2012年9月05日 グライフスヴァルト~プラハ

朝の7時30分に、全員が合流し、専用車で移動を開始した。この日の予定は、前日にも訪問したEWNで中間貯蔵施設(Zwischenlager)を視察した後、核融合による新エネルギーを研究しているマックス・プランク・プラズマ物理研究所(Max-Planck-Institut fur Plasmaphysik )を訪問し、その後列車で、ベルリンのゲズントブルンネン駅乗り換えでチェコのプラハ経由、夜行列車でスロバキアのコシチェへ移動するという流れである。

中間貯蔵施設 厳重な警備の施設で、管理が行き届いた原発廃炉の処理

まず私たちは、EWNに向かった。 到着すると、昨日と同じ受付に通された。ここで来客用の名札を渡される際、受付の方に名前を「さん」付けで呼ばれたことに驚いた。福島第一原発での事故以降、国外の原子力施設の解体作業も行っているこのEWNに、日本からの視察者も来ているのかもしれない。

この受付で、本日もEWNを案内してくださるオルデンブルク(Oldenburg)さんと待ち合わせた。その後、私たちの専用車で、EWNの奥へと進む。ここでは昨日と同じく検問所を通る。

検問所を通って右奥の建物が、中間貯蔵施設に入るためのゲートとなっている。この先の中間貯蔵施設は、昨日に視察した施設と違い、基本的に非公開で、許可なしではいることが出来ない。そのため警備が一段と厳しい。私たちは専用車を降りる際、中間貯蔵施設内には、カメラはもちろん、あらゆる電子機器類は持ち込めないので、全て専用車の中においていくように指示を受けた。

ゲートのある建物内に入ると、中間貯蔵施設に入るための受付に通された。ここでは先ほどの受付と違い、パスポートをチェックされ、金属探知機で綿密に体を調べられた。厳重な管理体制が見られる。

名札についたカードを使用して二重のゲートを抜けると、左に茶色い建物、右奥に青い倉庫が見られた。この茶色い建物はもともと原子炉のあった建物で、現在は使用されなくなった原発の部品の最初の解体作業が行われている。そして右の青い倉庫がこれから向かう中間貯蔵施設である。この中間貯蔵施設は、他の施設の転用ではなく、その目的で、ドイツが統一され、原発の運用が停止されあとの1994年に建てられたものだという。

私たちは中間貯蔵施設に入り、まず2階へ上がった。そこで一人ひとりガイガーカウンターを受け取る。このガイガーカウンターは累積被曝量を測るもので、累計50マイクロシーベルトを超えた時点で警報が鳴るのだそうだ。その後、私たちが着ている私服の上から、全員渡された防護服を羽織り、ヘルメットをかぶる。次の部屋でオーバーシューズを履く。ここでメモ帳などの私物を全て預けさせられた。一通りの装備を整え、私たちは放射性廃棄物を貯蔵している巨大な倉庫内に入った。

EWNが行う放射性廃棄物の中間貯蔵までの手順

EWNでは、まず放射性廃棄物を汚染度合によって3つのカテゴリーに分ける。

カテゴリー2(汚染の疑いがあるもの)とカテゴリー3(汚染されているもの)の中でも除染の必要があると分類される廃棄物は、解体を行ったうえで除染される。これらの廃棄物は1つ1つを「パッケージ(Package)」と呼び、IDを振られる。解体・除染後にもう一度線量を測り、汚染度合が低いものはリサイクルし、高いものはドラム缶に詰める。ドラム缶に詰めた廃棄物は必要に応じてコンクリートで固め、コンテナに詰められる。これらの段階を経たコンテナが、中間貯蔵される。

今回私たちが訪れた中間貯蔵施設は、解体から中間貯蔵までの作業が行われる施設である。

倉庫に入ると、まず大量のコンテナが4段に積まれているのが見えた。コンテナはクレーンで積んでおり、クレーンの高さより高くなる5段目は積めないのだそうだ。オルデンブルクさんの話によれば、もしも施設がテロに遭う事があっても、これらのコンテナの中身が破壊される心配はないのだという。

次に、倉庫の壁に近づくと、コンテナに積めるドラム缶の断面図を模した模型が置かれている。オルデンブルクさんはこの模型に沿って解体・貯蔵の手順を教えて下さった。倉庫にこのような模型が用意されていることから、視察者が時折この施設を訪れていることがわかる。

ここに貯蔵されている放射性廃棄物のなかには、グライフスヴァルトだけでなく、ラインスベルク(Rheinsberg)という旧西独の廃棄された原発から持ちこまれたものもある。ドイツ政府は脱原発を掲げているものの、内実は、旧西独で廃棄された原発の放射性廃棄物を旧東独に持ち込んで処理することで、旧東独の負担を一方的に大きくしている。この政策のなかに、ドイツの東西分裂時代に強かった旧東独に対する微妙な差別意識の残存を感じとる旧東独のドイツ人もいるにちがいない。

しかし、あくまでこの施設は中間貯蔵施設という立場から、グライフスヴァルト以外で生じた廃棄物に関しては、線量の高い廃棄物を持ち込んでの除染は行われない

ここ、元グライフスヴァルト原子力発電所内の廃棄物に関しては、3号機の原子炉内にまだ2つのパーツが残っている。この日、まさにその1つを中間貯蔵施設内にトラックで搬送する作業が行われているらしい。旧西独など他の原発から廃棄物を搬入する際は鉄道で貨車ごと持ってこられるよう、施設内まで鉄道線路が敷かれている。

オルデンブルクさんの案内に従って先に進むと、左に扉が見えた。時間の都合上私たちは中には入らなかったが、扉の奥では廃棄物解体後の除染作業を行うのだという。

さらに奥に進むと、黄色いペンキで塗ったような大きな廃棄物がある。これは線量が高くて解体できていない蒸気発生器である。ペンキを塗っているのは、放射性物質が漏れ出さないようにするためだそうだ。これらのパッケージには、放射線量の測定ポイントごとに情報を紙に記して貼っている。この紙にはパッケージのID、どこの原発から来たものか、放射線の線量が記されているほか、その他細かい情報をコンピュータで読み取れるようにQRコードが付されている。実際に蒸気発生器に付してある紙を見たところ、ラインスベルクから来たものであった。また、人が廃棄物に必要以上に近づかないように、床にはラインが引いてあった。

また、その横に置かれている青いシートにくるまれた炉心にも、同様に紙が貼ってあった。

私たちは倉庫内の視察を終え、2階のもと来た部屋へ戻ってきた。防護服を脱いだ後、放射能検知機の中に1人1人入った。検知器で正常だと判断されないと、外に出ることが出来ないようになっていて、しっかりと被曝が管理されている。ガイガーカウンターを返却する際、累計線量を見たところ、皆1〜2マイクロシーベルトで、問題はなかった。

今回の中間貯蔵施設の視察では、EWNでは放射性廃棄物のラベリング・管理を細かく徹底していることがわかった。放射性廃棄物1つ1つにIDをつけ、コンピュータで管理しながら、それぞれに合った方法と手順で貯蔵を進めている。

一方、日本の福島の原発事故処理では、放射性廃棄物は「がれき」などとまとめられ、どこに何が、どのような形であるのかが管理できなくなってしまっている。これから日本が原発を減らしていくといっても、これでは、危険な放射性廃棄物をいきあたりばったりに全国にばらまくだけに終わってしまいかねない。そうならないためには、このEWNの管理体制からわかるような、多大な手間と費用が必要である。日本の原発が、このような責任ある廃炉処理まで見通してその費用を予め積み立てているわけでは勿論ない。ドイツの経験から学ぶべきことはあまりに多く、日本の現状はあまりに絶望的に思われてくる。



ルブミンの港 ロシアからのガスパイプライン終点と、風力発電建設基地

EWNでの視察を終え、続いて私たちは、ロシアからEUにくる天然ガスパイプラインであるノルドストリームの終点である港に向かった。

L26を進む途中、右に曲がると、港が見えた。この辺りには、日本でも見られるようなアカマツなどの森が広がっている。











静かな掘り込み港の対岸を望むと、ロシアからバルト海の海底を通ってドイツに上陸したノルドストリームのパイプラインの終点が見える。そこには、ここから、ガスをヨーロッパ各地に中継するための圧力制御施設がある。比較的新しいものである。道沿いには、この施設を管理するメーカーの看板が立っている。これによると、ウィンガス(Wingas)というドイツ企業の、マイスターの資格を有した熟練技術者がここで従事していることが記されている。

港のこちら側には、黄色い柱が束ねられて多数横に置かれており、その近くに数隻の船が見られた。シュメーガーさんによると、黄色い柱は、昨日の懇親会で話に上がっていた洋上風力発電の風車の支柱らしい。鮮やかな黄色というのは、比較的派手な色で、船が衝突しないよう目立つことを考えたのかもしれないが、ビーチの景観破壊を引き起こすとして、観光業の関係者や訪問客などから苦情が来ることも今後考えられるだろう。

他にも、レジャー用の観光船がいくつか見られた。港が観光用にも使用されていることがわかる。



「脱原発」の裏で 新世代の原子力発電,核融合発電技術開発に取り組むドイツ

L26に戻り、左に曲がり、私たちはアンクラム通り(Anklamer Strase)にあるマックス・プランク・プラズマ物理研究所に到着した。

マックス・プランク・プラズマ物理研究所(Max-Planck-Institut fur Plasmaphysik)










マックス・プランク・プラズマ物理研究所は、マックス・プランク・ゲゼルシャフト(Max-Planck-Gesellschaft)という国立の研究所法人の1つである。マックス・プランク・ゲゼルシャフトは1948年に西独で設立し、現在80の独立した研究所を抱えている。その中でも、マックス・プランク・プラズマ物理研究所は、東西ドイツ統一後に旧東独地区に新たに建てられた、新エネルギーとしての核融合に必要なプラズマ物理学の研究機関である。この場所への立地には、グライフスヴァルト原発全面廃炉の引き換えという政策的な意味があったのかもしれない。この研究所には現在約500人が働いている。

核融合による原子力発電

核融合というのは、水素(H)の同位体である重水素(D)と三重水素(T)を反応させて、エネルギーとなる中性子を取り出すものである(この結果としてヘリウム(He)も生じる)。太陽の中で行われているのがこの反応であり、3.6×10の7乗GWものエネルギーを生み出している。いうまでもなく水爆は、この原理で莫大な破壊力を得る爆弾である

普通の水素は、原子核に陽子が1つだけであるが、重水素は原子核が1つの陽子と1つの中性子から構成されている。これは無毒であり、自然界にも存在する。海洋水の約0.1%が重水素となっている。

また、三重水素は原子核が1つの陽子と2つの中性子から構成され、こちらは放射性物質である。三重水素は自然界に存在しないので、リチウム(Li、陽子3個)に中性子を当てて発生させる。これに必要なリチウムは自然界に存在し、海洋水や岩石などに含まれる。

重水素と三重水素は互いのぶつかるスピードが遅いと反発してしまい、逆に速すぎると作用しない。これらを効率よく反応させるためには、約6億℃の高温プラズマ状態が必要となる。マックス・プランク・プラズマ物理研究所では、この高温プラズマ状態を継続的に作り出すための技術研究を行っている。

プラズマとは、固体・液体・気体に続く物質の第4の状態である。この状態においては、物質の原子核と電子が分離している。プラズマ状態は太陽の中で保たれているほか、オーロラや雷として自然界で見ることが出来る。

核融合に必要な高温プラズマを作り出すには、高温・イオンの高密度・十分な熱エネルギー閉じ込め時間の3つの条件が必要となる。

この条件を作り出すためには数種類の方法がある。水爆では、その中にセットされた原爆を使ってこの条件を作り出すが、平和利用でこの手法は使えない。太陽のように重力を用いる方法、高出力レーザーを用いてプラズマを高圧力にする慣性核融合の方法、磁場を用いてプラズマを閉じ込める方法などがあり、現在、マックス・プランク・プラズマ物理研究所で力を入れているのは、磁場閉じ込めの方法の研究である。

一般に、電流を流すと磁力が発生する。この時、磁場に働く引力・ローレンツ力によって高温プラズマを閉じ込める事が可能となる。この方法にはドーナツ状コイルに電流を流すトカマク(Tokamak)型と、らせん状のコイルを用いるステラレーター(Stellerator)型の2種類がある。現在この研究所で進められているプロジェクトは、ステラレーターW7-Xという原子炉である。円コイルによる電流とドーナツ型の電流を組み合わせて磁力線をねじることによって高温プラズマを閉じ込めるという従来のステラレーター型の方法に加え、超電導コイルを用いる。超電導物質を冷却してプラズマの周囲に使用する事で、電気抵抗を極限まで抑える工夫である。

このステラレーターW7-Xプロジェクトは、フランスを本部とした国際的なプロジェクト、国際熱核融合実験炉(ITER)と協力関係にある。現在はドイツも含めた各国が、プラズマ物理学や科学技術など専門の分野に分かれて研究を続けているが、それらがすべて2020年代後半にITERの本部があるフランスの施設に集められる。その後DEMOプロジェクトとして2030年代後半に最初の発電、40年代後半までの実用化を目指しているという。

今回は所員のステチョウさん案内、説明を受けた。ステチョウさんによれば、今後も世界全体で人口増加が見込まれる未来において、この核融合によるエネルギー供給は有用性が高いという。










現在のドイツでのエネルギー供給は火力が中心である。しかし、これに使用される石炭・石油・天然ガスには埋蔵量の限度があり、なおかつ環境への影響も存在する

その中で、ドイツは再生可能エネルギーの供給を高めている。2000年以降、風力発電や太陽光、バイオマスを中心に成長を続けている。しかし、これらにも問題がある。環境条件による供給できるエネルギーの量の変動が激しいので、供給量が少ない期間においては、変動がなくより安定した供給ができるエネルギー源を併用しなければならない。つまり、全面的に再生可能エネルギーだけに依存することは難しい、しかも、再生可能エネルギーは、火力や原子力に比べ非効率な面が否めない。

この両者のもつ欠点を克服できるのが核融合型の原子力発電なのだそうだ。








まず、核融合発電の利点はエネルギーの生産効率にある。石油1kgあたり生産できるエネルギーが8.1kWh、従来の核分裂型原子力発電所で使用されるウラン235が1kgあたり2.3×10の7乗kWhなのに対し、核融合型原子力発電で燃料として用いられる重水素・三重水素1kgあたりなら9.4×10の7乗kWhと最も効率が高い。

さらに、従来の核分裂型原子力発電所に比べ安全性も高い。核融合発電では従来の核分裂による原子力発電と違い、原子核が小さい重水素・三重水素が使用される。そのため、放射性廃棄物の半減期も、核分裂で生じる放射性物質の100〜1万年に比べ、0〜12年ときわめて短い。短期で放射性物質が自壊してしまうため、最終処理の必要性もない。また、核分裂のような連鎖反応が起きないため、チェルノブイリや福島のような大惨事になる可能性も少ない。








プレゼンテーションの最後に、3DのシミュレーションでステラレーターW7-Xの構造を見せて頂いた。らせん状のコイルと円コイルを重ね、その中に超電導物質を敷く。超電導物質を超低温に保ち電気抵抗を極限までなくす。その一方で、プラズマは超高温に保つ。そのコイルに管をつけ、重水素や三重水素の投入、ヘリウムや中性子の取り出しを行う構造がわかる。

ステチョウさんのプレゼンテーションの後、建設中のステラレーターW7-Xを実際に見せて頂けることになった。作業場にはステラレーターW7-Xの部品を扱うほか、部品の設置位置をレーザーで管理する部屋もある。










実際目の前にしたステラレーターW7-Xには作業用の足場がつけられている。燃料投入やエネルギー取り出しの管はつけられておらず、コイルの中が見える形になっている。最終的な完成までは、まだ15年かかるそうだ。気の遠くなるほど長期のプロジェクトである。

作業場の壁には、このマックス・プランク・プラズマ物理研究所と協力している企業や研究施設のロゴの銘板が貼られていた。

シーメンス(Siemens)などのドイツ国内のメーカーのほか、イギリス・フランス・スイス・スペイン・オランダといったヨーロッパのメーカー、オークリッジ国立研究所(Oak Ridge National Laboratory)やロス・アラモス国立研究所(Los Alamos National Laboratory)といったアメリカの研究機関のものがあった。

しかし、ここに日本の企業や研究機関の名前はない。日本も2001年からITERに参加し、岐阜県土岐市で核融合の研究を続けているが、2005年に、ITERの最終的な組み立て場所の六ヶ所村への誘致に失敗している(外務省ホームページより)。日本の、ITERでの核融合研究の中心としての役割は、ヨーロッパやアメリカに後れを取っているのかもしれない。

ドイツは「脱原発」を掲げているが、他方、国としてこのような核融合による原子力発電の研究に研究予算をつぎ込み続けていることが今回の視察でわかった。核分裂を利用する原発を短期的になくそうとはしているものの、長期的な視野で見ると核融合という別の型を採用することで、原子力エネルギーの開発に力を注いでいることには変わりないと捉えられる。ステチョウさんに、「ドイツ政府は脱原発を打ち出し、原子力から電気エネルギーをとることを断念する政策に転換したはずではないのか?」とあえて質問をぶつけてみたところ、「新技術開発を常に続けて、他国に後れを取らないよう、最先端のエネルギー確保の準備を進めておくことは必要だ」という答えがかえってきた。日本でも喧伝されている「脱原発」の裏にある、ドイツのエネルギー分野での長期的視野をもった競争政策のしたたかさを、ここで私たちは思い知った。

日本でも、2011年の福島の原発事故以来、脱原発の機運が高まっているが、その代替として期待される再生可能エネルギーには問題点も多い。風力発電は巨大な風車による景観破壊や低周波公害の問題を孕んでおり、地熱発電は地下の熱水を利用するので、温泉業との権益の衝突が避けられない。そのような中で、今後核融合発電は、核分裂による原発より安全で、公害を発生させない発電方法として、期待できるものだと考えられる。



旧東独、開発と放棄のアンバランス グライフスヴァルトからベルリンへの車窓

マックス・プランク・プラズマ物理研究所での視察を終えた私たちは、ベルリン行の列車に乗るため、専用車でグライフスヴァルト駅まで向かった。








グライフスヴァルト駅まではアンクラム通り、ゲーテ通り(Goethe strase)、駅前通り(Bahnhof strase)を通って道なりに1本である。アンクラム通りには家電量販店や自動車のディーラーがあり、商業景観はすっかり資本主義の様相になっている。この辺りの社会主義住宅は改装されており、芝生も整っているため、旧東独の中でもある程度裕福な様子が窺える。ホテルが多く、国内リゾート地としての役割も確認できる。また、奥にセント・メアリー教会(Sankt-Marien-Kirche)が見える。グライフスヴァルトはフランクフルトやドレスデンと違い、第二次大戦中に早々に白旗を上げたので、教会などの文化的遺産などが空爆の被害を受けることがなかったのだそうだ。

また、ここでは進学高校が見られる。高校入学時に進学高校か専門高校かを選んで入学し、人生の基本的な進路が決まるという旧西独のシステムが、東西ドイツ統一後には、ここ旧東独でも用いられるようになっている。








12時10分、グライフスヴァルト駅に到着した。駅舎は壁が塗りなおされており、駅前も整備されている。ホームには、リューベック近くにある「Hansapark」という遊園地の広告が置かれている。ハンザ同盟をテーマとした旧西独の遊園地の広告が、距離は遠いけれども同じくハンザ同盟に加盟していたこの旧東独の都市にまで出ている。

私たちはここで、初めての日本からの視察団である私たちに、EWNのアポ取りや元町長らとの懇談のアレンジをしてくださった、フォアポンメルン旅行サービスルブミン社のシュメーガーさんと別れた。旧東独で教育を受けられた方のため、英語でコミュニケーションがとりにくく、ほとんどすべてドイツ語での交渉となったが、とても親身で、視察する私たちの立場にたった手配をしてくださった。 駅の売店で各自昼食を買った後、列車で、昨日巡検を開始した、ベルリンのゲズントブルンネン駅まで、地域急行RE69635で南下していった。








私たちが乗車した列車は、2階建てであった。社会主義時代には、東独国鉄(DR)で、多くの乗客を運べるように2階建ての列車が多く導入された。この伝統が、それが東西ドイツ統一後の現在も続いているのだろう。

ただし、車内の緊急ブレーキの説明は、ドイツ語・英語・フランス語・イタリア語で書かれている。DBの車両であるので、全ドイツ共通の西ヨーロッパの言語を用いており、ロシア語やポーランド語での説明は無い。社会主義時代の文化との決別の意思が読み取れる。








列車がグライフスヴァルトを出ると、しばらく農場が続く。戦前のドイツでは、東部に大規模な領主経営の農場がひろがっており、東独時代は、これが社会主義国営農場となった。今もその名残として、一つ一つの農場の規模が大きい。しかし、中には耕作放棄された農地も見られた。社会主義時代には使用されていた旧東独の農地の中には、東西ドイツ統一後、市場経済では儲からないとされてこのように放棄される土地もあるのだろう。








川沿いにある、アンクラム(Anklam)の駅に停車する。この辺りには、スイスの企業のセメント工場があるほか、化学工場と見られる施設が見られる。

アンクラムを過ぎると、しばらく農場や風力発電所が続く。停車する駅の周辺には、廃墟のような建物もある。パーゼヴァルク(Pasewalk)やプレンツラウ(Prenzlau)などの比較的大きい駅ではエレベーターや車いす用スロープが設置されているものの、駅舎や貨物車に落書きがあるなど、整備が行き届かず荒廃したままの様子も窺え、発展に統一性がない。円筒状の古びた蒸気機関車用と思われる給水タンクも、そのまま残されている。

この辺りですれ違う電車に、「Osteeland」という企業のロゴがあるものを見つけた。この会社は、公共事業のオペレーションに特化するフランス企業であるヴェオリアグループの傘下にあり、DBの鉄道線路を使用して、DBが担えないようなローカル列車運行のための列車保有・運営を担っている。公共事業のオペレーションに特化するフランス企業であるヴェオリアグループの傘下にある。ドイツ鉄道の民営化が、一部の経営を分割し、このようないろいろの事業形態を採用しながら、ローカルな交通需要に対しても配慮する方針で進んでいることがわかる。

ベルリン行と、シュテッティン(Stettin)行の分岐点となっているアンガーミュンデ(Angermunde )駅に近づくと、東独時代からの工場が見られる。近くには、東独時代の社会主義住宅も立ち並び、駅にもタンク車や貨物車が並んでいる。この辺りに来ると、ベルリンの郊外としての機能も感じられるようになる。

エーベルスヴァルデ近くのコリーン(Chorin)駅の駅前にはレンタサイクルがあり、自転車を用いたパーク・アンド・ライドが出来るようになっている。ベルリンやエーベルスヴァルデへの通勤、通学者も少なくないのだろう。また、この駅には観光案内としてサファリや修道院、乳製品メーカーなどの広告の看板が見られた。近くには不動産屋もある。この辺りは田園風景の中に住みたい者の郊外住宅地、そしてベルリン市民の日帰りの余暇地になっているのかもしれない。








駅前は発展を遂げている一方で、駅間は都市化が進んでおらず、農場と風車以外あまり都市的機能が見られない。全体として、旧東独地域の限定された経済発展を、景観的に見る思いがした。

エーベルスヴァルデを過ぎてからは昨日と同様のルートを通り、私たちは午後3時22分、定時にゲズントブルンネン駅に到着した。



旧西ベルリンから旧東独への、急激な景観の変化 ベルリンからドレスデンへの車窓








私たちは、列車の待ち時間を利用し、ゲズントブルンネンのショッピングセンターで各自買い物を済ませた。ショッピングセンターには、テナント式で数多くの店舗が入っており、食料品を扱うキーテナントのほか、日用品や書籍、家電製品などが売られていて、毎日の消費生活はほぼこのセンターで充足できるようになっている。

だが、ショッピングセンター内の銀行で両替して米ドルを入手ようとしたが、替えることが出来なかった。ウクライナの旅行会社に米ドルで代金の一部を支払う必要があるのだが、ドイツの一般市民向けリテール金融機関には、もはや米ドルは相手にせず、というユーロ帝国主義のような考え方がひろがっているのかもしれない。








私たちはその後、午後4時39分発の欧州都市間特急EC179に乗って、チェコの首都プラハへ向かって出発した。この列車は食堂車込みで9両あり、途中ドレスデンで1両を切り離す。6人1コンパートメントで、基本的に自由席であるが、料金を払って席を指定する事で席を確保できるようになっている。先頭車両はドイツ鉄道、DBのものであるが、私たちの乗る客車はチェコ国鉄のもので、?Dというチェコ国鉄のロゴが入っていた。

列車は出発してから、南下を始める。左側に改修された社会主義住宅が多数見え、旧東ベルリン地区であることがわかる。

列車は地下にもぐり、ベルリン中央駅(Berlin Hauptbahnhof)に停車した。この駅は東西ベルリン統一後に出来た新しいものである。東西ベルリンが分断されていた当時、西ベルリンにはベルリン動物園駅(Bahnhof Berlin Zoologischer Garten)、東ベルリンにはベルリン東駅(Berlin Ostbahnhof)という2つの中央駅が存在していた。東西統一後に、東西を走るSバーン(Stadtbahn)と南北を走る地下鉄道の交わるこの場所に、新しい中央駅が置かれた。そのためこの駅は、東西ベルリン統一のシンボルとなっている。

トンネルを抜けて地上に出ると、しばし列車は、旧西ベルリンの市内を走る。ほどなく、東西分裂時代には壁で線路が分断されていて、統一後再建された鉄道線路にはいり、そして突如、景観は森や畑などの田園風景に変わった。この景観の変化は急激で、壁があった場所を通過して、再び私たちがベルリン市外の旧東独に入ったことがわかる。分裂時代、西ベルリンは360度を壁で東独に囲まれていたから、この場所が西ベルリンの郊外として都市化されることはなかった。だが、統一された今も、郊外化はさほど進んでおらず、現在でも農地のままほとんど住宅開発されていない。東西分裂が、統一後20年以上経過した今も、依然としてドイツの景観に深い跡を刻んでいることが窺える。

この先、エルスターヴェルダ(Elsterwerda)まで南下を続ける。農場や風車が続き、停車する駅の駅舎も古びている。昨日から見てきた典型的な旧東独の景観となった。このあたりの農地は、ベルリン以北で見てきた農地と比べ、一つ当たりの面積が小さい。この違いの理由として、社会主義以前、ここのあたりは領主の農地でなく、自作農の農地であり、それらがそのまま社会主義農場に転換したことが考えられる。ここでも、耕作放棄された農地があちらこちらに見られた。

エルスターヴェルダを過ぎると、列車はドレスデンの方へと東に進む。

私たちはエルベ川を望みながら食事をしたいと思い、ドレスデンに近づく前に食堂車に移動した。食堂車は、チェコ国鉄の経営である。メニューはチェコ語・英語・ドイツ語の順で書かれている。支払いはユーロでもチェココルナでもできるようだ。








今回、せっかくなのでチェコ料理を食べたいという事で、サラダとチェコ風グラーシュ、ピルスナー・ウルケル(Pilsner Urquell)、そしてアイスを頂くことにした。本場チェコのピルスナーはホップによる甘味が利いていて、美味しい。

ドレスデンの郊外にくると、戦前からの住宅が見られるようになる。ドレスデンは戦前、ザクセン王国の伝統を持つ文化都市で、富裕層が集まっていた。第二次大戦末期、ドレスデン市街地はイギリス軍の大規模な空爆を受けて徹底的に破壊されたが、郊外には当時の富裕層の住宅が現在も残っている。

また、郊外にシーメンスの工場が見られた。旧東ドイツの国営企業が競争力を失い、そこにこのような旧西独の企業が進出している。

ドレスデンを発車すると、左にエルベ川が見えてきた。エルベ川はチェコから流れ出し、ドイツのハンブルクを通って北海にそそぐ。窓の外に流れる夕暮れのエルベ川の景色を望みながら食べる夕食は、最高である。

川沿いの地形は崖のようになっており、対岸の下の方に富裕層の別荘と思しき建物がいくつも見られる。地面が隆起した結果、川が沈降してこのような地形になっている。これらの建物には、古くはザクセン王国の貴族の館だったものもあるのであろう。

しばらくしてバート・シャンダウ(Bad Schandau)という小さな駅に停車した。この駅が私たちの乗った急行列車が停車するドイツ最後の駅であり、この駅を出てすぐに国境を跨ぎチェコに入る。社会主義時代はここで厳しい国境の検問があったのだろうが、今は、EU内でシェンゲン協定を結んでいる国同士での移動なので、税関や入国管理などの検査は何一つない。第一次大戦前ならば、ここから、3日後のリボフまでずっと、ウィーンを首都とした広大なハプスブルク帝国を私たちはゆくことになる。ここからが、かつてのオーストリア領であった。



がらんとしたプラハ中央駅で乗り換え、夜行寝台車でスロバキアへ

国境を越えて10分ほどすると、デチン(D??in)という駅に停車した。チェコに入って最初のこの駅で車掌は交代し、それ以後はチェコ語での車内アナウンスとなった。また、駅の看板もそれまでのDBの青ではなく緑のもので、チェコ国鉄、?Dのロゴが駅名の横に入っている。

午後9時26分、私達の急行の終着駅であるプラハ中央駅(Praha hlavni nadrazi)に到着した。この駅で夜行列車に乗り換え、スロバキアのコシチェに向かう。

プラハ中央駅の5つあるホームには、この時間には人がほとんど見られず、チェコの首都の中央駅としてはとても閑散としている。ホーム間の移動には地下通路を通る必要があるが、エレベーターやエスカレーターがなく、移動する際は階段かスロープを上り下りするしかなかった。通貨の両替をしようにも、ホームの近くには両替所がなく、乗り換え時間が短いのでプラハでの両替は断念した。売店もホームには見当たらない。駅の商業機能は、駅舎まで行かないと存在しないように見受けられる。








午後9時54分発の欧州都市間夜行EN445/443に私たちは乗車した。私たちの乗った客車はコシチェが終点であるが、この列車には、途中駅で切り離されて、ポーランドおよびベラルーシ経由でロシアのモスクワまで行く客車も連結されていた。外から見たロシア国鉄の客車はきれいであり、比較的新しいもののように見える。EUとの国境を跨ぐ列車には良質の客車を使用しようというロシアの見栄が感じ取れる。あるいは、旧ソ連製の客車がEUの鉄道安全基準を満たせなくなり、新品の客車を使用せざるを得なくなったという事情なのかもしれない。

私たちの寝台車は2人1室のコンパートメントで、2段ベッドが1つしつらえてあった。部屋に1つ置かれている小さなデスクを上に開くと、洗面台になっている。蛇口からの水は飲用水でないため、カップのミネラルウォーターが用意されているといったように、サービスもそれなりに充実している。

あまり慣れない寝台車に揺られながら、この日の巡検を終えた。



(浜崎 厚徳 / 吉田 達郎)