WIR:新しい貨幣をつくる



                          ―経済リングから銀行へ―







                                                                   森義博





地域通貨をめぐる議論でしばしば言及されるWIRバンク。

以下ではTobias STUDERによる”WIR IN UNSERER VOLKSWIRTSCHAFT”

(『我々の国民経済の中でのWIR』)に基づいて水岡上二雄が作成した「ゼミ討議用資料」

(以下、STUDER(1998)*水岡(2003)) によりながら、WIRバンクの一端を紹介したい。




<Tobias STUDER著
"WIR IN UNSERER
VOLKSWIRTSCHAFT">
STUDER(1998)*水岡(2003)は、WIRバンクの組織のあり方、
思想の歴史とそれらの変遷について簡潔にまとめ、
どうしてWIRバンクが広まっているのか、いくつかの点
から考察し、そして、WIRバンクのこれからを展望している。

今のWIRバンクの姿、そこに至る歴史などをおおまかに
掴むことができる。以下ではその内容を簡単に紹介し、
最後にWIRバンクから何を受け取ることができるのか、
地域通貨運動とどのような接点/すれ違いがあるのか、
少し考えたことを述べたい。
特記しない限り、歴史的事柄、事実関係についてはSTUDER(1998)*水岡(2003)に依拠して いるが、筆者の解釈の誤り、思い違い等による誤りがあるかもしれない。 その責はすべて筆者に帰せられる。 1. WIRバンクとは WIRバンクとは、スイス国内すべての州に、あわせて7つの支店を持つ「銀行」であり、 「WIR」と呼ばれる独自の通貨を自ら発行している。
WIRに参加している会員は、財やサービスの
取引においてWIRを用いることができる。

つまり、スイスの法定通貨であるスイス・フラン
ではなく、WIRという通貨で売買ができる。

参加者は主に中小企業であり、WIRバンクは
会員に対してWIRで取引できる口座を提供し、
会員はその口座を通じて取引を行う(現在は
現金での取引もできるようである)。会員には
ある程度の信用取引が許されているが、
信用供与の大きさにより担保が求められる。
信用供与には長期、短期などいくつかの
形態がある。

<Wir bankが発行した雑誌の広告。
100% Wirとの記述があり、
Wirで購入できることを示している。>
2. WIRバンク誕生の背景 当時の状況、思想的背景  WIRバンクの誕生は1934年10月にさかのぼる。 1929年、ニューヨークを見舞った大恐慌の余波は、時期を遅らせながらもスイスにも 影響を及ぼした。輸出とホテル宿泊客は65%減少し、貿易赤字は深刻化した。大都市を 中心に失業者が増加し、在職者についても賃金水準は下落。高学歴の職種の場合10%の 賃金下落があったが、他方、生活費は20%も下落したため、公務員、教師、年金生活者 などについては実質所得が上昇した。厳しい影響を受けたのはローン支払いを抱えた 人々であり、低下した賃金で以前と同額のローンを支払わなくてはならなかった。 地方財政も悪化し、抜本的緊縮政策が上可避とされた。 都市では家屋の空室率が増加し、上動産価格は下落、抵当金融は危機にさらされ、 建築はリスクある投資となった。 当時、政府が採りうる政策には2つの方向性があった。 @ 通貨流通の増大によるインフレーションと公的主体の支出増により経済活動を 補完し、雇用を創出するいわば拡張的政策。 A 債務の減少を図り、またアウタルキー政策により国内経済を保護し、競争を 制限することを通じてデフレーションを耐え忍びながら政府の負債を減少させる、 縮小的政策。 スイスでは明確な方向性はなかったが、次のような政策が採られた。 ・ 財政赤字解消*公務員給与引き下げ、補助金カット、公共投資抑制など ・ 輸出促進のためにスイスの高い国内価格引き下げを狙ってデフレ政策がとられ、 外国からの旅行者獲得のために、訪問者には特別の為替レートが設定された。 ・ 個々の利益集団を保護する政策*国内では新規の百貨店、ホテル、 工場建設を制限する競争抑制政策が採られ、関税政策では国内生産者 を保護するための関税設定。映画機材輸入が統制され、新規の映画館設置は 事実上困難となった。 以上のような保護主義的な禁止、抑制政策のさなか、郡や町村の中には インフラストラクチュアー拡張による雇用創出を支持するものあり、こうした政策をスイス 連邦政府が助成するよう要求した。 また、民間主導のものとして、1931年には国内の高級品原産地管理を行い海外に マーケティングする組織が設立され、家内工業で生産された手工芸品販売により農民の 苦境を和らげる組織、安い乗車券やツアーが買えるシステムにより国内旅行を促進する 組織など、「未来志向的」な運動も展開された。 このような創造的な運動の中において1934年10月、後にWIRバンクとなる 「経済リング」が現れた。 3. 思想*理論的背景 以上のような状況の中、「経済リング」が生まれるある思想的、理論的な背景があった。 地域通貨の議論において時々語られるシルビオ・ゲゼルの「自由貨幣」である。 その中心的な思想は、 @ 財の売れ行きが安定するには、財の供給量と貨幣流通量が適切な関係を保つ 必要があり、インフレーション、デフレーションを避け価格を安定させなけれ ばならない。 A 貨幣を専ら支払い手段として機能させるため、利子のつかない会計証明書とする。 B 国民経済的に見て貨幣蓄蔵が悪影響をもたらしていると考え、「縮む貨幣」 を導入する。つまり貨幣保有に負の利子率を課す。 このような発想が生まれたのはゲゼル自身の経験に負うようであるが、上述した当時の スイスの現状と照らし合わせると次のような意味があると思われる。当時、賃金水準、 物価水準とも下落傾向にありデフレーションのなかにあった。STUDER(1998)*水岡(2003) によれば1929年から1932年にかけて世界の銀行預金は820億ドルから600億ドルに減少して いたにもかかわらず、スイス国内の銀行預金は減少をまぬがれていた。デフレーション 下では貨幣を財、サービスの購入に用いるよりも預金にまわしたほうが有利だと考える 人が多くなるのはそれほどおかしなことではない。ただし、その結果、財やサービスの 流通が停滞し、経済活動全体に悪影響がでるかもしれない。もしその悪影響が大きいと 見るならば、銀行に貯蔵されている貨幣を再び経済流通の回路に乗せなければならない。 「自由貨幣」の考え方は貨幣の蓄蔵が経済全体に悪影響をもたらすとするものであり、 当時のスイスの状況と親和性を持つものであったと考えられる。 そして、「経済リング」は以上のような状況のなかで、自由貨幣の考え方に影響を受けつつ、 蓄蔵されるのではなく、財やサービスの取引を促進させる流通する貨幣を新しく独自に生 み出すことで取引を活発化し、困難を乗り越えようとする連帯をもとにした自助努力組織 として始まった。 4. 歴史的変遷   -自由思想、縮む通貨等からの離脱、現在の姿へ- 「経済リング」*WIRバンクの生い立ちを、STUDER(1998)*水岡(2003)では大きく3つの 局面に分けている。  1934年*1952年:多くの実験と検証  1952年*1988年:WIR会計システムの持続的成長と支店ネットワークの構築  1988年以降*:多数のイノベーション通じた概念的・構造的変容 これらの時期を通して「経済リング」はいくつもの変化を経験してきた。 それは当初の理念的な基盤*自由貨幣運動*からの離脱をも含む。   1934年*1952年: 自由貨幣運動の中で1934年10月、42000スイス・フラン当初資本と16人からなる会員で 「WIR経済リング協同組合」が設立された。 「経済リング」とは次のようなものだった。 できる限り会員の間で必要な財やサービスを入手し、その取引は利子のつかない 計算貨幣でなされた。計算貨幣は、法定通貨の現金(つまりスイス・フラン)との交換、 商品の販売、そして後にはWIR信用で入手することができるようになる。 1935年の念頭には1700人、その年の終わりには3000人の会員を数えた。当初の実質的な 道具は会員吊簿であり、それを用いて潜在的な取引相手との接触が可能となった。 これら初期から現在まで続く事業もある。最初の都市に創設された地域的な 「場所グループ」は、潜在的な取引相手との人格的な接触を可能とし、関係ネットワーク を築くことに寄与している。WIR見本市もまた、初期から続くものであり、1935年のクリス マスの展示会では3万人の参加者を集めた。  1936年、「経済リング」は銀行法の下におかれることになる。初期には相対的に多額の法定 通貨を処理する必要があり、また法定通貨による信用保証を行わなくてはならなかったため である。 ただ、「経済リング」は理念的な理由から長い間、銀行法の下にあることに反対してきた。 1936から38年にはWIRにおける「現金」にあたるものと考えられる「商品券」や1フラン、 5フランの「会計証」が導入され、また、局地的な商品取引所も設けられた。この「会計証」 にはゲゼルの「縮む通貨」の考えが適用され、その効力は12ヶ月に限定され、効力を維持 するには毎月特別の印紙を貼付けなければならなかった。 以上のような実験的な試みがなされたこの時期には多数の「失敗」もあったようである。 先ほどの「会計証」はWIRの流通を大きく促進したが、会員の外に流出したり、会計証が現金で 売買されることがあったことなどから廃止されることになる。 また、WIRという通貨は信用で手に入れることができるため、その信用保証が 「経済リング」の活動を続けていくために重要となる。この信用業務に十分な配慮がなされ なかったため、1939*1940年にかけて経済リングは清算されなければならなかった。  1952年*1988年:  この期間、取引は順調に成長する。 1952年には公式に「自由貨幣」の考え方から距離を置くようになる。すでに1948年には 「縮む貨幣」の実験を取りやめていた。「経済リング」の資本にも利子をつけるようになり、 これにより堅固な財務基盤を構築し、取引高は増加した。   1958年、「経済リング」は「購買力の結合を通じた産業上の中産階級の連帯」という 新しい自らの理念像を持つことになる。産業上の中産階級の関心事に焦点をあて、自助努力 の性格を強調し協同組合の地位を強化した。 1973年、WIR通貨の取引に厳重な規制をかける。従来、WIR通貨の流動性を確保するため WIR通貨と法定通貨の取引が許されていたが、これは市中においてWIR通貨の信任を劣等 させるものと考えられた。そのため取引は実効的な手段で「経済リング」により管理され ることになった。  1988年以降: 1964年に1億フランの取引を達成した後、1980、84、87、91年には取引高がそれぞれ、 2.5億、5億、10億、20億フランを超えた。 1992/93年、「経済リング」は新たに資本を導入した。800万フランの協同組合資本は WIR内部の取引市場で取引され、1500万フランの自己資本をもたらすことになった。 1995年、多角化戦略。「コンビカード」の導入により、当初から存在したが例外的であった 「現金」による取引を公式に拡大することになる。 1997年には会員名簿がCD*ROM化され、WIR会計の取引が企業内部の経営情報システム に統合できるようになった。 同年、初めての古典的な銀行商品となる「利子つき現金当座預金口座」が導入される。 これにより「経済リング」は、ひとつの銀行として事業を行う組織へと移り変わることになる。 1998年には最低でも4%の利子がつく貯蓄口座が導入された。 そして、「経済リング」は企業名をかえ、対外的にも「WIR銀行」として通用するよう になった。 以上、第2,3,4節と少し長々とWIRバンクの生い立ち、歴史的、思想的背景を追ってきた。 記述はSTUDER(1998)*水岡(2003)によっているが、ひとつだけ付言したい。 「経済リング」として始まったWIRバンクは当初、「自由貨幣」運動に共鳴し、その思想*理論の 影響を色濃く受け、それはまた通常の銀行法の下におかれることに少なからぬ抵抗感を持つ、 連帯、自助を理念とした協同組合であった。 しかし、その後の展開の中で自由貨幣の思想から離れ、利子を導入し、現在ではむしろ ひとつの銀行として事業を行うことを選んでいるように見える。WIRという通貨を用いる特徴ある 金融活動を事業とする銀行。これが現在のWIRバンクの姿ではないだろうか。 実際、STUDER(1998)*水岡(2003)にはしばしば、その筆者であるSTUDER自身が、 「経済リング」が通常の「銀行」として事業を行うようになっていくことを評価していると うけとれる記述が見られる。 しかしそれは、必ずしも当初の理念を放棄したことを意味するものではないようにも思える。 「通常の銀行」であっても「経済リング」としての機能を果たすことができているのならば。
「経済リング」はその姿を少しずつ変え、現在の
WIRバンクとなった。その変化は「経済リング」
が事業として継続できるために必要とされる
ことであっただろう。

しかし、会員間の財やサービスの取引の円滑化に
資する活動を行っているということについて
変わりはない。ただ、例えば上述した1958年に
ついての記述によれば、その時点で「経済リング」
は「中産階級の産業上の連帯」を自らの理念像と
した。そのためそれ以降、それ以外の人々に
とっては利用しづらいものになってきたのかも
しれない。もちろんもともと参加していた会員の
多くがそのような特徴を持っていたのかもしれず、
それがためそのような「理念像」の再規定
を行ったのかもしれない。

<日本メーカーのコピー機、プリンター
などの広告。商品により価格の60から
93%はWir支払いができるとの記述が
見られる>
しかしいずれにせよ、WIRバンクが「経済リング」として十分な機能を発揮し、 それにより事業の継続を可能とするために行ってきた改革が、すべての人が望む かたちで行われたわけではないだろう。そのような変化の結果、「経済リング」 に参加しなくなったり、できなくなったり、特定のひとの参加への途をせばめてしまった かもしれない。WIRバンクはそのような改革により得たものが大きかったからこそ、 現在まで多くの人々に利用されているはずである。そして他方、失ったものもあった だろう。当初の理念のうちいくらかは依然として事実上継承され、実現され、いくつか はそうではなかった。WIRバンクが成功しているのは当初の枠組みに必要以上に 固執することなく、そのような柔軟な改革ができたからだろう。 そして同時にそれが意味するのは、WIRという新たな通貨をつくる試みは、 地域通貨のような新たな通貨をつくる試みのひとつの成功事例であるが、それは 決してあらゆる課題に応えるものというわけではないということである。それは主に 中小企業の「経済リング」としての成功であって、十分な検討無しにそのほかの 文脈にそのまま移植できるようなものではないだろう。WIRバンクの成功は、 中小企業という特定の「顧客」に的を絞り、その必要とするものを的確に把握し、 「経済リング」が当初から資源とする「WIR通貨」を用いる仕組みを「顧客」の要望 に応えられるものへと改革できたことによるのではないだろうか。デフレーション 下の上況における自由貨幣運動が「WIR通貨」の決定的な契機であった事は間違い ないにしろ、その後の「WIR通貨」の成功は、会員の要望に十分に応えるために、 柔軟な改革を行うことができたことによるのではないだろうか。そしてその改革は、 当初の理念のすべてと整合的であるわけではないけれど、「経済リング」をつくる という重要な点については基本的に保たれてきたように思われる。 5. WIR成立の基礎   ―WIRの仕組み、マーケティングの道具,法定通貨の代替・・・新たな通貨を用いること でファイナンス費用を低下させることができる、反面、参加者の確保が重要― WIRの取引については1節で簡単に述べた。会員はある一定の信用取引の上限以内で WIR通貨を用いて取引ができる。しかし、そのような取引ができるためにはWIRが通貨として 広く受け入れられていなければならない。WIRに参加する理由とはなんだろうか。   STUDER(1998)*水岡(2003)は、WIRとはマーケティングの手段であると言う。 確かに、「経済リング」発足当時はともかく、現在において法定通貨でなくWIRで 取引するのにはそれなりの理由があり、WIRで取引することで何らかのメリットを 得ていると考えるべきなのだろう。そのひとつとして、WIRへの参加が参加者間での 情報の共有を促進し、「経済リング」を作り上げることで参加者のマーケティング に貢献しているといえるのかもしれない。
また、発足当初においても取引の促進を
主目的としていたのだから、会員間の
マーケティングの促進が重要な要素で
あったことに当時から変わりはないだ
ろう。

すでに4節で述べたように、初期から
現在まで続く試みの中には、見本市や
場所グループといったマーケティング
にかかわる情報共有を促進すると思わ
れる事業が含まれており、それを傍証
するものと思われる。

<WIR-Messeの開催を知らせる広告。
マーケティングの場となっていると
考えられる>
今度はWIRバンクの側から考えてみると、通常の金融機関と違いWIRという自らが発行 できる通貨で会員に信用供与ができるため、そのファイナンス費用の低減が可能となる。 しかし無造作なWIR信用の発行はWIR通貨のインフレーションを誘うことになるし、 それはまたWIR通貨の通貨としての有用性、信任を減じることになり、WIRシステム 自体を壊すことにつながるだろう。そのためWIR銀行はその分だけ信用の供与には 慎重でなければならないし、通常の銀行と同様に信用保証を何らかの形で行うこと になるだろう。そのためWIRでは場合により担保を会員に要求している。 また、WIRバンクは会員がWIRを用いることから十分な利便性を得られるように常に 気を配らなければ参加者を失うことになり、それはWIRによる取引の減少につながり、 それはWIR通貨の使用から参加者が得る利便性を減らすことになり、それは更なる 参加者の減少をもたらし、この悪循環はWIRシステムを壊してしまうだろう。例えば マーケティングにとりWIRが参加者にとってそれほど効果的でないならばそのような ことが起こるだろう。 WIRバンクは、ファイナンス費用の節約というメリットを経営上持つことになるが、 それはあくまでもWIRバンクが参加者に法定通貨の金融機関とは異なる利便性を提供 できているため、ある程度以上の参加者を得られているというその場合において限り 得られるメリットであるだろう。そのため、十分な利便性を提供できるように投資 を行わなければならない。この綱引きの上にWIRというシステムは成立しているよう に思われる。決してWIRという新しい通貨をただ発行するだけでは、現在のような WIRバンクの成功を見ることはなかっただろう。 6. WIRと地域通貨 ―地域通貨、通常のビジネス化・・・― 以上、駆け足にWIRバンクについて概略を述べ、その成功の要因について簡単な 考察を付した。最後にWIRバンクと地域通貨との関係について少し述べたい。
確かにWIRという試みは新たな通貨を発行するという
意味で地域通貨運動と共通する。しかし、その特徴
にもかかわらず現在に至る過程でWIRバンクは通常
の銀行の一つのバリエーションとなることを志向し、
また実際そうであるように思われる。そして、WIR
システムが広く受け入れられているのは、
マーケティング等、会員が求めるものをWIRバンクが
うまく提供する仕組みを作り上げてきたからであると
思われる。新しい通貨を発行することには、その発足
当初の状況をみるに、そうせざるを得ない十分な理由
があったといえる。しかし、その当初から現在まで、
単に新たな通貨を発行するだけではその仕組みは
上手くいかなかっただろうと、以上述べてきた
歴史等から推察することができる
のではないだろうか。

<左下の広告ではホテルの宿泊にも
50%、Wirが使えるとある>
確かにWIRという試みは新たな通貨を発行するという意味で地域通貨運動と共通する。 しかし、その特徴にもかかわらず現在に至る過程でWIRバンクは通常の銀行の一つの バリエーションとなることを志向し、また実際そうであるように思われる。そして、 WIRシステムが広く受け入れられているのは、マーケティング等、会員が求めるものを WIRバンクがうまく提供する仕組みを作り上げてきたからであると思われる。 新しい通貨を発行することには、その発足当初の状況をみるに、そうせざるを得ない 十分な理由があったといえる。しかし、その当初から現在まで、単に新たな通貨を発行 するだけではその仕組みは上手くいかなかっただろうと、以上述べてきた歴史等から推察 することができるのではないだろうか。 会員間の取引の活性化をねらった「経済リング」という試みは少しずつその姿、 理念を変えながらWIRバンクとして現在では普通の銀行を志向している。しかしもう 一度確認しておきたいのは、WIRバンクは依然として「経済リング」であるということ である。会員間の取引の活発化を、WIRという通貨や会員のマーケティング等を助ける 上手い仕組みをつくることを通じて実現していることでは、それは依然として 「経済リング」と呼んでいいのではないだろうか。 地域通貨運動もひとつの「経済リング」をつくる試みであるといえないだろうか。 しかし、それがWIRバンクとまではいかないまでも、また、異なるかたちであっても、 着実に根付くためには、新たな通貨の発行それだけでは力上足なのではないだろうか。 WIRバンクの成功は通貨の発行それ自体だけではなく、会員に対するマーケティング手段 の提供など、さまざまな要因が補完的に働きあってはじめてありえたように思われる。 WIRバンクの事例を通じて、地域通貨を用いることでどのような取引が、どのような理由 から活性化することができるのか、少し掘り下げてみることで、これからの地域通貨運動の 成功へのヒントが見えてくるのではないだろうか。