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▽中東経由にてラゴスへ ―国際的に移動するナイジェリア人―
水岡ゼミの巡検は、現地集合である。ゼミのメンバーはそれぞれ、ドバイ経由のエミレーツ航空、ドーハ経由のカタール航空などを利用してラゴス国際空港に到着した。前述の2社はいずれも中東の航空会社である。両社のフライトは新規参入のため、成田ではなく名古屋、関西国際空港発となっている。オランダの航空会社であるKLMを利用し、成田から従来のルートであるヨーロッパ経由で現地に来たゼミ生もいた。しかしながら、最近では燃油サーチャージの安さや航空会社の評判の高さから、ナイジェリアに向かうルートとして中東経由が好まれるようだ。
私が利用したのは、カタール航空である。経由地のドーハからラゴス間では、乗客の8割から9割はナイジェリア人で、機内は満席だった。彼らの多くは中東に買い付けに行ったり、出稼ぎに行ったりと、国際的に移動するナイジェリア人である。ただし、現地の人が多く利用をしているにも関わらず、客室乗務員に黒人は一人もいなかった。たまたま北京オリンピックからの凱旋帰国の選手が乗り合わせていたためか、飛行機の着陸時には拍手がわき起こった。
こうして私たちは、自身にとって初めての経験であるアフリカの地、ナイジェリアに降り立ったのである。
▽思いのほかスムーズだった入国手続き
飛行機から空港内に移動し、そこから入国手続きに向かった。その間、きしむエスカレーター、“動いていない”動く歩道などを目の当たりにし、ナイジェリアのインフラ整備に対して一抹の不安を覚えた。ただし、道の脇には銀行の広告がたくさんあり、バブル経済に沸いているナイジェリアの一面を見ることができた。
いよいよ入国の手続きに入った。入国審査は列に並んで一人ずつ行うのではなく、何人かでひとまとめに行われた。通常は、団体がひとまとめにされるようである。窓口で検査を受ける前に、まず、別の係官が書類をチェックし、その後窓口で入国スタンプが押される。
ナイジェリアのツーリストビザは、在日本ナイジェリア大使館で申請の際、1日滞在ごとに200USドルのトラベラーズチェックの提示が必要で、提示した日数分しか有効なビザが発給されない。私たちのビザは、14日間の有効期間である。私たちは、9月10日までの滞在期間をもらった。到着日と出発日は、期間の計算に含めないようである。
(右写真:ナイジェリア・ビザ)
私たちの周りの外国人には中国人が多く、私たちもパスポートを見せるまではその一人だと思われていたようだった。偶然にも、知人に会うためにナイジェリアに来たという一人の日本人女性に会った。その後は、後述のカラバルまで、日本人滞在者に遭遇することはなかった。
この間、特に問題は起こらず、カタール航空利用組は、スムーズに審査を終えることができた。エミレーツ航空を利用した他のゼミ生の話では30分待たされたとのことで、便によってかかる時間は違うようである。
▽両替 ―USドル・ユーロ現金の携行の必要性―
無事に荷物を受け取り、私たちは現地の通貨ナイラへの両替をすることにした。
両替の窓口には電光掲示板があり、そこにはYENの表示があった。心を躍らせて係の人に尋ねようとしたが、そもそも係の人に気づいてもらうのに一苦労だった。やっとのことで「円からの両替はできるのか。」と聞くと、「あっちに機械があるから、そこでどうにかしてくれ。」と自動両替機を指さされた。自動両替機は、ドル、ユーロ、ポンドから選んでその通貨を入れると、ナイラが自動的に出てくるという便利なものであった。しかし、日本円の表示はなく、使用することはできなかった。
(上写真:ナイラ紙幣)
私たちは、ビザ申請の際に必要だった米ドルのトラベラーズチェック(TC)を、両替に使おうと持参していた。しかし、TCが使えるという情報のあったトラベレックスで、トーマスクックのTCは大丈夫だがアメックスのTCの取り扱いはしていない、と言われた。ラゴス内にアメックスのエージェントもあったが、そこでも両替はできなかった。
事前の情報とは異なることも往々にしてあるということを痛感すると同時に、こうした国ではどんな状況にも対応できるように準備と対策を怠ってはならないことを学んだ。このようにTCが使えない事態も考えられる以上、やはり、充分な額のUSドルやユーロの現金携行は必須である。
▽入国ロビー ―トラブルに巻き込まれないための対策―
税関は横の目立たない所にあり、通らずにそのまま進んだが問題はなかった。途上国では税関で何かしらの難癖をつけられ賄賂を要求されることもある。そうした場合は5USドル札くらいの小額紙幣を渡してトラブルを避けた方が賢明である。USドルやユーロはハードカレンシーなので、現地通貨よりも好まれる傾向にある。賄賂だからと潔癖な態度をとって、渡すのを拒否していたりすると、さらに大きなトラブルに巻き込まれる可能性もあるので注意したい。ただし、このラゴス空港ではそうした不正を取り締まる“監視員”のような人がいたため、税関でこうした種類の問題が起こることはなかった。
入国ロビーの全体の印象としては、あまり清潔感がないと言ってよく、水漏れや朽ち果てた機械類が目立ち、ちょっとした異臭が立ちこめていた。レストランやお店といったものはなく、あるのはスナックバー程度のものである。ロビーの出口付近には低い壁があり、ロビーから出てくる人を見ながら待つことができるスペースがある。そこには多くの人がたむろしていた。
ロビーには、携帯やトランシーバーを持った“案内人”がうろうろしていた。あるゼミ生はそのうちの一人に声をかけられ、両替所に連れて行かれた。その人と一緒に両替をしたところ、表記してある通常のレートより悪いレートを適用されたようで、2000ナイラほど損をしたとのことであった。おそらく案内人は両替所の人とグルになっていて、マージンの一部がその懐に入るシステムとなっているのだろう。こうした人たちに引っかからないためには、急いだ様子を見せない、きょろきょろしないなどの態度をとることが重要である。
私たちは無事、出口でガイド氏と先生に会い、ドバイ経由のゼミ生の到着を、空港内の両替所の横の観光情報センター(Tourist Information Centre)で待つことになった。センターといっても四畳半ほどのスペースしかなく、冊子が数冊おいてあるだけである。その内容を見ると、地図や交通の案内といった、実用性のある具体的な情報は載っていなかった。ラゴス州政府が観光業のアピールのために作成したパンフレットのようなものがそのままおいてあるという感じで、観光客に情報を提供しようとする熱意はあまり感じられなかった。
こうして私たちは、ラゴス国際空港に現地集合し、巡検の初日がはじまった。
▽空港からラゴス大学へ ―インフォーマル・セクターの大きな存在感―
私たちは荷物を積んで専用車に乗り込み、15時半に空港を出発した。最初の目的地はラゴス大学である。空港から大学までの距離は、だいたい10kmほどである。
5分くらい走ると、車窓からソファーなどの大型の家具を扱っているマーケットを見ることができた。道路は片側二車線ずつあり、中央分離帯も設けてある。道路の状態は良く、走行中にがたつくことはほとんどなかった。信号はほとんどなく、交差点には交通整理のための警察官の詰め所が設置してあった。電力が1日2時間ほどしか供給されない状態であるから、仮に信号機があってもその役目を果たせないのであろう。
ラゴスの慢性的な渋滞については事前に知っていて、覚悟はしていたのだが、実際、渋滞はひどく、車は少し動いては止まるといった状態であった。車内には排気ガスのにおいが常にたちこめていて、それには閉口した。その渋滞を逆手にとって、車の間をぬって飲料やスナック菓子、果てはCDラック!までも売り歩く人たちがいた。携帯電話のSIMカードや新聞も彼らから購入することが可能である。ナイジェリアにおける経済インフォーマル・セクターの活発さを、いきなり目の当たりにした。ナイジェリアにおいては、これも、重要な経済活動の一部なのである。
▽独立後、半島部に拡張した都市機能
これから向かうラゴス大学は、独立後の1962年に設立された大学である。独立前には、140kmほど離れた郊外に、イバダン(Ibadan)大学がイギリスによって設立されていた。しかし、ナイジェリアを代表する大学としての機能を今日、担っているのはこのラゴス大学である。ラゴス大学は、9つの学部と医学部からなる総合大学で、3つのキャンパスを有している。私たちが訪れるメインキャンパスは、本土の半島部にある。
ラゴスは、イギリス植民地時代、もともと大西洋に面する2つの島の上に発達した都市であった。それに対し、私たちが空港から車で走っているこの本土の半島部は、植民地時代には一本の橋で都市と結ばれるのみで、農村が広がっている場所だった。半島部の開発は、独立直後から始まった。しかし、計画性はなく、平屋から3階建てくらいまでの低層の建物が、無秩序に広がっている。
独立後、半島部と島部とを結ぶ橋が2本新たに建設され、島部との空間的統合が強まった。今では、この半島部には副次的なオフィス機能が進出し、公営住宅もある。インド人や中国人も住んでいるようだ。ここに住む人々は、一般に車を所持しておらず、移動には公共交通機関が利用されている。また、買い物はスーパーなどのフォーマル・セクターではなく、近くで開かれている野外のマーケットで行っている。
ガイド氏によれば、郊外の住宅は、昔は住宅一区画(おおよそ20坪)あたり15万ナイラだったものが、今では80〜100万ナイラにまで価格が上昇し、特に都市部では、一区画あたり1500万ナイラにもなっているところがあるそうだ。ガイド氏自身もラゴス郊外に住んでいるようで、どちらかというと高所得層に属するのであろう。
16時半頃、私たちは大学に到着し、インタビューを受け入れて下さったオルコジュ(Ayodeji
Olukoju)文学部長と面会した。私たちが案内された建物は7階建てで、真ん中の中庭が吹き抜けになっていた。イギリスの大学に似たような建物の造りである。一番上の7階に地理学部の部屋があり、教授の名前が書かれたプレートが掛かったその部屋に入った。そこで、オルコジュ学部長とババトーラ教授のお話を伺うことができた。
▽ナイジェリアの大学の制度 ―イギリス式システム―
インタビューはまず学生の印象という話題から始まった。ナイジェリアの大学生は総じて勤勉である。それは在学中の総合成績がFirst, Second Upper, Second Lower, Pass, Failという形で段階ごとに評価され、それがそのまま卒業証明書に記載されることと強く関係している。こうしたシステムと同様に、大学の学部は3年で卒業というイギリスの制度を採用している。ただし、これはプログラムによっても異なり、法や医はその例外である。教学言語は英語で、テキストは、英米で出版されたものを使用している。また、カリキュラムにもイギリスの影響が大きく及んでいる。
ナイジェリアの多くの大学は独立後の設立にも関わらず、イギリスのシステムを引き続き採用している。ここで浮かび上がってくるのは、植民地支配が“システム”の面で自分のやり方を残すことによって、その土地に影響力を残すことを可能にしているという視点だ。システムというのは独自に構築するのが難しく、植民地から独立後も、宗主国のシステムに頼らざるを得ない面が多く残る。システムという根幹に旧宗主国への依存があるため、独立後も支配関係が残ってしまう。
▽旧イギリス植民地に残るイギリスの教育制度
このように、ナイジェリアの教育制度には、イギリス植民地支配のおもかげが依然感じ取れる。イギリスの教育システムは、小学校:6年、中学前期:3年(ここまでが義務教育)、中学後期:2年、大学予科:2年、大学:3年という形をとっている。ナイジェリアのシステムは、これを現在もそのまま踏襲している。
ナイジェリアでは、日本での中学、高校課程に相当するSecondary School の最終学年時に共通の試験がある。これは、イギリス旧植民地の多くに共通の制度であって、例えば、同じイギリス領であった香港では、「香港中學會考(HKCEE)」(中学5年修了後の統一テスト)、「高級程度會考(HKALE)」(中学7年修了後の統一テスト)として実施されている。(注)ただし、2012年までに四年制大学に移行のため「香港中學文憑考試」に一本化される。)
この試験は、各人の生涯のキャリアにおいて極めて重要な位置を占めるもので、実施する機関として、The West African Examinations Council (WAEC)という英語圏西アフリカ諸国における国際的な試験、国内における試験の両者を運営する母体が、ナイジェリア、コート・ジボワール、シエラレオネ、ガンビア、リベリアの五カ国がメンバーとなって組織されている。ナイジェリアの大学においては、その試験のうちの一つであるThe West African Senior School Certificate Examination (WASSCE)が利用されている。これはSenior Secondary School course(高等学校課程)の3年生が受験するもので、試験の成績は9段階で評価される。大学側は、あるレベルを入学の際の必要条件として提示し、その条件を満たす学生を入学させるという制度になっている。WAECの本部のオフィスはナイジェリアにある。その支部のオフィスは、空港からラゴス大学に向かう途中で目にすることができた。
▽高い競争率の大学進学
ナイジェリアでは、大学進学における競争率がとても高い。SecondarySchool卒業後、大学に進学する生徒は15%ほどである。1992年のラゴス大学では、25,000人の受験者に対して、入学者数は、4,992人であった。ナイジェリア全体では、100万人の受験者のうち大学に進学できるものは5万人に満たないと言う。ここからわかるのは、ナイジェリアにおける大学教育が、未だにエリート育成の場という性格から脱皮できていないことであろう。
ただし、大学教育はもはやある特定の一部の人にしか開かれていない機会ではない、と学部長はおっしゃった。女性の大学進学も珍しいことではない。ただし、北部の大学ではその割合は低くなるというように、地域間で差があるという問題がある。これから取り組むべき課題は、教育費をいかに安く抑え、奨学金などを整備できるかという点であるという。また最近では、大学に準ずる高等教育機関であるポリテクニックよりも、BSE(Bachelor of Science in Engineering)を大学で取る方がより好まれる傾向にある。高等教育への志向とその重要性は、ナイジェリアにおいてますます高まっていくと推察できる。
▽乏しい留学生の受け入れ ー国立・私立における差―
ラゴス大学に在籍する留学生は、わずか5人しかいない。この理由は軍の支配にある。軍の方針によって、卒業証書が出なかったり、制度の改悪があったりすることが、留学生に敬遠されてしまう要因になっているのである。また、もう一つの理由として、私立大学と国立大学の留学生獲得に対する熱意の違いがある。私立大学は留学生の受け入れを積極的に行っていて、全学生に占める留学生の割合も高い。一方で、ラゴス大学の数字が示すように、国立大学の留学生数はそれに比べて少ない。この国立大学の消極的な姿勢は、一つ目の理由と関連していると考えられる。
▽卒業後の進路 ―政府機関への就職―
大部分の学生は、卒業後、フォーマル・セクターに就職する。就職の際に、大学時の専攻を問われることはない。この点は日本と同様で、雇用側が従業員に対して教育の機会を持てることが利点として重視されているようだ。今日、もっとも大規模な受け皿として挙げられるのが行政機関である。つまり、学生の大半は卒業後、公務員となる。
就職率は、大体7割強と、途上国の高等教育機関としては比較的良い方であるが、就職率は昔に比べて総じて良いとは言えない。1980年代には職の保証があったが、最近は厳しいという。また、フォーマル・セクターが主な就職先のため、地域間で需給バランスが異なるといった問題も指摘されている。
卒業後、軍に入る学生ももちろんいる。ただし、かつてのように、主流あるいは人気の進路というわけではなくなっているようだ。ゼミの事前学習で、「ナイジェリアにおいて軍は最も良い組織のうちの一つであり、社会的、政治的に成功したいならば、軍に入るのが一番良い」という話を聞いたことがある。だが教授は、「それは、一種のプロパガンダだよ。」と笑いながらおっしゃった。クーデタが相次いでいた昔は、軍が政治の実権も持っていたから、学生が高級官僚や政治家を志そうとすると、軍に入るという選択肢しか用意されていなかった。しかしながら、今日ではその必要は低い。官僚養成機能としての軍がすでに昔の姿になったということから、ナイジェリアにも民主主義が定着してきていることがうかがえる。
▽ラゴスの交通の現状とその背景、今後の対策
次に、今回の私たちのナイジェリア巡検におけるメインテーマの一つである、公共交通についての話題に移った。
ラゴスの交通は常に麻痺状態なことで有名である。ゼミでテキストとして講読した、Survey of Subsaharan Africa: A Regional Geography, Roy Cole, H.J.de Blij, Oxford University Press, 2007のp.310によると、ラゴスにおいて交通渋滞は頭痛の種であり、市内を8〜16km移動しようとする際に必要な時間は2,
3時間であるという。おそらく混雑のピーク時での計算であるが、実際、空港からラゴス大学までの10kmを1時間かけて移動した身にとってはオーバーな数字ではない。
今日のラゴスにおける公共交通の無秩序状態を招いた原因には、大きく2つある、と指摘されている。
第一に、インフラへの投資が充分になされなかったこと、が挙げられる。ラゴスが急速に都市発展したきっかけは、1970年代の石油価格の急上昇にある。その後、1980年代に入って一転、ラゴスは石油の過剰供給によって借金を負うことになった。同時期、経済的にはインフレが進み、インフラや社会福祉に対する投資は停止された。それが今日の不十分なインフラ整備につながっている。
第二に、都市計画が無計画であること、が挙げられる。ラゴスの急激な発展と人口増に都市計画が追いつかず、無計画のまま都市の拡張が進んでいる。(同上書)
こうした状況の中で、何か対策を行っているのかという質問をした。教授によると、1980年代は、政治的・法的な理由で借款を得るのが難しかった。しかし、今日では水道システム、交通システムの整備に関する借款を組む計画があるという。こうした計画を遂行する機関としてLAMATA (Lagos Metropolitan Area Transport Authority)が設けられた。LAMATAの計画には、BRT(バスを用いた高速交通機関 Bus Rapid Transit System)やライトレール(LRT)の構想が盛り込まれている。私たちは幸運にも9月12日にLAMATAでインタビューを行う機会に恵まれた。LAMATAについてはコラム「西アフリカの交通インフラ」の中でも詳細に記している。
▽鉄道システムの整備 ―整備不全と今後の見通し―
ラゴスは浅瀬に位置しており、その地理的条件から地下鉄を敷設するのには莫大な投資が必要となる。一方、既存の鉄道に関しても、“ナイジェリア鉄道(NRC)は100%政府出資”と定められた1955年のNRC設立の際の法律によって、民間の投資は制限されてきた。これらの状況は、長く鉄道システムの整備不全の原因となってきた。
一方で現在、NRCの改革が推進されている。この背景の一つとして、高速輸送ネットワークに対する関心の高まりがある。教授はその一例として、ラゴス-イバダン間を25分、ラゴス-カノ間(1000km)を1時間で結ぶ計画を挙げて下さった。すでに、民間企業やOdua group(South West State設立の会社)からの関心があるという。
しかしながら、私たちが考えてみるに、この距離を1時間で結ぶことは、実際、新幹線技術の導入によっても不可能である。したがって、この計画がどこまで実行可能な形で進められているかは未知数であると言わざるを得ない。また、インドや中国による路線のリハビリの成果を聞いたが、教授のおっしゃるところによると成果は見られないようだ。
▽まだカーブ(Bend)を曲がりきれないナイジェリア
次に、教授は今日のナイジェリアの発展状況を、アメリカの政治学者であるRichard A. Joseph の理論“Prebender Politics” Richard A. Joseph, Democracy and prebendal politics in Nigeria The rise and fall of the Second Republic, African Studies Series 56, Cambridge University Press,1987を参考文献に挙げて説明して下さった。
教授は、右のような図を黒板に描き、今日のナイジェリアは発展に向けた曲がり角の“手前”の状態にある、と説明してくださった。私たちの方から、昨今の資源価格の高騰は曲がり角に向かう原動力となりうるのかという質問を出した。その答えとして、教授がおっしゃったことは、「ナイジェリアの政治が資源をきちんと管理する能力を持つことができれば、それも可能になるだろう。」という内容であった。石油をはじめとする資源価格の高騰がナイジェリアの国全体に恩恵をもたらさない元凶は、ガバナンスの問題にあるということを示唆なさっている。
「日本のような先進国であっても、自国が発展のどの段階にいるのか、どこへ向かおうとしているのか把握することが大事である。」という言葉が印象的であった。これからどうなるのか、それに至るプロセスはどうあるべきなのかという“goal”と“plan”が必要なのは、何もナイジェリアのような発展途上国だけではないのだ。今日の日本にこうした発想が欠けているのは言うまでもないだろう。当然の指摘ではあるけれども、日本の“発展”についてもう一度考えるきっかけを下さる貴重なお話であった。
▽発展に向けてのナイジェリアの課題
曲がり角の手前の状態にある原因として、植民地経験の影響による発展への意欲の低さが関係しているのでは、と質問してみた。これに対して、ナイジェリアと同じ旧英植民地であり、多民族国家であるマレーシアの例を挙げて答えて下さった。同じような背景を持つマレーシアは発展を遂げており、カーブを曲がる前の状態にある理由と旧植民地であることは必ずしも関連しないだろうと言う。ナイジェリアの現状は、発展に対するメンタリティーのありかたの問題であると指摘なさっていた。日本の経済発展をモデルに「アジア的価値観」を掲げ、マレーシアを引っ張ったマハティール首相のケースも念頭にあったのだろうと感じる。
もう一点、発展を妨げる要因として、民主主義の概念に対するコンセンサスがないのが問題であると指摘なさっていた。今日のナイジェリアに民主主義が欠けていることが問題の本質ではなく、他の国から押しつけられたり、単なる模倣に過ぎない「民主主義」を受け入れるという発想に問題があるという。「単なる模倣に過ぎない」というのは、「民主主義」の理念が、一般的な様相を持ちながら、実は西欧の国民国家 nation stateという同質的な構成を前提としていて、それを植民者が恣意的に国境で仕切ってできた領域からなるナイジェリアに機械的に持ち込もうとする状況を語っているのであろう。こうした政治的基盤の全体的な弱さが、ナイジェリアの現状を厳しくしていると言える。
大学の話から、交通システム、今後の発展の話まで、一時間もお時間を割いてお話し下さった教授に感謝しつつ、私たちは大学を後にした。また、私たちは新たなアポイントメントを取りつけられたため、13日に再度ラゴス大学に訪問できることとなった。
▽宿泊先のイコイ(Ikoyi)地区への移動 ―ラゴス市民のマーケット―
私たちはインタビューを終えた後、ラゴス島イコイ(Ikoyi)地区にある宿泊先へと移動した。移動中、ヤボ(Yabo)というローカル・マーケットを通り抜けた。
一つのパラソルがそれぞれ店の目印になっていて、そこでは、靴、かばん、肌着、携帯電話、野菜や食料品など、無数の商品を扱っていた。道の両脇にパラソルが隙間無く続く。それぞれの店には、一人か二人の店員がいて、その中には女性も目立つ。こうしたことから、店の経営単位は個人であり、固定された店舗で商売を行わないインフォーマル・セクターとしての経済活動が行われていることがわかる。一般市民向け商業活動のための施設に関して、公共投資が積極的に行われていないことの現れが、こうしたマーケットの存在であるといえる。
扱っている商品には、例えば食料品のような毎日購入する必要のある「最寄り品」や、携帯電話などの頻繁に買う必要のない「買い回り品」がある。すなわち、このマーケットには日常生活の必需品を買う人と、需要の頻度が少ない商品を買う人の両者が来る。マーケットの周りの通りには、黄色のミニバスが通っているのが観察できた。ここに買い物に来る人は車を保持しているような層の人びとではないので、こうした公共交通機関を使ってやってくる。このため、その商圏は広いといえる。
ラゴスは事前に聞いていた通り、人がたくさんひしめき合っている。この辺りの治安はあまりよくないとの話を聞いていた。車と店の距離が近く、商品を売るために窓をたたかれたりしたため、到着して早々から、緊張感を伴ったドライブとなった。しかし、カメラを向ける私たちに陽気に答えてくれる人たちも多く、何人もの人に「?好(ニーハオ)」と声をかけられた。中には、カンフーのポーズを取って撮影をせがむ人もいた。このあたりまで足をのばす東洋人の顔立ちの人間というと、中国人ということになるのだろう。一方で、見慣れない東洋人を警戒してか、するどい視線を向ける人もいた。ラゴスの人口密度の高さとラゴス市民の日常生活を初めて肌で感じた体験であった。
▽本土からラゴス島へ ー高級住宅地区:イコイ地区―
私たちは、1970年代独立後二番目に建設されたイコ(Eko)橋を渡ってラゴス島に入った。今は使用されていない茶色の朽ち果てた発電所が、車窓から見える。橋からは高層ビルがいくつも建っているのが見渡せた。銀行も林立していて、バブル経済に湧くナイジェリアの一端を垣間見ることができる。左側には、ナイジェリア随一の港であるアパパ(Apapa)港が開けており、ガントリークレーンや停泊する船舶が見られる。
こうした都市景観は、一見したところ、先進国のそれと変わらない。しかしながら、火事で焼けて半壊したままのビルが放置されていたりする。また、少し車を進めると、密集した低所得者層の低層住宅が広がっているのが観察できた。ビジネスセンターとして機能する一方、貧困街としての性格も隣り合わせなのである。
私たちのホテル「ボゴビリハウス」 のあるイコイ地区は、高級住宅地として名高く、外国の大使館や公邸もこのエリアに集中している。植民地時代の高級官僚が住んでいた地域が今日の高級住宅地になっているのだ。私たち外国人にとっては、とかく危ないと言われるラゴスの中にあって、治安の面でいくらか安心のできる場所である。ホテルの前には守衛さんが常駐していて安全対策には気を配っているようだ。ただし、ここに位置するホテルは軒並み価格が高い。私たちの泊まったボゴビリハウスも例外ではなく、シングルルーム1部屋が1泊184USドルである。
▽アフリカン調のホテル
ボゴビリハウスは、美術館が経営する、インテリアを中心に全体をアフリカン調にまとめた凝った造りのホテルだ。高級住宅を改装した二階建てで、部屋は全部で10部屋ほどしかない。家具はすべて木で作られたものに揃えてあって、壁には木彫りの仮面が飾ってある。写真や絵も飾られていて、被写体や題材はアフリカの大地や人であった。
一方で、ホテルの中ではワイヤレスインターネットに接続可能で、ロビーではCNNのニュースを放映している。それぞれの部屋にはエアコンもあり、シャワーからはきちんとお湯もでる。私たちが必要とするようなアメニティは、それなりに揃っている。実際、ここに泊まっている客は、外国人、特に西洋人が目立つ。アフリカのローカルを強調しながら、同時にグローバルな客層にきちんと対応しているのである。
こうした環境の中におかれて、私たちは「“アフリカ”の演出」を強く感じざるを得なかった。到着して一日目であるが、空港からホテルの間で見たものや感じたことと、ホテル全体の印象と装飾は、かみ合う要素がない。このちぐはぐな、図柄の違うジグソーパズルを無理矢理あわせたような違和感は、“現実、ありのままのアフリカ”と“想像、人工的イメージとしてのアフリカ”とのずれから生じるものなのだろう。実際、アメリカの黒人居住区を見るようなラゴスの光景を思い出すと、私たちが想像していた“アフリカ”には、ボゴビリハウスのような所でしか遭遇できなかったように感じられる。こうした現実から切り離され強調された演出は、観光のためのモチーフとしてのアフリカが存在するために必要なことなのかもしれない。ホテルの入り口では、アフリカンな色とりどりの布地を売っていた。イメージを持って来訪する外国人の観光客が、そうしたモチーフを要求しているというところは、多分にあると言える。
しかしながら、施設は全体として、HPで見て想像していたほどきれいではなかった。日本では中高級ホテルの部類に入る価格設定であるが、鍵のかからない部屋があったり、短時間でジェネレーターに切り替えられ通電はしたものの、夕食中に三回停電が起きたりなど、トラブルがいくつかあった。設備は万全とは言えないながらも価格設定が高めなのは、高級ホテルの供給量がそもそも限られていて、かつ主な利用者である、高所得層の外国人には高い支払い能力があるからである。大多数のナイジェリア人には、もちろんこのようなホテルに宿泊できる支払い能力はない。こうした価格設定の上下乖離は「二重経済構造」として指摘できる。私たちは今後、多くの点でこの実態を目の当たりにすることになる。
▽長い一日を終えて夕食
ホテルの1階で映画の上映のようなイベントを行っていた。1階には洒落たバーもある。美術館経営ということもあり、文化の中心として機能し近隣から人びとが集まってくるようだ。
そうしたことで1階が使えなかったため夕食は部屋でとることになった。初日ということもあって、ビールを頼み食事もたくさん頼んだ。メニューは西洋料理が中心で、メインは肉(牛、鶏、羊)か魚で、付け合わせは、ホワイトライス、フライドライス、フライドポテトから選ぶことができた。注文を終えてから10分以上たって、「この料理は用意できない。」と告げられたり、持ってくるのが遅かったり、中々のスローフードであった。味は大味であったけれどもお腹がすいた私たちはおいしくいただいた。辛さがきつくて食べるのが大変な料理がありそれには苦労した。
長時間のフライトを終えていきなりインタビューというハードな一日を終えて、23時頃、解散となった。