ついに二週間弱に及んだ巡検も最終日を迎えた。本日はクイーンズタウン及びその周辺都市であるアロータウンの歴史的発展と観光産業、そして金鉱に働いた中国人労働者の問題について視察する。
ホテルを出た私たちは、タクシーを走らせ、クイーンズタウン市街地とクイーズタウン空港(Queenstown Airport)をつなぐ10km程のフランクトン道(Frankton Road 国道6号線の支線)を通って市街地に到着した。道はワカティプ湖(Lake Wakatipu)に面しており、湖面にはヨットのような小型船や遊覧船が浮かぶ。入江(フランクトン・アーム Frankton Arm)の対岸にはゴルフ場(クイーンズタウンゴルフコース Queenstown Golf Course)が整備されている。町の中心では、ジェットボートやスキー、バンジージャンプなどの自然アトラクションが至るところで宣伝されていた。
これらからわかるように、クイーンズタウンは、観光産業で地域経済が成り立っている町である。そして、ここの観光業は、グローバルに到達範囲がおよぶ強い競争優位を誇っている。私たちは、クイーンズタウンの産業の変遷は如何なるものか、どのような要因がクイーンズタウンの観光に国際競争力を与えているかなどについて関心をいだき、クイーンズタウンの観光振興機関であるデスティネーションクイーンズタウン(Destination Queenstown DQ)を訪問し、お話を伺わさせていただくことにした。
クイーンズタウン観光産業の盛り立て役、Destination QueenstownDQはニュージーランド中に29個ある地域観光振興機関(Regional Tourism Organizations RTOs), の一つである。DQの他にDestination Christchurch, Destination Fiordlandなどがある(DQ Annual Report)。RTOの大半は政府系機関であるが、DQの性格はそれらと若干異なって、市の一種の外郭団体となっている。DQの資金源はクイーンズタウン市(Queenstown Lakes District Council QLDC)が800の地元企業から徴収している、宿泊料や固定資産税に賦課される会費で、運営は民間の会員制組織が行なっている。QLDCが資金を税金のようなかたちで徴収するので、DQは安定的な資金的基盤のもとで運営ができる。QLDCは、運営の内容について指示はしないが、DQは、定期的にQLDCに報告をする義務を負っている。ニュージーランドにおける、政府の計画された介入による市場競争力の強化という、管理されたネオリベラリズムの政策指向を、ここにもはっきりと認めることができる。 |
クイーンズタウンの目抜き通りの一つ、スタンリー通り(Stanley Street)にあるDQ事務所につくと、ラグビーワールドカップのマークが刺繍されたマフラーをした、CEOのエバリット(Tony Everitt)氏がじきじき出迎えてくださった。
DQは、トニーエバリット氏のもとで、クイーンズタウンの観光マーケティングを手がけている。オーストラリアとニュージーランドで広告を出し、クイーンズタウン広報のために世界7000の旅行代理店と関係を持ちながら、クイーンズタウンでの自然体験を「pure inspiration」というキャッチコピーのもとに売り出している。
日曜日なので氏以外の職員は不在であったが、日本人が旅行客として重要なクライアントであること、そして近年、観光産業の発展に関心を持つ私たちのような学習訪問者がクイーンズタウンに増加していることもあって、二つ返事で時間を割いていただき、お話を伺えることとなった。観光産業に関する学習訪問自体が、クイーンズタウンの新しいツーリストアトラクションと位置づけられているのかもしれない。DQとエバリットさんのフレキシブルな対応に感謝したい。
事務所は、10人も働いていないような小規模なもので、私たちはその中の会議室に通され、まずブリーフィングを受けた。
周囲を山と湖に囲まれた人口2万人の町、クイーンズタウン。エバリット氏によると、クイーンズタウンの産業発展には、3つの時期がある。
まず、1860年代にゴールドラッシュが生じて金採掘で人が大勢やってきた第一期。その後1865年から1940年程まで、農業が地域経済の基盤だった第二期。そして1940年から現在までの、は観光業が発展してきた第三期である。現在、クイーンズタウンにある800の企業のうち半分は観光関連会社だという。
第一期のゴールドラッシュが去って第二期にはいると、クイーズタウンは農業をほそぼそと行うのみで、200人程しか住んでいない寒村となった。
観光業発展の転機となったのは、1940年代終わりにコロネットピーク(Coronet Peak)に開設された国営スキー場であった。だが、スキー場だけならありきたりで、クイーンズタウンが世界的な観光地となるには力不足である。クイーンズタウンを80〜90年代に世界的観光地の地位に押し上げたのは、バンジージャンプやジェットボートなど、他の場所に全くない独創的なツーリストアトラクションの発明であった。その後、ゴルフ場の創設や、山岳景観が認知されてきたことによって来訪者に年齢の厚みがうまれ、着実にグローバルな到達範囲をもつ観光地に成長していった。

コロネットピーク (画像出所)http://www.nzski.com/mountain.jsp?site=coronetpeak

カワラウバンジージャンプ (画像出所)http://www.bungy.co.nz/kawarau-bungy-centre/kawarau-bungy

ショットオーバージェットボート (画像出所)http://www.shotoverjet.com/
しかし2007年からは、ニージーランドドルの高騰や地震の風評 (クイーンズタウンには地震による被害が実際にはない)で観光客が減少しているという。とはいえ、昨今は観光業の繁栄をうけて不動産バブルが膨れ、クイーンズタウンの土地や建物の価格水準は周辺都市のおよそ倍の価値となっている。また一般市民向けの物価も高い。
クイーンズタウン観光の成長における特徴について、エバリット氏は、地元の人々・企業が自ら協力して発展に導いていった点である、と強調された。
実際DQは地元企業が自発的に組織したものであるし、後に視察するワイン会社レイクヘイズヴィンヤード(Lake Hayes Vineyard)は地元のダービー(Darby)一家が1991年に立てたものである。観光多国籍企業が半ば支配し、その主導で発展した町ではなく、誰か一人の才気ある人物が現れてクイーンズタウン観光を発展させたわけでもない。
そうはいっても、観光産業発展のきっかけは、キンリースのベニア板工場やワイレケイの地熱発電所のように、国主導のスキー場開発という産業政策であった。また、クイーンズタウンにもTHC (Tourism Hoel Company)という政府系のホテルが建った。
だが、THCは、その後のネオリベラル政策により民営化され、そのほかに中央・地方政府による目立った観光政策はなされず、おもに家族経営企業が観光産業を盛り上げていった。とはいえ、クイーンズタウンに昔から住んでいた農民たちが観光業を興したわけではないから、これは、狭い意味での「内発的発展」の範疇には入らないであろう。だが、企業家精神をもつ何人もの市民が力を合わせて、クイーンズタウンに独特な産業を育んできたことはまちがいない。この地域産業政策は成功し、海外から富裕な観光客が多く来るようになって、クイーンズタウンでは購買力が高まり、物価や不動産価格が高くなった。人口が上昇基調のクイーンズタウンではこの流れはまだ続きそうで、地元の一般市民にとって、クイーンズタウンは必ずしも経済的に住みやすい街というわけではなくなってきているようだ。
クイーンズタウンは、国内はもとより、グローバルな観光・リゾート地と地域間競争をしている。エバリット氏の説明によれば、クイーンズタウンの観光業には三つの競争優位がある。
《革新性(innovation)》
一つ目は「革新性(innovation)」である。ジェットボートがフェアリー(Fairlie、 南島)のハミルトン(William Feilden Hamilton)に1954年によって考案され、メルホップ兄弟 (Melhop brothers)が1960年に商業運転を始めた(http://www.shotoverjet.com/)。また商業バンジージャンプは、1988年にオークランドのハケット(Alan John Hackett)がクイーズタウン周辺にあるカワラウ橋で開始した(http://www.bungy.co.nz/)。これらの、絶叫系自然アトラクションはここクイーンズタウンが発祥地であり、クイーンズタウンの観光産業に、先駆的な独自性を与えた。
《多様性(Variety)》
二つ目は「多様性(Variety)」である。クイーンズタウンではDQの的確なマーケティングによって次々に新しい観光産業が作られていった。
バンジージャンプとジェットボートは20〜35歳の若い世代むけ絶叫系アトラクションであり、しかもアクティビティの性質上一定の危険を伴うので、これら二つしかアトラクションがないと来訪する年齢層も限られるし、万一アクティビティ中に事故が起こってしまうとクイーンズタウンの観光産業自体に壊滅的な悪影響が及びかねない。そこで、世界的に裕福な高齢層が増加することを考慮し、シルバー層や家族層も楽しめるアトラクションとして、サイクリング、英植民地時代のノスタルジーをかきたてる湖のクルージング、そしてワイン(1987年に最初の地元ワイン、ギブストンバレーワイン Gibbston Valley Wineを発売)といったあらたな「商品開発」に注力した。さらに約20年程前からは、国際リゾート地として成長すべくゴルフ場も建設し、ミルブルックリゾート(Millbrook Resort, アローズタウン)が出来た。ゴルフやワインも、それ自体では比較的普遍的で独自の強みとして機能した。観光客を呼び寄せるとは必ずしもいえないが、他のアトラクションや山岳景観との相乗効果で、シルバーや家族層を引き寄せるのに役だっているのであろう。
またクイーズタウンの観光資源である山岳景観の別の利用方法として、映画があげられた。クイーンズタウンの山々をロケ地に映画を撮る映画産業が新たに勃興しており、ウェリントンのウェタの子会社としても機能する小規模の映画会社がクイーンズタウンに出てきた。映画のロケ地としてハリウッドやボリウッド(ボンベイの映画産業)に利用されることで映画産業が潤うと同時に、映画に出たロケ地を一度見てみたいという観光客が増加する相乗効果を生んでいる。 さらに、クイーンズタウンの国際観光地としての声価が高まると、ここに、英語研修プログラムを提供する外国人向け語学学校や観光ビジネスを教える専門学校が立地し始めた。これにより、留学生はもとより、ニュージーランド人の長期滞在が生まれている。
以上のような新産業を生み出す革新性のため、現在のクイーンズタウンの主要産業は上から順に観光、映画、ワインそして教育と、それ自体多様化するようになった。
《交通利便性(Access)》
三つ目は「交通利便性(Access)」である。クイーンズタウンへの交通は25%が空路で75%が陸路となっている。DQはこのうち、空路の整備に積極的に取り組み、クイーンズタウンのさらなる国際化を図っている。上述のように市街地から車で20分程という近距離にクイーンズタウン空港があるので、航空路は至便である。この空港に国際便を発着させ、世界各地から直行フライトで観光客を呼び込むことが理想だが、クイーンズタウン空港の滑走路は狭いため国際線で飛ぶボーイング737やエアバス320といった大型旅客機は離着陸できない。しかも、空港の拡張は、周囲が高い山であるという自然地理的条件から難しく、また空港の移転は、騒音問題や膨大なコストのため実現不可能であるようだ。そのため、観光客増加の一つの方法として、国内のオークランドやクライストチャーチの国際空港での乗り継ぎ便を増やすべく、国際空港と協力して海外の主要な航空会社に、ニュージーランド国内の国際空港への就航を増やすよう働きかけている。この動きでシンガポールからオークランドへ、そしてマレーシアからクライストチャーチへの空路がクイーンズタウンへの航空便に接続しており、現在キャセイ航空(Cathay Pacific) やエアアジア(Air Asia)に働きかけて、更に接続便を増やそうとしているそうだ。
もう一つの問題は、クイーンズタウン空港が24時間運用可能でなく、環境保護のため閉港時間が午後10時と決められていることである。空路の深夜便を設定すれば、例えば金曜の午後6時にシドニーをでて同日深夜にクイーンズタウン着、金曜の仕事を終えたオーストラリア人がまっすぐにクイーンズタウンに行って週末をすごすということができそうにみえるが、両国間に時差が2時間あるため、午後6時シドニー発のフライトでは実際には閉港に間に合わない。24時間運用の空港でないため、フレキシブルな旅行者のニーズに航空ダイヤが対応できない。
こうしたなかで新たな市場として注目されているのは、アジア人である。年間クイーンズタウン海外観光客174万人のうちの約12%はアジア勢で、その約40%(2011年)を占め、なおかつ上昇基調なのが中国人である。こうしたニューリッチの中国人を呼び込むためにも、これらの航空会社の就航が重要である。また別の方法として、クイーンズタウンから空路3.5時間の距離にあるオーストラリアの都市(シドニー、メルボルン、ゴールドコースト、ブリスベン)とクイーンズタウン空港の直通便をエアニュージーランド(Air New Zrealand)、パシフィックプルー(Pacific Blue)、カンタス(Qantas)、ジェットスター(Jet Star)の四航空会社が新しく直行便を就航させ、オーストラリアのハブ空港との連結を強化した。この就航によって例えば、ジェットスターによって東京-シドニー-クイーンズタウンという東京とクイーンズタウンの間で以前より運賃の安い経路を創出できた。このような努力によって、現在25%のクイーンズタウンへの空路利用者の交通割合は増加していき、海外観光客はさらに多数呼び込まれていくと考えられる。国際航空路の発達と低価格化が観光地の国際化をすすめるという発展径路を、DQが意識的に追求し促進しているということだ。
残り75%の陸路に関して、その内訳は自家用車60%、都市間高速バスとツアーバス30%、キャンピングカー15%となっている。都市間高速バスがかかえる問題は、日本で一般的な夜行バスが走っておらず、個人旅行をするバックパッカーにとって、旅程作成のフレキシビリティを欠くことである。南アルプスの山々を見ながら移動できる昼行バスしかバス会社は走らせたがらないという。DQは、クイーンズタウン着発の夜行高速バス運行をバス会社に働きかけているそうだ。
説明を受けた会議室の壁には、マウントクック旅行社(Mount Cook Tourist Company of New Zealand,後にMount Cook Groupとなるが1989年に分割民営化)によるクイーンズタウンへの陸路直行ルートとそこの観光客の輸送サービスの宣伝ポスターが貼ってあった。そこには第二次大戦後に慰安を求める元兵士の観光需要をターゲットにしてクイーンズタウンまでの旅程が描かれている。夜8時にウェリントンを連絡船で出発すると、クライストチャーチを経由して翌日正午にストゥドールメ(Studholme)に到着し、そこで会社が運営する車に乗り換えて午後8時にクライストチャーチにつくと宣伝されていた。当時は、首都からクイーンズタウンまでまる1日を移動に要したわけである。
DQが提言によって主導して、クイーンズタウン観光業は新たなアトラクションを取り入れて需要を次々掘り起こし、交通手段を整えてアクセスしやすい環境を整えて、実際に成功させている。観光振興機関の的確なマーケティングと提言をもとに、革新的なアトラクションを開発する創造的精神が、ここの観光業を世界的なものにしていた。DQは担い手は、民間であるが、市によって財政的に支えられているのであるから、開発主義国家的観光開発のイニシアティブを持っているともいえる。クイーンズタウンにいけば誰もが主に自然を中心に何かしら楽しめるという期待感があり、訪れる年齢層が厚く、多様な観光アトラクションが整っていて、訪れやすい街、これがDQの目指したクイーンズタウンの姿であろう。
一通りの質疑が終わると、エバリット氏は、操れる若干の日本語で歓談するサービス精神を、私たちに発揮してくれた。インタビューを終えた私たちは、実際にエリアの観光産業や歴史を視察すべく、事務所を後にした。
事務所の外で待っていると、陽気な男性で、ツアー会社経営者兼バス運転手のネビル・プライアント氏(Neville Bryant)が迎えにきてくれた。ブライアント氏のバス会社は、1941年にその家族が設立したクイーンズタウン初の観光バス会社リマーカブルエクスブリエンス(Remarkable Experience)である。現在はプライアント夫妻婦が老後の趣味として街を案内しているそうだ。そのバスは、米国シボレーのビンテージモデルであり、このバス自体の写真を観光客が撮りにくるほど趣がある。
バスが走りはじめて市街地を見回すと、見当たるものはどこもかしこもスキーやキャンプ、サイクリングなどのスポーツ用品店、ジェットボートやバンジージャンプ等の自然アトラクション案内所、レンタカー事務所、土産物店など観光産業に関連したものか、お洒落なカフェや国際色豊かなレストラン、パブなどであった。プライアント氏はクイーンズタウンには観光しか産業がないと言い切っていたが、実際目に入った店舗の様子からは、そのとおりである。
アロータウンを目指して、空港のある衛星都市フランクトンを過ぎ、郊外に出た。道路から少し離れた畑のどまん中に、観光客のためのホテルではない、かなり大規模な住宅開発がみられた。レイク・ヘイズ・エステート(Lake Hayes Estate)である。クイーンズタウン市街地の不動産は、リゾート地として価格が高騰しているので、クイーンズタウンで働く地元の人々は市内に住むことができない。そこで、こうした遠方の住宅開発地に住んで車で通勤せざるを得ないのである。国際観光地化がもたらした、新たな居住分化といえる。
フランクトン通り、国道6号線、センテニアルアベニュー(Centennial Avenue)を通ってアロータウンを目指す。道中にヘイズ湖(Lake Hayes')にたちよった。湖の絶景に、クイーンズタウンの観光業発達の引き金となったコロネットピークを望む。偏西風が南アルプスの西側斜面を吹き上げる時に降水が起こり、山脈の反対側には水分を失った乾燥した空気が入るため、周りの丘の斜面に樹木はあまり見られず、土地も茶色く乾燥している。雪は山の高いところにしか積もらないので、スキー場は高地にしか作れない。南半球初の冬季オリンピック開催地という呼び声もあるが、現実は、降雪量が少なく、難しいようだ。ヘイズ湖の水質がQLDCによって改善した、と湖のそばの看板が説明していた。プライアント氏もクイーンズタウンの水質が良いことを自慢していた。
ヘイズ湖をすぎると小規模なゴルフ場アロータウンゴルフコース(Arrow Town Golf Course)があった。季節が冬ということもあり、ゴルフ場は閑散としていて、ゴルフを楽しんでいるのは一人だけであった。ここは、1935年から有る伝統コースであるアロータウンゴルフクラブであり、近くにある大規模なゴルフコース、ミルブルックリゾートはDQのゴルフ推進によって出来たものである。
クイーンズタウンの多様性は広がり、最近には芸術をとりこむまでになってており、画廊が数多くできはじめた。Queenstown Gallery of Fine Artによると、クイーンズタウンの画廊は、90年代の観光業の繁栄のなかで、国際的にも通じるオリジナルアートを求める声に応えるかたちで出来たものだという。DQが裕福な訪問客にたいして、新たなアトラクションとして絵画を育て、売ろうとしているのだろう。
私たちは、そのうちの一つ、トーマス・L・ブラウン美術展示館(Thomas L Brown Art Exhibit)に立ち寄った。建物は100年前にチーズ工場として作られたものを、画廊として使用している。この画廊の主は、アメリカからニュージーランドの自然が気に入って移住してきており、作品制作の依頼を受けて生計を立てている。国技ラグビーに関した絵画や粘土細工、風景画の注文が多いようだ。私たちをコーヒーとお菓子でもてなしてくださり、展示している絵画の購入を勧められた。もちろん、私たちにはそのようなお金はなかった。また写真撮影は許可されなかった。
アロータウンに入った。ゴールドラッシュ時に金鉱夫達で賑わった町も、今はゴールドラッシュの面影を遺す町として、観光客を集めている。しかし、私たちが訪れたときは走る車は少なく、歩行者も多くはなかった。
商店街に入ると、建物は開拓時代の風合いに建てた木造や石造りの平屋が多かった。金鉱の町ということで「Gold Nuget(金塊)」という金塊を展示した宝石店もある。金鉱時代の金が入った小袋をもつ人の顔がくり抜かれた記念写真のための板がおかれ、ゴールドラッシュで売っている町ということが伝わってくる。このほか、タイやフランス料理などのレストランや小奇麗なカフェが並び、金鉱の歴史で売り込む観光の街という、現在の地域経済基盤が伝わってくる。
この節では、アローズタウン中国人集落(Arrowstown Chinese Settlement)とアロータウンにある市の博物館(Lake District Museum & gallery)の資料をもとに、1860年代のゴールドラッシュと、そのときに労働力としてやってきた中国人金鉱労働者についてまとめておくことにする。
当時のイギリスは公式に奴隷制度を廃止していたので、このとき連れてこられた中国人は奴隷ではないが、中国人は、おしなべて奴隷のような扱いをイギリス人に受けていた、という想像がすぐに頭をよぎる。しかしその実、中国人のなかにも社会階層の違いが存在していた。それは奴隷のように働かされる中国人労働者と、その中国人を現場でまとめてイギリス人に手をかす買弁的な少数の中国人であった。
まずは前史としてアロータウンに関係するゴールドラッシュ関連史についてまとめる。
《アロータウン周辺のゴールドラッシュ》
博物館の資料によると、1862年に鉱夫であったマオリジャック(Maori Jack)、通称ジャックテワ(Jack Tewa)は、雇用主であるリー(William Rees)に、金をアロー川で発見したと報告した。リーは金の占有をはかってテワに口外しないことを約束させたが、金の重要性を理解していなかったテワは他の二人の鉱夫に話してしまった。
従来の通説ではフォックス(William Fox)がアロー川での発見をしたこととなっており、そのためアロータウンは"Fox's"と言われ、私たちが昼食を取った店では"FOX'S BAR"との看板を付けていたが、実はテワのほうが早い発見であった。
金発見の報が伝わると、男たちは町での仕事をすてて金を求めて集まった。アロータウンにはテントが乱立し、「Fox's Camp」と呼ばれた。これが現在のアロータウンである。前述のリーは大規模の牧場を作る夢をもっていたが、状況に合わせてホテルQueens Arms Hotelをたてた(現在その一部はEichaedts Hotelとして残っている)。テント群はより恒常的な都市となっていった。1863年にはクイーンズタウンが誕生し、新聞Lake Wakatipu Mailが発行された。
《白人による差別を受けつつ、金鉱で働いた中国人たち》
当時中国人は、鉱山労働者として白人によく使われていた。ゴールドラッシュが起こると、中国人鉱夫はオーストラリア・カナダ・アメリカなどに移動したが(博物館発行の Chinese Goldseekers Emigrateより)。
採掘に伴い金鉱の産出量が減ってくると、中国人労働者が連れてこられた。ニュージーランドには1860から80年代のうちに、8,000人の労働者が渡海し、その数は集まった鉱夫の40%を占め、産出した金の30%は彼らの働きによる。
実は、イギリス人が中国人を唆して連れてくるようになった頃には、1865年に最初に発見された金山は枯渇しかかっていて、白人鉱夫達は去ろうとしていた。そこで、白人に比べ一生懸命働き、しかも賃金が安い中国人に、あるかどうかわからない金を発見、発掘させていたのである。
中国人金鉱労働者たちは移民者としてニュージーランドにわたってきたのではない。彼らは出稼ぎ労働者として一山あて、富裕になって中国に帰国する心づもりなのであった。
殆どの中国人金鉱労働者は、中国広東省からやってきた。これは、当時英国人が植民地支配した香港に近かったからである。つまり、はじめ中国人たちは自力でやってきたわけではなく、イギリス人エージェントの手引きによって、香港を経由して来た。といっても、「強制連行」ではない。清末の中国は政治的に不安定であり、農村の生活は厳しく、職が不足していた。そして疫病がはやり、中国人たちは、貧困からの脱却を夢見て海を渡った。ニュージーランドの金鉱ではたらけば、NZ£12から14であった賃金が、NZ£77と跳ね上がったため、教育を受けていない若い人々は、その魅力に惹かれ、ニュージーランドを金の丘(Gold Hills)と考えて来たのである。
先にニュージーランドに来た血縁者や知人による手助けを得て、更に多くの中国人労働者が来る移住連鎖 (chain migration)が起こった。ある者は、故郷での相続財産を借用証書にしてやってきた 。鉱夫達は、貧困から脱して、故郷で小さな農場を買うためのNZ£100から200を稼いで帰国することを夢見ていた。この金額は、初期の鉱夫たちには稼ぐことが可能であったが、故郷に送金できるのか、そして帰国できるかなどが未確定のまま働きつづけ、結局、7人に1人が、志を果たせずニュージーランドで亡くなった。
やってきた鉱夫たちのニュージーランドでの生活は、厳しいものであった。熱帯の広東省で生活していたため、南緯45度をこえる南島の厳しい冬に適応するのは辛いものがあった。加えて鉱夫たちを待っていたのは、白人からの差別であった。渡来初期こそその勤勉さで尊敬を集めていたが、1871年になり鉱夫に占める中国人の数が過半数を超えて、自分たちの商業上の利益を拡大しようすると、白人からの迫害を受けることになる。1885年のTuapeka Timesには「アーモンド色の目をし、ハンセン病におかされた汚らしいシナ人ども (Almond eyed, leprosy tainted filthy Chinamen)」との見出しがつくほどであった。政府も、中国人に対してNZ£100の入国税を課したり、年金のシステムから排除して、中国人差別を行った。これらについて、2002年にニュージーランド政府は、中国人に対してかつてとっていた法律的差別を公式に謝罪した。
差別問題に関し、博物館の資料によると、全ての炭鉱において中国人鉱夫は流血事件に巻き込まれたという。しかし、1868年の法令(1868 Official Decree)によって中国人の保護が記されたことで、ニュージーランドにおけるこのような差別問題は、他国と比べたら「小さい問題であった」としている。
鉱夫達は白人と交わることなく、白人地区から離れて集落を形成し、集団で助け合いながら生活した。博物館の資料によると1881年7月4日には中国人によるタウンミーティングが開かれている。またストレスの捌け口として阿片を吸っており、そのパイプが博物館に展示されていた。
金鉱がいよいよ枯渇すると、大半は帰国した。だが、一部の残った者たちは、農民になった。家の丘の斜面を耕し、簡易な柵を張って商品作物を作って生活した。自分たちの食料も含めて、苺、グースベリー、キャベツ、トウモロコシ、ポテトなどを作って売りに行った。農作物を保存するのであろう保管庫が近くに作ってあった。博物館の資料によるとアーガム(Ah Gum)という中国人が集落に最後まで住んでいた人だという。彼はその後、フランクトン道の小屋に住み、栽培した苺をクイーンズタウンで売って生活した。アロータウンは、金が枯渇した後は、周辺の農村の中心地として存続したようだ。穀物をつくってパンをやいている地元の人の生活が、ジオラマで表現されていた。
アロータウンの町のすぐ外には、中国人金鉱労働者たちの集落跡が一部復元されていた。中国人鉱夫たちはここアロータウンなど、南島各地に鉱山労働者の集落を作ったが、その大半が、金鉱の枯渇とともに20世紀にはいる頃には棄てられ、荒廃した。
ここに保存されている集落跡は、山の麓に20程の居住跡があったものを、2003年に政府のDOC (Department of Conservation)が復元した。これには、ニュージーランドの歴史において白人が行った過去の中国人に対する差別的行為にたいする償いの意味がこめられており、ウエリントンの国立博物館にも示された、ニュージーランドの多民族国家への志向を示すものともなっている。各遺跡の紹介掲示を読みながら、40分ほどで見て回ることができる。
この集落は、一本の街路にそって建物が並び立つような構造である。一般労働者の家は、雨宿りができるだけといってもいいほど質素極まりない。家には暖炉や窓は備えてあり、屋根はトタン板であった。その機能は寝るところでしかなさそうだ。トタン板にはイギリス製と印刷されている。
集落の端には、アー・ラム(Ah Lum、亜林)という人物が経営した、亜林商店の遺跡があった。店内に入ってみると、二つのベッドルーム、キッチン、オフィス、居間と5つのスペースからなり、扉つきの窓や棚や暖房設備が備えられ、英字新聞の記事が貼られていた。一般鉱夫たちの家と比べて格段に整っており、同じ中国人であるが、亜林の身分はほかとは明らかに異なっていたことがわかる。商品としては、中国茶、コメ、阿片、生姜、薬等の中国からの輸入品から、酸漬けレモン等ヨーロッパの品まで取り揃えている。英語と中国語を解した亜林は、ビジネスの仲介や通訳、手紙書きとしても働き、白人コミュニティーと中国人コミュニティーを取りもっていた。中国人に対しては店を憩いの場として使わせたり、お金を融通したりと便宜を図り、家父長的に行動して、中国人から尊敬されていた。更に博物館の資料によると、白人を増水した川から救って、白人からも尊敬されていたという。
直接紹介の掲示には書いてはいないが、亜林は恐らく、中国人ミドルマンないしは現場管理者としてイギリス人と結びつき、エージェントをやっていたとの考え方もできる。彼は買弁として、イギリス人などの白人に与して、甘い汁を吸っていたのかもしれない。
視察を終わって、鉱夫たちの生活を率直に紹介し、自分たちがかつてやった中国人への差別政策を明記していたことや、このような遺跡を自ら修復するプロジェクトを実施してその償いを示しているところから、現在のニュージーランド政府がとる、テパパ博物館でのマオリにたいする配慮と同様の、多民族主義と非白人への配慮が伝わってきた。
一方、アロータウン博物館では、中国人達が、イギリス人達はやらないアヘンや賭博に浸っていたという差別的な内容を展示し、国と地方で中国人に対する態度が異なっていた。博物館の位置づけが、ゴールドラッシュや町の歴史を紹介しながらゴールドラッシュタウンとして町を売っているアロータウンの観光資源の一つなのだとすれば、大多数の訪問者である白人の耳に快い展示をしたほうが、たしかに賢い。
このあと、最後に、DQによって主に高齢者層・家族層の観光客をターゲットとして振興された新産業の一つ、ワイン産業を、ヘイズ湖の側にあるアミスフィールドワインカンパニー(Amisfield Wine Company 2004年に前述のレイクヘイズヴィンヤードから改称)で視察した。ここはワインの生産販売、ならびにビストロ(ランチ・ディナー)を営業しており、プロの説明を聞きながらテイスティングもできる。山々を背後にしてヘイズ湖を眺めながら名産のワインを飲めるという、クイーンズタウンがもつ自然の観光資源を一緒に楽しませるめる趣向である。白い石造りの重厚な建物Lake Hayesは高級感が溢れ、店内は暖炉を備えた広々とした作りであった。駐車場には高価そうな黒塗りの乗用車が停止められ、店内には年齢層が高い人々が見られた。DQの高齢層や富裕層にターゲットを絞る戦略が、成功したのかもしれない。
私たちは地下のワイナリーに案内され、説明を受けながらワインテイスティングをした。案内人の話によると、アミスフィールドの名産ワインは、自から耕している二つの畑(クロムウェルベイスンとセントラルオタゴ)に2002年から植えられ始めたブドウ、ピノ・ノワール(Pinot Noir)やピノ・グリ(Pinot Gris)など4種から作っている。その環境は、高い標高、涼しく長い夏そして綺麗な土壌に恵まれていて、ブドウ作りに適しているとのことだ。
私たちは、ピノ・ノワールでできたLake Hayesやピノ・グリのAmisfeieldなど四種のワインを頂いた。説明員から口一杯に回して飲んで香りをかぎわけるなどのテイスティング方法の教授があり、パッションフルーツやいちごの香り感じてみるように言われたが、私の舌では軒並み「普通の"ワイン」"と反応するばかりであった。
アミスフィールドワインカンパニーは自前のワインを輸出しているとの話も伺った。輸出先は主にオースラリアやカナダ、EU圏であるそうだ。最近はカナダ政府が一定量購入することとなり、カナダ向け輸出が増加しているという。一方オーストラリア市場に対する輸出量は、減少する見通しであるようだ。それはオーストラリアがは自国でもワイン産業を持っており、更にワインの輸入にたいして関税を2010年に増額したからである。
今日が巡検の最終日ということで、,土産にワインを購入する人もいた。値段は通常のものはNZ$30〜90程であった。ブドウを植え始めたのが最近ということもあって、特別古い年代物ワインはないようだ。ワインを嗜んで,ホロ酔いながらアミスフィールドを出た。
巡検の全日程が終了して私たちは空港へ向かい、日本への帰路へついた。長かったような短かったような12日間であった。ただ綺麗ではおわらせない車窓観察、博物館で展示する側の意図を一歩踏み込みんで汲み取る洞察力、建物やオブジェがそこにある建造環境の意味の考察-巡検で学んだ物の見方を持っていれば、これからの国内・海外での経験はこれまでより何かと多くのものを得て帰ることができるだろう。それが、この海外巡検を通して私たちに一番の経験となった。
思えばタイトな弾丸スケジュールに心身疲れたり、慣れない英語のインタビューを日々敢行したりと苦しんだ12日間であったが、皆で冬山を登り、夕食を作り、飲んで話しあったかけがえのない時間であった。
来年度の巡検を待ち遠しく感じながら、オークランド空港から帰国の途についた。