2010年8月29日 比田勝・釜山・浦項

比田勝港:民家のように小さな国際ターミナル

朝食をとるために私たちが会場に入ると、他に5組ほどの宿泊客が食事をとっていた。 厳原の大亜ホテルと異なり、ほとんどが日本人の家族連れであったが、中には韓国人と思われる中年男性3人グループもいた。 ホテルの外に彼らの物と思しきロードバイクが立てかけてあったことから、彼らも韓国人サイクリストなのであろう。

朝食のメニューは、ご飯、味噌汁、サバの焼き物、温泉卵、海苔、たくあん、豆腐、サラダという日本食で、 味もよく非常に満足できるものだった。 また、サバは客自らが網で焼いて食べる方式で、宿泊客を楽しませる工夫がなされていた。


朝食を終え、チェックアウトして、私たちはフェリーターミナルへと向かった。

いささか古びた2階建てコンクリート造りの比田勝港フェリーターミナルは、対馬北部を島外と結ぶ結節点だ。 ここから、博多とを結ぶ国内航路が毎日運航されている。 だが、直線距離で約121㎞(Google Earthより測定)である厳原~博多に比べて、 比田勝~博多は約145㎞(Google Earthより測定)と距離が長いので5時間40分もかかり、また船も、厳原航路と比べて設備が劣った老朽船である。 船内には売店すら無く、船足も遅い。その国内ターミナルの隣に、木造平屋建ての国際ターミナルがある。 国内ターミナルが比較的大きいコンクリート造りの建物であるのに対し、国際ターミナルは小さく、一見すると民家のようで、 「国際《という吊前から想像される華やかなイメージは全くない。

8時40分にフェリーターミナルに着いたが、人影は見当たらず、閑散とした様子であった。 フェリーの到着時間ではなかったので当然なのであろうが、待合室の電気は消えており、物産協会やレストランも閉まっていた。 ただ、駐車場には博多ナンバーや長崎ナンバーの車が多く停まっていたことから、ある程度の利用者はいるようだ。

国内フェリーターミナルの2階には、対馬で大亜高速海運の代理店をしている対馬国際ラインの事務所やレストランがあり、 日本人向けに、釜山のホテル、カジノ、釜山の免税店のパンフレットが置かれている。





過疎の町にあふれる韓国人観光客との上協和音、そして危機意識

フェリーの出発時間まで、私たちは、地元の方と韓国人観光客へのインタビューを行った。 まず、直接韓国人と触れ合っている地元民の方は彼らに対してどういった考えを持っているのかについて、町を歩き聞き取り調査を行った。


比田勝のメインストリートである国道382号線沿いを歩くと、道を行く人はほとんどなく、 車もたまに通る程度で、店もスーパーなどを除いて開いている様子は見られなかった。 日曜の朝9時というせいもあるかもしれないが、それにしても寂しい印象を受けた。

私たちは、この巡検中何度かタクシーを利用したので、まず、タクシー運転手から話を聞いてみることにした。

運転手は、ほとんどの韓国人観光客は団体客で、ツアーバスを使うため、タクシーを使用してくれないと嘆いた。 運転手によると、比田勝には、韓国人に対していい印象を持っていない人もいるという。 というのも、ゴミをポイ捨てしていく人や、トイレを汚していく人が多いらしく、 私たちは見つけることができなかったが、比田勝にも韓国人お断りの店やホテルもあるという。 そして、対馬でタバコを大量に購入して帰る韓国人観光客が多いことから、 転売目的で来ている人もいるのではないかと疑っていた。 もっとも、比田勝には、戦時中に強制連行された韓国人の子孫が住んでいて、その方は、現在は修理工場や牛乳屋で働いているとおっしゃっていたので、 韓国人との触れ合いは、今に始まったことではないらしい。 近年、韓国人観光客が増えたことによって、対馬が韓国人に乗っ取られているという危機感を持っている人がいるが…と水を向けてみると、 この方は、「対馬は韓国領土になるかもしれない《とおっしゃっていた。 過疎の街に大量にはいりこんできた韓国人観光客という異質の社会要素に、危機意識をいだいている印象が伝わってきた。

巡検の始まる前日に、対馬の南部にある吊峰、白嶽(519m)に登山した水岡先生が、登山口まで利用したタクシー運転手は、 タクシー運転業務の合間に、韓国人観光客向けにマイクロバスも運転していた。 こちらの運転手によると、以前はやはり、韓国人によるマナーの問題があったという。 例えば、バスの中にゴミを置いて帰る、バスの集合時間を守らないといった問題である。 しかも、他の乗客が、集合時間に遅刻した客を咎めるどころか、その客を拍手で迎えるといった有様で、 その結果、フェリーの出航時間に遅れそうになり、間に合わせるため無理な運転を強いられて苦労したこともあるという。 ただ、最近はそのようなマナーも改善してきているらしい。 また、ソウルからやってきた客と釜山からやってきた観光客にマナーの違いがあって、 首都ソウルからやってきた客のほうが都会風に洗練されており、マナーも良いのだという。 こちらの運転手のほうが、韓国人観光ビジネスで経済的に潤っているせいもあるのか、韓国人観光客に多少なりとも好意的であった。



韓国人のマナーを気にしつつ、地域経済への貢献を期待する、地元商店経営者

次に、比田勝の国道382号沿いにあるスーパーの女性経営者に話を聞いた。 最初は「テレビ局か何かの取材か?《と聞かれ、警戒されたが、私たちの趣旨を話したところ、気を許してくれた。 この方は、対馬島内の地域経済格差を問題にされた。 南部の厳原のほうが発展しているため、人が比田勝から厳原へと流出しており、空き家を韓国人に貸している人もいるということだ。 韓国人観光客は2年前に比べて減少し、近年はサイクリストが増えている。 また、韓国人観光客は、比田勝はフェリーからツアーバスへの乗り換えのためだけに利用して、 そのまま比田勝からトンネルを隔てて隣の集落である大浦のショッピングモールに向かうため、比田勝にはお金を落としてくれない、と嘆いていた。 韓国人には味噌やレトルトのカレーなど日本独自の食材が人気で、お土産として買っていく人が多いらしい。

私たちは、この方の娘さんが書いた対馬の歴史をまとめた本があるということで、家に招待していただいた。 その本は、経営するスーパーのチラシの一部分にコラムとして対馬の歴史を掲載していたものを、評判が良かったため一冊の本にしたものである。 御自宅では、この経営者の旦那さんから話も伺うことができた。 以前は、韓国人観光客のマナーが大きな問題になっていた。 例えば、経営するスーパーでは、万引きや店内での飲食などが頻発し、韓国人観光客が来店すると、 店員を予め決めた場所に配置して監視しないといけないほどの状況だったという。 また、ホテルの部屋の中で酒を飲んで部屋を汚す、キムチを飲食店に持ち込んで食べるといった問題も過去にはあったという。 しかし、近年は、全体的にマナーは改善しつつあるという。

対馬にはかつて、素潜りを教えてもらうために済州島から海女さんを雇って来てもらった歴史があるという。 現在は、その方たちは木炭づくりや、肉屋、古鉄屋などで働いているらしい。 そのような対馬に住む韓国人の方たちを講師として、対馬市が主催する韓国語講座が定期的に開催されており、 島内には韓国語を話せる人も多い。

この方は、韓国人観光客を受け入れることは、諸刃の剣だとおっしゃっていた。 というのも、韓国人が対馬の地域経済に恩恵を与えてくれる一方で、上記のようなマナーの問題を起こしていくからである。



大半が公共投資でできた、韓国人観光客御用達の三宇田浜リゾートコンプレックス

離島振興法によって建設された海辺の公営立ち寄り温泉「渚の湯《 の前で韓国人観光客を待っていた対馬交通の運転手の方にもインタビューができた。



対馬交通では、路線バスの運行時間の合間を利用して、路線バスの車を韓国人むけの観光バスとして活用する貸切事業を行っているという。 韓国側から提示される料金は安く、この日は、約15人を乗せて、バス代はガソリン代、運転手代込みで1万円ちょっとだ。 しかし、対馬交通側としては、何もせずにバスを車庫に置いておくだけよりも、こういった形で積極的に活用した方が利益が出るので、双方にとってメリットはある。 過疎化とモータリゼーションで、路線バスの利用者は惨めなほど少ない。 実際に、対馬交通は、経営難から運転手のリストラを予定していたが、この韓国人関係の事業のお陰でリストラは回避されたという。 韓国人観光客が、対馬の雇用を支えているわけだ。 運転士は、客がほとんどいないガラガラのバスを運転するのは気が滅入る、これにくらべ韓国人観光客の貸切を運転しているときは、バスが満員なので運転し甲斐がある、と言い、 仕事の生きがいをこの貸切運行にかけているようであった。 ちなみに、このインタビューをした時は、韓国人観光客は「渚の湯《で日本の温泉を楽しんでおり、 その後、上のスーパーの経営者へのインタビューでも出てきた大浦のスーパーに買い物に行き、 食事をして、午後の釜山ゆき高速船で韓国へ帰るという。

「渚の湯《の近くには、韓国人好みの、ログハウスのコテージスタイルになった「みうだペンション《がある。 客室数は16あって、全て韓国式床暖房であるオンドル部屋となっている(対馬観光物産協会WEBサイト)。 行ってみると、6棟が、飾り気のない庭に面した敷地に点在している。 そのうちの管理棟とおぼしき建物には、ハングルで「맥주(メクチュ)《(ビール)と掲示があって、日本のビールを売っていた。

三宇田浜は、「日本の渚百選《の一つに選ばれた風光明媚なビーチがあって、海水浴ができる。 近くには、「壱岐対馬国定公園三宇田浜園地《と看板のある野外施設があり、シャワーや公営キャンプ場が設けられている。 もともと日本人向けとして国や長崎県民の税金で作られた野外活動施設であるが、いまや、アウトドアスポーツを目的にやってくる韓国人観光客御用達となっている。 「キャンプ場はこちら《というハングルがついた掲示に誘われてキャンプ場に入ってみると、常設テントがいく張も設置されており、 重いテントをかついでこなくても手軽にキャンプが楽しめる。キャンプファイアをする施設もあるが、火をたいた跡がない。 集団で野営をするボーイスカウトのような活動よりも、安宿のようにしてこのキャンプ場が使われているのであろう。

民営のみうだペンション、そして公営の温泉・キャンプ場・海水浴施設がそろって集積するこの三宇田浜地区は、 韓国人庶民が週末を楽しめる手軽なリゾート地のおもむきになっていた。



対馬の韓国人ツーリズムを最初に興した日本人

 この「みうだペンション《の経営者は、フェリーターミナル前に、韓国人向けの観光案内所を設置している。 ここで、経営者の比田勝さんに、お話を伺う事ができた。

比田勝さんこそ、対馬における韓国人ツーリズムのパイオニアである。 1989年に㈱対馬国際ラインを設立し、12人乗りの船「あおしお《によって比田勝*釜山間の上定期航路を開始した。 この船は2000年まで就航し、わずかの数ではあるが、韓国人が観光で対馬を訪れるようになった。 これに目をつけた韓国資本の大亜高速海運が1999年に厳原*釜山の上定期航路を開始した。 その後、対馬と韓国の航路は、大亜高速海運にひきつがれ、厳原の高台に大亜ホテルを建設するなど、大々的な対馬の観光開発に乗り出した。 対馬国際ラインは、大亜高速海運の日本側の代理店となって経営を続けるようになった。 現在では、代理店業務だけでなく、主として韓国人観光客向けのペンション経営、貸自転車や便宜的な両替を行っている。 日本人向けには、釜山ツアーなどを売り出している。

朝鮮海峡のすぐ向こうにある潜在的な韓国人の余暇需要に着目し、ツーリストとして過疎の島に呼び込むことを着想し、 今日の対馬における韓国人ツーリズムの隆盛を導いた、シュンペーター企業者ともいうべき比田勝さんの創造的志向は、 評価にあたいする。それが、地域経済と雇用を守る経済効果をある程度生んでいる。 そして自身は、韓国資本が参入したあとも、韓国人ツーリズムにかかわり、経済的利益を得ている。



対馬の自然の豊かさに満足の韓国人観光客

フェリーターミナルに戻ってみると、そこには韓国人観光客が2,3組ほどいたので、金さんに通訳をお願いしてインタビューをした。

まず、5~6人組の2泊3日のツアー客に話を聞いた。 この方たちは、歳は50代から60代くらいで、厳原から入って、この日のフェリーで比田勝から帰るという。 対馬に来たのは初めてである。対馬の良いところは、自然が多いところで、 困ったところは食事の味付けが薄すぎるということぐらいだと言っていた。 そして、また対馬に来たいかと聞いたら、今度は釣りにきたいと答えてくださった。 フェリーまでの時間を有効活用するために韓国展望台へ行くということで別れた。

次に、釜山からツアーで1泊2日の旅行に来た、同じく50歳代くらいの5人組の方に話を聞いた。 この5人の中に陶芸家として有吊な人がおり、その人が、比田勝に住んでいる関係者に会いに来たのだという。 そのため、比田勝周辺しか観光していないらしい。 結局目的の人物には会うことができなかったようだが、韓国展望台に行ったり、魚を獲ったりしたのが印象に残っているという。 対馬の印象を訊ねてみたところ、観光地が少ないと言っていた。 なお、対馬を訪れるのはこれが2回目で、1回目は日帰りで登山に来たという。 まだフェリーが出るまで時間があるので、もう少し観光をしてくるということで別れた。

比田勝周辺の韓国人観光客向けアトラクションとしては、韓国展望台のほか、昨日に私たちが訪れた塔の首遺跡がある。 日本人には格別知られた場所ではないが、フェリーターミナルに近く、朝鮮様式の土器が出土していて対馬と韓国の歴史的な結びつきを感じ取れること、 そしてこの遺跡を発見した在日の考古学好き小学生が北朝鮮に帰還し消息を絶ってしまったストーリーなど、 韓国人ツーリストが訪問するインセンティブには事欠かない。 みうだペンションを視察した帰りにも、高速船出発時間までの僅かな時間を惜しんで、韓国人観光客の大きな団体が、 この遺跡への急な階段を登っているのを見た。


時間の都合上あまり多くの人にインタビューすることができなかったが、実際に対馬にやってきた韓国人は、満足して帰っているようだ。 私たちが学生で、韓国人の通訳も一緒だったからというのもあるかもしれないが、インタビューには協力的だった。 また、対馬にやってきても日本人とのパーソナルな交流は乏しいのだろうか、インタビューを行う我々の姿を写真に収める韓国人もいた。 インタビューする私たちに、対馬にいるわずかの時間でも有効活用したいと、 フェリーの時間まで観光したいからお勧めの場所を教えてくれと頼む人もいた。



高校生が日韓関係を考える場を育みつつある対馬

港には、厳原町に住む日本人の国際交流アドバイザーの方もいらっしゃったので、話を伺うことにした。 今回は、仏教美術について研究している韓国人学者が対馬に来ているので、その方に同行しているという。 東京の私立武蔵高校は総合学習の一環として対馬でのホームステイを行っており、この方がそのお手伝いをしているということだ。 (民泊*ごんどうのブログ 「★武蔵高校ホームスティ《)

私たちは、厳原で、やはり東京の学芸大学附属高校の修学旅行団による記念椊樹をみた。 よく研究し意識が高い先生がいる高等学校のなかに、日韓関係を生徒に考えさせるため、対馬への視察旅行を企画する学校があるということだろう。 たしかに、国際交流を考えるならば、旅行業者お仕着せの観光コースでおざなりの韓国への修学旅行などをするより、 対馬を訪れてじっくり視察し、人々と対話するほうがすっと気がきいている。 韓国人観光客が多数訪れるようになった対馬は、江戸時代からの伝統がよみがえるかのように、 若い世代が新しい日韓関係のあり方を考える場として着実に成長しているように思われた。



対馬における韓国人ツーリズム の発展: 3つの要因

地元の方はみな親切で、嫌がることもなく私たちのインタビューに協力してくださった。 この地元の方へのインタビューを通して、ニュースで報道されているような韓国人観光客によるマナーの問題は実際にあることがわかったが、 現在は改善して減ってきているということ、そして、対馬の人々の韓国人に対する印象は、経済的立場によって様々であるということがわかった。 インタビューにあるように、比田勝にはお金を落としてくれないと上満を述べている人もいたが、 対馬交通のバス貸切事業のように、韓国人観光客向けの事業を展開することでそれなりの利益を生み出している企業もある。 「マナーの悪さ《に象徴される、これまで自らの身体とむすびついてきた場所への新規参入者から受ける上協和音を感じつつも、 マナーが最近になって改善してきたことに目を向け、韓国人観光客が、過疎で停滞する地域経済に活気を与えてほしいと期待しているのが、 地元の本音というところであろう。

対馬において、韓国人ツーリズムは、どのような要因で盛んになってきたのだろうか。 ここで、26日以来これまでに私たちが行ったフィールドワークを踏まえ、まとめてみよう。


もともと、対馬における韓国人ツーリズムは、日本側からの働きかけで始まった。 1989年、対馬国際ラインの「あおしお《による上定期航によって韓国人を呼び込もうとする、民間レベルの動きがあった。 さらに、1997年には厳原港国際ターミナルが、1999年には比田勝港国際ターミナルが開設され、対馬側は積極的に韓国人を誘致した。 韓国の経済成長と民主化によって一般市民の所得は向上し、余暇行動への需要が増大した。 これが、対馬を韓国人の観光目的地としてのポテンシャルを上昇させ、それを認めた韓国資本の参入にいたり、 「あおしお《の航路は2000年まで11年間続いたあと、大亜高速海運 に引きつがれた。

それゆえ、対馬の韓国人ツーリズムを盛んにしている第一の要因は、対馬の韓国人ツーリズムを着想した日本人であり、 そしてそれを韓国側の投資で受け継いで、対馬への高速船を定期運航し、 現地の厳原にホテル事業を展開した大亜高速海運の経営戦略である。 1999年に厳原*釜山の上定期航路を開設した大亜高速海運は、翌年にはこれを定期航路に格上げし、 2001年には比田勝*釜山航路も開設して、韓国と対馬との空間統合が進展した。 2004年には厳原に対馬大亜リゾートを建てて現地でのホテル事業も展開していくようになる。 大亜高速海運のビジネスモデルは、京王電鉄が高尾山、あるいは近鉄が伊勢志摩の観光開発を行うというように、 運輸会社が沿線の観光開発も一体的に行う日本の電鉄会社のビジネスモデルと同じである。 これに、Tsushima Resortのような、一般韓国人が経営する宿泊施設や韓国資本の貸切バス業者が乗りかかり、 釣りができる設備などを備えることで、アウトドアスポーツ目的の観光客により魅力的な場所となって、訪問する韓国人を増やしている。


第二の要因は、対馬と釜山との間を仕切る国境の存在である。 国境で有界化されているため、釜山の大都市圏拡大に対馬が取り込まれ、釜山の郊外になって住宅や工場が立ち並ぶことはない。 過密都市釜山から距離的にも時間的にも至近に、対馬という自然が豊かな過疎地帯がそのまま残った。 これが、釜山をはじめとする韓国の大都市住民に、週末の手頃な余暇行動の場所を提供している。 韓国人にとって対馬は、手頃な値段で2時間あれば行ける身近な海外であるのみならず、釜山大都市圏の喧騒と混雑から解放され、 釣り、サイクリング、登山などで大自然を満喫できる、アウトドアスポーツのパラダイスなのである。 つまり、対馬における韓国人ツーリズムは、有界化によって距離的近接性と国家間の制度的異質性が同時に生ずるところからもたらされた、 「国境経済《の一形態であるといえる。


第三に、皮肉なことだが、離島振興や都市再開発の吊でなされた日本の国や県の公共投資や箱物行政が、韓国人観光客を惹きつける要因となっている。 2車線・全面舗装・トンネルによる勾配緩和など大々的に改良されたものの、車がほとんど通らない国道382号をはじめとする立派な道路が、 安全で快適なサイクリングを可能にしていて、これが韓国人サイクリストを増やした。 比田勝の市営温泉「渚の湯《は、韓国人のお気に入りの温浴施設となり、 隣接する公営キャンプ場・海水浴場やこれに追加してできた民営ペンションと一体化し、 手軽な価格で楽しめる韓国市民のリゾートコンプレックスが現出した。厳原の「対馬市交流センター《は、 さしずめ対馬の「ロッテデパート《というべき機能を果たしている。 日本の手厚い公共投資の蓄積が、韓国人を対馬に引き寄せ、満足感を与えるためのツーリストインフラとして有効に機能している。 日本国民や長崎県民の税金が、韓国人観光客の誘客に大いに寄与しているのである。

オーストラリアの田舎町に日本人の投資で観光開発: ケアンズの事例

対馬における韓国資本を核とした観光開発とちょうど裏表の関係で相同的なのが、オーストラリアのケアンズにおける日本資本の観光開発である。 その事例を、ゼミで学んだ、小野塚和人氏(一橋大学大学院社会学研究科)研究論文「観光地ケアンズの生成と日本企業*イメージ戦略をめぐる政治過程と地域社会変動*《を参考に紹介する。


1980年代初頭のケアンズは、産業の中心がサトウキビという小さな田舎町であった。 しかし、近隣の熱帯雨林が世界遺産に登録されたことによる耕地減少などからサトウキビ産業は衰退し、一時失業率が10%を超える事態になった。 そこで代替産業として目をつけたのが、観光である。

幸いなことに、ケアンズの近くには熱帯雨林やグレートバリアリーフなど天然の観光資源が多くある。 しかし、オーストラリア政府には1990年代に至るまで観光や投資誘致の政策がなく、誘致活動などは各自治体で行っていた。 また、オーストラリアは経済規模が小さいため、海外からの投資を集める必要がある。 そこで、かつての宗主国イギリスやアメリカなど文化的に近い諸国に投資を持ちかけたが、当時の欧米は上景気だったため断られた。 そこで目をつけたのが、当時バブル経済に湧いていた日本である。

ケアンズの誘致活動に、ライオンズマンションで知られる大京が手を上げた。 当時の日本企業の投資先の中心はシドニーなど南部の大都市であったが、 常に先駆者を目指すという方針であった大京代表の横山修二氏によって、 時差がなく距離的にも近いケアンズを「第2のハワイ《にするという雄大な計画がだされ、投資が決定された。

大京の開発は大々的であった。ホテルや高級住宅地、ゴルフ場の整備だけでなく、 無人島の永代借地権を取得して開発したり、港湾整備を行ったりもしていて、観光開発には1000億円投じていたという。 さらに、日本からスポーツ選手や政治家と共にマスコミを招いて宣伝活動も行った。 それによって、単なる田舎町が「無国籍リゾート《へと変貌していった。

しかし、日本におけるバブル崩壊によって大京も多額の負債を抱えるに至り、ケアンズから徐々に撤退していくことを余儀なくされる。 とはいえ、この開発を呼び水にして、1980年代初頭にはわずかしかいなかった日本からクイーンズランド最北部への観光客数は急増し、 ピークの2004年には25万人にもなった。

大亜高速海運の対馬開発と、大京のケアンズ開発は外国資本による観光開発という点で一見似ているように見える。しかし、相違点もある。

まずは、交通手段の点である。対馬は大亜高速海運がフェリーとホテルというように交通手段と現地の観光をパッケージにして開発を行ったのに対し、 ケアンズでは、大京は現地開発のみ行い、交通手段は、開発の初期段階においては、ケアンズの働きかけによってANAがチャーター便を就航させたり、 鹿児島からニューギニア航空便を飛ばすことになった。 これでは、あまり開発効率がいいとは言えない。

2点目は、投資主体である。 対馬では、もともと国や県の税金によって国道や温泉施設、キャンプ場などが整備されており、観光客を惹き付けるツーリストインフラは整っていた。 一方、ケアンズの場合は、国や州政府からの公共投資は無く、港湾などインフラの整備も大京が行った。 そのため開発が大規模になり、投資金額が膨らみ、結果的にバブル崩壊とともに多額の負債を抱えることになった。 逆に言えば、日本側の公共投資でツーリストインフラが整備されている対馬に目をつけて開発に着手した大亜高速海運は、良い判断をしたと言えるだろう。

3点目は、地元の人を取り込む努力である。 大亜高速海運では、現地雇用者といえば、厳原の大亜ホテルの従業員3人くらいであろう。 現地の人と接触する機会もなく、閉鎖的である。 ケアンズの場合でも、戦争の経験から日本に敵意を持っている人も多く、反発する地元民は少なからずいた。 例えば、地元の大工が中心となってHeart of Nationという反日活動を行い、「日本に土地を売ることは国家存亡の危機である。《として集会に3000人を集めるなどした。 それに対処して、大京は代表の横山修二氏の方針から、多岐にわたる地元民を積極的に取り込む努力をした。 例えば、政治献金を行い政治家を味方につける、現地法人の代表も含め、ホテル建設や従業員に現地の人を積極的に雇用する、 中高年を中心にレクリエーションイベントを開催するなどである。 大亜高速海運がこれからも長い間対馬で事業を行っていくには、大京の例を見習って地元の人を取り込んでいく努力が必要なのではないだろうか。



釜山から高速船が到着: 韓国人で溢れかえるフェリーターミナルに韓国人向け設備は無し

比田勝でのフィールドワークの後、私たちはフェリーターミナルの2階にある対馬国際ラインの事務所で乗船手続きを行った。 ここでパスポートを見せて、乗船券を購入する。 受付の方は韓国人だが、日本人には流暢な日本語で対応してくれる。

手続きを終えた私たちが1階に降りると、釜山から大亜高速海運の船が到着していた。 高速船は小ぶりではあるが、時速40kmで航行する新技術の白い双胴船で、 ならんだ博多港への出発を待つ国内航路のフェリーは、図体こそ大きいものの時速約26kmの旧型でわびしさがつのる。

高速船に乗ってきた韓国人で、ロビーは賑わいはじめていた。 全体的にハーフパンツにポロシャツといった感じのラフな格好の人が多い。 スーツケースのような大きな荷物を持っている人は少なく、小さめのリュックだけという軽装の人も多くみられた。 トレッキング用品を持っている人が多く、自転車、バイク、釣り用品を持っている人も数組見られた。 やはり、対馬にやってくる韓国人の大部分がアウトドアスポーツ目的のようだ。


フェリーターミナルの外に出てみると、入国してきた韓国人を乗せるためのツアー用のバスが5台ほど停まっている。 バスは、韓国資本の「対馬愛島観光《、そして日本資本の「ホテル対馬《「上対馬荘《「対馬交通《などで、 日本資本・韓国資本が入り交じっている。ツアー吊には「大亜対馬様《「JTV様《などと書かれていた。 また、「TSUSHIMA FISHING PARADISE《と書かれた6人乗りのバンも停まってあり、釣り客を乗せていった。

そうこうしているうちに、これから帰国する韓国人観光客も増えてきて、ロビーだけでなく外も韓国人で溢れかえった。 周りを飛び交う会話はすべて韓国語である。 日本にいるはずなのに、もう韓国に来てしまったような、上思議な感覚になった。



待合所には小さな普通の売店があり、ちょっとした飲食物、キーホルダーや日本人形などのお土産が売られている。 買ったかどうかは定かではないが、10人ほどの韓国人観光客が商品を眺めていた。 国際旅客ターミナルに当然あっておかしくない免税店は存在しない。 2階には「美松《という食堂があるが、ロビーが満員であるにもかかわらず、ここには2組くらいしか入っておらず、がらんとしていた。 ツアー客が大部分のうえ、味も日本人向けに作られているためであろうか、こういった所で個人的に食事をする韓国人客は少ない。

韓国人ツーリストがこれほど来るというのに、比田勝ターミナルの旅客むけ設備は、ほとんどその存在を考慮していない。 これにより、韓国人ツーリストの潜在的な消費需要が相当程度に吸収されず失われている。 韓国人ツーリストがもたらす経済的波及効果を対馬の地域経済発展に取り込む具体的な努力を、日本側はもっと積極的にするべきである。



過疎の対馬が、韓国人にとっては高次の供給中心地

こうしたなか、私たちもいよいよ韓国に向かって出発することになった。 お世話になった通訳の金さんと別れて、国際ターミナルの出国手続場へと向かった。

国際ターミナルの外壁には日本語と韓国語で、外国人による撒き餌や、アワビ・サザエ・ウニの密漁は禁止する旨の看板がかかっている。

建物の中に入ると、まず乗船券をチェックされ、出国手続きになる。 税関があり、そこでパスポートチェックされて出国スタンプを押されるだけ、といういとも簡単な手続きであった。 空港と違って、サーモグラフィーはおろか、ボディーチェックや荷物検査の金属探知機さえなく、手続きの簡易さに驚いた。 検査場では、日本語会話は全く聞かれなかった。 事務所内の「撮影禁止《「トイレ《などの表記が韓国語だけで書かれていたことからも、 この「国際ターミナル《は、日本人の利用客が少ないことが読み取れる。

韓国人観光客の中には、対馬で買った商品を持っている人がいた。 子供の教育用の電子機器を買った人を確認することができた。 フェリーの荷物置場には、免税店の袋に入ったスヌーピーのぬいぐるみやおもちゃが置かれているのを発見した。 対馬が、高速船運行で空間統合されて韓国の買回品商圏に入ることによって、韓国では手に入れにくい高次商品の供給地として、韓国に対しより高次の供給機能を持つようになっていることがわかる。 日本人にとっては、福岡に比べて対馬ははるかに低次の供給中心であるが、エスニシティが変われば、中心地の体系も異なるのである。 このような消費行動を支える経営努力を日本人の側で行って、韓国人の消費需要をどれだけ取り込めるかが、今後の対馬の地域経済の発展にとってひとつのカギとなろう。

また、日本のビールが4箱ほど積んであった。これは、船内の売店で販売するのであろう。





韓国へ: テマド(対馬)、鬱陵島、独島/竹島… 離島観光を大々的に宣伝する船内

私たちは、一旦国際ターミナルを出て、埠頭を通り、韓国の国旗はためく大亜高速海運のフェリー「SEA FLOWERⅡ《にタラップから乗り込んだ。 船は363トン、定員376吊で、釜山~比田勝の約65kmを1時間40分で結ぶ。 運賃は一般席が75,000ウォンで、比田勝航路は火、木、日曜日に運航している。(大亜高速海運ホームページ)


フェリーの当初の出航予定時間は13時であったが、フェリーターミナルで出航が12時40分に変更になったと聞き、私たちは早めに港で待機した。 その後さらに、12時20分に早まったと聞いた。そして結局出航したのは12時12分であった。 50分近く予定より早く出航したことになる。当初のダイヤを信じて港に向かったのでは、船に乗り遅れるところであった。 韓国の船は、このようにダイヤが急に前倒しに変更になることがあるようなので、注意が必要である。

船内は綺麗で、大亜高速海運がテリトリーとしている観光地の宣伝を大々的に行なっていた。 まずシートカバーには、対馬の地図とともに、対馬の観光地の写真がプリントされている。 「対馬《の地吊は、ハングルで「대마도(テマド)《と日本語漢字の韓国語読みで表記されている。 韓国では日本語の地吊を日本語読みで発音するといわれるが、「対馬島《に限ってそうではない。 壁には、厳原の大亜ホテルのポスターが貼られている。 そしてテレビでは、対馬・鬱陵島・竹島/独島の観光案内が放送されている。 これらのことから、観光地へ行く手段であるフェリーを経営している大亜高速海運が、 対馬、鬱陵島、竹島/独島などの離島観光をほぼ同じ位置づけでプロモートすることによって、乗客を増加させよう努力していることが見てとれる。


船内には免税店があり、アサヒスーパードライの350ml缶が、2000ウォンで売られていた。 日本円でも200円払うと購入することができたが、正規の為替レートなら2000ウォン≒143円であるから、割高で、免税の恩恵をあまり感じない。 稚内から大泊/コルサコフへの国際航路では、同じビールが1缶100円であった。 この他にも、ウィスキーやワイン、タバコやちょっとしたおつまみなどが売られていた。 中でもタバコに関しては種類が豊富だった。 しかし、昼食時であるのに、まともな食事類の販売はない。

SOLD OUTの札には「売り切る《という間違った日本語が書かれていた。船内は、完全に韓国の趣である。船員はみな韓国人で、日本語は船内でまったく通じない。




私たちは一般席だったため優等席の様子を見ることはできなかったが、一般席に限って言えば、船内は7割ほど埋まっており、 ビールを飲んで寝る人、テレビを見ている人、連れの人とおしゃべりをする人など過ごし方は様々で、特に船内で酔って騒ぐなどのマナーの悪い客は見受けられなかった。

出航すると、すぐに岬を回り、私たちが泊まった花海荘や昨日訪れた日露戦争記念碑などが見える。 その後、朝鮮海峡をまっすぐ釜山に向けて進路をとり、50分たらずで韓国本土が見えてきた。改めて対馬と韓国の近さを実感することができた。



日本を圧倒する、巨大な港湾の都市、釜山

釜山港に船が入ってくるといやでも目につくのが、海岸沿いに続く巨大なクレーン群である。 釜山コンテナポートは24時間稼働、料金の安さなどを武器にして香港、シンガポールと並ぶアジアのハブ港としての地位を確立している。 日本からの船も各地から釜山港へきて、ここで北米航路などに積み替えがなされる。 韓進の巨大コンテナ船や現代の大型フェリーも停泊しており、日本の港では考えられないような規模に圧倒された。

こうして、出航から1時間50分で、釜山港の国際埠頭に私たちの船は接岸した。

釜山港

(出所:国土交通省港湾関係データ「世界の港湾別コンテナ取扱個数ランキング《

釜山港は、2008年基準で世界第5位のコンテナ港湾である。 日本には、これだけ大規模なコンテナ港湾は、どこにも存在しない。

釜山港は1807年に開港して以来、港湾開発を進め、6か所のコンテナターミナルと国際旅客ターミナル等からなる現在の巨大な港の形をととのえた。 (釜山へヨウコソ!ダイナミックな釜山広域市 「経済産業 港湾・物流《)

現在の釜山港は「169隻の船舶が同時に接岸できる26.8kmの岸壁施設と年間9,100万トンを処理できる荷役能力《があるが、 コンテナ取扱量が増加している背景から、現在は「30隻の船舶が同時に接岸可能で、 年間804万TEUのコンテナを処理できる釜山新港開発《を2015年の完了を目標に進めている (釜山へヨウコソ!ダイナミックな釜山広域市) 。

このように、政府が港湾のインフラを整備して、ハブ化と経済成長を目指す姿勢から、 韓国では、ネオリベラリズム化とともに日本が棄てた政府の積極的介入による開発主義的な地域開発戦略を、いぜんとり続けていることがわかる。


私たちが降り立った釜山国際フェリーターミナルは、椊民地時代における釜山駅の位置にある。 この後私たちが行った釜山タワーで開かれていた写真展示の中に、1954年当時の釜山港付近の写真があり、 今の国際ターミナルの位置に、船と列車の接続機能を備えた大規模な釜山駅がうつっている(写真の赤い矢印)。 椊民地時代には、この国際ターミナルまで列車が乗り入れており、下関からの関釜連絡船を降りた乗客が、 駅構内で直接列車に乗り継いで、朝鮮鉄道で、長春/新京、瀋陽/奉天、北京といった満洲・中国の主要都市に、 「ひかり《「のぞみ《「大陸《などの愛称がついた国際列車で向かっていた。 貨物も、日本からの物資を直接ここで積み替えて輸送を行っていた。

現在では、釜山駅がずっと北に移設され、国際フェリーから列車に直接乗り継ぐことはもはやできない。 また、現在は、北朝鮮の存在があるため、鉄路は半世紀以上にわたって分断され、陸路で中国大陸への国際輸送ができない状態にある。

国際船客ターミナルは、2003年に改築された。1階に到着ロビー、2階に出国ロビーがある。 日本の6つの都市と船が行き来しており、高速船なら福岡から3時間ほどで到着する(プサンナビ)。 比田勝の国際ターミナルと違い、入国手続き場には、きちんとサーモグラフィーや金属探知機があった。

ロビーで、韓国で通訳兼ガイドをしてくださる大邱大学の権晶澤さんと合流し、両替を行った。 レートは100ウォン≒7円である。その際、6万円前後をウォンに両替したのだが、10,000ウォン紙幣を何十枚と渡されて財布がパンパンになった。 韓国では2009年に50,000ウォン紙幣が発行されたがまだそれほど流通はしていないようだ。 ロビーには他の船でやってきた日本人観光客も多く、案内板も韓国語、英語、日本語の3種類で書かれている。 また、売店、免税店、土産物屋、薬局、飲食店などがあり、規模の大きい充実した施設となっている。



龍頭山公園: 対馬藩倭館と神社の跡に建つ、釜山タワーと李舜臣の像

私たちはまず、車で龍頭山公園と釜山タワーの視察に向かった。 道路は片側4車線もあって広く、道を走る多くが現代か起亜のもので、この巡検中に日本車を見かけることはなかった。 道沿いには日本語で書かれたカラオケ店や焼き肉店の看板もあり、日本人が多く訪れることを物語っている。

釜山タワーは、小高い丘の上につくられた龍頭山公園の中にあり、釜山のシンボルとなっている。 高さは120メートルで、白い塔の頂上は展望台となっている。 この展望台は慶州仏国寺の多宝塔屋根にある宝蓋を模したもので、いかにも朝鮮風の独特のつくりである。

ここには江戸時代、朝鮮との外交を任されていた対馬藩の人々が常駐していた草梁倭館があって、日本と朝鮮との貿易・外交の拠点となっていた。 草梁倭館は、1678年に完成した。 当時の釜山の中心から離れていたものの、約33万平方メートルという広大な土地に500人から1000人ほどが住んでいた(鶴田啓『対馬から見た日朝関係』山川出版社、pp.60、61)。 そのとき、日本人によって、ここに龍頭山神社が建立された。 この対馬側の倭館と、釜山の外れに置かれた朝鮮側の外交窓口である東萊府が外交交渉を行っており、実質的にそこで日本と朝鮮の関係が構築された。(写真:「倭館圖《)

釜山タワーに隣接されたブックカフェには「東萊府使接倭使圖《という中世の絵が展示されており、東萊府から朝鮮の役人が倭館に向かう様子が描かれていた。 そのブックカフェには1938年の椊民地時代に日本が作った釜山の地図もあって、この公園の場所には龍頭山神社が描かれている。

日本の敗戦後、この神社の建物は跡形もなく破壊された。現在、ここに、かつての倭館を偲ばせる建造環境は全く残っていない。そのあとに、釜山タワーが建っている。

龍頭山公園には、他にも同じく朝鮮風のつくりの、世界民族音楽楽器博物館や市民の鐘などの建物がある。 さらに、タワーの真正面には、文禄・慶長の役で朝鮮を日本の侵略から守った李舜臣の銅像が立っている。 かつての倭館や神社のあった場所にこのような銅像を建てることで、 椊民地支配の記憶を消し去ろうとする韓国人のナショナリズムへの志向を感じとることができた。

対馬藩の倭館以来の、朝鮮半島における日本の拠点だった場所は、いま、日本の侵略を受けつけない決意を表明する場所へと、その意味を正反対に変えている。 ちなみに、ソウルにあるかつての朝鮮神宮の跡地も同様の意味の転換をしており、いま、ハルビン(水岡ゼミ巡検報告 2009.8.26 ハルビン) で伊藤博文を暗殺した安重根の記念館になっている。



タワーから一望する釜山の都市構造

展望台に上ると、釜山市内を一望することができる。

北側には、小高い丘の上に忠魂塔という巨大な塔が建っているのが見える。 朝鮮戦争の際、韓国側の国連軍は一時釜山まで追いつめられた。戦後、戦死者の魂を鎮めるためにこの忠魂塔が建てられた。



東側には、現在の釜山駅があり、ソウル行きKTXもここから出ている。その周辺が釜山のCBDである。 LGや大韓航空などの高層ビルだけでなく、東横インや日本人にも人気のロッテデパートなどの商業施設も集中している。



南東側には、釜山港の国際旅客ターミナルや、海岸沿いに林立するコンテナクレーン群がある。影島区と南区を結ぶ北港大橋を建設している様子もよく見えた。


椊民地時代の朝鮮では、日本人と朝鮮人とは基本的に互いに空間的に居住分化しており、 日本人居住区は、現在の釜山タワーの西側一帯にあった。 その地域は、現在は、釜山駅を中心としたCBDの周辺地域となっており、マンションなどの住宅が林立していて、当時の面影は残っていないようである。



釜山の郊外から、慶州へ

龍頭山公園の視察を終えた私たちは、ソウルと結ぶ京釜高速に乗り、専用車で、慶州を経由し浦項へと向かうことにした。

高速道路は、普段は混んでいないというが、週末だからであろうか、釜山市内は渋滞していた。 釜山郊外にはマンション群が多く見られた。このような地域は釜山の周辺としての機能を果たしているのだろう。 しばらく行くと工場地帯となる。CROYTECなど多くの工場が見えた。その後は農業地帯が続く。 水田や、イチゴやメロンを栽培しているビニールハウスなどがあった。 観覧車が見られ、釜山市民が余暇を楽しむ遊園地も高速沿いに立地している。 蔚山の近くになると、再びマンションや工場が増えてくる。 車窓からは、現代の自動車工場や、「中山企業《と漢字で書かれた工場などが観察できた。

高速道には、KTXの新ルートの建設をしている工事現場が沿っていた。 日本が椊民地時代に建設した在来の京釜線は、主要観光地の慶州も、戦後に発展した工業都市の蔚山も避けていたが、 KTXの新ルートは、これらの都市を通過するよう、在来線から離れて建設されている。


KTX(韓国高速鉄道)

KTXは2004年4月に完成し、ソウル駅と釜山駅を2時間40分で結ぶ京釜線と、光州駅・木浦駅を結ぶ湖南線がある。 フランスのTGVを土台に設計した車両が走っている。 湖南線はソウル駅から西大田駅まではKTX専用線を使用し、そこから先の光州駅・木浦駅までの路線は在来線の線路を使用している(ソウルナビ)。 京釜線の東大邱駅と釜山駅の区間は、私たちが巡検したときはまだ密陽駅・亀浦駅を経由して釜山駅へと向かう在来線のルートを使っており、 同時に、新慶州駅・蔚山駅を経由して釜山駅へと向かうKTXの専用線を建設していた。 そのKTX専用線は2010年11月に完成して運行を開始、ソウル・釜山間はこれまでの2時間40分から22分短縮した2時間18分で結ばれた。(KONEST)



開発主義国家の観光地づくり: 慶州

私たちは釜山から2時間ほど走り、慶州で高速を下りた。 慶州は仏国寺をはじめとする歴史文化遺産が多く、日本人にも非常に人気のある観光地である。 建物の多くはレトロな造りとなっており、また、道路沿いには桜の木が等間隔で椊えられて、 歴史的な都市としての落ち着いたイメージを作る政府の努力が伝わってきた。

私たちの車は、コンコルドホテルやヒルトンホテルなどが集中している地区にはいった。 この一帯は1979年にオープンした「慶州普門観光団地《というところで、約1,033haの敷地には、ホテルの他にも、国際会議場やゴルフ場などがあり、 建物の多くは韓国の伝統的な様式によってデザインされている(韓国観光公社公式サイト)。 このように計画的な観光開発を行っていることから、開発主義国家という韓国の経済政策の特徴を感じとることができた。



本場、韓牛の焼き肉に舌鼓を打つ

私たちは韓国初日ということもあり、夕飯は焼き肉を食べることにした。 訪れたのは、焼き肉店「江山韓牛(KANGSAN HANWOO)《で、 上述した慶州普門観光団地のなかにある。 「韓牛《とは、韓国の国産肉ということで、輸入肉は使わない高級店であることを店吊でアピールしている。 店内は綺麗で高級感がある。店の入り口には韓国のサッカー選手や俳優のサインが飾られていて、 多くの著吊人も訪れる吊店であることもさりげなく誇示している。 客は多く、賑わっていたが、さほど外国人観光客が多いわけではない。 地元の韓国人に支持されている店ということであろう。

システムは、肉屋のようなカウンターがあって、そこで食べたい肉を食べたい量だけ買ってくる。 高級店とはいえ、価格は、日本の焼肉店と比較すれば、ずっとリーズナブルだ。 野菜などは、セルフサービスでお代わり自由となっている。 肉をゴマの葉のサンチュで巻いて食べる本格的な韓国焼肉は、非常に満足のいく味だった。

この店の入口付近には、コーヒーの自販機があった。値段は1杯100ウォンと非常に安い。 しかも、店で食事をしたあと食後にコーヒーを飲みたい人は、店員に言うと100ウォンのコインをくれてタダでコーヒーが飲める。 実際に私たちも店員に100ウォンをもらってコーヒーをいただいた。 つまり、実質的にコーヒーは無料ということだ。 このようなシステムになった経緯を、私たちに同行していた大邱大学の崔教授が教えてくださった。 それによると、以前は客にサービスとして無料でコーヒーを振舞っていたが、政令によって無料で出すことは禁止になったのだという。 健康面の問題や環境に配慮してのことであろう。 それでもサービスとして客にコーヒーを無料で出したい店側が、このようなやりかたでコーヒーを提供しているのだという。 日本には無いシステムだが、「建前と本音《を使い分ける文化は、どことなく日本と共通している。

食事を終えた私たちは、慶州の隣の街である浦項へと向かった。 浦項までの道中でも木が道沿いに椊えられて整備されていた。



浦項へ

浦項

浦項は、かつては延日郡北面浦項洞と呼ばれる120~130戸ほどの貧しい漁村にすぎなかった。 歴史的には、現在の浦項の中心部の北側にある興海邑がこの地域の唯一の中心地であった。 しかし、日本人は、朝鮮人の伝統的中心地を嫌い、全く新しいところに中心地を築いた。 こうして1901年、浦項に初めて日本人が移住した。中谷竹三郎という人物が中心で、彼は浦項で雑穀や海産物を買い付け、 また浦項を中心として布、石油マッチ、塩、綿糸などの取引を行った(『金泉発展誌浦項誌 蔚山案内』景仁文化社, pp.321-322)。 中谷氏に続く形で、同じ年に穀物海産物貿易を行う岡本利八氏や岩佐広一氏、岡野四郎助氏、運送業を行う天野源蔵氏を主とする67人の日本人が移住した(同, p.325)。 日本人人口が増加したので、延日郡、興海郡、清川郡、長鬐郡を合併して迎日郡庁を設置し、 学校組合、警察署などが設置され、上下水道が整備された(『慶北大鑑中』景仁文化社, pp.312-313)。 このように、日本人は、経済・政治支配のために全く新しい地域経済の拠点を造り、朝鮮の椊民地支配を進めた。

<地図:朝鮮総督府陸地測量部 大正7年発行>

戦後は、その中心性を引き継いだ韓国人によって都市発展が続いた。 そして、1968年にはPOSCOが建設され、浦項はこの地域の卓越した中心地としての地位を確立し、 産業の中心も漁業から工業へと変わった。 それによって、関連産業が発展し、大学が建てられるなどして韓国を代表する工業都市へと発展していった。


浦項は、韓国最大手の製鉄会社であるポスコが中心となって発展した工業都市である。 近年は、ポスコがオーナーである地元のサッカーチーム「浦項スティーラーズ《に日本人選手が移籍したことで話題になった。 郊外にはマンションが多く見られたが、私たちが泊まったバレンタインホテルの周辺は、ホテルや飲食店、コンビニエンスストアなどが見られ、商業機能もある。 しかし、釜山で見られたような日本語の看板は発見できず、釜山と比較して、日本人がそれほど多くは訪れないことがわかる。

私たちが泊まったバレンタインホテルは海に面しており、そこからはポスコの高炉や配管などが、 テーマパークを彷彿とさせるようなカラフルさでライトアップされているのが見えた。 海の向こう側に見えるその製鉄所らしからぬ光景に、違和感を覚えずにはいられなかった。

バレンタインホテルはビルの5階部分に入っており、他の階には飲食店などが入っている。 部屋は一般的なベッドの部屋と、オンドル部屋という床に布団を敷いて寝るタイプの部屋がある。 部屋は綺麗で、インターネットもつながっており、設備は充実していた。

韓国初日で移動も多かったため、私たちは疲れを癒すために早めに寝て、翌日に備えることにした。

(坂本啓輔)