デーマック(旧東ドイツ、ハレ市)
9月21日、われわれは、バーチさんと連れ立って
自転車に乗り、デーマック発祥の地、郊外にある
ヴィラ・ユーリンクVilla Juhlingに出かけた。
<ヴィラ・ユーリング正面より>
秋頃のため、町の道路には木の落ち葉がたくさんあり、
それが季節感を醸し出していた。
ヘンデルの像とルターのデスマスクがある中世の街
はずれに、オルタナティブな市民運動の拠点のような
看板を出している店がある。その外側はすぐ、東独時
代に建てられた、無機質の巨大な公営住宅地区となっ
た。入り口には、巨大なショッピングセンターが建っ
ている。社会主義時代は大規模な国営デパートであっ
たが、今では旧西ドイツの百貨店資本カールシュタッ
トの経営だ。
<ショッピングセンター>
| 建ち並ぶ相当しっかりした造りの
高層のアパートには、今でも多く
の市民が居住している。かつての
東欧としては大規模なこの郊外の
住宅地区のありさまには、冷戦
時代は東欧諸国の中で最も高い
生活水準を誇った東ドイツの
面影が漂っている。
高層の住宅が立ち並ぶ片隅
には、日本で見かけるよりも
大きなゴミ回収箱があった。ゴミ
の種類ごとに入れる箱が異なり、
日本よりも分別がしっかりして
いる気がした。ベトナム人らしい
顔つきの人々が通り過ぎて行った。
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<郊外の高層住宅> |
住宅団地を出ると、シュタージ(Stasi, 国家保安警
察=旧東独の秘密警察)の建物が間近に望める。道は、
丘に通じる上り坂になっており、その先が、広大な空
き地となっている。ワルシャワ条約機構のもとで駐留
していた旧ソ連軍基地跡だ。ここには、戦前は集落が
あり、かつての教会がいまは破壊されてむなしく建っ
ている。中に入ると、ソ連軍が体育館として使ってい
たらしく、床にはかすれたロシア文字が書かれていた。
廃墟の一部では再開発が始まり、教育機関や事務所な
どの真新しい建物が立ち並び始めている。
<廃墟となった旧ソ連軍基地建物の内部>
<再開発による真新しい建物>
道はやがて、古いドイツの面影が残る深い市の森
Stadtforstの中にはいった。展望台があり、登ると社
会主義の住宅が広がるハレの郊外が俯瞰できる。森の
かなたには、さらに大きな社会主義時代の住宅団地が
建っているが、これらは交通上便なため、空き家が多
いらしい。森の中を抜けて走っているときは、非常に
爽快だった。日本でもこうした自然があるが、もっと
生活空間に接したところにあればいいのに、と思った。
統一後のハレ市は、決して経済状況がよくないのに、
戦前のドイツからの歴史的遺産で、そうした自然が身
近にあり、うらやましかった。
<森の中の展望台から見た郊外。集合住宅が
立ち並んでいるのが見える。>
道端に大きな木があった。見ると枝先が全体的に下
に垂れ下がってしょげているように見える木だ。上気
味な感じのするこの木…実は病気の木だという。季節
外れな時期に花が咲くのだそうだ。原因が何かわから
なかったが、自然環境の影響ではなかろうか。
森を出ると、郊外鉄道の駅がある。ドイツ統一後も、
旧東独国鉄からひきついで、民営化されたドイツ鉄道
が運行を続けていたが、「線路に補修が必要《という
ことで昨年運休になり、そのあと放置されたままだと
いう。バーチさんは、電車がもう来ない駅舎を見なが
ら、運休の実際の理由は赤字だからで、民営化された
ドイツ鉄道が運行を再開することはもうないかもしれ
ない、とさびしそうだった。この線に、列車が再び来
ることはあるのだろうか。
<郊外を通る路面電車と住宅>
駅のそばにあるキオスクで、昼食にジュースや軽いサ
ンドイッチなどを買った。ジュースは、ペットボトル
全盛のいま、旧西独地域ではみられない、Deutsches
Brunnenと刻まれたガラス瓶に入っており、オレンジ
色がついているが、酸っぱい化学合成された味がする。
生ジュースと言うにはほど遠い。ドイツの旧西独部分
では、決して商店の棚に並ぶことのない商品だ。
統一後10年以上たった今も、消費財の面で未だ埋まら
ない、ドイツの東西格差をみせつけられたようだった。
<デーマックの生い立ち、発展、そして崩壊>
サイクリングの心地よい汗をかいて到着した
ヴィラ・ユーリンクVilla Juhlingは、プロテスタン
トのグループの活動中心である。
かつてユーリンクという人が、自分の別荘を、そのキ
リスト教団体の活動のために寄贈した。敷地内には、
ユーリンクさんの墓や、ユーリンクさんが好んだとい
う、少女の彫像が置かれた庭園などがあり、古いドイ
ツのロマンを感じさせる雰囲気が漂っていた。
<ヴィラ・ユーリング>
デーマック発祥の地であるこのヴィラ・ユーリンク
の建物を望むベンチに腰掛けながら、バーチさんは、
デーマックDömakが出来上がったいきさつを、次のよ
うに語り始めた。
将来のわれわれの社会は、互酬・持続性・オルタナテ
ィブな正義という原理によって支えられるものでなく
てはならない。デーマックという交換リングは、この
ような、オルタナティブでより正義ある社会を構築す
る一つのステップであった。この交換リング自体が、
現在ある貧困を救うわけではない。失業者が求めるも
のは、毎日生活するための現金である。そして、この
現金は、市場経済の中で獲得される。もちろん、強者
は、市場競争の中で闘って貨幣を獲得することができ
る。西側の市場経済は、このような競争の観念を、旧
東ドイツ市民一人一人に内面化することに成功した。
しかし、これに乗れずに落ちこぼれてゆく者もいる。
市場経済に適応できない者には、なんらかの「社会的
な小島《が必要だ。交換リングは、こうした小島をつ
くり、疎外のない社会への一歩を築くための手段であ
った、という。
バーチさんは、ドイツが東西に分裂していたとき、東
ドイツ市民だった。社会主義時代のバーチさんは、ス
ターリン的な東独社会主義やそこで市民を監視してい
たシュタージ(Stasi, 国家保安警察)に対抗し、
民主化を求める反体制派であった。ドイツが統一され、
東独が市場経済に変わると、バーチさんは、市場経済
がもたらすさまざまの疎外の問題に批判的な立場をと
るようになった。
デーマックは、直接には、このヴィラ・ユーリンクと
いうキリスト教のコミュニティを支える施設を改装す
る工事を円滑に進めようとして生まれた交換システム
だった。
バーチさんは、ここに無償で7年間住み込んで、コミュ
ニティの中心であるこの施設の改装工事のとりしきり、
ヴィラ・ユーリングで行われるコミュニティ活動を組
織し、そして宿泊者のための調理まで行ったのである。
40人が泊まれる建物から出る多量の下水は、有機的方
法で処理するなどの工夫も取り入れられた。デーマッ
クは、この作業を行うための取引手段として使われた。
作業にボランティアとして貢献すると、デーマック単
位を受け取ることが出来る。レートは、1時間で10デ
ーマックだった。このデーマック単位を使って、完成
した部屋に泊まることができる。こうすれば、ボラン
ティア労働も無償奉仕にはならないですむし、共同体
(地域)通貨を受け取っても使い道がないといった問
題もなくなる。つまり、デーマックは、基本的に、ヴ
ィラ・ユーリンクを中心に回っていた交換リングだっ
たのである。
ヴィラ・ユーリンクにいる人々は、いつも作業で顔を
あわせる間柄だったから、相互の信頼関係もおのずと
醸成された。ヴィラ・ユーリングを取り巻く信頼関係は、
そのコミュニティ活動自体の中から生まれたのであっ
て、デーマック自体がこの信頼関係を作り出したわけ
ではない。
だが、デーマックの創始者であったヘルムート・
ベッカー氏は、デーマックをヴィラ・ユーリンクにと
どめることなく、街で使える取引手段に拡張しようと
した。ハレ市内にあるクナイペ(居酒屋)に、デーマ
ックにかかわりを持つ人々が毎週水曜日の夜に集まり、
デーマックを使う取引について話し合った。デーマッ
クの参加者は、ヴィラ・ユーリンクに関係ない一般市
民も含め、最盛期には220人になった。
<ヘンデルとルターの街、ハレ市中心部の広場>
だが、これだけの数になれば、もはや参加者が互い
にコンタクトをもつことは困難となる。デーマック
は、次第に衰退から崩壊への道を歩み始めた。
では、なぜこうしたデーマックが崩壊してしまった
のだろうか。
バーチさんは、次のような崩壊の理由を挙げた。
まず第1に、ヴィラ・ユーリングの改装プロジェクト
自体が終了してしまい、デーマック流通の物理的な中
心がなくなった。
第2に、デーマックを保持している人々のなかに、
ヴィラ・ユーリンクをコミュニティの中心施設という
場所としてではなく、単なる安アパートや一部会員だ
けの私的な会合場所のように使用し、本来の目的を忘
れた人たちが現れ始めた。例えば、ある人は、始めの
うちコミュニティに理解を示す素振りであったが、や
がて現金で高賃金が得られるスーパーマーケットなど
に転職し、ヴィラを単なる安アパートとして使うだけ
になって、やがてヴィラ・ユーリンク自体から去って
いった。また、ある人は、友達を沢山ヴィラ・ユーリ
ンクに連れ込み、周囲に迷惑が及ぶ事態になった。さ
らに、ラップトップパソコンなど備品の盗難も発生し
た。バーチさんも、被害に遭ったらしい。
第3に、デーマック単位は一種の通貨のように財の交
換を通じて流通するのであるから、デーマックを持っ
てヴィラに泊まりに来た人が、ヴィラの管理者側が見
ず知らずの者という事態も起こり、管理上の問題が発
生した。
第4に、デーマックがヴィラ・ユーリングから離れて流
通するようになったとき、人々は、もはやコミュニテ
ィの一員という自覚がなく、一般の法定通貨を使って
市場でサービスを受ける場合と同じような姿勢でデー
マックを使った。だが、サービスを供給する側は、依
然としてボランティア意識という一種の甘えがあって、
アポイントメントがルーズだったり供与するサービス
の品質が劣ったりしたから、サービスの受け手の側に
上満が高まった。市場経済の問題点を乗り越えるはず
だったデーマックは、貨幣を社会関係の媒介にしたと
たん、市場の非人格的な社会関係そのものにとらわれ
てしまったのである。
第5に、デーマックのプロジェクト全体に、公的なサ
ポートが得られなかった。まとめ役になったバーチさ
んは、連邦政府の一ヶ月に200ユーロという、旧東独
市民が西側の市場経済に適応するため連邦政府から支
給される給付金で生計を立てながら沢山のプロジェク
トを同時に抱えて駆け回っており、デーマックを隅々
まで見届けるには忙しすぎた。
バーチさんは、これだけ人々の競争が現実に存在する
ところで、理想の社会を構築することは難しいと嘆い
た。貨幣を媒介とする市場がもつ非人格性を活用して、
コミ
ュニティの人格性を高めようとする試み。「共同体
(地域)通貨《は、こうした試みそれ自体の中に矛盾
を内包している。「通貨《としてのデーマックが、ヴ
ィラ・ユーリンクというコミュニティを破って自立した
とき、それは非人格化し、コミュニティが本来持って
いるはずの相互信頼という人格性は、デーマック使用
者のあいだで維持できなくなった。「共同体(地域)
通貨《が流通の社会的・空間的範囲を広げ、通貨とし
ての性格を強めるほど、共同体(コミュニティ)に対
して否定的な要素が蓄積される。こうして、結局「共
同体(地域)《の通貨として自滅してしまうのである。
われわれは、この、「共同体(地域)通貨《が孕む本
質的な矛盾を、デーマックの生成と崩壊の過程のなか
に洞察することができた。
<デーマック第二ページへ続く>
(太田真美子)
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