来の典型的な 中欧旧社会主義国のもので、街の中心から外に行くにつれて、時代毎に、原則として【都心の広場を中心に密集した中世以来の迷路状街並みの旧市街 →19世紀後半頃のハプスブルク時代の整った格子状街路の地区→郊外の社会主義住宅・オフィス地区】といったように、同心円状に広がっている。

私たちは、ハプスブルク時代の地区と社会主義地区のちょうど境界線のあたりで車を降りた。この一帯には社会主義以前の 建物とそれ以降の建物が混在しており、そのうちいくつかは半ば廃墟のようになっていた。その一方で真新しいショッピングセンターや 飲食店などが次々と立ち始めている。取り壊し中の建物などもあり、古い建物を壊して再開発を行っているようだった。 また、1960年代の社会主義住宅を改修したらしいホテルやカジノ、広場など、市場経済の風景が広がっていた。

まず、去年完成したばかりのショッピングモール“Aupark”に入ってみると、家電量販店やスーパーマーケット、フードコート、 衣類販売店から本屋まで一通りのものが揃っている。入っているテナントにもSAMSUNGやSWATCHなど、世界で通用しているような企業の吊前が見られ、 これらの店舗の顧客が現地の裕福層であると推測できる。また、店内にはギャラリーや子供の遊び場、建設途中に偶然発掘された考古学品の展示などがあり、 買い物以外の面でも人を惹きつける工夫がなされていた。

このショッピングモールを出ると、旧市街の入り口に向かう道になる。そこには、社会主義時代の建築物もそのまま残っていた。 まず、第二次世界大戦でのソ連軍の戦没者を祀った社会主義時代の慰霊碑が2つある。ショッピングモールから見て手前にあるのが、 コシチェをナチドイツから解放したウクライナ人部隊の慰霊碑、奥にあるのが、第二次世界大戦で、コシチェだけでなくヨーロッパ全体を ナチスドイツから解放するために命を落とした全ての無吊戦士のための慰霊碑だ。私たちが訪れた時には、 手前の慰霊碑にウクライナの国旗色のリボンと花束が手向けられていた。ウクライナ人が、国境を越えて参拝に来ているのだろうか。 今でも、社会主義時代のこのモニュメントが大事にされているという事が窺えた(Mikan Kolcun, WANDERS IN KOSICE, 2012)。 また、慰霊碑のそばには、ダルゴフ(Dargov)という社会主義時代からのデパートがあった。



中世の都市核:ドイツ人の作った都市中心に、アールヌーヴォー様式のホテル

中心部へ歩いていくと、途中から道が石畳へと変わった。地図で街路網をみると、確かにこのあたりから中世の旧市街に なることが確認できる。囲み記事「コシチェ《に記したように、この街並みは、13世紀にドイツ人の手によって建設されたものに端を発する。 中世都市を取り囲む当時の城壁はほとんど残っていないが、その跡は現在道路になっており、当時の城壁や市内の様子をおぼろげながらも推測することが出来る。 普段は地下に降りて今も残っている城壁の土台を見学することが出来るのだが、私たちが訪れた時は残念ながら封鎖されていた。

コシチェの中世の街なみは、比較的広い道がその中心を通っているのが特徴的である。とはいえその両側に並ぶ建物は、残念ながら中世のものが全く無く、 そのほとんどは18世紀のドイツ人商人のものである。この建物は、1階の表が店、その裏が作業場、2階が住居になっていたらしい。このように、 当時コシチェの街にはドイツ人が多く住み、コシチェの経済を支配する中心的な存在だった。その他の民族は、農業従事者として城壁の外に住んでいた。

さらに広場に向かって歩くと、1502年から続くコシチェ市の紋章をあしらった銅像があり、そこには昔使われていた市の紋章の変遷も併せて彫られていた。 これらの紋章はハンガリー及びコシチェ市の支配者の変遷を表している。ユリのシンボルがフランス王家、ワシのシンボルはポーランド王家をそれぞれ表すものである。 昔から政情上安定であったハンガリーは、王家の断絶や外国からの侵略などの国難を様々な外部勢力と結びつくことで回避してきたという歴史を持つ。その歴史をこの紋章は示しているのである。

更に進むと、コシチェの中心である広場に到着した。そこにはコシチェのシンボルともいえる聖エリザベス教会と旧市庁舎がある。聖エリザベス教会は1380年にハンガリー王国最大のカトリック教会として建造が始まったもので、 現在もスロバキア最大の聖堂である。様式は内外ともにゴシック様式である。しかし私たちの訪問時、聖堂は全面的に改修中で、外観はおろか内部も工事の足場で大変乱雑になっていた。この改修費用は、EUの支援と、 聖堂前の広場に寄付者の吊前を彫ったタイルを設置するというカナダ人外交官のアイディアによって集められた資金でまかなわれている。タイルには、欧州各国の大統領や王族の吊前が見受けられた。 教会の手前にある聖ミカエル礼拝堂は聖堂より古く、1360〜1380年の間にはすでに建造されていたといわれる。元々は紊骨堂であり、一般人の立ち入りは禁止されていた。

旧市庁舎は1779年に建てられたもので、しばらくは市庁舎として使われていたが、社会主義時代には図書館として使われ、1997年に再び市に戻った。この旧市庁舎と広場に面している国立劇場、そして旧市庁舎の並びにあるスラヴィアホテル(Hotel Slavia)は、 いずれもアールヌーヴォー調の建物である。建築された年はそれぞれ異なるものの、いずれもハプスブルク帝国時代、19世紀末のアールヌーヴォーの流行期に建築されたり改築がなされたりしている。その流行期の最も遅く建築されたHotel Slaviaは、 ゴテゴテした他のアールヌーヴォーとは異なる、幾分洗練された建物となっている。壁には色鮮やかな絵や装飾はあるものの、ギリシャ風の彫刻や柱、アーチ状の窓枠はほとんど見られない。同じアールヌーヴォー調の建物ではあるが、 その時代によって装飾の「派手さ《に微妙な違いを見ることができる。(写真参照)

Hotel Slaviaのならびには、Bataという靴店の建物がある。一帯のアールヌーヴォー調の建物とは違って、装飾を排した、 無機質で機能主義的な外観だった。この建物は、1930年に建てられ、過度な装飾をとりいれた当時のアールヌーヴォー建築に対する 反動であるバウハウス運動の影響をうけている。因みに、このBataは1894年に現在のチェコで誕生した靴の多国籍企業で、 現在も発展途上国を中心として、世界中に販売網を展開している。ただし、日本の靴市場はすでに飽和しており、進出できていない。 社会主義時代には国営の靴屋として利用されていた。

以上で、コシチェの市内巡検を終了し、一旦解散。各自昼食をとって、モルダバへと移動することとなった。



「悪しき民営化《:社会主義の国営製鉄所を買収した、USスチール

コシチェの郊外を南に走っていくと、 U.S スチールコシチェ の製鉄所が見えた。この製鉄所は、社会主義時代には、 国営東スロバキア製鉄所で、最盛期には4万人もの労働者が雇用されていた。この製鉄所がここに配置された理由としては、 ソ連から鉄鉱石を、そしてチェコから石炭を輸入したことが挙げられる。鉄鉱石をソ連から輸送するため、ウジゴロドからこの製鉄所まで、 ソ連国鉄規格の広軌貨物線が敷設された。すなわちこの製鉄所は、 ソ連が東欧社会主義への覇権を維持するうえで、重要な経済的役割を果たしており、そのために、ソ連との国境に近い コシチェに配置されたのである。

ソ連が東欧への覇権を放棄し、その後社会主義経済が崩壊する混乱を経て、国有企業となったこの製鉄所は破産寸前となり、2000年の11月に、4.75億ドルで、 米国ピッツバーグに本拠を置く多国籍企業、USスチールに買収された。USスチールは、欧州市場への進出拠点とすることをめざし、コシチェのほかセルビアでも、 社会主義時代に設備更新がなされていた国営製鉄所を安く買収した。コシチェでは、雇用は1万3千人ほどに縮小されたものの、いぜんコシチェ市最大の 雇用者として地域経済を支えてきた。

ところがUSスチールは、わずか12年あまりで、この製鉄所を売却し、コシチェを去ろうとしている。社会主義時代に建設された製鉄所をEUの環境規制に適合させるには 多大のコストがかかること、そしてウクライナなどの旧ソ連の製鉄所が輸出攻勢を強め、これらとの競争に勝ち目がなくなってきているのが、撤退理由と言われている。 (当時の新聞記事) セルビアでも、USスチールは製鉄所を政府に売却して去った。この先、どこの会社がこの製鉄所を買うのか、そもそも製鉄所が存続されるのか、 従業員は引き続き雇用されるのか、いずれも定かでない。

これに直面し、スロバキアの政界では、2000年のUSスチールへの製鉄所売却は「悪しき民営化《であったとの反省が生まれている (当時の新聞記事)。 スロバキア政府は、市内最大の雇用者を守るため米国資本に製鉄所を売却し、社会主義時代からある市内から工場直通の 路面電車や病院などを維持・整備する努力をしたものの、地域経済・社会に深く埋め込まれていない海外の多国籍企業は、 冷たい市場の論理で、いとも簡単に生産と雇用を放棄し、去ってゆくのである。USスチールが、スロバキアで最も人気がある アイスホッケーのスタジアムであるSteel Arenaに本拠をおくアイスホッケークラブのスポンサーに就くことで地域との結びつきを高めようとしたのも、 結局ポーズということだったのだろうか。



モルダバ/セプシ:昔の支配民族、ハンガリー人とその遺産への手厚い配慮

コシチェ市の南には高速道路50号線が東西に走っており、車はその道を西に向かって進んでいく。コシチェ市から遠ざかるにつれて 建物は段々少なくなり、一面の畑が広がるようになった。これらの畑では専らトウモロコシが栽培されているのだが、 あまり手入れはされておらず、粗放的な農法のようである。また、休耕地を利用した太陽光パネル群もみられた。

その後通過した?e?ejovceはそれほど大きな町ではなかったが、日本にも進出している英国の商業資本、TESCOがあった。このような 欧米資本による郊外の大型ショッピングセンターは、社会主義崩壊後に無くなってしまった市民の生活物流ネットワークに参入することで、 コシチェに限らず、近年旧社会主義国でプレゼンスを高めている。ただし、このようなショッピングセンターの普及には車の普及が大きく関係しており、 これらのショッピングセンターは、その国の人々が自家用車を保有出来るだけの経済発展を前提とするものだと言えるだろう。

この辺りに来ると、町の標識はスロバキア語とハンガリー語が併記してあり、ハンガリーの民族的なプレゼンスが強まってきたことがうかがえる。

ほどなく、モルダバ/セプシ(スロバキア語:Moldava nad Bodvou、ハンガリー語:Szepsi)に到着した。


モルダバ/セプシ

モルダバは、コシチェの南西に位置し、ハンガリーとの国境に近い辺境都市である。人口は約1万人、ハンガリー人とスロバキア人が大体半分ずつ占めている。 コシチェの南にある国際空港から20km、スロバキア西部の中心都市であるブラチスラバまでも、距離はあるものの、電車と高速道路で繋がっているという 地理的事情から、人の往来が活発である。第一次大戦まではハンガリー領で、ハンガリー産のトカイワインを運ぶ際の交易拠点として栄えた歴史がある。 だが、ハプスブルク帝国崩壊後は、新たに独立したチェコスロバキアに編入されてしまった。当時の建造物や自然などの観光資源が豊富である。 人口は約1万人、ハンガリー人とスロバキア人が大体半分ずつ占めている。コシチェの南にある国際空港から20km、スロバキア西部の中心都市である ブラチスラバまでも、距離はあるものの、電車と高速道路で繋がっているという地理的事情から、人の往来が活発である。第一次大戦まではハンガリー領で、 ハンガリー産のトカイワインを運ぶ際の交易拠点として栄えた歴史がある。だが、ハプスブルク帝国崩壊後は、新たに独立したチェコスロバキアに編入されてしまった。 当時の建造物や自然などの観光資源が豊富である。


モルダバでは、新規起業支援を行っているビジネスインキュベーションセンター (Podnikate?sky inkubator Moldava nad Bodvou)で、 現モルダバ市長であり、カルパチア=ユーロリージョンの副理事長を務めていたザカリアス(Istvan Zacharias)氏に、 モルダバにおけるカルパチア=ユーロリージョンの活動についてお話を伺う。ここでは、今朝コシチェの市庁舎で聞いて 出てきたユーロリージョンの現状の問題点に関して、その確認と、問題の解決策を中心に話を聞いた。

その問題点を改めて整理しておくと、

@カルパチア=ユーロリージョン全体での協力が行われていないこと

A投資の斡旋などの経済協力が無いこと

Bカルパチア=ユーロリージョンに財政力も政治的権限も無いこと

の3つである。

カルパチア=ユーロリージョンは最も古いユーロリ*ジョンの一つで、5か国1500万人もの規模を持っているのだが、 今朝聞いたとおり、やはりカルパチア=ユーロリージョン全体でのプロジェクト協力は無いという。その代わりに、 2国間や3国間での越境協力を、バラバラに行っているそうだ。この越境協力は、投資や関税などに関する国家スケールの ものではなく、あくまで近い距離にある自治体が共同でプロジェクトに当たるという地域的なものである。 だが、地理的に近いためカルパチア=ユーロリージョンに加入したウクライナ西部の自治体は、国がEUに加盟していないために、 越境協力はうまくいっていない。EUの方で プロジェクトや基金を作ってウクライナとの協力を模索しているのだが、 あまり成果は上がっていないようである。また、ウクライナ以外とも各国間の税制など各種法規制が異なることが問題となっている。

しかも、カルパチア=ユーロリージョンは、運営のために各国が拠出した最低限の財源しか持っていない。当初は参加地域から拠出して作った カルパチア基金によって各プロジェクトの財源は賄われるはずだったが、結局資金が足りなくなり、現在はEUや各国が作った基金から その都度捻出している状態だそうである。因みに、プロジェクト毎に差異はあるものの、一般的にプロジェクトの財源のほとんどはEU基金から出ている。

このような現状に対する問題意識は、当然EU内でも広がってきた。これを打開するための手段として、新たにEGTC (European Grouping for Territorial Cooperation) という組織が2006年に設立された。このEGTCは、EU法1082/2006に基づいて設立され、EU内の選ばれた地方公共団体から成っている。EGTCは、カルパチア=ユーロリージョンとは違って、 地域間の経済協力を目標に掲げた法人格を有し、独自の財源を持つこともできる。法律問題についても適用地域とその主体を明確に規定している。このEGTCは、 ユーロリージョンよりも小規模で、小回りの効く越境協力を行っており、カルパチア=ユーロリージョン地域では複数のEGTCが形成されている。

このEGTCによって、上に述べたA(経済協力)とB(政治権限付与)の問題はかなり解決できそうだ。だが、@(カルパチア=ユーロリージョン全体としての活動の欠如)という問題は、 かえって悪化してしまうだろう。なぜなら、EGTCに加盟できるのはEU諸国の地域に限られてしまうため、ウクライナはこのEGTCに参加出来ないからである。本来カルパチア=ユーロリージョンは、 カルパチア山脈周辺での地域協力を行うという目的のために設立されたのだが、このように特定の地域を排除してしまっては、寧ろ地域関係を悪化させる恐れもあるし、ウクライナに近い地域の発展が立ち遅れてしまう。 このような点も含めてこれから先新たな取り組みであるEGTCを注視していかなければならないだろう。

以上の越境協力において、特にモルダバでは、カルパチア=ユーロリージョン加盟地域間の対等な取り組みというのではなく、 ハンガリーとの協力に偏った政策を行っているようだ。これは、冒頭で述べたこの地域の帰属問題に原因があり、特にハンガリー 人口の多い地域でそれが顕著なのは、ハプスブルク帝国解体後、支配民族から少数民族へと180度その地位を変えることを余儀なくされた ハンガリー民族への十分な配慮が必要だからだろう。

次いで、モルダバ市の具体的な開発計画について、説明をいただいた。モルダバの開発は、インフラ整備と観光整備に分かれる。インフラ整備については、市中央の広場の整備、市所有のホテル周辺や老朽化した小学校、 ロマ人のための住宅整備などが挙げられ、これには119万?もの予算をかけている。観光整備では、トカイワインとの歴史的関連を生かして、この地域でトカイワインを創りだしたSzepsi Laczko Mateという 17世紀の人物の銅像建設や彼の家の整備やモルダバとトカイ地方とを結ぶサイクリングロードの建設などが行われている。だが、インフラ整備と違い、観光整備の方は、財源問題もあり、 必ずしも思うように進んでいないのが現状のようである。



保護されるハンガリーの遺産:ワイン資料館

センターを出て丘の上へ向かうと広場があり、そこには教会と19世紀から立っている市庁舎があった。この広場の整備も、 ハンガリーの遺産を保護するという観点から、越境協力プロジェクトの1つとして行われたようである。この広場に面してSzakkozepiskola Moldava nad Bodvou というハンガリー語とスロバキア語が混じった吊前がついた中学校があった。この建物は、昔ワイン生産組合の建物であったそうだ。その吊残として、 建物の前に前述したSzepsi Laczko Mateの銅像があった。

私たちはこの中学校の左側にある寮の地下に案内された。そこにワインの地下貯蔵庫があり、今はSzepsi Laczko Mateにちなんだ吊称をもつ資料館となっている。 このような地下貯蔵庫は、13世紀のタタール人の攻撃に備えて人々が食料を保存するために造られたことに始まり、この地域が欧州の辺境として、 常に東方からの攻撃に曝されていたことを示している。

ここから更に地下へと延びる道は、15世紀から16世紀のころには、地下道として町のあちこちに繋がっており、欧州最大規模 の地下道ネットワークを形成していたらしい。この資料館の地下道は埋まってしまっていたが、他の場所ではこれらの地下道を 一般に公開しているという。因みに、この地下道が埋められたのは、ソ連時代に反乱を防止するためだそうだ。

ここのワインセラーに保管されていたのは、このハンガリーのトカイ地方特産の甘いワインである。このトカイワインは製作過程 でカビが発生し発酵したブドウのエッセンスを追加投入して甘みを増やしていることが特徴である。日本でいう貴腐ワインにあたる。 因みに、エッセンスの割合が高ければ高いほど、トカイワインは甘くなり、価格も上がるそうだ。

トカイワインはワインの王様と讃えられ、ワイン街道と呼ばれる、ハンガリーからこのモルダバを通って北のポーランドに抜ける道を 通って各地に輸出された。フランス王室やローマ法王にも紊められていたそうである。モルダバでは、チェコのHodkovic産のブドウを モルダバで加工し、年130万?のワインを作っている。

以上でワイン資料館の視察を終えた。本来ハンガリーの特産品であるワインを大事にし、誇りに思っているこの地域の人々は、 やはりスロバキアにありながらも、ハンガリーに帰属意識を強く持っているのだと実感できた。コシチェ市庁舎では民族間の関係には 問題は無いという説明を受けたものの、国境地域が抱える歴史的に複雑な民族事情は、有効な越境協力なしには上安定化することを 垣間見ることができたと思う



打ち棄てられた検問所と遮断機:スロバキアとハンガリーの国境

私たちの車は、モルダバを出てコシチェの方に少し戻った。途中で通ったコシチェ市の南の郊外では、社会主義住宅や工場、 発電所などが見られた。また、かつては畑だったと思しき土地で太陽光発電が行われており、変電・送電の施設も確認できた。

その後、側道を少し進んで、ハンガリーの方へ向かう国道の50号線に乗った。車がコシチェ市から離れるにつれて、畑や荒れ地しか見えなくなっていった。  国道を進むと、売店を併設したガソリンスタンドがあり、この幹線国道の交通の活発さが窺えた。ユーロが通貨として商店で使えるのはここが最後なので、 ハンガリーの通貨フォリントを持たない私たちは、必要な飲物や軽食を仕入れた。

国境の近くにはハンガリー語で書かれたホテルの看板もあり、この地域にはハンガリー語を日常用語とする人々が多く住んでいることを示唆していた。

しばらく国道を進んでいくと、道路の上をまたぐ巨大な建物が見えてきた。スロバキア側の検問所である。建物の下には透明な ガラス張りの窓が沢山付いており、下を通る車を様々な角度から監視できるようになっていた。社会主義時代のチェコスロバキアの、 国境検問の厳しさを物語っている。ハンガリー側にも検問所があるのだが、スロバキアのものほど厳しい施設ではない。 2004年に前述したシェンゲン協定によって協定加盟国内での移動が自由化されたため、検問所は2つとも廃止されている。

私たちはハンガリーに入ったところで車を降り、シェンゲン協定後の国境の現状を観察した。ハンガリー側にあるいくつかある 建物の1つは、現在観光案内所兼両替所になっており、社会主義時代は国営で、現在は民営化しているIBUSZという旅行会社の看板 やポスターが掲げられていた。その隣にはレストランなども設置され、ハンガリーやポーランド、モンテネグロなどのナンバーを つけた乗用車や貨物トラックが何台か停まっていた。シェンゲン協定では税関も廃止されたのだが、上審物の検査は行われているようで、 私たちが通りかかった時も警官が乗用車の荷物をチェックしていた。

国境線の方に行ってみると、国境線を表す標識や標石が観察できた。国境線は、旧スロバキア側の検問所の手前にあり、浅い溝の ようなもので示されている。これが、ハプスブルク帝国解体のさいに、ハンガリー民族の生活空間を分断して人為的にひかれた国境線である。 これがまだ現存していることが、改めて感じられた。一方で、かつては国境道路を横断していた遮断機は撤去され、その残骸は今でも道端に打ち捨てられたままで、 2004年のEU加盟以来の国境事情の変化が生々しく感じられた。

国境近くのHidasnemetiという町には鉄道の駅もあり、そこには貨車が何両も通過手続きのために滞留していた。

町を抜けて国道を南下し、途中のEncsという町で国道を下り、37号線を東へ進んでいく。この町は観光業で栄えている町だそうで (町の公式HP )、 町の中にも商業店舗が何件かあり、観光地らしい洒落たたたずまいだった。鉄道が通っているためか、その後に通過したAbaujkerという町も、建物の改築工事が行われていて、栄えている様子が窺えた。

しかし、この辺りの農業は粗放的で、油用のひまわり畑やトウモロコシ畑だけしか見えなかった。中には作物が完全に枯れ果ててしまっている畑も何回か観察できた。



意外と寂しい、貴腐ワインの中心、トカイの街

更に進みAbaujszantoという町を過ぎると、地形は平野から丘陵に変わった。それまでのひまわりやトウモロコシに代わって、ブドウ畑が見られるようになる。 世界遺産であるトカイ地方に入ったのだ。トカイワインは、特別なカビが付着したブドウを用いて醸造した貴腐ワインで、高いアルコール、糖分、そして酸を含有する。

Tallyaという町の近くで鉄道と道路が交差した際、InterCityいう都市間高速鉄道を見かけた。ワイン地方に観光客を輸送しているのかもしれない。 だが、私たちが見た車両は、かなり古いものだった。

その後Tarcalなどの小さな町を通過したが、規模は小さかったもののトカイ地方ということもあり、時折観光バスや、観光客向けの店を見かけた。

やがて通過したトカイ(Tokaj)の町は、それまでの町と比べると道路などのインフラが大分整っており、商業店舗はそれまでの 町のものと比べると大分派手で、中には英語が入っているものもあった。しかし、全体としてみれば、商業店舗の数はさほど 多くなく、建物の多くは住宅である。観光客の姿はまばらにしか見られず、世界遺産の中心という割にはかなり地味な印象を受けた。 私たちが訪問した9月は一応トカイ観光のシーズンの一つとなっている。

川を渡り、トカイ地方から離れた。すぐ近くにあるRakamazという町では商業店舗はあまり見られず、建物の多くも住宅だった。 地形はその前と同じ平野に戻る。地形の変化に伴って、作物もまたトウモロコシに戻った。



ニーレジハーザ: 存在感のないカルパチア=ユーロリージョン本部

やがて、ニーレジハーザ(Nyiregyhaza)の都市圏に入る。

今までは全く見られなかった社会主義時代の建物が見られるようになる。特に、ニーレジハーザの街を囲んでいる環状線を過ぎたところからは、 社会主義住宅は勿論、シュコダの自動車販売店やシェルのガソリンスタンドなどもあり、かなり市場的な開発が進んでいるようだった。 しかし、都市環状線沿いには社会主義時代の巨大な廃工場が放置されており、市場経済化の発展には上均等さがある。

今晩泊まるホテルパレルモ(Hotel Pelermo)は、ニーレジハーザの中心から伸びる道路に面しており、駅へも歩いていける好立地だった。 このホテル自体はかなり新しいものであり、館内は、幻想的なインテリアで、全体が青い上思議な光に覆われている。 TVは勿論、Wi-Fiも整っていたが、ホテルのおばさんは、髪を真っ赤に染めて少々上良っぽく、あまり雰囲気が良いとは言えなかった。

荷物を置いた後、私たちは、市街巡検に出た。このニーレジハーザの市庁舎には本日のテーマの1つであるカルパチア=ユーロリージョンの本部が入っているので、 この市庁舎のある中央広場を目指して歩いてゆく。ニーレジハーザは、それほどはっきりとした同心円的な中欧中世都市に起源を持つ都市構造をとっているわけではないのだが、 地図を見てみると一応市役所のある広場を中心に都市が広がっていると分かる。

私たちが見た市街は、基本的に社会主義以前のハプスブルク帝国時代に建設された街区である。 市の公式HP によると、ニーレジハーザの街は第二次世界大戦中に戦場となりかなりの被害を蒙ったとあるので、市街地の建物の中には、戦後建てられたものも多かったのかもしれない。ハンガリーは、 戦後は社会主義圏に組み込まれながらも、ハプスブルク帝国の一翼を担っていた歴史から、ハンガリー動乱に見られるように独立の気質が強く、あまり社会主義に典型的な建物の形をしていない。 そのことが、私たちの見るニーレジハーザの建造環境に影響しているのだろう。

ホテルの近くの広場には、ベンツール(Benczur Gyula)という、ニーレジハーザ生まれのハンガリー人画家の銅像があり、地元が輩出した画家への誇りを感じることができた。

次第に都市の中心部に進んでゆくと、町にはユニエイト(Greek Catholic)教会があった。教会前の看板によると、この教会はSt. Nicholasを祀るもので、元々この地域のウクライナ民族の教会として 17世紀に建てられたものに由来しており、現在の教会は1895年に建てられたものだという。かつては、カルパチア山脈の麓までハンガリー領であったから、そこの農村に多く住んでいたウクライナ民族は、 かつては同じ国の中心地だったニーレジハーザに来て都市的生活を営んでいたことがわかる。ハプスブルク帝国の辺境をも補完領域にとりこんだ中心地としてのニーレジハーザの性格が、この教会から窺える。

この教会からほどなく、市の中心にあたるヘーセク広場(H?sok Tere)に到着した。この広場の中央には、二度の世界大戦を記念した巨大な像や、 古い路面電車がモニュメントとして置かれていた。この広場に面した新古典主義建築の市庁舎にカルパチア=ユーロリージョンの本部があることは確かだったが、 標識や看板は無い。カルパチア=ユーロリージョンの現地での存在感は、きわめて希薄であることがわかった。また、中世由来の都市には中心広場に市役所と教会があるのが通例だが、 ヘーセク広場には教会が無く、代わりに新古典主義の巨大な建物が広場に面して建っていた。私たちは訪問しなかったものの、カトリックの教会は、 この広場のすぐ近くで斜めの位置にある、別のコッシュート広場に面して建っている。

広場の近くには、若干の商業施設がある。ドイツの国際電話会社Deutsche Telekomの子会社であるMagyar Telekomの店舗があった他、 日本や韓国、欧米の様々なメーカーの製品が取り扱う電器店もあった。その他、街には中国料理店や書店なども確認することができた。 書店にはハンガリー語の本が多数陳列されており、ハンガリー語の使用者の多さが窺えた。ハンガリー語は欧州では孤立した語族で、 外国人の話者は少ない。ハンガリーという国自体には1000万人しかいないことを考えると、やはり、ハプスブルク帝国時代はハンガリー領で、 現在はスロバキア、ルーマニア、セルビア領などとなった地域に住むハンガリーの少数民族の存在は大きいのだろう。

その後、ホテルで紹介されたレストランでハンガリー料理やトカイワインをいただいた。ハンガリー料理は、パプリカを使ったかなり スパイシーなものが多いが、この店のものは、むしろ塩辛いほどだった。また、ステーキを頼んだつもりだったのだが、 タルタルステーキが出てきてしまい、頼んだ人たちは食べるのにかなり苦労していた。とはいえ、トカイワインは、さすがに甘口で美味だった。

食事をすませ、ホテルに戻って本日の巡検は終了した。



(堀越 亮)