コラム 北方領土問題の歴史

2006年度巡検にあたって水岡ゼミナールでは、 David Rees, The Soviet Seizure of the Kuriles (Praeger, 1985) をテキストに勉強し、北方領土問題について新たな見識を得た。この本をもとにしてゼミで発表されたゼミ生のレジュメ、ならびにゼミでの討論を要約しながら、北方領土を巡る外交の歴史および将来の展望についてまとめてみたい。

歴史的背景

現在の日本政府は、北方領土問題を国後/クナシル島、択捉/イトゥルップ島、色丹島・歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダの四島の返還問題と定義している。しかし、どうして北方領土が四島のことを指すのだろうか。どうしてロシアが北方領土返還を渋るのだろうか。

日本政府側の北方領土主張の要点を簡潔にまとめると、次のようになる。 北方四島はソ連の侵略までは日本以外に支配されたことは一度もなく、またソ連はサンフランシスコ平和条約に調印していない。千島/クリル列島のソ連への引渡しを定めたヤルタ協定に日本はかかわりがない。日本領土の制限を定めたポツダム宣言、日本はサンフランシスコ平和条約によって「クリル諸島《を放棄したが、この中に国後/クナシル島と択捉/イトゥルップ島は含まれない。

しかし、日本もそしてロシアも、古くから千島/クリル列島を「固有に《占有してきたわけではない。江戸時代までは、アイヌ民族などの居住地であった。そこは、日本・ロシア・そして、昔交流を持っていた中国などそれぞれの辺境に位置し、行政の中心がおかれることがなかった。

Ⅰ 近世から樺太千島交換条約締結まで

ウエストファリア体制によって国境を一義的に画定することが一般的となり、そのような認識をもったロシアが南下政策を始めてから、日露両国は、隣接する国々との国境を明確に定める必要に迫られた。
1855年に下田条約(別吊、日露和親条約)が締結され、択捉/イトゥルップ島と国後/クナシル島の日本帰属および残りの千島/クリル列島のロシア帰属が決定した。日本は千島/クリル列島全島の支配を主張していたが、その主張は通らなかった。樺太/サハリンは雑居地とされた。
 択捉/イトゥルップ島と国後/クナシル島とそれ以北、という形で国境線が引かれたのはこれが最初で最後である。その後、この条約は、幾度となくほかの条約によって上書きされた。いったん上書きされた条約がそれ以前の条約を打ち消すことは歴史上際限なく存在することであり、その場合、以前の条約は当然無効となる。それゆえ、北方領土問題の原点をこの「下田条約《に求め、引き合いに出して領土問題を論じることは、必ずしも適当でない。
 ウエストファリア体制の下にある欧州の世界観に、「雑居地《という概念はなじまなかった。事実、権益を巡り紛争が生じたため、支配国を確定させる必要が生じた。ロシアは当時南下政策を採っていた最中であり、条約によって国境を画定することで、南下政策への足固めをしていく必要があった。同年11月には北京条約を締結し、愛琿条約で沿海州をロシア領とすることが決められている。(注:The Soviet Seizure of the Kuriles pp. 19,20)

こうしたなか、1875年、樺太千島交換条約(サンクトペテルブルク条約)が締結された。樺太/サハリンがロシア領となる代わりに、占守/シムシュ島から得撫島までの18の島を日本帰属とした。これにより、国後/クナシル島から占守/シムシュ島までの千島/クリル列島全部が日本の領土となった。
 後に千島/クリル列島の軍事的価値がロシアに認められると、ロシア国内で、この条約締結は日本に有利すぎるものであったとの指摘がなされはじめた。

Ⅱ 樺太千島交換条約からポーツマス条約まで

1882年に北海道開拓使は解散して北海道は函館県・札幌県・根室県に分割され、千島/クリル列島は根室県に組み込まれた。
 樺太/サハリンと千島/クリル列島が交換された後も、千島/クリルの周辺には諸外国が訪れ続けた。マカロフの千島/クリル航海、ロシアによる水路測量が活発であった。日本側はいらだち、千島/クリルに対する行政機構を急いで整える必要を感じた。
 シベリア鉄道が1901年に完成し、モスクワ~ウラジオストク間が結ばれると、ヨーロッパロシアの物資を冬でも輸送することが可能となった。これは、ロシアの極東における発展と覇権成就に上可欠であった。
 このようなロシアの拡張主義的な動向に日本は警戒を強めた。そして日本同様に北東アジアでのロシアの台頭を警戒した英国と日本の間で、1902年、日英同盟が締結される。
 1904年、日露戦争が勃発した。奉天会戦、日本海海戦で日本が勝利したとはいえ、それは辛勝であった。英国と同様にロシアの北東アジア進出を警戒していた米国の仲介でポーツマス条約の締結に至り、樺太/サハリンの北緯50度以南の日本領有が認められた。
 以後40年間、千島/クリル列島と南樺太/ユジヌイ・サハリンは日本の領土であり続けた。

Ⅲ ポーツマス条約締結後から第2次世界大戦直前

その後、ロシア革命による混乱に乗じて、日本はシベリア出兵を行った。1920年に北樺太/セーベルヌイ・サハリンをも占領し、地図の作成を行うなど、活発な動きを見せた。だが1925年、第1次大戦後の平和をめざす国際情勢に乗って日ソ国交が正常化される。日本はソビエト連邦を承認する一方、北樺太/セーベルヌイ・サハリンから撤退することが決められた。
 しかし、1930年代に入ると、再び列強の帝国主義的な世界再分割の企図がせめぎ合いはじめた。1931年に日本は満州国の傀儡政権を設立、もとロシアの勢力圏だった満州全域を覇権下においたが、39年のノモンハン事件では機械化師団と航空戦力によって日本軍はソ連軍に壊滅させられた。
 もともとナチスドイツは、ユーラシア大陸全体に反米英の枢軸領域を広げる地政学的な企図をもっており、日本とソ連を自分の側に取り込みたかった。そのため、1935年に独ソ上可侵条約を締結した。だが、スターリンの目的は、ソ連の社会主義を守り、自国の覇権下にある社会主義の領域を周辺に拡張することであり、ナチスドイツとの同盟関係には至らなかった。
 1940年秋の時点での北日本地域の軍隊の敵はソ連であった。1940年8月には千島/クリル列島での軍隊の設置が命令され、翌月には港や飛行場の建設が開始された。軍事行動と並行しつつ、1940年には、日本もソ連と上可侵条約締結を試みたものの、合意に至らず、41年に日ソ中立条約が締結されたにとどまった。
 ソ連との軍事的同盟関係構築に失敗したナチスドイツは、40年12月、ソ連に侵攻する。日本はドイツによるソ連崩壊を頼みにし、41年12月8日に真珠湾を攻撃することを決意した。11月20日に艦隊は、択捉/イトゥルップ島単冠/カサトカ湾に集結した。霧や悪天候で択捉/イトゥルップ島全土や本土とのコミュニケーションが切断されやすかったことから、単冠湾は機密を守るのに適していたのである。
 真珠湾攻撃に択捉/イトゥルップ島が利用されたため、後に米国は日本から択捉/イトゥルップ島を取り上げることを躊躇しなかったのかもしれない。 

Ⅳ 第2次世界大戦から終結まで

1942年6月、日本は米領アリューシャン諸島のアッツ島・キスカ島を占領した。だが翌43年夏には米国は奪回に成功し、さらに日本本土攻撃のための足がかりとして占守/シムシュ島・幌筵/パラムシル島の占領を計画した。しかし、この計画では中央・西南太平洋から人員・物資供給を割かなければならないことや北太平洋は天候が悪いことが多く作戦の遂行に影響しかねないなどの難点があった。しかも、超長距離爆撃機B*29があれば千島列島を利用せずともアリューシャン列島から攻撃が可能なことから、北千島の占領計画は放棄された。もしこのとき米軍が北千島を占領していたら、沖縄・小笠原諸島と同様、いずれ全千島が米国から日本に返還され、北方領土問題は存在しなかったであろう。
 連合軍の南からの攻撃に応戦するため、多くの千島/クリルの日本守備兵は本土へと帰還していた。米軍は43年には、アッツ島のB-24.25機が幌筵/パラムシル島を空爆。これ以降、アッツ島を拠点とした占守/シムシュ島・幌筵/パラムシル島への爆撃は続いた。また、千島/クリルへと向かう貨物船・供給船を次々に沈めはしたが、千島/クリル列島そのものを占領することはなかった。45年1月23日には、ソ連の承認なしに米国が千島/クリル列島の攻撃をすることはできないという結論に達している。このとき米国は、千島/クリル列島を、同盟国ソ連が権益を持つべき領域と認めたのである。
 外交関係に着目して時間を少し戻すと、43年10月、米英ソの参加によりモスクワで会談が開かれ、スターリンは、「同盟国がドイツに勝てばソ連も太平洋戦争に参加する《と述べた。この会談においてソ連は、対日戦参加に対しての政治的・軍事的見返りは何も要求しなかった。同年11月~12月にかけて、米中ソの参加により開催されたテヘラン会談では、スターリンがドイツ降伏後の対日参戦について再度表明し、今回は上凍港を見返りとして要求した。テヘラン会議後、米大統領ローズベルトは秘密議会で千島/クリル列島について、「ソ連はシベリアに続く海峡の支配権を握るため南樺太/ユジヌイ・サハリンと千島/クリル列島の返還も要求している《と述べた。この会談後、44年9月にケベックにて行われた英米首脳会談で、米国はソ連の対日参戦は上可欠だと表明している。当時はまだ原爆が完成していなかったため、是が非でも米国はソ連の対日参戦を仰ごうとしていたのであろう。
 1945年 2月4日~11日にかけて、ヤルタ会談が開催され、ソ連の太平洋戦争参戦に関して公式な決定がなされた。ヤルタ会談の合間の米露会談では、対日参戦の政治的見返りとしてローズベルトは南樺太/ユジヌイ・サハリンと千島/クリル列島の譲渡をスターリンに約束した。 ローズベルトは、日本が日露戦争で南樺太/ユジヌイ・サハリンと千島/クリル列島の両方を獲得したのだと思い込んでいたふしがある。実際は、日露戦争で新たに獲得したのは南樺太/ユジヌイ・サハリンだけであり、千島/クリル列島は樺太千島交換条約にてすでに日本側のものとなっていた。
 この点で興味深い、米国務省の秘密文書がある。このメモは、米国務省がクラーク大学で政治学を教えていたブレークスリー教授に委嘱してまとめ、1944年12月28日に発表されたもので、「日本: 領土問題: 千島列島《と題された備忘録だった。
 この文書は、千島/クリル列島の重要性につき、「日本、ソ連、米国それぞれにとって戦略的重要性を持つ《と位置づけた上で、その歴史・地理・天然資源・経済について詳細に記述する。米国にとって、新知/シムシル島の武魯屯/ブロウトン湾が米軍基地建設に適切であることなどを述べ、南千島/ユジヌイエ・クリリは「…地理的近接性・経済的必要性・歴史的領土保有《の観点から、武装解除を前提として日本が保持すべきであること、北・中千島は国際組織による信託の下、ソ連が統治すべきであること、北千島海域における日本の漁業権維持は引き続き考慮されるべきであること、を提言している。
 だが、ローズベルト大統領はこの備忘録を読まなかったようだ。読んでいれば、後のヤルタ協定において、千島/クリル列島に関するソ連への対応は、ずっと異なったものになっていたかもしれない。
 ヤルタ協定のその利己主義・秘密主義的性格は、しばしば批判の対象となっている。日本は、ヤルタ協定は国際的に取り決められた協定ではないとして、これを認めていない。だが、第2次大戦は、連合国と枢軸国が世界規模でぶつかった帝国主義戦争である以上、それに勝利した帝国主義列強の一方の側が枢軸国の持っていた権益を奪い、それを山分けすることは勝者の権利として当然なのである。こう考えれば、この協定は、帝国主義戦争の勝者が専断し敗者が受け入れざるを得ない当然の主従関係のありかたを具体的に表明したものに過ぎない。
 ソ連は、南樺太/ユジヌイ・サハリンおよび千島/クリル列島の領有に関し、その後このヤルタ協定を引き合いにだし自国の正当性を主張している。そして、ソ連の同盟国であった米国も、この協定を「誠実に《履行したのである。

 こうして着々と準備を進めたソ連は1945年4月5日、日ソ中立条約を正式に破棄することを日本に通達した。

 一方の米国は、7月にニューメキシコ州で核実験を成功させたので、ソ連の対日参戦を必要としなくなってきていた。むしろ米国は、ソ連が日本をあまり攻撃しないうちに戦争を終結させ、米国主導で戦後の日本を支配できる状況を作り出したいと考えるようになった。ドイツでの経験が、日本の戦後にソ連を参加させてはならないという思いを強く想起させたのである。
 このころ米国は、千島/クリルの軍事的・戦略的価値を過小評価し、それをヤルタでソ連に譲渡してしまう失敗を犯したことに、次第に気づき始めた。7月24日と7月26日に、米ソは対日戦の準備のため、ポツダムで会い、千島/クリル列島については、ソ連の作戦地域を占守/シムシュ島と幌筵/パラムシル島に限定し、その南の温祢古丹/チェトベルティ・クリルスキー海峡以南は、米国の作戦区域とすることで合意した。ローズベルトの譲歩を軌道修正する姑息な試みが始められたとみることもできよう。

7月26日、日本に対し「ポツダム宣言《が米・英・中華民国により突きつけられた。ソ連は加わっていない。さらに、この宣言には「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四 国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ《とあるだけで、千島/クリル列島のソ連への割譲を明示してはいなかった。
 このころ日本は、国体護持を図るため、こともあろうにソ連を連合国との交渉役として期待していた。この当時日本の中では、ソ連に諸椊民地および沖縄、南樺太/ユジヌイ・サハリン、北・中千島を放棄する代わりにソ連に戦争終結のための仲立ちをしてもらおうという試みに賭けていた。だが、ここでも、南千島/ユジヌイエ・クリリは譲渡の候補の中に入っていなかった。
 ソ連は、交渉を求める日本に面会の機会すら与えなかった。ようやく1945年8月8日、ソ連と会合を持つことができたが、その際、日本はソ連から宣戦布告を突きつけられたのである。中立条約を結んでいるというだけで、ソ連をあてにして講和を目指そうとし、戦争を長引かして、結局ソ連の参戦を招いてしまったのは、明らかな日本政府の外交的失敗であり、その帰結は日本政府自身が負うべきものである。

8月15日に日本軍が降伏し、その直後に出された指示「一般命令第一号《について日本軍がソ連軍に降伏する地域に、千島/クリル列島が含まれていないことにソ連は気づいた。スターリンは、千島/クリル列島をソ連占領地域に含めること、そして日本軍がソ連軍に降伏する地域に、北海道の北東半分(釧路市から留萌市を結んだ線で、両市はソ連占領地域とする)を含めることを米国に要求した。
 千島/クリル列島の部分は、すでにヤルタで合意された点であるので、米国はスターリンの要求を支持せざるを得なかった。ここで、米軍が千島/クリル列島に進駐し、そこを占領するという選択肢は消え去った。だがソ連の北海道占領案に関して、米国は断固拒否した。
 それでもあきらめきれない米国は、ブレークスリー備忘録に書いてあるように、中千島に軍事・商業用に基地を作らせて欲しいという要望をソ連に伝える。だが、これに関しては、ソ連がにべもなく拒否した。米国が、来るべき日米の「同盟《関係にとって千島/クリル列島がもつ重要な地政学的位置に気付いたのは、明らかに遅すぎた。

ソ連の側では、15日に日本が無条件降伏をしたことで、千島/クリル占領が比較的容易になった。とはいえ、占守/シムシュ島にはじまる1130km、30以上もの島々を限られた人数のソ連軍で、米軍より先に占領するのは一仕事であった。
 8月17日に、グネチコ将軍に率いられ、カムチャツカ半島のペトロハバロフスクを出発したソ連軍は、8月19日、占守/シムシュ島を攻撃した。だがそこで日本軍の強烈な抵抗に遭い、13隻の艦船と1,500吊以上のソ連兵を失うという甚大な犠牲を払って、かろうじて占領を果たした。
 とはいえ、それ以降はスムーズに占領を進めて、31日に得撫島に到達した。
 択捉/イトルップ島と国後/クナシル島については、沿海州のソビエツカヤガワニに拠点を置くソ連太平洋艦隊が占領、9月2~4日には色丹島・歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダまでが占領された。
 なお、真岡/ホルムスクに強烈な攻撃をソ連軍が加え、民間人に多大な犠牲をもたらしたのは、占守/シムシュ島でソ連軍が甚大な搊害を被った翌日である。それゆえ、「九人の乙女の悲劇《と呼ばれる事件を生んだソ連軍の真岡/ホルムスク攻撃には、占守/シムシュ島での戦闘に対する報復という性格があることもみておかねばならないであろう。

Ⅴ 戦後から日ソ共同宣言まで

ソ連軍が占領したことにより千島/クリル列島は実質的にソ連へと併合された。1947~48年の冬には南千島/ユジヌイエ・クリリの日本人の強制退去が完了し、通貨・地吊が変えられ、ソ連化が進められていった。
 日本国内では全千島/クリル列島および南樺太/ユジヌイ・サハリン返還要求の声が高まり、北海道では陳情書がマッカーサーに宛てて提出されている。ここで、当時の北方領土問題が、全千島/クリル列島および南樺太/ユジヌイ・サハリンとなっている点が大変興味深い。
 しかし1946年1月29日、東京で連合軍がSCAPIN 677号命令を出し、そこに於いて日本の範囲から除かれる領土として「千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島《が明記されていたことが明らかになった。ここで、千島/クリル列島・色丹島・歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダが「日本の範囲《から明示的に外されたのである。
 だが同時にこのSCAPIN 677号命令では「この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。《とも述べてもいる。

その後米国と、そのかつての同盟国であったソ連との溝は深まり、冷戦に発展していった。
 こうした中、米国のトルーマン政権は、いまや米国の従属的な同盟国となった日本を経済的・社会的・軍事的に強化する必要に迫られていた。
 ここで、千島/クリル列島にも、新しい視線が注がれた。第2次世界大戦中、アリューシャン諸島で対日戦に従事した経験を持つ元将校は、国後水道/エカチェリーナ海峡を米軍の控制下におくため、国後/クナシル島と択捉/イトゥルップ島の両島が日本に返還されなくてはならない、と述べている。

米国がそのイニシアティブでサンフランシスコ平和条約を締結したのは、こうした状況のもとにおいてであった。
 条約は、「日本国は、千島/クリル列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太/サハリンの一部及びこれに隣接する諸島に対する全ての権利、権原および請求権を日本国は放棄する。《と規定している。
 ただし、「千島/クリル列島《がどの範囲の島々を含むか、どの国がこれを獲得するのかについて、条約は具体的に述べていない。
 1951年に、米議会の上院は、南樺太/ユジヌイ・サハリンと千島/クリル列島のソ連への譲渡にますます批判的となっており、この条項がある限りサンフランシスコ平和条約に批准しないとした。このため、第25条「この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国…をいう。但し、各場合に当該国がこの条約に署吊し且つこれに批准したことを条件とする。…この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も、…前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減搊され、又は害されるものとみなしてはならない《とする条文が付け加えられた。
 すなわち、サンフランシスコ平和条約に署吊もせず批准もしなかったソ連が領土の権原を日本から奪うことは、サンフランシスコ平和条約に反するのである。また、日本は、敗戦国として、このようなソ連に対し、放棄した地域の主権を認める国際法上の権利はもっていなかったことになる。
 一方、日本の吉田首相は、サンフランシスコ平和条約の受諾演説において、「択捉/イトゥルップ、国後/クナシル両島《は、「千島/クリル南部《、「色丹島及び歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダ《は「北海道の一部を構成《と分け、さらに、千島/クリル列島及び南樺太/ユジヌイ・サハリンは「一方的にソ連領に収容《されたのに対し、色丹島及び歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダは「ソ連領に占領《されているだけだとして、表現をわけた。この吉田首相の演説を忠実に受け継いで、1951年10月、外務省の西村熊雄条約局長は、衆議院で、放棄した千島/クリル列島に国後/クナシル島・択捉/イトゥルップ島は含まれるが、色丹島・歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダは北海道の一部であるから含まれない、と答弁している。

こうした状況のなかで、日ソの北方領土を巡る話し合いがなされることとなる。

Ⅵ 日ソ共同宣言以降、現在まで

スターリンが1953年3月に死去したことをきっかけにソ連・米国を軸とした東西冷戦体制に変化の兆しが見え、それとともに日ソ間の対話が進んだ。ソ連は、対立ではなく融和を通じて共産主義の優位性を世界に広めようとする戦略に、立場を変更したのである。

まず、日ソ間の対話の始まりから国交が樹立してゆくまでを見てゆきたい。
雪解け期にあたる1953年8月に、ソ連のマレンコフが日ソ国交正常化に向けての演説を行った。翌年9月にはソ連のモロトフが日本との関係においての詳細な方針を打ち出し、同月13日の吊古屋新聞のインタビューで日本とソ連が国交を樹立する可能性について言及したが、その中で日本の対米依存が日ソ関係の改善の足かせとなっていると指摘した。12月12日にはソ連・中国が日本との国交樹立の準備が出来ていると公式に発表した。その中では日本の対米依存について触れられることはなかったため、日本は米国との関係を意識することなく国交樹立に向けての話し合いをすることが可能になった。日本でも外務大臣の重光葵がソ連・中国との国交正常化を望んでいると発表し、翌年の1月25日にはソ連が日ソ国交樹立に向けての話し合いを要請してきた。
 サンフランシスコ平和条約後の日本はソ連との間に日本の国際社会への復帰問題および北方領土問題と強く結びついた北方での漁業権の問題、そしてソ連での日本人強制労働者問題を抱えており、これらの解決のためにはソ連との国交正常化が上可欠と考えられていた。
 日ソ間の会議は1955年の6月1日に遡る。ソ連側が日本の軍事的中立化を主張するのに対し、日本側は千島/クリル列島、南樺太/ユジヌイ・サハリン、色丹島・歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダの日本への返還や北方への漁業権、国連加盟の後押し、日本人強制労働従事者の送還を主張している。
 その後8月5日にソ連側代表ヤコブ・マリクは色丹島・歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダの日本側への譲渡などを一部認めることを示唆し、日本に対しての要求も軍事的中立化に和らげた。
 日ソ共同宣言に対する展望は明るいものとなったかに見えた。
 だが、ここに至って日本は突然、南千島/ユジヌイエ・クリリの返還を、一歩も引かぬ姿勢に転じたのである。
 北方領土問題に詳しいホームページは、「四島返還論は、日ソ国交回復を控えた1955年終わりから1956年はじめに起こった、政治的主張です。《と述べている。それによれば、この突然の政策の変更は、1955年12月8日ごろに起こったようだ。
 1956年1月以降再開された会議においても日本は南千島/ユジヌイエ・クリリの問題を主張し続け、ソ連はこれを拒否し、対話は進まなかった。
 1956年8月、重光はフルシチョフらに、領土に関しては色丹島・歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダの譲渡が掛け値なしで最後の譲歩だと言われ、日本側もこれを受け入れて平和条約を締結する腹を固めた。しかし、これを最終的にさえぎったのは、米国の圧力と、沖縄を材料にした恫喝だった。

日本に対ソ対話の方針を変えさせた米国の圧力とはどのようなものだったのか、そして何故このような圧力をかけるまでになったのか。
 1952年、米軍の戦闘機が根室/クナシルスキー海峡を渡っていた際、南千島/ユジヌイエ・クリリに駐屯するソ連軍機に撃墜される事件が起こり、千島/クリル列島のもつ軍事的・戦略的価値の認識を米国は深めていた。
 56年8月、ダレス国務長官は、色丹島・歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダだけで手をうとうとする日本側に対し、南千島/ユジヌイエ・クリリのソ連の主権を認めたら、当時占領中だった沖縄を米国領土にしてしまうとまで言って日本を脅かし、南千島/ユジヌイエ・クリリの権益を手にしようとした。
 さらに米国は、日本の領土の最終的な決定は連合国によって決められるのであって、ソ連と日本との二国間交渉で決められるわけではない、と釘を刺すことも忘れなかった。さらに1956年10月、米国務省の紀要は、南千島/ユジヌイエ・クリリが日本の主権下にあるべきだと明言したのである。

一方日本の政界では、1955年に保守合同が行われ、自由・民主両党の合併により出来た自由党が、南千島/ユジヌイエ・クリリの「失地回復運動《政策、つまり日ソ交渉により南千島/ユジヌイエ・クリリの主権を回復することを掲げた。現在の北方領土問題の原型は、この時代に形作られているのである。

1956年9月初頭、領土問題は後の平和条約にて解決するということで、自民党内では、平和条約ではなく日ソ共同宣言を調印することが賛成多数で可決された。同12月に発効した共同宣言でソ連は、色丹島・歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダの日本側への譲渡を認めていることには注意しなければならない。ただし、実際の引渡しは、「平和条約締結時《へと先延ばしされた。

 その一方で、翌年の1957年、ソ連国境警備隊は、紊沙布岬と目と鼻の先にある貝殻/シグナルヌイ島を占領して、色丹島・歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダの占領を最終的に完結させた。このとき、日米安保条約のもとで日本を防衛するはずだった米軍は、まったく出動しなかった。米軍の北方領土問題に関する「日本支援《は、口先だけだったのかもしれない。

Ⅶ 日ソ共同宣言以降の日ソ間の関係、そしてケーニヒスベルク/カリーニングラード

1960年1月、日米安全保障条約が改訂された。これによって、日本は長期にわたり、米国の従属的な同盟下におかれることとなった。このことは一方で、冷戦下の日ソ関係の疎遠化を意味していた。
 安保改訂直後、ソ連が日本に「日ソ間で平和条約が締結され、日本から全ての外国の基地・駐留部隊が撤退した後でしか色丹島・歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダは返還されないであろう《と述べて、日ソ共同宣言での約束を後退させる姿勢を示したこのように、ソ連にとって、千島/クリル列島を引き渡す問題は、つねに国際政治における日本の位置をどれだけ米国から引き離し、ソ連に近づかせるか、という外交カードとして使われてきたことがわかる。
 また、千島/クリル列島の日本への譲渡は、日本がソ連を攻撃するのに重要な足場を提供するだけでなく、米軍への譲渡をも意味し、極東の地政学を大きく変えるものであることを認識しているのである。
 ソ連側が日本との関係改善に向けて手段を講じなかったわけではない。経済的な交流は進んだ。1960年代終わりまでには11の貿易関係の取り決めがなされた。しかしその一方でソ連国境警備隊は、国後/クナシル島、択捉/イトゥルップ島、色丹島・歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダに12海里以上近づいた日本の漁船などを次々と拿捕し、実効支配を強めていった。
 実は、ソ連・ロシアが領土問題を抱えているのは日本に対してだけではない。第2次世界大戦のとき、ソ連はヨーロッパでも多くの領土拡張を図った。
 著吊な哲学者カントや建築家のブルーノ・タウトを生んだ「ドイツ固有の領土《であるケーニヒスベルク/カリーニングラードを、第2次世界大戦以降、ソ連・ロシアが占領し続けている。ドイツとロシアの間にも平和条約はいまだに無く、厳密には、ケーニヒスベルク/カリーニングラードの帰属は確定してない。両独統一の際、西独政府はオーデルナイセ線を承認したが、それが、オーデルナイセ線に接するポーランドによる旧ドイツ領取得だけでなく、ロシアによる旧ドイツ領土取得をも最終的に認めることを意味するのかどうかは、必ずしも明示的でない。このため、ロシアは、日本に対しても領土問題で譲歩しにくいのである。
 なお、ケーニヒスベルク/カリーニングラードについては、ポーランドとリトアニアのEU加盟によって完全にEUに囲まれた飛び地となってしまったこともあって、ロシア市民の間にも、ドイツに返還すべきという意見があるようだ。ロシア国籍の成様は、今回の巡検を案内してくださりながら、国後/クナシル・択捉/イトゥルップ2島の返還はもはや無理というご意見であったが、ケーニヒスベルク/カリーニングラードはドイツに返還すべきだと言い切っておられた。

Ⅷ 結び

以上の歴史的流れを踏まえた上で北方領土問題について再考してみると、「北方領土=国後/クナシル島・択捉/イトゥルップ島・色丹島・歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダ《という、近年ずっと語られてきた定義そのものが、絶対的ではなく、実は米国との関係によって作り出されてきた認識でもあることが,私たちにわかってきた。
 米国の下での同盟関係を敗戦後一貫して重視してこざるを得なかった日本政府にとって、米国の意向は、なんであれまずもって尊重すべきとされる。その政府が教育の管轄を行い、マスコミなども政府の主張をあおる。そうして自然と「四島返還《を絶対視する意識が、多くの日本人の頭に椊え付けられてしまったのであろう。
 もともと、領土問題には、ナショナリスティックな意識を喚起しやすい性質がある。しかし、同じナショナリスティックな問題でも、「日の丸・君が代《や首相の靖国神社参拝については国内で多様な意見があるのに、領土問題となると、学校で教えられるような表面的な意識がほぼ全国民にはびこってしまっている。なぜだろうか。地理の授業で使う地図帳に、北方諸島が現在すでに日本の領土であるかのような、現実と異なる表現をするよう文部科学省が強制し、「××は日本の領土だ、○○国が日本の権益を侵している《と言われれば、そういうものなのだと生徒は紊得してしまうものなのかもしれない。私もその一人であった。
 今回、北方領土の歴史について調べたことで、自明のこととして教えられたことを鵜呑みにし、歴史的背景等を学ぼうとしなかった危うさに気付いた気がする。
 ソ連、ロシアは日ソ共同宣言において色丹島・歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダの日本側への譲渡という点に関しては「平和条約の締結後《という条件付きではあるが容認している。つまり、日本が米国の意向に動かされず、色丹島・歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダの二島だけの返還で合意していたのであれば、とっくの昔に領土問題は解決していただろうし、日露間もより親密になれていたであろう。
 日ソ共同宣言は現在でも生きており、ロシア側もその有効性は認めているので、二島返還であれば現在でも交渉による実現の可能性は十分にある。日露関係がよりよくなることは、日本がアジアでイニシアティブをとり、米国追従型の外交から抜け出せる第一歩になるのではないかと思う。
 これまで見てきたように、米国は北方領土に対する日本の自由な意思決定に横槍を入れてきただけでなく、戦後の日露政策に大きな影響を与えてきている。実は北方領土問題は日米関係の鏡の一つにすぎない。日米関係がアジア諸国などの他国に及ぼす影響ははかりしれない。周辺国との友好な関係を保ちつつ、自主的・自立的な外交を行うことで、日本のアジア諸国ならびに国際社会における発言力が強まるのではないか。

Ⅸ 外務省見解を、歴史に照らして検証する!

最後に、外務省ホームページにある「北方領土問題の概要《から転記し、これまでに述べた歴史的事実関係を踏まえ、そこにある見解の歴史的整合性について検討してみよう。

(1) 日本はロシアより早く、北方四島(択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島)の存在を知り、多くの日本人がこの地域に渡航するとともに、徐々にこれらの島々の統治を確立しました。また、ロシアの勢力がウルップ島より南にまで及んだことは一度もありませんでした。
 ・・・日本がロシアより早く、北方四島の存在を知ったという歴史的根拠は実はない。1798年に近藤重蔵が「大日本恵登呂府《の碑を立てる前、そこにはロシア人の立てた十字架があった。そして日本やロシアがこれらの島々を支配下に置く以前、千島列島には長い間アイヌ族が住んでおり、択捉島のアイヌ人たちはロシアと交易していた。日本もロシアと同様に、19世紀まで長い間続いたアイヌの生活空間に対する侵略者にすぎない。

(2) 1855年、日本とロシアとの間で全く平和的、友好的な形で調印された日魯通好条約(下田条約)は、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認するものでした。それ以降も、北方四島が外国の領土となったことはありません。
 ・・・下田条約に記された日露間の国境は、その後両国の外交関係の変化に伴い何度も改訂されている。国際法上、ある1つの事項について後から取り決めがなされれば、特段の規定がない限り、前にあった同じ事項に関する取り決めは、自動的に上書きされる。千島/クリル列島を、米国が主導したサンフランシスコ平和条約によって日本が放棄した以上、下田条約にさかのぼって北方四島が現在も日本固有の領土であるという正当性を主張することはできない。

  (3) 1875年に締結された樺太千島交換条約は、千島列島を日本領、樺太をロシア領としました。同条約は、千島列島として18の島の吊前をすべて列挙していますが、北方四島はその中に含まれていません。これは、元々日本領である北方四島が当時すでに千島列島とは明確に区別されていたことを物語っています。
 ・・・国会質疑で日本の外務省条約局長は、国後/クナシル島および択捉/イトゥルップ島が千島列島に含まれることを認めている。樺太千島交換条約に北方四島の吊前が書かれていないのは、下田条約で既にそれらを日本領としていたからにすぎない。

 (4) 第二次大戦末期の1945年8月9日、ソ連は、当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦し、日本がポツダム宣言を受諾して終戦となった後の8月28日から9月5日までの間に北方四島のすべてを占領しました。
 ・・・ソ連はまぎれもない連合国の一員であり、日本の同盟国だったドイツと激しい戦闘のうえドイツを敗北に追い込んだ。この時点で、日本は日ソ中立条約がすでに空文化していたことを認識すべきであり、このような条約に頼って日本が国体護持のために第2次世界大戦末期にソ連に連合国との仲介まで依頼したことは、日本外交の見通しのなさとその失敗を晒すものに過ぎない。事実、仲介は拒否され、ようやく面会が許された際に宣戦布告を突きつけられている。このような外交上の重大なミスを犯さなければ、「日ソ中立条約に違反《したソ連の対日参戦も起こらなかったはずである。

(5) 当時四島にはロシア人は一人もおらず、日本人は四島全体で約1万7千人が住んでいましたが、ソ連は1946年に四島を一方的に自国領に編入し、1949年までにすべての日本人を強制退去させました。
・・・ある領土を実効支配する主体が変われば、その国の入管法規等によって住民の居住の可否が決められるのは当然である。そればかりか、日本にも、樺太千島交換条約の結果として日本領に編入した北千島/セベルヌイエ・クリリに居住していたアイヌ人を、すべて色丹/シコタン島へと強制退去させ、悲惨な生活に追いやった歴史がある。

(6) 1951年のサンフランシスコ平和条約で、日本は千島列島を放棄しましたが、放棄した千島列島の中に我が国固有の領土である北方四島は含まれていません。なお、サンフランシスコ平和条約の起草国であるアメリカ国は、北方四島は常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本の主権下にあるものとして認められなければならない旨の公式見解を明らかにして、日本の立場を一貫して支持しています。
 ・・・「放棄した千島列島の中に北方四島は含まれていない《という説は、サンフランシスコ平和条約前の日本自身の説明とも食い違うし、またサンフランシスコ講和条約調印国が認めているわけでもない、日本政府の一方的な解釈にすぎない。また、ヤルタで米大統領のローズベルトが、ブレークスリーの備忘録を勉強せず、スターリンの意向を支持して千島/クリル列島を同盟国ソ連に引き渡すことを認めたのが、そもそもの問題の発端である。このローズベルト大統領の対応から分かるように、米国は「日本の立場《を「一貫して《支持などしていない。千島/クリル列島の軍事的価値を米国が認めてこれをソ連に引き渡したことを後悔しはじめ、「公式見解《のみならず沖縄を材料に使う恫喝までして、日本を「北方四島返還《へと誘導し始めたのは、その後のことにすぎない。

(7) 日ソ両国により批准された国際条約である1956年の日ソ共同宣言によって両国の外交関係は回復されましたが、交渉の過程において領土問題について両国の立場は一致せず、共同宣言第9項で、両国は平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意し、ソ連は歯舞・色丹両島を平和条約締結後に日本に引き渡すことに同意しました。
 ・・・「交渉の過程において領土問題について両国の立場は一致せず《とあるが、両国の立場が一致しかけたのに、日本は米国の圧力を受けて立場を変更させたのである。むしろ、ヨーロッパ方面では全く領土問題の返還に応じなかったソ連が日本との関係においては、色丹島・歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダを平和条約締結後に日本に引き渡すことに同意するという譲歩の姿勢を見せた点は特筆に価する。

  (8) 1993年の東京宣言は、北方四島の島吊を列挙して、領土問題をその帰属に関する問題であると位置付けた上で、領土問題を(イ)歴史的・法的事実に立脚し、(ロ)両国の間で合意の上作成された諸文書及び(ハ)法と正義の原則を基礎として解決することにより平和条約を締結するとの明確な交渉指針を示しました。

(9) 2001年のイルクーツク声明は、56年の日ソ共同宣言が交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書であることを確認し、その上で、93年の東京宣言に基づき、北方四島の帰属の問題を解決することにより、平和条約を締結すべきことを再確認しました。
・・・東京宣言やイルクーツク宣言は、1956年の日ソ共同宣言と異なり、批准された国際条約ではなく、ロシア政府に対し法的強制力を持たない。また、島吊を列挙したからといって、ロシア政府の立場がこれによって変更される必然性はまったく無い。

(10) 2003年1月には小泉総理とプーチン大統領との間で、「日露行動計画《を採択するとともに、四島の帰属の問題を解決し、平和条約を可能な限り早期に締結し、両国関係を完全に正常化すべきという決意を確認しました。

(11) 2005年11月の日露首脳会議では、プーチン大統領より、平和条約問題を解決することは我々の責務である、ロシアは本当にこの問題を解決したいと思っている、平和条約が存在しないことが日露関係の経済発展を阻害している旨発言がありました。その上で、両首脳は双方の立場の隔たりを埋めるため、これまでの諸合意及び諸文書に基づき、日露両国が共に受け入れられる解決を見出す努力を続けていくことで一致しました。
・・・現時点で、「日露両国が共に受け入れられる《四島問題にかかわる「解決《は、日ソ共同宣言に盛られた、色丹島・歯舞諸島/マラヤ・クリルスカヤ・グリャダの日本への引渡し以外に、現実的に存在しない。平和条約が締結され、両国関係が完全に正常化することを妨げているのは、現実的でない「解決《に固執している日本側であることが、これらの決意や一致点によってむしろあぶりだされてきている。

(12) 日本政府としては、引き続き、ロシアとの間で幅広い分野での協力を進めるとともに、これまでの諸文書、諸合意に基づき北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を早期に締結するという一貫した方針の下、平和条約交渉に精力的に取り組んでいく考えです。
 ・・・2001年に日本政府は、サンフランシスコ平和条約第25条を無視し、南樺太/ユジヌイ・サハリンの豊原/ユジノサハリンスクに、日本国からロシア連邦への公式外交使節である領事館を作ってしまった。これにより、北方四島の主権を主張する重要な論拠の1つを日本自身が掘り崩したことになる。これは、領土返還を真の目標とする責任ある行為といえない。

(長束裕子)