2011年8月26日 オークランド郊外

倉庫がショールームに: 都心周辺部の機能の変容

この日は、オークランドの郊外巡検を行うことになっている。 まずは、案内してくださるルへロン(LeHeron)教授の待つオークランド大学へと歩いて向かった。 9時30分頃にホテルを出発したが、晴れているためこの時間でもほとんど寒くなく過ごしやすい。 また、裏通りともなると交通量は少なく、車もたまに通る程度である。オークランド大学には15分ほどで到着した。

大学の車庫で、ルへロン教授と合流した。 ここからは郊外へ向かうため、ルヘロン教授の運転で、オークランド大学環境学部のバンに乗って移動する。 ニュージーランドでは、学部や大学が専用車を持っており、 それに学生を乗せて、教授の運転で学外での教育指導を行うことが一般的となっている。

このバンが停まっていた車庫の近くには、マオリの集会所であるマラエが建っていた。 オークランド大学に学ぶマオリの学生たちのためのものであろう。 大学の敷地内にこのようなものがあるのには、驚かされた。

まず、アルテンロード(Alten Road)、スタンレーストリート(Stanley Street)を通り、海沿いに進む。 途中、旧オークランド駅舎があった。 ヨーロッパ風の、歴史を感じさせる建物であり、アーチ状の大きな窓と、その上部にはRAILWAY STATIONと書かれているのが見える。 この駅はオークランド港に近いが、街の中心地のクイーン通り(Queen Street)からは直線距離で1kmほど離れており、 旅客輸送には上便な立地である。 このため、現在は都心に近いブリトマート(Britomart)駅に移転し、旧駅舎をそのまま地元学生や、留学生のための寮として利用している (Kaplan international colleges)。

港に近いこの近辺は、かつて物流拠点であり、倉庫が数多く立地していた。 今では、倉庫として利用されていた建物をそのまま転用し、広い売場面積を必要とする家具店やショールームなどとして営業している。 もともと、倉庫のような物流施設は、地価が安く、かつ交通の便が良い場所、つまりCBD周辺のインナーシティに立地する。 オークランドではこの辺りがそういった都市地区であり、現在はそれが、面積需要の大きい都市機能をひきつけているのである。



オークランド港: ニュージーランド発展の拠点、
しかし国際的ハブ機能はなし

私たちはザ・ストランド(The Strand)を通り、オークランド港の真正面にあって港を一望できる高台の展望所にやってきた。 ルへロン教授は、オークランド港をニュージーランドにおける重要で立派な港であると語ってくれた。 たしかに、オークランドは、植民地時代からニュージーランド最大の港で、 海運がグローバルな空間統合の主要な手段だった時代には、英本国と結ぶもっとも重要な結節点であった。

現在でもオークランド港はニュージーランド最大の港で、海運の主流がコンテナになったのにあわせ、コンテナ化が進んでいる。港を見ると、 MAERSKや、 HAMBURG SUDなどと書かれたコンテナが積まれていた(画像左)。 埠頭にはコンテナ船が2隻停泊しており(画像中央)、そのうちの1隻には MOL(商船三井)と書かれていた。 ガントリークレーンは8基ほどあったが、この日稼働していたのは半分ほどであった。 港には、鉄道の引き込み線が敷設され、コンテナを鉄道輸送する貨車がならんでいた(画像右)。 船から下ろしたコンテナは、そのままここから列車やトラックなどの陸上輸送で国内の目的地に運ばれるのである。 コンテナ輸送は、鉄道やトラックといったインターモーダル輸送に便利というメリットがあり、 ニュージーランドでは、鉄道線路が日本と同じ1.067mの狭軌であるのに、効率的な物流のため、 この特色を生かしてインターモーダルな輸送インフラを整備している。 これに対し日本では、鉄道を利用した海運コンテナの国内輸送は未だ十分発達していない。 このようなところにも、日本の国際的な立ち遅れがみられる。

オークランド港は、ニュージーランドの国内コンテナ貿易の36%を取り扱っている 。 しかし、世界的にみると、コンテナ取扱量は2007年時点において、第104位 (福岡市港湾局) と、港湾開発による都市間競争では他の都市から大きく離されてしまっている。

ニュージーランドは、人口が400万人と市場規模が小さい。 また、地理的に見ても、アジア、アメリカ、ヨーロッパなどの大都市から離れており、 近くの大市場といえばオーストラリアがある程度である。 そのため、ニュージーランド港はハブ的機能を有することができず、 取り扱う貨物がニュージーランドと他国との物流に限られる。 昨年度の水岡ゼミの巡検 で釜山を視察し、その巨大な規模を肌で感じていた私たちは、 これがニュージーランド最大の港と聞いて、いささか寂しさを感じずにはいられなかった。



パーネル: 港を望む、植民地最古の富裕層住宅地区

次に、元来た道を引き返して、高台に上り、パーネルロード(Parnell Road)へと向かった。 通りは落ち着いた雰囲気で、現在は?屋や、家具店、カフェなどが並んでいる。 この一帯は19世紀にイギリスからやってきた比較的富裕な入植者たちによって作られた場所であり、 ここが当時の住宅機能の中心であった。

入?者たちによってこの時に作られたのが?民地様式の住居であり、現在でもレンガ造りの歴史的家屋が残っている。 英本国との海運に経済を依存していた当時のニュージーランドでは、港の様子をいつでもすぐに望める高台の場所が、 富裕層に住宅地として好まれた。 この性向は、日本の長崎にいくつか残る、幕末から明治初期のイギリス人商人が建てた洋館の立地にも認めることができる。

パーネルには、英国教会のホーリートリニティ(三位一体、Holy Trinity)大聖堂、カトリック教会などたくさんの教会が立ち並んでいる。 ホーリートリニティ大聖堂は、私たちが大聖堂と聞いてイメージするような立派な建築のものではなく、 小規模だが、石造りの塔が歴史を感じさせる。 今回は教会の中に入ることなどはできなかったが、英国社会のコミュニティにおいて英国教会は果たす役割は大きく、 ?民地の歴史について考える際には上可欠なものといえる。

その後、パーネルロードを南下して、ニューマーケット(New Market)という地区に来た。 ここは先ほどのパーネルと違い、比較的新しい商業地区である。 大型の映画館の他にも、家電ストア、三菱自動車の販売店など買い回り品の店が並んでおり、交通量も多く、賑わいを見せている。 現在のオークランドに住む人々のための商業地区としての性格を持ったエリアである。 なお、ここの建物は、低層なものが多い。1階建て、2階建ての建物が中心だが、 ルへロン教授曰く、中国人資本などが流入し、近年は高層化も進んできているという。



大型ショッピングセンターの開発が進む郊外

ここからは、都市高速道路のサザンモーターウェイ(Southern Motorway)に乗り南東方向へと進む。 ニュージーランドの高速道路は無料で、オークランドの中心地からは、この南側に延びるサザンモーターウェイの他に、 北に延びるノーザンモーターウェイ(Northern Motorway)、 北西方向に延びるノースウェスタンモーターウェイ(Northwestern Motorway)があり、整備が進んでいる。 道は4車線あって、平日の昼間にも関わらず、トラックや乗用車などで道は混雑しており、 ニュージーランドが車社会であることを感じさせる。

郊外に行くにつれて、工場や牧場なども少しずつ見えてくる。また、所々に ボタニータウンセンター(Botany Town Center)シルビアパーク(Sylvia Park) などといった大型ショッピングセンターが点在している。 これらには、食料品の他にも日用品、本屋、映画館など多くの店が入っている。 中でも、マウントウェリントン(Mt Wellington)地区にあるシルビアパークは、 2007年にできたニュージーランド最大のショッピングセンターとなっており、 200以上の店舗、4000以上の駐車場などを備えた大型ショッピングモールとなっている。 近年の日本でも郊外に、自動車での利用を前提としたショッピングセンターが多数立地するようになった。 ニュージーランドの場合、戦後はやくからアメリカ的生活様式が流れ込み、 日本よりも古くから郊外ショッピングセンターを作る動きが見られたようだ。

日本の場合は、郊外にショッピングセンターが立地すると、街の中心部は空洞化し、シャッター商店街になる。 しかしオークランドでは、観光が都市経済にとって重要な基盤産業のひとつをなしているため、 ショッピングセンターが郊外に立地しても、都市中心部には、クイーン通りで見たように、 土産物店やエスニック料理屋など観光客用の店が立地する。 観光客は、レンタカーを借りている場合でも、観光対象がなく道がよくわからない郊外にでかけることはほとんどなく、 都市内での行為空間は狭い。 これが、オークランド都心商業地区のシャッター商店街化を防ぐという、観光都市ならではの現象を理解することができた。



ハイランドパーク: カリフォルニア様式の郊外住宅群に抜きん出ている移民のモンスターハウス様式

車は、高速道路を下りて、マウントウェリントンハイウェイ(Mt Wellington Highway)、 パクランガロード(Pakuranga Road)へと進み、ハイランドパーク(Highland Park)という名前の高台の住宅地区にやって来た。 ここは、オークランド中心部から直線距離で15kmほどの場所にある。 ここまで来ると、完全に郊外といった様子になり、交通量も疎らになり、住宅街やゴルフ場などが見られる。 通りはきちんと区画整理されており、平屋建て、もしくは2階建てで1階部分がガレージになっていて、 家の前には芝の庭がある、いかにもアメリカの郊外にありそうな様式の住居が並んでいる。 そのなかには、平屋建てで緩やかな勾配の屋根をもつ家が多く見られた。

これらの住居のうち、1950年代に建てられたものは屋根の勾配が急だが、 それが60年代、70年代になってくると勾配が緩やかになってくる。 屋根の緩い勾配は、アメリカのカリフォルニア州に特徴的な郊外住宅の様式であり、アメリカ資本の Century21 という郊外住宅の販売をするフランチャイズチェーンのロゴにも象徴化されている。 60年代から、ニュージーランドの郊外では、カリフォルニアの影響を受けて、そのような様式が増えてきたのだという。

このように、ショッピングセンターや住宅など、ニュージーランドの大都市郊外の都市景観はアメリカの影響を大きく受けている。 ただ、アメリカと違う点は、ニュージーランドの郊外では公共交通機関が整備されていることである。 このハイランドパークにも、30分に1本の頻度で路線バスがやってくるが、アメリカでそのようなことは滅多にない。 ニュージーランドが、車社会でありながら、他面で公共交通機関を重視している姿勢を見ることができた。

このような家が立ち並ぶ中に一軒だけ、周囲を威圧するような巨大さの住居が抜きん出ていた。 昨日のオークランド大学で説明を受けた、「モンスターハウス《と呼ばれる、移民してきた香港中国人が好んで住む様式の住居である。 このモンスターハウスは2階部分が大きく、家全体が他の家と比べ巨大である。 庭に垣根を設けない開放的な家が多いのに比べると、この家には頑丈な塀がめぐらされている。 抹茶色の壁や、庭に生えるこれも巨大な椰子の木なども、その異様さを際立たせていた。 このような様式の家は、1997年の中国返還前後に香港からの移民が急増したカナダの各地に認められる。 それが、カナダから遠く離れているもののカナダと同様の英連邦白人国であるニュージーランドにも広がっていることは興味深い。

道路から敷地の中を見ると、この建物はオフィスとして使っているようであった。 ただ、昨日のオークランド大学で説明された、門から玄関まで直線になっているという特徴は、この家には当てはまらない。

この地区には、モンスターハウスはこの一軒だけしかなかった。しかし近年、アジアから多くの富裕な移民が定住するようになって、 このようなモンスターハウスは特にオークランドを中心として増えてきているという。

また、この地区ではソーラーパネルを備えた家を一軒見つけることができた。 ルへロン教授によると、現在のニュージーランドではこのようにソーラーパネルを個人宅で備えるケースは少なく、もっと増やしていくべきだとおっしゃっていた。 とは言っても、ニュージーランドは、地熱部門でクリーンエネルギー開発に力を注いでおり、太陽光発電を普及させる必要はさほどないのかもしれない。



南オークランド: 郊外に広がる、
ニュージーランドの経済史をきざんだ工業地区

ハイランドパーク地区を出て郊外を西へと移動し、オークランド中心部から南に10kmほどの南オークランド(South Auckland)と通称される、 工場と労働者階級が集まる地区に入った。

ここの工業地区は、1km四方ほどに広がり、近くには高速道路も通っているため、市内にも、またオークランドの他都市へも輸送の便は良く、 工場を作るには適した立地といえる。

ルへロン教授がおっしゃるには、この工業地区の歴史は古く、 20世紀の初めに冷凍食品工場の立地ではじまった。当時、ニュージーランド産の農産物・水産物の最大の市場は英本国であった。 だが、生のままだと長い航海の間に腐敗してしまうものも多く、これを避けるため、積み出し前に冷凍加工したのであろう。 その後、1945年から後は、政府主導の国内産業育成政策のもとで、輸入代替型産業が立地したそうだ。現在は、企業の文書保管を行う Recall という、ニュージーランドを代表するビジネス都市ならではのバックオフィス機能が立地している。他にも、この工業地区には、 HSM Engineeringという酪農用タンクなどステンレス加工を行う工場、 New Zealand King Salmonというキングサーモンの加工工場から Computer Recycling というその名の通りコンピューターのリサイクルを行っている工場に至るまで何でもあり、 主として国内向けの商品を作る消費地立地型の工業地帯となっている。

さらに西に進むと、オネフンガ(Onehunga)周辺の、労働者階級が多く住むエリアとなった。 先ほど見た工業地区で働く労働者も多いのだろう。周辺部には郊外住宅が多く立ち並び、中心には商店街が形成されている。 ただ、住む人の賃金水準が違うためだろう、住宅はハイランドパークのものと違い、広い庭が確保されたものは少なく、簡素で低質なものになっている。 商店街は、サンドイッチやパイを売る店や、カメラ屋など、日用品の店が多く見られ、たくさんの人で賑わっていて、 郊外型の大きなショッピングセンターの影響はさしてうけていないようである。ここは労働者が多く住むため、 ハイランドパークと比べて賃金水準が低く、中には自家用車を持っていない人も多くいるだろう。 そういった人は遠くにあるショッピングセンターに買い物に行けず、こういった身近な商店街で買い物をしていると思われる。 このように、住宅だけでなく、消費行動にも空間的なセグリゲーションが見られた。



サンドリンガム: 郊外にある公営住宅の集積地区にエスニックな人々が集住

車でさらに進むと、ハイランドパークから1時間ほどで、サンドリンガム(Sandringham)に到達した。 オークランド中心部から直線距離で南西方向に7kmほどの場所であり、都心に向けて路線バスが通っている。 ここは、中国系、インド系、太平洋諸島など多くの低所得なエスニックの人々が住む地区である。

ここには、1階建てで庭付きの家や、テラスハウスなどが並んでいる。その多くは、かつて公営住宅であった。 日本のかつての公団住宅や、ソ連や中国の社会主義住宅のようなコンクリートづくりで4〜5階建ての高層住宅ではなく、 平屋か二階建てで木造、そして一棟が小型なのが、ニュージーランドの公営住宅の特徴である。

ニュージーランド政府は、イギリスの政策を参考にして、公営住宅建設に力を入れてきた。 その後、1974年に、これまでの公営住宅事業を行っていたState Advances Corporation とHousing Division of Ministry of Works が合併することでHousing Corporation of New Zealandとして民営化された (Housing New Zealand)。 Housing Corporation of New Zealandが依然として低価格の住宅ストックを提供していることに変わりはなく、住居費に家計の多くを割けないエスニックな人々が、 この地区に集住することになった。公営住宅なので、住宅地区は、一見したところ景観的に他の地区とあまり変わりない。 公営住宅がほとんどないアメリカと異なり、エスニックな人々がインナーシティに集積しておらず、郊外に住んでいることが特徴的である。 公営住宅の集積する郊外がエスニックな人々の集住地となることは、日本において、 東京に近い埼玉県南部 や、愛知県の 保見団地 などでも観察されている。

地区の中心商店街に並ぶ店はこれまでとは明らかに違って、エスニックな景観を示していた。 ケバブ屋、中国料理、フィジー料理などのエスニック料理店がある他、?屋、散髪屋、エスニック食料品店などが並んでいる(中央写真はエスニックな商店内部の様子)。「 Western Union 《という、電信送金サービスの看板を掲げた店も目に付く(右写真)。また、この商店街の近くには、 New World という大型のスーパーマーケットも進出してきており、ここにも送金所があった。 移民の人々は、ニュージーランドで稼いだお金をこのようなところから本国の家族に送金しているのである。 通りを歩く人々もエスニックの人々が多く、地区のエスニックの人々をターゲットにした商業地区となっている。

オークランド中心部のクイーン通りにもエスニック料理店が立ち並んでいたが、観光客の需要をあてこんだそれらの店と性格が全く異なり、 これらは地元のエスニックな人々を相手にした店である。 オークランド中心部の通りでは白人とアジア系や太平洋諸島など多くの人々が歩いている様子が観察されたが、 サンドリンガムに白人はほとんど歩いていない。 このように、商業機能と居住は、オークランドでも、はっきりセグリゲートしていることがわかる。

私たちはここにある「TASTE OF FIJI《というフィジー系のカレー屋で昼食をとることにした。 店内には同じくフィジーからだろうか、太平洋諸島出身の人と思われる客もいて、店員と親しげに話していた。 エスニック料理店が、同郷の人々のコミュニティをささえる場の一つとなっている。 私たちはチキンカレーやシーフードカレーなど、各々の食べたい物を注文した。 料金はNZ$15前後と、高くも安くもない感じだが、ジャポニカ米に慣れた私たちには、 乾いたインディカ米でのカレーはなかなか受け入れがたいもので、満足のいく味とはならなかった。

商店街から少し住宅地区の方に入ると、コミュニティセンターが建っており、通りにはMobile Libraryと車体に書かれたバスほどの大きさの車が停まっていた。 オークランドでは、都市部にある公共図書館に行く時間がない人々のため、こういった移動図書館サービスが充実していて、 エスニックな市民でも容易に読書を楽しめるよう配慮がなされている。 アメリカのエスニック地区にはなかなか見られない公共サービスであり、ネオリベラリズムが浸透したあとでも、 こうしたイギリス的福祉社会の要素が未だニュージーランドには残っていることがわかる。



ウオーターフロント開発: 古い港の施設が
今なお残る地区に、都市間競争の象徴

ここから車で北上し、私たちはオークランド中心部に戻っていく。途中、昨日の視察でも見たエデンパーク(Eden Park)の横を通った。

車で20分ほどで、オークランド中心部の北西、ワイテマタ(Waitemata)湾に面した ウィンヤード・クォーター(Wynyard Quarter) というウオーターフロント開発地にやってきた。 このエリアは、以前は工場などが立地していたが、再開発によって、小綺麗な魚市場や、展望台や公園が整備され、 レトロな路面電車も走っている。古い港湾地区をウオーターフロント開発で魅力的な商業地にする手法は、世界各地でみられる。 オークランドでも、昨日午前のレクチャーで聞いたように、 このトレンドにキャッチアップして都市間競争で勝ち残ろうとしており、その強い意欲が都市景観のなかににじみ出ている。

この日は天候もよく、整備された池で遊ぶ親子連れの様子や、海辺でジョギングを楽しむ人の様子なども見られ、 オークランドの威信をかけた都市アメニティでありながらもオークランド市民の憩いの場ともなっていた。

もっとも、再開発は未だ途上である。真新しいウオーターフロント開発施設のすぐ横には、「BULK STORAGE TERMINALS《と書かれたセメントのサイロも残っている。 海沿いの路面には、かつては貨物を運ぶために使われていたのだろう、鉄道引き込み線の跡がついていて、 いずれもかならずしも目に快くない。 港湾をウオーターフロントに再開発する試みは、まだ途上のようであった。

再開発された建物は、外観から見るに、かつて倉庫として使われていた建物を改築して使用しているようだった。 中に入ってみるとそこは、Fishmarketという看板があって、中は大きな魚市場の趣である。 魚市場とはいっても、日本の築地にあるような卸売市場ではなく、小綺麗な一般消費者向けだった。 水槽にはウニやアワビなどが活魚で売られており、サケやタイ、ブリなど種類の豊富な海産物が氷の上に並んでいる。 その他にも、果物や野菜、惣菜なども売られている。 いずれも値段はかなり高めで、日本にある紀ノ国屋のような高級スーパーの大型版という印象を受けた。

初日の都市視察で見たように、この市場の近くには、外資系金融やIT会社のビル、そしてそこで働く人々が住む、 これも都市再開発でできた高級マンション地区Viaduct Harbourがある(写真)。 この市場は、そういった高所得者層をターゲットにしたものなのであろう。 うまく彼(女)らの通勤圏・生活圏に、ウオーターフロント開発が取り込まれている。

この施設には他にも、パブやカフェ、寿司バーやレストランなどもあり、 魚市場で鮮魚を買って自宅で料理するのが面倒な人々でも、手軽に海鮮が楽しめるようになっている。 家族連れや観光客などで非常に賑わっていた。

イギリス植民地時代に、ニュージーランドの商業の中心・物流の拠点として栄えてきた港湾が、 いまやニュージーランドの金融化・IT化と都市間競争を支えるネオリベラリズムの景観として変容するありさまを、はっきりと見ることができた。



オークランド博物館: 大英帝国に捧げる戦争の祠堂を訪れる無邪気な日本の修学旅行生たち

都市巡検のあと、私たちはオークランド市街地の東側にある オークランド博物館 へとやってきた。 オークランド博物館の正式名称は、オークランド戦争記念博物館(Auckland War Memorial Museum)であり、 その名の通り、もともとは、第一次世界大戦後の1929年に、大英帝国のため参戦した戦死者を祀るために建てられた施設である。

緑に囲まれたオークランドドメイン(Auckland Domain)という小高い丘の上に博物館はある。 ギリシャの神殿を思わせるような白くて威厳のある建物は、たしかに帝国のために命を捧げた軍人たちを祀るにふさわしい。 そして、丘の上から見られるオークランドの市街地の風景は圧巻であった。

寄付という形での入館料はNZ$5で、受付で荷物を預けてから見学をする。館内は写真撮影可である。 日本語のパンフレットも用意されていることから、日本人にもお馴染みの見学スポットであることがわかる。



この日も、博物館に日本からの修学旅行と思われる女子中学校の団体を見かけた。 今回の巡検では、オークランド博物館だけでなく、オークランド市内や、日本とニュージーランドを往復する際の機内など、 多くの所で日本からの修学旅行団体を目撃した(写真は往路の成田空港で見かけた、ニュージーランド行き飛行機に乗り込む埼玉県の私立小学生たち)。 私立の学校を中心として、修学旅行先を英語圏で治安が比較的良いニュージーランドにする学校は多く、 外国人向け英語学校と並んで、ニュージーランド経済を支えている。

《1階: 開拓史観にもとづく、ニュージーランドの歴史》

1階の展示テーマは「太平洋の人々(pacific people)」となっている。

ポリネシアからやってきたとされるマオリの生活様式や文化が窺える展示から始まり、 その後イギリス人がニュージーランドにやってきて、ヨーロッパ文化を持ち込み、 開拓を進め、イギリス植民地を作り上げていくところまでの歴史を展示するフロアである。

受付から先に進むとまず「太平洋の生活様式(pacific life ways)」のセクションがあり、 そこでは、ポリネシアの舟や、マオリの人々が使っていた漁具などが展示されている。 「マオリの広場(Maori court)」という展示では、マオリの集会所や伝統的な彫刻などがあり、彼らの生活の様子をうかがい知ることが出来る。 さらに、今回私たちは見ることができなかったが、 定期的にマオリの踊りを披露するパフォーマンスがあり、この博物館の目玉となっているという。

フロアの奥に進むと、パケハ(白人)とマオリが遭遇した後の歴史に関する展示になる。 「遭遇(encounter)」というエリアではイギリス人の装飾や家具の展示が、 また「標識(landmarks)」というエリアではイギリス人の楽器の展示がされている。

全体として、マオリの先住民としての存在を認めつつも、その土地の上にイギリス人がニュージーランドを作り上げたのだという開拓史観に基づいて展示されている。 つまり、未開の太平洋諸島であったニュージーランドの先住民に啓蒙を施す「 白人の責務 」を果たすためにこの地を西洋風に開発し、それによってニュージーランドは大いに発展したのだ、 という植民地獲得競争を正当化したイギリス人のメンタリティを読み取ることができる展示内容である。

《2階: 体験する場としての博物館: ニュージーランドの自然》

2階は「自然史-外の世界(natural history)」がテーマとなっている。

「起源(origins)」というエリアでの、恐竜の化石や、ニュージーランドにかつて住んで絶滅した鳥エミューの復元(左写真)などの展示から始まり、 「陸上(land)」、「海岸(coastal)」、「海洋(oceans)」などのエリアではクジラや白クマの剥製や、実際に生きている昆虫なども見ることができる。

また、「火山(volcanoes)」という環太平洋造山帯に位置するニュージーランドらしい展示エリアでは、地球の運動についての展示がある。 ここには、部屋に入ると、火山爆発の映像と共に部屋全体が揺れることで火山の噴火を疑似体験できる施設もあった。 近年の博物館の流行として、単に陳列された展示物を見るだけでなく、 実際に体験する場としての博物館というものがあり、オークランド博物館でもこうした展示方法を採用している。

《3階: ニュージーランドの靖國神社: 大英帝国の祠堂》

3階の「New Zealand war histories」こそが、戦争を記念して建てられたこの博物館の真骨頂をなす。

まず、この3階の渡り廊下には、大英帝国に属した国々の国旗がずらりと並べられ荘厳な雰囲気を出しており、 壁には朝鮮戦争やベトナム戦争などで亡くなったニュージーランド兵の名前が刻まれたパネルがある(右写真)。 戦死者追悼のための施設であり、日本での靖國神社のような機能をはたしている。 このフロアにはまた、靖國神社の遊就館のような、大英帝国の一員としてのニュージーランドの立場から見た、ボーア戦争や第一次世界大戦、 第二次世界大戦といった戦争に関連した戦利品、地図、ポスターなどが展示されている。 この観点が特に顕著なのが第二次世界大戦の展示エリアであり、戦勝国である連合国に属していたニュージーランドの立場から、 日本、ドイツ、イタリアなど枢軸国の犯した罪を非難する内容となっている。 ちなみに、ニュージーランドは、1945年9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦ミズーリ号甲板上で調印された日本の降伏文書を受諾した9ヶ国の中に、米英ソ仏中などとならんで名を連ねている。

British empire、British allies、British occupation、Axis powers、Axis occupationに色分けされた当時の地図(右写真)は、 ニュージーランドは大英帝国の一員であり、枢軸国と戦ったという意識を象徴している。 中央に日本兵が描かれ、上下に”HE’S COMING SOUTH”、”It’s fight work or perish”と書かれた当時のポスターもあり、 当時の人々が日本を敵ととらえていたよく様子がわかる。 そして、そういった脅威をどのように追い払って行ったかを、当時の戦況と共に伝えている。

さらに、このフロアにはイギリス空軍から譲り受けたという戦闘機、スピットファイアー(左写真)や、旧日本軍の戦闘機であるゼロ戦(中央写真)も展示されている。 このゼロ戦は、ソロモン諸島のブーゲンビル島に配備されていたものを戦後ニュージーランドが接収したものだという。 戦利品のゼロ戦は、オークランド博物館の中で唯一日本語の説明が見られる展示である。

このように、3階は、博物館というよりも、ニュージーランドの戦死者を追悼し、国家のために戦った軍人たちの栄光を称えるための施設である。 それゆえ、イギリスと未だに強い精神的な繋がりをもち、 日本を敵とし大英帝国の一員として戦ったニュージーランドという認識がこの国にあることを日本人が知るためには、格好の場所といえるかもしれない。

なお、この博物館の上述した日本語のパンフレットでは、3階の展示テーマである「New Zealand war histories」が「心の傷跡」と、 英語とは全く関係のない日本語に置き換えられていることを指摘しておく。 いったい誰の「心の傷跡」なのだろうか? 大英帝国の忠実な一員であるニュージーランドというアイデンティティを、 かつての敵国であるが今はニュージーランド経済に観光などで貢献してくれている日本人に対して、ぼかしたいということなのであろうか?

《全体として: イギリスという主語が強調された展示の意図》

全体としてみると、オークランド博物館は、イギリスという主語を大きく打ち出した展示となっている。 2階は自然についての展示なので別として、1階ではイギリスからの入植者が西欧の文化を持ち込み、 それによってニュージーランドが発展したという開拓史観に基づいて展示がされ、 3階では、大英帝国の一員としてイギリスと共に敵と戦った様子が展示されている。 展示者の意図がはっきりと読み取れる博物館であった。



長距離バスで、ワイタンギ条約の町パイヒアへ

博物館の視察を終えた私たちは、次なる目的地であるパイヒア(Paihia)へと移動するために、 スカイタワーのすぐ近く、ホブソン通り (Hobson Street)にあるバスターミナルへとやってきた。

ニュージーランドでは、長距離の公共交通は主としてバスがになっており、 NewmansInter City といったバス会社によってバスサービスのネットワークが作られている。 このうち、Inter Cityはかつて国営のバス会社だった。その当時の名残として、いまでも新聞輸送など公共的な機能も担っており、 所々で停車して新聞を大都市から遠く離れた沿道の集落にも届けるサービスを行っている。 料金も、例えばオークランドからパイヒアまででNZ$40程度であり、比較的リーズナブルである。

バスは私たちの他にも多くの乗客がおり、座席は9割ほど埋まっていた。 バスは、ハーバーブリッジを渡り、ニュージーランドを南北に貫く国道1号を北上する。 国道は、オークランドの郊外では、信号が全く無い高速道路規格になっている。

やがて、郊外住宅も見えなくなって、明かりさえも時たま小さな町に着いた時以外はほとんどなくなった。 暗闇の中を北に向かって走るにつれて、国道は一般道の規格になり、くねくねと曲がった道になった。 険しい山道ではないが、ずっと丘陵が続いているようだ。

バスがワンガレイ(Whangarei)に停車すると、乗客のほとんどが降りてしまった。 ここが、オークランド以北の地域中心の一つとなっている。 ワンガレイを出たバスは車内がガランとし、21時30分にパイヒアに着く頃には、乗客は私たちの他に2名ほどしか乗っていなかった。

21時30分、私たちのバスは、パイヒアの商業・交通の中心地となっているフェリーターミナルの前に着いた。 このフェリーターミナル付近には店も多く建っているが、すべて既に閉まっていた。 しかし、私たちがバスを降りると、大型のタクシーが停まっていた。 バスの乗客をめあてにして、バスが着く時間に合わせて客待ちしていたのだろう。 私たちは、このタクシーで今夜泊まるホテルに移動した。

街に車や人の姿は見られず、所々にある店もほとんどが閉まっている。 まだ夕飯を食べていなかった私たちは、今晩泊まるホテルに荷物を置いて、近くにある「The Salty」というバーで食事を取ることにした。 店の前には係の人がおり、飲酒年齢確認のため、入店する前に私たち学生は全員パスポートの提示を求められた。 ニュージーランドではこういった点については日本以上に厳しい。 店内では地元の若者が酒を飲んだりビリヤードをしたりしており、若者の交流の場となっていた。 私たちは全員Pizza Mealというメニューを注文した。トマト、タマネギ、パイナップル、ハムが載って、 サルサで味付けされたkiwi pizzaとパン、飲み物がついたセットで、NZ$15.5という安さの割には納得のいく味であった。

この日宿泊するホテル「 Admirals View Lodge 」は、それぞれの個室の中に調理器具や食器を備え、キッチンやアイロン台などもついて、 別荘風に自炊しながら長期滞在もできるホテルである。 ここでは、インターネットや洗濯ができる共有スペースなどもあり、部屋も綺麗で、2人部屋で1人あたり1泊NZ$47.5という少々高めの値段も納得がいく。 また、車を停められるスペースもある。中流家庭が家族連れでパイヒアを訪れ、 中・長期でこのホテルに滞在しつつバカンスを楽しむというニュージーランドの観光需要に対応した宿泊施設となっている。

私たちはバスの旅による疲れを癒すため、早めに就寝しこの日の巡検を終えた。



(坂本啓輔)