2011年8月31日 クライストチャーチ、アカロア

早朝からスーツ姿あふれる、
こぢんまりした首都空港

私たちは6:45のクライストチャーチ行きの飛行機に乗るべく、5:45に集合し、シャトルでウェリントン空港へ向かおうとした。季節はもうすぐ春を迎えるころというのに、この時間でも真夜中のように暗い。街は昨夜の霧雨で湿っており、オレンジ色の街灯でつつまれていた。6時を過ぎても人通りもなく、家にもほとんど明かりはついていないようで、ビルやネオンの光もなく、首都ウェリントンの朝はひっそりとしていた。シャトルは前夜に予約しておいたのに、なかなか来ないので会社に電話をかけてみると、予約が通っていなかったらしい。幸い、空車のシャトルがあるとのことで、急遽それを手配してもらい、無事に空港に出発できた。

ウェリントン空港は、首都にしては小規模で、オークランド空港に比べるとローカルな趣がある。しかし、機能的に整然としており、スムーズに荷物を預けることができた。

早朝の空港はスーツ客が目立つ。首都空港なので、官僚やビジネス客が多いのだろう。早朝便には、シドニーやオークランド行きの飛行機が数多くあった。チェックインはオーストラリアと国内線が同じ場所であり、その他の国際便と分けられていた。この時間には、国内線とシドニー行きが同じくらいの本数があり、ニュージーランドとオーストラリアの密な関係を感じることができた。

私たちが搭乗すると、飛行機内は朝刊をなどを読むビジネス客などでほぼ満席であり、定刻に飛行機は離陸した。機内での安全に関する映像はラグビーになぞらえて紹介されており、ニュージーランド国内でのラグビー熱が感じられた。近々開催されるラグビーワールドカップで訪れる観光客を意識したものであるとわかる。

7:25にクライストチャーチ空港に到着した。南島最大の都市であるクライストチャーチの空港は、南島のハブ空港としての役割を果たしている。

クライストチャーチ空港は国内線と国際線が別の建物に分かれており、建物間はシャトルバスが10分間隔ででている。しかし、歩いても10分程度である。クライストチャーチ空港にはAirAsia X、Air Pacific、Air New Zealand、Qantas、Singapore Airlines、Emiratesなどが入っており、クライストチャーチから日本への直通便はあまりなく不便に感じたが、シンガポール、タイ、オーストラリアなどへはアクセスも悪くないのだろう。国内線は夜間建物がしまってしまうが、国際線の建物は24時間開いているようだ。ようだ。私たちは荷物を今夜宿泊するホテルのPAVILIONS HOTELへ預けるため、タクシーで市街地のほうへと向かっていった。



地元住民の住む郊外

ホテルへ向かう途中の郊外住宅地は、平屋建てで広い庭を持つ、ゆったりとした家が多く閑静な郊外ベッドタウンという風貌である。クライストチャーチは別名が「ガーデン・シティ」であるように、庭がきれいに手入れされ、ガーデニングショップも見られた。他にはスーパーや病院、教会などがところどころにあり地元住民が生活している様子がうかがえる。

鉄道は郊外を南北・東西に走っているが電化されておらず、単線で踏み切りに遮断機もなく、クライストチャーチ市街地に駅はひとつしかない。市民の足としては全く利用されず、専ら貨物用と観光用として利用されているようだ。

一方でバス停・バス路線は多く、バスは一時間に3,4本、中心市街地付近では各路線のバスがひっきりなしにバス停に到着する状態である。道路は広く、路線バスは市内をくまなく運行しており、公共交通機関としてはバスが中心であるようだ。道路にはたくさんの車が路上駐車しているのを見ると車での交通が地元住人の生活には不可欠であるようだ。

ホテルに着くまで、中心市街地は通らなかったためあまり大きな地震の被害は見られず、タクシーの運転手から、地震前は家があったのだが家が崩れ、撤去したため今は空き地になっているのだという説明を受けた場所以外には、家や教会が一部崩れ、木の骨組みが見えているものが何件か見受けられる程度であった。

今夜泊まるホテルは市街地の近くに位置し、一人一泊65.41ドルほどのきれいで立派なホテルである。プールがついていたりおしゃれなレストランやバーもある。つくりはモーテルのような宿泊する棟は平屋で、車で直接部屋の前まではいれるようになっており、荷物の出し入れが楽である。入り口のドアには環境評価の銅の評価や、四星ホテルといったQualmarkのシールが貼り付けてある。比較的クライストチャーチ中心市街地にも近いこともあって、一般旅行客向けのホテルなのだろう。マークを取得し、他店との差異をうたい、付加価値をつけているのだ。



観光産業に力を入れる
ニュージーランドのホテル格付け

1.Qualmark
1993年より始まった観光業界の公式な品質認定システム。ニュージーランド政府観光局と自動車協会の政府・民間共同で行われる。QualmarkNew Zealand Limitedがニュージーランド国内の旅行客の宿泊施設の清潔さ、安全性、快適さ、環境、への配慮、サービスなど様々な基準を設け、厳正な審査を行い、基準を満たすと星の数で評価を与える。ビジネスや旅行などでの宿泊先を探す際にウェブページやガイドブックに記載され、観光業におけるアピールポイントとなっている。
2.Enviro Award
環境格付けの審査であり、環境に与える影響やリサイクル、エネルギーや水の効率的使用などの基準を満たすと与えられる。国家レベルでの環境ベースの格付けは世界でも初めてのようだ。
( qualmark について)

エントランスにはニュージーランド南島の開発に関する白黒の写真が何枚か額に入れられており、西海岸での石炭採掘の様子や森林開拓において蒸気機関が用いられたことなどを伝えている。石炭が南島開発において重要であったことがわかる。ホテルの荷物置き場に荷物を預かってもらい、地震についての講義を聴くべく、カンタベリー大学へとタクシーで向かった。

カンタベリー大学にて:
地震に関する講義

カンタベリー大学は中心市街地から少し東の郊外にあるアイラム地区(Ilam)に位置する。ニュージーランドの高等教育機関で唯一、森林学を専門に学べるニュージーランド森林学術院(New Zealand School of Forestry)が設置され、ニュージーランドの主力輸出品の一つである樹木の専門家を養成している。また、ニュージーランドが南極への入り口と称されることからも、国際難局大学(IAI)協力校として南極学プログラムを担当している。南島で一番有力な大学であるようで、学生数は16,539人(大学院生は1,605人、留学生は1,644人(2008年))が在籍する。( カンタベリー大学HP)

私たちは地理学部の建物へと通された。部屋には避難地図があり、大学のすぐ隣のアイラム公園が緊急避難場所になっているのがわかる。部屋には地震時の緊急対応に関する連絡先の一覧があるなど、地震に関する第一線の場所であることがうかがえる。今回地震についての講義をしてくださったのは地理学部のウッド博士(Dr. Vaughan Wood)であり、地震関連の社会的影響についてうかがった。

1.2011年2月22日 クライストチャーチ地震


クライストチャーチは人口約40万人で、主な産業は観光業、農業、地方行政、軽工業である。もともとエイボン川(Avon River)の沼地だったところに市街地が作られたため、地盤があまりよくない。太平洋プレートがインド=オーストラリアプレートに沈み込んでいき、クライストチャーチの西にアルペン断層があるため、クライストチャーチでは地震が頻発している。1869年からクライストチャーチ付近でマグニチュード5.5以上のものが14回記録されている。沼地という立地によって地震が起こると液状化現象が生じることが多い。この地は、深い入り江であるリトルトン・ハーバーが近くにあって港として利用されており、クライストチャーチがその後背地として発展してきたのだ。

2011年2月22日午後12時51分に起きた地震はマグニチュード:6.3、深さ:5km、震央:クライストチャーチ南東5km、死者:181人、損失:約150億NZ$、2月25日までにマグニチュード4以上の地震が41回記録されている。クライストチャーチ中心街での被害が大きく、死者が最も多いのはCTVビルで、95人と死者の半数以上を占める。液状化現象に関しては市街地の北の一部分と、市街地の北東の郊外の被害がひどかった。

3月14日、15日に開かれたクライストチャーチ市委員会の地震エキスポで中心業務地区(CBD)の再建計画に関する意見交換では、CBDの緑地や移動手段に関して手紙やYoutube、Post-itなどで約1万もの意見がよせられた。クライストチャーチ市のおおまかな予定としては、意見共有のキャンペーンで寄せられた10万6千の意見に基づき、より緑の多い、背の低い建物を織り交ぜた都市を再建する計画で、協議過程が現在進行中であるとのことだった。

2.地震後の都市問題:クライストチャーチのドーナツ化現象

クライストチャーチの2011年2月の地震から半年が経ったが、今後の政府の具体的な復興計画があるのかについて尋ねたところ、返答は「Nothing」という驚くべきものであった。政府が具体的な復興計画を進めていないため、復興は遅々として進まないようだ。19億ドルの復興費用が必要だと考えられるが政府予算では5億ドルしかないようでこの予算的な面でも復興がなかなか進まないようなのである。同じような形の住宅をたくさん建てる埼玉の都市づくりを参考にしているようだが、具体的に電気やガスなどのインフラなどに関してはまだぜんぜん具体的な案が出ていないようだ。研究でも3年以内にまた地震が来ると予想されており、復興に対してどれほどの意味があるのか疑問視されているところがあるようで、復興よりもまだ緊急対応におわれているという感じだ。

保険会社も窮地に立たされており、今回の地震で支払いが大きく、またこの地で保険を売っていく準備が整っていないそうだ。今回の地震自体への支払いも完全には終わっていなく、これに対して政府が土地に関しては補償金を出したようだが、建物に関しては保険会社にまかせているようであり、家を失ってしまった人々は家を元通りにすることもできない。このため、郊外のほうが安く家を購入できるので、地元住民がどんどんと郊外へ流出していっているそうだ。

資金のある地主や実業家も復興が遅々として進まない市街地を離れ、郊外へと流出してしまっている。さらには地震に対する精神的な恐怖からクライストチャーチ中心地に戻るのを嫌がる人もいるようで、もともと中心地は観光業ビジネスが中心であり地元住民はその周りの郊外に住んでいたが、地震後復興の遅れで地元住民の更なる郊外流出が加速し、今やクライストチャーチはドーナツ化してしまったそうだ。クライストチャーチはもともと電車を基盤とした都市ではなく車社会であったため、郊外へ人口が流出しても、そこに新たな都市を作りやすいこともクライストチャーチ中心地のドーナツ化を招いている一因であるようである。

日本など多くの海外ビジネスがクライストチャーチにはあったが、地震のサポートを海外の人が受けるのは難しいらしく、海外ビジネスも中心地を去ってしまい、政府は中心地へビジネスを誘致するのに苦労している。政府は街を復興させるなら、電車などを整備して人の流れを活発にする近代化させる形で街を再デザインしたいようだが、復旧業務も追いつかず、再デザインする余裕がないのが現状のようだ。

現地民は、人もビジネスも郊外へ流出して中心地へ行く必要がなくなって郊外化してしまったが、観光ビジネスが主要産業であるため、クライストチャーチ中心地をなんとか政府は再興させようとしているが、復興も街の再デザインもうまくいっていない現状がうかがえた。

家を失った人への仮設住居などはどうなっているのかを尋ねたところ、ニュージーランドでは仮設住居というのはほとんどなく、一時的に体育館や学校をシェルターにはしたが、すぐに家族や友人などを頼るかキャンピング・カーなどで生活しているようだ。日本では仮設住宅が一般的であるので、地震が起こったときの生活の仕方も国によって違うようだ。



立ち入り禁止地区で
地震の被害を目の当たりにする

私たちは11時から、サイクス(Steven Sykes)さんの案内で危険立ち入り禁止区の近くまで行って実際に地震の爪あとと、その後の復興の様子を見に行くことにした。大学の外に出てタクシーを待っていると、サイクスさんが、地震のあと大学の建物も耐震工事されたということを教えてくれた。

市街地の中心地に近づくにつれ、高層のビルも目に付くようになってきたが、多くのビルは周りを金属の建設足場のようなもので囲われている。地震でもろくなった高層ビルが余震などで急に倒壊するのを防ぐためだろうか。一方で、新しい木材で家の骨組みが建設されている住宅もあり、道路のあちこちに工事中の標識が目に付く。路上を、ショベルカーを載せたトラックが通っていったり、上にクレーンが載っているビルがたくさんあったりと、復興は少しずつではあるが進んできている様子もうかがえる。

中心街のすぐ東にあるハグレー公園(Hagley Park)の脇の道路に、色とりどりのバスが多くとまっているのが見えた。これは、もとの中心街のバスターミナルが各路線バスのハブになっていたのだが、地震によって立ち入り禁止になって使えなくなってしまったため、臨時のバスターミナルとしていろいろな場所に移しているそうだ。クライストチャーチにおけるバス交通の重要さと、半年たってもなお元通りの生活に戻れない状況がうかがえる。

私たちはタクシーを立ち入り禁止地区のすぐ東、エイボン川(Avon River)の近くに止めて、追憶の橋(Bridge of Remembrance)から歩いて中心地付近を見て回ることにした。

(クライストチャーチ中心街の地図:中央赤線枠内が立ち入り禁止地区)

立ち入り禁止地区はフェンスで囲まれ、誰も立ち入ることはできないが、中の様子をうかがうことはできる。足元のレンガはひびが入り崩れている。フェンスには「KEEP OUT」の看板と献花がいくつかあった。フェンスの張り紙には「都市は崩れ、人々は絶望の中に泣いたが、再び復興し、人々が笑える日がくるだろう。この崩壊と絶望から強く安全で美しい都市ができあがるのだ。私の都市、私たちの都市、クライストチャーチ」という言葉があり、すべての人がクライストチャーチ中心地を捨てて流出していってしまった訳ではなく、復興していこうという強い意思が感じられた。

エイボン川に沿って北上して歩いていく。立ち入り禁止区の川沿いには、ビルやおしゃれなカフェが並んでいるが、その窓や壁が崩れている様子がうかがえる。警察署やHSBC、RYDGESのような近代的高層ビルはあまり被害がみられないが、特に石造りの建物はレンガの一部が崩壊し、部屋の中がのぞけるような建物さえあった。

かつてのクライストチャーチのランドマークでもあった大聖堂は、実際には目にすることはできなかったが、塔や壁が崩落しているようで、現時点での復旧のめどはたっていないようだ。その大聖堂広場(Cathedral Square)にはすぐそばのサザンエンカウンター水族館&キウィ・ハウス(Southern Encounter Aquarium & Kiwi House)の建物であったドームが崩れ落ち、道の真ん中に転がっている。クライストチャーチのメインとなる中心地の復興さえまだ手がついていないのに、やはり復興の遅さが目に付く。中心街を巡る路面電車(トラム・Tram)もまったく動いていない。

ウースター通り(Worcester Street)を、立ち入り禁止区から離れるように東に進んでいく。この付近は建物の取り壊しが終わり更地になっているところ、崩れたレンガがそのままになっているところ、ショベルカーが地面をほっているところ、カフェが再開し人々がお茶を飲んでいるところと様々な様子がうかがえる。

ガラス張りのモダンな建物のクライストチャーチ・アートギャラリー(Christchurch Art Gallery)は復興本部になっているそうだ。仮設のテントやベニヤ板の仮設建物などが多く並んでいる。このあたりには比較的近代的な高層ビルが多いのだが、地震以降は精神的に人々が高層ビルを怖がってしまってあまり人が寄り付かないそうだ。エンジニアが建物を検査して、次の地震が来たときに耐えられる建物は補強し残していくようだが、今はきちんとたっている建物も次の地震には耐えられたいものも多いらしく、そういった建物は壊していっているそうだ。



液状化現象

私たちは一度車に戻り、モントリオール通りを北上していった。するとクランマーコート(Cranmer Courts)の建物がひどく崩れているのが見られて、一度下車をした。クランマーコートは1874年に立てられた伝統的な石造りの宿泊施設であるが、れんが造りの壁が崩れ、今後、この建物が修復されるのか壊されてしまうのかは、まだ決まっていないそうだ。

このあたりの建物は、立ち入り禁止地区ではないので建物の中をガラス越しに見ることができた。近代的なアパートでさえ、物が床一面に散乱したり壁が一面まるまる崩れてベニヤ板で補強されていたりと地震の被害を間近で見ることができた。ガラスにはあちこち危険警告の紙が張ってあり、赤い紙の「立ち入り禁止」と黄色い紙の「特別な用事以外立ち入り禁止」があった。張り紙の日付はそれぞれ2月から8月まであり、今になってもまだ再建の段階でなく、建物の審査段階であるようだ。

ヴィクトリア通り(Victoria street)のヴィクトリア時計台付近には若い苗木が植えられた緑地帯のようなものができてあり、大きな看板で「Rebuild, Brick by Brick!」とかかれ、れんがの瓦礫がつめられたボックスのようなものがある。ここはもとは建物がたっていたが取り壊された場所で、復興公園のようなもので、市がこのような公園をつくったそうだ。地震を境に少しずつ土地利用や都市景観が変化していくのであろう。

立ち入り禁止区の北側ピーターバラ通り(Peterborough street)に車をとめて、コロンボ通り(Corombo street)を立ち入り禁止区のほうへ歩いていく。キルモア通り(Kilmore street)のところで行き止まりとなっており「ここは様々な危険があり、安全規則と1992年の健康と安全に関する雇用法を護る、許可のあるものしか入ってはならない」と看板に書かれており、復興関係者しか入れないようだ。ここは工事のトラックなどが多くとまっており、ショベルカーで作業する人が多い。このあたりは液状化現象がひどかったようで、今はもう液状化しているところは見られなかったが、あちこちで液状化した泥が乾いた後の、灰色の粒子の細かそうな砂が堆積しているのがうかがえた。

講義でもきいたように、保険会社は建物に関してしか保障義務がないので、こういった液状化現象などの土地に関する保障は地震委員会(EQC:Earth Quake Commission)がしているようだ。建物の損壊だけでもまだあちこちでそのままであり、さらに液状化現象の起こったところでは地盤が傾いたりしてさらに復興が難しくなっているようだ。この付近の建物は飲食店などが多かったようだが、全壊しているものや壁一面が丸々抜け落ちてしまっているものなど被害が大きかったことが伺えた。復興にはたくさんの企業が参加しているようで、NZ Build Limited やHawkins Infrastructure、Ceres NZ、Poter hireなどのショベルカーやトラックなどがみられた。民間会社がクライストチャーチ政府から委託を受けて再建や解体をしているそうだ。



CTVビルへ

最後に日本でもニュースでよく登場したCTVへと向かった。カシェル通り(Cashel street)にはマツダやヨコハマタイヤや、ホールデン(Hoden)など、自動車関連の店が並ぶ。マドラス通り(Madras street)の立ち入り禁止区を区切るフェンスの向こうにはかつてCTV(Canterbury TV)の建物があったとされる更地があった。瓦礫などは残らず片付けられ、何にもない一区画が周りのたてものに囲まれ、目立っていた。

フェンスにはたくさんの写真や花や折鶴などがかけられていた。母親に向けた手紙や結婚当時の幸せそうな写真、小さな子が書いた絵、日本語で書かれた手紙などを見て、とても胸が詰まる思いだった。私たち、水岡ゼミ一同もそこで1分間の黙祷をし、本日午前の巡検を終えた。




活気づく庶民のショッピングモール: ウェストフィールド・リカートン

私たちは昼食購入のため、リカートン(Riccarton)地区にあるウェストフィールド・リカートン(Westfield Riccarton)に立ち寄った。ウェストフィールドとは、1959年に西シドニーにあるブラックタウン(Blacktown)に建てられたショッピングセンターから発展して、現在はアメリカ、イギリス、ニュージーランドの主要都市に巨大ショッピングモールを展開するオーストラリアの企業グループである。ニュージーランドではオークランドのクイーンズ通りを含め9店舗を出店している。商業でも、ニュージーランド経済におけるオーストラリアの高いプレゼンスを見せつけられた。

モール内は二階建てで、数多くのテナントが入っている。一階のひときわ大きいテナントは、格安食品量販店のパックンセイブ(PAK'nSAVE)、総合デパートのケーマート(Kmart)とファーマーズ(Farmers)、そしてスポーツ用品店のリベルスポーツ(Rebel Sport)である。このほか服飾雑貨店ディーバ(Diva)やゲーム販売店イービーゲームズ(EBGAMES)、本屋チェーンのウィットコウルズ(Whitcoulls)、フードコートといったものがみられた。モールのメインストリートには沢山の人が歩いており、どの店舗にも客が入って賑わっていた。もっとも、一階には高級なテナントが入っているわけでもないし、専門品店が並んでいる訳でもない。ここは、クライストチャーチの庶民が集まって買い回り品をショッピングするモールであろう。マクドナルドやKFC、トルコ料理店、海鮮料理店などが入っているフードコートにおいて、滞在した10分程度で素早く昼食をテイクアウトして専用車に戻った。



バンクス半島横断、天然の良港アカロアへ

私たちは、午後の目的地アカロア(Akaroa)に車を走らせた。リカートン区域から、国道75号線に入る。区域のはずれということもあり出歩く人はあまり見られなかったが、看板に「大自然 素食」と漢字表記された中華精進料理の飲食店や「旅行社」と中国語表記のあるForemost Travelという旅行会社があった。クライストチャーチ中心地から直線距離5~6kmほど離れたこのアッパー・リカートン(Upper Riccarton)区域にこのようなアジア人、特に中国人向けの商店が存在していることは、アジア人が多く住んでいる地区エイボンヘッド(Avonhead)の隣にあることが関係しているのだろう。

75号線はクライストチャーチ市内を起点にして終点アカロアに通じる、バンクス半島(Banks Peninsula)への大動脈である。市街地から離れるにしたがって周りを走る乗用車はまばらになり、運送会社のトラックや建築資材を運ぶトレーラーが市外方向に走るのが目につくようになった。また国道の脇には、ポーリングの現場や大規模な建物の建築現場が見られた。このアイダンフィールド(Aidanfield)区域は先の地震の影響を受け、崩壊した建物の修復が行われ、それを機会に郊外ショッピングモールなどの開発が進んでいるようだ。

10数分ほど走ると、市街地を脱して羊や牛を放してある牧草地が見えてくる。目視で数が確認出来るほどの小規模な放牧がなされていた。さらに進むと遠方には小高い丘が現れた。午前中に学んだように、クライストチャーチはもともと沼地だったから平野だが、半島に入るにしたがって国道周辺の地形は丘、そして山へと変化していく。

道路を登り切ると、アカロア湾(Akaroa Harbour)を見渡せる峠に出た。アカロア湾の、冴えた青色とそれを囲む山肌の深い緑色の美しいコントラストが印象的である。

アカロアという名称がマオリ語で「長い港」を意味するとおり、展望台から望む湾は、南太平洋から深く入り込んだ天然の良港である。この入江の存在がアカロアという町の存在を浮き上がらせ、近海で漁をしていた欧米諸勢力による介入を招いて、ニュージーランド南島の歴史に深く影響を及ぼすことになったのだ。目を近くにやると、斜面には柵がはってある。 パイヒアの近くでもみた、土地利用における酪農業の強い競争力を、ここでも認めることができる。私たちは、暫しこの風景を堪能した。

峠をすぎると車は高度を下げ、アカロア湾の上岸部の斜面をぐるりと回りこむように進んだ。湾の向かいに小さな街が近づいてくる。クライストチャーチから約1.5時間、ここは75号線の終点、港街アカロアである。



英領の中のフランスという存在: アカロア博物館視察

アカロアはバンクス半島(マオリ語でホロマカHoromaka)の中心地であるとはいえ、町全体を歩いて回ることのできるほどの小さな街である。イギリスの影響を強く受けているニュージーランドにあって、ここアカロアが異彩を放っているのは、この町が主にフランスの関与によって発展したからだ。イギリスとフランスの両国はこの地においてどのような攻防を見せたのだろうか。

アカロアはバンクス半島(マオリ語でホロマカHoromaka)の中心地であるとはいえ、町全体を歩いて回ることのできるほどの小さな街である。イギリスの影響を強く受けているニュージーランドにあって、ここアカロアが異彩を放っているのは、この町が主にフランスの関与によって発展したからだ。イギリスとフランスの両国はこの地においてどのような攻防を見せたのだろうか。

失敗に終わった南島のフランス植民地化

ここでは、トルーメワン(Peter Tremewan)氏の著作FRENCH AKAROA(University of Cantabury Press, 2010)を参考に、南島をめぐるフランスの領土的な思惑を検討してみたい 。

ニュージーランドの海域は、捕鯨で多くの欧米の船隊をひきつけていた。1835年頃になると、南大西洋での鯨が激減したため、オーストラリア、ニュージーランド水域にフランスの捕鯨船がやってくるようになり、ベイオブアイランズ(Bay of Islands 北島)やオヌク(Onuku アカロア)等に寄港した。バンクス半島の良港はフランス船の知るところとなり、フランス人の集落が出来た。

フランス政府の支援を受けたラングロワ(Jesan Francois Langlois)は、1838年5月にはポートクーパー(Port Cooper、現在のリトルトンハーバー(Lyttelton Harbour))に到着し、8月にクーパーのマオリ11人と契約を交わしてバンクス半島全体を購入した(38年契約)。この土地購入の背景には、この水域での捕鯨の大きな利益と、イギリスの影響下にない補給港の必要性があった。ラングロワの38年契約の有効性は必ずしも確かではないが、この契約がフランスの南島進出の契機となる。

ラングロワは1839年5月に帰国し、政府要人のドゥカーズ伯爵(Duke Decaze)に働きかけて、フランスのニュージーランド植民計画が練られた。その内容は、民間会社によってマオリから南島の西海岸を除いた戦略的土地を密かに買収させ、主権を主張するというものであった。1839年10月にはイギリスのホブソン(William Hobson)が北島を併合する計画であることを察知したフランス政府は、イギリスに知られないように、議会を通さず南島をフランスの植民地とする計画を承認した。つまりフランスは、既に英国が植民地支配を確立しつつあった北島はあきらめ、南島を仏領とすることを画策したのである。これが実現していたならば、ニュージーランドは、北島が英領、南島が仏領と2国に分断されることになっていたであろう。フランスはナント・ボルドー会社(正式にはLa Compagnie de Bordeaux et de Nantes pour la Colonisation de l’Ile du Sud de la Nouvelle Zelande et ses Dependances)を創り、ラボード(Charles Francois Lavaud)をニュージーランドに1840年2月に派遣して、マオリからフランスへの主権の移譲手続を開始した。

しかしイギリスは同年5月にはワイタンギ条約によって北島における主権を宣言すると同時に、進めていた南島の土地買収を背景に、南島での英国の主権を無主地の先占によって宣言した。そして南島の主要なマオリのワイタンギ条約への署名を手にしたことで、同年6月にはマオリからの譲渡によって南島での主権を宣言した。同年7月に、冬の厳しい海を越えてはるばるフランスから来たラボード一行はベイオブアイランズに到着するが、わずか数ヶ月の時間差でそこには、英国旗が悠然とはためいていたのである。結局、フランス植民者は、イギリスの主権を認めるという条件でアカロアでの生活を許された。

アカロアに着いた私たちは、まずアカロア博物館(The Akaroa Museum/Te Whare Taonga)を訪れた。アカロアはクライストチャーチ市の管轄下にあり、博物館は市(Christchurch City Council)が運営している。大人はNZ$4で入場でき、開館時間は午前10:30から午後4:30である。3時に到着した私たちは。足早にロビーで受付を済ませた。

ロビーはミュージアム・ショップを兼ねており、様々な動植物の人形・玩具や絵本、マオリの集会所の門を飾っている木細工の仮面やハカなど、マオリ文化を伝える書籍、クジラの置物などの販売がなされていた。博物館は平屋の三つの歴史的建造物から構成される。それらは上述のラングロワのコテージ(Langlois-Eteveneaux Cottage 1840年代初期)、裁判所(Court House 1878年)そして少し離れたところにある税関(Custom House 1850年代初期)であったものであり、建物はとても丁寧に維持・保存されている。

展示内容は3つに大別できる。一つはアカロアの自然地理的説明、第二に、フランス人のアカロアへの進出、その後の生活について、そして第三は、マオリに関するものである。

第一に、バンクス半島の形成について、詳細な説明パネルがあった。そこにはバンクス半島の火山スケッチが1100万年前から2万年前まで9枚並べてあり、火山の出現、噴火、堆積といった出来事が時系列的に描かれている。970万年から950万年前の間にまず噴火が起こり、その後950万年から910万年前までに次第に体積が増えて火山の裾が拡大していく。910万年から800万年前の間には、元々あった火山の東、形状からして恐らくアカロアの少し西を火口に、さらにもう一つの火山が形成された。これが現在のクライストチャーチ南の山である。780万年から580万年前の間に西の火山が噴火し、580万年から100万年前に堆積・拡大して、2万年前におおよそ現在のバンクス半島の形状になったという。

地図を見れば、バンクス半島の沿岸がひだを形成していることに気づく。900万年前に活火山が存在していた現在のバンクス半島では100万年をかけてマグマが噴出、堆積して、山体が出来た。火山形成後に、風・海水・凍結作用によって侵食され、そして大規模な地滑りを経験して、現在のこの火山は古代の半分ほどの大きさに縮小していった。アカロア湾は、この火山活動で生まれたクレーターに海水が入り込んで出来たという。

この火山形成の様子は、「アカロア-長い港-」と題された20分程のDVD(ニュージーランドのパーカー・ニュー・メディア社 Parker New Media Ltdが1999年に作成)上映を通して、CG再現がなされていた。


英国旗のもとでのフランス人の生活

囲み記事で述べた経過をへて、フランス人はイギリス統治下でアカロアでの生活を始めた。その歴史の重要な場面を表す模型が、博物館には展示されていた。

アカロア開発初期の展示物として、まず、捕鯨に関するものが目を引いた。湾岸に横たわる巨大な鯨のスケッチで、捕鯨を終えて海岸まで引っ張ってきた様子が描写されている。Whaling Try-Potと記された、口や高さが1mはあろうかという金属の釜も展示されていた。

見張り台と思われる高床の監視塔の周りを柵で囲んだ模型もあった。建造している労働者がマオリなのか入植した白人なのか分かりにくいが、黄土色の肌をしているので恐らくマオリに労働させたのだろう。ワンピースのような洋服を大人の女性とスカートを着用した少女の模型があり、これは白人入植地の風景と思われる。アカロアのマオリは人を食す部族であり、部族紛争も生じていたため、入植地での安全性は大きな問題であったという。

三本マストのフリゲート船の模型が展示されていた。後方にフランス国旗が掲げられているので、フランス海軍の船だろう。大砲の発射口と思われる窓が多く、アカロア進出の際の示威の意味もあったのだろう。威嚇や捕鯨船の護衛を任務とする強そうな船である。

フランスのアカロア入植者の中には、パリの国立自然誌博物館(le Museum national d'Histoire naturelle)から植物標本をとるように依頼されていた者がいた(Peter 2010:60)。展示されている植物標本の紹介は「フランスのアカロア植生解明への貢献」と題して、入植を通じた植物学への功績が称えられていた。フランスの首都パリから、研究者がこのアカロアまでやってきて調査を行なったことは、アカロアをフランスの覇権下におく帝国主義的な意図が、かなり真剣であったことの証と捉えられる。

入植したフランス人の生活を復元した、コテージ(French Cottage)が本館の隣にある。このコテージは1845年に建てられ、上述のラングロワの弟ラングロワ・アミアブル(Amiable)のものである。居間には人形があり、当時フランスで流行していた衣類を着用している。木製の刳形(くりかた)や内側に開く開き窓、そして水切り板は皆ノコギリで切った跡がなく、このことはフランス製であることを示すらしい。隣には寝室があった。隅にあるベッドはフレンチ・エンパイア・ベッド(French Empire Bed)と呼ばれるフランス入植者のみが使用していた型のベッドである。パイヒアで視察したバズビーの書斎でもそうだったが、本国と変わらぬ生活をニュージーランドでしたい、つくっていこうというフランス人の気持ちが伝わる。書斎机は、1840年の現地の材料でアカロアにてフランスの家具職人が制作したものである。家具の材料についてはキャビネットは外側はハネミエンジュ(マメ科の常緑低木 ニュージーランド原産 紫檀(rosewood)に似ている)で作られるが、引き出し等内側はカウリマツ(ニュージーランドに自生するナンヨウスギ科の常緑高木)を用いている。

フランス人の入植者の実態については、後にアカロアを案内してくれたトンプソン氏が説明してくださった。イギリスに植民計画を知られたくなかったフランスは、植民者集めに苦労した。ラングロワはおおっぴらに宣伝できなかったため、有産層は集まらなかった。地方の新聞に、植民者はアカロアにくれば土地の購入費用を分割で納めればそれ以外に小作料は払わなくていいという広告を入れ、それで小作人が集まったという。

そのほか、フランスのデザインと思われる花瓶、人力車や衣類など、入植者が使っていた生活品が、展示品スペースの1/3程を使って紹介してあった。南島の植民地化という目標をイギリスにくじかれたフランスであるせいか、政治にまつわる展示では仏の功績を表す展示は多くなかったが、イギリスのフランスに対する外交的優越性を誇示する内容のものもなかった。英国のアカロア支配は既定の事実なので、今さらそのような誇示の必要もないのだろう。フランス人がやってきたということを意味する展示や、フランス風の生活が行われてきたことを示す展示が大勢を占めている。

フォックス(William Fox)作の1848年の水彩画が展示されていた。アカロア湾を描いたこの画で、奥に見える町はイギリス人のもの、手前の岬にある町はフランス人の町である。アカロアは狭いため、かくも近くに英仏の集落が相並んでいたのだ。このように近距離で生活していたので、アカロアではイギリス人とフランス人の混血が進み、両者は共存の道を歩んでいった。フランス人がアカロアに入植し、現在までイギリス人支配のもとでイギリスに次第に包摂されていったことを後世に伝えることが、目的の博物館だと感じた。



マオリに無配慮な、醜い中国製マトリョーシカ

バンクス半島にはカイ・タフ族(Kai Tahu, Ngai Tahu)というマオリが住んでいた。マオリについての展示室に入ってすぐに、大小約20体にものぼるマトリョーシカのような人形が飾られていた。見ると、よく知られたロシアのマトリョーシカとは絵柄が異なる。棍棒と盾をもってドーム型の帽子をかぶった中年男性の戦士を型どっていた。マオリのシンボルであるティキのマトリョーシカが、ショップで売られているようだ。ロシアとニュージーランドは政治的な関係は薄く、移民はゴールドラッシュ時やソ連解体後の現代に増えたぐらいである。ロシアからの移民も5000人程度と、移民を歓迎しているニュージーランドにおいて多くはない(http://www.teara.govt.nz/en/russians-ukrainians-and-baltic-peoples/1)。

このマオリの絵柄のマトリョーシカについては、クリスティーン氏(Jessica Christine)の興味深い論文「Maori Culture in the World」(i-call, The Research Centre for International Communications and Art Law at the University of Lucerne) がある。これによると、このマオリ・マトリョーシカは、中国製で現地マオリとは何ら関わりがなく製作されている。マオリの財産を無断利用し、マオリには何ら利益の共有がなされていない。商魂たくましい中国人の商品のニュージーランド進出ということであるが、マオリのアイデンティティにとって好ましいとは言えないマオリ・マトリョーシカを無神経に展示する博物館の姿勢に、疑問を感じた。

マオリの室に入っていくと、生活品の展示があった。漁関係の物品であろうか、木製の1m程の棒や麻の入れ物や漁道具が並んでいた。また、喫煙具の展示品があった。「煙草入れ(tabacco jar)」と説明された蓋にとってのある陶器の壺には、KIA-ORA(マオリ語で「ようこそ」の意)と印刷されたプレートが貼り付けてあった。綺麗にカラー印刷されたタバコの銘柄「シルバー・ファーン(Silver Farn)」のパッケージもあった。このパッケージにはニュージーランドのシンボルマーク、シルバー・ファーン(シダの葉)が印刷されている。

展示スペースの制限もあるのだろうが、博物館は、マオリに配慮した展示指針を持っていないと感じた。マオリに関する展示は下記の半島の成り立ちや白人の到来、その生活ぶりなどを紹介する展示品と比較して数が少ない。その展示されているマオリの生活品についても、例えば喫煙は白人到来によってもたらされた習慣で、マオリ独特のものではないということは一切無視されていた。

さらに、パイヒアから遠く離れたここにも、ワイタンギ条約についての展示があり、1835年から条約成立までに掲げられていたマオリ独立宣言の旗ができるまでの説明がなされていた。ニュージーランドで建造された船は主権国家による登録を受けていなかったので、その荷や船自体を押収されてしまうことが問題となっていた。加えてアカロアで起きたエリザベス虐殺事件をうけて、安全確保を要請する植民者の声があがった。この二つの理由点から、駐在弁務官としてジェームズ・バズビー(ワイタンギ条約成立に関しては、27日に訪問したパイヒアhttp://econgeog.misc.hit-u.ac.jp/excursion/11newzealand/0827/を参照)が派遣されて、マオリは独立しニュージーランドの秩序が保たれた、と展示は述べていた。治安を護る文明化されたイギリス、という植民者寄りの意図が、展示にはにじみ出ていた。また展示されたワイタンギ条約の条文(英語条文のみ)の下にはダーリー(Edward "Eddie" Taihakurei Durie 1940年に生まれ、初めてマオリで主席裁判官となる)が述べた、ワイタンギ条約はマオリの権利を保障しているだけではなく、南太平洋のニュージーランドに白人が存在する権利をも保障している、という主張が引用されていた。

エリザベス虐殺事件

ニュージーランドにおける歴史的建築物や史跡を紹介する雑誌Heritage New Zealand (Autumn 2005)に拠って、アカロアで起きた虐殺事件について述べる。

1830年代、バンクス半島は、捕鯨船が多く寄港し、現地マオリと補給や必要物資の交換が活発に行われて、マオリにとって重要な交易の地となっていた。例えば上述のラボードがアカロアで見た英国旗がはためくタカプヌケ(Takapunuke)山は、イギリス人が欲したとされる亜麻の交換中心地となっており、カイアポイ(Kaiapoi)に堅固な要塞をもつ北ナイタフ(Ngai Tahu)族のタマイハラヌイ(Tama-i-hara-nui)族長が取り仕切っていた。

このような経済的利益を巡って、1828年にカイアポイでナイタフ族とテ・ラウパラハ(Te Rauparaha)が率いるナチトア(Ngati Toa)族との間で争いが生じ、多くのナチトア族の長老が殺害された。この事件がエリザベス虐殺事件の背景にある。

1830年、エリザベス号に乗ったスチュアート船長(Captain John Stewart)は、テ・ラウパラハのもとを訪れ、50トンの亜麻を条件にナチトア族のナイタフ族に対する復讐に手を貸すことを約束した。スチュアートはテ・ラウパラハとナチトア族の100人の戦士を密かに乗船させてタカプヌケ沖に停泊し、ナイタフ族長タマイハラヌイとその妻子を火器と亜麻の交易をする名目で招きいれた。その隙にテ・ラウパラハとナチトア族戦士はタカプヌケを蹂躙し、200人のナイタフ族を虐殺し、後にタマイハラヌイ族長も殺害された。イギリス人が経済的理由から手を貸したマオリ間の抗争が、このエリザベス虐殺事件であった。



フランス人入植の跡に建つ英国の教会:アカロアの街の巡検

博物館を見て外に出ようとした私たちは、驚愕した。先ほど、コテージ内に飾られていたいでたちの女性がそこにいたからである。腕にカゴを下げ、顔の周りにはフリルを付けて、ワンピースを着ている。トンプソン(Thompson)さんという、これから私たちのアカロア巡検を案内してくれるガイドである。乙な演出だ。アカロアは、その歴史地理を学びたい訪問者のために、この種のガイドが整備されている 。また、アカロアでは伝統的作りをした家屋を「Historic Akaroa Building」とラベル付して、観光業政策の一環として保護している。

まず「Plan of the Town AKAROA Surveyed by Bous & Davie 1852-6」という手描きの古地図を広げて、当時のアカロアの町の構造を説明していただいた。地図にはRue Balcueri (リュ・バルキュエリ Rueは仏語で「通り」)という表記が見え、地図中央のラボード通り(Rue Lavaud)が走る主にアカロアの北部がフランス人地区である。そして浜辺通り(Beach Road)を介して南部にイギリス人地区がある。湾岸を南北に走るラボード通りが町の中心街で、この通りを囲むように建物が建てられており、これが現在の商業地区となっている。通りの名前は植民に功績のある人にちなんでいる。ラボード通りから東の山に近い区域には広い区画があり、農地であったと思われる。

博物館を出て、地図でいうフランス人地区から町を見て回った。先ほど中をみたバルキュエリ通りにあるフレンチ・コテージについてその外装の説明してくださった。この建物の屋根はシェングロウという木材で出来ている。この種の屋根は入植初期のフランスの伝統的家屋に特有のもので、その後に流形塗炭板の屋根が増えたそうだ。対してイギリスの家屋は石造りだという。この建物は当初アカロアで唯一の公共の建物として、あらゆる機能を持っていて、ショップができるまでは入植者に鍬や種を販売し、学校が出来るまでは学校となり、ホテルが出来るまでは宿泊させもしたという。ここに住んだアミアブルは実質的に町長のような役割を果たしていたのかもしれない。

このバルキュエリ通りの浜辺付近には、税関があった。アカロア湾は入国地点として機能していたため、この湾岸に税関が置かれた。ここでは赤いバラが咲いていた。バラはイギリスを象徴するということで、初期のアカロアでは栽培が許されなかったという。英国への、せめてもの対抗なのであろうか。税関やコテージの存在からこの付近は、植民地時代の行政中心であったことがわかる。

バルキュエリ通りと交差するラボード通りを北進した。現在では先の土産物屋ポット・ポプリなど土産の他に、シェ・ラ・メール・バックパーカーズ(Chez la Mer Backpackers)という看板があり、紫色に塗られフランス国旗を掲げていた。木造製の1860〜70年代の宿泊所、そしてBNZ (bank of newzealand)の店舗がみられた。ここは古地図を見ると小さな建物が密集しており、ガイド氏によるとフランス人地区の商業中心であったようだ。

アカロアの商業中心地からバルキュエリ通りを東に向かうと、英仏両地区の境界にあたる位置に、聖ピーター英国教会(Saint Peter's Anglican Church)がある。白い木製の板にねずみ色のトタン板の屋根が屹立している。1864年に建設され、1875年に増築して今の姿になった。中に入るとパイブオルガンとステンドグラスが目立ち、天井が高い。これもトトラ製だ。英国教会がアカロアにあるのは、1850年にイギリス人が開拓するためこの地にやってきたころ、当時クライストチャーチ周辺は湿地であったため農業に適さないとして開拓場所として避けられ、かわりにこのアカロアに入植し、教会を作ったのだという。

フランス人地区には、白い木製の側面に緑色の屋根を持つカトリックの聖パトリック教会(St Patrick's Church)がみられた。1865年にアカロアの三番目の協会として建てられたこの教会は、フランスによる植民地化の尖兵として北島のベイオブアイランズに派遣さていたポンパリエ司教僧侶(Bishop Pompallier)が、フランスの植民計画を知ってアカロアにきてマオリや太平洋諸島の人々に布教する拠点として機能させていたものである。ポンパリエ司教の名前は、がフランス人地区の通りの名前にもなった。その後、この教会は、フランスと同じカトリック地域のアイルランドに引き継がれ、今はアイルランド系の教会となっている。

第三はトリニティ教会(Trinity Presbyterian Church)である。この外見はピーター教会と似て、白の木製の板にねずみ色をしたトタン板の屋根である。これは長老派、つまりスコットランドの国教会である。スコットランドの国教会がフランス人が多く住む地区付近に立地したことは、アカロアのフランス人地区のイギリス化の試みであったのかもしれない。マオリの集会所には必ず特有の門があるが、教会のデザインにそのモチーフがそれとなく取り入れられていた。マオリにも受け入れやすくするためであろう。



捕鯨の拠点だった歴史を物語る釜

次に私たちは、フランス人地区中心から西に、アカロア湾岸を歩いた。浜辺には、植民化が始まった頃にアカロアの浜辺で使われた、鯨油を採る釜であるTry-Potが設置され、アカロアの歴史を物語っていた。

1830年代には、産業革命後のイギリス、そして産業化途上のフランスにおいて、工作機械のためグリスが必要とされた。またや、都市インフラである街灯にも油が需要された。石油が利用されなかった当時、このために鯨油が使用され、捕鯨は応酬に必須の経済活動であった。捕獲した鯨から油を採るため、この壺が浜辺に大量に並んだ。この釜に鯨やアザラシの油の塊を入れて、下から熱して油を分離させる。採取された油は、街灯や石鹸その他の用途に使用され、アカロアで取れた鯨油はパリの街を照らしたという(Peter 2010: 25)。

私たちは、釜を見ながら、具体的な捕鯨の方法について教えていただいた。まずボートで海にでて、鯨を見つけたら銛を打ち込み、そのまま浜まで引っ張って行く。時間にして4時間程掛かるという。浜に死んだ鯨を寝かせて、皮をはいで脂肪の塊を切り出し、Try-Potで火にかけるのである。出てきた脂肪は樽にいれて売るという。はじめ、Try-Potは木製の船のうえに置かれ火にかけられていたが、安全のため沿岸に移動したという。初期には国家がなく、この時期の捕鯨は各国の船が、それぞれ拠点をアカロアの海岸に設けて加工程を行なっていた。このように栄えた捕鯨であったが、ラングロワ到来の38年に捕獲量がピークとなり、45年には早くも乱獲の結果頭数が激減して、捕鯨は活気を失った。

当時、このように大量の鯨を殺した国々は、もちろんその後謝罪したわけではない。こうした過去に口をつぐんたまま、現在、秩序ある調査捕鯨について日本を口を極めて非難している。私たちは、その不合理に腑甲斐なさを禁じえなかった。



植民地獲得競争に敗れたフランス人が作った埠頭

ガイド氏によると、1840年8月に63人のフランス植民者がラングロワにつれられてアカロア湾に到着した当時、浜は土地が水平でなかったため、埋め立てを行なって現在の海岸線になったという。

海沿岸には、フランスが作った埠頭の位置に、元々の形で埠頭があった。岸に、自分たちのキャンプとともに作ったものだという。852年当時のアカロアの地図を見ると、確かにこの埠頭は描かれている。この地図に示された2つの集落が、フォックスの水彩風景画に描かれた英仏の村落と埠頭の場面であろう。木製の30m程の埠頭の先端には、ここによく止まっていたFOX Uという船を紹介する屋根つきの小屋があった。

ラボードがアカロアに上陸したときに見た、イギリスの主権を示すため1840年8月始めにたてられた英国旗がはためいていた場所が、波止場から遠方に見えた。対岸のタカプネケ(Takapuneke)山の北の岬、グリーンポイント(Grenns's Point)である。イギリスとフランスの、帝国主義的なニュージーランド争奪戦の勝負を示した旗であった。ラボードそして植民者たちの落胆は言わずもがなであろう。入植後、フランス国旗の掲揚はアカロアのフランス人村落には許されず、軍艦にのみ許されていたそうだ。



アカロアの郊外に佇む共同墓地

フランス人地区から東に向かい、山に近づいた。山肌に目をやると、裸になっているところが見える。入植者がやってきたころ、アカロアの山には森が鬱蒼と茂っていたのだが、トトラ(totara)というニュージーランド原産の木材が建物の材料として適しており、伐採が進んだため、禿げてしまったという。平野のカンタベリーには木材がなかったため、アカロアで伐採されて運ばれた。1856年に製材工場が建てられて伐採速度が上がり、50年でバンクス半島からトトラが伐採され尽くしてしまったそうだ。

アカロア背後の山のふもとには、かつての水力発電の施設があった。1911年に、斜面の少ないカンタベリーで電気を供給し始めた先駆だという。1955年には、アカロアが全国の電線網に入るに従って操業を終えている。

ここから丘の上に登ってゆくと、植民時代に亡くなったフランス人の共同墓地(Old French Burial Ground)がある。この墓地は、南島で最初のキリスト教墓地として1842年から埋葬され始めた。当時は町に墓地が一箇所しかなかったので、新しい墓地が開かれるまでの25年間はアカロアの死者が皆ここに埋葬されており、ドイツ人の名前も刻まれていた。埋葬はポンパリヤ司教によって行われた。側面にはフランス語で祈りの言葉と思われる文が彫ってある。現在は綺麗に墓地が整っているが、100年前は柳で覆われていたという。この柳はセントヘレナに流刑になって死んだナポレオンの墓地周辺に茂っている柳を切り取り、初期入植者が1837年に植えたものであるという。希望をもってニュージーランドに辿り着きながら、祖国フランスに棄てられた植民者の運命を、ナポレオンになぞらえたのであろうか。だが、100年たって三世代目となり、このフランス人にとって特別な柳は、整理して切られてしまった。

日が落ちる寸前、私たちはイギリス人地区の南にあるマオリの集会所Maraeを訪れた。バンクス半島のナイタフ族のものである。イギリス人の手助けによって他のマオリ族によって虐殺された経験を持つナイタフ族であるが、集会所はこの場所にある。白人との交易や闘争など重要な決定がここでなされた。

マオリたちは、白人が無断で自分たちの集会所の中に入ることを許さない。外から見ると、ワイタンギにもあったような、祖先の言い伝えを伝承するマオリの顔細工が施された門が構えてある大規模な集会所であった。



観光業で成り立つ、アカロアの現在

フランスとイギリスという2つの帝国主義がせめぎ合った歴史を持つアカロアも、今は、公園やバーなどが立ち並ぶ、リゾート地になっている。

湾を見ながら歩いていると、イルカの石像があった。この近海に生息する世界最小のイルカ、ヘクターズドルフィンを形どったものだろう。現在は、このイルカを観るウォーター・アトベンチャーがアカロア観光業の目玉になっている。昔は殺し、今は観る。アカロアの産業は、今も昔もイルカや鯨と深い関係にある。

窓がイタリアンテイストである「Pot Pourri」という家屋の店がアカロアの町の入口の旧フランス人地区にある。pot pourriとはフランス語で「花香、ポプリ」(バラなどの乾燥した花弁を香料と混ぜてつぼに入れたもの)という意味で、アカロアの土産物店だった。

このように、今アカロアでは、私たちが視察したようなフランス人が住んだ歴史を知るツアーが行われたり、ウォーター・アトベンチャーを楽しんだりと、観光産業によって地域経済が成り立っている。また、南島の中心地であるクライストチャーチなどから、アカロアに週末の休暇を求めてくる人たちもいる。町を歩いていると所々に広めの無人の家が見られる。これは、産業の衰退によって流出した人々の家を、週末用の別荘に転用したものであるという。

夕方6時:45分となり、辺りはすっかり暗くなって、これ以上の視察は困難となった。色々教えていただいたガイド氏と、英仏の帝国主義的対抗の歴史を刻むアカロアの街に別れを告げて、私たちは、クライストチャーチへと帰途についた。

参考文献:Peter Tremewan ed., French Akaroa, revised edition. Canterbury University Press,2010




(午前:坂本彩、午後:吉田達郎)