2009年8月20日 鞍山・撫順

瀋陽のマンション開発と、
満洲王朝発祥の地を見ながら鞍山へ

午前7時頃、私たちはホテルのレストランで朝食を取った。バイキング形式で、おかゆや麻婆豆腐をはじめとする、いかにも中国だと感じさせてくれる料理はもちろん、パンも並べられていて、自分の好みや気分に合わせて食事をすることができた。

本日は、日本の満洲支配の経済的基盤となった、鉄鉱石と石炭という、2つの大きな資源にかかわる視察を行う。午前8時頃、瀋陽から南へ約80キロの所にある鞍山へ向かって出発、車で1時間半の道のりである。

この日の天気は、快晴だった。大連と同様、瀋陽市内でも、至る所でマンション建設が進行していた。国家が税制面で優遇して、新たな開発を推し進めているという。本日、ゼミの私たちには、男性の英語ガイドと女性の日本語ガイドの2人が付いている。英語が堪能なガイド氏の説明では、平均的なマンションの価格は1uあたり600米ドル、1戸あたりの面積は80uということだから1戸48,000米ドル、日本円に換算すると400万円台で買えることになる。

マンション開発について、ガイド氏は、“white elephant”、(日本語で言えば「無用の長物」)という表現を用いた。無駄な投資のことを揶揄した表現で、マンションの部屋が売れて、最初のうちは固定資産税がゼロで楽なのだが、将来的には重税が課され、結局は所有することが負担となる邪魔なものになるという意味である。このことから、現在つぎつぎと開発されているマンション開発に対応する一般的な中国人の本音をうかがえたような気がした。つまり、長く保有していると固定資産税が上がるのだから、できるだけ早く転売し、次々買い換えた方が有利ということになる。これで、新築マンションの需要は、なかなか減らずに済むということだ。この新築需要が、鉄鋼やセメントなどの需要を喚起し、経済成長を高めていることはいうまでもない。

中国国鉄による、大連とハルビンを結んでまっすぐ伸びる新幹線の高架が建設中であるのを観察した。高速走行が可能な全く新しい線路を自前の技術で建設し、高速車両のみ海外から導入しようというのが、中国政府の現在の方針だ。

ホテルから車で走ること40分、ようやく蘇家屯という場所から高速道路に乗った。瀋陽からは大連、北京、ハルビンへの3方向に主要な高速道路が延びている。

私たちは、瀋陽と大連の約400qを結ぶ瀋大高速で鞍山へと向かった。日本語の女性ガイドの李さんによると、10年前に完成した高速道路で、工事・拡大の結果片側4車線になったという。この日の交通量は少ない方だったらしいが、車線が広いため普段も渋滞しないという。高速道路に沿って、日本ではアルミ製の防音壁が張り巡らされているのとは異なり、車が風であおられないよう防風林が何重にも植えられている。防風林には、ポプラが多く使われているそうだ。その防風林のせいで周囲を観察するのに苦労したが、沿線には主に化学工場と思われる工場が多く立地していた。だが、とりわけ目を引いたのは広大な畑であった。この地域の農家では、主にとうもろこしを栽培している。満洲というと高粱(こうりゃん)をイメージする方も多いだろうが、高粱については、昔は生産量が多かったが現在ではかなり少なくなった、とのことだ。

途中、遼陽という都市を通過した。ここは、満洲の統一に成功し清を建国したヌルハチが、初代皇帝となって最初の首都をおいた重要な都市であり、いまはヌルハチの息子の墓がある。また『紅楼夢』の作者、曹雪芹は遼陽を本籍としていた。現在では石油化学工業が発展している(遼陽市人民政府)。

午前9時半、私たちの専用車は鞍山料金所を出た。通行料は55元であった。

鞍山製鉄業の歴史

ここで、鞍山の製鉄業の歴史について、簡潔にまとめておきたい。とくに、鞍山の昭和製鉄所は、戦略的に重要な意義を持っており、満洲の支配権がシフトするにつれて、この製鉄所の支配者も変った。

@理想の原料地立地: 日本敗戦まで

鞍山で製鉄業が発達した理由は、この近くで鉄鉱石、そして私たちが午後訪ねることになっている撫順をはじめとする炭鉱で石炭を確保できるという、立地論の観点から非常に有利な原料地立地の機会に恵まれたことである。製鉄業において、鉄鉱石や石炭は重量減損原料(加工後の製品が原料よりも軽くなる)であるため、輸送費を小さくするには、原料供給地で製品化してから各地へ輸送するのが良い。したがって、製鉄業に欠かせない鉄鉱石と石炭を近くで採掘できる鞍山に製鉄所を設置するのが最適だったのである。

鞍山製鉄業は、日露戦勝後に日本が満洲にフロンティアを拡張してほどなく、1909年に満鉄地質調査課が鞍山で鉄鉱山を発見したことから始まる。鉄鋼採掘権を得た満鉄は、1916年に製鉄所創設を認可し、1918年に鞍山製鉄所が創設された。満洲国建国後、1933年製鋼事業を開始するに際し、昭和製鋼所に製鉄所が譲渡され、採鉱・製銑・製鋼を一貫して行うことになった(株式会社昭和製鋼所『昭和製鋼所事業概況』1938, pp.1-3)。

満洲国時代の生産高のピークは1943年で、銑鉄130.8万t、鋼塊84.3万t、鋼片26.5万tであった(松本俊郎著『「満洲国」から新中国へ』名古屋大学出版会, 2000, p.5)。昭和製鋼所時代の生産のピークを記録した1943年、銑鉄の割合は半分を超えていた。ここで注目すべきは、銑鋼一貫とはいいながら、鋼鉄の生産量が銑鉄よりも少なく、銑鉄偏重の傾向があったことである(松本著, p.48)。鞍山で生産された銑鉄は日本へと輸出され、日本国内の製鉄所で製鋼されて、日本国内の軍需品や民生品の生産に使われた。つまり、満洲の資源を用いた昭和製鉄所は、日本に中心をおく製鉄の工程間分業体系の上流に位置づけられ、その体系を通じて満洲の資源が日本のために収奪されていたのである。ここに、満洲の産業の、戦前の日本への原料供給基地という植民地的な役割があった。

1944年7〜9月の間に、鞍山は米軍による爆撃被害に遭った(松本著, p.146)。しかし、米軍の空爆は、この期間だけしか行われなかった。というのも、翌年2月に米英ソ間で締結されたヤルタ密約で、戦後満洲はソ連の占領地域と決められたからである。そのため戦争が終結する前から、アメリカはもはやソ連の分け前ときまった満洲には手を出さないという、暗黙の了解ができあがっていた。

A戦後

1949年、中国に共産党が権力を確立できた理由に、満洲国の存在がある。満洲国が成立し、満州が中華民国から空間的に切り離された。戦後はソ連が満洲と関東州を占領したため、日本敗戦後も、満洲で国民党は権力を回復できず、共産党が活動する余地ができた。

その上、満州には日本人が建設した工業施設や軍事施設などが多数あった。私たちが訪れた鞍山の製鉄所も、満洲国の遺産の一つとして、国・共両党にとって、工業化・軍需生産の基盤として、ぜひとも確保したいものだった。特に、国民党に比べ兵力が劣った共産党にとっては、満洲国の遺産として残った工業施設や技術者を確保することは、内戦を優位に進めるためにも、権力を確保した後の経済建設のためにも、重要であった。

以下に、鞍山製鉄業をめぐる、主にソ連、国民党、共産党の力関係について、国共内戦の進展に沿ってフローチャートで示す。


(T)製鉄所はまず、日本敗戦後満洲に侵攻してきたソ連軍の手中に入った。当初ソ連は、当時の中国の正統的政府であり連合国の重要な構成員でもあった国民党政権を支持し、1945年8月14日に中ソ友好同盟条約を締結して、製鉄所をソ連と国民党による合弁企業にすることで合意していた(松本著, pp.87, 131)。だが、これは建前にすぎなかった。ヤルタ協定では、満洲と関東州は、国民党軍ではなくソ連軍が占領することとなっていた。それによりソ連は最低でも、ロシア帝国が日露戦争で失った場所、つまり満洲を自己の覇権下に回復しようとした。そのため、ソ連軍は、裏では同じ共産主義の同盟関係にあった中国共産党軍を支援し、国民党軍が満州へ進攻するのを妨げたり、日本軍から押収した武器を人民解放軍へと引き渡したり、さらには人民解放軍が満洲で志願兵を徴募することを黙認したりした。このように、ソ連は二枚舌外交を繰り広げていたのである。

製鉄所を掌握したソ連軍は、製鉄所の再生ではなく、設備の撤去を始めた。この作業は11月上旬までの3カ月弱という短期間で終了した。実に製鉄所の3分の2が被害を蒙った。こうして、ソ連軍は日本人が残した製鉄所の生産能力を減退させようとし、国民党政権との合弁で製鉄所を復興し国民党が利することを妨害したのである。(松本著, p.152)


(U)1946年2月11日にヤルタ密約が公表されると、蒋介石を代表とする国民党政権は、自分たちを無視して米英ソだけで旧日本の権益を山分けし、満洲についてはソ連の覇権が認められていたことを知って憤慨した。そして、ソ連に対して不信感を抱くようになり、対立を深めた。その結果、製鉄所の合弁企業化も断念することになった。ソ連は、国民党との対立が深まったことにより、逆に開き直って、国民党の顔を立てる二枚舌外交を続ける必要がなくなった。そして、よりあからさまに共産党と提携して、社会主義経済建設の拠点として製鉄所再生を行う方針へとシフトした。(松本著, pp.131-132)

他方、もはやソ連はあてにできないと知った蒋介石は、自ら国民党軍を満州へと進め、1946年4月には鞍山を占領し、製鉄所も手に入れた。そして、現地に残っていた日本人技術者を留用して、製鉄所の復興に努めた。(松本著, pp.133-134, 136)

国民党の攻勢によって、共産党軍は次第に満州の奥地、ソ連国境付近の農村地帯へと追いやられた。また、ソ連軍も主要都市からは撤退することになった。

国共内戦においては、国民党優勢、共産党劣勢という状態になった。


(V)しかし、やがて形勢は逆転した。形勢が逆転した理由は、共産党軍がソ連から武器の援助を受け、旧関東軍の武器を捕獲していたこと、それに加えて、旧満州国軍の中国人兵士を取り込み、さらに、満州の奥地に追い詰められていた間、農村部で共産党の軍隊である八路軍に農民を志願兵として徴募していたことである。こうして軍備を増強しふくれあがった共産党軍による猛反撃が始まり、1947年5月からの攻勢で国民党軍を追い詰めていった。その結果、2月には、共産党軍が鞍山を占領した(松本著, p.140)。1948年11月には、満洲全域での共産党軍の勝利が事実上決定した(松本著, p.83)。

さらに、満洲という強大な陣地から、共産党軍は中国全土に強力な軍事攻勢をかけた。これにより、最終的に共産軍は中国全土を掌握して、蒋介石は台湾に逃げ出し、ヤルタで取り決められなかった部分にまで、共産主義勢力は覇権を及ぼすことに成功した。

共産党の満州での勝利が決定した後、1948年12月26日に、鞍山の旧昭和製鉄所は、社会主義国営工場に衣替えした。そして、共産党政権は、復興作業を本格化させた。(松本著, p. 141)

戦後の製鉄所は、日本との産業連関が失われ、中国国内の社会主義経済建設に必要な鉄鋼の供給が生産の目的となったので、銑鋼バランスが是正され、銑鋼一貫作業を基盤とする「自主独立」型の製鉄所へと変化していった。(松本著 p. 193)そして、復興が本格化してからわずか5年ほどの1953年には、生産規模を戦前の水準にまで回復させることができた(松本著 p. 305)。

急速な回復を遂げたのには、いくつかの重要な条件がある。

前述の通り、製鉄所は戦中には米軍による空爆、戦後はソ連軍の大規模な撤去という被害に遭った。しかしながら、中には設備が修復できる状態で残されているものもあった(松本著 p.252)。そのため、一から設備を建て直す必要はなく、その分の時間を製鉄所再生のために有効に利用できた。

また、共産党は、製鉄所に関する知識や経験を持つ戦前から働いていた日本人技術者を引き揚げさせず、留用して、技術指導にあたらせた。これらの日本人技術者は、急速な生産の回復に重要な貢献を果たした。また、操業記録が示された社内資料も残っており、日本人技術者がいるため、その内容を製鉄所内で共有することができた。そして、その情報を中国人労働者が積極的に取り入れることによって、復興が早く進むことにつながった。(松本著 pp.252-253)。要するに、日本の作った製鉄所の設備と技術、そしてノウハウが、社会主義中国の重要な産業基盤となったのである。

しかし一方、鞍山鋼鉄公司は、共産主義のつながりから、ソ連の援助を受け入れることでも、製鉄所の再生を図った。不足の部分にはソ連の設備を取り入れることで、製鉄所の再建を行った。加えて、ソ連で技術研修を受けた技術者たちが、製鉄所でソ連式の生産を管理する幹部として働くようになった。(松本著 pp.293, 300)

このように、ソ連の技術が流入するにつれて、日本人技術者の重要性は薄れていき、1953年には共産党から、日本人の母国への帰還が促され(松本著 p.302)、ソ連から導入された技術中心へと方針が転換していった。その結果、復興が本格化してから10年ほど経った1959年には、銑鉄491.38万トン、鋼塊518.56万トン、鋼材365.8万トン(鞍山鋼鉄集団公司ホームページ−公司概況 )と、満洲国時代の数倍もの生産量に成長し、中国を代表する製鉄所としての地位を築いた(松本著 p. 337)。

(IV)ところが1950年代後半以降になると、鞍山鋼鉄公司は技術革新に立ち遅れるようになる。中ソ対立が始まり、ソ連からの技術援助を期待できない状態になったからである。さらに,鞍山鋼鉄公司では、「精神主義に傾いた自力更生運動」が行われ、技術革新がおろそかにされるようになった。その上、文化大革命による混乱も追い打ちをかけた。(松本著 pp.336-337)これらが原因となり、生産量は銑鉄469.64万トン、鋼塊470.63万トン、鋼材264.08万トン(鞍山鋼鉄集団公司ホームページ−公司概況)と、1959年に比べて落ち込みを見せた。

市場経済化が進み競争が激しくなっている現在、鞍山鋼鉄公司はかつてのように中国の製鉄業をリードする製鉄所ではもはやない。中国各地に他の製鉄所も台頭している。2007年現在、日本の新日鉄が技術協力して出来上がった上海宝山鋼鉄公司が中国最大の生産量を誇っており、粗鋼2857.79万トン、銑鉄2430.95万トン、鋼材2780.19万トン(『中国鋼鉄工業年鑑2008』p. 164)と他を圧倒している。鞍山鋼鉄公司はそれに次ぐ2位の生産量で、粗鋼1616.86万トン、銑鉄1610.00万トン、鋼材1493.44万トン(『中国鋼鉄工業年鑑2008』p. 163)であった。3位には首都鋼鉄公司が迫っており、粗鋼1540.89万トン、銑鉄1485.62万トン、鋼材1356.09万トン(同上)を生産した。

鞍鋼の企業城下町、
社会主義住宅のジェントリフィケーションが進む
鞍山市街地

高速道路を下りて、バスはまず鞍山の市街地へと向かった。料金所から、もう鞍山鋼鉄集団公司の煙突から煙が出ているのが見える。

下りて間もなく、日本の建材メーカーであるYKKの工場を見た。このように外国企業が進出しているケースもあるがそれはまれで、この都市は基本的に中国国内企業である鞍鋼とその関連企業の集積地である。「鞍鋼〜」という文字をたびたび見かけた。製鉄所が近くにあるという立地条件から、「鞍山新工鋼結構有限公司」という、鉄骨・鉄筋を作っている工場がある。コンクリート工場も見かけた。その敷地内にはセメントが貯蔵されているタンクが10本ほどあった。セメントは製鉄所から出る高炉スラグという副産物を原料にして作られる。この工場も、鞍鋼から出たスラグを利用していると考えられる。

市街地へ向かう途中は、かなり多くの場所で、新たに工場や企業のオフィス用と思われる建物が建設中である。

鞍山の市街地は、鞍山駅を中心に、鉄道の西側には鞍鋼がある。そして、鞍鋼周辺には小規模な機械・自動車の修理工場、それから日産、Audi、Fordなど私たちにとってもなじみ深い自動車販売店もあった。また、製鉄所の近くには、鞍山市人民政府や公安局などの行政機関も立地する。

住宅は、工業都市だけあって、社会主義住宅が多い。だが、どれもかなり老朽化しており、中にはもう誰も住んでいないものもあるように見えた。その一方で、新しいマンション建設も進行中であった。古い社会主義住宅を取り壊して、新しいマンションを建て、率先してジェントリフィケーションを推進している。私たちが見た老朽化した社会主義住宅もいずれ取り壊される運命にあると言っていい。建て替えるためには住民を強制退去させなければならないが、仮に住民がそれに反対であったとしても、共産党政府は絶対権力を持つため、最終手段である暴動を起こす以外に抵抗はできない。ジェントリフィケーションは順調に進んでいるようで、このマンションを売ることで、鞍鋼は莫大な利益を得る。まさに、共産党政府が、不動産バブルに乗って一種の「企業」と化しているのである。街にはマンションの広告が多く、そのなかには「鞍鋼嘉園」と書かれているものもあった。鞍鋼がこの事業に手を出していることがわかる。

中国の資源戦略のとばっちりを受け、
鞍鋼の視察はかなわず

私たちが乗った車は、市内を通り抜けて、鞍山で一番有名な公園であるという「二一九公園」の方向へと向かった。この公園は1948年2月19日の「鞍山解放記念日」にちなんで命名された。総面積は112.5ヘクタールあり、敷地内には遊園地や植物園、動物園も設置されており、湖もある(遼寧鞍山二一九公園景区)。

この公園付近で、社会主義住宅が並ぶ中に、外壁が黄色で瓦屋根の古い2階建ての家を発見した。満洲国時代に建てられたものと考えて間違いない。かつては旧昭和製鋼所の職員が住んでいたのだろう。この家もいずれ再開発の波に飲み込まれるのだろうか。

二一九公園の向かい側に車が止まった。ここで、「社長」であるという男性と出会った。彼と一緒にバスに乗り工場へ向かうことになった。

本来ならば、私たちは旧昭和製鋼所すなわち現在の鞍鋼を訪問する予定であった。最初現地からの連絡では訪問できるとのことだったが、結局ダメになったのだ。こうなってしまった背景には、海外巡検直前に起こった「リオ・ティント事件」がある。英豪系の資源大手企業リオ・ティントは中国側から出資を受けることに合意していたが、自分にとってメリットがないとわかるとそれを破棄した(Blooomberg.co.jp−【経済コラム】リオ出資失敗に学ぶ中国、野心は消えず―Wペセック )。その後、リオ・ティント社と中国との鉄鉱石価格交渉が暗礁に乗り上げ、中国の資源戦略が壁にぶつかった。中国はその報復措置として「オーストラリア人が産業スパイした」としてリオ・ティント社を摘発したのである。(「リオ・ティントも捕まった中国ビジネスの闇」)。そして「鞍鋼に当分の間外国人を入れるわけにはいかない」ということになり、私たちはそのとばっちりを受けてしまったのだ。

私たちは、結局、この社長に案内される形で、鞍鋼のかわりに、鞍千鉱という鉱山にある鉄鉱石の砕石工場を視察することになった。

成長する中国経済のコア
地域的産業体系の形成が進む鞍山

私たちの車は鞍山の東にある、千山の方向へと向かった。 千山は変化に富んだ景観で、仏教や道教の寺院がある。温泉地や観光客向けのホテルなどが整備されている(中国・遼寧・千山風景名勝区ホームページ−千山の概況)。市場経済化とともに、中国では、都市間競争が著しくなっており、鞍山では観光業にも力を入れて、観光客誘致を図っているようだ。

中心地から車を走らせること10分、玉仏山トンネルを抜けて鞍山の郊外に出ると、市街地の景観とは異なり、高層マンションは見られず、建物の密集度も低い。

トンネルを抜けて、まず進行方向右に見えたのは遼寧科技大学である。ここで技術者を養成し、次世代の鞍山の産業を支える人材を作りだす環境が整っている。

進行方向左には、「鞍山高新技術創業服務中心」すなわちハイテクのインキューベーションを援助するサービスセンターである。このセンターが直接鞍鋼と関係があるかどうか、正確にはわからない。だが、現在の鉄鋼業においてコンピューターによるプラント管理は重要である。情報化社会において、鞍鋼を中心とする工場間のネットワーク構築にも一役買っている可能性もある。鞍鋼のハイテク技術者が、スピンオフしているのかもしれない。

沿道には機械、冶金、建材、鉄筋、板金など、鉄に依存する数え切れない工場が集積していた。鞍鋼で作られた鉄を利用して、近くの工場がより川下の生産過程をになっている。


砕石場に向かう道路に向かって曲がるところで、鉱山鉄道の線路を横切った。一応電化はされているが、線路脇は雑草が生い茂っていたり、岩が転がっていたり、また枕木はところどころ土に覆われて見えなくなっていたりと、インフラ整備の状態はあまり良くない。


線路を横切ったあと、両脇に山を見ながら工場へと車は上り坂をあがっていった。この道路をしばらく行くと、露天掘りの鉄鉱山を車内から見ることができた。山肌が削り取られており、鉄鉱山開発を積極的に行っている様子がうかがえる。鞍山では、鉄鉱石は露頭が表出しており露天掘りで採掘可能なため、探鉱コストはそれほど高くない。

このように、鞍山は、単なる製鉄の場ではなく、鞍鋼を中心とし、川上の採鉱から川下の鉄鋼製品生産、そしてそれらを支える技術者教育・ハイテク管理技術という、大規模な地域産業体系をかたちづくっている。ここが、産業経済を基盤に急速な成長を果たす、中国経済の足腰の強さを表象するコア地域のひとつであることが、実感された。

鞍鋼へ原料供給、鞍山集団鉱業公司

しばらく道路を走ると、青いコンベアーが延び、一際目立つクリーム色の工場の建物が見えてきた。見た目はまだ新しそうだ。ここが、私たちの視察する工場である。


午前10時半頃、国営企業である鞍山集団鉱業公司に到着した。ここは、鞍鋼の原料生産基地のひとつである。この工場で鉄鉱石を砕石し、鞍鋼へと運搬して鉄を生産する。

敷地に入ると、比較的大きな駐車場が設置されており、8台ほど駐車していた。そして清掃員がおり、きれいに整えられている。

Google Earthを見ると、採石地から2本のコンベアーが伸びていて、会社敷地内の工場へとつながっている。この会社の敷地内には建物が大小合わせて約20ある。一部の建物どうしは青いコンベアーでつながれている。

この会社に到着して、まず事務所がある建物のロビーに通された。外は午前中で明るかったが、建物内部の電気はついておらず薄暗く、人がいる気配はほとんどなかった。ロビーの壁には、この会社の全体図が掲げられ、工場に勤める「模範共産党員」の写真が並べられ、工場の職場の隅々まで、共産党の組織が根を張っているということだ。

ロビーで社員からヘルメットを渡されてかぶり、私たちは、砕石工場の一つへとバスで向かった。山の斜面を切り開いて造ったため、敷地内の道路は勾配がきつい。

砕石工場に到着して、まず入り口で見たものは、鉄鉱石がどのように加工されていくかを示した図や説明書きであった。工場内部では、6台の巨大な円柱型の砕石機がグルグルと回転していた。採掘された時点では大きい鉄鉱石も、この機械によって破砕され直径2、3pの小石になる。砕石機の受け口には砕かれた鉱石が出てきていた。破砕することによって、高炉の中で鉱石が溶けやすくなり、鉄鋼生産がより効率的になり、質も向上する。それにしても、機械がものすごい騒音で、耳がおかしくなりほどだった。

この後私たちはバスに乗って事務所の前まで戻った。車内で、この会社のマネージャーという人が、この工場について説明してくださった。

この工場は、2005年に建設されたばかりで、まだ新しい。そして、2006年から生産を開始した。この工場は2つの鉱山を所有しており、コンベアーで掘り出された鉄鉱石が運搬されてくる。運ばれてきた段階ではまだ大きい鉄鉱石が、この工場で破砕され小さくなる。この工場は鞍鋼のみと取引しており、実際生産するのは鞍鋼から注文された分だけとのことだ。そして、トラック等は使わず専用列車のみで鞍鋼に送られる。この会社は鞍鋼の子会社のような役割を担っている。

現在、この工場では950人が働いている。社員の月給は2〜3000元と、遼寧省の平均1934元(日本貿易振興機構―遼寧省概況)に比べるとやや高い水準である。この砕石工場自身では社宅を保有しておらず。労働者の多くは、鞍山の中心地から通勤してくるそうだ。おそらくほとんどの人は、先ほど中心地で見た社会主義住宅に住んでいるのだろう。

説明の終わり際に、このマネージャーは、「戦前は、日本がこの鉄鉱石をみんな持っていってしまった!」と私たちに吐き捨てるように言って去っていった。

この工場はまだ比較的新しいことから、鞍山では今でも積極的に新鉱山開発を行っていることがわかる。鞍鋼は原料地立地でコストを抑えながら、生産を続けている。コストの低い露天掘鉱山の開発がいまなお続いているということは、より採掘コストで不利な位置にまだ採掘されない鉄鉱石がまだ豊富に賦存している可能性を示唆する。英豪系リオ・ティントの権益に中国が手を伸ばしたことは、鞍山の資源が今すぐ枯渇の危機に瀕しているのを意味するわけではないということだ。それでも、長期の視野で、グローバルな資源覇権の確保を目指し、経済地理戦略をとる中国共産党の政治姿勢。これは、目先の短期的・金融的利益追求を至上とするネオリベラリズムの諸国には、とうてい真似ができない。

視察終了後、私たちは露天掘りの鉱山を眺めながら、再び鞍山の中心地へと向かった。

広大な敷地を誇る鞍鋼−周囲から観察

再び鞍山の中心地へと着き、バスが線路の上を通る立体交差を走ると、鞍鋼の敷地の手前側に石油タンクが見える。この道路は千山西路といい、鞍鋼の南門につながっている。

鞍鋼の中に入る許可を得ていない私たちは、広大な敷地を誇る工場を周囲から観察することにした。

周囲を回りながらガイド氏が鞍鋼について英語で説明するなかで、製鉄所が出来上がったのが “It was built in 1948.”と述べたのが、私たちの耳にとまった。日本人以外の外国人にも、そのように説明しているのであろう。もちろんこの説明は正しくなく、歴史は戦前の昭和製鋼所時代にまでさかのぼるが、何も知らない外国人は、この製鉄所をすべて中国人が自力で作ったと信じてしまうだろう。中国の産業はすべて「自力更生」であって、戦前に日本が果たした貢献については明示したくない、という共産党の考えが垣間見られる。中国では、ガイドは共産党から旅行者に説明することの制限をうけており、共産党にとって都合の悪いことは話さないように指導されているという。

まず私たちは、南門の方へと向かった。南門では自動車や自転車の往来が激しい。門をよく見ると、パラソルの下に警備員が立って厳しくチェックしており、「スパイ事件」にかなり敏感になっているようだった。

南門を通過し小さく雑然とした路地へと曲がっていく。この路地は、鞍鋼の南西部に位置する。鞍鋼の敷地の向かい側には、比較的広めの自動車修理工場がある。また鞍鋼側に目を向ければ、敷地の境界に沿って太い燃料パイプが走っており、鞍鋼各所の生産活動を支えているのがうかがえる。

小さな路地をしばらく行くと、鞍鋼の構内鉄道の線路が横切っている。Google Earthを見ると、鞍鋼内には建物相互をつなぐ構内鉄道が張り巡らされているのがわかる。コンベアーがスムーズな生産活動に貢献しているが、鉄道も、高炉・製鋼工場や圧延工場との間を結んで原料や中間製品を運搬し、効率良く生産が行われているのである。このとき、私たちは、シュコダ製の電気機関車が鉱石の積んである場所へと向かっていくのを見た。シュコダは、社会主義時代、チェコスロバキアを代表する国営輸送機器企業であった。チェコ製の機関車を使用していることは、中国が、東欧の共産主義国にまたがる産業連関の下で、製鉄業に必要な技術や機材の導入を行っていたことを表わしている。

さらに道路脇を細かく見てみると、道路際の建物には雑に洗濯物が干してあったり、いかにも中国らしさを感じさせる。あちこちに労働者向けの食堂が立ち並んでおり、私たちが訪れたとき正午近くであったので、昼食を取りに行く労働者の姿が見られた。また市場も近くにあり、そこで食事を購入する者もいる。

その路地をしばらく行くと、鞍鋼の西南門にぶつかる。それ以降は工場専用道路になるので、そこを通るわけにはいかず、引き返すことになった。

南門がある千山西路を逆戻りし、かつての満鉄本線に沿った建国南路へと入る。100メートルほどで、鉄道の高架下をくぐって鞍鋼へと延びる路地を見つけた。よりはっきりと中の様子を見られるのではないかと思い、その路地へ入った。しばらく行くと、そこでも検問を行っていた。どこからでもセキュリティに気を配っており、関係者以外は立ち入りできないようになっていた。そのため、引き返して建国南路へと戻ることになった。

 

(上図:松本俊郎著『「満洲国」から新中国へ』,pp.150)

再び建国南路を鉄道本線に沿って北上する。『「満洲国」から新中国へ』に描かれている図によると、かつての満鉄本線に沿って化学工場が建っていた(松本著 pp. 150)。製鉄過程で出てくる副産物加工工場やタール工場などであり、洗炭コンベアーが走るように描かれている。現在でも、鉄道本線沿いにはコンベアーが走っており、図に描かれていたものと似た配置をしていることから、化学関係の設備が位置しているのだろう。

鞍鋼の正門は建国南路沿いにある。正門はしっかりした門構えで、鞍鋼が繁栄していることを象徴しているようだ。正門でも警備員が検問を行っており、どこにも増して厳しいチェック体制が敷かれていた。


正門から遠くを望むと、高炉が数台見える。高炉は製鉄所の主要な設備で、鉄鉱石とコークスを混ぜて溶かし、高温で酸化鉄を還元して銑鉄を取り出す。こうしてできあがった銑鉄は各工場に送られて加工され、鉄製品へと形を変えていく。

高炉は、敷地の中心に集まっているようだ。満洲国時代には9基の高炉があった。戦後、八路軍に爆破されたり、ソ連軍の撤去の被害に遭ったりしたが、鞍鋼が成立し復興作業が進むにつれて、そのすべてが修復された(松本著 pp.186)。現在、高炉は7基である(『中国鋼鉄工業年鑑2008』 pp. 364)。つまり、2基は解体されたことになる。ちなみにコークス炉については、満洲国時代が17基であった(松本著 pp. 207)のが、現在では19基となっている。設備の数はそれほど変わってはいない。それにもかかわらず、生産量はここ10年で2倍にもなっている。1999年は銑鉄847.18万トン、鋼塊850.56万トン、鋼材624.92万トンであった。2008年には銑鉄1607.82万トン、鋼塊1603.75万トン、鋼材1498.95万トンとなっている。生産量は増加したが、それは単純に設備を増やしたからではないことを物語っている。現在でも技術革新が進み、より効率的な生産が可能となっているのであろう。鞍鋼がますます技術的に成長していることがうかがわれる。

その先に進むと、社会主義住宅が大規模に広がる住宅地区となっていた。

ところで、『「満洲国」から新中国へ』では鞍山市の環境汚染度が全国ワースト3(松本著 pp. 338)とあり、来るまでは「鞍山はそんなにも空気が汚れているのか」とかなりのマイナスイメージを持っていた。しかし実際に行ってみると、特に空気が濁っているということもなく、この日は天気に恵まれていたということもあり、青空を見ることができた。

鞍山では環境保護局も設置されており、鞍山市が環境改善のための努力を払っているのがうかがえた。また鞍鋼でも環境改善のための努力を払っていることをホームページ上で主張している。「緑色製造」と称して、資源の有効利用、廃棄物の再生などに努めている。また製鉄所の緑化にも力を入れているとのことだ(鞍山鋼鉄集団公司ホームページ−社会責任)。周囲を観察中、敷地の周囲が林になっていたり、一部にはきれいな花壇が整備されたりしていたが、それはこの緑化活動の一環であるようだ。もっとも、林は、内部を見せないという産業スパイ対策の意味もあるだろう。

鉄鉱石に恵まれている自然環境、そして満洲国時代の製鉄業の発展を基盤として、現在でも鞍山製鉄業がますます発展していることを確認できた。

この後、私たちは、次なる訪問地撫順へと向かった。

日露戦争の戦跡を遠望し、
日本と同じつくりのサービスエリアで昼食

再び瀋大高速に乗り、瀋陽方面へと一旦戻り、そこから瀋撫高速で撫順へ向かう。鞍山からこのルートをたどって、2時間半の行程である。

高速道路に乗ってしばらくすると、女性ガイド氏が首山を指差した。一見すると単なる低いはげ山にしか見えない。だが、この一帯は100年以上前、日露戦争の激戦の一つである遼陽会戦の舞台になった場所である。首山堡でも、1904年8月26日〜9月4日までの約10日間にわたって戦闘が繰り広げられ、日本軍は約2万、ロシア軍は1万6千もの死傷者を出した(『「坂の上の雲」と日露戦争』山川出版社, 2009, pp.117-121)。この地でも、両国がフロンティアを拡張するために、激しく衝突したのである。

行きと同じ道路を通っているが、改めて見ると、鋼管の工場など、鞍山製鉄業の関連産業が、高速道路沿いにも、広範囲に行き渡っている。また、ところどころに高く積み上げられた石炭の山が見られた。中国では、豊富な埋蔵量を背景に、現在でも燃料を石炭に依存しているのがわかる。

午後1時半頃、井泉サービスエリアで昼食を兼ねて休憩を取る。トイレはもちろん、ガソリンスタンドやレストラン、スーパーマーケット、モーテルもある。見た目は、日本の高速道路の施設とあまり変わらない。私たちは各自トイレを済ませ、スーパーに食べ物や飲み物を買いに行った。飲み物の種類はそれなりに充実している。しかし、食料品については、カップ麺やアイス、菓子、ドライフルーツといった日持ちする商品しか置かれていない。こまめに商品管理するする習慣もなく、流通ネットワークが希薄であるため、パン、サンドウィッチ、弁当のように日持ちしない食品は置かないのだろう。

午後2時40分頃、瀋陽で瀋大高速から瀋撫高速に乗りつぎ、東の撫順へ向かう。この高速道路の起点には「瀋陽重工街」という案内があり、鞍山の鉄を背景に重工業が発達している。進行方向右側には、高層ビルが多く並んでいる瀋陽市街地が一望できた。

しばらくして、市街地を過ぎると、華やかさはなくなる。その代わり、トウモロコシ畑などの農地や畜舎が見られるようになった。集落はまばらに点在している。

撫順に向かうにつれて、地形が丘陵状になってきた。撫順に近づくにつれて、丘と高速道路に挟まれる形で集落が見られ、だんだんと密度を増してくる。

午後3時36分、撫順で高速道路を降りた。鞍山〜撫順間の通行料は105元であった。

石炭で有名な撫順へ到着

撫順は「石炭の都」として有名である。

しかし撫順という都市は、満州におけるフロンティア争いの戦後処理にも大いに関係がある。私たちは、高速を降りてから、最初に戦犯管理所跡へ向かった。

道路沿いには、老朽化した社会主義住宅が多い。社会主義住宅の1階部分は商店として利用されている。ある社会主義住宅の1階には狗肉を扱っている朝鮮料理店があり、看板にはハングルが書かれていた。この他にも朝鮮系の店がいくつか見られた。撫順には朝鮮族の人々も多く住んでいるようだ。

私たちがこれまで訪れた大連や瀋陽、鞍山に比べて、撫順の高層ビルは多くなく、経済水準も高そうには見えない。撫順の主要産業は炭鉱業であり、他の都市へ原料を供給する機能を持つ都市だ。それで、産業の多角化があまり進んでおらず、他の都市と比べると開発がまだ遅れているような印象を受けた。

路上に目を向けると、タクシーの機能を果たす人力車が数多く見られる。ガイド氏曰く、人力車は特に夏に多く走っていて、人々の交通手段でもあり、比較的低資本で始められるので、人々の収入源になっているという。

愛国主義教育基地に指定されている、
撫順戦犯管理所跡

撫順戦犯管理所跡に到着した。門の横には、「二○○五年十一月」と書かれたプレートがあり、撫順戦犯管理所はこの時期に愛国主義教育基地に指定されたことがわかる。



愛国主義教育基地

「愛国主義教育基地」とは、1994年に「愛国主義教育実施要綱」が制定された後、国民の愛国心を強化するための施設として、共産党から指定された施設である。1997年から中国各地で共産党による指定が始まった(岡村志嘉子著「中国の愛国主義教育に関する諸規定」)。

門には守衛がおり、通常はそこで入場料や駐車場代を払う。観光スポットとして整備され、ツーリストマネーを獲得しているのである。

しかし、私たちが訪れたときはちょうど改修工事を行って休業中であった。その場にいた守衛によると、工事は昨年4月に開始されて、来年の5月1日まで続くという。

工事をしていて建物内に入れないので、外から観察するしかない。

撫順戦犯管理所跡

撫順戦犯管理所は元々、満洲国時代の1936年に日本に対して抵抗した囚人を収容するために建てられた監獄だった(新井利男資料保存会編『中国撫順戦犯管理所職員の証言』梨の木舎, 2003, pp.156)。しかし、日本敗戦後の1950年には、戦前満洲国で軍人や官僚だった969人の日本人が、ハバロフスクのソ連法廷の判決によるBC級戦犯として、拘束先のソ連から送られてきた。そして、この戦犯管理所には、奉天空港でソ連に拘束された溥儀も収容されることになった(新井利男資料保存会編, pp.14, 21)。戦後、中国人と日本人の立場は完全に入れ替わり、日本人戦犯は、皮肉にも自分たちに抵抗をした中国人の囚人を収容したその施設に、中国人によってぶち込まれることになったのである。

戦犯管理所では、共産党の方針により、日本人戦犯は拷問を受けることなく、かわりに共産主義思想を教育され洗脳された(小林慶二著『観光コースでない「満州」』高文研, 2005, p62)。戦勝国は、米ソどちらも、日本人戦犯に対して寛大に接した。その目的は、戦犯たちに戦前に犯した罪を認め、反省させて(新井利男資料保存会編, pp.35)、帰国後はソ連や中国に協力して動く人々へと教育することであった。これは、米国主導の極東裁判で戦犯の判決を受けた旧日本軍関係者・官僚らが、収容された東京拘置所(巣鴨プリズン)で米国の寛大な対応と洗脳を受け、戦後は米国の忠実な協力者となっていった過程と同じである。管理所職員には家族を日本兵に殺され、日本人に強い反発を抱いていた者も多かったが、戦犯に手を上げたり、ののしったりしないように指導されていたため、苦悩しながら戦犯の教育にあたった。それにより、プライドの高かった将校クラスの者も、最終的には自分が犯した罪を認識し、反省するようになったという(新井利男資料保存会, p77)。

1956年、瀋陽と太原で中華人民共和国最高人民法院特別軍事法廷が開かれた。太原に収監されていた者も含めて1017人の起訴免除と釈放が決定し、同年6月に335人、7月に328人、8月に354人が釈放された。満州国国務院総務庁長官であった武部六蔵をはじめとする45人については有罪となった。しかし、死刑判決も無期刑も出されず、有期刑にとどまった。ちなみに、武部自身は、病気のため判決後に即釈放され、帰国している。また、受刑者のうち30人については満期前に釈放、そして、1964年までにはすべての受刑者が釈放された。(新井利男資料保存会, pp.25, 27, 29, 39-46)

 

門をくぐると真正面には、コンクリート造りの四角い建物が建っている。その建物の真ん中には監視塔が突き出ており、戦犯が規律違反や脱走しないように見張っていた様子が浮かんでくる。「階段の前までなら足を踏み入れても良い」ということで、実際に足を運び写真を撮った。また入口の横にあった鉄格子のついた窓から部屋をのぞき込んでみると、その部屋にはベッドやイス、タンスが置かれ、当時の様子が再現されていた。

建物の左側の敷地は、上部に有刺鉄線がつけられた高い塀に囲まれている。その中には三角屋根の小屋が建っている。ガイド氏によれば、その小屋が戦犯たちの牢屋として使われていたそうだ。

職員の説明によれば、帰還した日本人により日中友好を深める組織が作られ、「平和の促進や、戦時中の過ちを忘れないように証拠を記念として残す取り組みを行っている」とのことだ。戦犯たちを教育した中国の意図は、かなり達成されているということだろう。

この職員は戦犯管理所についてのパンフレットと本を持っており、戦犯管理所についての説明をしながら、私たちに買うように勧めてきた。それぞれ5元と70元であった。パンフレットには、中国語、英語、日本語で戦犯管理所についての紹介が書かれていた。当時の戦犯が教育を受けている様子や、演劇や運動をしている様子などの写真が載せられている。また、今回は改修中だったために入れなかった陳列館や監舎、溥儀が収容された部屋の写真も載っている。本は『中国撫順戦犯管理所』というタイトルで、日本語で書かれている。写真を多用し、それぞれの写真について説明がなされている。収容所内の運動会、参観旅行、軍事裁判の写真なども載っており、戦犯たちの生活がよくわかる。

改修工事が終わって営業が再開されたら、この場所は再び「日本が中国人に対してやった侵略行為は間違っていた。しかし、その戦犯に対し適正な教育を行ったおかげで、日本人たちが自分の犯した罪を認識ができ、それにより日中友好が深まった」ということを伝え、ますます国民の愛国心を高める施設となるのであろう。中国の博物館は、共産党が伝えたい歴史を伝えるように設計され、政治色が濃く反映される施設なのである。

戦犯管理所跡を出た後、私たちのバスは南に向かい、日本が作った満鉄附属地のなかにある永安台の視察に向かった。出発してから数分、渾河にかかる大きな永安橋を渡る。この川沿いに高層ビルが建っている、もしくは建設中であり再開発が進んでいる。撫順の中心地が、川沿いへと移ってきているようだ。

撫順の都市構造

撫順も、駅前が満鉄附属地となっており、日本によって市街地が形成された。

1907年に撫順炭鉱が陸軍から満鉄に引き渡され、満鉄による市街地計画が始まった。当初市街地が作られた古城子露天掘炭鉱地区は、炭鉱採掘により地盤沈下を起こしたので、より安定した地盤を求めて、現在の撫順駅を中心にした市街地が移転した(『満鉄附属地経営沿革全史下巻』龍渓書舎, pp.959)。

古地図と現在の地図(Google マップ)を比べると、その街路網の形はほとんど変わっていない。満洲国から中華人民共和国へと支配者が変わったとしても、建造環境が残される例といえる。街路の形を変えるには、莫大なコストがかかることになるだろう。

古地図を拡大する 現在の地図を拡大する

撫順市街は、撫順駅からは真っ直ぐに中央大街が、駅から南東に永安大街(現民主路)、南西に千金大街(現解放路)という斜めに走った道路が伸び、この放射状の街路網が、長方形に区切られた街路網である。

市街地は中央大街を境に東西に分けられている。古地図によれば、中央大街に平行な道路は、中央大街に近い順に、東側は東一番町、東二番町、東三番町、西側は西一番町、西二番町、西三番町となっていた。そして垂直な道路については北から、東側は東一条通〜東七条通、西側は西一条通〜西十条通となっていた。つまり南北の道路は「〜町」、東西の道路は「〜条通」と名付けられていた。戦後、中華人民共和国に支配者が変わり道路の名称が変えられたが、命名方法を真似た名称になっている。南北の道路は方角と数字はそのままで「〜街」、東西の道路は「〜路」という名称である。

この街路網は長春ならびに奉天/瀋陽の満鉄附属地とおなじ街路パターンであり、さらには一橋大学の最寄り駅である国立駅前とかなり似通ったものである。中央線国立駅南口から大学通りが伸び、南東方向に旭通り、南西に富士見通りが伸びている。国立での大学通り、旭通り、富士見通りは、撫順ではそれぞれ中央大街、永安大街/現民主路、千金大街/現解放路に相当する。その上、国立も長方形に区切られた街路網が特徴である。そのことが満鉄付属地と国立の開発に関連があることを示唆している。

さらにミクロな都市機能に焦点を合わせてみる。古地図と現在の地図を比べると、中央大街に郵便局があった場所には今も郵便局があり、警察署があった場所には公安局、さらに炭鉱事務所があった場所には今も炭鉱事務所があるなど、建物が持つ機能についても持続性がある。一方、中央大街の東側にあった撫順神社は無くなり、現在では学校やレストランなどさまざまな建物が建っている。神社は天皇支配の象徴であるため、真っ先に積極的破壊の対象となり、別の仕方で土地が利用されるようになったのである。

永安路:大連の大広場を模したロータリー

私たちは、撫順で最も特徴的な都市構造をもつ、永安路のロータリーを視察することにした。永安橋を渡り、労働公園から永安台の中心の通りである永安路へと入っていく。永安路の真ん中がロータリーで、満鉄附属地時代、ロータリーの内側には満鉄の事務所があり、それを囲むように、満鉄職員の社宅があった。ロータリーを囲む道も「永安路」と呼ばれ、このロータリーからは永安路以外に5本の細い道が伸びて、同心円状に街路網を発達させている。これは、明らかに、大連の大広場/中山広場を模した都市計画であり、間接的にロシアの都市計画の影響を受けていることが分かる。

現在では、ロータリーの内側の旧満鉄事務所が、中国共産党撫順市委員会として使われている。ロータリーの周りには、満鉄附属地時代の建物が、修復されながらまだ残る。その中には「老幹部之家」つまり退職した共産党幹部のための家もある。満鉄附属地時代の建物は、そのグレードの高さからか、基本的に共産党幹部住宅として引き継がれている。

以上のことから、かつてこの地の支配者であった日本人が建設した行政用建物ならびに優良な住宅が、新しい支配者である中国共産党の行政用建物ならびに幹部住宅に変わり、支配者が変わっても、その建築がはらむ社会的地位が引き継がれていることがわかる。

ロータリーにはゴミ箱が設置され、街路の美化に努めている様子も見られた。これは共産党の施設が立地しており、共産党の威厳を保つため、そして政治のクリーンさを主張するためだろう。しかし、ロータリーから延びる細い道を見てみると、老朽化した社会主義住宅が並び、ゴミが散乱していた。

対岸の端が霞む広大な露天掘炭鉱

永安路の視察を終えた私たちは、次なる目的地撫順炭鉱へと向かう。南昌路を走っていたときに、大規模な露天掘炭鉱が車内から見えはじめた。古城子露天掘である。

南昌路でバスを降り、露天掘炭鉱を眺めてみる。古城子露天掘は、東西6.6km、南北2km、深さ400mの大規模な露天掘炭鉱である。あまりにも広すぎて、向こうの端はかすんで見えるだけだった。

撫順炭鉱

撫順では、昔から高麗人により、陶器を焼く燃料として石炭が使われていた(?炳富著『満鉄撫順炭鉱の労務管理史』九州大学出版会, 2004, pp.13)。しかし清の時代になると、風水の考えから採掘が禁止された。しかし、近代になって外国列強が清に注目するようになると、まずロシアが資源を目的に満洲へとフロンティアを拡張し始めた。そして、1896年、ロシアは清と「カシニー密約」を調印、鉱物採掘権を得た(?炳富著, p.14)。

その後、日露戦争に勝利した日本は南満州での権益をロシアから奪い、満鉄が主体となって、炭鉱の開発を進めた(?炳富著, p.30)。この後鞍山では鉄鉱脈も発見され、撫順で採れた石炭と鞍山の鉄鉱石を結合して、鞍山製鉄業にこの上ない立地条件ができあがった。石炭はコークスの原料であり、鉄鉱石の酸化鉄を高温で溶解して還元する作用を持つからである。この地域は原料地立地の一大製鉄工業地域に発展し、撫順から鞍山に石炭が運ばれ、鞍山で銑鉄が作られ、それが日本国内へ輸出されるという、間接的な資源収奪のプロセスが、日本敗戦まで続けられたのである。

 

(左写真:立川駅にて撮影)

南昌路に沿って、炭鉱方面へと延びる鉄道が走っている。私たちは運良く、機関車が石炭を運搬しているのを見ることができた。この鉄道の架線柱は、横になっている長い2本の棒の間が、縦の短い棒によりいくつかの長方形に区切られ、さらに対角線に棒がつけられている形である。これは日本国内の鉄道の架線柱でもよく見られる形状であり、この鉄道は日本覇権時代に敷かれ、そのまま存続しているものと考えることができる。

巨大な平頂山惨案記念館が、
日本軍の中国人虐殺を告発

通りをさらに進むと、右手に「撫順平頂山惨案記念館」という巨大な施設が建っていた。

「平頂山惨案」とは、1932年9月15日、抗日軍により撫順炭鉱が襲撃されたことを受け、日本兵は平頂山住民が抗日軍と関係していると考えて、住民たちを集合させて一斉に虐殺した(新井利男資料保存会編『中国撫順戦犯管理所職員の証言』梨の木舎, 2003, pp.106、重田敞弘著『「満州」再訪・再考』草の根出版会, 2003, pp.79-80)、という事件である。

私たちが来たときには、もう閉館時間を過ぎていたので、外から記念館の写真を撮ることしかできなかった。平頂山事件の記念館は新しく、その敷地は広大で、石のタイルが敷かれ、よく整えられている。その中にはやや大きい記念館の建物があり、平頂山事件を伝えている。また共産党が主張する事件の犠牲者数「3000」と大きく書かれた記念碑が建ち、大勢の中国人が日本軍の手で虐殺された屈辱を、中国政府が人々に銘記させようとつとめている様子が見られた。

巨大な露天掘り炭鉱を参観台から望む

平頂山事件記念館の外観を一通り見た後、私たちは再び車に乗り、西の方にある露天掘炭鉱を一望できる参観台へと向かうことにした。

炭鉱のそばには、社会主義住宅が立ち並んでいる。古いものも新しいものもあり、炭鉱労働者などの住宅需要に合わせ、住宅建設が常に進んでいたことがわかる。社会主義住宅の1階には、保育施設が設けられているのを見た。

炭鉱沿いには関連施設が立地しており、煙突から煙が出ていて、操業している様子であった。1936年の撫順炭鉱の組織図によれば、採炭場に加えて石炭液化工場、研究所、火薬製造所、工事事務所、製油工場、機械工場、発電所、運輸事務所が設置されていた(?炳富著, pp.58)。現在でも、石炭を利用して、同様の施設が立地しているのであろう。

もう夕方6時を過ぎ、すでに参観台は閉まっている時刻である。それでもどうしても露天掘炭鉱を一望したいため、参観台に向かった。

私たちは、満洲国時代に鉱山鉄道を利用して運行されていた旅客電車の古城子駅のそばで車を降りた。いまでは電車は廃止され、駅は、現在は使われていないようである。線路の上を歩道橋で渡りながら線路を見てみると、石炭を運搬する電気機関車が停まっている。5本の線路が採炭場の方向に向かって延び、さらに分岐しているのを観察することできた。採掘し続けるにつれ、次々にレールを敷き、効率良く石炭を運搬したことがうかがえる。歩道橋の橋脚は、廃レールを再利用し曲げて作ったものである。この手法は日本がよく使っていたものであり、この歩道橋は戦前から存在して現在まで残っている可能性がある。

線路を越えると、小高い丘の上に炭鉱の関連施設が多く密集している。ここでガイド氏はなぜか、炭鉱を管理する施設と思われる「西露天掘鉱保衛所」という場所に入った。驚いたことに、私たちのガイド氏は参観台の場所を把握しておらず、そこを参観台だと勘違いしていたようだ。その敷地内には幾棟か建物があり、その一つが改修中であった。そこでガイド氏は、改修工事に使うリフトに目をつけ、これに乗って露天掘炭鉱を眺めようとした。工事を行っていた現場の人にそうさせてくれるよう頼んでみたが、当然ながら、工事用に使う装置であり一般人が乗るのは危険だからということで、断られてしまった。

次第に夕暮れとなり、あせってきた。私たちは、手持ちの地図を見て、参観台の位置が書いてある場所に自分たちで歩いて行った。「煤都之魂」すなわち「石炭の都の魂」と刻まれた石を横目に見ながら400メートルほど余計に歩くと、「参観台50メートル左」という案内板が現れた。

「撫順西露天鉱参観台」の門には警備員が見張っていた。すでに閉館時間は過ぎていたのだが、入れてもらえるかどうか直接交渉をしてみた。その結果、特別に入れてくれることになった。入場料は1人5元である。

まず露天掘炭鉱の方へと向かった。はるか彼方まで続く巨大な穴の内部は、段々になっている。石炭の露頭を、上から下に、円心状に掘っていった結果、12層の採掘場になり、400mの深さにまで達した様子がうかがえた。だが、緑の雑草が生えはじめていて、最近はもう採掘作業が行われていないことがわかる。露天掘炭鉱の向こう側には、火力発電所の放熱塔が見え、この炭鉱の石炭を利用した発電が行われているようだ。

参観台からしばし露天掘炭鉱を一望したのち、広場に展示されている鉱業用のクレーンやパワーショベル、電気機関車を見た。日本敗戦後、撫順炭鉱は当時の社会主義圏から技術や機械を導入するようになっていたことがわかる。旧ソ連から入ってきたことを示す「CCCP」と小さく書かれたプレートの付いた電気機関車、チェコスロバキアのシュコダ、東ドイツのLEW製の電気機関車などがあった。例外として、日本のコマツ製の重機も展示されていた。また中国製の重機や電気機関車も展示され、自国の技術力で採掘を進めようと努力している姿が示されていた。

撫順炭鉱について自慢する石碑も、いくつか置かれていた。例として「最も古い歴史を持つ」とか「国共内戦で撫順が解放された後、いち早く生産が回復された」と歴史を誇るもの、「石炭や油頁岩が採掘可能で、世界で最も効率よく資源を利用している炭鉱とか「中国の露天掘炭鉱の中で最も包括的な運輸している炭鉱」と技術面を誇るもの、「中国国内で最も炭層が厚い炭鉱」、「中国大陸で地面の最低地点」、「露天掘りとしてはアジア最大の空間・面積」と規模の大きさを誇るもの、などがあった。さらには「共産党幹部が最も多く視察に来ている炭鉱」と共産党からの注目度を誇るものまで置かれていた。地域間競争で自都市の優位性を主張しようとする姿勢がにじんでいる。

露天掘りできる撫順の石炭は、鞍山の製鉄業を資源立地という点から支えてきた。しかし現在では、もう枯渇している。ガイド氏によれば、この露天掘炭鉱も来年閉山し、自然に帰すとのことである。このため撫順は、観光業にシフトしていこうとしている。この展望台も、そのアトラクションとして、改装されている。それは、タイルや展示用の台座がまだ新しめであり、参観台も比較的最近に建てられたものであることからわかる。そして、観光客の安全面を考えて手すりを設けたりして、きちんと整備されている。しかし、ツーリストマネーを獲得するにしては、案内板も不十分であり、なにより、旅行会社の間に情報が浸透していない。

この露天掘が閉山後、鞍山の製鉄業は他の炭鉱から石炭を獲得しなければならなくなるが、周囲には他にも多くの炭鉱が存在するため、それほどダメージにはならないだろう。一方撫順においても、古城子露天掘の周辺にもまだ炭鉱が残っているため、石炭産業自体はすぐには衰退しないであろう。しかし閉山後、撫順市民の雇用が減少し、失業率上昇という結果になりかねない。「石炭の都」である撫順の未来が気になるところだ。

瀋陽へ戻る

露天掘炭を視察し終わると、もう日が沈んで、あたりはすっかり暗くなっていた。すでに午後7時近く、あちこちで電灯が灯されている。小さな商店の看板も、比較的高いビルや、さらに橋までもが紫やオレンジなどの派手な色で明るくイルミネーションが施されていた。中国の派手好みの文化を感じられた。しかし、高速道路に乗って撫順の中心地から離れると、先ほどまでの明るさとは対照的に、暗くてほとんど何も見えなくなった。

撫順を出発してから40分ほど、瀋陽の市街地はもうすぐだ。遠くの方にひときわ目立つ塔を発見した。それは瀋陽のTV塔で、高さは305.5m、地方都市のタワーとしては高い部類に入るだろう。瀋陽周辺に映像情報を配信する点で、このタワーが果たす役割はかなり大きいものであるにちがいない。

高速道路を下りると、輸出加工区(FTZ)と書かれたゲートの工業団地が目にとまった。海に面してはいなくとも、大連港までの交通が至便な瀋陽には、このような海外向け生産基地が立地している。撫順の炭鉱業が壁にぶつかったいま、余剰となった労働力は、バスでなら通勤可能なこうした瀋陽の生産機能に吸収されてゆくのかもしれない。

車は渾河を渡り、瀋陽北駅方向に延びる青年大街を通った。この周辺はかつて、日本が支配する満鉄附属地と清朝の旧城内にはさまれ、中国人や諸外国の資本によって比較的自由な経済活動が営まれた「商埠地」と呼ばれる区域である。現在では、かつての商埠地、とりわけ青年大街沿いは瀋陽の経済中心であり、都市発達の軸となっている。

青年大街の周辺には、次々と新しい経済基盤が導入されている。少し北に行くとオリンピックセンターがある。北京オリンピックで日本オランダのサッカーの試合が行われたというスタジアム、テニスコートやプールなどが敷地内にある。青年大街を北方へ進むと、多国籍企業が建設した5つ星の豪華ホテルが並んでいる。また青年大街には西武百貨店、フランスのルイ・ヴィトン、イタリアのブランドであるエルメネジルド・ゼニアといった外資系の店舗も進出している。かつては奉天駅(現瀋陽駅)近辺が都市の中心であったのに対し、現在ではかつて商埠地だった場所が、瀋陽の繁華街として栄えているのである。

その後、瀋陽市内のレストランで夕食を取り、瀋陽名物の雪花ビールを飲みながら、この日の長かった視察についての感想を述べ合った。それからホテルに戻り、翌日の瀋陽市内視察に備えた。

(齋藤俊幸)