2011年8月27日 ワイタンギ条約

白人もマオリも同じ「移住民」!??ワイタンギ条約地区ににじむテーマ

コラム

1642年、オランダ東インド会社のアベル・タスマンが、ヨーロッパ人で初めて、のちに「ニュージーランド」と呼ばれる列島を「発見」した。彼に続いて、多くのヨーロッパ人航海士がニュージーランドに寄港し、19世紀には多くの貿易商人がニュージーランドに向かうようになった。先住民との交渉が頻度を増すにつれ、ヨーロッパ人によるマオリの掟の侵害行為が増加し、民族間の関係は悪化していった。

そんな折、イギリスは1814年にベイオブアイランズに伝道所を建設した(キース・シンクレア著,青木公,百々祐利子訳『ニュージーランド史』評論社, 1982, pp.30, 36)。マオリと宣教師との間に良好な関係を築いて、のちの植民地支配において、抵抗が生じにくいようにしたのである。だが1830年代から、ヨーロッパ人とマオリとの争いが絶えなくなり、英国政府は「法と秩序や保護の必要」を理由に、ジェームズ・バズビーを駐在弁務官としてニュージーランドに派遣した。

当時、ニュージーランドは、イギリスとフランスという2つの帝国主義列強のフロンティアがせめぎあう場になっていた。バズビーは、1835年にド・ティエリーというフランス人男性が、宣教師の斡旋によりニュージーランドの広大な土地を購入するという取り決めをしていたことを知り、急遽、マオリ首長らに「ニュージーランド部族連合」という独立国設立の書面に署名させ、独立国であることを宣言させたのだった(キース・シンクレア著, 1982, p.47-48)。

だがこれを手がかりに、イギリス政府は、本格的にニュージーランド植民地化に乗り出した。1839年、ホブソン大佐に条約締結の権限を付与し、ニュージーランドに派遣した。条約の英語*マオリ語間の通訳は、宣教師ヘンリー・ウィリアムズとその息子が担当した。1840年2月5日、ワイタンギ条約についての交渉を行った。マオリは、通訳のウィリアムズに意見を求め、ウィリアムズは、「マオリにとっても利益になる」と助言した(池本健一著『ニュージーランドAtoZ』丸善ライブラリー, p.184)。

こうしてイギリスは、フランスとの帝国主義的対抗を経て、マオリと友好関係を築いていた宣教師を尖兵とし、ニュージーランドの植民地支配を確立していったのである。

しかし、条文を英語からマオリ語に訳す際に、イギリスとマオリの間で訳文と解釈が異なってしまったことが、今日まで問題を続かせるもととなった。

第一条で、英国が「主権」という意味で使った「soverignty」は、マオリ語読みにしただけで意味をなさない「kawanatanga」と訳された。第二条では、「所有権の保障」という言葉を、マオリ語で「地位や権利の保障」を意味する「rangatiratanga」と訳した。また、イギリス国王の「排他的先買権」について、マオリは「イギリス国王が土地を買わないのであれば、他の人に売ってもよい」と解釈したが、イギリスは、マオリに「イギリス国王以外の人に、土地を売らせない」という意図を持っていた(池本健一著『ニュージーランドAtoZ』丸善ライブラリー, p.185, ニュージーランド学会編『ニュージーランド百科事典』春風社, p.398)。

先住民のマオリには、そもそもヨーロッパ的な所有や主権という概念が存在していなかった。このため、イギリスがニュージーランドに、主権国家や近代的土地所有を持ちこんだ時点で、イギリス人が優位に立てる仕組みが出来上がったと言えよう。


空は晴れているが、コートなしでは肌寒いくらいの気温である。朝9時、私たちは宿泊していたモーテルからタクシーに乗って海沿いに北上し、「ワイタンギ条約地区(Waitangi Treaty Grounds)」を目指した。海沿いにはロッジ、モーテル、カフェ、シーフードレストランなどが立ち並んでおり、夏にはリゾート地としてにぎわうのであろう。しかし冬の今は、ひっそりとしている。道路は片側一車線だが、トラック一台が十分通れるほどの幅である。走る人や犬の散歩をしている人の姿が数名見られた。

5分ほど走って、ワイタンギ条約地区のレセプションセンターに到着した。駐車場は広々としていて、50台分程度のスペースは確保されていたが、朝早いこともあり、停まっていたのは4台のみであった。

ワイタンギ条約地区には、レセプションセンター、ビジターセンター、条約記念館(Treaty House)、マオリ集会所(Meeting House)、カヌーセンター(Canoe House)が点在しており、全部で506ヘクタールからなる。ニュージーランド総督(1930-1935年)だったブレディスロ(Bledisloe)卿夫妻が1932年に、ニュージーランドの人々に寄贈した。現在、ワイタンギナショナルトラスト委員会によって管理されている。冬は9時〜17時、夏は9時〜19時に開館しており、クリスマスのみ休館である(パンフレットp1)。

レセプションセンターは、壁はガラス張りだが、入口上部には木々をあしらっており、一見するとコテージ風の建物である。入口を入って右手には、クライストチャーチ地震を見舞うための大学ノートが置いてあり、ワイタンギ条約地区を訪れた人がコメントや署名を残せるようになっていた。ゲストブックを見ると、オークランドから来た人が多い中、京都から訪れたという人もいた。また、マオリがポリネシアからニュージーランドに来た際に乗っていたとされるカヌーの小模型も展示されていた。

入口を入って左手には、ワイタンギ条約のメイキングブック(NZ$20)など、販売品の見本が掲示されていた。入口正面には受付があり、その上部には、マオリとイギリス人がマオリのカヌーを漕いでいる様子を表したモニュメントが垂れ下がっていた。訪れた人に、マオリとイギリス人との協調、協力を感じさせようという意図であろう。

私たちは旅行社を通じて事前に入館料を支払っていたが、通常、ニュージーランド住民は無料、外国人は大人NZ$25、小人NZ$12である。パンフレットは7ページからなる冊子で、私たちはその日本語訳をした紙をもらった。日本人も多く訪問していることがわかる。ここで、Waitangi Treaty Groundsを「ワイタンギ自然保護区」と訳していたが、なぜ「自然保護」という訳語がでてきたのかは上思議な点である。

レセプションセンターから、木々に囲まれた道を1分弱歩いたところに、ビジターセンターがある。ここには、ミニシアター、ワイタンギ条約に関する展示、アートギャラリー、ミュージアムショップが入っている。

ミニシアターでは、スクリーンの左右にわらの敷居が建てられ、マオリを特徴づける置きものが飾られていた。「Making of the Treaty of Waitangi」と題された、ワイタンギ条約の歴史をつづる10分程度の映像が流された。もともとはポリネシア人が「占拠」していたこの地に、貿易商や宣教師がやってきたこと、バズビーが国旗制定や独立宣言を出したこと、法と秩序を守るためにホブソンが派遣されたこと、ヘンリー・ウィリアムズが翻訳しワイタンギ条約が結ばれたことなど、ワイタンギ条約に関わる歴史が手短に語られた。映像の最後には、マオリの若い青年が登場し、マオリ語で何か言った後に「Welcome to Waitangi!」と挨拶をした。また、ワイタンギ条約のメイキングブックの収益金は教育プログラムにつぎ込まれるとのことだった。この映像において興味深いのは、ポリネシア人がこの地を「占拠して(occupy)いた」と語られている点である。そこに「先住民」やその生活空間に英国が一方的に侵入したという史実は隠され、マオリも白人もともにニュージーランドに移住してきた民族だ、という主張がにじんでいた。

ワイタンギ条約に関わる重要人物として、マオリ首長2人:タマティ・ワアカ・ネネ(Tamati Waaka Nene)、テ・ルキ・カワティ(Te Ruki Kawati)と、イギリス人3人:ウィリアム・ホブソン(Captain William Hobson R.N.)、ジェームズ・バズビー(James Busby)、ヘンリー・ウィリアムズ(Reverend Henry Williams)の肖像画が飾られていた。

イギリス人3人については、英語とマオリ語で一言紹介文が書かれていた。

ホブソンは「ワイタンギ条約をマオリ首長とともに協議した。ニュージーランド初の総督。オークランドで1842年に死去。」とある。バズビーは「1833年に代表となり、35年にはマオリの部族連合国独立宣言を出し、マオリの権利について早期承認を得た。ワイタンギ条約を起草した。」とある。



ヘンリー・ウィリアムズは「宣教師社会の強きリーダー。ワイタンギ条約をマオリ語に翻訳。ニュージーランド中のマオリ首長の署名を多く獲得した。」とあった。簡単な紹介なので当然なのだが、訳語の解釈をめぐってマオリとイギリス人との間に争いが生じたということは、やはり書かれていない。なお、パンフレットによれば、ネネ、カウィティはそれぞれ別の部族の首長であり、英国には真逆の立場をとっていた。ネネは大英帝国の協力者であり、条約の受け入れに賛成していた。カウィティは条約調印に乗り気ではなく、1845年〜46年に大英帝国に対して反乱をおこしている。

アートギャラリーには、陶器、銃、翡翠が飾られていた。ミュージアムショップでは、ワイタンギ条約の複製品と並んで、皿、時計、帽子、アクセサリーなど、とりたててワイタンギ条約に関係ない雑多な品も売られていた。このようなものを買って帰る観光客もいるのだろう。



英国人の植民地観を示す、条約記念館の展示

ビジターセンターからさらに5分程度歩いたところに、条約記念館(Treaty House)がある。これは、弁務官バズビーの邸宅を修復し、当時にできるだけ近く再現したものである。石垣の門から玄関までは石の道が伸びている。庭は芝生が丁寧に刈られ、草花がいくつか生えていた。夏にはガーデンツアーが催されているそうだ(パンフレットp. 7)。また、ブレディスロ卿夫妻が、1953年12月28日のエリザベスU世とエジンバラ公のワイタンギ訪問を記念して贈ったという日時計が立っていた。

邸宅には、1階建ての白い木造建築が何棟かある。この建物は、もともと1833〜34年に建てられ、ニュージーランドの建造物としては最も古い建物である。バズビーの死後1882年に、遺族はこの家を売り払い、15年間放置状態であった。ブレディスロ夫妻が1932年にこの地を寄贈して以降、本格的に家の修復が開始された(パンフレットpp. 6*7)。 館内には、条約締結地が国の記念物になった経緯や、ワイタンギ条約締結のいきさつについての詳しい展示がある。これをたどりながら、そこににじんでいる英国植民地主義の思想を洞察してみよう(以下、この節の「 」内は、館内の展示板のタイトルを示す)。



◆一度は忘れ去られた条約締結地が、なぜ国の記念物になったのか

実は、1932年まで、ワイタンギ条約締結地の重要性は忘れ去られていた。なぜこれが、今日、このような国の記念施設になったのか。 土地所有権は1840年のワイタンギ条約締結から何度も変わり、ブレディスロの前任の総督は放置していた(「A forgotten heritage」)。

ヴァーノン・リード(Vernon Reed)は法廷弁護士で、ベイオブアイランズの議員(1908-1922)を務めたのち、立法議会の一員(1924-1931)になった人物である。ワイタンギに生涯興味を持ち続け、政府に、ワイタンギの地の一部を国の記念物として買うよう説得を試みたが、うまくいかなかった(「Vernon Reed」)。そこでリードは、ワイタンギを国の記念物にすべきだという考えのもと、ブレディスロ夫妻をワイタンギの地に招待し、夫妻はこの地を購入することを決定した。ブレディスロ夫妻とリードの見解は「ニュージーランドに関する知識やマオリへの理解から生じたものであり、ワイタンギの地を富ませる先見の明をもつものであった」と、記念館の展示は評価する。(「A far-sighted vision」)。


1932年5月10日、ブレディスロ総督は、ニュージーランドにとって歴史的な地であるワイタンギを寄贈するという意図を首相ジョージ・フォーブス(George Forbes)に伝え、さらに、邸宅を修復するためにお金を出した(「The Bledisloe gift」)。ブレディスロ総督は、理事会(Board of Trustees)がワイタンギ保護区の管理をするように勧めた。1932年12月に行われた初の会議では、条約記念館Treaty Houseの修復が優先事項とされた(「THE WORK BEGINS」)。1934年、Hui(マオリ語で「集会」)の一部として、マオリは祭をとりおこなった。英国旗とニュージーランドの部族の旗が掲げられ、修復した条約記念館もオープンした(「The Great Hui of 1934」)。

館内には、ヴァーノン・リード、ブレディスロ卿とその妻の写真が展示され、彼らの功績を称えるとともに、彼らがいかにワイタンギ条約地区の成立にとって重要であるのかを物語っていた。 この条約地区が、なぜ1930年代のこの時期に国の記念物として作られたのだろうか。展示の内容やその記述の視点から、その背景として3点が考えられる。第一は、当時未だイギリス植民地であったニュージーランドの白人たちの間に「国家」意識が芽生え、国家の成立を可視化するため、国の基礎を場所的に固めようとしたこと。第二に、当時のブロック経済下において、「大英帝国」というイギリスとの紐帯をニュージーランドの白人たちがもう一度確認し強化しようとしたこと。第三に、根強く続くマオリの側からの白人支配に対する応答として、ワイタンギ条約がマオリと白人の友好関係のもとで署名され維持されていること、そしてマオリ自身も白人同様の移住者にほかならないという「史実」を確認し、白人支配を正当化しようとしたこと。この3点が、大きな要因であろう。



◆「無法地帯に法と秩序をもたらしたイギリス人」:バズビー着任に至るまで

1830年まで、ベイオブアイランズへの入植者は1000人ほどで、ニュージーランドにおける英国人支配の中心的地であった。自由貿易商人らは、取引のため、そして避難所や薪水、船の修理のためにこの地を訪れた。カウリ(Kauri)の森は、良い木材の産地として有名になったが、すぐに枯渇してしまった(「THE BAY OF ISLANDS」)。ワイタンギと湾を挟んで反対側にある港町ラッセルは、ニュージーランドの最初の首都となったが、当時は「太平洋の地獄の場所(hell hole of the pacific)」と呼ばれており、船員や脱獄囚が酔っ払って暮らしているような荒れた地であった。無法状態が、マオリにも白人たちにも上安を与えた(「HELL HOLE OF THE PACIFIC」)、と展示は述べる。しかしそもそも、こうした「地獄」は、白人たちがニュージーランドに住み着き始めたために出来上がったものである。展示はもちろん、こうしたことには触れていない。

1830年代までに、英国教会の宣教団体がベイオブアイランズに設立された。英国教会の宣教師たちは強い力を持っており、イギリス総督の任命を主張していた(「THE MISSIONARIES」)。宣教師たちは、英国のより公式な植民地的政治制度の導入を唱えて、植民地支配のいわば尖兵として行動したのであるが、それを、英国人たち自らがつくった無法状態に法と秩序をもたらす行動と、展示は肯定的に位置づけている。

1833年5月17日、ジェームズ・バズビーはパイヒアで、「自身が総督に任命された」ことを発表し、「首長とニュージーランドの人々(the Chiefs and People of New Zealand)」という演説をした。彼はイギリス人入植者や貿易商を保護し、マオリとの争いを防ぎ、首長たちに法と秩序を遵守させる目的で派遣された(「HIS MAJESTY’S RESIDENT」)と、展示はバスビーの位置づけに正統性を付与している。


部屋の中心には、当時のベイオブアイランズのジオラマがあり、マオリの集落と白人たちの集落の位置関係が示されていた。見ると、白人たちは、マオリの集落を避けて自分たちの入植地をつくったことがわかる。白人たちは、当初よりマオリから自身をセグリゲートしていたのである。 全体として、無法状態と法律がないことへの人々の上安感を挙げ、英国教会宣教師たちの行動やワイタンギ条約が、こうした無秩序に秩序をもたらすために必要上可欠のものであったと、植民地支配に至る英国人の正当化しているように感じられる。



◆植民地官僚バズビーの行動: 仏に対抗して、ニュージーランドの英国支配を確立

条約記念館の中でもとりわけ重点がおかれているのは、この家を建て、ワイタンギ条約を起草したバズビーである。 バズビーはスコットランド人で、1824年、両親とともに、エジンバラからオーストラリアに移住した。より良い職を求めてイギリスに渡り、1832年にニュージーランド駐在弁務官のポストを与えられた(「THE ROAD TO WAITANGI」)。 バズビーは、まず1834年3月20日に、約25のマオリ首長をワイタンギに集め、初の国旗の選択を試みた。この国旗は1840年にユニオンジャックに置きかえられるまで、公式に用いられた。現在でも、コ・フイアラウ(Ko Huiarau)という部族がこの旗を使用しているという(「THE FLAG」)。

バズビーがマオリ部族を統合しようとしたのは、フランス人ティエリー男爵(Baron de Thierry)の存在ゆえであった。ティエリーは自身がニュージーランドの統治者となるため、武装した船でニュージーランドに向かうと宣言した。これに対抗してバズビーは、1835年10月28日にマオリとミーティングを開き、部族の独立宣言を出したのである。この宣言は、イギリス政府に独立を承認してもらうとともに、英国王の保護を要請するものであった(「THE NORTHERN TRIBES DECLARATION OF INDEPENDENCE」)。

バズビーは、ニュージーランドの部族を英国支配のもとで統合しようという努力をすすめ、ワイタンギ条約を起草した。1840年1月29日にワイタンギ条約締結のためにホブソンがベイオブアイランズにやってきて、バズビーの駐在弁務官としてのポジションは終わったが、彼はホブソンを支え続け、ワイタンギ条約締結に尽力した。バズビーは、「イギリスは、マオリの森林や魚に対する所有権を保障する」と約束した。この約束がなければマオリはサインをしなかったであろう(「THE TREATY OF WAITANGI」)、と展示は主張する。

スコットランド人は、大英帝国時代、植民地官僚・ビジネスマン・宣教師などとして各地の植民地で活躍した。英本国で傍流の地位にあるスコットランド人が植民地で現地人を支配する地位に立つという一種の「代償行為」が、大英帝国にとっては好都合であったことは、英植民地の各地で知られている。バズビーは、着任早々から、南太平洋でライバルであったフランスの脅威を身に受け、フランスとの対抗関係のなかで、ニュージーランドを英国領として確保するために行動したことが、展示から読み取れる。 つまり、バズビーは、フランスとの対抗関係のなかで、フランスがニュージーランドを植民地とすることを懸念し、いったんマオリに「独立」を与える素振りを示してマオリの気を引き、続いて所有権を英国が保護すると「約束」して、マオリを英国の支配下に導いたことになる。ワイタンギ条約に関して、所有権を保障するという約束がなければマオリはサインをしなかったであろう,という展示の記述は、サインさせるために形だけ所有権を保障したのだという二枚舌のようにも聞こえる。当時、この約束が英国人によって守られることはなかったのだが、そのことに関しては、展示のどこにも書かれていなかった。バズビーは、こうした巧みなバズビーの政治的な立ち回りで、ワイタンギ条約を成立させてニュージーランドを英国が植民地とすることに成功したのである。 しかし今日、「所有権の保障」という、マオリを英国の側に取り込むために入れた条文の文言が、白人に対抗してマオリが土地への権利を主張する強い法的根拠となって、白人政府もそれをある程度尊重せざるを得なくなっている。歴史の皮肉というべきであろう。



◆地球の反対側でも英国の生活様式を!―― バズビーが住んだ当時を再現した部屋

条約記念館の中には、展示のみでなく、バズビーが住んでいた当時を再現した部屋がある。居間と寝室である。居間の真ん中にはダイニングテーブルが置かれ、部屋の隅にはソファー、棚が備え付けてある。これは、1830年代の象徴的な居間の様子である。唯一、マントルピース(暖炉の飾り)だけは当時のものを使っている。当時のニュージーランドで、このようなイギリス風の家を作ることは、たいへんな努力を要したであろう。 室内では、バズビーと思われるマネキンが筆を執っている。条約の草稿を書いているというイメージなのかもしれない。この居間で、ワイタンギ条約の最終合意が執り行われたようだ。寝室には、簡易なベッドと天蓋つきのベッド、赤ん坊を寝かせるための箱型のベッドがあり、この部屋でバズビーは子どもたちと時間を過ごしたようだ。

家はレンガ造りだが、掲示によれば、材木やレンガはシドニーから運んだもので、特に小角材はシドニーのユーカリの木を使っている。また、漆喰塗りなどの下地に用いるラスは、マオリが分けてくれたカウリの木を使っている。煙突は天井の高さまでしか残っていないが、ひさしはオリジナルが残っている。材木をわざわざすでにイギリス植民地となっていたオーストラリアのシドニーから運んだバズビーは、地球の反対側のニュージーランドでも、現地の生活環境になじもうとはせず、イギリス本国の生活環境を至上と考えて、出来る限りそれと同じ環境に身をおきたいと切望したにちがいない。



英国人支配のもとでの「平等」: 条約締結地

◆広大な芝生の庭:条約締結地

条約記念館を出ると、一面緑の広大な芝生の庭が広がっていて、海を越えて、ニュージーランド最初の首都となった対岸のラッセルを望むことができる。この庭は、ニュージーランドの英植民地化の歴史を刻んだいくつかの重要なミーティングが行われた場所である。1834年3月には国旗選定のため、1835年10月にはニュージーランドの「独立宣言」を出すため、そして1840年2月、ワイタンギ条約締結のためのミーティングが開かれた。芝の上に置かれた石盤には、英語で「ワイタンギ条約調印の地」と刻まれ、「この条約下でニュージーランドが大英帝国の一部となった」と続いていた。庭の中央には十文字型のマストに3つの旗が掲げられており、十字の頂上には現在のニュージーランド国旗が、十字の左右にはユニオンジャックとかつてのニュージーランド国旗がかかっていた。これら3つの旗は、何も語らずとも、ニュージーランドにおける英国人支配の原点を端的に表象していた。

◆マオリとの「対等性・同等性」を強調し、白人による先住民支配を消し去る

庭の傍らには、マオリの小屋が建てられている。これは、ブレディスロ卿がワイタンギの地をニュージーランドに寄贈したことに対して、1932年にマオリが建設を提案したものだという。ワイタンギ条約100周年にあたる1940年にオープンした。切妻屋根と柱部分は赤色、壁は白色である。赤色の部分は、全てマオリの顔が彫られており、屋根のとがった部分(コルル)には、先祖の頭部が飾ってある。マオリ語が書かれた石碑の中に「LORD BLEDISLOE」の文字が見えるので、ブレディスロ卿への感謝の言葉か何かが刻まれているのだろう。小屋の中には窓が4つあり、壁は、舌を出したマオリが彫られたものとタペストリーのようなものを順につけ合わせた規則的なデザインである。また、ワイタンギ条約100周年に行った催し物の写真が飾られており、庭を覆い尽くすほどの人たちが集まり、盛大にとり行われたということがよくわかる。ワイタンギ条約の一方のパートナーはマオリ人である。条約締結地のそばにあえてこのような施設を設けることで、ワイタンギ条約においては、はマオリもパートナーであるという条約の双務性を強調したい意図がにじみでている。

◆マオリも白人も、同じ無人島への移住民

少し歩いて、カヌーセンター(Canue House)を見た。カヌーは、30メートルにも及ぶ大きなものと、その半分くらいの小ぶりなものの2点が展示されている。赤い船体の末尾には人の顔の彫刻が付いているが、よく目にするマオリのモチーフとは違い、あまりデフォルメされておらず、少し上気味である。船体のヘリ部分は、外側も内側も丁寧にマオリの顔が彫ってある。大きい方のカヌーはンガトキマタワオルア(Ngatokimatawhaorua)といい、最低でも76人の漕ぎ手を必要とする(パンフレットp8)。この船の下には滑車がついており、線路が海に向かって伸びている。実際にこの船を海に出して、一般に披露することがあるようだ。

この戦闘カヌーを1940年のワイタンギ条約100年記念につくろうという構想は、テ・プエア(Te Puea)というマオリ女性の考えからきたそうだ。しかし、なぜこの考えが採用され、ワイタンギ条約の地にマオリのカヌーが展示されることになったのだろうか。このカヌーは、掲示によると、マオリがポリネシアからニュージーランドに来た時に使ったものを再現しているとのことである。このカヌーを展示することによって、マオリも、大昔は無人島であったはずのニュージーランドへの移住者であり、白人とマオリは同じ客人という立場であるということ、それゆえ、イギリスのニュージーランド支配には正当性がある、ということを暗黙のうちに主張しているのだろう。

また、カウリの切株も展示されていた。掲示によると、この大きなカヌーを作るために使用できる木は、直径3メートルのカウリ以外にはないという。マオリのカヌーには基本的に4つの形態があり、それに合わせて使用する木も違ってくるという。遠洋に行く場合、近海に行く場合、簡易な丸木舟、そして戦闘に用いる場合で、展示されているような戦闘用が一番大きいようだ。

カヌーセンターからレセプション方向に歩いて行くと、カフェがある。そこでは、ビジターセンター同様、土産物が売られていた。ワイタンギ条約の原文レプリカA4サイズ(NZ$3)、A3サイズ(NZ$4)や、キーホルダー、木彫りのマオリモチーフ、ラグビー応援グッズ、観光客に人気のスキンケア用品などが売られていた。条約関連のものでは間が持たないからなのか、わざわざこんな所で買うまでもないものばかりだった。

ワイタンギ条約地区は、非常に広大で展示物も多いので、全てを漏らすことなく見て回るには丸一日費やさなくてはならないだろう。いくつかの建物が分散しているが、道や建物はきれいに整備されているし、夏にはガーデンツアーを行っていて、植物に関しても管理が行き届いている。

展示に関しては、ワイタンギ条約の上平等さやマオリの白人に対する闘争はほとんど語られることがない。英国人の側から見たマオリとの「調和、一体性」だけを演出している。しかし、よく洞察すれば、そこに、イギリス植民地主義の思想の一端がにじみ出てくるのを知ることができる。この意味で、実際にワイタンギ条約が調印されたこの条約地区は、やはり一見する価値がある場所といえるであろう。



打ち捨てられた、砂糖輸送船

ワイタンギ条約地区の視察を終え、私たちは徒歩でホテルまで戻ることにした。

海沿いを歩いていると、中型の青い船が打ち捨てられていた。船体には「sugarboat bistro」と書かれているので、どうやら船上レストランのようだ。岸に船に関する説明の掲示があった。1889〜1955年まではChelsea Sugar Companyという砂糖会社がこの船を保有していたようだ。オークランドの波止場まで、200トンの砂糖を運んでいた。その後、船は難破船の博物館としてオープンし、ベイオブアイランズの観光アトラクションとなったらしい。2002年から今日に至るまでは、カクテルバー&レストラン「Sugar Boat」として利用されているというが、外から見た感じでは、現在は営業しているようには感じられなかった。それでも、この船は、この地域の昔の産業を知る1つのきっかけとなった。



土地や資源が白人たちに収奪された!―― 集会所前でマオリ人の訴えを聴く

シュガーボートの向かいには広場があり、白い建物に赤い屋根をしたマオリの建物が建っていた。口を開いたマオリの顔が彫られた門をくぐると、広場中央に塔があり、ワイタンギ条約についてマオリ語で何か書かれていた。庭には、条約記念館にもあった、マオリが1834年に初めて制定した、マオリ独立国の国旗が掲げられていた。建物の中は神聖な場所なのか、中には土足であがることはなく、私たちが中に入ることも許されなかった。

建物内で話し合いをしているようなので中を覗いていると、オーウェン・キワル (Owen Kiwal) さんというマオリ人男性に話しかけられた。私たちが日本から来たことを話すと、「こんにちは」と日本語で丁重に声をかけてくれた。アポなしの訪問にも関わらず、ワイタンギ条約やマオリと白人の関係にかんする現状について、キワルさんは気さくに語ってくれた。

まず、ワイタンギ条約について。白人たちは、マオリと白人は同等の条件下にいると主張しているが、マオリは、白人たちに置き去りにされてしまったという認識を持っている、と次のように私たちに訴えた。

石油などの自然資源や魚はパケハに奪われてしまった。特に条約の第2条について本来ならば、マオリは自然資源の獲得を拒絶されるべきではなく、支配力を及ぼせるはずなのに、そのようなことはなく、白人たちに平等、正義、真実、尊厳、誠実さはなかった。建物の中でのマオリ人の話し合いでは、自然資源をめぐる問題が議題の一つとしてあがっているそうだ。

ワイタンギ周辺の地は、金持ちの白人たちにとってのリゾート地となった。もともとはマオリが所有していた土地なのに、白人立ちがこの地を「発見」し、マオリを騙して奪ったのだ。キワルさんは遠くの島を指して、「あの島も奪われた」と言った。建物の中で行われている話し合いでは、マオリを騙して土地を奪ったことは無効であるということも議題にあがっているという。

キワルさんは、マオリ人自身の問題についてもいくつか語ってくれた。その昔、ホンギ・ヒカ(Hongi Hika)という偉大な首長がいた。彼が英国との本格的な通商に目をつけ、始めたそうだ。ホンギは、時の英国王ジョージにも会ったことがある。また、ホネ・ヘケ(Hone Heke)という人物は、マオリの旗がユニオンジャックに置き換わった際、ワイタンギ条約への反対を表明するため、英国旗を掲げたポールを倒した。他の植民地社会同様、マオリ人の中にも、英国人に取り入って買弁的に儲けようとする人たちと、マオリの民族的大義を英国に対してハッキリ主張する人たちという、2通りがいるようである。

[ジョン・キー]wikipediaより
現状についてのお話もしてくださった。2008年からニュージーランドの首相を務めているジョン・キー(John Phillip Key)は、マオリへの支援策をとらず、関心を払うこともないので、マオリは現在の政府にたいして反感を持っている。また、白人たちによって、白人中心の価値観での公園建設、資源問題、テレビなどに関して、悪弊が持ち込まれた。

ニュージーランドにはマオリの学校がある。しかしそこにマオリが通うのはもちろん、白人も通っているという。マオリと白人は混ざり合った文化を持っているわけではないが、責任を共有するべきだからだという。これは、若い世代のマオリと白人たちが、草の根で友好関係を結べるよいきっかけとなるのかもしれない。

ほんの10分程度であったが、実際にマオリの方にお話を伺う機会は貴重であった。ワイタンギ条約締結から150年以上経った今でも、マオリと白人の間には、はっきりとした対立関係がある。英本国には、かつての大英帝国によるグローバルな植民地化を客観的にとらえる人々も次第に増えている。そのようなポストコロニアルな見地がニュージーランドに影響を及ぼすにつれ、マオリ人たちは、現状に満足せず、自分たちの権利をますます主張するようになっているようにみえる。

キワルさんの主張には、外国人である私たちに、少しでもニュージーランドでマオリ人たちがおかれている現状を知ってほしいという、強い意思がある。白人の温情に期待してただ善政を待つという受け身の姿勢ではなく、自分たちの力で権利を強く主張していこうという能動的姿勢がうかがえた。

正しい歴史認識と現状把握のもとでこういった主張をしているからこそ、キワルさんの言葉には、説得力がある。朝、この近くをタクシーで通ったときに、夏はリゾート地としてにぎわうのだろうと感じた上に、ワイタンギ条約や白人支配の正当性を説く条約記念館を見てきたばかりなので、マオリ人たちが虐げられた上に成り立っているのが、今のニュージーランドであり、また白人にとってのリゾート地パイヒアであるという現状を、私たちは、さらに深く認識することができた。



親マオリになったイギリス人宣教師たち:パイヒア英国教会「歴史の小径」

お話を伺ったあと私たちは、海沿いの道を歩いてバス停まで向かった。3階建て以上のモーテルが並び、マリンスポーツの看板も見られる。レストランやモーテルのベランダにはラグビーワールドカップ出場国の国旗が飾られており、国をあげてのラグビー熱を感じることができる。

私たちは途中、パイヒアの英国教会に立ち寄った。石でできた、灰色の教会である。荘厳な雰囲気の建物の前には、芝生が広がっている。教会自体は植民地初期から存在していたが、建物自体は最近建てられたものである。


教会の裏手には、10以上の墓石があった。英語名が多いが、マオリ語で書かれた墓石も一つだけあった。2歳で亡くなってしまった子供や、47歳で亡くなった人、86歳まで生きた人などがいる。墓石の形も、よく見られるような十字架から、本をモチーフにしたものまで様々ある。19世紀の植民地はどこも医療水準が低く、衛生環境も劣悪であった。そのため、若くして植民地の異郷で亡くなってしまう白人たちが少なくなかった。


墓石の隣には、1830年に宣教師ウィリアム・ウィリアムス(William Williams)自らが建てた家の痕跡が残っていた。今では、家の外壁であったと思われる場所に、腰ほどの高さの石の山が3、4つ残っているだけである。おそらく家の中だった場所には、草が生えてきている。しかし、当時としては大きめの15.1m×13.7mの家を、何の知識もない一人の人が建てたという事実に触れ、当時の人間の勤勉な姿と、先住民を啓蒙しようとする熱意が伝わってくる。

家の痕跡のそばには、「パイヒア伝道村歴史の小径(Paihia Mission Village History Trail)」と書かれた紙が枝に吊るしてあり、この地に関連したイギリス人たちを紹介している。教会の信者たちが、この地の歴史を訪れる人々に知ってもらおうとして、手作りで当時の様子を復元し、また展示を設けているのだ。

ここで私たちは、植民地の草創期における、もう一つのイギリス人の類型に接することができた。この「歴史の小径」に紹介されているのは、ニュージーランドでマオリ人たちと長く接触し、マオリ語を学んで次第にマオリ人の心情を理解するようになった、初期のイギリス人宣教師たちである。それは、ワイタンギ条約地区で見たバズビーのような、マオリ人たちを巧みな政治手法で操ってニュージーランドを英領植民地とした植民地官僚とは異なっている。

掲示によれば、ワイタンギ条約をマオリ語に翻訳したなどの功績で条約記念館にも肖像画が掲げられているヘンリー・ウィリアムズは、1823年にニュージーランドに渡り、マオリ語やマオリ文化を熱心に学んだ。次第にマオリ人の懐深く入り込んでいったヘンリー・ウィリアムズは、イギリス人たちから、マオリ寄りで英国の利益を考えない人物ではないかと疑われるようになった。しかし、マオリに信頼されていたがゆえに、多くのマオリ人に条約への署名をさせることに成功した。

ところが、ワイタンギ条約締結後、マオリの側はヘンリーに騙されたのではないかという感情を持つようになった。マオリ人からもイギリス側からも疑心暗鬼で見られるようになったヘンリー・ウィリアムズは、1849年に、英国教会宣教教会(CMS:Church Mission Society)から罷免されてしまう (WAITANGI TRIBUNAL)

ジョージ・セルウィン(George Selwyn)という人物は、主教としてニュージーランドに招待され、1842年にパイヒアに根を下ろした。ミッション系の学校を設立し、遠方にある他の教会にも通った熱心な人物である。その熱心さから、彼も、マオリから信頼されていた、とある。

ハリアタ(Hariata)という女性は、夫であるホネヘケを支え、当時の総督とビクトリア女王に、ワイタンギ条約に異議を唱える手紙を送った。そして、英国教会宣教協会から罷免されたヘンリーウィリアムズ(Henry Williams)を擁護した人物である、と掲示にある。罷免されてからも活動を続けたヘンリーは、ハリアタの努力が実って、1854年に教会へ復帰することができた(WAITANGI TRIBUNAL)

このように、当時の草の根の白人たちには、「白人の責務」を胸にニュージーランドにわたりながら、キリスト教の人間愛の精神からか、マオリとの親交を強めて「親マオリ」に転じた人物も多い。必ずしも英国教会宣教師たちが常にイギリス植民地主義の尖兵として、大英帝国の利益養護を第一に行動したばかりではない様子がうかがえる。当時のイギリス人たちが、意識の上ですべて侵略者だったわけではないことを理解するのに、この「歴史の小径」は興味深い役割を果たしているといえよう。

この「歴史の小径、先ほどのマオリ人のお話、そしてワイタンギ条約地区をあわせて、イギリス人とマオリとの、緊張をはらんだ友好という微妙な関係を知ることができた。



土地利用競争で強さを見せる酪農業:再びオークランドへ

13時20分、昨晩のフェリー乗り場の前から、オークランドに向かうバスが出発した。私たち以外の乗客は5人しかおらず、そのうち3人は中国系であった。前日にオークランドからパイヒアに来た道を逆に、11号線と1号線を南下する。オークランドに到着するまでに、トイレ休憩も含めて6回停車した。

出発した直後は、片側一車線の道で、周りはほぼ森や牧草地が広がっている。沿道には、ヤマハを扱うモーターボート販売店や、マリーンセンターなど、海に関連する大型の店舗も点在している。比較的人口があるので、他の国ならば畑作になってもおかしくない土地であるが、牧草地が広がっている。これは、ニュージーランド全体で畑作に対する需要が少なく、土地利用競争で酪農が優位を占めているからであり、土地利用からニュージーランドの酪農業の強い国際競争力を窺い知ることができる。牧草地の中には、放牧されている牛もいたが、道路と牧草地の間には高さ1mくらいしかない簡易な柵が張られているのみであった。

途中、鉄道線路が走っているのを見つけた。線路は、パイヒアの南に位置するオプア(Opua)という町を最北の出発点としている。現在、旅客列車の運行はなく、貨物列車のみが走っている。


オプアから入り江に沿って南下し、カワカワ(Kawakawa)川沿いに内陸部へと入っていく。10分ほどして到着したカワカワという町には、平屋造りの民家があり、中にはモーターボートを保有している家もあった。この町では、バスを待っていた乗客が乗るとすぐにバスは発車した。道路の周りは再び森や牧草地が広がりを見せるが、ところどころに、ゴムや岩の販売所があり、天然資源を加工して売る原料立地型の経済がうかがえた。

偶然にも、私たちのバスのちょうど前に、フォンテラの水色のトラックが走っているのが見えた。トレーラーが生乳タンクを2台連結し、牛乳を集めて生乳工場へ運ぶところなのだろう。このトラックは、マウンガトゥロト(Maungaturoto)という町にある工場に走っていった。フォンテラの生乳工場は、全国に分散立地している。牛乳は腐りやすいので、新鮮なまま加工して高い品質を維持するには、集乳圏を小さくし、搾られたらすぐに牛乳を工場に届けることが必要である。鮮度が大切な産業において、農家と密接な関係を築き、牛乳をすぐに売り買いできる状況をつくりあげているフォンテラと、そうした企業とその工場立地に支えられてこそ、ニュージーランドの酪農製品が高い品質で国際競争力を持っているのを知ることが出来る。


カワカワから30分ほどして到着したのは、カモ(Kamo)という町である。ここでも乗客が乗り次第発車した。カモは、地域中心であるワンガレイ(Whangarei)の郊外となっている。バス停周りにはマクドナルド、スーパーマーケット、薬局、美容室、花屋、ペットショップなどが密集しており、財の到達範囲が狭い、地元民向けの商店が並んでいる。この辺りから、平屋造りの民家が多く並ぶようになった。

カモから20分ほどでワンガレイに停車した。人口約5万人の、地域中心地である。バス停付近の通り沿いには、グランドホテルやバックパッカーズといった旅行客用の宿泊施設の看板とともに、地元向けの、洋?店、おもちゃ屋、写真屋、バー、歯医者などが並ぶ。建物は2階建てが基本で、高層のものはない。


地域中心地から外れると、再び周りには森林が広がるようになる。しかしここでは、木々が伐採されて倒れ、森が禿山にされているような光景が多く見られた。このあとに草を植え、牧場にしようとしているのだろうか。それほどまでに、牧場経営は儲かるということなのだろう。


私たちが下車して休憩をとることができたのは、ワンガレイから1時間、出発してから2時間ほど経ったときだった。カイワカ(Kaiwaka)という町の、「Gateway North Motel & Cafe」という看板がかかった簡易なドライブインのような場所である。駐車場には、オーストラリア、イギリス、カナダ、イタリアなど、様々な国旗が飾られていた。これはラグビーワールドカップの出場国の国旗で、ここでもラグビー熱を感じることができた。この場所で20分間の休憩をとり、乗客はマフィンやケーキ、サンドイッチを買ったり、トイレを済ませたりした。カフェの周囲には、米国のサンドイッチチェーンのSubway、ガソリンスタンド、スーパーマーケットなどが100mほど並んでいる。

さらに30分ほどで、停車場所であるウェルスフォード(Wellsford)に着いた。ショッピングセンター、家具店、アクセサリー店、洋?店、レストランなどが並ぶとともに、スケートボードの練習場があった。バス停を出発すると、美容室やアートギャラリー、住宅が点々としており、牧草地はあまりみられなくなる。オークランドの郊外住宅地に入ってきたのだ。



BRTで公共交通の整備が進む、オークランド北方の郊外

ウェルスフォードから1時間弱で、バスはオルバニー(Albany)に着いた。オルバニーからは、遠くの方にスカイタワーが見える。ここはもう、オークランドの郊外である。

バスが停まったのは。今までのような簡易な停車所とは違い、完全に整備されたバス専用の「駅」であった。屋根付きの待合室にバスの電子時刻表がついており、既に2台のバスが停まっていた。

ここからオークランド市内までは、バスラピッドトランジット(BRT)という公共交通システムが導入されている。BRTは、路面電車における停留所や線路といった固定設備の充実という特色、そしてバスにおけるコスト面の優位という、2つの長所を組み合わせた公共交通手段で、バスが専用車線を走って電車のように高速運行する。これを活用し、オルバニーではパークアンドライドのシステムも発達している。

オークランド南方の郊外への通勤交通には、すでに視察したとおり鉄道が導入されているが、北の郊外は、湾があるため、鉄道は大きく西を回るルートをとっていて、鉄道で都心に行くのに時間がかかる。橋がかかっているものの、4車線しかないので、自家用車での利用が増えると渋滞してしまう。そこで、自家用車からBRTバスに乗り換えさせて渋滞を緩和させるのだ。

オルバニーを出発してすぐ、私たちを乗せたバスは、「BUS ONLY」と書かれたバス専用車線に入った。これは、オルバニーとオークランド中心部を往復するBRTバスが使うため造られた車線であるが、私たちの乗っているバスも、路線バスということでバス専用車線を走る権利をもっている。沿道には、鉄道の駅のように作られた立派な停留所の施設が目に入る。もちろん、私たちの長距離バスは、すべて通過する。

湾を渡る橋の手前に来ると、専用車線は終了した。これは、橋の上は車線数が少なく、ここにもバス専用車線を作ってしまうと、一般車が走る車線が片側1車線だけになり、渋滞を激化させるためである。つまり、橋の部分は、BRTのバスも渋滞に巻き込まれて一般車線を走らざるを得ないわけで、BRTの効果は、ここでかなり減殺されてしまっている。

橋からは、建物が密集するオークランドCBDの街並みが見えてきた。17時半頃、バスは、昨日出発したオークランドのバスターミナルに到着した。



アルコール中毒患者が集まる、オークランドミッション

オークランドに到着してすぐに、初日にお話を伺ったオークランドミッション(Auckland mission)の施設をもう一度訪れ、その実際の活動を見ることが出来た。



建物の外観は、緑と赤で装飾された看板があり、きれいである。しかし建物内には、きれいにしているとは言えないような人々20〜30人がテレビを見ていた。この地の周辺がスラム化しているというわけではなく、市内のどこかから、この人たちが集まっているのだ。彼らはアルコール中毒患者で、その検査のために待機をしている。それでも、ここに来るのは、何とかアルコール中毒という自身が抱えている現状を打開したいという意欲があるからなのだろう。私たちも建物内部に入ったが、凝視され、異臭が鼻をついた。

また、無償の食糧提供もされていた。パンと若干の副食程度の質素なものであるが、多くの人たちがやってきて、食べ物をもらうと足早に施設を出ていった。

18時、私たちはオークランドミッションの視察を終えて、各自で夕飯を済ませることになった。ゼミ生たちは、バスターミナルのそばにある、日本にもチェーンがあるファミレスのデニーズに入った。テレビではやはりラグビーの試合を放送しており、夕食中もラグビー熱を感じることができた。スパゲッティがNZ$16で、日本と変わらない値段であったが、味付けが薄く、必ずしも美味といえるものではなかった。



そしてまた、バスの旅へ: 日本と比べサービスが劣る唯一の夜行バス

19時53分、私達はふたたび、長距離バスの客となった。こんどは、ウェリントン行きである。これは、ニュージーランドにおいてほぼ唯一の夜行バスであり、車自体のクオリティはパイヒアから乗ったものと比べると高い。2階建てでトイレつき、2階の1番前は大きな窓になっていた。しかし、冬だというのに暖房は入っておらず、車内が寒くてコートにくるまる乗客も見られた。日本のように、毛布やスリッパの用意はなかった。サービスについては、行きとどいたものと言えない。

走り始めると外は暗く、車の外の様子を伺うことはできなかった。日本の夜行バスと違い、停車時間が非常に短い。途中休憩はなく、バスは乗客が乗り降りし次第出発していく。

途中、地熱活動で有名な町ロトルアを通ったときには、遠くの方に煙が見え、温泉独特の硫黄臭がした。

0時15分、バスはワイラケイ(Wairakei)に到着した。オークランドから17個目の停留所である。「bp connect」という、ガソリンスタンドにスーパーを併設した施設の前が停留所になっていて、乗客の中には、買い物をしたり、軽食を取る人も数名いた。また、マクドナルドや飲食店の明かりも見えた。次の停車地であるタウポ(Taupo)まではバスで10分程度だが、休憩のためにワイラケイにて40分停車するというので、時間を節約するため、私たちはタクシーに乗り換え、タウポのホテルへ向かった。

0時25分、私たちは、長いバス旅を終えてホテルに到着した。翌日のトレッキングに向け、準備を済ませ床に就いた。




(福永温子)