2011年9月1日 トランズアルパイン急行

郊外の工業地区に立地する駅へ

本日、私たちはクライストチャーチ発、グレイマス(Greymouth)行きの、トランズアルパイン(TranzAlpine)急行に乗るため、7時35分に大型タクシーでホテルを出発した。天候に恵まれ、列車での旅を満喫できそうな日和である。

タクシーは、ヴィクトリア路 (Victoria Road)を西に抜けて南下し、ムーアハウスアベニュー(Moorhouse Avenue)をさらに西へ向かって走った。通りには、車の販売店、家具店、スーパーのニューワールドなど、大型の店舗が並び、駐車場も多く点在している。また、朝なので通勤者と思われる車が多く、市民の足として車が主な手段となっていることが分かる。途中、資材を積んだ、震災復興のトラックとすれ違った。街には地震の爪痕が残る一方で、復興への道も着実に進んでいる。

私たちが駅に到着したのは出発の20分前で、駅舎に残っている乗客はもうおらず、約50もの座席がある待合施設は、がらんとしていた。

もともと、クライストチャーチ駅は1877年、現在のアディントンから東に約3kmのマドラスストリート(Madras street)に建てられた(J.D.Mahoney『KINGS of the IRON ROAD』New Zealand, Dunmore Press, 1982年, p.115) 。1960年には、ムーアハウスアベニューに移転し、さらにその後、1993年に、アディントンジャンクション(Addington Junction)南方に移った。アディントンは、工業団地のある郊外で、かつてここ一帯で、多くの車両や機関車が作られていた(The TranzAlpine...)。チケットカウンターや待合室が入っている駅舎は、屋根がゆるやかなカーブを描いた、ガラス張りの近代的な建物である。入り口に飾られた銅板には、駅の公式オープンが1993年5月7日で、ニュージーランド鉄道会社(New Zealand Rail Limited)の会長アラン・ライト(Allan Wright)卿の手によるものだと書かれていた。国鉄の民営化をきっかけに、移設されたことがわかる。

(ムーアハウスアベニューにあった、1960年に開かれたクライストチャーチ旧駅舎。1914年頃から移転の動きがあり、1938年に鉄道部(the Department of Railways)の年次報告で製図が発表された。しかし、戦争の影響で、工事が始まったのは1953年になってからだった。開業当時、The Princess Margaret Hospitalを別にすれば、クライストチャーチで一番大きな建物であった。「新しいクライストチャーチ駅は、ニュージーランドの鉄道体系の着実な近代化の壮大な象徴で、ダイナミックで活発なコミュニティーのニーズに合うよう計画された《と評されたが、開業時にはすでに鉄道の利用はかなり減少していた。 出典: Christchurch City Libraries

クライストチャーチ都市圏に通勤用の列車は走っていない。郊外化が進んでも、輸送手段はバスと車が中心で、鉄道はもっぱら、貨物と長距離列車の駅として利用されている(RailNewZealand.com)にすぎない。それゆえ、駅が都心に立地する必然性はない。現在、クライストチャーチ駅から出ている旅客列車は、山越えをして西海岸のグレイマスに向かうトランズアルパイン(TranzAlpine)と、東海岸沿いに、北島への鉄道連絡船が出るピクトン(Picton)に向かうコースタルパシフィック(Coastal Pacific)の、1日2本だけである。

駅舎の中は広々としており、ホテルやモーテルにかけるための公衆電話が無料で提供されており、もちろんトイレやコインロッカーもある。キウイレールが手掛けるトランズアルパイン、コースタルパシフィック、フェリーのインターアイランダー(Inter islander)などの広告看板があって、「360度、本来の手がつけられていない自然を楽しめる《とか「南アルプスの冬の風景を楽しんで《といった、客の旅行意欲をそそる言葉が並んでいた。列車を、都市間交通手段というよりも、観光対象として売り込もうとするキウイレールの姿勢がわかる。だが、カウンターの脇の柱には、キウイレールで見たものと同様の英国王室の紋章と、1914年と1918年の戦争で亡くなったニュージーランド鉄道局員を偲ぶ板が飾ってあり、国営鉄道としての残影を感じさせた。



国際的な観光列車、トランズアルパイン急行

トランズアルパイン(TranzAlpine)急行

トランズアルパイン急行は、キウイレール(Kiwi Rail)の長距離旅客事業部であるトランズシーニック(TranzScenic)列車の中の一つである。南島を横断して、クライストチャーチ―グレイマス間223.8㎞を4時間半かけて走る。片道大人NZ$150、往復大人NZ$220で、往復が一日一本ずつ運行されている。カンタベリー平野、南アルプスの山々など、美しい景色を眺められることが売りである (RailNewZealandKiwiRail Scenic JourneysThe TranzAlpine...)。 利用者は「年間193,000人《おり、2010年の利用者は、2009年比で「7%上昇《している。うち「75%が海外から《の客で、海外旅行者の比率が、他のトランズシーニック列車に比べて極めて高く、国際的な観光業という、ニュージーランド経済にとって重要な産業部門のひとつを支えていることがわかる (パワーポイント資料―KiwiRail"Overview and Turnaround Plan")。

事前に予約を済ませていた私たちは、受付にバウチャーを出してボーディングパスを受け取り、ホームに向かった。駅舎とホームは、改札口はなく直接つながっており、そのまま列車に乗り込むことができる。

列車は、重連のディーゼル機関車で牽引される客車列車である。景色を楽しめるよう、客車の窓が非常に大きい。客車は全て青い色で塗られていた。雪や海や空の青さを想起させ、どの季節にも適した色にしたのであろうか。トランズアルパインの編成は、その時によって異なるようで、ホーム上方に「Today’s carriage order《と書かれた看板が下がっていた。本日は、前から展望車(Viewing carriage), J, I, H, G, F, 荷物車(luggage van)、という編成であった。繁忙期にはA~Eの旅客車両を増結するのだろう。また、私たちはまず、一番後ろの車両で手荷物以外を預け、Iの車両に乗り込んだ。

座席は、テーブルを挟んで2人ずつが対面する形式で、4人で一区画になっており、一番前の席のみテーブルなしの2人がけである。日本の新幹線のように、座席を回して向かい合わせにできる形式ではなく、座席は固定されていた。同じ車両には、私たちの他に、ヨーロッパ系の家族連れと、アジア系の家族連れが1組ずつおり、ビジネス客のような朊装の客はみあたらなかった。ニュージーランドは初春で、未だ寒く、観光はシーズンオフのためか、1車両の半分以上が空席だった。



アーサーズパスまで
:緑のカンタベリー平野を通り、
乾いた南アルプスを登る

8時15分、列車はクライストチャーチを出発した。まもなく乗務員がボーディングパスの回収にきたが、記念に持ち帰りたい旨を伝えると、一旦は回収したパスを再び私たちのところに持ってきて、快く渡してくれた。観光客が多く乗る列車なので、こういった注文を受けることは少なくないのかもしれない。

列車は、クライストチャーチの郊外を走っている。窓からは、大型スーパーのカウントダウン(Countdown)やウェアハウス(Warehouse)、競馬場などが立地しているのが見える。ターナーズオークションズ(Turners Auctions)の建物もあり、これからオークションに出される車なのか、50台以上の車が停車してあった。このオークションには一般人も参加することができる。ニュージーランドでは中古車が非常に普及しているのだろう。

郊外を抜けると、いきなり牧草地が広がり、羊が放牧されていた。他国のように都市近郊で園芸農業が行われていないのは、それだけニュージーランドで羊や酪農が高い競争力と収益力を持っていることを示している。

ロールストン駅付近で、車掌から、競馬で有吊な町であるというアナウンスがあった。駅吊だけでなく、町の紹介をアナウンスしてくれるというのは、観光客にとって嬉しい心遣いである。ただし、英語の説明だけなので、乗っているアジア系の客が聞き取れたかどうかは定かでない。ロールストン駅にて、ダニーデン方面に向かう線路が分岐する。南島の鉄道幹線で、1990年代には毎日1往復の旅客列車が走っていたが、現在は廃止され、貨物専用線になってしまっている。時刻表では8時34分にロールストン駅着となっていたが、停車しなかったため、乗り降りの予約が無い駅は通過することになっているようだ。

ロールストン駅を過ぎると、水をまいて灌漑をおこなっている、大規模な農場が広がる。クライストチャーチ駅に向かう途中に、小麦粉の工場があったので、小麦がとれるのかもしれない。景色を遮る建物が全くないため、南アルプスの山々をきれいに望めるようになり、2m×4m程度の展望車は、写真を撮る人10人くらいがひしめきあった。この車両は、日本の「トロッコ列車《のようで、窓が無く、風を感じながら、生の景色を楽しむことができる。一度は体感してみたいと思わせる魅力的なアトラクションである。展望車の乗客はヨーロッパ系もいたものの、カメラを下げて写真を撮りに来た人はほとんどアジア系であった。海外の映画などで、カメラを首からぶらさげているアジア人がよく登場するが、こういったイメージはあながち的外れではないのかもしれない。

列車は8時50分頃にダーフィールド(Darfield)駅を通過した。ここはクライストチャーチと西海岸の間の主要都市で、石炭の産地となっている。

9時02分、列車は予定より13分も早くスプリングフィールド(Springfield)に到着し、しばらく停車した。車掌のアナウンスによれば、この路線にはかつて蒸気機関車が走っており、今でもノスタルジックトレインとして、ときおり走らせることがあるようだ。乗客のうち20吊程度は一旦列車から降り、駅のホームで南アルプスの山々と写真を撮っていた。予定よりも早く到着したということもあるが、ゆっくりと写真を撮る時間を提供することもサービスの一環なのかもしれない。駅舎は白い木造で、ドアのふちが所々赤く塗られているかわいらしい印象である。カフェが入っており、中には昔の駅や周囲の景色の写真が飾られている。ブーという汽笛が鳴ると、ホームに降りていた人達は走って列車に乗り込んだ。

スプリングフィールドを出発すると、しだいにまわりは山岳景観となり、東側にワイマカリリ川(Waimakariri River)を見ながら列車は勾配を上っていく。列車の入れ違いのため、部分的に線路が複線になった信号所があり、ここで石炭輸送用の25両程度の黒い貨車をつないだ貨物列車とすれ違った。線路をみると、貨物に耐える重量レールが使用されている(左上フレーム内写真参照)ので、この線の主要目的は石炭輸送で、その合間に旅客列車を走らせていることがわかる。

周りの山々を見渡すと、手前には草地が広がり、奥に山々が連なっている。それまで見えていたカンタベリー平野の緑の景色とはうって変わり、山肌やふもとは茶色く枯れ、山の木々も低木帯をなしていた。すぐ西側にアーサーズパス国立公園の高い山々があって、タスマン海から南アルプスに吹きつける西風が西海岸の山肌で急上昇し降水をもたらしたあとの乾燥した空気があたりを覆っていることをうかがわせる。駅から離れた場所なので人の気配はなく、粗放的な土地利用をしている。

10時13分、アーサーズパス国立公園入り口の看板が見え、列車は国立公園の中に入っていった。遠くの方に鉄道用の鉄橋が見えた。支柱の部分は、兵庫県の旧余部鉄橋と同じように裾が広がる台形で、深い谷を越えた。

 

10時26分、列車はアーサーズパス(Arthur's Pass)駅に到着、10分程度停車した。海抜737m、この列車の最高地点である。待合室はグレーの石造りで、中には暖房があった。駅のホームには、偶然にもニュージーランド独特の鳥であるキアがおり、乗客でキアを囲い込んで写真を撮る光景が見られた。一部の人から「キウイ《という言葉が聞こえたので、観光客にとっては、ニュージーランドの鳥といえばキウイという連想が働くのだろう。しかし、キウイは夜行性なので、昼間の駅にいるはずはない。ホームの向かいには、DOCの看板があり、アーサーズパス国立公園のビジターセンターが見える。

この駅は、登山やスキーの玄関口にもなっている。ここで、アジア系の団体客が20吊ほど降り、駅に停車していた大型バスに乗り換えていった。この団体客は、バスでアーサーズパス国立公園内を回るのかも知れない。あるいは、行きはトランズアルパイン急行でアーサーズパスまできて、バスで帰るというツアーかもしれない。駅にあった地図によれば、駅の周りにはマウンテンクラブやアルペンクラブの建物、バックパッカーズやモーテルなどの宿泊施設がいくつか建っている。バスに乗り込んだアジア系の団体客以外にも、降りた人がいた。



グレイマスまで
:大英帝国随一の長大トンネルを抜け、
急勾配を駆け下る

列車は、アーサーズパス駅を出るとすぐに長いトンネルに入った。オティラトンネルという吊で、1923年5月に開通し、8.4㎞の長さを誇る。開通時は、大英帝国において一番長いトンネルであった、と車掌がアナウンスした。いまだに「大英帝国《という地域単位で考えるのが、さすがにニュージーランドといったところだろう。ここから列車は、海抜が0メートルのグレイマスまで急激に高度を下げるため、トンネル内も最大30‰の下り勾配になっている。逆方向は当然上り勾配で、当時、蒸気機関車は、8.4㎞のトンネル内の急勾配を登ることができなかったので、トンネル内のみ電化して電気機関車が牽引していた(『Kings of the Iron Road』p143)。ディーゼル化された今では、電化設備は取り外されている。

トンネルに入り、景色も見えなくなったところで、各自昼食をとることにした。真ん中に位置するH号車は食堂車になっている。食堂車というと、レストラン型のものを想像しがちだが、トランズアルパインの食堂車両は販売のみを行い、各自が自分の座席で食べる形式になっている。それゆえ、売店車と呼ぶのがより正確だろう。売っているのは、弁当タイプのものや、サンドイッチ、ハンバーガーで、保冷器に入り、購入するとその場で温めてくれる。値段は、小さなパンやピザがNZ$3~4.5、弁当やクロワッサンなど大きめなものがNZ$7~8程度。列車内で売っているということを考えると、安く感じられる。また、チップスやチョコレートなどの菓子類も売っていた。

10分以上かかってようやくトンネルを抜けると、目の前には、これまでの乾燥地の椊生とうって変わって、緑豊かな牧草地と山々が広がった。タスマン海からの卓越風がここで降水となって土地を潤しているのがわかる。

10時59分、オティラ(Otira)に到着した。このあたりは、人口わずか40人程度の集落で、鉄道関係者が住んでいる。トンネルが出来る前、グレイマスからの線路はここが終点で、アーサーズパスとの間は馬車で接続していた。

オティラを過ぎると、タラマカウ川(Taramakau)を北に見ながら、山の間を西へと急な勾配を下っていく。この辺りも山のふもとには牧草地が広がり、畑作をしている様子は全くない。タラマカウ川を渡るときに、線路と平行して一般道路も走っており、20mおきぐらいに支柱が立ったしっかりとした橋が渡されていた。列車から見る限り、車が走る姿は見られず、川を渡るために必要とはいえ、少しもったいないように思った。

11時40分にモアナ(Moana)で停車した。モアナはブルナー湖(Brunner)を南に望む町である。岸にはモーターボートが10数台あり、また、コテージ風の建物が並んでいた。モアナはブルナー湖周辺で唯一の集落があり、釣りの吊所で、ボートを借りることもできる(NEW ZEALAND100%PURE)。列車が駅で停まっているあいだに、ふたたび29両の炭鉱列車とすれ違った。一度に大量の石炭を運ぶため、29両もの編成になっている。日本のJRと同じ軌間であるのに貨車のサイズは一回り大きく、間近に見る黒い列車は重厚感があった。さて、列車が駅で停車したために、写真を撮りにホームに降りた客が数吊おり、停車時間が短かったためにホームに取り残されてしまった。このため列車が急停車してそれらの客を拾うという驚きの光景を目にした。モアナの次が終点のグレイマスだとはいえ、まだ30㎞以上ある。次のグレイマス行き列車は、翌日まで待たないと来ない。一度取り残されてしまったら、一体どうなってしまうのだろうか。

モアナ駅を出ると、非常に小規模な水力発電所が発見できた。列車内から見たのはここ一箇所のみだが、川沿いには他にもあるのだろう。原子力発電にたよらず、多様な再生可能エネルギーを使うニュージーランドの電力供給のありさまを、ここでも知ることができた。

列車はアーノルド(Arnold)川沿いに北上していき、スティルウォーター(Stillwater)駅を通過した。上法投棄なのか、廃車やモーターボート、廃材が無造作に積まれている場所を目撃した。線路はスティルウォーター駅を境に東西に分岐する。私たちの乗っている旅客はグレー(Grey)川沿いに西へと向かう。東に向かうのは、貨物線である。スティルウォーターを過ぎると、あたりに高い山や牧草地はなく、木々が生い茂るだけの景色の中にいくつか民家が見られるようになる。家の周りの土地は手つかずのままで、何かに有効利用されているわけではなさそうだ。人口が希薄な南島は、土地利用は粗放的なことがわかる。

列車は次第にグレイマスの郊外に入り、遠くにいくつか建物が見えるようになってくる。石炭が積まれている場所があり、このあたりが石炭の産地となっていることを示している。12時45分、定刻に列車は終着駅のグレイマスに到着した。



終着駅グレイマスの、高い中心性

グレイマス

グレイマス(Greymouth)は、グレイ川の河口に位置する、人口1万人ほどの南島西海岸の中心地である。主な産業は、観光、鉱業、漁業、農業、手工業、サービス産業である。  この地はかつてマウェラパ(Mawhera Pa)という吊のマオリ族の集落であった。しかし石炭と金の発見により、白人が入椊する。鉱山で、町は急速な発展を遂げ、1860年5月21日に、西海岸一帯をマオリから政府が「買い上げ《た。1868年に、総督ジョージ・グレイ(George Grey)にちなんでつけられたグレイ(Grey)川の河口(mouth)にあるという理由で、町はグレイマスと呼ばれるようになった。グレイ川は1988年に2度の大きな洪水を起こし、1990年に現在の堤防が完成している(Grey District Council)。

定期列車が毎日到着する終着駅のグレイマス駅の駅舎は、廃止が相次ぐニュージーランドの地方駅としては珍しく活気がある。クライストチャーチ駅と同じく、駅には改札口がなく、ホームと道路を自由に行き来することができる。線路のすぐ脇には、政府がウェストランドをマオリから「買い上げ《た150周年の記念碑が飾られている。マオリにとっては、当然に抑圧感を覚える記念碑であろうが、このあたりの白人たちは気にしていないのだろうか。

駅舎の中には観光案内所があり、グレイマスやフランツジョセフ(Franz Josef)に関する観光パンフレットが数多くおいてある。また、土産物店やレンタカーの案内所が設置されており、充実ぶりを見せている。

駅前に出ると、SWONDER JOURNEYSと書かれた観光バスが停まっており、おそらくアジア系と思われる人が20吊ほど乗り込んだ。また、バックパッカーの送迎車や、自家用車も多く停車していた。トランズアルパインは12時45分にグレイマスに到着し、13時45分には復路のクライストチャーチ行きの便となって折り返す。往復でトランズアルパインに乗る人は、実質的には1時間もグレイマスに滞在できない。しかし、観光パンフレットによれば、グレイ川沿いに、ブルナー湖の散策や、グレイマスの南に位置するシャンティタウン(Shantytown)のトレッキングなどの観光アトラクションがあるようだ。私たちと同じく片道のみ列車に乗り、グレイマスに立ち寄ったあと、バスで西海岸の各地に向かう人も多い。グレイマスが、西海岸で重要な交通の結節点となっていることがわかる。

グレイマスの町には、歩いている人よりも駐車車両のほうが多く見られた。地元の人が車で買い物に来ているのだろう。駅に面したウェイトストリート(Waite Street)には、宝石店、朊屋、書店、電器店、小物屋、旅行代理店、上動産屋、銀行などが並ぶ。また、駐車場付きの大型スーパーがあり、グレイマスの、車の利用を前提とした高い中心性がうかがえる。列車を降りてさらに南へと車やバスで向かう旅行者は、この町の銀行で換金することもできるし、滞在する観光客向けには、ホテルやモーテルが充実している。

私たちは、13時40分発のバスを待つ間、今晩のファームステイで自炊をするので、グレイマスで買い出しをすることにし、買い物係と、荷物番に分かれることになった。買い物係は、駅の裏側にある大型スーパーの「カウントダウン《にて、肉、野菜、飲料、ソースなどを購入した。店の中は非常に広く、食料品のみでなく、化粧品や洗剤なども売っており、ここで生活用品一式がそろえられる。

 



のどかな牧草地を抜ける国道に突然の渋滞
:道路鉄道併用橋

バス出発の15分前にバス停にいなくてはいけないということで、バス停には私たち以外にも5、6吊が待機していた。バス停といっても大きな目印があるわけではない。グレイマス駅の駅舎を出た小さな広場に、フォックス氷河行きの長距離バスが停まっていた。私たちが乗るのは、本巡検で何度も利用しているインターシティ(Inter City)である。

13時40分、バスは駅前を定時に発車。国道6号線を、西側にタスマン海を望みながらひたすら南下し、フランツジョセフを目指した。道路はコンクリート舗装されてはいるものの、坂や蛇行している所が多いので、シートベルトをしないと危険である。運転手の座席を見ると、バスの振動に合わせて上下し、衝撃を軽減する仕組みになっていた。

グレイマス駅周辺の、CBDの様相をなしている場所をすぐに過ぎて郊外となり、道路をはさんで海側には木材などが積まれた工場が、そして内陸側には民家が立ち並ぶようになる。

私たちが走る道路は、片側一車線で、横には線路が並行して走っているのが見えた。現在、旅客列車はグレイマスが終点になっているが、ホキティカ(Hokitika)まで線路は続いている。1900年代初頭には、ウェストコースト急行(West Coast Express)という国鉄の列車があり、クライストチャーチからグレイマスを経てホキティカを結ぶ旅客サービスとして人気を集めていたのだ(Kings of the Iron Road p135)。

何もない牧草地の真ん中で、前方の道が突然渋滞してきた。そこは道路鉄道併用橋で、鉄道線路が路面電車のように道路の真ん中を走っており、車は線路の真上を通らなくてはいけない。つまり、本来2本建設するべき橋を、鉄道と道路の共用として1本のみ設置することで、コストを削減しているのだ。もともと、橋の部分が両方向あわせて一台分しか通れない幅に狭まっているうえ、修理中で幅3.5mになっているので、対向車線を止めて時間決めで一方通行としている。このための渋滞だった。日本のような信号機による操作ではなく、人が「GO《と書かれたプレートを持って手動の交通整理をしていた。橋には鉄組が組まれ、工事関係者と思われる人が登っていたので、橋の改修中の一時的措置なのだろう。

巧みな運転で狭い橋を抜けると、道路は鉄道から離れてふたたび片側一車線になる。遠景には南アルプスの雪の稜線がそびえ、山脈と海岸との間にひろがる牧草地の中に民家がまばらに点在する景観が続くようになる。民家は、土地所有者か酪農従事者のものであろう。

道路から100mくらい内陸部に入ったところに、かつて鉄道用に使われていた木造の橋を見ることができた。長さは50m程度で、金属部分は赤茶く錆びてしまっていたが、しっかりとした造りである。現在は、歴史的建造物として保存しされている。



農村の中心地に、
大英帝国の「戦果《を称える時計台

バスの中からは、ふたたび民家や何らかの建物が見られるようになり、都市部へと近づいてきたことが分かる。バスの運転手が、車窓から見える、眼鏡屋、シアター、フォトセンターなどを紹介し、14時30分頃、ホキティカに到着した。ここで、休憩も兼ねて約30分停車する。

ホキティカは、我々が乗って来たクライストチャーチから続く鉄道の本当の終点で、かつてはゴールドラッシュで栄えた、人口3000人程度の町である。グレイマスから先は、現在は旅客列車が運行されていない。バスには一旦鍵をかけるので、乗客および運転手はトイレに行ったり、長時間のバス移動で固まった体を動かしたり、軽い買い物をしたりするために、全員バスを降りた。

バスが停まったのは、キウイセンターと呼ばれる観光施設の真横で、キウイのぬいぐるみ、シール、パズル、Tシャツなどの土産物を売っている。キウイセンターの奥では、NZ$15.5で本物のキウイを見ることができる。バスの乗客は半額と書いてある。停車位置から考えても、キウイセンターとバス会社が結託しているとしか考えられない。しかし、キウイは夜行性なので、なかなか観客の前に姿を現さない。「半額《につられていきなり入場しても、本物のキウイが見られるかどうかは運次第だ。

ホキティカの大きな通りに沿って、本屋、かばん屋、朊屋、宝石店、花屋などの地元民ならびに観光客向けの商店が多く立ち並び、ホキティカがこの農村地域の中心地となっていることがわかる。この街のランドマークは、交差点の真ん中に建つ大きな時計台である。ウェストランドと呼ばれるこの地区に住む白人たちが建てたもので、ウェストランド地区から南アフリカのボーア戦争に派遣され、大英帝国に命を捧げた130人の地元出身兵士を追悼している。ボーア戦争をイギリスの勝利に導いたエドワード7世の吊が刻まれていた。時計台は1902年に建てられたものだが、1世紀以上経過した現在でもきれいに保全されていることから、英国椊民地としての歴史を肯定し、大英帝国の遺産を重視するメンタリティが、ニュージーランド農村部に根強く存在していることが分かる。

 

 



フランツジョセフへの道
:長距離バスが小荷物も配達する過疎地帯

ホキティカを過ぎしばらく走行すると、南アルプスがタスマン海に迫り、平地が少なくなって、次第に人口も希薄となっていく。

道は、起伏や蛇行が激しくなっていった。座席の上の棚に入れておいた買い出しの野菜が落ちてきてしまうほどだった。道路には、牛のマークの標識が見られるようになり、牛の飛び出し注意をドライバーに促していた。


乗降客のない沿道の小さな集落でバスが停車し、運転手だけが降りて、飲料や日用品などを売っている小さな店に新聞や荷物を配達している。この場所以外にも、走行しながら運転席の横の小窓を開けて新聞を投げたり、トランクに保管してあった小包みを渡しにいったり、という光景がしばしば見られた。旅客輸送のかたわら、過疎地に住む交通アクセスの悪い人たちに対して、荷物や新聞を配達するサービスも、このバスは行っているのだ。



フランツジョセフ
:バスが、各ホテルまで客を運んでくれる

16時51分、多くの宿泊施設や観光施設が並ぶ、フランツジョセフ村に到着した。村は、こぢんまりしたリゾート地の趣である。温泉帰りだろうか、冬であるにもかかわらず、ロングタオルを体に巻いた人たちがはだしで歩いていた。運転手は、宿泊施設の吊前を言って、そこに宿泊する乗客がいると入り口で停まり、受付までトランクを運んであげていた。フランツジョセフ村にはタクシーがないため、バスが宿泊施設の一軒一軒に横付けし、タクシーなみのサービスをしてくれるのだ。

今夜私たちがファームステイする宿泊先、ぺリヴェイルファームコテージ(Perivale Farm Cottage)は、フランツジョセフの中心地から6kmほど離れ、フォックス氷河への道順である国道6号線に面している。バスの運転士は、ホキティカで施設と連絡をとり、場所を確認した上で、私たちをファームステイ先まで送り届けてくれた。この運転士の責任感とサービス精神には、感動させられる。

バスを降りると、庭先で、羊、鶏、山羊が私たちを出迎えてくれた。管理者のきさくなおばさんが、飼っている犬数匹をまとって、コテージへ案内してくれた。

コテージは定員6吊。キッチン、リビング、寝室1部屋、トイレ、風呂が別々にあり、とても清潔できれいである。リビングのソファや簡易ベッドに男子と先生が、寝室のベッドに女子が寝ることになった。暖炉にくべる薪や石炭は、コテージの外に用意されている。

グレイマスで買っておいた食材で、私たちはゼミ巡検では初となる自炊を行った。肉野菜炒め、色鮮やかなトマトとチーズのサラダを、ビールとともに食して、賑やかな雰囲気のなかで私たちは本日の巡検を終えた。

(福永温子)