ユーロリージョン







9月23日、ドイツ・ポーランド・チェコの三国の自治体が協力するプロジェクト、

Euroregion Neisse ユーロリージョンナイセ への

視察を行った。



ユーロリージョンとは、ヨーロッパにいくつか存在する、国境付近の自治体が国境を

越えて協力を行う取り組みのことである。大陸ヨーロッパは、陸上国境が入り組んでおり、

しかも、国境線がしばしば変更されてきた。このため、局地的な現象であっても、国境を

超えて、国際的な課題として取り扱われることになる問題が多く、また、それぞれの地域

で、歴史的な遺産を作った国と現在主権を行使している国とが食い違っている場合もある。

例えば、国境を越えた環境問題や観光開発などがそれである。このような局地的な課題に

対して、国家間の利害を調整しながら、局地的な地域の間での協力を模索するのがユーロ

リージョンである。



1991年に始まった、ユーロリージョンナイセがカバーする地域は、三国の国境が入り組ん

だ状態で接している。このため、国境周辺の三国の自治体は国境によって分断されている

ものの、空間的にはとても近くに位置している。加えて、現在ポーランド領となっている

部分は、戦前はドイツ領であったし、チェコのドイツ国境に近い部分にも、多くのドイツ

人がかつて住んでいた。



ユーロリージョンナイセが取り組んでいる大きな課題として、ポーランド領がチェコ領と

ドイツ領にはさまれてポケットのようになっているボガティニャBogatynia(ドイツ語地名

Reichenau)という場所にできた、褐炭を使ったポーランドの火力発電所が、至近ではある

が国境をはさんでチェコ領にあるイゼラJizera山地に硫黄酸化物を含む酸性雨を降らせ、

ジゼラ山脈の山々を瞬く間に禿山にしてしまった環境問題がある。今日の我々の視察の主

要なテーマは、これだ。



ドレスデンから列車に乗ること約2時間、旧東ドイツで最も東南にある街、

チッタウZittau駅に着いた。そこにある事務所を訪れ、

事務所職員のワッテロットG. Watterotさんから簡単なお話を聞いた。



現在、三国それぞれにユーロリージョンの事務所があり、全体で10名ほどの職員がプロ

ジェクトごとに分かれて働いているそうだ。

その後自動車に乗り込み、チェコとの国境にあるドイツ側の集落、ハータウHartauまで

行った。家々はきれいに手入れされており、東独統治時代と比べ、面目を一新したという。

ここでドイツ側のユーロリージョン事務所が用意してくれた車を降り、荷物を持って、森の

中の国境を徒歩で横断した。この国境通過地点は、自動車が通過できないよう柵がして

あって、もともとこの近辺でハイキングを楽しむ地元の人々のために設けられたものである。



ドイツ住民はパスポートなしで、徒歩で国境を越えて行き来できる。ユーロリージョンナイセ

には、このような地点が50個あるという。この国境通過地点は、地面に赤い線がひいてある

こと、国境であることを知らせる看板が出ていること以外、鉄条網など、そこが国境である

ことを実感する厳しさはなかった。ハイキング用の出国地点らしく、私たちはちょうど公園の

ゲートをくぐるような気持ちで国境を越えた。一応検問所のような小屋はあったが、出国

スタンプを押すための係員もいない。「チェコはEUの国ではなく、われわれはEU市民では

ないから、ドイツに再入国するときに出国スタンプがないとまずいのではないか。

チェコ出国時に提示するためのチェコ入国スタンプが、パスポートには必要ではないか」

と心配する私たちに、ワッテロットさんは「大丈夫、大丈夫」と答えてくれた。その言葉を

信じて私たちは、何の手続きもスタンプもなしに、チェコへ入国した。



国境を渡ったチェコ側には、チェコのユーロリージョン事務所の職員の方が、車を用意して

待っていてくださった。ほんの15年前には考えられなかった状況である。

国境から続く小道を車でいくと、たくさんの商品が並ぶ大きな小屋のような建物があった。

商品は主に衣?などであるが、一番の看板商品は表に並べてあるタバコだ。これはおそらく、

ドイツよりもチェコの方が、タバコ税が低いからであろう。この国境通過地点には税関の検査

所がなく、事実上関税なしで通過できるため、ドイツに住む人々はチェコ領であるこの商店まで、

ドイツよりも安い値段でタバコを買い出しに来るのだ。店頭で販売に従事しているのは

ベトナム系の移民の人々で、おそらく社会主義体制時に、東欧の労働力上足を補うために

移住してきたのであろう。



<小川のようだが、これが国境のナイセ川>



自動車に乗り込み、三国の接する国境地点へと案内してもらった。野原のような場所で、

ドイツ・ポーランド・チェコ三国の国境が接している。それぞれの国の領土の突端に国旗が

はためき、それぞれの領域を指し示していた。ユーロリージョンナイセの名前の由来

ともなったナイセ川は、小川のように細く、静かに流れていた。チェコとポーランドとの

国境は、水の流れていない溝のようなもので仕切られている。柵がないので、国境を越え

ようと思えば、物理的には簡単だ。



<ドイツ・ポーランド・チェコ三国の国境が集まる地点>



ポーランド側に立つ、ポーランド領であることを指し示す標石を見ると、

ポーランドであるという印に「P」と彫ってあるその下にうっすらと、

ドイツを示す「D」の文字が見えた。



<ポーランド領を示す標石、"P"の周りに"D"の跡が見える>



これは戦後書き直されたのであろう。ポーランドの一部が昔はドイツ領であったことの面影を

感じ、上思議な気持ちになった私たちであった。またこの地点のすぐ近くにも人々が通ること

のできる国境通過地点がある。そこは先ほどの徒歩のみの国境通過地点とは違い、車でも通る

ことができる立派なゲートである。反対側はポーランドで、ここには係員がいて、国境管理を

きちんとしていた。



しばらく三国国境接点付近を散策した後、自動車でチェコのリベレッツに向かった。

道路沿いには、ドイツ企業の工場が立地している。車の中で、旧東ドイツとチェコの

失業率と賃金についてのお話を聞くことができた。旧東ドイツでは失業率が20%程度

であるのに対し、チェコでは7%にとどまっているのだと言う。

しかし、チェコにおける賃金は、旧東ドイツの約三分の一なのだそうだ。



この理由としては、旧東ドイツでは労働組合の力が強いため、賃金が高く設定されている

ことが考えられる。チェコには、その低賃金を魅力であると感じた外資の企業が直接投資を

積極的に行っているそうだ。日本の企業であるデンソーも、従業員1000人規模の大工場を

作る予定ということであった。



その後、チェコにあるユーロリージョン最大の都市

リベレッツLiberec(ドイツ語地名Reichenberg)を見学した。



第1次世界大戦まで、チェコはオーストリア領(ハプスブルク帝国)であり、第2次大戦前は、

ズデーテンSudentenlandと呼ばれた地方の中心都市で、この町に住む人々の多くはドイツ人

であった。1938年、ナチがこの土地をドイツ領に編入し、これがその後一連のヒットラーの

領土拡張政策のはじまりとなった。この歴史的に重要な地域の中心にある都市の一番の

繁華街で、われわれは車を降りた。



ハプスブルク帝国時代にウイーンの市役所を模して建設されたという市役所の前には大きな

広場があり、その周りにたくさんの商店がならんでいた。市役所の裏手には劇場があり、

そのスタイルはオーストリア風で、リベレッツが旧ハプスブルク帝国の時代に完成された町

であることが分かる。同様の様式の劇場は、遠く現在ウクライナ領の都市リボフLviv

(ドイツ語地名Lemberg)に至るまで、第1次大戦前までハプスブルク帝国領だった中欧各地

の広大な地域に存在する。あっという間に言語がドイツ語からチェコ語に変わったことに

驚きながらも、町の作りはやはり、ドイツで見た中欧の町並みと同じであることを確認した。




<「プラハの春」のモニュメント>
市役所のそばには、1968年に起こった
「プラハの春」の時の、
ソ連の戦車をかたどったモニュメントが置かれていた。
市役所の前の広場で射撃が行われ、
チェコの民主運動家が何人か、この広場で
ソ連軍の攻撃の犠牲になったのである。
チェコではユーロを使うことができないため、現地の通貨に両替をしたのであるが、 銀行ではなかなか英語が通じず、苦労をした。その後私たちは、イゼラJisera山地 (ドイツ語名Isergeberge)に向かった。標高1000m前後の山並みが連なるなだらか なこの山地は、かつて鬱蒼とした森林に覆われ、ハイキングやスキーツアーの好適 地であったが、ポーランドに立地する褐炭発電所から出た煙のために、10年足らず の間にはげ山になってしまった。1994年に水岡先生がここを訪れた時には、全く木 がなくなり、草原になっていたそうだが、ユーロリージョンでは、EUからの援助 も受けながら、8年間で累積300万ユーロの予算をつぎこみ、林による再森林化 を行った。 われわれは、この政策に効果が見られることを期待しながら、車に乗り込んだ。 九十九折の道を登ってイゼラ山地の中腹に着き、草地に入ってみた。 すると、草地のなかから確かに若い苗が育っている様子で、1994年とは大きな変化が 見られた。植えられているのは「ドイツトウヒ」であるという。面白いのは、動物たちが 木の芽を食べてしまい木が育たないので、それを防ぐために芽をあらかじめ筒の中にいれて ガードしていることであった。このような筒に囲まれた芽が、山の各地に点在していた。 山の頂上では「クリスティナ・ヴィラ」という名前の山荘で、ユーロリージョン側の ご好意により、お昼ご飯をごちそうになった。そこではビールと、鹿の肉のステーキが 名物である。 ジゼラ山地は、ハプスブルク帝国の時代、貴族の狩猟の場であり、この山荘は、 貴族の狩猟の館として存在していたそうだ。社会主義時代には国有化されたが、現在は ハイキング客などが立ち寄る山小屋兼レストランとして活用されている。昼食後、 特別の許可証を持っている車は、一般の車道から、林道に乗り入れて、標高約1000mの稜線 に向かった。稜線からは、無残に立ち枯れた木々の間からすくすくと若芽が育っている姿が、 パノラマのように望めた。9月というのに、山の頂上はすでにとても寒く、早くも冬が忍び 寄ってきていることを感じさせた。 山を降りると、途中、踏切で停止し、気動車が一両だけのチェコ国鉄列車が通過していった。 全くのローカル線なのであろうが、なお一日数本のサービスがあるらしい。 その先に、 Lazne Libverda (ドイツ語地名Kurort Liebwerda ) という静かな温泉保養所があった。 飲泉を試み、保養所にあるみやげ物店でチェコグラスを少し物色した。 価格はまあまあであったが、デザインに今ひとつアピールするものがなく、点数も 少なかったので、ここでみやげ物を調達しようとしていた人は、よい品物を探すのに苦労 したようだ。店の人には、英語は通じなかったが、ドイツ語が通じた。車を進めると、 山の霧の中からポーランドに入る国境が現れた。ドイツからチェコに入国する際、 入国スタンプを押さなかったが、問題なくチェコの出国スタンプを押してもらえた。 この国境通過地点は、数年前に出来たばかりだという。社会主義体制が崩壊した後、 中欧諸国の間の交流が活発になっていることを実感させられる。次の予定を知らされて いなかった私たちだったが、国境を渡る検問所には、市長・投資コンサルタント・通訳の 大学教授などをたくさんの出迎えの人々が私たちを待っていたわれわれが連れて行かれたのは、 チェルニアヴァ・ズドロイCzerniawa Zdroj(ドイツ語地名Bad Schwarzbach)という村にあり、 戦前まで、この地域がドイツのシュレジエンSchlesien(シレジア)州だったときからの伝統を 誇り、古いドイツの面影を今に色濃く残す、大きなドームのような広い空間をもった クアハウスだった。 <雨が降るにもかかわらず、手厚い歓迎を受けました。とても雰囲気のあるところなので是非> われわれは、このクアハウスに導きいれられ、村長さんや投資コンサルタントの方々から、 観光スポットの説明を聞かせてくれた。どうやらユーロリージョンの視察の客としてではなく、 今はポーランド領となったこの地域に投資を検討しているか、あるいは日本人観光客の送客を 考えている日本の旅行会社の関係者として出迎えられたらしい。 この地域に湧いている天然の炭酸水を試飲させてくれたり、コーヒーをサービスしてくれたりと、 とても手厚いもてなしを受けた。 <クアハウスにて(奥から)通訳、村長、投資コンサルタントから説明を受けた> ここは、温泉地であることから、昔から湯治場(クアオルトKurort)として機能していた。 社会主義時代は労働者が国の保障する休暇プランに従って1年に何日かを無償で過ごす権利が 与えられていた国営の保養施設であった。ポーランドに市場経済が導入された現在は、一般の 観光客向けに、温泉つきクアハウスとして営業をしている。マッサージなどのサービスも行って いる。 建物は、古きよきドイツのロマンが漂い、きれいで広く、夏はハイキング、冬はスキーが近く でできる。西欧とくらべて物価も安く、一泊3食付きで、日本円で冬季のシーズンオフならば なんと1600円からで泊まれるのだそうだ。周辺は静かな環境で、ドイツのドレスデンからさほど 離れておらず交通の便も悪くないので、もしかしたら、毎日の激しい生活でストレスがたまり がちな日本人にとって、観光や長期の保養にもってこいの場所かもしれないと思った。 このクアオルトを訪ね、お話を伺って分かったのは、いくらユーロリージョンができたと いっても、三国が必ずしも全面的に協力できるというわけではなく、それぞれの国の経済や 政治の状況の違いから競争しなければならない面もある、ということだった。すぐ隣には、 ポーランドよりもさらに物価の安いチェコがあるため、観光客はチェコに逃げてしまう、 と市長は言っていた。「安いからという理由で、ドイツからの観光客・保養客は、ここよりも ずっと設備の悪いというのに、チェコのクアオルトに行ってしまうのだ」と、チェコの悪口を 言いながら嘆いていたのだ。 最後は、ポーランドとドイツにまたがるゲルリッツGorlitzという町で解散となった。 ゲルリッツは戦後、オーデル・ナイセ線がドイツとポーランドを分かつ国境となったため、 町の中を流れるナイセ川を境に、ドイツ領とポーランド領に分断された町である。 東西ベルリンは統一されたが、東半分が既に他国となった東西のゲルリッツが統一される日は、 永遠に来ない。 ゲルリッツのポーランド側(ポーランド語名スゴルゼレツZgorzelec)からドイツへ移動する際、 この日行った国境横断の中で、最も厳重な入国審査を受けた。私たちがEU圏外のパスポートを 持つからであろうか。車を停められ、パスポートを持っていかれて、車の中で15分ほどじっと 待たされた。ドイツの入国係官が中で何をしているのか、窺い知れない。EUの東の守りという、 ドイツの国境警備の厳しさが伝わってくる。パスポートを念入りに審査された後に、 やっとドイツへ再入国できた。国境を越えてドイツに入るとすぐ、町並みががらりと変わった ことに驚いた。戦前は同じ1つのドイツの街だったのに、戦後ポーランド領となった東半分では 家の外壁がすさんだ印象を受けたが、街の西半分に当たるドイツに入ると、 町がきれいになっている。そこから私たちは、統一ドイツの東端、そしてEU東進運動の最前線の 町らしさを感じた。また町をドイツとポーランドに隔てている川には、長い間ゲルリッツの 東西を結びながら、戦後東部が別の国となるとともに壊された橋が、修復されないままに なっている。それを作り直す計画も進んでいないという。2004年にポーランドはEUに加盟する ことになるが、ドイツとポーランドは、いぜん格差が大きく、なかなか空間統合が進まない。 むしろ、ドイツとフランスとを中核に、そしてかつての社会主義東欧を周辺にした結節的な空間 としてEUがこれから変貌してゆくのだろうか。この将来を、景観から垣間うかがうことができた ような気がした。 <ゲルリッツ。ポーランド側から川向こうのドイツ側を見て> (太田真美子) われわれは、ゲルリッツ駅の、ポーランドに向かう国際列車が発着するホームに入った。 2001年、ドイツ、ポーランド、ルーマニア方面へのゼミ巡検が実施されていれば、 ゼミ仲間の小柳君らとみんなで、ここから夜行寝台に乗ってワルシャワに向かったはずだった。 われわれは、ホームで、大学院に進学し研究者になる夢半ばにして、多摩川での深夜の水泳に 誘われ、無残にもその生涯を奪われたゼミ生、 故小柳尚正君 の冥福を祈り、黙祷を捧げた。