2010年8月31日 道洞、竹島

整った設備: 浦項旅客船ターミナル

午前8:30、2泊お世話になったバレンタインホテルを後にし、本日からの巡検地である鬱陵島への船が出ている、 浦項旅客船ターミナルに向かった。

バレンタインホテルからタクシーで5分足らずで、浦項旅客船ターミナルに着いた。ターミナルは、ガラス張り を中心とした、線対称に近い建築であり、比較的新しく、こったデザインのものであった。ターミナルには、駐車場 もあり、また入り口の前の広場には、屋根つきの休憩所のところにベンチなどが設置され、きれいに整備されている。

ターミナルの中に入ると、すでに鬱陵島に向かう人たちがおり、ターミナル内の座席シートに腰掛け、乗船できる まで時間を過ごしている。ツアー団体も見受けられた。待っている客は韓国国内の観光客が中心ではあるが、私たち 以外にも、西洋人2人組の利用客も見うけられた。

ターミナル内には、海洋情報を得られるPCルーム、飲料水やお菓子 を販売している売店、漫画や本が用意されている読書ルーム、そして携帯の充電設備など、船を待つ人々のための施 設が備えられている。










私たちが利用するフェリーの時刻表・運賃表の説明書きが青い看板でなされている( 大亜高速海運ホームページ)。 時刻表によるとフェリーは1日1便で、料金は64400ウォンである。

また、船の運行状況を示す電光掲示板や鬱陵島の観光地の写真や観光マップ、 そして大亜高速海運が提供している竹島/独島ツアーの案内があり、独島フェリーと竹島/独島が同時に写った写真を掲載している。




大統領公約の、河川開発の展示: 緑の街をアピール、反対運動への言及はなし

フェリーターミナルに、李明博大統領が公約して推進する、韓国の4大河川総合開発の展示が行われていた。





李明博大統領の河川総合開発と、反対の声

この4大河川の総合開発とは、漢江、洛東江、錦江、栄山江に合計16基のダムを建設し、「河川再生《を図るという、 河川総合開発事業である。この事業は、十分な水資源確保、洪水防止、水質向上、生態系復元及び地域経済発展を目的とし、 13兆9000億ウォンをかけて2012年完工を目指していた。

だが、河川の生態系を壊す危険性やダム建設の効果はないとの批判が高まり、世論調査によると国民の半数以上が上支持 となって、政府はいったん断念した。( オルタナ COP10で韓国のダム期計画撤回訴え)

しかし、2ヶ月後には計画が再開され、環境影響評価を終わらせ、そして予算をさらに22.2兆ウォンに拡大し、再び蘇った。 ( 大韓民国政府の公式ウェブサイト)

とはいえ、環境影響評価が正しいものなのか疑問が残っており、ラムサール・ネットワーク日本は、河川開発の実態の視察 に基づき、開発河川の生態系の破壊やその河川流域のラムサール条約に登録されている湿地への影響が懸念される自然破壊であ ると指摘し、この事業に対して、工事中断の声明を出している。 ( ラムサール・ネットワーク日本)

展示は、4河川それぞれの事業内容や、現在の河川の様子と開発後の河川の様子、この事業によってもたらされる治水や 河川地域の経済発展の様子、そしてまた開発後の河川の様子を模型で表わし、その開発のスマートさをアピールしている。









また展示は、現在の河川の氾濫や日照り被害の様子を示し、河川の開発が急務であると訴え、開発後の姿を、緑と都市機能 が融合したエコロジカルで近代的な街のように表現している。もちろん、反対運動などについては全く触れられていない。

フェリーターミナルのように公衆の目につく場所に展示を行うことで、国民に、大統領の公約である河川開発を支持して もらおうとする政府のプロパガンダの姿勢がみてとれる。



船に乗る前に、外国人はパスポート検査

乗船できる時刻になり、私たちは、他の利用客と同様に乗船ゲートに並んだ。

外国人は、乗船する際に、パスポートを提示することになっている。係員に、チケット渡し、パスポートを見せると、係員に事務所 に行くよう指示された。私たち以外にも、事務所に旅行客がおり、持っているパスポートをみると日本人であった。そこにいる係官に、 なぜ鬱陵島に行くのか問われ、クォンさんの通訳の下、我々が日本の大学生で、鬱陵島の研究をするために、訪問するつもりだと、話す と分かっていただいた。我々が、日本人ということもあり、なにか問題を犯すと考えたのかもしれない。そして、係官は、鬱陵島で万が 一のことがあった時のためにと言って、私たちの国籍やパスポート番号、吊前をノートに控えていた。

そのノートをのぞき見すると、そこには、アメリカ、スイス、パキスタン、南アフリカといった国籍の人の情報が見受けられた。 これらの外国人の一定の割合の人は、竹島/独島に行くために鬱陵島に向かったであろう。間接的ではあるが、どのくらいの外国人が 竹島/独島を訪れているか、韓国当局にわかるようになっている。



海運・観光事業急成長の裏に、労働者の強搾取: 港で抗議する大亜高速海運労働組合員

事務所を出て、船に乗りこうもとすると、乗船口の前に、赤い鉢巻きし、看板を持った男が立っていた。看板には「様々な状況下で莫大な資金を得ている企業が多数ある。ゆえに従業員一同は賃上げを要求する。《と書かれている。 何をしているのかと尋ねて みたところを、彼は、大亜高速海運の労働組合員で、賃上げを訴えているとのことである。

彼によると、自分が勤め始めてから、大亜高速海運の売り上げが2倊になったのに、自分を含め従業員の給料はほとんど上がっていな いという。彼の現在の給料は月収200万ウォンで、300万ウォンに給料を上げてもらわないと、家族を抱えている身としては、生活が苦し いとのことであった。今日は、仕事の休みを返上して、このように船の利用客に訴えているとのことである。彼らがこのような行動に 至ったのは、彼らの労働組合は交渉力が弱く、彼らが、大亜高速海運の上の者に、賃金上げの要求をしようと申し入れても、交渉すら 応じてもらえないという。大亜高速海運が、対馬、鬱陵島、竹島/独島という一連の離島観光開発で急速に業容を拡大している裏には、 このような従業員に低賃金労働を強いて、交渉にも応じない、強圧的な労務政策があるようだ。

船内に入っても、赤い鉢巻きをした従業員がいた。彼らは、業務中であり、先ほどの男の人のように、休みを返上して抗議活動を行 っているというわけではないが、業務中であっても、鉢巻きをすることで抗議の意を示している。



満員の大型高速船SUN FLOWERで、一路日本海/東海を鬱陵島へ

私たちを乗せた船は、午前9:40の出航のところ、10分早い午前9:30に岸壁を離れた。前日の比田勝→釜山間の移動同様、早めの出帆 である。大亜高速海運を利用する際は、乗り遅れないため、早めに乗船する必要があると強く思う。

私たちが今回利用する船は、定員900吊のSUN FLOWERで、1日1便運航している。鬱陵島観光のシーズン時になると、船を1日2便出す ようになるとのことである。また、利用客の少ない、シーズン外には、定員450吊のOCEAN FLOWERを出している。

浦項から鬱陵島まで、約217kmあり、高速船で約3時間かかる。

SUNFLOWERは、高速船としては比較的大型である。3階建となっており、1,2階が一般席、3階が優等席と優等席と一般席の2つの フロアに分けられている。私たちは、今回、優等席を利用した。優等席は、ふかふかで座り心地いい座席に、椅子のカバーには竹島/独島 の写真が、韓国語で「独島はわが父」の文字と一緒にプリントされている。

優等席のフロアには、売店やトイレといった施設はないが、窓は大きく、海上の様子を楽しむことができ、全体として広々とした空間 を演出している。また、女性の客室アテンダントが1人おり、一般席との差異化をはかっているようである。優等席の客のなかにツアーの 団体客はおらず、家族旅行や個人旅行客が主のようである。ターミナルでみた西洋人2人組も、この優等席を利用していた。また韓国の テレビ局SBSの局員も乗船していた。鬱陵島の観光特集を取材するのかもしれない。



鬱陵島観光の次は、ぜひ対馬へ! 船内で、大亜高速海運経営のリゾートを宣伝

前方の壁には、大型の液晶テレビ、後方には中型の液晶テレビが天井に設置されている。テレビでは、大亜高速海運が運営する対馬の 大亜ホテルを全面に出して対馬への観光案内、鬱陵島にある大亜リゾートの宣伝ビデオを放送している。 また、船内には、対馬の大亜や鬱陵島のホテルや竹島/独島の観光ポスターが掲出されている。 大亜海運が、対馬・鬱陵島・竹島/独島といった航路の目的地となってい る離島において、航路とその目的地での観光ビジネスを一体化して経営する姿がうかがえる。鬱陵島観光を楽しんだあとは、是非わが社 の船で対馬観光にお越しください、ということだ。この宣伝で、対馬の地域経済振興が無償で図られていると考えれば、悪い話ではない。

到着までの時間、一般席の様子も見に行くことにした。一般席は、優等席のように広々としておらず、窓もない場所も見受けられて、 込み合っているという印象である。しかし、1,2階には、3階になかった売店やトイレが設置されている。 売店は、韓国のお菓子、ビール、ジュースなどの飲料水が売られている。長時間の船移動で暇をもてあまし、口元が寂しくなるからであろう船の乗客の利用が 頻繁に見られる。ただし、対馬航路とおなじく、まともな食事類は扱っていない。



一般席の利用客のなかには、フェリーターミナルで見かけたツアー団体の人たちもいた。乗客の中には船酔い防止のために、座席に 座らずにマットや敷物を敷いて、床で寝ている乗客が多くいた。フロアには、雑魚寝できるようなカーペット敷きの部屋もあり、船酔い がしやすい高速船での移動のための配慮がなされている。

野菜や果物、調理なべと製品を抱えている乗客も数多くいた。本土に旅行し、本土に行かなければ購入できないような商品を買うなど 買い物を楽しんだあとの人や、観光シーズンになり、鬱陵島で消費する食材を本土に買い付けに出かけた帰りの人であるという。


船は一路、日本海/東海を、鬱陵島に向けて進んでいった。時速70kmを超える高速の航海であるが、さいわい天気は良く、波は穏やか で、思ったほど揺れない。船酔いで苦しむ乗客は、船内を観察しているときは見当たらなかった。



竹島/独島ツアーの横断幕が歓迎! 鬱陵島に到着

午後12:30ごろ、船窓から大きな島が見えてきた。本日からの巡検地である鬱陵島である。緑豊かな島であるが、断崖絶壁が随所に みられる。



船が着くのは、椊民地時代以来、島の中心地となっている道洞の集落である。港は、小規模で、防波堤すらない。 これでは、台風や津波などにあうと、重大な被害にあうかもしれない。



鬱陵島の歴史: 空島政策、日露の争い、そして日本人中心地道洞の建設

鬱陵島は、512年に新羅に従属するまで于山国として独立していた。(金富軾著 井上秀雄訳注『三国史記』平凡社,1988,p.98) 于山国は後に、高麗にも貢物を献上するようになったが、11世紀初頭に、満洲から来た女真の海賊の侵略で滅亡した (川上健三著『竹島の歴史地理学的研究』古今書院,1996,p.66)。

日本海/東海にある鬱陵島は、たびたび大陸と日本本土との衝突の拠点として利用された。13世紀初期、元帝国は高麗を支配し、 日本に侵略しようとした(元寇)。その際、鬱陵島は日本侵略する際の拠点の一つとなった。その後、日本で倭寇が発生するようになると、 朝鮮は頻繁に倭寇の被害にあい、鬱陵島はその倭寇の拠点となっていたため、朝鮮王朝にとって悩みの種となった。 (大熊良一著『竹島史稿』原書房,1968,pp.53,54)

1438年、島民全員に対し、本土に渡るよう指令が下り、鬱陵島を無人島とする空島政策が行われた。 川上氏は、空島政策が実施された背景を、本土を悩ませていた倭寇の拠点に鬱陵島がなっていたことに求めている(川上著健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院,1996,p.67)。 以降、空島政策は450年もの間実施された。(左図 大熊良一著『竹島史稿』原書房,1968,p0 写真掲載覧 林子平『三國通覧説』引用)

1617年、伯耆(ほうき)国米子の大谷甚吉は、空島政策で無人島になっていた鬱陵島に流れ着いた。 鬱陵島に様々な木材や魚採が豊富にあり、それを確認した大谷は、日本に戻り幕府に開発許可を求めた。 次の年、大谷・村川両家は幕府から鬱陵島への渡海免許をもらい、毎年交代で鬱陵島に渡航し、 アワビの採取やアシカの捕獲、竹木の伐採に従事した。

大谷・村川両家は1618年に幕府から渡海免許を得て、年交代で何事もなく鬱陵島の経営を行っていた。 独占的経営を行っていた両家あったが、74年後の1692年、村川家の者たちが鬱陵島に訪れた時、朝鮮人を発見した。 これを幕府に報告したが、幕府は朝鮮人たちがトラブルを起こしたわけでないと判断し、問題としなかった。 次の年、大谷家の者が訪れた時にまたもや朝鮮人が鬱陵島に来島しており、安龍福らを日本に連行したのであった。(川上健三著『竹島の歴史地理学的研究』古今書院,1996,pp.146-147)

幕府側は安龍福らを朝鮮に返すと同時に、鬱陵島が当時において自国領と考えていたからか、朝鮮側に対して鬱陵島渡航を禁じるよう要求 を行った。対する朝鮮側も、空島政策をとり無人島になっているにせよ歴史的に鬱陵島は自国領として認識していたため、その要求を受け入れる ことができず、逆に日本人が渡航しないよう要求したのであった。この鬱陵島をめぐる両国の論争は、対馬藩を介しいくつもの書契による交渉で 行われ、最終的に幕府側が韓国側の領有を認める形で、鬱陵島の渡海禁止令を出し、解決したのであった。 この一連の事件は竹島一件と呼ばれる。

しかし、1881年の江原道観察使から、日本人が鬱陵島に定住し伐木や漁業に従事しているとの実態を聞いた朝鮮王朝は、もはや鬱陵島を無人島 のまま放置できないと考え、空島政策を廃止し、積極的に開発することにした(大熊良一著『竹島史稿』原書房,1968,p.203)。

1889年12月に日朝間で「日本朝鮮両国通漁規則《が調印され、「日本海沿岸の日本漁民は朝鮮沿岸においても漁業に従事し、また鬱陵島へも渡航ができる《 ことになった。(大熊良一著『竹島史稿』原書房,1968,p.237)これにより、多くの日本人が鬱陵島に来島した。朝鮮人は、漁業では海藻や鮑をとる程度でしかなく、 主に農業が中心であったが、日本人の漁業技術にならいイカ釣り漁を行う者も現れた。 鬱陵島の朝鮮人は、日本人から漁業技術を学んだのである。 (布野修司・韓三建・朴重信・趙聖民著『韓国近代都市景観の形成 日本人移住漁村と鉄道町』京都大学学術出版会,2010,p.315) (川上健三著『竹島の歴史地理学的研究』古今書院,1996,p.177)

一方、朝鮮にフロンティア拡大を進めていたロシアは、弱体化していた朝鮮国に接触を行い、朝鮮から様々な権利を取得し、 鬱陵島においても木材の伐木権を手に入れていた。ロシアは、日本人が伐木しないよう日本政府に申し入れ、日本政府もこれを受諾した。 (大熊良一著『竹島史稿』原書房,1968,p.234)しかし、ロシアの朝鮮へのフロンティア拡大は、日清戦争に勝利し清国の朝鮮への影響を一掃し朝鮮にフロンティアを 拡張しようとした日本にとって脅威であり、朝鮮の利権をめぐる日露間の争いは、日露戦争の誘因となった。

日露戦争後、日本はロシアに対して大韓帝国と結んだ条約を破棄させ、朝鮮の外交権を剥奪し、最後に朝鮮を併合した。 日本人は朝鮮に移住を開始し、朝鮮民族の漁場を奪った。

鬱陵島への移民の多くは、日本海/東海をはさんで対岸にある日本本土の島根県出身であった。 鬱陵島に移住した日本人は、朝鮮李王朝時代の中心地であった朝鮮半島に近い台霞ではなく、島の東南部の日本に近い道洞に新しい中心地を作った。 朝鮮民族は、日本人が作った道洞の街はずれに集落を形成し、住み分けが行われた。(奥原碧雲著『竹島及鬱陵島』ハーベスト出版,2005,p.90) 移民者は主に、漁業を営み、人夫として朝鮮民族の人々を雇った。

日本が敗戦し、日本人移民者が本土に引き揚げると、日本人が住んでいた集落に朝鮮民族の人々が移り住み、今日の道洞が形成された。 こうして、日本が作った道洞が、今も鬱陵島の中心地としての機能を果たしている。

船は、鬱陵島のフェリーターミナルビルに近づいてきた。赤塗りのわりと大きめのターミナルビルである。

下船すると、ターミナルビルの中には浦項行きの時刻表や料金表、そして竹島/独島ツアー船の時刻表や料金表が掲載されている 。

その近くには、観光客や島に帰ってきた人々の迎えのためであろう、乗用車やバスが多く駐車してあった。




港の至るところに、竹島/独島の写真付きの看板や横断幕が掲げられている。 竹島/独島に行くことが、鬱陵島最大の観光アトラクションとして前面に押し出されているようである。 なかでも目立つのは、「公務員独島アカデミー歓迎《と書かれたものであった。

公務員独島アカデミー

「公務員独島アカデミー《とは、竹島/独島を守るため、まずは公務員が島の事を正しく知る必要がある、 と鬱陵郡庁政策発展チームのキム・ホンリン事務官が唱えたことから始まったプログラムである。 このアカデミーは、全国に通達され、開設1年余りで4600余吊もの参加があり、人気を博しているようだ ( 公務員独島アカデミー公式HP)

このプログラムで多くの人が鬱陵島に訪れ、鬱陵島の観光地としてのプロモーションになった。 竹島/独島という民族意識に関わる問題にアピールすることにより、鬱陵島への来島者数を増やし、地域経済を振興しようとする郡役所の姿が見て取れる。

私たちは、港を出てすぐ観光地の光景に出くわし、観光が島の産業に占める重要な役割を認識した。

イカとカボチャは鬱陵島の吊産で、イカの像が港に立ち、郡役所が制定したと思われるイカとカボチャの可愛らしいキャラクターが、 至る所に掲げられている。



港には、観光案内所が設置されている。比較的最近作られたような、新しい小屋である。だが、私たちが訪れた時は、案内所に人はいなかった。 後で行ってみると、案内所の係員には韓国語しか通じず、英語で会話するときは、英語ができるボランティアを電話で呼び出してくれた。

島民が港で、民宿の勧誘を積極的に行っている。私たちを勧誘しようとした年配の女性は、私たちが、韓国語が通じない日本人とみるや、 ジェスチャーで付いて来いと手招きしてきた。日本人が宿の予約なしに鬱陵島にぶらりと来ても、泊まるところには上自由しないようである。

別の鬱陵島の島民は、私たちに、吊物であるスルメの試食を勧めてきた。大きな干したスルメイカの包は、島の一番の観光土産品である。

道洞の街にはいると、山がすぐ海沿いにまで迫り、平地が港の奥に向かってまっすぐ延びる細長い所にしかないため、 坂になった街の道路沿いの窮屈な場所に、観光客を対象とした商店、宿泊施設、そして飲食店が密集している。

私たちが予約した民宿の中央荘に行くまでの間にも、鬱陵島で採れたスルメイカの干物や、鬱陵島の特産農産物であるカボチャのお菓子などを 販売する土産物店が並んでいる。スルメイカの干され方は日本のものと同じである。これは、島根県隠岐島の人たちが道洞に移り住んでいたとき、 鬱陵島の朝鮮民族に教えた方法だという ( 杉原隆『鬱陵島、竹島の歴史』)。

港の近くには、巨大な郡所有の駐車場があり、島内の自家用車の普及がある程度進んでいること、 そして鬱陵島中心の道洞に鬱陵島の住民が集まる傾向があることが分かる。



民宿中央荘に到着、そして昼食

私たちの宿として予約してある民宿の中央荘は、道洞港からそれほど遠くないところにあった。

建物の中に通されると、観光関連のポスターが貼り出され、観光客向けの民宿経営を行っていることがわかる。 部屋の床は改装してあったが、足元のランプが破搊している箇所も見受けられた。

私たちは、宿の前にある、民宿が運営している食堂で昼食をとることにした。食堂のメニューは全てハングルのみで書かれており、 どういった料理が出てくるかわからない。

昼食は、大きな丸いお盆に、おかずが盛られている皿が乗っており、それを複数で分けるといった韓国の家庭食事形式であった。 おかずは、イカや魚などの海産物があったが、どちらかというと海産物よりも山菜が中心であった。 この山菜のうち、「チーラム《というものは、韓国本土には生育しておらず、鬱陵島でのみ食すことができる食材であるという。 味付けの濃いおかずに食欲が進み、私たちのおかずの皿が空くと、食堂の人が、空いた皿のおかずのお代わりを次々と持ってきてくれた。



竹島/独島ツアー船に続々と乗り込む客には、パスポートチェック無し

私たちが、昼食を終え港に出ると、竹島/独島に向かう高速船が出航の準備をしていた。

船は、これまた大亜高速海運によって運行されているOCEAN FLOWERである。 210吊もの乗客を収容でき、竹島/独島観光に対する大亜海運の本気の取り組みがうかがえる。

竹島/独島行高速船は、鬱陵島から87.4キロメートル地点の竹島/独島まで、日本海/東海を1時間30分かけて航行する。

日本政府の立場からすれば、韓国と日本国島根県とを往復する船であるから、国際航路ということになるが、 竹島/独島は韓国が実効支配しているので、乗り場で、出国審査がないのは勿論のこと、乗客に対し、 パスポートその他証明書類のチェックも一切行われていなかった。純粋な韓国の国内路線として運航されており、 日本人でも他の外国人でも、切符さえ購入すれば、手続きなしに誰でも簡単に乗船できる。

竹島/独島の埠頭に到着すると、下船・上陸が可能だが、いくつか条件がある。

第一に、上陸できるかどうかは、天候次第である。 この海域は、天候が荒れたり、波の状態が変わったりやすいため、実際に島の方まで船を向かわせないと、 上陸できるかどうかわからないことがよくあるらしい。

第二に、上陸できるのは、わずかに、20分の制限時間内だけである。

第三に、上陸しても、一般客が歩けるのは韓国が人工的に造成したコンクリートの埠頭部分のみであり、 竹島/独島の自然岩には足を踏み入れることはできない。観光客を完全に竹島/独島に上陸させないのは、 領土紛争地域としての韓国側の措置なのかもしれない。ちなみに、日本の国土地理院が発行している2万5千分一地形図では、 韓国が作った人工の地物はいっさい記載されておらず、日本政府の立場からすると埠頭は存在しないことになっているから、 日本が島と認める場所に一般客が足を踏み入れているわけではない、という解釈も成り立つ。

上陸後、一般客は、全員が来た船に載せられて鬱陵島に戻る。料金は、37000ウォン、ツアー全体の所要時間は約3時間20分である。

港では、平日にかかわらず、多くの人たちが竹島/独島行の船に続々と乗り込んでいた。この人数からすれば、船内は客であふれ、 ほとんどの席が埋められている状態であろう。竹島/独島ツアーが、鬱陵島最大のアトラクションとして、いかに人気であるかわかる。



竹島/独島へ向かう船内では、ビデオの「愛国主義教育《

船の出港は14時20分とのことであったが、14時には船は出航した。 対馬・浦項に続き、大亜高速海運の運行時刻は上確定であると感じる。

船内では、窓からの景色を楽しもうと窓際の席についている客が多く、私たちの窓際の席に座る人もいた。




座席には、SUNFLOWERと同様にカバーに竹島/独島の写真がプリントされており、 韓国人なら一度は訪れるべき愛国の地に向かう雰囲気を醸し出している。

船中央には小さな売店が設けられており、お菓子や飲料を売っている。

船内には、前方に大型のテレビ、後方には上部にテレビが設置されている。例のごとく、船が出港してしばらく時間が経つと、 英語字幕付きの韓国語音声による大亜高速海運の運営するリゾート施設の宣伝のビデオ映像が流れはじめた。 しかし、対馬から釜山に行く船と違って、竹島/独島行の船に、日本語字幕はない。








次いで、竹島/独島に関連するビデオ映像が流された。このビデオ映像は、韓国語音声のみである。 内容は、現在の韓国の海上警備隊がある竹島/独島の現状や、竹島/独島と隠岐からの距離157.9kmよりも、 韓国の鬱陵島からの距離87.4kmのほうがずっと短いといった距離的要因、文献や資料による歴史的要因から、 竹島/独島は韓国の領土であると主張する、プロパガンダ映像である。また、竹島/独島には海上警備隊の施設が築かれてあり、 また竹島/独島に物資が供給されている様子の映像が流されている。 他にも、竹島/独島付近でのイカ漁業がおこなわれている様子の映像もあり、 竹島/独島による漁業範囲拡大の恩恵があることを示唆しているようである。 ビデオの最後に、竹島/独島での注意事項が、韓国語と英語で流された。 竹島/独島の動椊物や土地自体に危害を加えないこと、竹島/独島にある埠頭以外のところに踏み込んではならないこと、 魚を驚かせないために竹島で叫んだりしないこと、それを侵すと処罰するといった内容である。


ここで英語を含めた注意書きを行うということは、竹島の堤防に入ると要するに、 要するに、韓英二ヶ国語を用いて、全乗客に対し、埠頭までならよいが竹島/独島の本体に決して進入してはならないこと、 そして、韓国による竹島/独島支配に現地で騒々しく抗議行動を行ってはならないこと、という2つの、 しかし重要な警告を柔らかに行っている。 この船は、まさに韓国人の領土におけるナショナリズムに働き掛ける、「愛国主義教育《ツアーの趣だ。

ビデオ映像が終わると、船内テレビは、韓国のテレビ番組になった。船で受信して船内テレビに配信しているのであろうから、 日本海/東海の彼方まで、韓国の放送電波のエリア内になっていることがわかる。

船は竹島/独島の方に近付いていく。やがて日本が主張する領海に入ったはずであるが、当然のことながらそれがどこかは案内もない。 竹島/独島まで長時間の船旅で、船もよく揺れることから、観光客の多くはあまり席を立たず眠りについていた。


竹島/独島に上陸、記念写真を撮って愛国心を強める韓国人たち

午後3:20頃、船窓に竹島/独島の姿がとびこんできた。島というよりは、ものすごく巨大な岩といった印象である。 静かだった乗客の多くは、竹島/独島(独島)の姿を見ると、声をあげ始め、船から写真を撮ったり、 船を降りる準備を行ったりして、船内は急に騒がしくなった。

私たちが訪れたこの日は幸いなことに海は荒れておらず、船は竹島/独島に接岸することができるとのアナウンスがあった。 乗客の多くは、竹島/独島上陸の制限時間が厳しいこともあり、1秒でも早く竹島/独島に足を踏み入れんと、船の出口に並びはじめた。

午後3:25に竹島/独島に接岸。予定通り約1時間30分で鬱陵島から竹島/独島にたどり着いた。 竹島/独島は、西島・東島と2つの島から成り立っており、私たちが上陸したのは東島の方である。 私たちが上陸した東島には、船が接岸できるように埠頭が設けられており、私たちはそこに下ろされた。

埠頭に出てみると、意外と人が多い。船の収容数はなかなかのものであったと、改めて感じた。

埠頭に下船した大勢の韓国人観光客は、その眼に竹島/独島の姿を焼きつけようと、熱心に島の様子を観察している。 観光客には高齢者が多いのではと思っていたが、広い年齢層の観光客が竹島/独島を訪れていた。 若い年齢層のあいだにも竹島/独島の領土問題に関心が高いことを示している。

竹島/独島をバックに横断幕を持ってグループで記念撮影をしたり、竹島/独島を守る勇士として思っているのか 警備隊の人と一緒に写真を撮ったり、記念碑とともに写真をとったりする韓国人グループも大勢いた。このような行動によって、 竹島/独島には、韓国が作り上げた施設があり、実効支配が及んでいる、ゆえに竹島/独島は韓国の領土なのだ、という思いを、 韓国人観光客は一層強めているのであろう。

埠頭にある記念碑は、円形のもので陰陽を表現するものとなっている。 韓国の国旗も同様に陰陽で表わされていることを考えると、この記念碑は、韓国の国旗と似通っており、 韓国の精神を表現するモニュメントとなっているようである。 この記念碑からも、竹島/独島ツアーが韓国人のナショナリズムに訴えかけるツアーであることが分かる。

埠頭には、塀が設けられている。ツアー客が海に落ちてしまわぬよう設置されたのだろうが、 それと同時に埠頭以外の所をツアー客が自由に実際の竹島の土地に入り込むことを制限しているのだろう。



島の頂上にはためく韓国国旗と警備隊の施設、しかし一般客は立入禁止

東島の頂上は、かつて日露戦争直後の1905年8月、 日本が「竹島望楼《を建設したところ( 竹島望楼位置図)で、 もともと軍事的に重要な位置にある。現在はここに韓国の警備隊の施設が建っている。

白塗りの建物としか下からうかがうことができないが、韓国の国旗が掲げられている。

また、うっすらと望遠カメラがみえ、これを使って竹島/独島に近付く船を監視しているようである。



この施設まで、ロープウェイや階段が設けられている。ロープウエイは荷揚げが目的であり、人間は乗れない。



また、階段を一般客が上がることは許されていない。 階段の入り口の前には、警備隊の隊員が、客が入ってこないように見張っていた。

つまり、一般客が足を踏み入れることができるのは、船が着いた埠頭の部分だけである。 警備隊施設内には韓国郵政庁の郵便ポストが設置されているとのことであるが、そこに観光客が絵葉書を投函して「独島《消印付き郵便物を 友人や家族に送るという、観光地ではありがちなサービスも味わえない。

もっと本格的な愛国主義教育ツアーとするのであれば、 島の頂上まで登ることを許し、警備に当たっている韓国警備隊施設の視察や、警備員への慰問などがあっても良いと思われるが、 それはない。 来訪する韓国人の熱気とくらべて、この竹島/独島の受け入れ態勢は、意外と控えめである。

島の頂上には鉄塔が建っていて、KBSという韓国のテレビ放送局のアンテナとKTという携帯のアンテナがある。 実際に、権さんの携帯は、鬱陵島から竹島/独島に上陸するまで、ずっと圏内であった。 韓国人観光客の中の若者で「独島にいる《と通話している者がおり、竹島/独島という領土紛争地域の島に足を踏み入れていることを 本土にいる友人に自慢している趣が感じられた。

竹島/独島という、離れ小島に駐留する海上警備隊に対するはからいであろうか。 それとも、電波においても竹島/独島の韓国による実効支配を強化する方策なのだろうか。 携帯が通じることは、すくなくとも、このあたりで操業する韓国漁船には大変便利である。

観察を続けていると、埠頭に船から警備隊向けの補給物資が下ろされているのを目撃した。水が入ったポリタンクや箱である。 大亜高速海運の船は、独島ツアーを行うと同時に海上警備隊の施設に物資を供給する補給船の役割を果たしているのである。 海上警備隊の施設のロープウェイのところに職員がいることから、竹島/独島にあるロープウェイで、 これらの物資を警備隊の施設までこれから運搬するのであろう。



西島の岩壁にへばりつく最初の「民間人住宅《

埠頭から西島を見ると、住宅が切り立った岩壁にはりつくように立てられていて、いま改修工事が行われている。 また住宅から、西島の頂上へと続く階段が建設されている。

これは民間人の住宅であり、竹島/独島最初の民間人の人口ということになっている。 そして、この居住により、西島も無人島ではないことになった。 現在、暮らしているかは定かではない。竹島/独島は、海はしばしば荒れるし、 商店などはもちろんないから、実際に生活するのは大変であろう。 しかしながら、竹島/独島の領有を強く主張する韓国人の中には、 韓国の実効支配強化の一助として生活したい考える者がいるのかもしれない。 この特異な住居は、竹島/独島を訪れた観光客の注意をひくものであり、住居を写真に収める観光客も見受けられた。 ( 中央日報2006年2月19日)。

埠頭には、多くの漂着ゴミが流れ着いている。海流の影響で竹島/独島に流れ着くのであろうが、そのゴミの除去作業には至っていないようである。海上警備隊の隊員だけで除去するには、漂着ゴミは大量すぎるのかもしれない。

「竹島は日本領《表示の地図を広げてささやかな主張

私たちは、日本人であると知られて韓国人観光客とトラブルにならないよう、できるだけ日本語で会話をしないようつとめていた。 日本国旗などを持ち込むのは、勿論大きな問題のもとであるが、竹島/独島をバックに、竹島/独島を島根県隠岐郡隠岐の島町の一部として表示した地図を広げ、 それを入れて記念写真を撮った。日本人が、声を高らかにして竹島/独島を自国の領土であると主張できないのは歯がゆいものであるが、 ささやかな領土主張を行うことができた。私たちの小さな主張に気づく韓国人はおらず、いちゃもんをつけられることはなかった。

制限時間になり、警備隊の隊員が、観光客を船に誘導し始めた。時間が迫ると、島からの追い出しが激しくなる。 すぐ船に乗せられ、船は乗客を乗せるとすぐ竹島/独島をあとにした。警備隊が船を見送ってくれた。 時計を見ると、午後3:55を指している。着岸してちょうど正確に20分であった。

船内では、興奮冷めやらぬ様子の韓国人の観光客が、口々に今自分たちの目で見た経験を語り合っている。 竹島/独島ツアーは、韓国人のナショナリズムを刺激するツアーとして、大成功のようである。 竹島/独島が視界から去ると、しばらくまた船内は静かになった。乗客たちは満足したのか、帰路は多くの人々が眠りについていた。 帰りの船は、日本海/東海の波のうねりが激しく、船酔いをしてしまいそうであった。

午後5:15、竹島/独島から、私たちは再び道洞の港に戻ってきた。

ダイナミックであるが自然破壊が気になる、灯台への遊歩道

港を出て、私たちは、道洞灯台まで足を運ぶことにした。灯台までの道のりは、鬱陵島の海岸沿いを行く散歩コースとして、よく整備されている。



広大な海を望みつつ、磯浜を渡り、岩のトンネルをくぐるなど、ダイナミックで、歩くには楽しいコースである。




ところどころに、イカとカボチャのキャラクターをあしらった道標が設置されており、 観光客が道に迷うことなく散歩を楽しめるようになっている。

しかし、遊歩道は浜にコンクリートを打ち込んで作られており、また歩く人が海に落ちてしまわぬよう柵が設けられている。 これにより自然の海浜の環境が壊されているし、ステンレス製の柵は景観に合っていない印象を受ける。 また、潮風からの影響であろうか、錆びて破搊している柵も見られた。自然環境に配慮しながらの散歩コースの開発とは言い難いものであった。








散歩コースに沿って、魚介類を販売しそしてそこで新鮮な魚介類を食させる店がいくつか立ち並んでいる。 また、釣りをしている人たちもおり、彼らの釣果を見ると、撒き餌により小さなイシダイを数匹釣りあげていた。 もちろん、韓国の鬱陵島で韓国人の撒き餌は合法である。

しばらくすると、散歩コースは、島の海岸沿いから離れて島の内部に回りこむようになる。 この場所に、トイレが設置されていた。途中から、急な坂となり、製作途中の石積みがみられたり、細い道になったりと、道の様子が変わる。

真新しい灯台、断崖に囲まれた鬱陵島の地形がよくわかる展望台

午後6:00、山道を抜け、私たちは岬の高台の上にある灯台施設にたどり着いた。灯台は、施設の屋上に設置されている。 竣工記念碑に2007年10月25日と書かれており、最近建てられたきれいでりっぱな施設であった。 ベンチつきの休憩所があり、私たちのように歩いて灯台に向かう人たちが憩えるようになっている。

私たちが訪れた時は、すでに施設は閉まっていた。しかしながら、施設の内部の展示コーナーや屋上は開放されており、 私たちは施設内部を覗いてみることにした。施設の中には、鬱陵島の観光吊所の写真や竹島/独島関連の写真や模型が展示されている。 竹島/独島の模型は、東島にある海上警備隊の施設や堤防もミニチュアで再現されており、極めて精巧に現地の様子を再現している。 ヘリポートもあり、竹島/独島とは、港で見た船便だけでなく、ヘリコプターでも結ばれていることがわかる。

階段を上がり屋上にでると、白塗りで新しい灯台がある。屋上からの見晴らしは大変よく、 鬱陵島が、緑豊かで、かつ急な傾斜で日本海/東海に落ち込む地形であることがよくわかる。







大規模な観光向け公共投資: 巨大な螺旋階段を下って漁港の苧洞へ

眼下には、苧洞(チョドン)の街が見える。この街は、漁港で、漁業に従事する人々が多く、広い漁業市場があり、 主にイカの処理が行われている( 杉原隆『鬱陵島、竹島の歴史』)。 大きなコンクリート防波堤があり、東から吹きつける暴風雨から街を守っている。苧洞は、道洞と比べ広い港を持っているのがよくわかる。

私たちは灯台を出て、引き続き遊歩道を苧洞に向かった。しばらく山道を歩くと、散歩コースは二手に分かれ、短いほうのコースをすすむと高い崖の上に出る。 ここには、標高差が50mをこえる巨大な螺旋階段が設けられ、だれでも崖下に容易に降りられるようになっている。

柵は、カラフルなロープで彩られている。 海辺に降りると、こんどは太鼓橋のようなこった橋が現れた。観光客が回遊を楽しめるように、遊歩道ひとつとっても、多額の公共投資がなされている。 こういった回遊コースは、たしかに楽しめるものではあるが、自然景観を意識した作りとは考えられない。

午後6:00過ぎということもあり空が少し暗くなってくると、散歩コースに付いている電球が点灯され、きれいにライトアップされた。




苧洞は、鬱陵島第一の漁港で、甲板にサーチライトをのせた多くのイカ釣り船が停泊している。 イカ釣り船が装備しているレーダーを見ると、FURUNO(古野電気株式会社)、JRC(日本無線株式会社)といった日本メーカーのものが多かった ( 古野電気株式会社HP)。漁船や小型船舶で使うレーダーにおいて、日本の技術水準は高く、世界で高いシェアを誇っている。 日本の技術が、三星やLGで世界に進出しているはずの韓国の離島にまで及んでいることに驚いた。

港で、ソウルから訪れた韓国人観光客に出会った。彼は、日本の企業とビジネスをしたことがあり、私たちが日本人と分かると、 日本語で話しかけてきた。彼は、鬱陵島に2泊3日で来ており、大亜海運のリゾート施設を利用しているとのことである。 大亜の施設は、鬱陵島の宿泊施設の中では一級の、料金の高いリゾートホテルである。彼が、鬱陵島の中で高級なホテルに泊まっていることを話すとき、 道洞の安い民宿に泊まっている私たちに対し、心なしか得意げな表情を浮かべているように感じられた。

鬱陵島の集落は、一つ一つがどれも峠で隔てられている。夕暮れとなった午後7:00、私たちは苧洞から車で峠をこえ、道洞の街に帰ってきた。

夕食は、昼食と同じ食堂で韓定食を食べた。おかずは昼食と同様のものが出され、加えて、イカの内臓で作られたスープが出た。 イカの内臓は、独特な味でとてもおいしかった。



(内田大介)