私たちは、まだ夜も明けやらぬ早朝6時、コテージで目を覚まし、牛の乳しぼりの視察に向かった。牛の乳しぼりの時間帯は決められており、早朝と夕方しか視察する機会が無い。
気温が低く、吐く息は白い。ファームステイ先の農家、エリック(Eric Donna Cathcart)さんは、ラジオを流しながら手際よく牛の乳しぼりを行っていた。牛20頭が2列に並び、そのうちの一列に牛1頭につき4本の管をもつ金属製の搾乳機が装着されて、ゴーゴーと音を立てながら牛の乳を搾っている。
エリックさんが立っていた場所は凹みになっていて、ちょうど牛の乳首のあたりに手が来て作業がしやすいようになっていた。
牛の乳が取れなくなると、エリックさんは手作業で乳がまだ出てないか確認し、出ないと判断すると、搾乳機を外し、もう1つのまだ乳を絞られていない列の牛に装着していた。
搾乳された牛乳は、タンクに入れられる。牛乳は2日ごとに回収されるので、新鮮さを保つため、また冬は凍結を防ぐために、ミルクを回転し攪拌する機械に保存される。その機械はNDAグループというニュージーランドの製造会社が製造したものである。NDAグループは業界向けにステンレス容器、熱交換器を製造する。このタンクは9,100リットルもの牛乳を入れることができる。(NDA group http://www.nda.co.nz/)
牛乳タンクは小屋の中と小屋の外に2台ある。1つは販売用、もう1つは牧場で生まれた子牛のエサ用である。
搾り取ったミルクは、このエリアの集乳圏の中心地であるホキティカにあるウエストランド乳業(Westland Milk Products)に卸すとのことである。
Westland Milk Productsウエストランド乳業は、ニュージーランド南西沿岸部を拠点とする酪農協同組合である。70年以上前に設立した。酪農・乳牛組合はネオリベラリズムで再編されてきたが、ウエストランド乳業は、合併することなく経営を続けている。集乳圏は、北はカラメア(Karamea)から南はフォックス氷河(Fox Glacier)にまで及ぶ。ホキティカに、この地域の最大の牛乳加工工場がある。毎年5億?以上のミルクを生産しており、バターや粉乳などを50カ国以上に輸出している。 2011、2012年時にクライストチャーチに新しい拠点を作る投資を行い、さらなる生産拡大、海外展開を見据えた事業の拡大を図っている。 (出所)West land Milk Products (http://westland.co.nz/) |
牛の中には糞尿を垂らすものもいたが、エリックさんはそれに気にすることなく、冷たい水でそれを流し、てきぱきと作業にあたっていた。私たちが視察をはじめた30分後には乳搾りは終わり、牛を放牧地まで戻した。
視察を終えた私たちは、朝食を取ることにした。朝食は、ファームステイの方々が自家消費で育てている鶏の卵を分けてもらえた。この卵は、鶏小屋から、セルフサービスで消費したい分だけ持って行くことができる。まだ鶏から出てきたばかりで生温かい卵を目玉焼きにし、昨日購入したパン、野菜そしてフルーツと一緒に頂き、十分にお腹を満たした。
夜が明けてきて、農場の全体像が分かってきた。下図が農場の大まかな位置関係である。
農場の後ろには。南アルプスの稜線が連なり、エリードボーモント(Elie de Beaumont)山の白い頂きがひときわ高くそびえたっている。
草地Aには羊が放たれている。この農場の経営は、牛乳生産が主力であり、農家の人によると、羊の飼育は、コテージにファームステイする客の、羊を観たい、触りたいという希望を満たすために飼育している、観光用とのことである。
草地Bにはヤギ、アヒル、ニワトリなどが放たれている。草地Bの中にある鶏小屋がある。その鶏小屋には、鶏が卵を産む場所が仕切りでいくつかのブロックに分けられて作られており、6ブロックほどある。1つのブロックに6~9個の卵が見られ、中には鶏の雌が卵を温めているのも見られた。
放牧地は、A、Bともに牛が放牧されている場所であり、放牧地Aの一部には、これに加えて、趣味で飼育している馬が見られる。放牧地A、Bでは、ある一定の区画で仕切りが設けられており、牛が消費する草の成長に応じて計画的に牛を放牧する場所を決めているようである。搾乳された牛は放牧地A、Bに放たれ、牧草地に腰をおろしたり、自生している草を食べたりしている。
放牧場A,Bの土地の表面はでこぼこしており、所々水が溜まっているところも見られる。耕作するのでなく、牛が消費する草を生やすだけなので、地ならしする必要が無いのだろう。
牛1頭当たりの土地面積は広く、牧草地は240haの土地がある。しかしながら、牛の草の消費が草が育つスピードを上回ってしまうため、土地をリースし草を育てて、牛の草の消費に間に合わせているそうだ。
ちなみに、ニュージーランドに比べて土地の希少性が強い日本の酪農経営は、集約的である。牛のための牧草地の借り入れは行わず、それに代わって大豆などの飼料を与えている。そのため、日本の乳牛は、比較的安定的に栄養を得ており、日本の乳牛1頭が出す生乳はニュージーランドのそれの2倍ほどの量がある。
(ニュージーランドの酪農・乳業の構造改革http://www.nochuri.co.jp/report/pdf/nri1003re4.pdf)
農場には大型のトラックや重機が見られる。私たちが視察している最中にも大型のトラックが農場を駆け回っていた。広大な土地を少ない人数で管理するためには大型のトラックを導入しなければならず、大規模農場経営では初期投資が高額になることが窺える。
次に、子牛への乳やりを視察した。子牛がいる場所は、搾乳場や放牧場から距離があり、エリックさん宅の右隣に位置している。これは、子牛が伝染病にかかることを防ぐこと、そして子牛に異変が生じた場合にすぐさま駆けつけられるようにするためと思われる。
子牛用の牛乳が収容されている子牛用のタンクから牛乳を取りだし、先端が牛の乳首に似せて作られている容器に移していた。牛乳の中に抗生物質が入れられ、免疫が弱い子牛が病気にかからないようにしている。小屋には30数頭の子牛がおり、12頭ごとに仕切りに入れられていた。子牛たちは生後期間別に分けられており、私たちが視察した時には、昨日誕生した子牛も見られた。
牛乳の入った容器を設置すると、お腹をすかせた子牛が、一頭ずつ人工の乳首に吸いつき、一心不乱に牛乳を飲んでいた。栄養が足りているのだろうか? 子牛は痩せているように思われた。たらふく牛乳を飲ませてまるまる肥らせるというのではなく、ここにも粗放的な酪農経営が現れているのかもしれない。
人工の乳首は頭数分だけ用意されているにもかかわらず、乳首を見つけられない子牛もおり、その子牛に牛乳を飲ませるためにエリックさんが子牛をその先まで動かしていた。
子牛のいる仕切りの中には飼料が入った餌箱も見られ、子牛が離乳させながら小屋の中で育てることが分かる。
エリックさんが働いている農場の家畜と土地は、エリックさんのものではなく、オーナーのベリー(Graham Berry)氏が所有している。エリックさんは、ベリーさんに雇われた農業労働者にすぎない、と教えてくれた。生産された牛乳を売るのもベリーさんで、それによって得た収入は、当然ベリーさんの手元に入る。
もともとは、オーナーのベリーさん自身が自作で農業を行っていたのだが、別のビジネスを見つけたため、住み込み労働者を雇うようになったという。エリックさんは、乳価や搾乳量の上下に関わらず、ベリーさんが支払う年間NZ$50,000の固定給をもらって生活しているのだそうだ。日本円でいうと400万円程度であり、けして裕福とは言い難い。しかも動物を相手にする仕事である以上、24時間体制で農場の管理をしなければならず、残業手当も出ない。
私たちが宿泊したコテージもオーナー所有である。ファームステイで得た収入は、オーナーとエリックさんの家族で50%ずつ分けられるとのことである。実際に、コテージビジネスの為に小屋の掃除や整備、予約の管理などをしているのは、エリックさんの奥さんである。一方、オーナーのベリーさんは、コテージを所有するだけで、コテージビジネスの半分もの収入が入る。
固定給制の農業労働に対する賃金支払い、そしてコテージビジネスの収入の分配のいずれについても、資本を所有するオーナーが労働者であるエリックさん達を搾取している構造が浮かび上がる。このような、農業労働と所有との分離は、ニュージーランドでは一般的に見受けられることとのことである。
エリックさんにネオリベラリズムによって、経営に影響があったか尋ねた。その返答は「分からない」とのことだった。たしかに、固定給で収入を得ているエリックさんは、乳価の変化によって収入が左右されることがないため、ネオリベラリズムによって牛乳市場の構造が変化したとしても分からないのであろう。
農業労働者を雇う経営は、人件費が軽減されれば経営コストが低下する。実際にロシアのモスクワ近郊の農地では、安価な中国人労働者が流入し、もとからいたロシア人の農業労働者は駆逐されてしまった。現在、ニュージーランドでは、中国人の農業労働者はまだ参入しておらず、エリックさんのような農業労働者の雇用機会は、労働ビザ発給制限などで保護されている。しかしながら、今後、TPPやネオリベラリズムの進行で、経営の効率化と農産物価格の低下を図るため、中国人など低賃金の外国人農業労働者の流入が自由化されることも十分ありうるだろう。
このとき、ニュージーランドの農業労働市場は変容し、エリックさんは職を失ってしまうかもしれない、という不安が頭をよぎった。
午前11時、私たちを大型のバンが迎えに来た。この車は、本来は氷河の登山口とフランツジョセフの集落を結ぶシャトルバスを運行しているグレイシアシャトル社(メールはこちらへ) の営業用の車である。フランツジョセフにはタクシー会社がない。ゆえに、タクシーのサービスを利用したい客のため、シャトルバスが出ない時間帯には、チャーター車として運行している。そのため、車の中にはタクシーにあるような料金メーターが付いていなかった。シャトルバスをタクシーのようなチャーター車として利用する為には、前もって会社に予約をしておかなければならない。
車はフランツジョセフへと向かう。15分ほど舗装された直線的な道を走りぬける。車窓から温帯雨林が密に繁茂しているのが見られ、この地域に降水量が豊富にあることが分かる。
道は、舗装された道路から砂利道へと変わった。この場所は、氷河が削った砂利が流れ着く場所である。フランツジョセフに行くために渡る橋はもともと吊り橋であったが、氷河から削られてくる岩石が流れ着くために河床が上がるスピードが早く、橋を短い周期で作り直す必要があった。そこで、再建設を容易にするために、橋を、戦場に設けるような仮設にしてしまったのである。現在の橋は、簡易な一車両だけが進める幅しかなく、狭い。私たちが橋に差し掛かった時も、対向車の中型トラックが来たので、トラックを先に渡らせ、私たちは待機しなければならなかった。
フランツジョセフ「フランツジョセフ」という地名は、1865年に氷河を学術探検したオーストリア・ハンガリー帝国の地理学者、フォン・ハースト卿(Julius von Haast)が自国のヨーゼフ皇帝にちなんで名づけたことに由来する。当時、ハプスブルク帝国とも呼ばれたオーストリア・ハンガリーは強い国力があり、世界中に探検隊を派遣していた。英国の植民地であったニュージーランドにオーストリアの皇帝の名が刻まれることになった所以は定かではないが、当時のイギリスの植民地支配は、海岸と山脈が険しい西海岸にまで十分実効的に及ばなかったことが考えられる。北極海の現ロシア領の島にも、19世紀にオーストリア・ハンガリー帝国の探検隊が入っており、ヨーゼフ皇帝の名がつけられている。 観光資源としての氷河の利用は、20世紀初頭から始まった。当時のトレッキングの服装は、現在のような本格的な装備でなく、男性はスーツ・女性はドレスといった街中の正装だった。これは、フランツジョセフ氷河を観光する人々はイギリスの上流階級で、自らの容姿をいたく気にしていたからである。 1911年にGraham Hotelという資本が入り、西海岸の主要な観光対象として発展していった。 今日フランツジョセフは、氷河トレッキングを主要アクティビティとする国際的観光地として認知されている。 |
フランツジョセフは、国道6号線ならびにこれに平行するクロン通り(Cron St)などを中心地区として形成された小さな村である。国道6号線上に、氷河トレッキングを行うガイド事務所が数店舗、スーパー、レストラン、ギフトショップ、キウイが見られる野生生物センター、ビジターセンター、教会などが立地し、クロン通り上には、モーテル、ユースホステル、そして温泉プールなどが立地して、小さいなりにひととおりの観光客向けの施設がそろっている。
野生生物センター(Wild Life Centre)は、キウイのシルエットの看板を掲げている施設で、ここでもキウイを見せている。施設は真新しく、比較的最近建設されたもののようだ。ニュージーランド特有の鳥のキウイは、フランツジョセフにおいてメインの観光対象ではないが、観光地を訪れたので「ついでに」見ておこうという位置づけの観光資源として、ニュージーランドの至る所で観賞することができる。
ホテルに荷物を置き、私たちはフランツジョセフ氷河のトレッキング会社に向かった。氷河のトレッキングを素人だけで行うのは極めて危険であり、氷河の中でトレッキングをするためには、ガイドに率いられたツアーに参加しなくてはならない。私たちが宿泊したホテルから歩いて5分ほどの距離に、このガイド付きトレッキングをやっている、フランツジョセフ氷河ガイド(Franz Josef Glacier Guide)の事務所はある。事務所の建物は、エコツーリズムを意識して、木材基調で作られている。この会社と提携しているらしい温浴施設の看板や、このガイド会社が行っている、ヘリコプターで氷河の上部まで上がるトレッキングの写真が載せられた看板が外に掲げられている。
フランツジョセフ氷河ガイドでは、半日コース、全日コース、ヘリコプターで氷河の高所まで行くコース、谷歩きのコースがある。このうち、半日と全日のコースには、店の外の看板で紹介されていた温浴施設の利用が含まれている。また、ここのガイドでは、氷壁登攀のような、高度な技術を要するコースも提供している。私たちが今回利用したのは、半日(Half-Day Experience)コースで、大人料金NZ$123であった。
事務所は割と広く、腰掛けるためのベンチがいくつか見られる。内装も木材基調であり、薪や暖炉がある。天井には、ラグビーのワールドカップの参加国・地域の旗がここにも吊るされており、ニュージーランドのラグビー熱が、国中の至る所に及んでいることが分かる。
沢山の人々が受付に並んでおり、私たちと同様のツアーを利用するようである。私たちはこの氷河トレッキングに際し、先日のトンガリロ登山と同様に装備を万全にして臨んだ。しかしながら、並んでいる人々の服装は、パーカーやジーパンといった普段着がほとんどである。この事務所では、氷河トレッキングに必要なブーツやウェアなどの装備を、事務所でほぼすべて揃えることができるから、これでも問題ない。そのため、事務所内には氷河トレッキングの際に邪魔になる荷物を預けるコインロッカーやインナーなどの衣類の販売も行われている。
受付で黒いカードを渡された。この黒いカードには私たちが利用するコースとチェックインの時間帯が記されていた。チェックインの時間まで30分ほど時間があったので、氷河トレッキングに備え、腹ごしらえのために昼食をとることにした。
30分後、先ほど受け取った黒いカードを受付に渡すと、赤・白・青色のカードを渡された。このカードを渡しつつ、装備を順番に揃えていく。
まず、私たちが日本人と分かった事務所のスタッフが、日本語で書かれた案内書きを見せた。その案内書きには、氷河トレッキングが完全に安全を保証できないアクティビティであること、そして健康面の問題があるならガイドに申告すべきことが書かれている。その旨を理解してサインすると、白のカードを渡され、次の準備作業に向かった。
次のブーツルームでは、登山靴をレンタルできる。私たちは登山靴を所持していたため借りなかったが、履いている登山靴が氷河トレッキングに適したものであるか、チェックされた。その後、登山靴に付けるアイゼンの貸し出しを受け、次の準備作業に向かった。
次はレインコートの貸しだしである。ここでカードを渡す。全員が借りることを義務付けられている。低体温症の防止や、同じコートを着用させることで、一目でツアー団体と分かる様にしているのだろう。
カードを全て渡し準備を終え、バスに乗り込んだ。私たちが乗り込んだバスは、日本の中古車であった。バスはフランツジョセフ氷河まで向かった。
何故温帯の低緯度に氷河があるのかフランツジョセフ氷河のある場所は、南緯43.5度と、北半球ならば旭川あたりの緯度に位置する。北海道に氷河が現存しないように、このような低緯度で氷河ができるとは考えにくい。 にもかかわらず、フランツジョセフ氷河がこのような低緯度に形成されていることには、3つの理由が考えられる。 1つ目は、タスマン海から吹き付ける偏西風で、南島の西海岸に年中大量の湿った空気が吹き付けるからである。 2つ目は、マウントクック(3,754m)を最高峰とする南アルプスが壁のように海岸近くに聳えているからである。湿った偏西風に含まれた水蒸気が山を一気に駆け上がると急激に冷やされ、飽和水蒸気量が低くなって降水となる。これにより、山の頂上付近に安定的に降雪が起こり、雪田が形成される。3つ目は、夏季や冬季に、降雪量が氷の融解量を上回る条件が形成される年があるからである。 以上の理由で、フランツジョセフでは低緯度であっても氷河を形成する。地球温暖化による氷河が後退するという議論がある。確かに地球の温暖化は、氷河が融解し氷河が後退する一要因であるが、必ずしも常に後退が結果するわけではない。GNSの報告書によると、フランツジョセフ氷河は1900年代からの温度上昇により、氷河が1980年代まで後退していた。しかしながらその後は氷河が再び伸びている。これは1980年代から降水量が増加しているからである。降水は水蒸気が無くてはならず、その水蒸気は、海水の蒸発によってもたらされる。地球温暖化が進めば蒸発量は多くなってその分大気中の水分が増加し、降水量は増える。ゆえに、氷河の後退は降水量と氷の融解のバランスによって進行と後退を繰り返すのであり、必ずしも地球温暖化が後退に直結するというわけではないのである。 |
13時に事務所を後にし、私たちはフランツジョセフ氷河へと向かった。バスには私たちを含め20数名のツアー客がいる。
車窓から、シダ植物などの草や細く長い木々が密に繁茂している様子が伺え、この地に降水量が多く、温帯雨林の植生が形成されていることが分かる。
バスが走る道路の右側は崖が形成され、小さな岩石や石などが堆積されている。これは氷河が地表を削り取って流した礫が形成した堆積物であり、モレーンとよばれる。はるか昔には、氷河がこの付近にまで伸びていたことが分かる。
13時15分、バス道路の終わりに到着した。ここから先は徒歩で氷河まで向かう。
この場所には氷河関連の看板が3枚設置されている。「Franz Josef Glacier Update」とタイトルがある看板には、日付、到達予定地点、戻りの予定時間そして本日のコンディションが記されている。本日のコンディションはGOODと記されており、トレッキングに適したコンディションのようである。「How Close Can I Get Today」とタイトル付けされた看板には、氷河地形は危険を伴う場所であり、急激に変化する場所であるゆえに、安全に過ごすために、どこまで行って良いかが記されている。3つ目の「What Do I Need To Walk To The Glacier」とタイトル付けされた看板は、氷河地形は危険が伴い、変動が激しい地形であるため、しっかりした装備と心構えでトレッキングに赴くことを促す看板である。この看板の下部には川の増水が数時間で大きく変動している写真が掲載されており、氷河の危険性を示している。トンガリロ国立公園と同じく、利用者に十分な情報公開を行い、自主的な判断を促すことで、事故を防ぐとともに、自然環境が持つリスクに対する知識が少なくても国立公園を利用できるようにする配慮が認められる。
氷河に向かうまで、はじめのうちは軽自動車が通れそうなくらいの広い道であったが、途中からガイドは、シダ植物や細長い木々がジャングルのように茂った温帯雨林に囲まれた細い道に入った。広い道はそのまま続いているのに、なぜかそれを避けるようにガイドは細いほうの道を選択した。ここには、ガイド付きの団体しか入ってはならないとする看板が立てられている。道中に足元の悪いところには橋が設けられており、地表の色と合わせて景観を壊さないように、そして足元が滑らないように網を設けるなどの工夫がなされているものの、歩きにくい。場合によると、広い方の登山道には、私たちがトンガリロ国立公園のケテタヒ小屋附近の、温泉を避けるトレイルで見たような、複雑な権利関係が存在しているのかもしれない。
登山道を抜け、開けた場所にたどり着いた。この場所から前方の位置に、何のさえぎるものもなく氷河が見える。両側には崖が形成されており、U字谷であることが分かる。かつてこの場所まで氷河が伸びていたことを示している。氷河が削って流されてきた石が、あたり一面に広がっている。30~40cm台の石や掌サイズが、標準的に見られる石のサイズである。
両側の崖には滝がいくつも見られる。これはU字谷の急斜面とこの地の降水量の多さ、そしてその降水から形成される草木が水を貯水できることから形成されるのだろう。滝が落ちたさきは、水流で浸食され、V字谷の沢が形成されるのも見られる。
地表には川の流れのように曲がりくねった跡が見られる。雨によって水が流れたりした跡である。氷河地形ではこのような水の流れが、しばしば突発的に起こることもある。ゆえにトレッキングには注意が必要である。
上へ上へと歩みを進めるにつれて、徐々に石が大きくなってくる。中には岩石とも呼べるサイズのものも見られるようになる。前方に、岩や小石でできた小高い丘のような堆積物がいくつか見られる。これが、典型的な氷河地形のモレーンである。モレーンは、氷河が上から下へと流れる際に地表を削り取ってできた岩屑が堆積したものである。
モレーンの直下にたどり着くと、ロープで仕切りがされており、そこにNot worth the riskとタイトルが付いた、一般人の立ち入りを禁止する看板が立てかけられていた。その看板には、過去の氷河で起こった事故の新聞がプリントされている。危険性を示す新聞を載せて、単独行動では危険なアクティビティであって、この先に進むのを思いとどまるよう、トレッカーに示している。
ガイドは、一般客の立ち入りを制止したロープを下げ、ロープの向こう側に足を進めた。私たちに、しっかり後ろに付いてくるようにと言われる。岩石や砂利が積ったモレーンを登る。モレーン上にはハッキリと踏み跡がついており、ガイドに従い私たちも歩みを進める。
このように、氷河本体へのトレッキングは、ガイド付きでなければ参加することができない。ニュージーランド政府のDOCは、ガイドビジネスをする企業に対してビジネスをするライセンスで収入を確保、野外活動の責任の所在をガイド企業側に転嫁する。他方のガイド企業は、経験あるガイドを雇い、リスクを顧客に説明しつつ、半独占的な自然環境利用の経営を行う。このDOCとガイドビジネス企業の関係性がしっかりしているからこそ、ニュージーランドで、通常なら危険を伴う野外アクティビティが一般に普及し、今日のニュージーランドのマクロ経済に影響をもつほどの観光産業が育っているのだろう。
モレーンを越えると、いよいよ氷河となった。氷河といっても、このあたりはまだ純白の氷ではなく、岩石が粉砕された時の粉塵によって灰色になっている。また氷河によって割れた角の尖った大きめの岩石屑があたりに見られる。こういった岩石の屑は、夏季に岩石のわずかな隙間に水が入り、冬季に凍結して膨張し岩石を内部から破壊、そして夏季にそれが融解することでできるものである。
14時30分頃、ガイドに、全員がアイゼンを装着し、事務所で借りた青のレインコートを着るようにと促された。このツアーでも、ガイドによる正しいアイゼンの装着方法のレクチャーが入る。私たちは先日、トンガリロでアイゼンの装着方法を学んでいたので、素早く装着することができた。だが、ツアー客の多くは登山・氷河トレッキングが初めてのようで、アイゼンを正しく装着するのがなかなか難しそうであった。分からない人達には、ガイドが個別に丁寧に指導していた。対するツアー客たちも、初めての氷河で緊張しているのか、ガイドの指導を正しく理解するように努め、身勝手な行動を取ることなくガイドの指示に従っていた。
ここでグループは2つに分かれた。1つは体力に自信のある人、もう1つは体力に自信の無い人用のグループである。氷河トレッキングは危険を伴うので、個人の体力に合わせたレベルでトレッキングのコースを選ばなくてはならない。また、多くの人数を一人のガイドで引率すると全員に目が行き届かず危険である。今回私たちは、初めから引率していたガイドに付いていくことにした。
はじめのうち、氷河の末端を歩く。そこは、薄い氷が地表にへばり付いているだけで、その下は岩になっている箇所も見られる。そのためアイゼンの刃が食い込まず、かえってバランスがとれず危険を感ずることもあった。
歩みを進めると、しだいに氷河が本格化し、氷も厚みを増してきた。氷と氷の割れ目のクレバスが見られ、その深さは10数メートルに及ぶほど深く、落ちてしまったら助かることは難しい。ガイドからもクレバスに落ちると救助が困難なため注意して歩行するように促され、いやが上にも緊張感が増した。
足元が悪い場所があるが、そういった場所には予め、ガイド企業によってロープが設置されていて、落ちついて歩けば安全に登り降りすることができる。それでも足場の悪いところは、ガイドがつるはしを振るって足場を作り上げてくれた。ガイドの指示に従いさえすれば、基本的に、容易に誰でもトレッキングを続けることができる。
氷河の見どころの一つは、青色をした氷塊の青氷(blue ice)である。通常の氷塊は中に気泡が含んでいるため白く見えている。だが、青氷は気泡が少なく、日射が氷の中で屈折や反射を繰り返すことで青色の光のみを幻想的に放出しているのである。ところによっては、光が氷を一度通り抜けたところが洞窟上になっていて、青氷の洞穴が見られる。
氷河トレッキングは、氷河を一直線に登るわけではなく、このような見所が用意された狭い範囲をぐるぐると回るものであり、テーマパーク的要素が強いアクティビティであった。中でもクレバスと青氷が氷河トレッキングの目玉になっている。
トレッキングコース中、危険な場所や進行が困難な場所にはロープや足場などが設けられているが、自然をできるだけそのままの形でゲストに味あわせようとする姿勢が窺える。自然が作り出す圧倒的スケールで美しい幻想的な氷の構築物に、私たちは目を奪われた。これらの地点では私たちと同行したトレッキング利用者たちも、カメラを手に取り、氷河の姿を次々と写真に収めていた。
トレッキングの最中に、土砂が崩れたような場所を目にした。雪崩が起こった場所とのことである。良好な天候でガイドの後を付いて歩いた今回のトレッキングは安全であったが、氷河での野外活動の危険性を感じた。
16時頃、アイゼンを装着したもとの場所に到着した。ここでアイゼンを外すように指示され、氷河トレッキングを終えた。半日トレッキングだと、氷河そのものを歩くのは1時間半程度となる。しかし、半日コースという時間の制限、危険を伴う氷河を歩く緊張、そして氷河トレッキングは明るいうちに行わなければ危険ということを考慮すると、致しかねないだろう。
帰りのバスが待つ場所まで、もと来た道を歩き、バスに乗り込み、17時30分頃に再びフランツジョセフの街へと戻った。
氷河トレッキングを終え、再びフランツジョセフ村へ戻ってきた私たちは、フランツジョセフのビジターセンターへと向かった。
ビジターセンターの外にはテーブルとベンチが設置され、フランツジョセフ氷河トレッキングの際に見かけた、コンディションへの注意を喚起する看板が立てられている。氷河トレッキングを目的とした訪問客はまずはここで氷河について学び、トレッキングをすることが望まれているのだろう。自然公園の利用を単なる物見遊山にしない配慮が認められる。また、フォックス氷河についての記述も見られた。
ビジターセンターの隣に、Defiance Hutと呼ばれる小屋があった。この小屋は、以前、フランツジョセフの山中で、登山者の宿泊や避難の役割を果たしていたものであり、かつての登山の様子を人々に知らせるため、1978年にビジターセンターに移された。トタン板で小屋の壁や屋根が作られた簡易な小屋である。暗い内部に、鍋のようなものが見られた。(http://www.doc.govt.nz/conservation/historic/by-region/west-coast/glaciers/cape-defiance-hut/)
ビジターセンターは17時に閉められていて、残念ながら内部は視察できなかった。外から覗くと、また氷河のジオラマが置かれており、氷河の説明をするボタンが見受けられ、この周囲の氷河地形の予備知識を訪問客がここで付けることができるようだ。案内所があり、ショップでは絵葉書、写真集そして登山ウェアのような衣類の販売が行われており、訪問客が気の利いたお土産を購入する場所を兼ねている。
ビジターセンターの近くに、「Our Lady of Alps Catholic Church」という名の小さなカトリック教会が建っていた。白塗りの小さな建物で、比較的最近ペンキを塗りなおしたような色合いをしている。
無人で中は開放されていたので、しばし観察することにした。カトリックというと内装が艶やかなイメージがあるが、ここのものは内装もこぢんまりとした様子で、質素な雰囲気である。室内では、マレーシアの紙幣が募金として置かれていた。マレーシア人がフランツジョセフを訪れたということだろう。フランツジョセフの国際観光地の認知度の高さが見受けられる。
18時30分、フランツジョセフのレストランで食事を取る。この地方で取れたシカ肉の料理を皆で注文した。