2009年8月27日 チャムス、

旧埼玉県中川村開拓地

デザイン性の高いチャムス駅、
満鉄附属地と似た日本の都市計画

ハルビンからの夜行列車は、チャムス駅に着いた。チャムス駅は今まで利用した瀋陽駅や長春駅に比べるとやや利用客数は少ない。

だが、駅に降り立つと、駅構内は広く、その大胆な芸術性に驚いた。ゴミ箱ですら、鮮やかな青と黄に彩られ、駅構内の雰囲気を高揚させている。出口付近には、「希望」と「承諾」という二つの芸術的な銅像があった。希望の像は、三つの大きさの異なる横顔があり、子供から大人へ成長していく様を表し、承諾の像は男性の手が女性の左手の薬指に触れており、結婚を表しているのであろう。

  

時刻表を見ると大連、瀋陽、北京など主要な駅に通じる長距離列車が往復で各一本ずつあり、比較的近い牡丹江や前進鎮には往復で各三本ずつあった。長春やハルビンと比べると列車の本数が少ないが、様々な都市と繋がっており、交通の便は悪くない。

チャムス

チャムスは地区人口240万人、市内人口80万人の都市で、黒竜江/アムール川、ウスリー川、松花江の三つの大河に囲まれた地域にあり、米、トウモロコシ、大豆を主とする農業や林業、工業が盛んである。

満洲国の時代、チャムスは三江省の省都であり、周辺には、日本人開拓民が数多く入植した。チャムスはその中心地として、松花江沿いの旧市街より内陸部の平地に、1935年に大規模な都市計画が立案された。また、ソ連との国境付近という地理的要因から軍事上の重要都市でもあり、後に視察する図佳線の開通によって穀物の集散地となった(中国データベース「ジャムス市 」

駅には、市街地図がはられていた。今回、チャムス駅周辺の市街視察は行わなかったものの、この市街地図と、満洲国時代の都市計画図(越沢著p.115、右下の図)を比較すると、現在の都市はほぼ都市計画図のとおりになっており、日本が満洲国時代に建設した新市街をそのまま使っていることがわかる。駅の位置は変わらないこと、満洲国時代市役所だった建物が現在、市政府となっていること、日本が計画した公園と同じ場所に今も公園が存在していることから、満洲国時代の都市機能は、現在でも部分的に引き継がれていることが分かる。

 

市街地図の赤枠で囲まれている部分が、都市計画図に描かれている部分に対応している

駅から出ると、チャムスの発展計画を宣伝する看板があった。チャムス駅前から車に乗り、奉天/瀋陽の満鉄附属地と同じく放射状に3本設けられた街路のうち、駅の正面よりまっすぐ延びる通りを進んで、私たちのホテルである如意大厦まで向かう。途中の道には、古びた住宅が多く並んでいたが、建て替え工事中のものが多く、歩道の剥がれたタイルも補修工事をされている。これから街の整備が進み、発展していく様子が感じられた。

 


ロシア人客が多く利用するホテル

今日のホテルである如意大厦に着いた。私たちは車中泊が連泊となるため、今夜の夜行列車に乗る前に休憩する予定であったのこのホテルに依頼し、ホテルで一人30元の朝食を食べる代わりに、朝からホテルの部屋を使わせてもらった。

このホテルの一階には中国国際旅行社のチャムス支店があり、他にも、2階に偉業房地産開発有限公司と15階に遠東陽光物業管理公司が入っていた。ホテルの一部を企業が借りているのであろう。ロビーには宝石店があり、朝なので従業員は配置されていなかったが、高価な宝石が売られていた。ロビーにある壁には1994年8月に温家宝がこの地域を視察した際の写真が大きく飾られていた。

 

朝食会場に入ると、中国人客は数名であるのに対し、ロシア人客が50名程度おり、私たちが利用している間にも次々とロシア人客が来店してきた。今まで利用した飲食店の中で、旧ヤマトホテルである瀋陽の遼寧賓館以来はじめて、フォークが設置してある店であった。今まで他の飲食店ではあまり見かけなかったスイカやパンが並んであり、中華料理も割と口に合いやすい味であった。チャムスはロシアに近く、ロシア人客が多く利用する為、料理の種類、味も工夫しているのであろう。


旧開拓地への「日中友好の旅」は、
現代中国の貴重な観光資源

私たちは、出発前の事前の文献研究で、山川暁『満洲に消えた分村: 秩父・中川村開拓団顛末記』(草思社 1995)を勉強した。本日の巡検は、日本から入植した満洲開拓移民について、埼玉県秩父郡中川村(現秩父市の一部)から開拓民が実際に入植した地において、その実情をフィールドから学ぶことである。このことで、当時の日本人開拓民の生活や現地の中国人との関係を知り、より深く満洲を理解することを、主たる目的としている。


赤丸で囲ってある地名が、我々が訪問した集落

日本の満洲開拓移民: 2つの要因

満洲移民が本格化したのは二・二六事件後に閣議決定された「20カ年百万戸送出計画」であった。日本の満洲開拓移民送出は、おおきく2つの目的でなされた。

第一は、満洲国における実質的な日本の覇権確立である。石原莞爾は、米英との衝突を逃れられないとして、まず、北方からのソ連の侵攻を封じる必要を考えた。日露戦争戦勝によってできた満鉄附属地はいうまでもなくその付属地内のみの支配であったし、満洲国の建国によって日本はこの領域を全体としてその覇権下においたものの、日本人の存在は都市部と鉱工業地帯に限られており、農村の大部分は中国人の空間であった。その為、とりわけ、ソ満国境に近い新京/長春以北に移民を置くことで、日本人によって農村を含む地域全体を充填し、満洲への覇権をより完全なものとするとともに、北方からのソ連の侵攻を封じ込めようとした。

第二は、日本の農業改良と農村問題の解決である。農学者の加藤完治は、もともと日本の小規模な農業に上安を抱いていたため、デンマークの農業を学び、同じように大規模な農業のできる満洲への移民を推進することで、農業改良をはかろうとした。デンマークの農業は、ドイツとの戦争に敗れて弱体化した際、広大な荒野を開拓し、そこに大型機械を導入したことで発展したものであり、満洲の広大な土地に活かすことのできるものであった。また、満洲移民の送出は、日本国内の農村における過剰人口を緩和し、農村の貧困を救済するものと受け止められた。

市内には銀行、ホテル、商業デパートが多く並び、博物館もあった。その中には、ロシアの建築様式を模した建造物が多く見かけられた。


私たちはまず、両替のため中国銀行に入った。そこには7つ程度の窓口があり、それぞれに応対する職員の氏名と番号、接客レベルが表示されている。どの程度客に親切丁寧に対応しているか評価し、その得点を職員の実名とともに窓口に掲示しているのだ。顧客はそれを見て、各々窓口を選べるようになっている。社会主義の事務的対応から脱却しようとする努力の一端であろう。両替のレートはやはり今まで宿泊したホテルと比べると良く、大連の空港に次ぐ高いレートであった。

高速道路に乗り、いよいよ、かつて埼玉県秩父郡中川村の村民が入植した地域へと向かう。チャムスから合流したもう一人のガイド氏は、「この旅を日中友好の旅としましょう!」と私たちを暖かく歓迎してくれた。チャムスには、日本からたえず旧開拓村の視察団が来て、周辺の農村を訪れているようである。私たちのすぐ後にも来ると言っていた。いまや、旧開拓村の存在は、チャムスにとって、貴重な観光資源となっている。この地を訪れた日本人を暖かくもてなすことは、もちろん、ノスタルジーツーリズム振興の観点からも重要であろう。しかし、私たちには「観光振興策の参考にしたいので」という名目で、地元の共産党関係者と思われる中国人も加わった。


省主導の高速道路開発、いぜん粗放的な牧畜

市街地を抜け、高速道路を走っていると、所々家が密集し、その周囲には工場や畑が広がっている。畑はきちんと区画整理されており、生産効率の高さが窺えた。トウモロコシと大豆が交互に植えられている。トウモロコシと大豆を互いの近くに植えると、土壌の栄養バランスが取れ、収穫量や品質が向上する。この点から、農産物相互の有機的な関係を考慮し、計画的な作付がおこなわれていることが分かる。ガイド氏もこのことを私たちに説明してくれたので、社会主義以来の伝統的農業技術と思われる。

集落は、市街地の社会主義住宅とは異なり、一軒家が多かった。高速道路からは建設途中の橋が多く見られた。この橋は高速道路によって隔てられた左右の地域を繋ぐ役割を担っているのであろう。路面はよく補修・整備されている。工事用の資材を運ぶトラックが多く走っていた。

料金所には「高速道路の建設が黒竜江省のさらなる発展に繋がる」という内容の看板が設置されている。また、高速道路沿いの畑の中に、西洋風建築様式でベージュの壁で、建設三箇文明と書かれた共産党関係と思われる建造物があった。その建造物にかかっている垂れ幕には、建設事業の発展に関する内容が書かれていた。共産党と省政府が一体となって、地域経済発展を目指し、積極的に土木プロジェクトを推進していることがわかる。

途中、牛や羊が、山や雑草の生えた場所に放牧されているさまを度々目にした。周囲には所有者の家や牧場は見当たらず、飼われているというより雑草の生えている所にただ放たれているという印象を受けた。『満洲に消えた分村』p. 69に、当時の日本の開拓民がハルビンに渡満した際に気付いたことが書かれている。そこには、馬や豚など家畜が何十頭も放牧され、餌付けは一日一回のみで、主に放牧によって飼料が与えられている、とある。当時の粗放的な畜産業は、いまの中国にも続いているのだろう。資本集約的な農業技術革新にはまだ十分至っていないようである。

高速道路沿いの標識には、新生村、三合村、永昌村、鄂家村など村名が標記された看板が見え始めた。「新生村」という地名は、かつての満洲国のスローガンだった「新生満洲」を連想させ、日本人開拓民がつけた名称がそのまま残っているのではないかと感じさせる。村々には赤レンガの家々や社会主義住宅、共同住宅が密集して建っていた。それぞれの村ごとに、同じような形の家が多いことが特徴的であった。

やがて、大八浪の看板が見え、高速道路を下りた。


中国の経済成長が及ぶ、
旧長野県泰阜村の分村

高速道路を下り、舗装されていない悪路を通って私たちは大八浪屯に入った。高速道路は最近開通したばかりなので、既存の村落の道路との連絡が、まだあまりよくない。

大八浪屯は長野県下伊那郡泰阜村の開拓民が入植した集落であった。泰阜村分村は中川村分村の東に位置していた地域であり、図佳線の鉄道線路を境界としていた。『満洲に消えた分村』pp.82, 121によると、1942年の調査で泰阜開拓団には270戸が入植していた。

日本人開拓団の入植と、「開拓地」経営

開拓団は、日本国内や満洲に設置された訓練所を経て、満洲の村に入植した。

開拓といっても、未開の荒野を日本人たちが切り開いたわけではない。満洲拓殖公社は、中国人や朝鮮人の耕している土地を安値で買いたたき、中国人の伝統的な村が広がっている所に、既存の村ごとの伝統的境界を無視し、満洲拓殖公社(満拓)が独自に新たな境界を上置して日本人を入植させたのである。居住地も、一部は新しい集落を築いたが、中国人の既存の集落内にそのまま日本人開拓民用の家を建てる場合もあった。

開拓地に入植した日本人は、現地の中国人を労働力として雇い、農業生産をほとんど中国人に行わせることによって開拓村を維持し、小作料を得ていた。日本の満洲国に対する覇権を利用し、日本人は、中国人の伝統的村落のスケールにおいて、外来の地主のように振舞ったのである。

大八浪屯は、畑に囲まれた小さな集落であり、道路は舗装されていない。家屋の中には、古い家がいくつか残っているものの、赤や青色の屋根の、新しく建てられたと思われる家が多かった。文具屋など小売店が多く、そして小さな小屋で商売をしている人を見かけ、商業機能もととのっている。工場やChina Mobileの営業所もあり、そこに勤める人もいるのであろう。大八浪屯の中国人の村人たちは、集落景観をみる限り、貧しい暮らしは送っていなさそうである。中国の経済成長が、都市近郊の農村にまで及んできていることが分かる。


満洲国時代に、
日本人の支配する村を結んで
建設された図佳線

車を進めると、泰阜村開拓団と中川村開拓団の分村の境界となっていた図佳線の踏切に達した。

この線は、満洲国時代の1937年に建設されたものである。チャムスから牡丹江に通じ、この地域に集中する日本が入植した村を貫いて走り、日本人が支配する村落を空間統合する機能を果たした。中川村開拓団の本部が付近に置かれていた閻家駅も図佳線上にある(中国データベース ジャムス市)。

私たちは踏切で、線路の視察を行った。軌道は綺麗に整備されているが、踏切には踏切番のいる小屋があり、二人の踏切番が駐在していた。鉄道の自動化は、まだ遅れていることがわかる。また、その近くに古い井戸も残っているので、この小屋は、踏切番の生活の場でもあったようである。いまは、使われている様子がない。

 

踏切から望む山々には、高速道路付近にもあった風力発電施設が密集していた。ガイド氏によると、この風力発電施設は2008年に造られたものであり、世界銀行の融資により、政府主導で300万元の資金で建設したものだという。風車の一つの羽の長さは29mであり、羽が一周することで5元の利益が生まれるそうだ。今までの巡検のルートの中で、中国が環境問題に対応している様子を目にする機会は少なかったが、この風力発電施設が多く建設されていることから、中国の環境問題に対する配慮が若干感じられた。

しかし、この発電が村の利益になっているかどうかは上明である。辺り一面に設置されている風力発電施設は明らかに農村の景観を害している。羽の回転によって生ずる低周波などの騒音公害が、近隣住民に健康被害をもたらし、自然景観を?なうとして、欧米では発電用風車の乱立に対する反対運動がすでに多く起こっている。国家のスケールでは環境全体に配慮したものであると言えるが、この村落のスケールでは景観や住民の健康を害する風車に他ならず、合成の誤謬が生じている例と言えるであろう。


中川村分村の建設基地、小八浪屯

中川村の分村は、閻家駅から西6キロの「環状丘陵台地」を中心とした地区にあった。当時は満洲国三江省樺川県に属していたが、いまは黒竜江省東北部にあたる。樺川県はその中央に位置していた。その中川村分村のなかで、小八浪屯は中川村分村の建設基地として計画された(『満洲に消えた分村』p. 59)。


(中川村開拓団略図 出典: 『満洲に消えた分村』p.109)

埼玉県秩父郡中川村の満洲分村

飯田市歴史研究所編『満洲移民』(現代史料出版, 2009)p. 24によると、農林省は分村計画に指定した村に対して補助金を支払って、満洲移民の推進を図っていた。

中川村は、秩父の山間で生糸を基盤産業としていたが、1929年のウォール街の株の暴落をきっかけとする経済恐慌により、輸出先の米国で奢侈品である生糸の需要が大幅に減ったため、生糸の価格が暴落して大ダメージを受けており、特別助成村に指定されていた。

加藤完治の思想に鼓舞されて分村を建設することを決めた中川村は、まず茨城県の内原訓練所で1年間の訓練をした後、満洲にわたった。ハルビン訓練所で8カ月の訓練に入り(『満洲に消えた分村』pp.50,51)、農耕や建築の知識を蓄えるだけでなく、現地人から農業技術を学ぶために中国語の勉強を行っていた。(同, p. 66)実際、中川村分村に入植した後、農業生産には現地人の協力が上可欠であった(同, p.131)。

私たちは、中川村分村の中でも重要な位置にあった小八浪屯を実際に視察し、村民の方の話を聞くことで、当時の開拓民のありさまを知ることを目的としている。

現在の小八浪は、大八浪と異なり、道路が舗装されているものの、古い建物が多い。車を降りると、商業機能はさほどなく、付近の建物はほとんど民家であった。道路と家々の間には溝があり、雨水処理できるようになっていたが、そこにはゴミが散乱しており、衛生環境は必ずしも良くない。家畜のアヒルや鶏が放牧されており、そのゴミを漁っていた。

多くの家の前には農作業機械やバイクが置かれており、それらはどれも綺麗で新しかった。新しい機械の導入によって農業の生産効率を高めていることと、バイクが重要な移動の手段であることが分かる。農作業用機械の中には、ヤンマー製のものを数台見つけることができ、中古であろうが、日本企業の農作業機械を取り入れていることが分かった。

ガイド氏に、日本人開拓団が入植していた時代から小八浪にいる人を探してもらうと、当時から住んでいるお婆さんがいるというので、インタビューさせてもらうことにした。


「礼儀正しい日本人」: お婆さんのお話

お婆さん宅は、煉瓦造りの建物で、庭には鶏を飼っていた。二つの建物が隣接して建っており、二世帯で居住しているのであろう。お婆さんと、日本人孤児の娘と結婚したお兄さんを持つ女性のヤンさんに当時のお話を伺った。

お婆さんは現在81歳で、1937年当時は9歳であった。小八浪には、9世帯の日本人家族が住んでいたようだ。中でも10代の若い日本人は訓練所に入っていたため、中国語が堪能であった。また、住んでいた日本人の名前を今ではあまり覚えていないが、大野さんと原島さんだけは忘れていないようだ。

日本人は、お婆さんの兄が引っ越しをする際に米を炊いてくれたことがあり、お婆さんは日本人に対し、礼儀正しく、良い人という印象を持っていた。その為、お婆さんは日本人の家へ遊びに行くこともあったという。

開拓民として入植した日本人は、中国人を雇ってその土地の管理や農作業をさせ、報酬として現金払いで給与を支払っていた。開拓民には税金が課せられており、紊めていた。

戦争が激化すると、日本人男性は徴兵された。その後も、女性と子供だけで村の農業は行われており、状況の変化はあまり感じなかったようだ。1945年、ヤンさんが17歳の時、日本人が撤退し、ソ連軍がこの村に来たが、駐留せず、過ぎ去っていっただけであった。

日本人が撤退した後には、7,8歳位の日本人の女の子が棄てられており、蚊にひどく刺されて泣いていた。そこを発見され、中国人家族に引き取られた。

その後、その残留孤児は中国人と結婚し、生まれた子供との兄が結婚した。今では、その孤児の子供もヤンさんのお兄さんも日本に帰国し、そのお兄さんは既に亡くなられた。随行してきた共産党関係者らしい方のお話によると、日本人残留孤児の墓がチャムス北部にあるとのことで、昨年だけで20人以上の日本人がその墓を訪れているらしい。旧開拓地を再訪する日本人関係者は多いらしく、日中国交が正常化された1970年代には、特に多くの日本人が訪れたという。

インタビュー中、お婆さんは、しきりにあまり覚えていないとおっしゃっていた。また、共産党らしい人が側にいたので、お婆さんの話の内容が制限されていることも考えられた。だが、お婆さんの当時の年齢から推測される年がその出来事が起こった年と相違ないので、お婆さんの記憶に焼き付いている出来事は、正確に覚えていらっしゃったといえよう。

小八浪での中川村開拓団

小八浪の土地はもともと徐国林という有力者のものであったが、後に開拓団と徐国林の合弁事業として白酒製造所をつくったため、営農以外からも収入を得ることができるようになった。この白酒製造所の社長を徐国林、副社長を開拓民の大野定二が務めた(『満洲に消えた分村』pp.140,141)。

また、開拓民には政府から一戸につき1,000円の補助金が支給されたが、住居一棟につき2,500円がかかり、また、学校や道路整備など団全体の資金にも充てなければならなかった。その上足分は満拓からの融資に頼っていた。そのため、開拓民は日本内地の土地上足から逃れ、満洲では畑を無料で得られると信じて渡満したにも関わらず、その結果は多くの借金を背負うことになってしまった(『満洲に消えた分村』p. 102)。

『満洲に消えた分村』p. 134には、一部の日本人開拓民は中国人に友好的であったという描写がある。それを実際に、当時から御存命の中国人の方から「日本人はいい人たちであった。」と聞けたことで、必ずしも日本人開拓民が中国人を横暴に扱ったわけではないことが分かった。

お婆さんの話を参考にしつつ考えると、開拓民として入植した日本人は実際に農業生産活動をするというよりも、土地を所有・管理し、また、生産された農産物を売りさばく立場であった。換言すれば、小八浪でも、日本人開拓民は、現地の中国人たちの農業労働に寄生する地主にも似た地位にあって、村落における経済的・社会的な管理・支配を担っていた。そのやりかたは、横暴な抑圧ではなく、日本社会に特有のパターナリズム(慈善的な家父長主義)であった。これによって生じた友好関係が、村落スケールにおいて、満洲国における日本の覇権を持続的に支えていたことが分かる。

インタビューを終え、現地の方と写真撮影をした後、私たちは小八浪で昼ご飯を食べることにした。


村の食堂で昼食

昼食を食べた村の食堂は、小八浪の中では新しい建物で、庭には花が植えられ、内部も清潔感のある雰囲気であった。看板は見当たらず、一見すると、周囲にある他の家とあまり変わらず、飲食店であることが分かりにくい。内装は、店の方がここに居住しているどうかは分からなかったが、民家の一部を飲食店として利用しているようなものである。

出てくる食べ物は、今まで視察した街の飲食店とあまり変わらなかった。麺が大量にだされたことから、この近辺で生産しているものを使うだけでなく、街に出て食材を調達しているのであろう。村の通りを、しばしばバスが通った。この村は、都市圏と強い関係のもとで存在していることがわかる。


崩れかけたまま
今なお建ち続ける開拓民たちの家屋:
改造して中国人が居住するものも

『満洲に消えた分村』には、当時の日本人開拓民の暮らしが描写されている。同書pp. 99,100によると、個人住居は煉瓦造りで屋根には草を敷いていた。床の間がある8畳の部屋と6畳の部屋、煮炊きをする土間からなっており、床下にかまどの煙を通すオンドルを設置し、床から室内を暖めていた、とある。

私たちは、実際にこの日本人たちが生活した建物を視察し、より詳細な当時の日本人の暮らしを知ることにした。

小八浪には、当時の日本人開拓民のものと思われる建物が数軒残っている。小八浪で、開拓民たちは、中国人の既存の集落の中に、自分たちで家を建てて住み着いたのである。家のなかには、空き家となって、壁がはがれ、草が生い茂って、もう使われていないものもある。その土地を使う人が他にいないので、消極的に保存されているだけであり、積極的な保全の努力はなされていない。早晩崩壊してしまうだろうから、危なくて入ることはできない。

私たちが視察した建物は、そのなかで、当時のものを補修し、現在まで中国人が使っている家屋である。現在居住している方は、1963年に住み始めたようだ。

外観は、煉瓦を外側から土で塗り固めており、屋根は瓦葺である。建物に入ると、料理をする土間、左手に床の間、床の間に入って右手に寝室があって、基本的な生活機能が整っている。部屋の構造は、当時とほぼ変わっていない。全体的に薄暗く、外から入る日の光で日中は暮らし、夜は吊るされている裸電球のみで暮らしているのであろう。料理用品や家具一つ一つは新しいものが多いものの、薪で釜を炊き、その煙を管に通して床の間や寝室を暖めるオンドルは当時のもののまま機能していた。

  

当時の建物の利用できるところは利用しつつ、改善すべきところは補修あるいは買い替えることで、現代の居住ニーズにも合って、今日まで住み続けられている。満洲国時代いらい倒壊せずに建っているということは、当時、そうとう頑丈に作ったのだとわかる。当時、中国人の既存の家々の中に抜きん出て、異彩を放っていたに相違ない。それは、村落スケールにおいて、中国人に、日本の権威と優越性を景観的に示すものでもあっただろう。


村人の話:
村の経済を支配していた大野さん、
妹の指を食べた日本人孤児

その後、村を歩いていると、何人かの小八浪に住んでいる村人たちが私たちのところに次々と集まって、各々知っている情報を教えてくださった。ここでも当時の日本人の様子を知ることができた。

村人の話によると、満洲国時代、大野さんが村の中で最も裕福な人物であり、皆大野さんのもとで働きたがっていた。大野さんは、村で病気が広まった際、自分の家の裏で注射をしてくれていた。インタビューしたお婆さんと他の村人の話している「大野さん」とは、ゼミで読んだ文献『満洲に消えた分村』p.6の、白酒製造所の副社長を務めていた大野定二さんのことと思われる。中川村分村を経済的に支配していた日本人が、経済的な利益や雇用機会を現地の人達に与えながら、家父長的に振舞っていたありさまが、村人たちの話からよくわかる。

村人たちはまた、ソ連が侵攻してくると、飛行機が飛んできて、そこから多くの紙が降ってきた、と話した。『満洲に消えた分村』p.200には、上空の飛行機から中国語で「日本人を殺せ」という内容のビラがまかれたという記述がある。村人の話と著書の内容が一致しており、実際に、ソ連が満洲に侵攻した際、ソ連の飛行機からこのようなビラがまかれ、それに触発されて、現地中国人が日本人開拓民に反乱をおこしたのだ。

日本が撤退し、ソ連軍が満洲地域の支配を獲得した後、村の畑に4歳と2歳の姉妹ともう一人一番幼い小さな女の子3人が棄てられていた。姉妹は食べるものがなく、空腹のあまり、一番幼い女の子の指を食べてしまっていたという。小八浪に残された日本人孤児たちはひもじく、同じ姉妹の指すら食物のように感じたのであろう。

ソ連が侵攻して満洲地域の覇権を獲得すると、日本人の中国人に対する優越的地位はなくなり、日本人につき従っていてももはや中国人は利益を得られなくなった。こうして、中国人は、今まで支配者の様に振舞っていた日本人から土地を奪い返し、武器を持って襲いかかるようになった。日本人開拓民たちは命からがら逃げ、あとに棄てられた幼い子供たちが、残留孤児となった。

棄民政策をとった日本と、中川村開拓民の最期

戦争が激化し、ソ連の参戦間近になると、関東軍は軍人家族や官僚たちを列車で避難させたが、開拓民は引き揚げさせなかった。関東軍はソ連の侵攻を予想していたが、開拓民を皆引き揚げさせることは現地の中国人に動揺を与えるだけでなく、ソ連を刺激し、侵攻を早める可能性があるなどと唱えていた。もとより、開拓民をすべて一時に関東軍の手で整然と日本に帰還させることは膨大な費用と手間がかかる。侵攻された時のため、自分たちだけが日本に帰還する準備をし、満洲国における日本の覇権を村落スケールで支えてきた日本人開拓民は、うち棄てられた。

ソ連の参戦により、開拓民はチャムス方面からの臨時列車で退避を伝えられたが、開拓民が閻家駅につく前日に牡丹江方面が爆撃され、列車はチャムスに引き返してしまった為、閻家駅に列車は来なかった。そこで、疎開するよりも現地死守することを決断した。8月13日にようやく列車が来たが、中川村開拓団は乗らず、列車は空で引き返した。だが、その直後から、かつて土地を二束三文で日本人に奪われ、村落を日本人に支配されてきた現地中国人の反乱が起こり、日本人開拓民たちに次々と襲いかかるようになった。結局、開拓団は、追い込まれるように疎開を決意せざるを得なくなった(『満洲に消えた分村』pp.190,191)。

8月15日夜に、住んだ村を出発した中川村開拓団の始めの疎開目的地は、松花江河畔の依蘭であった。約120キロの距離を開拓民一団となって、武装して進んだ。身を隠すため、山中の道無き道をたどったが、途中現地人の反乱やソ連機からの機銃掃射に遭った。襲撃されると携行した武器で立ち向かい、現地中国人との間で戦闘となって、中国人の村を襲い焼き払うこともあったが、命を落とした開拓民も多かった(同書, pp.207,208)。かつての慈善的な家父長主義は陰も形も無く、あるのは、過去の支配の履歴を背負う敗残者と、これから地域の主役を担うことが約束された被支配者との力ずくの戦いだった。

生き残った者で再度依蘭へと向かい、20日夕刻、直前まで来た。だが、依蘭にはすでにソ連兵が到着していることを知り、目的地をさらに南方約80キロの方正に変更した。すでに疲労困憊である女性や子供には配慮もなく歩を進めるため、足手まといとなった多くの幼子は母親の手で絞殺された(同書, p. 212)。

その後すぐ、中川村開拓団はソ連軍に見つかって武装解除され、ソ連軍の監視の下、方正までたどり着いたのは、8月9日のソ連軍侵攻開始から1カ月近くたった9月3日であった。途中で命を落としたもの、行方上明となったものは64名である(同書, p.216)。

避難の中で身寄りの無くなった日本人のなかには、売買や養子として中国人に受け入れられて残留孤児となった者、中国人の妻として迎えられて残留婦人になった者がいた。

生き残って方正についた者は、ソ連軍に収容されて帰国が足止めされ、1946年の春まで解放されることはなかった。劣悪な環境のため病気になり、ソ連が、かつての別の日本人開拓団の施設を利用して設けた収容所で死亡する者も相次いだ。日本人の死骸は、日本人自身が生前掘った大きな穴の中に、次々放り込まれていった。(同書, pp.219-221)。


簡素なプロテスタント教会

車に乗り、小八浪の集落を出る途中、プロテスタント教会があった。

この教会は戦後建てられたものと思われるが、建物自体は周辺の家に比べて新しい。簡素な門には、プロテスタント教会とかかれ、十字架が掲げてあった。だが、建物の形が教会とは思えるようなものではなく、周囲の綺麗な家と同様で、四平/四平街のカトリック教会とはまったく外観が異なる。地元で教会として知られているから、必要に駆られず普通の民家の外観にしたのだろうか。あるいは、きちんとした教会を建てる資金がまだないのかもしれない。いずれにせよ、付近に、教会を成り立たせるだけのプロテスタント信者がいるのは、すこし驚く。

少し進み、車の中から城子嶺村をみることができた。『満州に消えた分村』p.63によると、城子嶺村には開拓民13家族が住んでいた。しかし、観察する限り、新しい建物が多く、当時の建物は残っていないようであった。


満洲国時代の地域中心の面影が
まったく失われた大和屯・呉家屯地区

私たちは次に、小八浪の北西に位置する、大和屯・呉家屯の地区を視察した。ここは、中川村開拓団の領域のなかで、学校や診療所、加工場のある地域中心であった(『満洲に消えた分村』p.109)。既に長春/新京の都市空間について学んだように、ある領域に支配的な政治的・経済的権力が交代すれば、中心性も大きく変わる。私たちは、当時の開拓民の暮らしに対する理解を深め、また、現在でも中心性が残っているかを調べるためにここを視察した。

現在の大和屯・呉家屯地区を小八浪と比べると、家の敷地は広く、家自体も新しい。しかし、敷地内には煉瓦が散乱し、雑草が生い茂っている家がいくつかあった。また、家の敷地内に菜園があり、キャベツを植えている家があった。畑でトウモロコシや大豆を栽培し、さらに家庭菜園で独自にキャベツを栽培しているのであろう。(右写真は、敷地内に煉瓦が散乱している家

集落内は道路も舗装されておらず、中には、家の排水のようなものが道路に流れている家もあった。住んでいる人は貧しいわけではなさそうだが、生活インフラや衛生環境が整備されていないと感じた。満洲国時代には中心的機能を持つ地域であったが、地域を支配していた日本人が撤退し、支配者が変化したため、中心性が失われたことが分かる。(左写真は、舗装されていない道路

まず、当時、在満中川村国民学校があった場所を探した。『満洲に消えた分村』p.63に、かつて煉瓦建ての学校があった場所として描写されている。広い敷地内に、数軒の大きい住居があり、学校としての面影は最早なくなっていた。満洲国では、中国人と日本人は全く教育体系が別で、別々の学校に通っていた。煉瓦建ての学校が見つからないということは、日本人が去ったあと、学校が機能を失って破壊されたのであろう。そこに住居が建っていることから、戦後支配者が変化したため中心性が薄れ、周囲と同じ居住地域となったのであろう。(左上写真は、かつて学校があった場所。現在は住居

次に、診療所、第一加工場があったはずの場所を見た。建物は新しく建て替えられており、一般人の住居になっているようだったが、人のいる気配は感じられなかった。

第一加工場は、周辺の住宅とは違い、広大な敷地に、「福」と書かれた立派な門が設置され、中にも数棟建物が建っていた。建物の形から推測するとこれも一般人の住居のようである。(右写真は、第一加工場跡

大和屯・呉家屯地区は、あくまで日本人にとっての村の中心地であった。同一の地域であっても、エスニシティが異なれば、中心地の体系も異なる。この二つの視察から、日本人が去ることによって、中心地そのものが消滅してしまったことがわかった。


駅前商店街と鉄道電信柱が
満洲国時代の面影を留める、閻家駅

満洲国時代、閻家駅前には中川村開拓団の本部が置かれており、中川村分村の行政中心であった。鉄道でチャムスならびに牡丹江とむすばれ、その鉄道で建築や生活の資材等が送られてきた。人の流れからも物流の面からも重要で、駅前は中川村開拓団にとって中心的な機能を持つ地域であった。

1945年8月13日朝、ここに、蒸気機関車が無蓋貨車を牽引して、チャムス行の疎開列車が来た。これが、日本人のために走った最終の列車だった。

いまでは、閻家駅は、改札のない無人駅になっており、駅舎は封鎖されている。列車は、一日に2本。チケットは列車内で買う。

 
左: 封鎖されている閻家駅の駅舎、右: 駅構内に落ちていたチケット)

現在、閻家駅近辺には、China Unicom、公安、閻家中心校があり、他の視察した集落より都市としての機能が集まっている。駅前の通りに面して小売店や飲食店が並び、バイクが店前に多く駐車してあって、栄えていそうな店もあった。閻家駅近辺には、戦後、日本が撤退し、支配者が変わった後も、駅前という比較的優位な立地のため、一定の中心性が維持されている。この点は、かつて地域中心であったが、広い畑の中にあって現在は中心性が全く失われた大和屯・呉家屯地区と違う点である。

ホームに出て線路脇を見ると、鉄道電信の柱が立っている。これは、日本が戦前から、鉄道通信がケーブル化されるまで利用していた鉄道電信柱の「ハエタタキ」と呼ばれる形と酷似している。その電信柱が、まだ鉄道部門に十分情報技術革新が及んでいないのか、中国では、満鉄時代の形を変えず今日まで使われ続けている。おそらく中国は、この鉄道電信柱の形状を日本固有のものと認識しないがために、技術としてそのまま使えるから、特にこだわりなく、現在も同じ形を引き継いでいるのであろう。

 

左: 閻家駅近くの鉄道電信柱、右: 旧国鉄の鉄道電信柱
右写真出所URL: http://www.ab.auone-net.jp/~azm01/img206.jpg

鉄道局で働いていた方が来て、付近にある煙突の様な細長い建物は、満洲国時代に重要な機能を持っていた線路を守るための見張り台として機能し、見張り番が銃を撃って鉄道を守っていたという。


真夜中の駅から、再び夜行列車で中国の東極へ

来た道を戻り、私たちは、朝とおなじホテルで夕食を食べた。朝の少し洋風な食事とは異なり、夕食は中華料理であり、味も他のホテルと同様であった。夕食会場では、ゼミ生で当日の感想を述べ合った。

当日は、開拓民の実際に暮らしていた地域を視察し、その生活を追体験できたことは非常に有意義であり、さらに、満洲国時代から御存命であった方の話を聞けたことは、当時の様子を文献で調べるよりも鮮明にイメージでき、実り多いものであった。また、今まで視察したような大きな都市とは違って、小さな村落を視察することで、現地の方の生活レベルの幅と満洲国の多面性を知ることができた。

ホテルの部屋で各自休憩をした後、真夜中のチャムス駅に向かい、ハルビン発の夜行列車に乗って、私たちは中国の東端をめざした。

深夜の出発で、チャムス駅には乗車券の割り当てがなく、私たちが持っているのはハルビン発の寝台乗車券だった。

(後藤太郎・齋藤俊幸)

● このウエブページは、2009年度3年ゼミ生の 後藤太郎 が担当者であり、原稿の草稿まで作成したが、その後再三の請求にもかかわらず担当者から完成版の提出が得られなかったので、やむなく研究室で完成させた。作業は、齋藤俊幸が担当した。