2010年8月30日 浦項

製鉄所を基盤産業に発展する浦項の郊外

午前8時頃バレンタインホテルを出てみると、前日の夜は暗くて見えなかった北部海水浴場の砂浜が、道路に沿って広がっている。まだ朝早いこともあってか、砂浜にはほとんど人影はなかった。さらに遠くを眺めてみると、本日訪問することになっているPOSCOの浦項製鉄所が見える。煙突からは煙が上がり、昼夜を分かたず操業していることがわかる。

バレンタインホテルの周囲には、ホテルや飲食店が多く立地している。海に面して景色が良く、余暇活動の場ともなっているのだろう。

本日の巡検では、最初に、近くにある李明博大統領の旧家を視察する。その後浦項にもどり、POSCO、竹島市場、九龍浦の旧日本人家屋を訪問することになっている。

私たちは北に車を進め、興海邑徳城里にある李明博大統領の旧家へと向かった。

国道7号線を北上し、浦項の郊外にはいると、マンションが多く見られた。浦項の人口がまだ増加することを期待してか、建設途中の高層マンションがあり、空き地の周りに柵が建てられ「大明建設株式会社」など企業名や建物の完成予定図が貼られている。また、厳原の郊外と同じように、自動車販売店や大型電器店など、モータリゼーションを前提とした大型店の立地が見られた。

 

しばらく進むと、車は商店などが集積する市街地に入った。ここは、興海という李氏朝鮮時代からの伝統的な地域中心である。このことについては、大統領旧家からの帰路に改めて考察する。

15分ほど国道7号線を北上すると、興海の郊外に出て、農村地帯となった。水田が広がり、ハウス栽培が行われている様子が目に入る。また穀物を貯蔵するサイロも見られ、農産物に関連した産業も行われているようである。

 


観光スポットになっている李明博大統領の旧家

李大統領の故郷を案内する看板のところで国道から細い道に入る。大統領の故郷の農村である徳城里は、南北の小高い山の間にある(上図参照)。10戸ほどの平屋の民家があり、村の近くには水田・果樹園・トウモロコシ畑・ビニルハウスなどがある、近郊農業が盛んな村のようだ。

貧困の少年時代が生んだ、ネオ開発主義の大統領 李明博のサクセスストーリー

李明博は1941年に大阪で生まれ、日本の敗戦後は韓国へ渡り、浦項に住んだ。

小学生のときから市場で働く母親の手伝いをしたり、「マッチ棒に硫黄をつけて売ったり、軍部隊の鉄条網の外で海苔巻きを売ったり、小麦粉でつくった餅をつくって売ったり」など、いろいろな仕事をしなければならなかった。食事は、安く手に入る酒粕を食べた(李明博著, 平井久志・全m訳『李明博自伝』新潮文庫, 2008, pp.45,48,49)。

貧しさのため母親は高校進学に反対したが、中学校の担任の先生は李明博の能力を高く評価し、商業高校夜間部への進学を勧めた。そこは成績がトップならば授業料が免除された。高校に進学すると「三年間ずっと、昼夜間の全生徒中トップだった」ので、授業料を免除されつづけ、卒業することができた。(李明博, pp.56, 57)

高校卒業後、市場の仕事を手伝いながら猛勉強し、高麗大学商学部に入学した。学部の学生会長を務め、学生運動を率いた。当時の朴正煕大統領の軍事政権が推進した日韓国交正常化に反対し、1964年6月3日ソウル市内でデモを起こした。この際、彼は指導者の一人として内乱扇動罪に問われ投獄を経験した。(李明博著, pp.71-73, 83-87)

卒業後、学生時代にデモを主導したことから何社もの入社試験に落とされたが、現代建設に入社。35歳で社長、46歳で会長へと出世した(李明博, pp.110, 166, 353)。彼がその役職を務めていた間に、現代建設は東南アジアや中東に進出、グローバルに業容を拡大した(現代建設ホームページ)。

1992年3月、現代建設を退社し、政界に進出した。李明博は民自党から国会議員の選挙に出馬し当選した(李明博著, p.39)。2002年にはソウル市長に当選した。彼がソウル市長在任中に行った政策で評価が高いのは、「清渓川復元計画」である。清渓川を覆うようにして建設された高速道路を取り壊して、元の川を再現し、親水公園にしたのである(『交通Bulletin 2008年秋季号、No.18』

2007年に行われた韓国大統領選挙では、ハンナラ党の代表として出馬した。その立場は、金大中、盧武鉉の両大統領が、経済政策ではフォーディズム、北朝鮮に対して融和政策を指向して壁にぶつかったのに対し、開発主義国家と産業の強化を強調し、親米路線で北朝鮮への強硬な姿勢を強調することであった。公約としては、「大韓民国747」つまり年間経済成長率7%、10年後の一人あたり国民所得を4万ドル、国家については世界7大強国入りさせることを掲げた。開発主義の目玉公約は、ソウルの漢江と釜山の洛東江を連結させて540キロにわたる大運河を建設し、建設作業に30万人の雇用を創出、運河により国土均衡発展と観光資源を創出する大規模開発プロジェクトであった。李明博は対立候補を大差で破り、2008年に韓国大統領に就任した。((財)自治体国際化協会 ソウル事務所『CLAIR REPORT No. 327』「大韓民国の第17代大統領選挙」

就任後、対米関係強化の方向で動き、アメリカとFTAを締結した(asahi.com「米韓FTA最終合意 順調なら来年にも発効」)。アメリカ以外にEUやASEANともFTAを結び、韓国の産業資本に市場をより拡大する政策に積極的に取り組んでいる(同上)。その政策スタンスは、FTA締結のように、グローバルな市場経済の深化と韓国企業の世界規模での拡大にコミットしながら、なお国家が積極的に開発を進める開発主義国家の政策を推進する、「ネオ開発主義」とでも呼べるものである。

ホテルを出発してから30分ほどで、李明博大統領の旧家へと到着した。

道路が突然フェンスで遮断され、旧家沿いは車両が通ることができないようになっている。フェンスで遮断されている場所にバス停が設けられ、浦項の市内から直通路線バスがここまで通じている。バスの待合所として新しく東屋、さらには水飲み場が設置されており、観光スポットとしての整備が進んでいる。道路沿いには、約200メートルにわたり李明博大統領の故郷にかかわるさまざまのアトラクションが設置されている。李明博の先祖が住んでいた家、彼が実際に住んでいた家では、敷地を利用し、写真などが掲載され説明がなされている。これらの家以外にも数軒の家が建っており、そこには実際に人が住んでいる。

平日の朝だったため、私たち以外にあまり人はいなかった。まず、手前にある李明博の先祖代々が住んでいたという家に入る。これは道路から細い道に入って少し歩いた場所にある。

敷地内には、学生時代の写真や、学生運動で投獄されたときの写真、現代建設の社長時代のもの、ソウル市長に就任し清渓川の復元を行った後の写真、そして大統領選に当選したときの写真などが展示されていた。また、昔の家の様子を再現した模型もあった。さらには、土産物店もあり、キーホルダーやペン、カップ、タオルなどであった。ただし、李明博の似顔絵が描かれている商品は、なぜか見当たらなかった。

 

現在、先祖代々が住んでいた家は立派に改築されている。その前には、李明博のプロフィールが書かれた看板がある。土産物店の女性によると、この家は他の人に売られ改築したのだそうだ。

私たちは再び道路に出て、実際に李明博が幼い頃住んでいた家へと向かった。途中の畑沿いには、李明博の生い立ちが8本の柱で、韓国語、英語、日本語、中国語の4ヶ国語で説明されていた(下写真)。戦後に大阪から先祖代々が暮らしていたこの地に戻って来て6歳まで住み、その後浦項の中心地へと移ったが、朝鮮戦争時には再びこの地に避難したこと、現代建設へ入社して30代半ばで社長に、40代半ばで会長へと出世するという「サラリーマン神話」を築き上げたこと、そして政界に進出して、ソウル市長にも当選し、韓国大統領にまでのぼりつめたことなどを讃えている。最後には「貧しさに負けず数々の逆境を克?して今の地位にまで上りつめた李明博大統領の姿は、今を生きる若者たちに、未来のための『チャレンジ精神』を教えてくれる。」と結んで、若者たちの挑戦を促している。この、一般の貧しい人にも親近感を抱かせるサクセスストーリーによって、「貧しくてもチャンスはある」ということや、「庶民の心がわかる」ということを訴え、人々から李明博大統領への支持を得ようという意図が感じられる。

   
   

道路沿いには、露店がいくつか並んで漢方薬やマッコリを売っていた。プレハブは土産物店でもあり、食事がとれるようにもなっていた。きれいな新しいトイレが設置され、観光地として整備が着々と進んでいる様子が見られた。

ほどなく、「李明博大統領故郷の家」という案内が見え、李明博の旧家に着いた。その前にはベンチと李明博の等身大の写真が2枚あり、ツーショット写真が撮れるようになっている。

  

この家の敷地内には、大統領としての公務を果たす李明博の写真が中心に展示されている。サミットやASEANの会議に出席している様子、軍や商店会、高校を訪問する様子などである。これらを通して、大統領としての実行力と責任感を伝えようとしているのだろう。この家にも人が住んでおり、老年の女性が収穫した唐辛子で何かしら作業していた。

この家にある土産物店では、李明博の似顔絵がプリントされたキーホルダーやストラップなどが売られていた。先ほどの家の店には、李明博大統領の似顔絵がプリントされたものは見当たらなかったので、似顔絵に著作権があり、旧家のみがその使用を認められているということだろう。大統領就任に伴って、ただの農村だったところが観光地として整備されたとはいえ、そこには微妙な権利関係の錯綜があることが見て取れる。

日本の菅直人総理大臣は、富裕な会社役員の家庭の出身であるが、学生運動の経験があるところは似ている。しかし、菅直人氏の故郷が観光地になったという話は聞かない。仮に観光地にしたところで、支持率10%台では、ほとんど訪れる人もなく、商売にならないかもしれない。


興海邑・迎日民俗博物館周辺
―李氏朝鮮時代からの伝統的な地域中心

私たちは、李明博大統領の故郷の村を後にし、往路を戻った。しばらくして、興海邑の市街地に入り、迎日民俗博物館の前で車が止まった。

権さんによると、迎日民俗博物館の建物は李氏朝鮮時代、この地域の行政機構の一つとして利用されていた。そして、その時代、興海邑は現在の浦項中心地よりも栄えていたということだ。つまり、興海邑は、朝鮮王朝時代からの伝統的な地域中心である。一方、浦項は、植民地支配の行政拠点として、日本人が造った都市である。

異なる民族が併存する空間にあっては、民族ごとに異なった中心地体系が存在することがしばしばある。つまり、植民地時代にこの地域には、植民地支配のために作られ支配者日本にとっての地域中心である浦項と、伝統的な朝鮮民族の中心である興海という、2つの中心地が併存していて、民族ごとに異なった都市圏をもっていたと考えられる。植民地時代をつうじ、日本が作った浦項が全朝鮮の鉄道網と連結されて興海邑の中心性を凌駕し、韓国独立後も、ひきつづき浦項がこの地域全体の最高次の中心地の機能を担うようになった。

もっとも、李明博政権下では、韓国高速鉄道(KTX)の新駅が興海邑の近くに計画されている。李明博大統領が、自分の故郷を発展させようとしているのだろう。

迎日民俗博物館は、月曜日は休館日なので中に入れない。外側から観察すると、建物は昔の韓国風建築が残っており、色も赤や緑が施され、鮮やかな色彩である。


農漁業国・韓国の工業化への最初の一撃
―日本の資金と援助で建設されたPOSCO

再び国道7号線を南下し、私たちは浦項の市街に戻った。兄山江に架かるPOSCO大橋を渡ると、私たちの次の視察地であるPOSCOの製鉄所が見えてくる。

POSCOの門には「Green & Clean POSCO」、「資源は有限、創意は無限」と書かれ、POSCOが環境に配慮した企業であること、資源は有限であっても工夫して乗り切っていこうということをアピールしている。

 

私たちは、製鉄所とは道路をはさんで向かい側にあるPOSCOの本社ビルへと向かった。この敷地内には、本社ビル以外に、広報センター、POSCO歴史館、POSCOが運営するサッカーチームの浦項スティーラーズが本拠地としている浦項スティールヤードが立地している。浦項スティーラーズは、Kリーグの強豪で、今までKリーグを4回制覇している(浦項スティーラーズホームページ)。2009年には、アジアチャンピオンズリーグを制覇し、クラブワールドカップでは3位に輝いた。

私たちは、まずPOSCOの広報センターへと入り、2階へと案内された。職員は日本語が堪能であった。

韓国の産業構造高度化と成長を支えた、
POSCO/浦項綜合製鉄所

(浦項総合製鉄の成立経緯について、詳しくはコラムを参照)

植民地時代に、日本は現在の北朝鮮の清津に製鉄所を作ったが、朝鮮半島南部には製鉄所を建設しなかった。

POSCOは、戦後、日本からの資金援助と技術導入により、1973年6月に第一設備が完成、初出銑を迎えた。ここで生産された鉄は、韓国内の自動車・建設・家電などの部門に安定的に供給され、韓国国内の産業連関の中軸部分をになって、韓国の産業構造の急速な高度化を支えた。

その後も、経済成長の波にのって、浦項製鉄所は設備を拡張し、粗鋼年産の規模を拡大させていった。そして1985年には、韓国の南部、全羅南道にある光陽製鉄所の建設を開始した(POSCOホームページ)。

その結果、現在では世界有数の鉄鋼メーカーとなり、2009年度は2953万トンの粗鋼生産量を記録している(POSCOホームページ)。

◆POSCO成立の苦難、そして効率・従業員厚生・環境重視を見学者に伝える広報センター

・写真からわかる、製鉄所による街の変化

広報センターには、浦項の昔と現在を比較した写真が展示されている(下参照)。その写真から、浦項の製鉄所の敷地は、以前水田が広がる農村だったが、現在では広大な製鉄所へと様変わりし、浦項が鉄鋼都市として発展している様子がわかる。

 

職員によれば、設立された1968年当時の浦項の人口は6万7千人だったが、現在では52万人となったとのことである。また、POSCOが経営するもう一つの光陽製鉄所については、以前は海だった場所を埋め立てて製鉄所を建設したことがわかる(下参照)。

 

・一筆書きで原料から製品に至る、効率的な製鉄所の配置

広報センターには、製鉄所の500分の1模型があり、それを見ながら、製鉄所の配置について説明してくださった。

浦項製鉄所の総面積は270万坪である。施設の配置はU字型になっており、U字型の左上から左半分には原料埠頭、原料ヤードがあり、そこに搬入された原料を用いて、高炉で製銑作業が行われる。右半分に、銑鉄を加工する製鋼工場、圧延工場と続き、一番右上が出荷用の港である。このように、製品は、工程順に一筆書きで進んでゆく。

一方、光陽製鉄所はもっと効率的になっており、工程順が一直線になるような配置がされているとのことである。そして総面積は450万坪となっている。

・社宅・教育・娯楽施設…: 企業が丸抱えで面倒みる従業員厚生

製鉄所の工場は24時間操業しており、3交代制を採用している。

POSCO全体では合計16,000人の職員がおり、そのうち約8,000人が浦項製鉄所に、約6,000人が光陽製鉄所に勤めている。

POSCOには大規模な社宅団地があり、従業員にはそこに住む者も多い。この団地は全国から移住してくる労働者のために、浦項製鉄所建設と同時に建てられ、現在は約7,500世帯が居住している。従業員の子女の教育のために、団地内には保育所から大学院までそろっている。大学は浦項工科大学(POSTECH左写真)で、学生はPOSCOから奨学金をもらえるとのことである。さらに、アートホールやショッピングセンター、スポーツセンターも立地し、映画が見られ、買い物ができ、体を動かせる。この団地内だけで文化生活、日常生活をほとんどこなすことができそうだ。

・自社の功績をたたえ、未来への展望も見せる映像

次いで、映像によるPOSCOの紹介を見た。

1968年に設立され、さまざまな困難の結果、1973年の初出銑以来、韓国の経済発展をリードして成長を遂げてきたことにより、マスコミがPOSCOを成功事例として取り上げ、世界最高の鉄鋼企業、最も尊敬される企業で、人気就職先として評判になっている、と映像は誇っている。

POSCOはグローバルな競争力を高める努力も怠っていないという。原料を100%海外に依存しなければならないため、海外での資源開発を行っている。また、製品の生産拡大や付加価値を高めるための投資も行い、産学研協同により、浦項工科大学と産業科学技術研究所とともに、新たな技術の開発に取り組んでいるという。

環境保護にも力を入れ、「森の中の製鉄所」を目指し、敷地の4分の1以上を緑地としている。廃棄物を最小化し、地球温暖化対策として温室効果ガスの削減の取り組みも行っている。

生産だけでなく、地域社会活性化の取り組みを行っていることも、映像はアピールしている。例えば浦項花火大会支援、プロサッカーチームの浦項スティーラーズと全南ドラゴンズの運営、海岸清掃などである。次世代の人材育成には「POSCO青岩財団」を設立し、CSR(企業の社会的責任)を果たしている。

最後に、「新たな未来への開拓」として、POSCOの多国籍企業化を映像は取り上げる。中国、ベトナム、メキシコ、インドへと進出し、全世界で5000万トン以上の鉄鋼を生産する体制を築き、世界最高の鉄鋼企業としての地位を確固たるものにする計画だという。建設、エネルギー、ITなどの分野を発掘し、多角的経営を行い、2018年までに売上100兆ウォンとすることを目標にしている。常に新技術を追求し、鉄によって生活をより便利にし、より豊かな未来をPOSCOがつくると宣言して、映像は終わる。

・評価*かつての日本企業のフォーディズムを踏襲して成功

広報センターが、来訪する見学者に良い企業イメージを伝える格好の宣伝媒体であることはいうまでもない。

POSCOは、環境に配慮し、成長志向を持ち、企業の社会的責任を果たす。労働者には、住宅を供給して従業員の生活を丸抱えし、安心して仕事に集中できるよう配慮している――このようにして、一方で成長と効率を追求しつつ、愛社精神を涵養し「企業は一家」という意識を持たせてやる気を出させる。このフォーディズム的な手法は、まさにかつての日本の大企業がとった手法そのものである。李明博大統領の開発主義的政策といい、POSCOの労務政策といい、韓国の経済や経営には、フォーディズム時代の日本から学んだ、ネオリベラリズムには一括りできない異質の要素が強く存在していることを実感する。

これと対照的に、現在の日本の企業は、成長の限界にぶつかって、一方で内部留保を貯めこみながら、ネオリベラリズム的な労務管理を取り入れ、社宅や福利厚生施設などは廃止し、派遣労働者を多数導入し、従業員をリストラの恐怖に追い込んで尻をたたき、経営のスリム化を図っている。その結果、社内の雰囲気は、ギスギスしてきた。

長い目で見て、どちらの国の企業が、国際競争で勝利できるだろうか...

◆職員の案内で製鉄所内を見学

次に、広報センターを出て、車に乗りながら職員に製鉄所内を案内していただいた。

正門から入ると、その横に、POSCOの技術研究所が入る茶色の建物がある。新日鉄と今でも技術交流がある、と職員が説明した。POSCOの「森の中の製鉄所」を目指すという方針通り、周囲や内部に至るまで、多くの木が植えられている。そして、全体的に製鉄所内の工場設備の外装はカラフルなものが多い。

私たちは生産工程に沿って、製鉄所のUの字を左半分から右半分へと視察していった。

・原料の搬入: 初期工程を担う、製鉄所の左側

鉄鉱石は主に、オーストラリア、ブラジル、インド、チリなどから輸入される。石炭は半分がオーストラリアから、その他は中国、アメリカ、カナダなどから輸入される。

海外から原料を運んできた船は、原料埠頭に接岸する。原料を運搬する船の大きさに合わせて、水深3m、5m、10mの埠頭、計3つが設置されている。搬入された原料は、原料ヤードに保管される。原料ヤード沿いの道路には、埃が舞わないように道路脇から水が散布されている。そして、水がたまらないよう道路には傾斜を5度つける、という工夫もなされている。

原料は、原料ヤードからベルトコンベアーで原料工場へと運ばれる。

原料が高炉に入れられる前に、鉄鉱石を焼結させ、石炭をコークスにしなければならない。鉄鉱石と石灰石を混ぜて焼くことにより、ある一定の大きさの塊にする。こうして、焼結鉱を作る。

石炭については、1600度で2〜3時間蒸し焼きにしてコークスにする。

・銑鉄と鋼鉄の生産

兄山江沿いに並ぶようにして立っているのが高炉で、この中に焼結鉱とコークスを入れる。この過程で、鉄鉱石の酸化鉄の酸素とコークスの炭素が結びつき二酸化炭素となる一方、鉄は酸素を奪われ、純粋の鉄となる。この還元という化学反応により、約5時間で溶銑ができあがる。

浦項製鉄所には第1〜第4高炉と鋳物銑高炉の合計5基の高炉がある。第1高炉は韓国初の近代的高炉で年産能力は180万t、第2高炉も同じく180万tとのことだ。浦項製鉄所で一番大きい高炉は第3高炉で、年産能力は350万tである。第4高炉は年産能力が300万tであるが、私たちが訪れたときは改修中で稼働していなかった。鋳物銑高炉もあり、そこからできた製品は主にエンジンやモーターを取り扱う工場へと販売されるそうだ。

浦項製鉄所には、POSCOが世界で初めて実用化に成功したFINEX(右写真出典: RFID Journal)という技術による設備もあることを教えてくれた。これは、2003年から稼動している。普通の工程では高炉に原料を入れる前に鉄鉱石を焼結鉱に、石炭をコークスにしなければならない。だが、FINEXではその工程が省略され、原料をそのまま炉の中に入れる。工程が省略される分生産コストが下がり、公害物質の排出量が従来のやり方よりも90%以上カットされるそうだ。この設備は2台あり、FINEXによって年間約10万tの溶銑が生産されているという。

次に見えてくるのは、第1、第2製鋼工場である。高炉で作られた溶銑にはまだ珪素やマンガンなどの上純物が残っており、そのまま製品化すると壊れやすい。そのため、この工場で酸素を吹き込み、上純物を取り除くことで丈夫な鉄にする。これにより、スラブやビレットと呼ばれる中間素材ができあがる。現在浦項製鉄所では新たに製鋼工場を建設中であり、建設している様子も見ることができた。完成後には第1製鋼工場はなくなるとのことである。

高炉と製鋼工場からは副生ガスが発生する。ガスはタンクに貯蔵され、パイプを通って圧延工場での燃料として効率良く利用されるそうだ。

職員によると、各工場には発電所も設置されており、80%の電力はPOSCOで自給できるとのことである。そして、左半分には廃水処理場もある。浦項製鉄所では1日480万トン水が使用されるが、98%はリサイクルされているそうだ。

・圧延工程と製品出荷を担う右半分

次に、中間素材をさまざまな鉄製品に加工する圧延工場がある、右半分へと向かった。

最初に厚板工場を通り過ぎた。厚板工場では、厚さ3cmのスラブを1.2〜12.5mmの板に切り分ける。こうしてできた製品はコンテナーやパイプに用いられるそうだ。

次に、熱延工場と冷延工場である。熱延工場では、まず1200度でスラブが再加熱され、ロール状に巻かれる。冷延工場では、熱延工場でできた製品を圧延して、表面をきれいにする。

できあがった製品のうち約30%は海外に輸出されるという。POSCOの製品は、製品が輸出できる品質のレベルにあることを示している。主な輸出先は中国、日本、東南アジア、アフリカだ。輸出向け製品は一時保管されてから船積される。船積施設は全天候に対応しているという。

・第3線材工場の内部を見学

生産工程順に一通り製鉄所内を回った私たちは、第3線材工場内で実際に作業している様子を見ることができた。

線材とは丸いワイヤー状の鉄製品のことで、タイヤに使われたり、ボルトやナットに加工されたりする。浦項製鉄所には3つの線材工場があり、この第3線材工場の年産能力は84万t、そして3つの工場の合計で年間約200万tの線材が作られるそうだ。

製鋼工場から運ばれてくる中間素材は、線材工場に着くまでに温度が下がる。そのため、この工場ではまずこれを再加熱する。そして圧延し、適当な大きさに切り取って円状にし、冷却する。

工場内部に入ると、高温の鉄のせいで熱気を感じる。赤い高温の鉄が、コンベアーの上を流れていく。機械によって鉄の棒がカットされ、円状にされたワイヤーとなる。できあがった時点ではまだ赤い線材も、コンベアー上で冷却され、だんだん黒に変化していくのがわかる。線材は製品保管庫に吊るされ、作業員によって綿密に検査され、3〜5日かけて自然に熱が下がるのを待ち、それから出荷される。


(線材工場内の様子、出典: POSCO‐Wire Rod

こうして、1時間近くにわたる製鉄所内の見学を終えた。

◆POSCO歴史館を見学

製鉄所の敷地を出て、次に3階建ての楕円形をしたPOSCO歴史館を見学した。

まず、エスカレーターで2階へ行き、歴史館に入った。ここからは歴史館内の職員が案内してくださった。こちらの方も、日本語が堪能であった。

最初に、古代から現在に至るまでの韓国の製鉄の歴史についての展示がある。レリーフが、紀元前3世紀から現在までの製鉄技術の変遷を示している。そして、年表でも紀元前3世紀からPOSCOがFINEX技術に成功するまでの歴史が記されている。刀や鎧、兜など鉄でできた遺品や、九州で使われていたという高さ1.3mで、300人分の米を炊くことができた釜も展示されていた。

 

次に、浦項綜合製鉄所の創業期と建設期についての展示となる。

まず、「創業期」の展示から始まる。1945〜1969年を、韓国が、日本の植民地統治と朝鮮戦争で疲弊した国を回復させ、経済発展を促すために鉄鋼業を興そうとしたが、何度も失敗した時期と位置づけている。朴正煕大統領が韓国に本格的に製鉄所を建設しようという欲求を強め、アメリカ・ピッツバーグの製鉄所を視察した写真、朴泰俊がハワイを訪れたときに製鉄所建設について着想し、日本の資金をあてにすることを思い付き、日米双方から影響を受けて、製鉄所建設に踏み切ったことを説明している。POSCOが、韓国人のイニシアティブのもと、日米双方の影響ならびに援助を受けて設立にこぎつけた、というストーリーに構成されている。

1968年4月1日に浦項総合製鉄株式会社として設立した際の写真、新聞記事、その際に掛けられた企業名が書かれた扁額、書類などが多数展示されているなかで、私たちが注目したのは、「浦項綜合製鉄株式会社」と書かれた旗である。韓国の企業であるにもかかわらず、ハングルではなく、漢字で企業名が書かれている。しかも、「鉄」と「会」の字は旧字体ではなく、戦後に日本が定めた新字体である。この字が旗に使われていることに、日本の強い影響力がうかがえる。

次は、浦項製鉄所の「建設期」についての展示である。朴正煕大統領、朴泰俊社長が着工式でボタンを押すシーンが再現され(右写真)、この製鉄所建設が、国家プロジェクトであった事を示している。そして、建設工事の際に事務的な作業を行ったプレハブである「ロンメルハウス(下写真)」と呼ばれる建物がそっくり移設され展示れている。「ロンメル」について、歴史館の職員は「米軍の将校」と説明していたが、実はナチドイツ軍の将軍で、ヒトラーを暗殺しようとしたことで知られる。つまり、連合軍側にとって、敵の敵で、味方の存在であった。韓国が戦後、親米路線をとって、そのなかで製鉄所建設を計画したことが、この建物にロンメルの名を冠したことにあらわれている。


(ロンメルハウス、出典: POSCO歴史館パンフレット)

建設期の展示では、このほかに、建設作業員が使ったヘルメットやゴーグル、設備購買方法に関する書類などの品が展示されている。製鉄所建設と同時に行われた住宅団地の建設の様子、作業員を訓練している様子などの写真もある。

  

高炉の模型(写真出典: POSCO歴史館パンフレット)の中では、1973年6月9日の初出銑の様子の映像が流されていた。勢いよく火が燃え広がり、そして溶鉱が流れ出て、成功に喜び合う場面が映し出され、「POSCOマンの血と汗の結晶」として説明されている。さらには、建設作業員を元気づけるための「魂」や「執念」と書かれた石板や朴泰俊社長直筆のメッセージがある。こうした企業スピリット鼓舞のやりかたは、日本企業の手法と大変良く似ている。そして、操業すると同時に建設作業を進め、業績を上げていった様子が、POSCOをたたえる新聞記事で示されている。

  

そのあと、光陽製鉄所建設期についての展示となる。海上に製鉄所を建設する前に、ボーリング調査と砂に杭を打ち込む作業の写真と模型が展示されている。そして、光陽製鉄所は21世紀を展望し、周辺環境のモニタリングシステムを含め、最新鋭技術で建設された、と説明されている。

製鉄所の建設が一段落した1993年以降は「大歴史完成以後」というくくりで展示されている。今やその存在が世界的に認められたことが、ニューヨーク証券取引所から与えられたメダルで示されている。また、POSCOの社員約16,000名の顔写真をモザイクにして作った世界地図が描かれ、「企業は一家」という発想を土台としつつ、より一層グローバルに成長していく意気込みを示している。医療や教育面での支援、浦項花火大会、海岸清掃や環境をモニタリングするタワーの写真が載せられ、社会に貢献し、環境に注意をはらう企業というイメージを打ち出していた。

歴史館の3階へ上ると、中心にPOSCOの広報があり、それを囲むようにしてPOSCOの技術紹介、身分証、バッジ、月給袋、サークル活動の写真などが展示されている。そして、初代社長・朴泰俊について説明がなされ、彼に関係する物品、例えばスピーチの原稿などが陳列されている。

  

順路は再び2階へと下り、世界各国からの訪問者が写真で紹介され、POSCOが世界中から注目を浴びる企業であることをアピールしている。窓際には、鉄でできたオブジェが飾られている。

 

最後に、球の形をした「映像館」に入る。映しだされる映像は、イメージ中心であった。まず、昔の田舎で、牛に鉄の鋤をつけて耕作し、鉄を鳴らして鳥を追い払い、鉄の脱穀機で作業を行い。そして鍛冶屋が鉄を打ちたたく場面。その後、製鉄所の建設、初出銑の場面となり、発展を遂げてきたことを示す。そのあと、現代の人々が豊かな暮らしをし、鉄をバチで叩いて音楽を演奏しているところを映し、鉄が果たした文化生活向上への上可分の寄与を示そうとしている。

POSCO歴史館の展示では、創業期に挫折を味わってきたことについて触れつつ、それを乗り越えて韓国の経済発展をリードしてきたサクセスストーリーを展開し、これからも人々の生活を向上させるためさらなる成長を遂げていきたいというメッセージを込めて、POSCOが果たした韓国の戦後の発展と今日の繁栄への役割を強調していた。

・評価*日米双方の影響を受けたことを示す、POSCOの歴史

POSCO歴史館は、POSCOが日米双方から影響を受けて発展してきたことを示していた。

一方で、製鉄所は世界銀行などの融資が得られない中、日本からの「請求権資金」を用い、当時の八幡製鉄・富士製鉄の技術で建設された。他方で、戦後、韓国は、米国の覇権下に置かれ、政治は親米路線を基本とし、文化もアメリカの影響を受けた。製鉄所にも、それが及んでいる。韓国に製鉄所を建設しようという願望は、朴正煕や朴泰俊がアメリカを訪問したときに強くなったと述べられ、「ロンメル」の愛称をつけた建物が展示されていることに、親米色が感じ取れる。

そして、環境への配慮、成長志向、企業の社会的責任、そして多国籍企業化をアピールし、韓国の工業化と経済成長の屋台骨を支える大企業として、韓国人の愛国心に訴えつつ、企業イメージアップに努めている様子も認めることができた。


海産物をはじめとし、
いろいろな商品が並ぶ竹島市場へ

POSCOを後にした私たちは、竹島市場へと向かった。

10分ほどで港が見えてきた。港には多くの漁船が停泊している。港に沿って、主に魚介類を扱う商店が多く並んでいるのが見える。

浦項の繁華街に溶け込む竹島市場

(竹島市場を含む、浦項の繁華街の図。紫の太線は青龍路、黒の太線はアーケード街)

浦項の繁華街は、浦項駅前から内港に延びる道路に沿って広がり、竹島市場もそこに含まれる。

浦項駅から南東に延びる青龍路(???)沿いには、動物病院、外科や内科、産婦人科などの医療機関、銀行、ファミリーマートやGS25といったコンビニエンスストアなどが立地している。青龍路から分岐して北東に延びる道路の方には、映画館、自動車の販売店、銀行などが立地している。この2つの道路は竹島市場の方向へと向かって走っている。

竹島市場は戦後形成され、「50年前、葦原の茂る浦項内港沼地」に露店商が入ったことから始まった。 1969年に竹島市場繁栄会が設立され、きちんとした市場として整備され始めた。その結果、現在では市場の面積は約45,000坪、店舗数は約1,200に達する市場となっている。(竹島市場ホームページ浦項市ホームページ

・浦項の伝統料理、水刺身: 日本人の口には、慣れが必要

私たちはまず、竹島市場にあった刺身を取り扱ったビルの中で昼食を取ることにした。

ビルの1階は、水産物の商店となっていた。イカやイシダイ、ヒラメ、カレイなどが水槽の中を泳ぎ、活魚として売られていた。また、イカの干物や乾燥昆布など加工品も売られていた。

3階へ行くと、9つの部屋に分かれており、そこに店舗が入るようになっている。しかし、私たちが訪れた食堂である308号室以外の部屋には何もなく、店を営業している様子はなかった。

食堂では、水刺身(ムルフェ)という料理をいただいた。ボールの中には白身魚の刺身、キュウリ、梨が入り、上にコチュジャンがかかっている。その中に、氷も入った冷たい唐辛子の辛味のスープをかけ、ご飯を入れて食
べる。刺身もスープ両方とも冷たく、暑い夏の季節にちょうど良い食べ物である。ただし、ゼミ生の間では必ずしも評判が良くなかったようだ。刺身は完全にさばききれておらず、小骨が引っかかった。日本人は、韓国料理の唐辛子の辛味スープに「熱い料理」というイメージを抱くので、予想に反して氷が入って冷たいスープに違和感を抱く学生もいた。慣れないと口に合わないと感ずる人もおり、好き嫌いが分かれる郷土料理だと思った。

・何でも揃う広大な商業区画: 竹島市場内を視察

昼食を終えた私たちは、竹島市場内を視察することにした。

市場の港側には水産物を扱う商店が多く並んでいる。ヒラメやカレイ、イワシ、タイ、カニ、ナマコなどが水槽の中に入って売られている。これらの魚は店員に頼めばさばいてもらえる。また、水産物を扱う店は奥に食堂も構えており、ドア越しに食事を取っている客の姿を見ることができた。竹島市場内では、海産物をそのまま提供する店が多いことを示している。

皿の上にもナマコやアワビ、ウニ、タコなどが並べられていた。ホヤ貝やクジラを加工している店員の様子も見られた。権さんは、韓国ではクジラは死んだものか網にたまたまかかっていたものだけを食べると言い、「韓国では捕鯨はしない」ということを暗に主張しているようだった。

店は、パラソルを広げて、通りの真ん中にまで商品を並べ、スペースを有効活用している。

しばらく歩くと路地へと行きつく。その通り沿いでは、主に干物が売られており、沿道にはパラソルを広げて、台の上に商品が置かれている。パラソルのせいで歩道のスペースはほとんどなく、車も通るのがやっとという状態であった。

 

道路を横断し、日本語で「中央通りアーケード街」と書かれた通りへと入る。この通りは日本のアーケード商店街にも似た印象を受ける。アーケード街の手前側では、主に食品が扱われている。アーケードに入ってすぐの所には干物店が立地しており、商品台に魚や海藻の干物が陳列されたり、イカの干物が吊るされたりしている。さらに進むと、干物以外にも精肉、米や小麦粉、菓子など、あらゆる食料品を扱った店が並んでいる。道の真ん中にも商品が陳列されており、台の上に干物や野菜類が置かれている。

さらに奥へと進むと、先ほどまでとは違い、食品を扱った店は並んでいない。代わりに衣料品店が多く並んでいる。普段着やスポーツウェア、靴、寝具、化粧品店や手芸用品店、花屋、食器類、金物屋など数限りない。ここでも道の真ん中に商品が並べられ、棚に帽子が並べられ、衣?がハンガーに吊るされ、段ボールの中にサンダルなどの商品が入れられるなどして売られていた。

・大型書店で地図を購入: 浦項をとりまく需要空間の広さを示唆

アーケード通りを過ぎると、国道31号線へと出る。この通りも浦項の商業地区となっている。

この通りにも、多くの商店が立地して繁栄している。どんな商店が立地しているか観察した。ファッション関係が多く、その他携帯電話ショップ、薬局などもあった。また整形外科や耳鼻咽喉科、歯科などの医療機関、銀行や証券会社も立地している。

  

私たちは、この通りにある書店で、浦項と鬱陵島の地図を購入することにした。私たちが訪れた書店は3階建ての大型なもので、1階では主に児童書、雑誌、小説、2階では教科書やコミック本、3階では実用書が扱われている。これほど大規模な書店を経営していけるのは、浦項がこの地域の商業中心であり、広い需要空間を有し、多くの集客を見込めるからだろう。この書店には、雑誌に関してはファッション系、スポーツ系、ビジネス系などがそろい、日本でもなじみ深いELLEやVOGUE、FORTUNE、Forbesも見られた。また日本版の雑誌も置かれていた。興味深かったのは、日本の漫画が多く置かれていたことである。韓国でも日本の漫画が大人気のようだ。

  

・活気あふれ、シャッター化していない中心商店街

書店で地図を買った後、再び竹島市場の方へと徒歩で戻った。今度はアーケード街ではなく、市場の周囲の通りを歩くことにした。ここでも、道路まで進出し、パラソルの下に商品を並べている。先ほど見たように衣料品店が多く並びCDや時計、バッグなども売られていた。港側へと戻るにつれて、食品を取り扱った店が多くなる。主に魚の干物や野菜・果物が売られていた。

 

全体として、竹島市場は浦項駅前から広がる商業地区に溶け込み、どこからが竹島市場なのか、どこからが一般商店なのか定かでないほどである。浦項周辺の商業中心として、竹島市場を含む全体が財の供給地として発展している。日本では、地方都市の場合、「シャッター商店街」と化して寂れている場合が多いが、浦項では、竹島市場との相乗効果があるのか、中心商店街に活気が溢れていた。日本人が造った都市・浦項の市街地は、現在でも中心性をしっかり保っている。


植民地時代の建造環境を今に保存する
九龍浦の旧日本人漁村

竹島市場を出発し、次に浦項の中心地から東に24km離れた海岸沿いの、九龍浦へと向かった。そこは、植民地時代、多くの日本人漁民が居住し、日本人家屋が立ち並んでいた。これを保存しようという動きがあるところから、今回視察することにしたものである。

国道31号線を東へと向かうと、途中の浦項郊外には、ハウス栽培を行っている様子も見られ、近郊農業地帯となっていた。私たちは、小高い山の間を抜け海岸沿いへと進んでいった。

朝鮮の豊富な漁業資源で莫大な富
植民地における日本人の漁業活動と九龍浦

日本人漁民が朝鮮半島に定着し漁業をするようになったのは、1908年に締結された「日韓漁業協定」による。この協定は、日本人漁民が、地元の朝鮮人の漁場を奪い、朝鮮の現地に定住して漁業を行うことを可能とした。(趙重義・権善煕著、中嶋一訳『韓国内の日本人村 浦項九龍浦で暮らした』アルコ, 2009, p.56)

日本人漁民が朝鮮半島に定住するため建設された移住漁村には、「補助移住漁村」と「自由移住漁村」の2種がある。

「補助移住漁村」とは、「日本政府、各府県、水産組合、『東洋拓殖会社』の補助によって建設された移住漁村」のことである。これは、朝鮮半島に日本人を入植させる国家政策の一環をなしており、移住は計画的に行われ、奨励され、日本政府から多くの援助があった。(布野修司・韓三建・朴重信・趙聖民著『韓国近代都市景観の形成 日本人移住漁村と鉄道町』京都大学学術出版会, 2010, pp.227, 228, 231)

一方、「自由移住漁村」は「日本人が任意に朝鮮半島各地に移住して住み着いて形成された漁村」のことである(同, p.232)。九龍浦は、「自由移住漁村」の一つとして建設された(同, p.265)。

日本人が移住してくる以前、九龍浦は、志羅里という、朝鮮人の家が2戸しかない、人がほとんど住まない村であった。最初に九龍浦に移住した日本人は、香川県小田出身の橋本善吉という人物である。当時、瀬戸内海沿岸では漁業従事者があまりにも多く、魚が乱獲されて、瀬戸内海で漁業資源が上足していた。橋本氏は、日本海/東海の朝鮮沿岸にある豊富な漁業資源に目をつけ、1909年に九龍浦に移住した。移住後は、鮮魚運搬業で成功し、大型漁獲用網や巾着網による漁業、イワシ加工工場も経営して、莫大な富を得た。(趙重義・権善煕著, pp.64, 65)

もう一人九龍浦に関連がある人物は、岡山県児島郡山田村出身の十河彌三郎氏である。彼が橋本氏と異なる点は、十河が「日韓漁業協定」が締結される以前の1902年から韓国へと移住していたことである。最初は九龍浦の南にある牟浦里に住み、その後1908年に九龍浦へと移住した。そして、慶尚北道や浦項の植民地権力機関や金融、経済人たちとの人脈を築いて、九龍浦と浦項の中心とを道路でつなぎ、港湾整備をするなど、九龍浦のインフラ整備に貢献した。そして、彼は九龍浦の中でリーダー的存在となった。(同, pp.66, 67)

中心地から走ること30分、九龍浦の市街地と港が見えてきた。いまでは大きな漁港になっていて、多くの漁船が停泊している。

港の近くに作られた駐車場に私たちの車は止まった。ここから、九龍浦のかつてのメインストリートであり、旧日本人家屋が保存されている旧本町通りがはじまる。昔の九龍浦の市街図と現在の地図(Google Map)を比較すると、街路の形はほとんど変わっていない。


昔の九龍浦の市街図を見ると、本町通り沿いに旅館や飲食店、病院や薬局、日用品を取り扱う商店、警察官駐在所などが立地していたことがわかる。また本町通りの裏の丘には、九龍浦高等尋常小学校、九龍浦神社や本願寺をはじめとした寺社も建立され、日本人漁民の生活空間として九龍浦の市街地が形成されていた。

商店などの経営者もまたほとんど日本人であったが、興味深いのは、昔の九龍浦市街図を見ると、医院と薬局に関してのみ朝鮮人が経営していたことである。その理由として、日本人の医者や薬剤師がそもそも朝鮮に来なかったこと、また医師や薬剤師はエリートしかなれない職業であり、エリートであるゆえに、朝鮮民族が日本人集落の中に入ることができたからだと考えられる。

現在、この辺りには、港の近くということもあってか、海鮮系の飲食店が多い。しかし、それ以外にも、焼肉屋や中華料理店、コンビニエンスストア、携帯電話ショップ、衣料店、メガネ屋、美容院、金融機関など、多種多様な店舗が立地している。日本人により形成された市街地が核となって、独立後も九龍浦は発展しつづけ、低次の中心地として機能している様子がわかった。

 

旧本町通りに入って歩き続ける。建物のほとんどは戦後改装されているが、奉天/瀋陽の満鉄附属地でも顕著な「看板建築」と呼ばれる当時の日本独特の商業建築様式を残しているものもある。日本人が建てた石造りの建物や日本家屋も、現在まで残っている。

建物の外壁には、昔の写真が掛けられており、そこに、植民地時代に何があったか示す形で、九龍浦の歴史的伝統を紹介していた。

私たちも、昔の写真と比較しながら、旧本町通りを西から東へと歩き、現在の建物を観察し、建造環境の変遷を考察してみる。(段落先頭のアルファベットは、昔の九龍浦市街図の中に書かれているものに対応。写真をクリックすると昔と今の建物の写真が表示されます。

A. 旧「九龍浦警察官駐在所」は石造りで直方体の平屋建ての建物で、上部の真ん中には半円形の装飾が施されていた。現在は、2階建てで角が丸みを帯びた建物が建っている。ただ、現在は何の用途の建物か定かではなく、単なる民家かもしれない。
B. 旧「九龍浦消防組」の建物も、平屋建ての石造りで直方体の形をしていた。現在は、外壁に白いタイルを敷き詰めた鉄筋コンクリートの2階建てに改築され、カフェとして利用されている。
C. 旧「料理屋錦翠亭」は.木造2階建ての建物であった。この建物を大きく2つに分けて見ると、右側が玄関で、2階の窓には格子状の枠がつけられ,そして左側の2階には長い木製の欄干が取り付けられていた。現在では、右側部分は下の部分が茶色、その他が灰色のタイルで敷き詰められたコンクリート造りの建物に改装され、現在は機械の修理工場として利用されている。一方、左側部分は昔の面影を残しており、住居スペースとして利用されている様子だった。
D. 旧「御料理二葉亭」も正面から見て対称な木造2階建ての建物で、三角屋根をもち、2階には大きな窓が2つ取り付けられている。現在では、コンクリート造りの1階建ての建物に変わり、外壁のところどころ茶色のタイルが敷かれ、引っ越し業者の建物として利用されている。
E. 旧「大藤旅館」は、昔の写真と現在と比較してもほとんど変わりがない。昔の「御料理二葉亭」と似た感じであり、正面から見て対称な木造2階建ての、三角屋根で、2階に大きな窓が2つついた建物である。現在は、一般の民家として利用されているようである。
F. 旧「平松憲夫浴場歯科医院」の建物は木造の平屋であった。現在の建物は、外壁が青緑で、木造2階建てに改装され、会社のオフィスとして使用されている。
G. 旧「御料理安城亭」は木造3階建ての豪華な料亭であった。現在はその場所に、2階建てのコンクリート造りの住居が建っている。
H. 旧「鮮海漁業株式会社事務所」は木造2階建ての建物であった。現在は、2階建ての建物で茶色のタイルがはられた直方体の建物となっている。その建物にはいくつかの店舗が入ることができ、一室では美容室が営業していた。
I. 旧「御料理一心亭」は、比較的昔の面影を残している。木造2階建ての建物で、玄関のひさしが三角形でなくなっていること、窓に木の枠が取り付けられていないことを除けば、昔とほとんど変わっていない。現在は一般の住居として利用されているようだ。
J. 旧「釜山光本回漕店荷客取扱所」の建物は、木造平屋建ての建物であった。現在は2階建ての建物となり、茶色のタイルが貼られている。店舗として利用されているようだ。
K. 旧「中川春吉商店」は木造2階建ての建物であった。現在は、岩石の模様をした外壁の建物に改装され、住居として利用されているようだ。
L. 旧「はりまや食堂」は、現在でも戸袋が残り、昔の建物と同じ面影を残している。2階の雨戸の形や、1階のひさしが段違いになっている点は昔と変わらない。ただ雨戸の塗装が剥げており、保存状態はあまり良いものではなかった。中をのぞいてみると、玄関の前から内部にいたるまで足の踏み場がないくらいにカボチャが積まれていた。倉庫として用いられている様子であった。
M. 旧「松原峯市百貨店」は木造2階建であった。現在では白い外壁に、2階に金属製の欄干が取り付けられている。その建物の横には看板が置かれ、ハングルで「韓牛コムタンスープ」と書かれている。現在は飲食店として利用されているようだ。
N. 旧「東湯」と「美髪部」の建物は直方体で、玄関は2つ、2階には大きな窓が5つついていた。現在では玄関は一つだけで、窓も小さくなっている。ただ、昔の写真と比べると、窓のついている位置が似ていることから、昔の建物を改築して現在のような姿になったのであろう。

昔の写真と現在の建物をこのように比較してみると、中には昔とは様変わりした建物もあったが、昔の建物の構造を生かして改装されているものも多かった。

まず、完全に破壊され改築されている建物の例として、Aの警察官駐在所やBの消防組の建物が挙げられる。かつて旧本町通りは、日本人漁民によって栄えた、九龍浦における中心地であった。それゆえ、警察・消防の機能は旧本町通り沿いにあって当然だった。しかし、戦後九龍浦から日本人がいなくなり、その警察・消防の機能も失われた。このことから、上必要なものとみなされ、破壊されて、現在の姿になったと考えられる。

また、ほとんどの建物は昔の構造の生かされているとはいえ、建物の機能に関しては、日本植民地時代から引き継がれているものは、ほとんどなかった。例えば、食堂として利用されていた建物は、一部を除いて、ほとんどは壊されず改装されたものである。しかし、その多くは民家として利用され、現在も食堂として利用されているものはほとんどない。

日本植民地時代、旧本町通りは日本人漁民のための食堂や商店、旅館などが集積していた場所であった。しかし、日本が敗戦すると同時に、その役目は終わることになった。その結果、現在では旧本町通りは九龍浦での中心性を失い、建物の機能も様変わりした。その代わり、旧本町通りの西側に九龍浦の中心が移り、かつてのメインストリートを東へと向かうにつれて、民家が立ち並ぶ通りの性格を現している。

◆日本の雰囲気を醸しだした喫茶店「古里」

旧本町通りには、「古里」という喫茶店(左写真)があった。建物は、1925年に建てられた日本家屋で、浦項市発行のパンフレットに紹介されている(浦項市発行『九龍浦の中の日本』p.13)。

この建物が興味深いのは、木造2階建てながら、満洲で戦前に西洋風建築を模倣して中国人が建てた「中華バロック」様式を取り入れていることである。中華バロックは、見た目に西洋風の趣を醸しだすよう、随所にごてごてした装飾をあしらっている。この建物の場合、バルコニーが特徴的で、上部が3つ半円形にくり抜かれ、さらにその上に「中華バロック」風の模様が刻みこまれている。バルコニーの柵のデザインには、曲線が生かされており、アールヌヴォーの影響を感じさせる。満洲と朝鮮のあいだに、戦前、建築様式の面での交流があったことを感じさせる。

その喫茶店には、かき氷屋によく見られる赤字の「氷」の旗、日本語で「営業中」と書かれた旗、「カレーライス」と書かれたのぼりが掲げられている。そして、ドアの所には手書きでメニューが書いてあり、日本語でも「緑茶」とか「かぼちゃのおかゆ」と記されている。

 

話を聞いてみると、その店主は以前、福岡の韓国領事館に勤めていたとのことである。その後領事館を退職して、2カ月前に九龍浦で喫茶店を開いたそうだ。ただし、店主は日本語があまり上手ではなかった。いまのところ、九龍浦に多数の日本人観光客が押し寄せるという状況にもなっていないので、この日本風の喫茶店は、むしろここを訪れる韓国人をターゲットに、日本の趣を味わってもらおうという意図があるのだろう。

◆旧本町通りの展示館として開かれている旧橋本善吉邸

旧本町通りの終端近くには、橋本善吉氏の家屋が保存されている。戦前の九龍浦の集落で支配的地位にいた日本人だけあって、建物はひときわ大きく立派である。現在は「九龍浦日本人家屋通り広報展示館」として、修復が進み、一般者も内部を見学できるように開かれている。その中には係員が待機しており、館内を案内してくださった。私たちを案内してくださったのは、文化観光解説士・日本語担当のカン・ヒョクチャン さんである。

・保全は上十分だが、植民地の歴史遺産に関わる展示は充実

まず外観について。家屋は木造2階建てで、今まで旧本町通りで見てきた日本家屋の中でも大きい部類に入る。広い庭があり、敷地の入口から玄関に至るまで芝でつながっている。カンさんによれば、この家屋を建てる木材は日本から持ってきたとのことである。屋根や庇にはトタンが敷いてある。そして玄関、家屋右側の物置と思われる部分が前に突き出した形をしている。2階には大きな窓があり、そこには欄干が取り付けられている。長年風雨にさらされたせいか、トタンや雨戸はサビつき、塗装がはがれている部分も見受けられ、保存状態は必ずしも良くない。

玄関から入ると、1階には廊下が走っており、1階にある4つの部屋に面している。そして、1階の一番左側の部屋の後方には、台所が設置されている(布野修司・韓三建・朴重信・趙聖民著, p.273の図も参照)。各部屋は木のスライド式の扉で仕切られ、扉には障子紙が貼られて、鴨居と天井板の間には欄間がある。1階にある4部屋のうち、左側に位置する2部屋は現在復元工事中で立入禁止となっている。左側から3番目の部屋の壁には、1930年代の九龍浦の写真が展示されている。先ほど旧本町通りで見た昔の建物の写真以外にも、漁船から降ろされた魚を選別している漁師の写真、漁業組合の販売事務所前に大量に山積みされた魚の写真があり、九龍浦が大変漁業資源に恵まれて栄えた日本人の漁村であったことを物語っていた。

1階の一番右側の部屋には、「日本から一番近い浦項」という観光ポスターが貼られ、韓国と日本の地図を示して距離の近さをアピールしている。浦項の拡大図が描かれ、日本人家屋通り、POSCO、竹島市場、李明博大統領故郷の家などの観光スポットが示されている。ポスターの下部には、日本人家屋と浦項の花火大会の写真がある。このポスターから、日本人観光客にもっと浦項へ来てもらいたい、そして九龍浦を訪れてほしいという地元の思いがひしひしと伝わってくる。

モニターもあり、普段は九龍浦の過去と現在についての映像が流されているそうだが、私たちが訪れたときは上映していなかった。

モニターの横には、1929年12月に発行された「慶尚北道迎日郡九龍浦市勢一班」が展示されていた。これには九龍浦の概況や沿革、漁期、現況などについて記載されている。また漁獲高などが表で示され、どのような産業があるかも示している。漁村ということもあり、鮮魚運搬業、水産加工業、船具・漁具店はもちろん、造船、土木建築業、日用品店、飲食店、医療機関などが挙げられ、日本人の居住により、これらの産業も立地するようになったことがわかる。

さらに、この部屋には、九龍浦について書かれた『韓国内の日本人村 浦項九龍浦で暮らした』の出版記念会の様子の写真が展示されている。そこには浦項市長、安?元首相、李明博の兄、森元首相が写っている。浦項市長がこの九龍浦復元プロジェクトを主導し、李明博大統領もこのプロジェクトを通して日韓友好を図ろうとしていることがわかる。日韓の政界トップレベルが、このプロジェクトに積極的にかかわっていることをうかがわせる。

廊下を右側に行くと木の階段があり、2階へと上る。窓際には廊下が走っている。そして、家屋の正面から見て右側から順に8畳の和室が2室、和室より狭い長方形の部屋が2部屋続き、一番左側の部屋の後方に倉庫が設けられている(同上参照)。2階の部屋も鴨居と天井板の間に欄間があり、壁には違い棚が取り付けられ、書院造となっている。日本の家屋の部分名を、「床柱」、「欄間」、「違い棚」、「付け書院」、「付け書院の格子組み」などとプレートで表示していた。

  

2階は、日本人が利用していた品を展示する資料館ともなっている。日本刀、うき、茶托、酒樽、やかん、アイロン、バリカン、滑車、分銅、電灯の傘、昔の中学校の数学教科書、小説、尋常高等小学校校長の手紙など、ありとあらゆる当時の遺品が展示され、敗戦後九龍浦から日本へ引き揚げた子孫たちが結成した「九龍浦会」の名簿が展示されている。ショーケースの外には、火鉢、障子、襖が展示されている。ただし、襖や障子は破れたまま修復されていなかった。

 

  

さらに、2階の壁には、浦項市長が九龍浦の歴史を残すことの必要性を述べたメッセージや、『韓国内の日本人村 浦項九龍浦で暮らした』の内容が展示されていた。例えば、昔九龍浦で暮らした日本人の話や、九龍浦に移住した日本人の主な出身地である香川県小田の風景を載せた写真などである。そして、戦後九龍浦から日本へ引き揚げた子孫たちにより結成された「九龍浦会」が九龍浦を訪問する写真、日韓友好が行われている韓国の新聞記事、2009年9月24日の毎日新聞の記事で、関西の学生が九龍浦の調査で訪問したことについて書かれたものが展示されている。

   

・植民地の歴史的建造環境: 抹消と破壊から、認識と保全へ

韓国政府が日本植民地時代の建造環境にとった姿勢を示す地物としては、ソウル市にあった旧朝鮮総督府建物の破壊が私たちの記憶になお新しい。このことから、韓国では、日本植民地時代の歴史遺産は、すべて記憶から抹消すべく、破壊の対象となっているかのように私たちはとらえがちである。しかし、九龍浦に来て、このことは誤解であるのを私たちは知った。

カンさんは、九龍浦の日本人家屋通りを保存しようという計画が持ち上がった経緯について、日本人家屋の保存を決めたきっかけは、日本人が知っている韓国の都市といえばソウル、釜山、慶州くらいで、浦項が知られていないことに、浦項市長がショックを覚えたことであった、と説明された。浦項市長は文化観光に力を入れ、消えつつあった植民地の建造環境を保存して歴史を後世に伝えていくことで、日本人観光客を誘致しようと図っている。浦項市は今年、このプロジェクトに20億〜30億ウォンを投じているそうである。

旧橋本邸に関しては、元は個人の家であったのを浦項市が借りて展示館にし、2009年5月30日に開館したそうだ。そして、保存状態をもっと良くするため、今年の秋から復元作業を本格化するとのことである。旧橋本邸の復元だけでも、費用は日本円で1億〜2億円はかかるそうだ。

このプロジェクトの目標として、市は、日本人を1万人誘致することをめざした。目標には達しなかったものの8,000人ほどの日本人が来訪したそうである。主に歴史に興味がある日本人の個人客が増えたとのことだ。

かつて、可視化された忌まわしい歴史を抹殺するため、破壊の対象となっていった日本植民地支配の建造環境が、都市間競争のもとで、いまや機能を変え、ビジネスチャンスを生む観光アトラクションとして機能し始めている様子を窺い知ることが出来る。

◆しかし矛盾は残る: 九龍浦神社跡の塗りつぶされた碑文は、復元すべきか?

その後、カンさんは私たちを、旧本町通りの裏の丘にある九龍浦神社跡へと案内してくれた。

旧本町通りから発している九龍浦神社跡へと続く石段の前には、「九龍浦公園入口」とあり、神社の跡地がいまは公園となっている。石段の横には石柱が立ちならび、韓国人の名前が刻まれている。しかし、その裏はセメントで塗りつぶされていた。セメントの下には日本人の名前が刻まれている。戦後、日本人が退去した後、植民地支配の跡を消すためにセメントで塗りつぶし、それをひっくり返して韓国人の名前を刻んだのである。それでもただ一つだけ、セメントで塗りつぶされていない名前があった。それは十河彌三郎のもので、石段を3分の2ほど上がった所の石柱の裏側を見ると、彼の名前を見つけることができる。おそらく九龍浦の発展に貢献した人物であるために、あえて名前を消さず、裏返しにするだけにとどめたのであろう。

舗装された石の道路が、途中12段の石段を経て神社の建物跡まで続いている。石段の手前右側には「十河彌三郎功績記念碑」と東屋、そして左側には10本ほど木が植えられ、鉄棒やトレーニング器具が設置されている。石段を上ると、両側に2匹の狛犬が出迎えてくれた。右側には、まだ新しい忠魂塔が建てられている。そして奥に2つの建物があり、右側が「忠魂閣」である。

ここで注目すべきは「十河彌三郎功績記念碑」である。この記念碑は、日本から持ってきた珪化石で造られ、九龍浦の発展に貢献した十河彌三郎の功績をたたえて、1942年に建立された(『九龍浦の中の日本』, p.11)。現在この記念碑の両面はセメントで覆われてしまっており、その下に何が書いてあるかわからない状態である。記念碑は日本人の功績を称えるものであるから、日本の植民地支配を連想させるものととらえられ、このような結果に至ったのであろう。

だが、カンさんによれば、このセメントをはがすべきかどうか、いま韓国人の間で議論が起こっているという。街並復元の観点からは、碑文ももとに戻さなければ完全な復元とはいえない。だが、植民地支配を想起させるからはがすべきではないという意見もある。その両者の間で、論争が起こっているそうだ。だが、すこし前までなら、セメントを剥がして復元すべきだという立場は、そもそも選択肢にものぼらなかっただろう。韓国経済が発展して社会が成熟し、植民地支配をひとつの歴史的過去として冷静に捉えられるようになってきていることを感じる。

◆決して復元され得ない、国家イデオロギーの空間

この場所には、神社があった時代の名残として、「奉献」と刻まれた石の手水場や上動明王が残されている。石の手水場の側面には日本人の製作者の名前が刻まれ、製作年が「大正二年」、上動明王には「大正六年」と日本の元号が刻まれていた。また、ここには日本人の「帝国在郷軍人会」による忠魂塔が置かれていたが、今はその台座のみが残されている。台座の側面には、建立者として、「帝国在郷軍人会」という文字と個人名が刻まれている。『韓国内の日本人村 浦項九龍浦で暮らした』の98ページの写真では、「帝国在郷軍人会」の忠魂塔の工事の様子が写っており、台座の上に塔が建っていることが確認できる。

 

しかし現在では、これを積極的に否定し、韓国のイデオロギーが感じられる空間に変わっている。1960年、帝国在郷軍人会が建てた忠魂塔の代わりに、抗日と朝鮮戦争に命を捧げた人々の塔が建てられた。2007年には、現在建っているものに建て替えられた。これにより、国を守った人々の尊い貢献を思い出させ、愛国心を高めようとしているのだろう。日本の植民地統治の歴史的過去は、可視的な象徴において破壊されている。

また、神社跡には忠魂閣が建つ。その横の説明書きによれば、植民地時代に日本に抵抗して亡くなった人、そして朝鮮戦争時に韓国を守るため戦って亡くなった浦項出身の兵士の精神をたたえるためのものである。「忠魂閣」とその隣にある建物は、両方とも、屋根の辺がわずかに湾曲し、柱の色は赤、扉の色は青緑と派手な装飾で、韓国風建築である。「忠魂閣」の前には3本のポールが立ち、左から順に韓国の農村発展を促す「セマウル(新村)運動」旗、韓国国旗、浦項市旗が掲げられ、韓国人の手による地域や国家の発展を讃えている。

 

石段を登った九龍浦神社跡の一帯は、日本の植民地支配から解放された韓国が、過去の植民地統治を否定し、韓国の愛国主義的イデオロギーを宣揚する空間となっていた。「十河彌三郎功績記念碑」の碑文が仮に戻っても、ここにもう一度神社や「帝国在郷軍人会」の忠魂塔が復元されて建つことはもちろん永遠にありえない。国家イデオロギーの領域まで来ると、明確に、建造環境復元の論理よりも、国家の論理が優勢となる。橋本邸から忠魂塔までの短い道のりは、建造環境と歴史との関係における、大変興味深いスペクトルを私たちに示してくれていた。

◆日本人家屋の保存プロジェクトを観光開発に結びつけるための課題

植民地支配の象徴とみなされてきた日本人家屋を消えるままに委ねるのではなく、歴史的事実としての価値を認め、それを保存するという学術的意義において、日本家屋の復元プロジェクトは評価できる。しかし、これを日本から観光客呼び込みにつなげるには、まだ解決しなければならない課題がいくつかある。

第一に、日本家屋の保存状態は良くない。そして、旧橋本邸1軒だけを復元するのでなく、街並の保存の観点にたってもっと多くの家屋を復元し、インパクトを強める必要がある。ただ、旧橋本邸だけでも復元するために1億〜2億円はかかるのであるから、街並全体を復元するためにはさらに莫大な費用がかかり、資金面の課題が浮かび上がってこよう。

第二に、まだ観光地としてのPRが上十分である。九龍浦に訪れるのは歴史や建築に興味がある人がほとんどという現状であるし、仮にそういうものに興味がある人でも、情報が十分日本国内に流布していないから訪れるチャンスを得にくい。韓国に単なる娯楽を求めるだけの一般日本人観光客は、古びた日本家屋にわざわざ訪問する価値を見出さない。もっと宣伝活動を強化する必要がある。九龍浦だけでは魅力が十分でないならば、回遊性を強化し、例えば日本人に人気の慶州や、浦項にサッカー観戦に来た日本人向けパックツアーを組むことも考慮に価するだろう。

第三に、日本から九龍浦に行きやすくするために、交通手段を整備する必要がある。例えば、九龍浦に近い島根県や鳥取県あたりから浦項ゆき高速船の直通航路を作るのが良いかもしれない。対馬*釜山間の航路も開いている大亜高速海運がこの航路の運行を始めれば、大亜高速海運にとっては経営拡大につながり、あまり歴史や建築に興味がない日本人であっても「九龍浦に行ってみようか」という気持ちを起こさせることにつながるかもしれない。現在、鳥取県の境港から朝鮮半島東海岸の東海市へ旅客船がでているが、浦項から北に170kmも離れている上、週1便で少なすぎる。


朝鮮半島最東端・虎尾串日の出広場
にひろがる、韓国のハコ物行政

私たちは九龍浦を出発し、海岸沿いの道路を北上して、朝鮮半島の最東端に位置する岬、虎尾串につくられた日の出広場へと向かった。ちなみに「虎尾串」という地名の由来は、朝鮮半島を、沿海州を前足でひっかくトラと見たときに、ちょうど尻尾の位置にあたることからだという(浦項市ホームページ)。

虎尾串日の出広場は、初日の出が最も早く来ることから、新しい千年紀を迎えるに際し、1999年12月31日から2000年1月1日にかけて日の出祭りが行われた場所である(同上)。長方形をした広場内にはミレニアムや日の出に関連した建物やモニュメントもある。

駐車場側から日本海/東海に向かって、広場を歩いていく。一番手前には、「ニュー・ミレニアム・メモリアルホール」がある。権さんによると、2000年1月1日を記念して建てられたそうだが、月曜日は休館で中に入れなかった。建物を正面から見ると、日の出をイメージしたような円弧があり、その内側に建物本体が建てられている。この建物の横にはなぜか風力発電の風車が1基だけあった。新しい1,000年に向けて環境を保護していこうという主張なのだろう。

さらに歩くと、大きな土産物店や野外ステージ、2004年1月1日に日の出を見に来た人々のために雑煮を作った大きな鍋などがある。そして、「共生の手」と呼ばれる人間の両手の形をしたブロンズ像が、左手が広場上に、右手が海中に、互いが向かい合うようにして建てられている。この両手の像の間に、「新千年のひかり」という、ミレニアムを記念して造られた大理石のオブジェ がある。その前には3つの箱があり、中に炎が灯されている。左から順に、辺山半島における朝鮮半島での1999年最後の日の入り、虎尾串における朝鮮半島での2000年最初の日の出、フィジーにおける世界での2000年最初の日の出を表している。その説明文には、「祖国の平和統一と四海同胞の繁栄と安寧を祈願しながら永遠に消えない民族の炎として存置」するとある。お互いが共生し合い、新しい千年紀に発展し続け、光り輝いていたい気持ちを伝えているのであろう。

大変素晴らしい理想であるが、日本にもよくあるハコモノ行政的な匂いも感じられる。


軍民共用、出入口も共用の浦項空港

私たちは虎尾串日の出広場を出て、浦項空港へと向かった。国道31号線を走り、浦項の中心地の方向へと戻っていった。浦項空港は国道31号線沿いに立地する。

浦項空港

浦項空港は1970年に創設された国内線の空港で、まず大韓航空により浦項*ソウル間の便が開かれた。1992年にはアシアナ航空も参入し、浦項*ソウル間に加えて、浦項*済州島間の便も開通した。(浦項空港ホームページ

また、この空港は、軍事基地としての機能も有している。

午後6時ごろ、浦項空港に到着した。しばらく待っていると、空港の入口から軍人たちがぞろぞろ出てくるのが見えた。彼らはタクシー乗り場からタクシーに乗り込んだ。日本でも、自衛隊と民間の共用空港はあるが、出入口ははっきり別である。この光景から、韓国では軍隊がより身近な存在であることがわかる。


日本植民地時代の趣をうけつぐ国鉄浦項駅

浦項空港を出発し、再び国道31号線を走っていたが、夕方6時半ごろで仕事からの帰宅ラッシュに捕まったのか、POSCO工場の近くから道は激しく渋滞し始めた。そのため、浦項駅に着いたころには空は薄暗く、時刻も午後7時近くになっていた。

現在の浦項駅は、韓国鉄道公社(KORAIL)の駅である。駅舎は日本風の趣で、植民地時代の日本の駅舎建築が残されている。日本の民家を大きくしたような形で、日本国内のローカル線にありそうなデザインだ。左右非対称で右の屋根が長く、大きな窓が取り付けられている。

浦項駅の開設

浦項駅は、植民地時代に鉄道経営をしていた朝鮮鉄道の東海南部線の駅として、1918年に開かれた(『金泉発展誌 浦項誌 蔚山案内』, pp. 420)。東海中部線は大邱 を起点とし、慶州を経由して浦項、そして浦項から2キロ離れた鶴山を終点とする、107.4キロの路線であった(『朝鮮鉄道四十年略史下 朝鮮鉄道沿線要覧全』景仁文化社, pp.323-327)。

◆浦項駅から、KTX開通後も首都ソウルへの直通急行

駅の中に入ってみると、広い待合室があり、そこでは10人ほどの人が列車を待っていた。入口を入ると、右側には“storyway”という日本のキオスクのような店舗が設置されている。左側には自動券売機と券売窓口が置かれ、乗客はそのどちらかで乗車券を購入できるようになっている。窓口の上部には、時刻表と料金表が掲示されている。

 

浦項駅を出発する列車は1日14本あり、1時間におよそ1本である。行先は、始発列車のみが釜山にある釜田、10本は東大邱、1本は順天、2本がソウルである。ちなみにソウル行きの2本の列車は「セマウル号」、その他は「ムグンファ号」という名称である。所要時間は、釜田までが約2時間50分、東大邱までは約1時間40分、ソウルまでは約5時間20分である。到着する列車も1日14本で、釜田から1本、順天から1本、東大邱から10本、ソウルから2本来る。釜山に向かうローカル列車は、市内のローカルターミナルである釜田駅止まりである。

料金は、ソウルまではセマウル号のファーストクラスで46,100ウォン、スタンダードクラスで40,100ウォンである。そして、東大邱まではセマウル号のファーストクラスで13,100ウォン、スタンダードクラスで9,600ウォン、ムグンファ号の場合はスタンダードクラスのみの料金が載せられ6,600ウォンである。釜田まではムグンファ号のみで行くことができ8,800ウォンである。

窓口の横にあった掲示板には、東大邱でKTXに乗り換えてソウルに向かう際の時刻表が載せられ、1日12本ある。セマウル号ではソウルまで5時間以上かかるのに対し、KTXを利用すれば約2時間で到着することができる。料金は、「セマウル号+KTX」で47,800ウォン、「ムグンファ号+KTX」で45,700ウォンと、セマウル号のみを利用した場合とそれほど変わらない。KTXを中心とした運行形態となっているが、日本のJRと異なり、KTXができても、ソウル行直通急行は全面廃止されず、旅客の選択肢を保障していることが分かる。

浦項駅のプラットホームは2つあり、線路は4本通っている。駅名が書かれた看板を見ると、隣駅は一方向しか書かれていない。現在は浦項駅が終点で、鶴山までの区間は廃止されたようだ。

私たちが観察していたとき、ちょうど列車が到着した。車両は白地に窓の周りがオレンジ、その上に青い線が引かれたデザインで、横には“KORAIL”と表記されている。列車の窓からクロスシートの車内がほんの少しだけ見えた。このとき駅舎内の時計は18:59で、時刻表からこの列車は東大邱を17:20に出発したものであるとわかる。定刻通りに運行しているようだ。

浦項駅からは1時間に1本しか列車が出ていないことから、鉄道は通勤には向いておらず、大都市に向かうときに利用するものなのであろう。権さんによれば、韓国人は通勤には主に自家用車か、バスを利用するとのことだ。釜山へも、高速バスは20〜30分に1本と列車よりも頻繁に出ており、バスを利用した方が便利である。

◆植民地時代の商業建築が残る、浦項駅前

1918年に発行された古地図を見ると、浦項駅がある場所の東側に、南北に道路が走り、建物密集地が示されている。そこに日本人が多く居住し、繁華街として発展したことを物語っている。現在でも線路と平行に道路が走り、駅前通りには商店が多く立地し、繁華街となっている。

現在の駅前の様子を見ると、浦項駅前広場から見て左側には、今でも日本の植民地時代の趣を残した建物があり、どの建物も1階部分と2階部分の境目と2階部分の上部に出っ張ったひさしが平行についたデザインとなっている。

手前にある建物は2階建ての白い外壁の家屋で、現在は駅前商店として利用されている。商店の上にはルーフバルコニーがあり、そこには植物が置かれていた。その隣の建物は、コンクリート造りの建物で、道路に面した部分だけレンガ状のタイルが貼られている。この建物の1階も、駅前商店として利用されている。 さらにその隣の建物は、戦前の日本の商業建築の特徴である「看板建築」となっている。これは、道路に面した部分から見ると威厳のあるビルに見えるが、その他の面から見るとただの民家である。いまも商店として利用されているようである。

  

看板建築の隣は、3つの建物がつながり、左と真ん中の建物は3階建てでバルコニーがついている。一番右側の建物は2階建てで、いずれもコンクリート造りである。外壁は左右の建物にはレンガ状のタイルが貼られ、真ん中の建物は白い外壁である。一番左側の建物は駅前商店として、真中と一番右側の建物の1階部分は一体となって飲食店として利用されている。そして、その隣に韓国のアウトドア用品KOLON SPORTの店舗が立地し、線路に平行な主要街道へと出る。

私たちが通った線路に平行な道路には、ペットショップや薬局、電器屋、さらには看板にマリオの絵が描かれたゲーム屋も立地していた。この道路では買回り品の商店も見られ、浦項の商業中心に含まれていることがうかがえた。


ホテルへ戻る

私たちは、本日の視察を終えて、ホテルへと戻った。すでに午後7時を過ぎ、もうすっかり暗くなった。北部海水浴場沿いに出ると、POSCOの製鉄所がすでにライトアップされていた。

私たちはホテルの上の階にあるレストランで夕食を取った。久しぶりにカツレツなどの洋風料理を食べ、デザートにはアイスをいただいた。

翌日は鬱陵島行の大亜高速海運フェリーに乗ることになっている。権さんに船酔いに効くという貼り薬を買っていただいた。船酔いに聞くツボである、耳の後ろにあるくぼみにその貼り薬を貼った。船酔い対策に安心して、眠りについた。

(齋藤俊幸)