2009年9月3日 葛根廟

葛根廟事件:満洲国の最期に
ソ連が虐殺した千数百名の日本人

帰国も近い巡検17日目の朝は、満洲西部、内蒙古自治区のウランホトで迎えた。この日も、雲一つない青空である。朝食は各自、ホテルのバイキング形式のレストランで済ます。これまで巡検中に食べてきた中華料理に加え、ナンなどの蒙古料理を見ることができた。客はわれわれの他に2、3組しか見受けられなかったが、これは夏休み明けの平日だからであろう。一行は、残り少ない中国での食事を存分に味わった。

私たちがウランホトという、満洲の中でもかなり内陸に位置する地方都市を訪れることになった理由は、今年度巡検の最大テーマである日本とソ連・ロシアとのフロンティア争いにかかわっている。大慶での油田探査失敗が一因となってもたらされた日本の開戦とひきつづく敗戦により、満洲における日露・日ソのフロンティア争いは、ソ連の全面勝利で終止符が打たれた。この終末を決定的に示す虐殺事件が、ここウランホト(当時・興安)近郊の葛根廟という小さな町で起こったのである。


葛根廟事件

巡検前に私たちは、この虐殺を生き延びた大櫛戊辰著『蒼空と草原 殺戮の草原 葛根廟巡礼記』(以下、『葛根廟巡礼記』)という文献に触れ、この事件について集中的に取り組んだ。

日本が無条件降伏した前日の8月14日、日本から遠く離れた葛根廟という小さな村で、満洲国の歴史の中で最も凄惨な事件の一つが起こった。当時、興安/ウランホトに居住していた日本人が、ソ連の空襲に遭って火の海となった興安を脱出し、鉄道で新京/長春方面に避難しようと葛根廟駅へと向かう際に、満洲に侵攻してきたソ連の地上軍により千数百名の日本人が惨殺されたのである。犠牲者のほとんどが、非武装で無力の老人か女性・子供だった。この虐殺は「葛根廟事件」と呼ばれ、ソ連軍の残虐さを示す事例として、歴史にしばしば登場する。 『葛根廟巡礼記』の著者である大櫛は、このとき興安電報電話局に勤めており、興安/ウランホトから葛根廟へ向かう避難民の内の1人であった。大櫛氏はソ連軍の急襲から何とか逃れたものの、飢餓・疲労との苦しみの中の末に、数日後にソ連兵に捕まり、収容所へと入れられた。故郷の福岡・糸島に帰ったのが、1947年8月14日だったという。(大櫛1996 pp.102-109)


本日の巡検は、実際に日本人が逃避行した順路を辿り、ソ連軍によって日本人が虐殺された地に赴くことで、葛根廟事件の追体験をしようというものである。その中で、大櫛戊辰『蒼空と草原 殺戮の草原 葛根廟巡礼記』(崙書房 1996)にも記述のある、当時のソ連軍戦車の攻撃から逃れるために日本人が身を潜めたものの発見され、惨殺の修羅場となった「壕」の現場を探すことも、重大な目的の一つである。

本日の巡検は、『葛根廟巡礼記』に負うところが極めて大きく、随所で引用・抜粋を行う。


興安

興安とは、ウランホトの満洲国時代の名称である。古くは、王爺廟と言い、大興安嶺と平原、河川に囲まれた小さな村であった。1932年に満洲国が成立すると、ソ連の覇権下にある外モンゴルに近い国防上の要衝となり、軍事都市として急速に発展した。

日本敗戦時の段階で、興安の人口は4万人に膨れ上がり、在住邦人も3000人を超えていた。在住邦人の内訳は、関東軍、電気・鉄道などインフラに従事する人々、そして満蒙開拓団としてやってきた多数の農民であった。(大櫛 1996 p.27)

現在、ウランホトと名前をかえた興安は内蒙古自治区に属しており、蒙古人の土地への玄関口にあたっている。


まだまだ発展中の地方都市、ウランホト

本日はたくさん歩くので、ホテル近くの商店にて飲み物と軽食を買ってから、私たちはホテルを車で後にした。 雲一つない快晴であるが、乾燥のせいか、朝は涼しげでTシャツ一枚では寒気がするくらいだ。この日のガイド氏は昨日と同じく、馬氏である。

目的地へと向かう道中、ウランホト市内の様子を車内から観察した。ウランホトの街は、これまで視察してきた他の満洲の街と同じく、幅員の広い街路網と比較的新しい社会主義住宅が特徴的であり、近年になって再開発が進んでいるようである。現在、建設中の高層マンションも確認できた。表通りには、社会主義住宅の1階部分に小さな商店が軒を連ねている。また、ここでも、中国の牛肉麺チェーンの「加州牛肉面」を見ることができた。

それでも、内蒙古自治区に属するだけあって、公共施設にはいかにも蒙古を連想させるような建築様式が採用されている。特にウランホト人民政府がその典型で、あたかもゲル(モンゴル人のテント式住居)のような、ドーム型の屋根を頭に乗せている。 ウランホトのバスターミナルも、これまで満洲の他都市で見てきた建物とは異なる、蒙古様式が採用されていた。公共施設に蒙古様式が採用されている背景には、共産党が少数民族の文化を尊重していることをアピールする融和政策が背景にあってのことだろう。

市内には、他の都市に比べ、狗肉レストランが多いように感じた。戦前に満洲に送られてきた開拓団の中には朝鮮からのものもあったらしく、ウランホトにきた朝鮮の人々はここに定住したので、現在でも朝鮮族が多少いるらしい。(朝鮮族ネット「朝鮮族の農村を訪ねて」

市街地を抜けると、現在、舗装工事中の道路や、新築の住宅などが多く見受けられる。ウランホトの町はまだまだ外に向けた拡大の途上にある。

しばらく行くと、あたりは畑一面になる。このあたりでは、トウモロコシや向日葵、米の栽培を観察できた。中国乳製品大手の蒙牛乳業や製粉工場など、農産加工関連で原料地立地の大工場も見える。 ウランホト駅近辺に糧油工場が数軒立地していたことからも、生産されたトウモロコシやヒマワリの一部は、植物油に加工されているのであろう。

 途中で、私たちを乗せたバスは、国道302号線に入った。さすがに幹線道路とあって、ここまでの道路とはうって変わって、きれいにアスファルトで舗装されている。国道沿いには、防砂林が植えられている。葉の様子や幹の細さからすると、最近になって植えられたものらしい。

満洲に対する一般的なイメージとして、地平線まで続く広大な大地といったことがよく言われる。しかし、ここウランホトは、その満洲の一般的なイメージとはややかけ離れた丘陵地、丘の多い地形である。

丘にはほとんど樹木が生えておらず、丘の上に至るまで草原か、あるいは農地が広がっている。遠くの方には、切り立った山も見られ、しばしば広範囲にわたって土が削り取られているのが確認できる。採取された土は市内の土木工事にでも利用されているのだろう。

国道からやや離れたあたりに集落が点在しているが、規模は極めて小さい。集落の周囲は幾重にも重なった壁に囲まれている。ガイド氏によれば、この壁は防御目的ではなく、防砂目的なのだという。防砂林といい、防砂壁といい、この地域は砂被害の多い地域なのだ。


「壕」を求めて、避難民の追体験を開始

出所:大日本帝国陸地測量部
昭和8年測量
10万分の1地図

午前9時、私たちはバスを降り、「浅野軍団」と呼ばれた日本人避難民の一団が実際に歩いた道を辿りながら、「壕」を求めて歩き始めた。

現在バスが走る2車線の国道は、かつて日本が建設した白城にむかう街道からやや離れたところを、かつての街道にほぼ平行する形で、戦後、中国によって建設された。そのため、国道から進行方向右側に、すぐさま旧街道の跡を発見することができた。 現在でも、農道として利用されているらしく、凹凸が激しいながら、雑草が生い茂った土砂道にタイヤの跡を確認できる。私たちはその旧街道に沿って、追体験を開始した。

 しばらく歩いたところで、私たちが歩くこの道が旧街道であることを確証づける2つの証拠に出会った。1つは、アスファルトの跡である。もうほとんどが剥がれてしまっているが、部分的に旧街道の各所に残っており、旧街道がかつてはアスファルトで舗装された道であったことが確認される。 もう1つは、旧街道の両側に、街路樹が現在でも部分的に残っていることである。この2つの証拠から、この旧街道は、道の両側に街路樹が整備された、幅員10〜15mのアスファルトで舗装された街道であり、満州国時代には主要な街道として機能していたことがわかる。

 午前10時を回った。もう9月だというのに真夏のように照りつける日差しの中を、私たちは「壕」を求めて、ひたすら歩き続ける。 実際、葛根廟事件が起こったのは、8月14日午前11時40分のことである。日は多少ずれるが、時間はほぼ同じである。おそらく、今日と同じくらいか、あるいはもっと厳しい暑さであったに違いない。その酷暑の中、この道を、葛根廟駅目指して千数百人の日本人が行列をなして進んでいたのである。

 避難民の大半は、女性・子供であった。戦前の興安/ウランホトに、関東軍、インフラ関係者、開拓民が居住していたことは前述の通りだが、敗戦間際には、「根こそぎ動員」によってほぼ全ての男子が戦地に赴いていた。歩行速度も遅く、無防備な女性・子供の行列が、ソ連軍にとって格好の標的になったことは想像に難くない。

今回、私たちが取ったルートは、基本的には、旧街道に沿ったものである。とはいえ、道が畑に変わってしまっている部分や、雑木で荒れ果ててしまっている部分もあり、完全になぞることはできなかった。私たちは、右往左往を繰り返し、周りの景色を熱心に観察しながら進んだ。

トウモロコシ畑が延々と続く単調な風景のなかに、時として、いくつかの「壕」を見つけることができた。道路脇に排水溝のように存在する小さな「壕」から、川のように幅広く、深さも2〜3mある大きな「壕」まであった。明らかに人為的に掘られたと分かる「壕」もあれば、水の流れで自然に浸食されてできたような「壕」も確認できた。しかしそれはどれも、大櫛氏の著書に写真がある濠ではなかった。


ここウランホトの地域は、中国人が定住を始める以前は、モンゴル人の遊牧地であり、昔から樹木のあまり育たない砂地であった。そのため、昔から強風が吹くたびに砂被害に悩まされていた。その対策として、砂嵐の際に、身を潜めるバンカーとして、モンゴル人が避難壕を各所に掘った。大きなものでは、幅2~3m、長さ10m、深さ3mほどもあり、人工にしてはかなり大規模な壕である。
現在では、モンゴル人の定住化、防風林の植林が進んだおかげで使用されていないという(大櫛1996 p.176)。ソ連軍の攻撃を避けて、この身をひそめるバンカーに日本人避難民たちが逃げ込んだのである。


私たちは、実際にその内の一つに隠れてみた。いったん隠れてしまうと、「壕」の中からは外の様子が見えなくなる。ただ、見つかれば殺されるという恐怖の下、息を潜めているしかない。ソ連兵に見つかれば、袋小路同然の「壕」の中で、逃げ道もなく、殺害されるのである。「壕」の中にいる、ほんの30秒くらいの間、かつて、ソ連兵から逃げる日本人が同じ場所で味わったような恐怖感、絶望感に思いを馳せてみると、胸が詰まりそうになった。

しばらく歩いたところで、私たちは丘の麓に差し掛かった。ここで旧街道は、両側を低い山に挟まれ、進行方向右手の斜面は特に緩やかな傾斜となっている。 ソ連侵攻時には、その緩やかな斜面に陣取る戦車から、日本人への銃撃が加えられた:

「戦車は互いに連絡し合っているのだろうか、十数輌が規則正しく順ぐりに浅野群団をめがけて稜線を下り、反転してはまた丘を登り銃撃を加えていた」(大櫛1996 p.80)

山の向こう側で待ち伏せしていたソ連軍は、日本人避難民の行列が通りかかると、一斉に山を越えて斜面を下りながら、機銃掃射を浴びせかけた。ソ連軍の効率的な作戦によって、瞬く間に、日本人の整然とした行列は、蜘蛛の子を散らすようにちりぢりとなり、混沌とした修羅場に様変わりした。遠くへ逃げようとする者、「壕」に隠れようとする者、戦車に立ち向かっていく者などさまざまである。だが、彼らを待っているのは等しく、死のみであった。

 当時の様子を大櫛は、虐殺をやや離れた地点から目撃した鈴木斥候隊・菅忠行の手記を引用して詳細に記述している。


虐殺を目の当たりにした菅忠行さんの手記

p.78-82
――― 二時間ほど前ソ連機に銃撃され、どっぷりと水に漬っていた衣服も、嘘のように乾いていた。/ と、自分が立っていた丘の遥か東の麓に黒い点の長い列が見えてきた。時計は水に濡れて止まっていたが、太陽の影から、もう正午に近い頃であった。/ 多人数の行動となると、土煙が上り、視野は一キロメートル以上も離れているので黒い点にしか見えなかったが、長い列はまぎれもない、興安で一夜を共にした浅野軍団であった。
 その長蛇の列が狭い丘と丘の狭地にさしかかったときであった。/ 稜線の内側に、恐らく丘陵の東を走る公路からであったろう、一定間隔をおいて並んで止っていたソ連軍の戦車隊(浅野軍団からは見えていない)が、突然軍団の最後尾あたりに向って襲いかかった。/ 戦車群は、いっせいに砲をふり上げ、ふり下し、機銃を浴びせながら、浅野軍団を蹂躙し始めた。
 「あっ!……」と言ったきり、二人とも声が出なかった。
 …… 黒い点々はたちまち動かなくなった。/ 撃たれたんだ!殺されたんだ!
 恐らく阿鼻叫喚の地獄であったろうが、その恐怖の悲鳴も、憤怒の声も、断末魔の叫びも聞こえて来ない距離である。/ 傾斜を下る戦車の後に、マッチ棒のようなものが幾つも空中に飛んでいた。/ 「アッ!人をキャタピラがひっかけて撥ねている!」
 戦車群は太陽を背にして浅野群団を襲っていた。
 戦車が止まった。/ すると戦車の天蓋から兵士が幾人も降りてきて虱潰しに掃討戦を始めた。/ やがて指揮車らしい戦車の天蓋から身を乗り出した兵(恐らく隊の指揮官だろう)が空に向けて拳銃を三発“ダーン、ダーン、ダーン”と撃ったのを合図に、南の麓に隊伍を組んで去っていった。

…… ソ連軍戦車群の攻撃が始まって一体どれほどの時間がたったのだろうか。/ 全く声も出なかったが、ゆうに一時間はたっていたろう。これも太陽の影からの推定だったが。

…… 戦車の去った跡は、どっと小豆を撒き散らしたように動かない千数百の死体に、二人で行っても、手の施しようもない。それに我々には、伝令という軍務が残されていた。―――


歩き始めて1時間ほど経ったところで、私たちの目の前に集落が現われた。満洲国時代に作成された地図には、記載されておらず、中華人民共和国が成立してからの集落であることがわかる。規模は小さく、人気のあまりない集落で、瓦礫を重ねただけの壁に囲まれた、レンガ造りの民家や倉庫が数軒建っているだけである。平日の昼間だというのに、私たちを出迎えてくれたのは、牛、犬、アヒル、鶏などの家畜だけであり、集落の中で人影をみることはなかった。

集落を出ると、それまでの荒れ果てた旧街道とは打って変わって、この集落と葛根廟駅方面とを結ぶように、旧街道がきちんと整備されてまっすぐに続いている。


2時間に及ぶ探索の末に

「壕」を探すため私たちが用いたのは、満洲国時代の葛根廟の地形図、Google Earthからとった現在の空中写真、『葛根廟巡礼記』p.75に記載されたあまり正確とはいえないスケッチ図、そして「[引用者注:国道203号線を]東に走っていた車からおよそ50メートルほど西の裾野に、その壕はあった」(大櫛1996 p.175)という大櫛氏の記述である。

それらを頼りに、私たちは探索を続けた。だが、いくら歩けども、なかなかそれに合致するような「壕」は現れない。現地には、この虐殺があった濠の場所を示す道標や指示板は、まったくない。実際、『葛根廟巡礼記』では、大櫛氏たちも「壕」を発見するのに、かなりの苦労を伴ったことが書かれている。

 大櫛氏らのグループは、予定では、8月14日に葛根廟事件の跡地を巡る予定であった。だが、その日、朝から夕暮れまでひたすら探し回ったにもかかわらず、大櫛氏らは「壕」をみつけられなかった。無念を晴らすため、当局に無理をお願いしたところ、16日午前中に限り葛根廟を再訪することが許可された。当時は、この地域に立ち入るのに、当局の許可が要ったのである。

以下は、16日午前中に関する記述である。


「壕」を探す大櫛ら一行の道程

p.173-175
―――九時前には現場付近に着いた。 ……「この辺から…」と廟を見る。/ 右とか左はやはり確証にはならない。あの坂の周辺にあった粟畑もなくなっている。

…… 時間を気にし、二人とも丘を駈け上がったり、駈け下りたり、西に東に草原を駆け抜けた。/ 「ハーッ、ハーッ、ハーッ」/ 静寂の丘に二人の吐息のみが機関車のようなせわしい音をたてていた。. 「あそこか、ここか。壕さえ見つかれば……」/

ときたま立ち止まって足元の草をかき分けて見るが何一つない。初めは、二、三個の小石を拾ってはポケットに入れていたが、小石だけでは、再度訪れた意味がない。小石は十四日も二人でした慰霊の場で、そこの雑草とともに拾ってきていたからである。/ 「壕が!壕があれば!」/ 二人とも走りながら呟いていたが、もうそれが祈りとなり、泣き声に変っていった。時計を見ると十時に近くなった。

 万事休す!仕方がない。/ 五十年の年月だ。壕も埋まるか、流されるか。自然現象の中に消えていったのだろうか。諦め切れないが、諦めるより外はなかった。/ 
「佐藤さん[引用者注:大櫛氏の同行者、事件で父母妹を亡くしている]、仕様がないよ。もうこれだけ探したんだから」。/ 「そうですねー、仕方ないですねー。確かこの附近にあったんだがなー」。/ 諦めるより他にと口では言うものの、体は付いて行かない。もしかしたら一歩この先に、一歩あちらに、と迷ってばかりだった。

 ついに十時十分となった。もう限界だ。/ 「帰ろう」。/ 佐藤氏にではなく自分自身に宣言するように言って、待たしてあった車に乗った。続いて佐藤氏が駆け込み、車は草原を横走りにスピードを上げかけた。
 その時、後部座席から後ばかりを見ていた佐藤氏が、/「ストップ、ストップ、ストップ!」と言って車から飛び降り、丘の裾野に向って駆け出しながら、/「あった、あったぁ!ありました壕が!」/と手を振って一目散に駆けて行った。

 東に走っていた車からおよそ五〇メートルほど西の裾野に、その壕はあった。/ 「待っていた!」と言わんばかりに、壕は黒い大きな口をぽっかりと開けていた。―――


私たちも諦めずに周辺に目を凝らしながら、探索を続けていたが、葛根廟に待たせてある車に到達しなければならない時間が、次第に近付いてきた。

そのとき、遠方に、それと合致するような「壕」を、私たちはついに発見した。私たちのいるところと「壕」の間には広大なトウモロコシ畑が広がっている。そこで、作物を傷つけないよう細心の注意を払いながら、トウモロコシ畑の間を掻い潜って、その目的地点へと向かった。

ついに発見した。われわれが探し求めていた「壕」。本に掲載されている写真と同じ光景が、私たちの目の前に広がった。 探索開始から2時間余りが経過し、時計は11時10分を指していた。太陽は空高く上がり、歩き疲れてへとへとの私たちを容赦なく照り付けてくる。


※右の写真は私たちが歩いたルートをGPSで記録し、GoogleMapに落としたものである。


 碑一つない、今にも消えそうな、
日本人虐殺の場所で

1945年8月14日午前11時40分、興安/ウランホトから一晩中歩き続けて疲労困憊した避難民は、この酷暑の下、ここでソ連軍による急襲を受けたのであった。戦後の平和な世しか知らない私たちには、想像も絶する。

山の高台になったあたりにぽっかりと空いた「壕」。幅は10mほどで、高さは最大で3〜4mほどもある。ここにソ連軍の戦車から逃げ惑う多くの日本人が隠れ、そしてこの「壕」の中で虐殺されたのだ。現在では、瓦礫捨て場になっているらしく、集落の壁などに用いられていた瓦礫などが大量に捨てられている。『葛根廟巡礼記(p.177)』の写真と同じ地点から写真を撮ってみた。 14年もの年月を異にした2枚の写真を比べてみると、「濠」の外壁は土でできているにもかかわらずさほど崩れていない。だが、残土や瓦礫で底はかなり埋めたてられてしまっており、すっかり浅くなってしまっている。あと数年もすれば、「壕」という形で残っているかも分からないほどだ。

私たちは、日本から持ってきたほんの気持ちばかりのお供え物とともに、64年前にここで亡くなられた方々の霊をしのんで1分の黙祷を捧げることにした。

目を閉じると、風の音以外に何も聞こえない静寂が私たちを包む。遊牧民が砂防のために築いた「壕」が、まさかソ連軍から日本人が身を守るための隠れ場となり、そして虐殺される場になろうとは、一体誰が予想し得たであろうか。そんな思いがわれわれの心をよぎった。 ほんの十数分間、その「壕」のあたりを観察していただけで気になったのは、「壕」付近に蚊やハエなどの虫が多かったということである。虫は、血の臭いに引き寄せられるというが、60余年という長い年月を経た現在でも、虫はそこで起こった悲劇を知っているのであろうか。いずれにしろ、多くの人間がそこで亡くなったという痕跡がそんなに簡単には消えるはずもなく、そのただならぬ雰囲気のようなものを虫は感じ取っているのかもしれない。

ここで「濠」を見ながら、1つの疑問がふと頭をよぎった。「葛根廟事件」という歴史的に著名な事件が起こったこの葛根廟の地に、南京大虐殺記念館や撫順の平頂山博物館のような整備された博物館はおろか、その現場を示す碑すら設置されていない。それは、なぜだろうか。 たしかに近年まで、ここ葛根廟の地は、外国人の立ち入りが制限されていて、観光地として整備したところで、日本人のツーリストマネーは期待できなかった。だが、いまは自由に外国人も出入りできる。「葛根廟大虐殺記念館」のような施設を作れば、日本人観光客を多数呼び込めるはずである。近隣にホテルの1つくらいあっても、経営は成り立ちそうだ。にもかかわらず、そのような施設はない。看板1つ立っていない。

そこで、中ソ(露)の関係を考慮して、碑や記念館の設置をためらったという考えがうかぶ。葛根廟事件は、ソ連軍が日本人を虐殺した事件である。日本は中国にとって侵略者であり、ソ連は中華人民共和国樹立を援助した解放者である。この両国に対する中国の姿勢の温度差を、私たちは、大連でもハルビンでも経験した。中国政府が記念館や碑を建てれば、ソ連軍の残酷さを暗に批判することになる。いま中露は,軍事的に蜜月の関係にある。ロシアが不快に思うことを避けねばならないことは、愛琿の博物館で私たちが経験した。まして日本がかかわることである。それが、いまの中国共産党政府にできるはずはない。

いずれにしても、千数百名の日本人が眠る葛根廟事件の跡に、記念館はおろか、碑の一本すら建てられていないという事実には、違和感を覚えずにはいられない。やはり、中国の歴史記念館や歴史を記憶させる公的施設は、共産党の政治主導であり、愛国主義教育施設という性質が強くにじんでいる。ツーリストマネーも大切かもしれないが、それはあくまで二義的な問題なのである。


ラマ教の聖地・葛根廟

目的を達成した私たち一行は、葛根廟で待つ車に向けて再び歩き始めた。途中、小規模な集落の脇を抜け、さらに暑さですっかり干上がったトウル川支流沿いを進んでいくと、遠方に葛根廟の塀が現われた。これは、山のふもとから山頂まで続く広大な敷地面積を持つラマ教寺院で、壁面や装飾に赤や黄などの派手な色がふんだんに用いられている。 私たちは、道のない寺院の塀伝いに、バスが待つ寺院の正面へと向かった。

寺院正面に着くと、そこには、正門にあたる南山門がある。仏を描いた壁画、細かい装飾の施された手すりなど、なかなか凝った建築である。門前には中国でよく見かける2対の狛犬があり、さらにその手前には馬と象の石像も立っている。南山門の扁額には「葛根廟」の名が漢字とモンゴル文字で併記されていた。

私たちは、突如として現れた未知の文化に好奇心を刺激され、もっと内部の様子を知ろうと試みたが、南山門は閉ざされており、正面から内部の様子を窺うことはできなかった。しかし、ガイドによれば、寺院脇の東山門からは出入りが可能だという。そこで、当初の予定にはなかったが、私たちは葛根廟内部を視察することにした。


葛根廟

葛根廟は戦前、モンゴル人・チベット人の多くが信仰していたラマ教の聖地であり、梵通寺を始めとする5つの寺と1つの霊廟からなる総体を言う。

満洲国・中華民国時代は、その5寺を囲むように幾多の僧房があり、そこでは1000人以上の僧侶や修行僧が居住していたという。周辺には、直営の農場や放牧地もあり、彼らは自給自足の生活を営んでいた。だが、宗教が徹底的に否定される共産党体制・中華人民共和国が成立し、文化大革命を経て、廟や僧房は破壊され、農場は元の原野に還されてしまい、葛根廟は衰退を余儀なくされた。(大櫛 1996 pp.113-114,p.173)

だがその後、中国共産党はしだいに宗教に寛容になってきた。四平のカトリック教会の例もそうだが、反共産党的行動をとらないという条件さえ満たせば、宗教も認められるようになった。その流れに乗って、ここ葛根廟も徐々にかつての姿を取り戻そうとしている。そして、中国国内にこうした建て直しの資金を寄付できるような裕福な信者が育っていることも、注目すべきである。

東山門まではだいぶ距離があるらしく、車を利用して東山門へと向かう。着くと、そこには守衛がおらず、手動の門があるだけで、自由に入場できた。20分ほどの自由行動で、各自が広大な寺院内部を見て回ることになった。

葛根廟の建物はどれも新しく、まだ建設途中の建物もいくつかある。 境内では、エンジ色の袈裟を着た僧侶数名と、観光客と思われる家族連れの客3、4組と出会っただけであり、人気(ひとけ)のなさが目立つ。屋根や瓦の装飾が、瀋陽の故宮と酷似しており、清王朝の歴代皇帝がラマ教に熱心であったことが改めて見て取れる。

派手な装飾が各所に施された寺院において、中でも煌びやかに彩られているのが本殿である。本殿の扁額には、「吉祥大乗寺」の文字が漢字、蒙古文字、そしておそらくチベット文字で書かれている。

内部の装飾に関しては、赤を基調とした壁面、柱に所狭しと龍などの絵が描かれているほか、本殿中央には、生き仏と見られる子供の写真が飾られている。

一般の参拝客が入れるのは本殿までらしく、私たちはここで引き返すことにした。

各自バスへと戻り、全員が集まったところで、私たちを乗せたバスは出発した。


再び市内へ

行きと同じ国道を通って、ウランホト市内へと戻った。

列車出発までの時間、私たちが向かった先は、成吉思汗(ジンギスカン)公園である。 この公園は、1940年に着工され、竣工は1944年で、戦前の満州国時代に作られたものである。これには、日本が「五族協和」というスローガンの下で、モンゴル人の支持を獲得し、蒙古地方から中国人の影響力をそぐために、英雄であるジンギスカンを利用しようとする意図が裏側に隠されていた。 (asahi.com ASIA NETWORKコラム・時評「チンギス・ハンは誰の英雄」ボルジギン・ブレンサイン早稲田大学モンゴル研究所客員研究員(中国・内蒙古自治区))

このように、民族ごとに差別的に扱い、先住民族の支持を得て、そこにあとから支配を及ぼした覇権勢力を追い出そうとするやり方は、マレーシアやビルマにも見られた日本の典型的な植民地政策の一つである。こうした政策を背景に、ジンギスカン廟の建築スタイルには、伝統的なラマ教廟の建築処理方法が一部取り入れられている。(越沢明『満州国の首都計画』1988 、pp.189-190)

   正面広場の中央には、5〜6mほどもある大きなジンギスカン像が聳え立つ。馬に乗ったまま、腰に手を当てて、まっすぐに正面を見つめている姿は、いかにも猛者らしい威厳に溢れている。広場の隣ではモンゴル式住居・ゲルを体験するコーナーが設けられていた。ここには、現代の中国共産党が、覇権を維持する意図から少数民族文化の尊重をアピールする姿勢が読み取れる。

ジンギスカン廟は、青い三角屋根と白い壁からなり、太陽の光があたって、その白さがますます際立っている。 だが、列車の出発時刻が差し迫っていたので、ジンギスカン廟までつづく長い道の途中まで行ったところで時間切れとなり、ジンギスカン廟を遠くから望見したところで、私たちは車へと引き返し、一路ウランホト駅へと急いだ。


いざ、大連へ: 17時間の列車旅

車内からウランホトの市街地を観察していると、街のど真ん中に火力発電所が立地している。白昼堂々、もくもくと白煙を吐き出している姿を見ていると、中国政府の安全・環境への意識はまだまだ低いように感じられた。

ウランホト駅に到着して、私たちは車を降りた。駅前広場の内側には、かなり大きな駐車場が設置され、多くの小型車が止まっている。蒙(内蒙古)ナンバーだけでなく、吉(吉林)ナンバーや遼(遼寧)ナンバーの自動車も止まっていた。 また、駅から出てくる客を待つタクシーの量も多い。駅前は他都市の駅とあまり変わらず、小型商店や食堂、ホテルなどが並んでいる。

ウランホト駅は、中央部分にドーム型の屋根を据えた、線対称形の白い建物で、典型的な蒙古様式の建築である。白く輝く駅舎と深みを持った青空のコントラストは、より一層、蒙古らしさを際立たせていた。駅に続く階段には、お迎えの車を待っていると見られる人々が大勢たむろしており、私たちはその間を抜けて駅舎へと向かった。

例にならって荷物検査を受け、駅舎構内に入ると、構内にも大勢の中国人がいた。その多くが、大きな荷物を持っており、旅行帰りか、それとも出発前らしい。そのまま駅舎を抜けて、私たちは列車へと向かった。 巡検最後となる今回の夜行列車は、奥地のウランホトから、玄関口の大連まで、所要時間17時間に及ぶ長距離列車である。出発は14時前、到着は翌朝の7時になる。葛根廟で最期を遂げた日本人避難民たちも、もし鉄道が正常に機能していたら、この便に乗車していたかもしれない。

駅員に乗車券を見せ、勇んで列車に乗り込んだ。だが、何かの手違いで、私たちが乗るはずのコンパートメントは、ドアに鍵が掛かっていて、出発してしばらくは、通路に立ち往生であった。乗務員に鍵を開けてもらい、ようやく各自、コンパートメントに入ることができた。 列車内の様子はいつもと変わらないが、埃っぽさが気になった。窓枠やテーブルの上には、うっすらと砂ぼこりが積もっており、布団も少しざらついている。そういえば、都市化が進んでいるあまり、すっかり忘れてしまっていたが、ウランホトは、砂漠の中の一都市なのである。

列車の中まで見送りにきてくれたガイド氏と別れて、列車は所定の13時50分に出発、ウランホト駅を後にした。車窓から駅の反対側を見ると、そこは工業地帯で火力発電所や植物油工場などが立地している。 すぐ傍には、かなり新しい社会主義住宅も隣接していた。

出発して3分も経たない間に、列車は都市部を抜け、丘陵地帯に突入した。30分ほどして長いトンネルを通過すると、昨日訪れたトウル川鉄橋、午前中に歩いた原野、葛根廟を車窓に望める。昨日、降り立った葛根廟駅を通過した。ちょうどその頃、車内販売で1個5元のアイスクリームが回ってきたため、昼食も食べずに、空腹なわれわれは、少しでも腹の足しになればと各自、購入した。

ウランホト駅を出てから、駅以外はずっと単線が続いており、列車はしばしば駅で行き違いを行っているようであった。そのため、反対車線の列車との待ち合わせのために、長時間、駅に停車することもたびたびあった。

15時20分、白城子駅に到着した。ここを境に、車窓は丘陵地帯からだだっ広い平原に一変する。

18時頃、満洲最後の地平線に沈む夕陽を見た。 満洲に渡って以来、数々の夕陽を見てきたが、今日でとうとう最後である。私たち一同は、満州での数々の思い出を胸に、夕陽を見送りながら、寝台車のベッドで眠りについた。

(徳田耕大)